函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

1925年2月、北サハリン亜港から脱出したペトロフスキー一家の足跡を追って

2017年3月16日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ 小山内道子構成・翻訳

 サハリン州アレクサンドロフスク・サハリンスキー市の郷土史家・グリゴーリィ・スメカーロフ氏は昨年初夏、2度目の函館訪問を果たし、函館日ロ交流史研究会の皆さまとの交流会を楽しみ、函館の名所・史跡を案内していただくなどたいへんお世話になったと感謝していた。
 また、倉田有佳氏からいただいた新聞記事を示して、私にロシア語への翻訳はお願いできないかとのことだったが、ちょうど忙しい時期だったのと、かなり大きな記事だったため、その時はお断りしてしまった。記事は『北海タイムス』、大正14(1925)年2月23日付の大きな写真入りの記事「悲話 トロイカも懐かし、安住の地を求めて漂白のたびに上ったペトロスキー(ママ)一家」の見出しで、当時の亜港(現アレクサンドロフスク・サハリンスキー)から小樽港に上陸したペトロフスキー一家の写真と亜港の様子を尋ねる家長コンスタンチンへのインタビューという内容になっている。スメカーロフ氏は北サハリン出身の亡命者で、その後も名を成した人たちの軌跡を探索し、記録する仕事を続けているが、これまでに日本との関わりでは函館にも大きな足跡を残したシュヴェツ家の足跡を調べ、既に当研究会の『会報』に寄稿しておられる1。また、柔道家であり、サンボ創始者そして諜報活動家でもあったオシェプコフ氏についても既にまとまった論文を発表している2。そして今スメカーロフ氏が最も情熱を傾けているのは、この新聞記事のペトロフスキー家の足跡をたどることである。昨年秋コンスタンチン・ペトロフスキーの長男ニック(ニコライ)が父祖の地・サハリンを訪れるというスメカーロフ氏からのニュースに接し、私もペトロフスキー家への関心を刺激され、北海道立文書館でこの新聞記事を入手したが、その他の関係資料検索には至らず仕舞いとなった。また、この時のニックのサハリン訪問も諸事情で実現しなかったのである。ところが今年3月、スメカーロフ氏からペトロフスキー家の皆さんが9月に来訪することになったと知らせてきた。今度はかなり確実な情報のようである。そこで、既に発表されていたスメカーロフ氏のペトロフスキー家の物語「母国ロシアへの郷愁」3を全文読ませていただきたいとお願いし、特別に送っていただいた。私は以前にもこの論考の断片を読んだことがあったが、今回はこの長い論考を全文を通して読むことになった。読み進むにつれ、心を打たれ、強く惹き込まれた。ペトロフスキー家が日本軍が5年間占領していた北サハリンの地でも麗しい「純ロシア」式の生活を営んでいたことにも感銘を受けたのである。ここでの詳述は省くが、この「母国ロシアへの郷愁」はニックの父親コンスタンチンが書いた「思い出の手記」であるが、全体としてたいへん資料的価値も高いという確信を深めた。北サハリンは日本軍による日露戦争時の占領とシベリア出兵時の尼港事件後5年に及ぶ「保障占領」など、日本との関わりが大きい。この書によってペトロフスキー家は「保障占領」期の日本軍と密接な利害関係があり、親交があったことも分かった。私はこの論考を翻訳・紹介する価値があると考えた。今回はスメカーロフ氏の諒解を得て「母国ロシアへの郷愁」を最初からページを追ってそのまま翻訳せず、まず新聞記事にある1925年前後を中心に訳出した。
 はじめに、新聞記事で「亜港屈指の資産家」と注目されている「ペトロフスキー家」とは?スメカーロフ氏は以下のように叙述している。
<過去において徒刑囚だったフィリップ・ペトロフスキーはこの町で石炭事業を興し、大規模なレンガ工場を建設した。その工場で生産されたレンガが今日残っているアレクサンドロフスクの一連の建造物や市の大通りにある数件の家々に組み込まれている...また、街にはこの家族を記念してペトロフスキー通りさえあるのだ...>

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小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)

 コンスタンチンの手記を紹介する前に新聞記事の写真説明を読んでみよう。 小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)
<亜港屈指の資産家として又亜港相談会役員の一人として近くは強盗事件*で亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られたコンスタンチン・ペトロスキー(ママ)の一家は我が軍撤兵と共に亜港を引き揚げなければならぬ運命となった。彼が北樺太に抱擁する幾多の富も今となっては全く何等の力を有していないのである。彼は悄然として妻エレナと共に長男コンスタンチン(九才**)長女アナスタシヤ(五才)次男アナトリー(七才)二女エレナ(四才)三女ナタリヤ(二才)等の手を取り新しき生活を営むために暖かい南国を指したのであった。一家が小樽経由長崎へ向かう途中ペトロスキー氏は北海屋ホテルの一室でしめやかな物語を聞かせて呉れたのであった。(m生)>(*強盗事件については後述。**「思い出の記」を書いた父親と同じ名の長男コンスタンチンは実際は1913年生まれの11歳である。)
 記事の本文:「北京交渉が愈々成立したと聞いて今更のように驚いたのは有産階級と日本軍に好意を持っている人達であった。どうしても引揚げなければならぬと覚悟はしているものの資力が充分でない為引き揚げてから何處に居を求めようかという不安を誰しも持っている。何れ五月撤兵の際軍の援助を仰ぎ方針を定める他はあるまいと協議中である。...中略(身の処し方に悩んでいる友人、知人の具体例等実名を挙げて亜港の状況を語っている)...自分等の家屋、土地、牛馬などは殆ど捨値同様の十分の一の価格で売らなければならなかった。吾々の汗と脂も空しく煙となったのである。実に悲惨な話だ。......吾々は委員を組織し南樺太行を懇請したが吾々が南樺太へ行っても農業は出来ず不適当である。日本の地を求めるに就いても北海道は家屋が不完全の為到底冬の寒さに耐えられない。吾々の求める處は南である。長崎辺りは暑さに慣れない我々が果たして耐えられるかどうか判らぬが、先ず落ちついておもむろに将来も考える積りだ」と語った。妻のエレナは「ほんとうに、吾々はロシアの冬を見捨てる事は此上もない惜しいことだ。ロシアのトロイカ(三頭馬車)に乗って走回る事も出来ない。然し安住の地を求める喜びの為には......これも止むを得ない事でしょう」と人形のように美しいナタリアのふさふさした金髪を撫で乍ら涙ぐんでいた。」

 ペトロフスキー一家の今後の課題この小樽以後の日本における消息についてスメカーロフ氏の論考は全く触れていない。また、後述のコンスタンチンの手記にも時系列的な記述はない。しかし、一家はどうやら日本に長く留まらずにその後の情勢によってハルビン、上海、香港へと安住の地を求めて移住したようだ。第2次大戦後はいったんドイツへも渡ったようである。そして一家が最終的に永住の地として落ち着いたのは、故郷サハリンのアレクサンドロフスクに自然も気候も土地の歴史さえ似ているオーストラリア・タスマニア島のロンセストン市だった。それは亜港脱出時11歳だったコンスタンチンが優秀な外科医となっていて、1951年市の病院長となって赴任したからである。
 スメカーロフ氏はペトロフスキー通りと言う名を残しているこの一家のことを州や市の文書館の資料、教会のメトリカ(洗礼簿)等で調べ、前述の資産状況、家族構成と出生記録等などを収集した。また、ペトロフスキーの刻印のあるレンガまで見つけたのである。そこで、今度は1925年以降この一家がどうなったのか、その子孫は現在どこかで健在なのかを調べることになった。2004年、スメカーロフ氏は国立サハリン州歴史文書館で資料検索をしていたとき、返信宛名のあるサハリン州政府宛のコンスタンチン・コンスタノヴィチ・ペトロフスキー氏の手紙とそれに対するサハリン州知事が出した以下のような「招待状」ともいうべき返信を発見したのである。
<親愛なるペトロフスキー様、知事として私は貴方をサハリンへ招待いたします。貴方のご都合の良い時にいつでもサハリンを訪問され、貴方のご家族の歴史と深く結び付いている場所をご覧になるため貴方の故郷、アレクサンドロフスク・サハリンスキー市を訪問されることを提案いたします。貴方と貴方のご親族の方々のご多幸を心から祈念いたします。 1992年9月2日 サハリン州知事 V・P・フョードロフ>
 スメカーロフ氏にとってこれは最も望んでいた大発見だった。早速、コンスタンチンの返信用宛名に手紙を出して、ペトロフスキー家との文通が始まった。後に分かったことだが、サハリン州知事からの招待状を同じ1992年9月中には受け取っていたコンスタンチンは、ひどく喜んで、故郷訪問の準備を始めていたが、高齢になっての71年ぶりの故郷訪問への期待は興奮と不安をももたらしたのだろうか、出発を控えた1995年4月、82歳の誕生日のお祝いを前に脳出血により急逝したのだった。
 現在スメカーロフ氏の文通の相手はコンスタンチンの長男、医者で世界的に有名な内分泌学者として活躍するニコライ(ニック)・コンスタチノヴィチ(1959年生)である。ニックは仕事が超多忙にもかかわらず、依然として母国ロシアへの関心を失わず、資料集めを続け、父の残した手記に手を入れ、ペトロフスキー家の歴史を書いていたのだ。そこで二人はお互いに資料を交換し、情報を伝え合った。やがてスメカーロフはぜひニックに会いたいと思い、オーストラリア行きを模索するようになった。しかし、それは簡単にはいかず、延び延びになっていた。ロシア人がオーストラリアを個人的に旅行しようとすると様々な障害があったのである。
 ペトロフスキーに会いたいという彼の願い、それが急転直下実現したのは、思いがけず援助の手を差し伸べてくれた同郷人のおかげだった。すなわち、サハリン州ムガチ村出身者でシドニー在住のエレーナ・ポターシニコヴァ(フェドレンコ)がその人である。そして2013年10月、スメカーロフとニックの素晴らしい邂逅の場所となったのはエレーナの家だった。シドニーにはニックと妻のシャーレン、ニックの妹のリーザが来てくれた。言葉の問題は全くなかった。ただ、話の中で微妙なニュアンスを伝えるときにムガチ出身のエレーナが通訳してくれた。
 そして、この時の対談とニックの父コンスタンチンが残してくれた英語で書かれた「思い出の記」が一家の物語の中心的な資料となった。スメカーロフ氏はこの英語版の手記をロシア語へ翻訳したが、それにはかなりの時間を費やしたという。手記を読了したスメカーロフ氏の感想は、「思い出の記」の著者の見解は相当に主観的なものに思えたという。しかし、サハリンの歴史をこのように主観的に述べた見解は長い間わが国、すなわちソ連時代にもロシア時代になってもなかったのではないかという新鮮さだった。そこでスメカーロフ氏はコンスタンチンの「思い出の記」を土台にして書いた論考に「母国ロシアへの郷愁」というタイトルをつけ、合間にG.S.の表記で注釈とコメントを書き込んだ。その論考から今回は「北海タイムス」の記事との関連で、ペトロフスキー一家が亜港を脱出するまでの2年ほど前から日本軍の砕氷艦で小樽港到着までをコンスタンチンの筆による「思い出の記」から紹介したい。それ以前の一家の歴史等は改めて次号以下に回すことにした。

 1923年、サハリン島は実際のところ大変平穏無事と言える状態だった。住民は豊かな暮らしを営んでいた。誰も政治について話すものは居なかった。島に駐屯している日本軍は住民に対して友好的だった。日本軍は地元の行政府に干渉することもなかった。住民の多くがこの状態はしばらく続くものと思っていた。しかし、実際はそうではなかったのだ。運命はサハリンの住民にいつものように生活の転換点となる大きな事件を準備していたのであった。
 1924年になると、町では日本はソ連邦へのサハリン北部の返還についてソビエト政府と交渉しているという噂が広がった。もちろん我々には交渉の詳細は分からなかったが、交渉が行われていること自体を島の住民は信じていたのである。9月になって日本駐屯軍最高司令官の高須将軍がわが家を訪れた。秘密の話し合いの中で高須将軍は北サハリンは間もなくロシアに返還されることになっていると父に断言したのである。このような大転換の知らせは僕の両親を当惑させた。僕たちはボリシェヴィキに我々が捕まった場合どうなるかということを既に予測できたからだ。僕たちの家族はもう何年にもわたって新政権のブラックリストに載っていたからである。
 故郷アレクサンドロフスクを引き払うことを決めることは大変困難だった。特に祖父のフィリップには辛い試練だった。祖父はここサハリンの地で家族の安寧のために忍耐強く、過酷な労働をあれだけ長い年月続けなければならなかったのだ。彼がもし「徒刑囚」のように労働しなかったならば、決してこの類まれな財産を築くことはできなかっただろう。一家の事業を築き、安定させて、運命のいたずらを逃れることが出来たのだが、そのことに何か悪いことがあったのだろうか?そうだ、祖父は帝政が崩壊した後、かなりの資金を白衛軍の運動に送っていたのは確かである。なぜなら、祖父は現在の体制はロシアにとって敵であると確信していたからだ。僕たちの家は依然として黒い宝石と言われる石炭を所有していた。僕は祖父がボリシェヴィキと戦っているシベリア政権に約50万ルーブルを金貨で送ったと聞いたことがある。紙幣はロシア領内では流通しなくなっているとのことで、ペトロフスキー家はツァーリの肖像入りの金貨で全額を集めたのだという。
 日本軍がアレクサンドロフスクに上陸したとき、祖父はまだ石炭の採掘事業を続けていた。1924年にペトロフスキー家は高品質のサハリン炭を日本に売るようになったが、この取引は好成績を上げていた。この炭鉱を持ち出すことはもちろんできないが、この島に留まることも危険だ。この問題について父と高須将軍の間で話し合いが行われていた。二人はペトロフスキー家の将来についてどうすべきかを決めていたのである。大いに尊敬されている日本人が父に助言したのはこうであった。日本における最大財閥の一つ・合資会社<ミツビシ>がペトロフスキー炭鉱の獲得に関心をもっている。この炭鉱の高品質の石炭(無煙炭)は日本では大変大きな需要があるので、この会社がこの石炭の採掘を引き受けたいという。「ミツビシ・コーポレーション」は現在炭鉱で働いている人達を雇用する用意がある。そして、この炭鉱で1924年末から1925年年初にかけての石炭採掘をする代償として会社はペトロフスキー一家を必要になったら直ちにサハリンから脱出する機会を提供するというのであった。この提案は、祖父フィリップが新体制の犠牲にならないためにできるだけ早く島を出るという考えと合致した。そこで、祖父はこの協定に同意し、サインしたのだった。

 スメカーロフ氏はサハリン州国家歴史文書館で全露中央執行委員会全権委員会の文書にペトロフスキー一家の財産が以下のように記載されているのを見つけ出した:
 亜港市中心街大通りに8戸の家屋、2万個製造能力の煉瓦工場、アレクサンドロフスカヤ通りの広大な宅地、残高9195ルーブル6,50カペイカのペトロフスキー炭鉱4
 スメカーロフ氏は「思い出の記」を残したコンスタンチンの長男ニコライとの談話から分かったこととして、ペトロフスキー家が一番望んでいたのは、彼らの資産に対してボリシェヴィキ側に補償してもらうことだったという。協定書によると、ソ連邦が日本から炭鉱を引き継ぐとき「ミツビシ」に対し炭鉱の額面価格を支払うなら、日本の会社「ミツビシ」はそのお金をペトロフスキーに支払うことになっていた。しかし、知られているように、全露中央執行委員会全権委員会は北サハリン受領の際、炭鉱に対しては1カペイカも支払わずに国家の必要のために国有化してしまったのだ。ペトロフスキー家は自分たちの期待を裏切られてしまったということになる。日本にいる間にも一家は何らの補償金も受け取っていない。そこで、日本側とペトロフスキー家の間にはその関係に初めての亀裂が生じたのであった。(この部分はスメカーロフ氏のコメントである。)
 今や日本側は様々な口実の下にペトロフスキー家と合意調印した取引協定の遂行を引き延ばしていた。そして、この協定問題で交渉が続いているとき、更に一つ実に驚くべき事件が起こったのである。(これは前述の新聞記事の写真説明の枕詞にあった「強盗事件」のことで、「亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られた」という事件で、コンスタンチンの「思い出の記」では非常に詳細に事件の顛末が述べられている。しかし、ここではコンスタンチンの記述を使い、そのダイジェストによって事件の概要だけを紹介したい。)
 
 1924年12月1日、その日は僕の祖父フィリップの「名の日のお祝い」(自分の洗礼名があやかった聖人の祭日に当たる日)で、従来は大勢の親戚知人を招いて盛大に行っていたが、その年は時節柄簡素に祝うことになった。そのうえ大変な雪嵐で遠くの親戚は出席不可となっていたが、早めに到着した近い親戚や隣人何人かが集まっていて、その中には我が家と親しい日本駐屯軍副指令官高須将軍も来ていた。祖父と高須将軍は向かい合って座り、長男の僕も加わることが許されて、テーブルを囲んでいた。やがて宴会が始まって料理とお酒で賑やかな談笑となったが、それもさらに強まった風雪が窓をたたく音で時々かき消された。その時、突然台所へのドアがばたんと開き、拳銃を手にマスクをした男が二人入って来て、テーブルについている人達に無言で乱射し始めたのである。僕はテーブルの下に伏せて弾を受けなかったが、高須将軍は胸と顔に弾を受け血だらけになって床に倒れていた。男はさらに将軍の頭を撃って、出口へ飛び出して行った。その前に僕も頭を拳銃で殴られ、額に弾を受けて倒れたが、さらに僕を狙った拳銃を妹が男にしがみついて撃たせまいとしていた。その後祖父が別の男と絡み合いながら奥の部屋から出てきて格闘していたので、僕も男に飛びかかり、男のマスクをはぎ取って顔を爪で引っかきまくった。男は僕を引き離し、祖父から逃れて出口へと逃げ去った。そこへ父が日本軍の兵士を伴って到着し、一件落着した。表に逃れていた母も額に傷を受けていた。
 その後警察の捜索により、犯人たち5人が捕まり、尋問によって真相が明らかになったが、彼らはつい最近ペトロフスキー一家を無き者にする目的で大陸から渡って来ていたのだ。この計画が成功した場合、彼等への報酬は我が家から略奪した宝石類などすべてを与えるというものだった。この極悪人たちを日本側は処刑せず、ボリシェヴィキ到来時の報復を恐れて、刑務所で監禁を続けたのである。
 高須将軍は半死の状態で血の海の中に横たわっていたが、日露の医師が駆けつけ、何とか生命はとりとめることが分かった。然し、将軍を動かすことは出来ないので、将軍はその後ずっとわが家の一室で数週間も治療を続け、武器を持ったパトロール兵がわが家と表通りに常駐していた。わが家では僕を含めて全員が連発拳銃を携帯するようになった。結局、高須将軍が全治するまでにその後6か月もかかったのである。
 僕は頭を犯人の拳銃で殴打されたため、算数が出来なくなり、他の科目でも以前は覚えていたことが分からなくなった。両親は心配してサハリンを去るまで全教科の家庭教師をつけたが、はかばかしい成果は上がらなかった。
 われわれペトロフスキー家は全速力でサハリン脱出の準備を始めていた。それは1925年の冬だった。タタール海峡は氷に閉ざされていた。日本の島・北海道(そこが僕たちの目的地だった)へ到達するには二つの道があった。島の南部へそり道を荷馬車で行くか、砕氷船で氷を割りながら海峡を通って行くかである。アレクサンドロフスクへ接岸する砕氷船は日本の軍艦の構成艦とされていた。また、日本帝国軍艦の伝統として艦上に女、子供を乗せて航行できないという規則があった。驚いたことに、日本側は僕たち一家を輸送するために一時的に軍艦というステータスを変更したのである。それはペトロフスキー一家を最も安全な方法で日本へ送り届けるためであった。
 祖父のフィリップは不動産の始末をしたり、友人たちに家財や家畜類等を分与するためにアレクサンドロフスクになおしばらく残っていた。祖父はその次の便で到着して、日本で僕たちと合流した。先に書いたように祖父は「ミツビシ・コーポレーション」と炭鉱に関する協定書に調印してきたのである。もちろん、取引の総額は僕には分からなかった。契約書は調印されたが、会社の役員たちはお金を払うことを引き延ばしていた。僕たちが日本に到着したら全額を受け取ると定められていたのである。コーポレーションは同様の条件で僕たちの馬全頭と厩も買い取っていた。僕たちの純血種の競走馬と美しいその母馬も日本人の手に渡ったのである。こうしてある冬の日に僕たち一家は日本へと出航する砕氷艦に乗り込んだのであった。

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亜港投錨地の日本の砕氷艦、このタイプの砕氷船で一家は亜港を離れた。

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一家が後にした1925年冬の亜港の街並み

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1920年代の亜港の市街(日本の絵葉書より)、この通りにペトロフスキーの屋敷があった。

外国船舶の船上生活は大変快適なものだった。乗組員はそれぞれ自分の任務を遂行し、僕たちには西洋料理の食事を提供してくれた。水夫たちは僕たち子供に対してとても親切だった。僕たちと遊んでくれて、悲しい考えから気をそらせてくれた。1日目の航行では砕氷艦は海峡の氷を砕いて進んだ。僕たち家族は船酔いしてしまったママ以外は誰も不快な気分にならなかった。2日目になって砕氷艦が氷の傍をかすめて荒々しい外洋へ出ると、船酔いは父を含めて全員に広がった。僕はポートワインを飲んで大々的に吐いた時のような気分だった。わが家の人間は誰一人食べ物を見向きもしなくなった。砕氷艦の乗組員は僕たちのことを心配してどうしたら船酔いに打ち勝てるか助言してくれた。この間砕氷艦は安定性を欠き、それに加えて嵐のために全くガタガタになっていた。船は波を受けて右へ傾き、次の波で左へ傾くという風に何度も8の字にのたうった。しかし、砕氷艦は何とか北海道の小樽港にたどり着いた。船が港の水域に入ると、海は穏やかになった。その時僕は不意に僕がまだ火器・連発拳銃を胸ポケットに入れていることを思い出した。サハリンを出る時、父から日本に持ち込み禁止になっているものを持って船に乗るのは危険だと注意されたことも思い出した。どうしたら良いのだろう?そのまま置いて行くか、甲板から投げ捨てるべきか?長いこと考えあぐねた後、僕は苦渋の決断をして「わが友」と別れることにした。僕はそっと甲板に行き、誰も見ていないことを確かめて連発拳銃を水の中に投げ捨てた。
 僕たちは助かったのだ、僕たちはみな一緒にいる、一家の問題はみな後ろに捨て去ってきたのだという漠然とした安心感が、故郷に別れを告げたという悲しみをしばらくのあいだ忘れさせてくれた...


1 「シュヴェツ家との出会い」、『会報』第35号(2015年2月16日)
2 *Без Грифа ≪СЕКРЕТНО≫ Страницы истории органов безопасности на Сахалине Курильских островах // Н.В.Вишневский,Г.Н.Смекалов, "Секретные миссии в Ако", стр.17 -38, Южно-Сахалинск, 2012
 *Г. Смекалов. Основатель самбо, выпускник Токийской духовной семинарии, спортсмен и разветчик Василий Ощепков в журнале ≪Духовно-нравственное ВОСПИТАНИЕ ≫, 1-2015 
3  Блог Григория Смекалова. Сны о России ( из жизни сахалинского эмигранта), 著者の解説を得て ≪Сны о России≫ を「母国ロシアへの郷愁」と意訳した。(サハリン・エミグラントの人生から) АСТВ.РУ БЛОГИ вход регистрация
4  ГИАСО, (国立サハリン州歴史文書館) ф.23

「会報」No.37 2016.7.31  特別寄稿

「樺太の旅」記録フィルム紹介

2017年3月16日 Posted in 会報

 奥野進

 市立函館博物館が所蔵する16ミリフィルムのなかに「樺太の旅」記録フィルム(500815)という資料があります。このたび記録映画保存センターの協力によりDVD化することができました。
 「市立函館博物館蔵品目録3 歴史・民俗資料編」の説明書きには、小島清吉、昭和9年7月26日~8月1日の記載があります。
 小島清吉は、1928年(昭和3)の時点で函館商工会議所議員であり(「函館市史」通説編第3巻)、1939年(昭和14)には帝国製菓株式会社取締役を務めていました(「昭和14年版 函館要人録」函館日日新聞社)。1934年(昭和9)の函館といえば、3月21日に「函館大火」に見舞われたばかりであり、大火からわずか4か月しか経っていない中での、樺太訪問の目的も気になるところです。
 5分40秒ほど映像ですが、小樽?-稚内-大泊に至る船旅や市街地の様子、オタスの風景、列車での移動の様子等が映っていました。

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大泊港駅への到着

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オタスでの先住民の生活

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鉄道駅の物売り

 博物館所定の資料利用手続きで、閲覧等の利用が可能ですので、興味のある方は市立函館博物館までご相談ください。

(市立函館博物館勤務)

「会報」No.37 2016.7.31  史料紹介

札幌総領事から寄贈された二葉の写真

2017年3月16日 Posted in 会報

倉田有佳

 二カ月ほど前、ファブリーチニコフ在札幌ロシア連邦総領事から本研究会に対して、ロシアのアルヒーフ(文書館)に所蔵されている函館関連の写真4枚が提供されました。このうち、旧ロシア領事館に関連する写真2枚を以下ご紹介します。

【写真1】写真右下のキャプション:函館の副領事館建物 190■年(最後の数字は不鮮明だが、「3」か?)。37-3-1.jpg

 この写真は、清水恵、A.トリョフスビャツキ論文で紹介されている写真「明治40年焼失前の東側概観」と同じと思われる。同論文によると、ロシア領事館の建設工事が着工されたのは1903年6月のことで、同年12月初頭には屋根までの工事が行われた。すべての工事は、1904年5月に完了する予定の中、ゲデンシュトロム副領事は、1903年12月21日、短期休暇のため函館を発った。翌年3月には函館に戻る予定だったが、1904年2月に日露戦争が勃発したため、函館に戻れなくなった(清水恵 A.トリョフスビャツキ「<史料紹介>日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館 -在ロシア史料より-」『地域史研究はこだて』第25号、68(20)、83(5)頁)。
 これらのことから、【写真1】は、本国へ一時帰国する直前(1903年12月)に撮影されたものではないかと筆者は推測する。
 戦後(1906年5月14日)函館に戻って来たのは、トラウトショールド(ウィルヘルム・ウィルヘリモヴィチ)副領事で、6月から工事は再開され、12月末に竣工した。ところが、完成から1年も経たないうちに明治40年の函館大火で領事館は焼失した。
 現存する「旧ロシア領事館」は、同じ場所(現船見町17-3)に再建された(1908年12月完成)。

【写真2】
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領事館内部(本館食堂)の写真。
【写真2】の椅子と下記写真の椅子は同形のものと思われる。そのため、ソ連領事館時代(1925年10月~1944年9月30日閉鎖)に撮影された写真の可能性が高い。

【参考】

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チホノフ領事離任とスタート新領事の着任披露宴(『函館日日新聞』1932年11月26日。函館市中央図書館所蔵)

 このたび、キャプション付きの写真をご提供いただいたことで、写真1の撮影年代を特定することができました。また、写真2は、領事の日常生活の中での食堂の様子を知る貴重な資料です。紙へのコピーではなく、写真(画像)でいただけたことに改めて感謝申し上げます。

※参考写真は、本研究会ホームページ
http://hakodate-russia.com/main/letter/33-03.html(倉田有佳「函館の「旧ロシア領事館」案内」『会報』No33)からご覧いただくことができます。
 また、函館のロシア(ソ連)領事および領事館の歴史的変遷については、以下で触れています(倉田有佳「20世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」長塚英雄責任編集『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁)。

「会報」No.37 2016.7.31  史料紹介

日本軍の北樺太占領末期に函館に避難してきたロシア人(1925年4月~5月)*1

2017年3月16日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 1920年から25年までのおよそ5年間、日本軍は、1920年にアムール川下流域のニコラエフスクで700名もの日本人の軍人や民間人が虐殺された「尼港事件」の報復措置として、北緯50度以北のサハリン島(「北樺太」)を保障占領(実効支配)していた。
 1917年のロシア革命、続く国内戦争(革命軍と反革命軍との闘い)を経て、1922年末にソ連邦は樹立されるが、日本政府はこれをすぐには承認せず、北樺太の保障占領は続いた。しかし、1925年1月20日に北京で「日ソ基本条約」が調印され、日本政府はソヴィエト政権を正式に承認したことで、日本軍は北樺太から撤兵することになった。
 この時、日本人および朝鮮人、そして中国人の間に混じり、「親日派」、「資産家」、そして革命軍に敗れた「元白軍の軍人」などの反ソヴィエト派ロシア人が、身の安全を確保するために北樺太を去った。日本軍撤兵のうわさが流れた1924年9月半ばから避難は始まり、撤兵完了期限である1925年5月15日の直前まで続いた。海路で日本へ避難・亡命したロシア人は、300から400名だったと筆者は推測する。
 本稿では、このうち函館に上陸した53名の避難・亡命者に焦点を当てる。

1 北樺太から日本への避難

 北樺太から日本への避難は、亜港(アレクサンドロフスク)から海路で小樽港に向かうというルートが最も一般的だった。移動には、逓信省の命令航路*2「宗像丸」や民間の定期便(運航は4月から10月までの7カ月間)のほかに、日本軍の御用船(砕氷船)で、真冬の2月、流氷を避けながら避難してきた人たちもいた(亜港有数の資産家ペトロフスキー一家など。一家については、本号グリゴーリィ・スメカーロフ論文を参照)。
 小樽に到着すると、税関で旅券もしくは渡航証明書と入国提示金のチェックを受けた。保障占領下の北樺太では、軍司令部が渡航証明書を交付する規則となっていたため、日本への入国の際に大きな障壁となったのは、「入国提示金」*3だった。
 上陸が許可された人たちは、列車で函館へ移動し、連絡船で本州へ向かい、「ナンセンパスポート」*4を所在地の地方長官(現住所の知事。東京府下では警視総監)から発給してもらった。日本に留まる人もいたが(後述のロマーエフ一家)、多くは、南米ブラジル、メキシコ、上海、ハルビンなど第三国へ避難・亡命した。

2 函館で下船した避難民・亡命者

 こうした中には、函館で下船し、しばらく函館に滞在した一団があった。これは、その年の初便となる逓信省命令航路の「宗像丸」に乗って4月12日に亜港を出発し、4月17日に小樽港に到着した56名のうちの53名である。
 「宗像丸」は、1921年の運行表によると、函館-亜港間を4月から10月までに計10便を運行しており、所要時間は、一日目の午後4時に亜港を出発すると、二日目午後6時に真岡に着き、三日目午後2時小樽到着、四日目午後9時終点の函館着となっている。ただし、天候その他の都合で36時間以内の伸縮は、想定範囲内だった(外務省記録『薩哈連占領地施政一件』5.2.6.33)。
 4月12日亜港発「宗像丸」で避難してきた人で、新聞報道*5から名前が確認できるのは表のとおりである。軍政部に雇用されていた人が多かったことがわかる。

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1925年4月29日に警視総監(東京)から発給されたアンドレイ・ロマーエフの「ナンセンパスポート」(写し)(外務省記録3.9.5.25)

 彼らが北樺太を離れる直前の亜港が、非常に緊迫した状況にあったことを示す避難者の次のような談話がある。ハルビンへの避難・亡命を考えていた医師が、ソヴィエト政権側の人間によって留まるように命ぜられたことを悲観し、ヘロインを多量に飲んで自殺するという事件が起こっており、自分たちも、ウラジオストクに向かうと嘘をつき、ソヴィエト側の目を盗み、何とか亜港を離れることができた(『北海タイムス』1925.4/16)。
 そもそも、4月12日というのは、亜港の港にソ連政府が派遣した行政官や、軍隊とその家族を乗せた「エリワン号」が到着し、日本軍からの上陸許可を待つばかりとなっていた。ソヴィエト政府からの報復(身の危険)を非常に恐れていた「親日派」、中でも軍政部に雇用されていた官吏にとっては、これがぎりぎりのタイミングでの脱出行だったことがわかる。
 こうした状況の中で、日本軍はこれまで軍に協力的に働いてきた「親日派」の一団が安全に避難できるよう支援した。避難者のマケーエフは、「私共数十名が亡命するに先立ち井上、高須両閣下が何に呉れとなく援助して下され、剰(あまつさ)へ多分の御金を恵まれ船賃まで自分の懐中より御払ひ下さつた」ため、涙を流して感謝した(『北海タイムス』1925.4/22)、と語っている。

3 函館での一行

 函館に到着した一行の函館上陸後について、一団のまとめ役となったグーセフ元陸軍中将は、自分たちは「万世ホテル」に滞在し、自分は函館に留まり、亜港からの荷物の取りまとめなどを行うつもりだが、他は一先ず神戸に向かうだろう(『函館毎日新聞』1925.4/21)、と語っている。
 だが、上陸直後の4月18日(土)夜から19日(日)午前3時まで続けられたハリストス正教会での復活祭には、「会堂に集まった露人は例年に比べて今年は北サガレン方面より来函中の露人が加はりなかなかなかの盛儀であった」(『函館新聞』1925.4/23)、とあるように、避難民の多くが参加したようである。
 5月7日には、「朝日丸」が函館に到着した(『函館新聞』1925.5/7、『函館毎日新聞』5/9(8日夕刊))。同船は、5月4日に小樽に到着し、一部は小樽で下船するが、函館には17名が到着した(『函館毎日新聞』1925.5/9(8日夕刊))。函館税関によると、1,200‐1,300ルーブル相当の銀貨を携帯している「ブルジョア級」の人たちで、「幾名かは当地経由上海辺に向かふが露人の大部分は函館を永住の地と定めるらしい模様」(『函館新聞』1925.5/7)だった。
 そして5月19日、亜港からの撤兵を完了させた井上司令官一行が、函館で予定されている祝賀歓迎会に出席するため函館駅に到着した。この時、約50名のロシア人避難民が、駅のホームで司令官を出迎え、花輪を捧げた。司令官は、感無量の態で「函館露国避難民団」グーセフ団長と固い握手を交わした。グーセフは謝辞を読み上げ、司令官は英語でこれに答えた(『函館新聞』1925.5/20、『函館毎日新聞』5/20、『函館毎日新聞』5/21(20日夕刊))。亜港では農具の販売などを行っていたグーセフだが、元は白軍将校である。日本軍の幹部クラスと親しい関係にあったのであろう。ただし、ロマーエフ、バベンコ、バラネツの3家族計15名は、4月29日に東京で避難民証明書の発給を受けているため(外務省記録3.9.5.25)、既に函館を去っていた可能性が高い。
 ところで、統計上、函館に暮らす露国籍者(白系ロシア人)が最も多かったのは1925年の157名だった(『函館市史 統計資料編』1987 年)。同年の日本(内地)の露国籍者数は1,176人で、東京の329人(『内務省統計報告』)、神戸の346人(『神戸市史』)に次ぎ、函館は3番目に多かった。
 当時の新聞も、市内の外国人の中でロシア人が近年増えていることを伝え、交番の調べとして、ロシア人が集中している場所は、元町の旧函館商業学校の寄宿舎跡に建つ二階建ての長屋に三軒、元町別院(東本願寺函館別院)前に一軒で、その数はざっと13-14人を数えたこと、そして「亜港から引揚げてきた者で会所町辺にも居るが長屋住ひの外は異動が多い」(『函館新聞』1925.5/19)、と報じている。函館での定住を考える人たちは、この頃までにハリストス正教会からほど近い元町界隈の長屋で暮らし始め、それ以外の人たちは、他都市(関東大震災以降、横浜に代わって亡命ロシア人の集住地域となっていた神戸など)へ移住したということだろう。
 当時は市外(現在の「湯の川」や「銭亀沢」)にもロシア人集落があった。ここには、20世紀初頭、沿海州から移住してきた「旧教徒」と呼ばれる人たちが自己の信仰を厳格に守り、自給自足的生活を営んでいた(中村喜和「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」『地域史研究はこだて』17号)。ただし、ロシア革命後、サファイロフのような白系ロシア人の中にもこの近辺で暮らす人が現れていた(清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』)。1925年4月10日付『函館日日新聞』によると、渡島支庁管内に暮らすロシア人は25名、ポーランド人は1名おり、ロシア人の職業は、荷馬車業(男1・女2)、パン業(男3・女3)、農業(男7・女8)、無職(女1)、となっている。
 北樺太から避難してきた一連のロシア人の中で、函館に定住した人がどのくらいいたのか、正確なことはわかっていない。唯一、シュウエツ家が、神戸、ハルビンを経た後、1929年から36年頃まで函館で暮らしたことがわかっている。毛皮商などで成功を収め、1930年に5,000円で建てた邸宅は、現在「カールレイモンの旧居宅」の名で知られている。また、函館のロシア人墓地には、1934年に列車事故で亡くなった(他殺説あり)ドミートリの墓がある。

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元シュウエツ邸(現カールレイモンの旧居宅)

むすびにかえて

 ロシア人避難民の最初の上陸地小樽では、避難者の上陸日時・船名・人数を即時に『小樽新聞』が報じ、『北海タイムス』は避難民の宿泊先の北海ホテルに訪れ、亜港の様子や、「革命後から現在の亜港へ イワン・ペトロフスキー氏談(一)~(六)」や「避難民ローマンス(一)~(三)」などのシリーズで、亜港で名の知られた人物から避難までの様子を聞き出し、詳しく伝えている。 
 これに対して、函館の三紙(『函館新聞』、『函館毎日新聞』、『函館日日新聞』)は、管見の限り、函館で下船した「宗像丸」と「朝日丸」の避難者情報以外は紙面でほとんど触れられていない。本州への連絡船に乗る避難民が函館には続々と到着していたはずにも関わらず、である。
 当時の函館は、日ソ基本条約締結に沸き、全市を挙げて祝い、2月11日の紀元節には大々的な祝賀会が開かれた。祝賀会場となった公会堂には約600人の来会者があり、市中在住の7名の「露国人」(実際は主に漁業関係者の「ソ連人」だった)が来賓として出席した(1925年2月15日「函館市公報」)。市中では商工連合会主催の提灯行列が練り歩き、約5,000人がこれに参加した(『函館市史』)。
 ソヴィエト政府から査証委員長の名目で来函したロギーノフ(東京に大使館が開設された5月半ば以降は、函館の初代ソ連領事となった)を市、商業界、露領水産組合がそれぞれに歓迎会を開くなど、熱烈に歓迎し、その様子を地元三紙はこぞって伝えた。
 ロギーノフが来函したのは、「宗像丸」の一行が函館に上陸したのと同時期で、4月23日に市主催歓迎会が行われた場所は、一行が泊まっていた「万世ホテル」だった。24日からは、査証(ビザ)発給事務を船見町の堤倶楽部(元キング邸)で開始した(『函館新聞』1925.4/24)。露領漁業の出漁基地・函館にとっては、新生ソヴィエトと良好な関係を構築していくことが大事で、漁期の前にロギーノフが着任したことで市民は大いに安堵した。
 それ以外にも、この時期の函館では、サハリン北部の漁区の入札問題(軍政下で契約された邦人漁業者の漁区に対するソヴィエト新政府の承認や借区料の問題等)の行方に大きな注目が集まっていた。そうした状況を考えると、ソヴィエト政権に反対の立場をとる避難民の事件に対して一定の距離を保とうとしたのも頷けよう。それどころか、函館人のしたたかさが見え隠れするようで、筆者には、非常に興味深い。
 1917年のロシア革命、続く国内戦争によって引き起こされた社会的、政治的混乱から生じたロシアから日本避難・亡命の大きな波は、1920年をピークとし、この北樺太からの避難・亡命を以て終りとなった。


*1 保障占領末期の北樺太からの避難・亡命者全般については、倉田有佳「日本軍の保障占領末期に北樺太から日本へ避難・亡命したロシア人(1924-1925年)」(10月発行予定『異郷に生きるⅥ』成文社所収)を参照されたい。
*2  「逓信省命令航路」は、北日本汽船が逓信省に提案し実現した航路で、樺太庁から航海補助金を交付され、北日本汽船が航海を命ぜられた。函館を基点に、小樽、真岡(現ホルムスク)、アレクサンドロフスク経由ニコラエフスクに至る「函館尼港線」は、1921年4月に創設された(『北日本汽船株式会社二十五年史』北日本汽船株式会社、1939年、61-63頁)。
*3 日本への在留を希望する者は1,500円以上、他国へ移住するための一時滞在を目的に入国する場合は250円以上が必要とされた(1920年2月17日警保局通牒『外事警察関係例規集』内務省警保局。1931年、172-173 頁)。
*4  「ナンセンパスポート」は、難民が海外に移動する際に身分を証明する書類のことで、北極探検家として有名なナンセン博士の提唱により、1922年7月20日の第19回国連理事会で可決された。日本では、「露国避難民身元証明書」と呼ばれ、1923年2月1日から発給を開始した。渡航先が未定の場合も発給した。
*5 『小樽新聞』1925.4/16、『函館毎日新聞』4/19、『北海タイムス』4/19、4/22、『樺太日日新聞』4/20。
*6  シュウエツ家については、清水恵「サハリンから日本への亡命者 -シュウエツ家を中心に-」『異郷に生きる -来日ロシア人の足跡』2001年、成文社、77-87頁。小山内道子「大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァそして函館ゆかりのシュヴェツ家について」『函館日ロ交流史研究会会報』No.34。グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子訳「シュヴェツ家との出会い」『函館日ロ交流史研究会会報』No.35、を参照。

「会報」No.37 2016.7.31  研究会報告

平成26年度函館日ロ交流史研究会の活動について ――ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業、函館開催をふりかえる――

2016年3月 7日 Posted in 会報

長谷部一弘

 平成26年度の函館日ロ交流史研究会の活動において、「ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業」への参加が主たる事業となった。ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業は、周知のとおり、函館で初代駐日ロシア領事となったヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケヴィッチが1814年3月にロシア帝国ミンスク県レチツァ郡(現ベラルーシ共和国)で誕生してからちょうど200年にあたることからゴシケヴィッチゆかりのベラルーシ・ミンスクをはじめとしてロシア・サンクトペテルブルグ、フランス・パリ、日本・函館が連携して実施された記念事業である。
 記念事業の函館開催にあたり、函館日ロ親善協会、日本ユーラシア協会函館地方支部、財団法人北海道国際交流センター、函館ゴシケビッチ顕彰会、函館日ロ交流史研究会によって実行委員会が設立され、ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業実行委員会委員長に函館日ロ交流史研究会代表世話人長谷部一弘が就任した。
 記念事業は、ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業実行委員会を主催者とし、外務省、函館市、日本たばこ産業株式会社、ロシア極東連邦総合大学函館校、ハコダテ☆ものづくりフォーラムの後援、協賛、協力のもと、ゴシケヴィッチゆかりの地函館市を会場に大勢の市民や関係者を迎え盛大に執り行われた。
 函館市地域交流まちづくりセンターをメイン会場に9月27日から10月18日まで開催された記念事業は、「ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業移動展」、「移動展オープニングセレモニー&ギャラリートーク」、「記念講演会・フォーラム」、「旧ロシア領事館特別公開」がおもな内容である。また、開催期間中には旧ソビエト連邦時代の1989年に函館市に寄贈されたゴシケヴッィチの胸像のお披露目やベラルーシから6名の学生の来函による学生交流などによって函館ならではの多彩な記念事業となった。
 移動展では、はるばるベラルーシから搬送されたゴシケヴィッチの生涯をたどる写真パネルが展示紹介され、ベラルーシ国立歴史博物館のスタッフによるゴシケヴィッチと母国ベラルーシにまつわるギャラリートークが花を添えた。
 函館山山麓にあるカフェ・ペルラで開催された記念講演会は、当研究会の会員でもあるロシア極東連邦総合大学函館校准教授倉田有佳氏によって「初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館」と題し、自ら訪れたゴシケヴィッチ誕生の地ベラルーシなどの最新情報を交え講演された。またこの度の記念事業には、ロシア連邦共和国エヴゲーニー・アファナシエフ大使、ベラルーシ共和国セルゲイ・ラフマノフ大使が臨席され、ロシアと繋がりの深い高田屋嘉兵衛の子孫である高田菜々氏とともにフォーラムのパネラーとして参加され、歴史的背景に裏打ちされた今後の函館とロシアとの交流の展望について述べられた。
 このようなゴシケヴィッチ生誕200年を祝う節目の年に、函館日ロ交流史研究会として多くの市民や関係者の皆様とともに盛大な記念事業に参加できたことは、これまでの日ロ交流の軌跡を垣間見ながら今後さまざまな分野における日本・ロシア・ベラルーシ交流の発展と可能性を探求すべく新たな日ロ交流の一ページを刻んだものといえよう。

(函館日ロ交流史研究会代表世話人)

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号

初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチゆかりの地ベラルーシを訪問して

2016年3月 7日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 2014年、ゴシケーヴィチ生誕200年を迎えた。ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチ(ГОШКЕВИЧ Иосиф Антонович)は、1814年3月16日(露暦4日)ロシア帝国ミンスク県レチツァ郡ストレリチェヴォ村(現ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区)で、同村ミハイル教会の司祭だった父アントーニ・イワノヴィチと母グリケリヤ・ヤコヴレヴナの間に生まれた。筆者が暮らす函館との縁では、1858年から1865年までの約7年間函館に滞在した初代駐日ロシア領事である。
 筆者にとって2014年は、生まれ故郷のベラルーシで開催されたゴシケーヴィチ生誕200年記念国際会議への参加に始まり、函館でのシンポジウムに終わるまで、ゴシケーヴィチ一色に染まった。
 筆者のベラルーシ訪問記や初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館については、「日露ビジネスジャーナル」(「初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの故郷を訪ねて 前編・後編」(http://www.nrbj.info/)、日ロ交流協会会報『日ロ交流』 2014年5月1日号、『北海道新聞』「いさり火」(2014年9月5日)に寄稿したほか、当研究会等で報告する機会を得た。
 本稿では、ゴシケーヴィチの故郷ベラルーシでの生誕200年記念事業とゆかりの地訪問について紹介したい。

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服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』より

1 ゴシケーヴィチ生誕200年記念事業オープニング

■ゴシケーヴィチ生誕200年記念国際移動展(3月20日)

 ゴシケーヴィチ生誕200年記念事業は、3月20日、ベラルーシ国立歴史博物館における「国際移動展」のオープニングセレモニーで始まった。会場は、ゴシケーヴィチの全生涯を紹介した展示パネル(写真とベラルーシ語・日本語・英語の三か国語の解説)、ゴシケーヴィチ時代の領事執務室の再現、日本の着物や陶器の展示など、たいへん趣向が凝らされていた。
 この移動展は、ベラルーシの後、外交官ゴシケーヴィチが勤務した帝政ロシア時代の首都・サンクトペテルブルグ(於:国立サンクトペテルブルク歴史博物館分館ルミャンツェフ邸)、フランスのパリ(於:ユネスコ本部。生誕200年記念事業は2014年-2015年のユネスコ事業として認定された)へと続き、初代駐日ロシア領事として勤務した函館(於:函館市地域交流まちづくりセンター)で締めくくられた。

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展示会場。三村在ベラルーシ大使

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ゴシケーヴィチ時代の領事執務室を再現(函館市での移動展では会場の関係から展示されず)

■「第3回ゴシケーヴィチ記念国際学術会議」(3月21日)

 ゴシケーヴィチ記念国際学術会議の第1回目は、1995年5月にベラルーシのオストロヴェツで、2回目は2002年10月にミンスクで開催された。第2回会議では、高田屋嘉兵衛の七代目高田嘉七さんが報告し、NHK函館放送局の権平記者(当時)が同行取材した(当会会報第24号参照)(http://hakodate-russia.com/main/letter/24-02.html)。
 このたびの「第3回ゴシケーヴィチ記念国際会議」は、3月21日(金)、ベラルーシ国立大学国際関係学部の516教室で開催された(ベラルーシ国立大学国際関係学部主催、在ベラルーシ日本国大使館後援、スポンサーJTI(日本たばこ産業国際部))。
 ベラルーシ対外友好文化交流協会会長のニーナ・イヴァノヴァが司会を務め、12名が報告した。ゴシケーヴィチ関連のテーマで報告をしたのは、地元ミンスクのリジヤ・クラジェンコ(歴史学準博士)「ベラルーシにおけるゴシケーヴィチ一族」、ナタリヤ・オブホヴァ(ミンスク州教育・教授法センター専門家)「イオシフ・ゴシケーヴィチの運命におけるロシア正教北京伝道団」、ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたオストロヴェツ出身で、これまでのゴシケーヴィチ会議の主催者でもあるアダム・マリジス(人文学博士・教授)「ベラルーシ初の外交官ゴシケーヴィチ」、そして現地在住日本人の古澤晃(ベラルーシ国立大学日本語教師)「イオシフ・ゴシケーヴィチの語学研究と現代日本における言語研究」、辰巳雅子(ミンスク市第5番児童図書館日本文化情報センター長)「函館におけるヨシフ・ゴシケーヴィチの活動」である。いずれもベラルーシ語もしくはロシア語で報告したが、ロシア語からベラルーシ語への翻訳は行われなかった(不要だった)。これらの報告は、後日論文集として刊行される予定である。

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筆者は「函館とロシアの220年の交流史から見たゴシケーヴィチ領事時代」をテーマに報告

2 ゴシケーヴィチ晩年の地を訪問

 会議の翌日、在ベラルーシ日本国大使館のご案内により、晩年の地・グロドノ州オストロヴェツ地区に向かった。首都ミンスクから北西方向に車で約2時間、リトアニアの首都ビリニュスまで50キロという国境近くの長閑な農村地帯である。
 現地でオストロヴェツ地区中央図書館に勤めるナターリヤ・オチェレトヴァさんと合流し、オストロヴェツ市にあるゴシケーヴィチ胸像、図書館、ゴシケーヴィチが埋葬されている聖コジマ・ダミアンカトリック教会、そして晩年を過ごした屋敷のあったオストロヴェツ地区マリ村などを案内していただいた。

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オストロヴェツ市にあるゴシケーヴィチ胸像(1994年ヤヌシケーヴィチ作)

■オストロヴェツ地区中央図書館

 ナターリヤさんの職場であるオストロヴェツ地区中央図書館の展示棚には、ミンスク出身のグリンツェーヴィチV.P.(1933-2013)がベラルーシ出身者の偉業について言及した"От Немана к берегам Тихого океaна(ニョーマン川から太平洋岸へ)"(1986年、ミンスク)が展示されていた。全303ページのうち、ゴシケーヴィチを取り上げた章(「白髪領事」)は12ページだ。
 著者のグリンツェーヴィチ氏の名前は、会議前日に訪れたベラルーシ国立文書館のアーキヴィストから、ゴシケーヴィチ研究者として真っ先に挙げられた。第2回ゴシケーヴィチ国際会議の報告者でもある。
 いわばゴシケーヴィチ研究の先駆者と言える氏だが、自著の中(註書き)で、ゴシケーヴィチの墓の所在地はビリニュスの「聖エフロシニア正教会」、没年は1872年、という説を採っている。筆者が腑に落ちないのは、その根拠だ。ゴシケーヴィチが晩年完成させ、息子のヨシフが父親の死後の1899年にビリニュスで刊行した『日本語の語源』(『日本語の語根』などと和訳されることもある。)の序文で、父は1875年に亡くなった、と記しているが、ビリニュスの聖エフロシニア正教会の墓碑には1872年と記されているため、自分(グリンツェーヴィチ)はゴシケーヴィチの没年は1872年だと考える、と説明しているのだ。
 もっとも、ゴシケーヴィチの没年月日、埋葬場所については諸説存在していたようで、今回ベラルーシ国立歴史博物館が作成した移動展用の解説パネルには、ゴシケーヴィチの死亡月日が「10月5日」と書かれていた。
 実はこの類の情報は、メトリカ(正教徒の出生・洗礼日・婚姻日・没年月日などを記した信徒記録簿)を見ればわかるものだ。筆者はベラルーシ国立文書館でゴシケーヴィチの生年月日や洗礼日が記載されたメトリカ(オリジナル)のページを閲覧させていただいた。ただし、文書館のアーキヴィストによると、研究者が最初にゴシケーヴィチの生年を記した簿冊を閲覧したのは2007年と、比較的最近のことだ。ソ連時代にメトリカの閲覧が禁じられていたわけではなかったのだが、ソ連時代にロシア帝国時代の外交官ゴシケーヴィチが研究対象となることはなかった、ということらしい。
 だが、先頃アダム・マリジス教授がリトアニア国立文書館に照会した結果が届き、ゴシケーヴィチは、1875年5月15日(露暦3日)にマリ村で没し、オストロヴェツ市の「聖コジマ・ダミアン教会」に埋葬されたことが証明された。

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「白髪領事」の章

■聖コジマ・ダミアンカトリック教会

 聖コジマ・ダミアンカトリック教会(写真)は、1918年以降、ロシア正教会からカトリック教会になった教会で、ゴシケーヴィチが亡くなった時はロシア正教会だった。教会内部は、イエスとマリア像(カトリック)とイコン(正教会)が共存している。こうした教会がベラルーシには少なくないが、このことを理解するにはベラルーシの歴史を知る必要があろう。

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「聖コジマ・ダミアンカトリック教会」外観。
教会左手奥には聖職者たちの墓碑がいくつもある。だがこの中からゴシケーヴィチの墓碑は見つかっていない。埋葬場所の特定は今後の課題である。

■マリ村図書館のゴシケーヴィチコーナー

 さて、日本から本国に戻ったゴシケーヴィチはロシア外務省に戻り、ペテルブルクで官吏として数年を送るが、1867年には引退した。その後はオストロヴェツ地区マリ村で晩年を過ごし、61歳の生涯を閉じた。
 晩年の地とあって、マリ村の図書館には、常設のゴシケーヴィチコーナーが設けられている。今からおよそ30年前の1986年、「ゴシケヴィッチを偲ぶ旅」(団長:高田嘉七氏)に参加者した方々が提供したのであろう、壁には「函館市立道南青年の家」(現「旧ロシア領事館」)、ロシア人墓地の写真などがきれいに展示されていた。筆者もせっかくなので、自分で撮影した函館のロシア人墓地内のゴシケーヴィチ夫人・エリザヴェータの墓の写真をデータで寄贈し、新たに展示に加えてもらうことにした(1864年に病死したエリザヴェータ夫人は、領事館の敷地内に埋葬された。この土地はハリストス正教会に引き継がれ、1907年の函館大火で初代のハリストス正教会は焼失。焼け跡で見つかった夫人の遺骨と遺品はロシア人墓地に移葬された。長年その場所は不明だったが、1998年に厨川神父が特定し、翌年、同神父によって墓が建てられた。つまり、30年前にはエリザヴェータ夫人の墓はなかった)。

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マリ村図書館の向かいにあるゴシケーヴィチ記念碑

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図書館のゴシケーヴィチコーナー(上)とそこに展示されているゴシケーヴィチとエカテリーナ夫人の写真(左)

■ゴシケーヴィチの屋敷へと続いていた並木道

 マリ村の図書館員によると、ポーランドとの国境に近いこの村の住民は、1941年6月22日、飛行機が上空を飛んで行き、遠目に火の手が上がるのが見えて初めて戦争が始まったことを知った。幸い村はドイツ軍の戦車が通過していくだけで、焼き払われるなどの被害はなかったそうだ。
 それではゴシケーヴィチ関係の品が残っているのかと思いきや、ゆかりの品はないとの返事だった。息子のヨシフがビリニュスに引っ越した際に持って行ったのだろうか。
 唯一、当時の面影を今に残すものは、ゴシケーヴィチの屋敷へと続いていた並木道だ(写真)。再婚したエカテリーナ夫人との間にもうけた息子ヨシフ(ゴシケーヴィチの血を分けた唯一の息子)に囲まれながら、『日本語の語源』を完成させるなど、この地で心静かな余生を送ったことだろう。

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おわりに

 このたびベラルーシから始まった記念移動展、そして国際会議の意義だが、これまであいまいにされてきたベラルーシ時代のゴシケーヴィチに関する正確な情報がベラルーシの研究者の手によって発信され、ベラルーシ時代のゴシケーヴィチの姿が浮き彫りにされたことにより、ゴシケーヴィチをベラルーシ人として捉える(あるいは意識する)きっかけを作ったことではないだろうか。
 筆者自身、今回の展示でゴシケーヴィチの両親の名前を初めて知り、国際会議では地元研究者から、「ゴシケーヴィチの母親は若くして亡くなったため、函館に着任した際に伴ってきたのは「母」ではなく「姑」(妻エリザヴェータの母)だろう」、というご教示をいただき、晩年を送ったベラルーシを訪ねたことで人間としてのゴシケーヴィチについて考えてみたくなった。それまでゴシケーヴィチのことをベラルーシ人として捉える視点を持ち合わせていなかったが、ゴシケーヴィチを捉え直してみた試みが、2014年9月に函館で開催された記念フォーラムでの筆者の報告である(次頁のとおり)。
 最後に、今回ベラルーシ訪問の機会をいただいたこと、そして現地でお世話になった方々には、この場を借りて改めて感謝申し上げたい。

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号

初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館

2016年3月 7日 Posted in 会報
倉田有佳
はじめに

 函館は、「日本で最初のロシア領事館開設の地」、「日本ハリストス正教会発祥の地」である。函館の西部地区には、ハリストス正教会、旧ロシア領事館、ロシア人墓地といったロシアとの長きにわたる交流の歴史を現在に伝える施設・場所が残っている。
 それだけでなく、ロシア交流発祥の地という名誉が現在にしっかりと受け継がれていることは、2000年と2012年にロシア正教会総主教聖下が、ロシア(ウラジオストク)から函館に政府専用機で直接到着したことや、領事館開設150周年を迎えた2008年にロシアのラヴロフ外相が函館を訪問したことからも明らかである。
 「ロシアゆかりの地・函館」とロシアの交流の始まりは、1793年のロシアの最初の遣日使節アダム・ラクスマンの来航に遡ることができる。その後も、ゴロヴニン、プチャーチンと、日露交渉史に名を残す有名なロシア人が函館に来航した。しかし、いずれの場合も、当初から函館に目的があり、函館を目指してやって来たわけではなかった。函館港がロシア極東に地理的に近く、しかも天然の良港に恵まれていたため、ロシアとの接点を生み、結果として交流が生まれたのであった
 こうした偶発的で一度限りの交流(「交流の黎明期」)が「実質的な交流」へと転換する契機となったのが、1858年のロシア領事館開設だった。その初代駐日領事がゴシケーヴィチだった。

1 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの時代(1858年-1865年)

■ロシア領事館、函館に開設

 1855年に日露和親条約が下田(静岡県)で締結され、下田か函館のいずれかに領事館を設置することとなり、函館が選ばれた。函館に開設されたロシア領事館は、明治維新後首都となった東京にロシア公使館が開設(1872年)されるまでの間、日本で唯一のロシアの外交窓口だった。
 この時代、ロシアが「函館」に着目した理由はいくつか考えられる。
 まず、当時のロシアの極東政策として、ニコラエフスクが極東の拠点だった。沿海州から遠くない距離にある不凍港函館は、ロシア艦隊にとってニコライエフスク-ウラジオストク、ポシエト、オリガなどの南部諸港間の海上交通を営むうえで、休養・載炭・食糧調達・越冬に不可欠な寄港地とみなされていた。
 次に、当時、日露間には未解決の問題としてサハリン問題があった。
 さらに、サハリンのドゥーエで産出された石炭の貯蔵倉庫を函館に置き外国に売る、といった経済的な視点からも函館は重視された。
 1858(安政5)年11月5日、軍艦ジキット号でゴシケーヴィチ領事は函館に入港した。この時、函館の役人は、ゴシケーヴィチを「見たことのある人だ」と気付いた。後述のとおり、顔を覚えていてくれていた日本人の役人がいたことは、ゴシケーヴィチにとって幸先の良いスタートだった。

■「北の地の文明開化」に寄与したロシア領事館員たち

 領事一行は、領事家族、書記官、医師夫妻、海軍士官、司祭、下男4人、下女2人の計15名で構成されていた。これらの領事館の団員は、各自がそれぞれ日本(函館)での任務を帯びてやって来た。
 海軍士官は、ゴシケーヴィチ領事のもとで領事館を設計し、気象観測を始めた。医師は、ロシア病院でロシア人のみならず日本人の患者も無料で治療した。日本人の医師では治療が難しく、ロシア人医師が得意としたのは、梅毒治療だった。また、領事館の館員から、写真術、西洋医学、造船技術など日本人が欲する西洋の先進的な技術が日本人に伝授された。この時期のロシア領事館は、「北の地の文明開化」の推進に寄与する存在でもあったのである。
 領事館付きの教会関係者は、キリスト教解禁前のこの時代、ロシア語の普及に努めた。読経者のイワン・マホフは、子供向けのロシア語教本『ろしやのいろは』(函館市指定文化財)を完成させ、文久元年の正月(1861年)、将軍献上用、箱館奉行用、そして函館、江戸、京都、長崎の子供たち用として各100部ずつ箱館奉行に贈呈した。この頃には、領事館構内の小家屋の半分をロシア語学校に充て、箱館奉行所の役人の子弟にロシア語を教授したという記録がある。しかし、ロシア人による本格的なロシア語教育は、司祭ニコライの函館着任後(1861年)に始まった。
 ゴシケーヴィチは、着任して最初に迎えたクリスマス(1859年初め)に箱館奉行所の役人とその子供たちを招待し、ロシアの文化を紹介しながら地元の役人と親しくなるよう努めた。
 これらはいずれも本省からの訓令に従ったものであり、ゴシケーヴィチ個人の功績とは言えないかもしれない。とは言え、できる限り訓令に忠実に、そして早急に訓令を実現するためにゴシケーヴィチが惜しまぬ努力を尽くした結果であり、領事館員と衝突しながらも実現させたトップとしての力量であり、さらには、地元の日本人の役人との交渉力の高さと粘り強さに裏打ちされるものであったことを忘れてはならないだろう。
 このことは、帰国後、ゴルチャコフ外相が、「箱館にロシア領事館が開設されてから今日までの8年間(正しくは7年間だが)、領事館と日本政府、現地住民との関係は最も満足すべき状況にあった。領事館、現地当局と中央政府との間で、再三行われた交渉では、双方は常に満足した...」と、ゴシケーヴィチの日本滞在中の活動を高く評価していることからも明らかである。

2 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチ再考

 初代駐日領事ゴシケーヴィチを理解する上で、来函以前のゴシケーヴィチの経歴は重要な鍵となっている。そこで、以下では、領事となるまでの経歴を振り返りながら、函館でのゴシケーヴィチ領事の言動と照らし合わせてみたい。

■ベラルーシ人の司祭の息子(1814年-1851年)

 ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチは、1814年3月16日、ロシア帝国ミンスク県レチツァ郡ストレリチェヴォ村(現ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区)で、同村ミハイル教会の司祭だった父アントーニ・イワノヴィチと母グリケリヤ・ヤコヴレヴナの間に生まれた。生誕地は、現在のウクライナのキエフに近い、ベラルーシ共和国の南東に位置している。
 ミハイル教会付属の学校で初等教育を終えた後、ミンスク神学校で学び、1835年に「優等」で卒業した。成績優秀のため特待生としてサンクトペテルブルクの神学アカデミー(大学相当)に進み、卒業後は1839年から約10年間、ロシア正教の第12次北京宣教団の一員として中国に滞在した。北京滞在中、ゴシケーヴィチは、墨や化粧(紅)の製造方法、養蚕業、そろばん(数の数え方)について中国語文献を基に論文をまとめ、『在北京ロシア正教団論集』に発表した。これらの功績は高く評価され、「聖スタニスラフ勲章」を受章した。
 領事になってからのゴシケーヴィチの次のような言動は、司祭の家に生まれ、ペテルブルクの神学大学を終えたことと深く関係しているものと考えられる。
 まず、ゴシケーヴィチは、ロシア領事館付属聖堂だった函館正教会の「復活聖堂」の命名者だった。
 次に、1861年に2代目の函館のロシア領事館司祭として着任したニコライのような志高い人物を日本に呼び寄せるきっかけをつくったのは、実はゴシケーヴィチの熱い思いにあった。
   さらに、ゴシケーヴィチは帰国後、ロシアから函館の教会にイコン(ロシア正教の聖像)を送っている。
 このように、ゴシケーヴィチは、初期の日本のハリストス正教会の発展を側面から支えた人物でもあった。

■遣日使節団全権代表プチャーチンの中国語通訳(1852年-1857年)

 中国から帰国後、1855年の日露和親条約交渉のロシア側全権代表プチャーチンの中国語通訳兼秘書として遣日使節に同行した。ちなみにゴシケーヴィチは、13カ国語もの言語を話せたと言われるほど語学に堪能だったが、幕末開港期の日本(長崎)での交渉で必須とされたオランダ語は解さなかったようである。
 さて、この日本への使節団の中で、文民はゴシケーヴィチと『オブローモフ』の著者として有名な文筆家ゴンチャロフの2名だけだった。1852年にクロンシュタット港を「パルラーダ号」は出航し、アフリカ南端、東南アジア経由で長崎に到着した。この間の様子をゴンチャロフは『日本渡航記』に詳しく記している。
 その『日本渡航記』の中で、ゴンチャロフは、長崎での第1回目の会談後の日本側全権代表の印象を次のように記している。「筒井(政憲)が聡明さと善良さを兼ね備え抜群の魅力を放っていた。川路(聖謨)が理知的であるとともに勇敢さを感じさせる風貌が好ましかった。」、「川路が巧妙な論法でたびたびロシア側を論ぱくし、知性の高さを示し、尊敬に値する人物であった。」、と称えた。他方で、「奉行の大沢はハンサムだが、ロシア使節への反感を有し、その他の面々は「見たくもないほど」だったと酷評している。尊敬に値する幕府高官を身近に知ると同時に、幕府高官のマイナス面の両面を見たと言えようか。
 長崎以外にも、一行は函館(上陸し、8日間滞在)、下田、戸田(へだ)にも上陸・滞在した。ゴシケーヴィチは、函館領事となる前に、函館に来航していたのだ。その経緯は、以下のとおりである。
 クリミア戦争勃発(1853年10月)の報を聞き、英仏艦隊を避けて、「パルラーダ号」は一旦長崎を退去し、ニコラエフスクで越冬した。日米修好条約が調印されたことを知ったプチャーチンは、翌年春、日本側との交渉を大坂で再開させることを望み、その意向を箱館奉行から幕府に通告してもらうために、当時既に開港が決まっていた函館に向かった。1854年8月30日、函館港に「パルラーダ号」が入港した。
 ところが、箱館奉行から幕府に連絡が届く前に、「ディアナ号」が大阪湾に現れたため、大騒ぎとなった。天皇がいる京都から近い大坂での交渉は、日本側によって拒否され、既に開港されていた下田で交渉が行われることになった。
 この下田での談判中、安政の大地震が発生し、続く大津波により、「ディアナ号」は壊滅的な打撃を受けた。しかも、駿河湾で曳航中、船は沈んでしまった。戸田(へだ)で日露が協力し、新艦「戸田(へだ)号」を建造した。 「ディアナ号」沈没という不幸は、半年以上日本に滞在する機会をゴシケーヴィチたちに与えた。そして戸田では、ゴシケーヴィチと日本を結ぶことになる重要な人物、元掛川藩士の橘耕斎との出会いがあった。橘耕斎は日本語を教えただけでなく、日本に関する書籍や地図を入手したいというゴシケーヴィチの要望をかなえたと考えられている。これは鎖国当時の日本では禁止されていた行為だった。一説によると、これが原因で橘耕斎は追われる身となり、ゴシケーヴィチが日本から傭船「グレタ号」で帰国する際、ゴシケーヴィチの手引きでロシアに密出国した。
 ところが、クリミア戦争中のこと。一行(橘耕斎も含む。約280名)は、オホーツク沖で英国軍艦に捕獲されてしまった。しかし、約9カ月間の捕虜生活をゴシケーヴィチは無為には過ごさなかった。同じく捕虜となった橘耕斎の協力(口頭による説明と解釈)を得て和露辞典の編さんに取り組んだのだ。これは、最初の本格的な和露辞典『和魯通言比考』として、帰国後(1857年)サンクトペテルブルクで刊行され、この功績が高く評価され、ゴシケーヴィチは初代駐日領事に抜擢されたのであった。
 さて、初代駐日ロシア領事となったゴシケーヴィチだが、当時の外交文書からは、毅然とした態度で幕府役人に主張すべきところは断固主張し、意見の食い違いから交渉が決裂することはあっても、粘り強く交渉し続けたことがわかる。
 ゴシケーヴィチは、当時の在函館英米領事にありがちだった、高慢な態度で日本人に無礼を働くといったことはなかった。 こうした違いが生まれたのは、ゴシケーヴィチが長期に亘る中国滞在経験で「東洋」を理解した上で日本という国に接したこと、しかも中国語や日本語の知識を持ち合わせていたからではないだろうか。加えて、日本(長崎と下田)で全権代表のプチャーチン提督とともに幕府の全権代表との会談に臨んだ経験等が、良きにつけ悪しきにつけ日本の役人の対処法や巧みな交渉術を身に付けさせたと考えられる。
 日本滞在中、ゴシケーヴィチはプチャーチンから学ぶことは少なくなかっただろうが、初代駐日領事となってからも、プチャーチンはゴシケーヴィチに自身の経験に基づく対日戦略を書簡で伝えるなど、プチャーチンから影響(指南)を受けていたことがわかる。

■函館の領事たち

 クリミア戦争直後のロシアとイギリスは、東アジア(極東)進出を巡って敵対関係にあった。だが、江戸から遠く離れた函館では、英国領事とロシア領事が連携して函館奉行(地元の役人)に要求を突き付ける、あるいはゴシケーヴィチが仲裁役として頼りにされる場面もあり、必ずしも対立関係にあったわけではなかったようである。
 当時ロシアでは、クリミア戦争の敗戦で自国の後進性を強く認識し、そこから脱するために様々な改革(1861年の農奴解放はその一つ)が試みられていた。クリミア戦争の敗北後、アジアに進出先を方向転換するものの、既に英米から出遅れてしまったロシアは、英米仏に対抗する場を日本(函館)に見出した。船が函館の港に入るとすぐ目に飛び込んでくる高台に他国を威圧するほど立派な領事館を建設し、日本人医師には治療が難しかった梅毒をロシア人医師が治療するなど、函館でロシアの存在感を高め、ロシアの影響力を他の欧米諸国に見せつけようとしたことなどは、その表れと言えよう。

■海軍との因縁

 文民領事のゴシケーヴィチが函館で衝突することが多かった相手は、外国領事ではなく、自国の海軍関係者だった。そもそも海軍との「因縁」は、初代駐日領事を巡る人事に始まっていた。海軍は軍人を日本に送り込みたいと考えていたが、1857年にサンクトペテルブルクで発行された『和魯通言比考』の著者ゴシケーヴィチに白羽の矢が立った。
 領事となった後も、領事団の海軍士官N.ナジーモフと衝突することがたびたびあった。伊藤一哉氏は自著『ロシア人の見た幕末日本』の中で、書記オヴァンデール、ナジーモフ海軍士官アルブレヒト医師の3人は、ゴシケーヴィチから睨まれ帰国させられた被害者と捉えている。
 酒に酔ったロシア人の海軍関係者と日本人との喧嘩は珍しくなかった。そのような場合、ゴシケーヴィチは自国民の言い分だけに耳を傾け、無条件で擁護することはなく、冷静に対処している。これを恥と感じることすらあった。
 そしてゴシケーヴィチが函館での約7年間の在任期間中、日露間の最大の衝突事件とも言えるのが、対馬に居座った「ポサドニック号事件」(1861年3月~9月)である。解決には、イギリスの影響力もあったとされるが、ゴシケーヴィチが函館の役人との間で穏便に事を進め、「ポサドニック号」が占拠していた対馬から退去させる役割を果たしたと、ゴシケーヴィチの外交官としての手腕を評価する見方もある。
 日頃からゴシケーヴィチは海軍関係者の素行不良に不満を募らせていたところに今回の事件が起こった。「力」で訴える海軍の強引なやり方は、学者肌で日本の役人との間で信頼頼関係を構築しつつあったゴシケーヴィチにとっては、とうてい受け入れ難かったことであろう。

3 蝦夷地・函館の特異性

 ゴシケーヴィチ時代の幕末開港期の日本は、攘夷運動が激しく、ロシア人からも犠牲者が出た。ムラヴィヨフが江戸に滞在中の1859年、横浜でモフェット少尉ら海軍士官ら3名が日本人によって殺傷されるという事件である。この時、ゴシケーヴィチ領事は通訳を務めた。
 しかし、ゴルチャコフ外相が、「函館港は、他の日本諸港のヨーロッパ人居留地での生活を特徴づけている恐るべき悪行が一つも起こっていない唯一の港であると指摘すれば十分だろう...函館港以外のすべての港では日本の大勢の警護隊を伴わなくてはヨーロッパ人はほとんど外出できないのに、函館では彼らは市外のかなり遠方にまで安心して旅行できるということも知られている。」、と指摘しているように、蝦夷地函館の事情は、日本の他地域とは異なっていたことがわかる。
 当時の事情とは異なるが、現在の函館も、国家レベルでの交流とも、また他の地方都市とも異なる歴史を歩んできた誇るべき歴史を誇りに思い、日ロ交流、函館とロシアの交流の礎を築いたゴシケーヴィチの生誕200年という記念の年に、これからの日ロ友好交流の発展のために函館がどのような役割を果たせるのか、官民一体となって考えてゆければと思う。

おわりに

 函館でゴシケーヴィチが注目されるのは、実は今回が初めてではない。今から30年ほど前、ゴシケーヴィチの伝記『白ロシアのオデッセイ』の著者ビターリ・グザーノフ氏が来函し(1985年)、その翌年には「ゴシケーヴィチを偲ぶ旅」(団長:高田嘉七氏)が企画され、函館からの参加者を含め、晩年の地であるベラルーシのマリを訪問した。
 初代ロシア領事赴任140年を迎えた1998年には、「初代ロシア領事赴任140周年記念フォーラム 原点から探る日ロ交流」が開催された。パネリストとして当時のアレクサンドル・パノフ大使、外務省の丹波実審議官が出席された。これは橋本・エリツィン会談が静岡県の川奈で行われた年でもあった。
(函館に寄贈されたゴシケーヴィチの胸像については、この後、高田嘉七さんの次女、菜々さんからお話があるだろう。)
 生誕200年を迎えた本年、昨日から記念事業が始まり、「移動展」のオープニングに続き、ベラルーシ国立歴史博物館関係者によるギャラリートークが行われた。これらによって、日本人にとってはまだまだなじみの薄いゴシケーヴィチの生まれ故郷・ベラルーシを理解するきっかけになったはずである。
 また、将来ベラルーシと日本を結ぶ架け橋となることが期待されているベラルーシの大学生6名がこのイベントに併せて来函中である。かつてゴシケーヴィチが、領事となる前にプチャーチンに同行して日本に滞在した体験が、領事となってから様々な場面で力を発揮したように、ベラルーシの大学生にとってこのたびの交流体験は、今後日本の専門家として活躍していく際に役立つことであろう。
 本日の講演が、今再び「ゴシケーヴィチ」を振り返り、日ロ交流の象徴的存在であり、函館とロシアの交流の礎を築いたゴシケーヴィチに思いを馳せるきっかけとなれば幸いである。そして、生誕200年を迎えた本年、「ゴシケーヴィチ」が、日ロ交流の象徴に留まらず、ベラルーシと函館(日本)の友好交流を切り開く新たなキーワードとなっていくことに期待したい。


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移動展オープニングセレモニーとギャラリートーク


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来函したルィシコフ館長ほか、ベラルーシ国立歴史博物館の職員

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号 記念講演会報告要旨

柴田剛中の箱館での交渉

2016年3月 7日 Posted in 会報

塚越俊志

はじめに

 柴田剛中は、ペリー来航前後に幕府の海防の担当者として働き、外国奉行が設立されてから、この部署に配属された。文久元年(1861)の竹内下野守保徳を正使とする使節団に外国奉行組頭として加わり、文久2年12月末に帰国した(1)。この使節団での功績が評価され、文久3年、柴田は外国奉行並に任命された。そして、文久3年、箱館に渡り、ロシア総領事ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich Goskevich)と横浜鎖港に関する交渉を開始することになる。この間の経緯については「談話書」という形で、函館市中央図書館に所蔵されている史料「柴田日向守箱館行御用留(抄)」があるが、ここではゴシケーヴィチとの交渉の様子について、神戸市文書館所蔵の『柴田剛中関係文書』収録の彼の日記「日載」を主に用いて考察することとする。日記という性格から、ここでは、史料解題に近い形で紹介をすることにしたい。

1、柴田剛中の箱館行前の状況

 文久3年(1863)5月19日、外国奉行村垣淡路守範正の日記によると、「貞太郎、箱館えの御暇拝領物金十枚、時服二羽織於芙蓉間被仰渡候」(2)とあり、外国奉行並柴田剛中の箱館行きがこの段階で決まったことがわかる。この時、交渉すべき最大の案件が「横浜鎖港」問題であり、それを各国公使に伝える必要があった。そこで、箱館に領事館を構えるロシアとの交渉に白羽の矢が当たったのが柴田剛中である。
 11月4日、柴田は外国奉行並から外国奉行に昇格した。同時に「箱館表江被遣候ニ付用意可致處備前守殿被仰渡候段達し来ル」(3)と記している。老中牧野備前守忠恭から箱館行きが命ぜられていることがうかがえる。同29日、柴田は実弟永持亨次郎に函館行きを祝う詩文等を贈られ、柴田も返書を送っている(4)。
 12月5日、柴田は「金港甲州より此度欧行御國書案促し来り分ニ筑豆両州宛告状届く」(5)と記し、神奈川にいる外国奉行首座竹本甲斐守正雅から鎖港交渉のためヨーロッパに向かう外国奉行池田筑後守長發と同河津伊豆守祐邦らから国書案を要求する書状が届いたことが伝えられている。
 12月10日、柴田は「今朝ブレツキマン引合度旨申聞候ニ付、面唔致し酒税減方使筋(ママ)旅費為替手続之談判促し申候」(6)と記している。フランス公使館付書記官ブレッキマン(F.Blekman)と面会している。同18日も柴田はブレッキマンと面会し、減税の談判を行っている(7)。同26日にも減税の対談を行っている(8)。同29日、老中格松前伊豆守崇広とブレッキマンによる減税交渉の書簡が柴田のもとに届いている(9)。
 また、12月中に、「御三名花押」の魯西亜外国事務執政宛書簡が出されている。御三名とは池田使節の正使池田、副使河津、目付河田相模守煕のことであろう。中身は日本からロシアに対して品物を贈りたい旨を伝えるものである(10)。また、将軍家茂の親書には、「恭しく魯西亜帝の許に白す、我國貴國与条約取結し以来両国之交義永久相替被遣る様互に其誓言を遵守いたし度は勿論候得共鎖國之舊習頓に不て再應し難きより此節に至り外國貿易の為メ大に國内民心の不折合を生し、諸外國人に対し往々不都合之挙動ありに至り氣之毒存候、依之外國奉行池田筑後守・河津伊豆守・目付河田相模守に全権を授け特に其國都に是遣し其許面謁之上此方一体之事情委細陳述為及両國之交義永久安全を保ち我國内民心鎮静之為メ神奈川開港場貿易之事をも談判可為致候間被得貴意、我使臣建言之旨信用あらん事を望尤貴國平安の儀是又祈る所なり、不一」(11)とある。まず、池田ら三使を送った理由に「國内民心不折合」であることを掲げ、「我國内民心鎮静之為メ神奈川開港場貿易之事をも談判可為致候間」と神奈川鎖港に関する談判を行うとしている。また、老中連書においてもほぼ同様のことが確認できる(12)。以上のことから、池田使節団はロシアとも交渉する予定が当初はあったことがうかがえる。その一方で、国内でロシアの外交官と交渉したのが外国奉行柴田日向守剛中ということになる。
 文久4年1月1日、将軍上洛にともない柴田は留守を仰せつかった(13)。
 同10日、柴田は「凾館行船として下ケ緒を贈らる」(14)と記しており、守山なる人物から刀等の贈り物があったたことがうかがえる。
 そして、同26日から、箱館に向けて陸路を移動している。当時の幕臣が陸路をどのように通り何日かかるのか、参考のため、以下に掲げる。同日、千住で休み、草加で泊る。同27日、粕壁(春日部)で休み、幸手に泊る。同28日、古河で休み、小山に泊る。同29日、石橋で休み、宇都宮に泊る。ここまでは日光街道を利用し、ここから奥州街道へ向かう。2月1日、喜連川で休み、太田原に泊る。同2日、芦野で休み、白河に泊る。ここから、仙台道を利用し、同3日、矢吹で休み、須賀川に泊る。同4日、郡山で休み、二本松に泊る。同5日、福島で休み、桑折に泊る。同6日、白石で休み、大河原に泊る。同7日、岩沼で休み、国分町(仙台城下)に泊る。ここから、松前道に入り、同8日、吉岡で休み、三本木に泊る。同9日、高清水で休み、金成に泊る。同10日、一ノ関で休み、水澤に泊る。同11日、鬼柳を通過し、黒沢尻で休み、花巻に泊る。同12日、郡山で休み、森岡(盛岡)に泊る。同13日、渋民で休み、沼宮内に泊る。同14日、小繋で休み、一ノ戸に泊る。同15日、金田市で休み、三ノ戸に泊る。同16日、浅水で休み、五ノ戸に泊る。同17日、藤嶋で休み、七ノ戸に泊る。同18日、天椅立(天間館)で休み、野平地(野辺地)に泊る。同19日、小湊で休み、青森に泊る。同23日、船(永宝丸)のチャーターが済み出帆。同24日、箱館に着港している。約1カ月の陸路を経て箱館に至っている。この間、柴田は行く先々で漢詩を記している。また、同25日、柴田は老中から「人足八人人馬八疋従江戸奥州筋箱館迠上下并於彼地御用中幾度可出之候於御用状相回日向守被差遣付て被下の者也」(15)という朱印状をもらった。この朱印状は字が薄く書かれているほか、元治元年(1864)4月14日に老中井上河内守正直に返却した際に黒塗りで文面を消されているため、文字が読みにくくなっているが、解読できた部分を含め復元したものが上記の文言である。要するに柴田は箱館に行く時、箱館から江戸に戻る時、江戸から奥州筋まで人馬の徴収権を得ていることがうかがえる。

2、柴田とロシア領事ゴシケーヴィチとの対談

 文久4年2月24日、箱館に入った柴田は「着之儀出行御役所江使者を以申遣し、且明より御役所江相調候旨申越す」(16)と記し、箱館奉行所に使者を派遣したことがわかる。奉行所からは酒井右衛門が来て対応した(17)。ここで、遣米使節にも随行した徒目付小永井五八郎が柴田に面会をしている(18)。そして、以下のような取極めがなされた。柴田は「三日之間は御役所御入用ニ相立御用達引受(後略)」(19)と記していることから、3日間は箱館奉行が柴田の入用を賄うことが決まった。更に、柴田は「右衛門また来る魯コンシュル面會日限之義言被申聞ル」(20)と記し、ロシア領事と面会する日程調整を行っている。そして目付江連尭則から手紙が来てロシア領事と面会の段取りが整ったら知らせて来るよう柴田に手紙が送られている(21)。
 柴田とともに派遣された外国奉行のメンバーは、目付江連真三郎(尭則)、外国奉行支配組頭由比太左衛門(峯高)、外国奉行支配調役日比野清作、徒目付佐藤真司、同小永井五八郎であった。また、ここに立ち会った通訳は箱館奉行所付通詞の志賀浦太郎と名村五八郎であることが史料から読み取れる。
 同25日、柴田は「魯國コンシュル通弁官なるもの旅亭江来り面晤之儀申入ニ而家来を以申對候遣何レ是より會晤日限可申入旨申達は無之」(22)と記し、ロシア領事館付通訳官が来て柴田の家来と面会日時の調整を行っている。
 同26日、柴田は「江連江打合支配向召連第一時より魯國コンシュル館江下邊尋問昨来之魯人は畢竟余ガ着賀使としてコンシュルより差越遣し内申聞彼我行違之儀当然たり、且明第一時余と監察着賀としてコンシュル一行尋問之旨申聞ニ付申免シ度對候無行得共何分承允不致監察之方は申對候余之旅亭ニ而参會一同面晤之旨申談じ其通り相決す、帰途右左等向を伴ひ江連江立より明より接待方等之儀相談いたす椅子卓等ハ御役所御備之分借り受ケ役之調理ハ御用達ハ命し候積り太左衛門ハ談す」(23)と記し、上大工町のロシア領事館に向かった後、柴田とゴシケーヴィチとの会談に向けて着実に用意が進んでいることがうかがえる。
 元治元年2月27日、柴田は「魯人一行之役彼是内旋せし」(24)と記し、「第一時魯コンシュル・医師・書記官・伜・通弁官とも五人来ル是より先達而江連並太左衛門・浦太郎来會面晤右一行江酒席を設く全く着賀迠也、第三時ニ引取」(25)としている。ロシア総領事ゴシケーヴィチ、医師(軍医)ザレンスキー(Zerenski)、書記官ツェヴェルコフ(Tsievelkoff)、伜ウラジミール・バフシュテイン(Uradimil Vafsytein)、通訳官ユガノフかニコライか、の5人がやって来ている。日本側は箱館奉行所付ロシア語通訳官志賀浦太郎が加わっている。
 同28日、柴田は「第一次より江連具す支配向とも魯館江談判ニ行く挨拶は初考之上明より可申聞旨ニ而第四時帰館」(26)と記し、柴田がロシア領事館に談判をしに向かったことがうかがえる。また、柴田は「魯岡士遣し品之儀監察ニも存より無之様ニ而文庫一硯ふた二面を太左衛門対話席江持出品相渡す」(27)と記し、ロシア総領事から品物が贈られたことがわかる。この日の対話内容は以下の通りで、重要な部分だけ取上げることとする。
 日本側はこの談判の背景に「鎖国」の国柄だった故、急激に通商条約を締結し、人心の不折合を招いてしまった。そのことが外国事務を取り扱う重臣へ不法の振舞をするに至ってしまったという。
 これに対し、ゴシケーヴィチは「外国事務を取扱候重臣え不法の振舞及候趣、右は如何の御方に候哉」(28)と切り返すと、柴田は井伊掃部頭直弼、安藤対馬守信行らの名前を挙げた。柴田は欧州各国と日本の封建郡県の違いがあって、国制も違うため人心不折合を招くとした。そのため、条約締結以前、すなわち開港以前の姿にまずはさかのぼり、徐々に人心の鎮静を図りたいとした。そして、柴田は「さも無之急遽粗暴に事を謀り候ては、益人心に激し、患害百出士崩瓦解の場合に陥り、不可挽回の勢ひに可至は眼前の義故、無拠三港閉鎖の義各ミニストルえ申入、其の回答の模様に寄候ては此方(に)於て万々都合宜敷人心鎮撫の好手段にも相成候義に付、一時各国へ対候ては条約面を游移致し、信義を失候様の姿に相当り候へ共、其実は却て懇親永続の基を謀候との訳柄を以、即鎖港の義各国ミニストルえ申入候処、一概に外国人を拒絶致候事とのみ存取、戦争と決候外無之抔激烈の返答のみ申出、右様切迫の場合に至候義に候はゞ素より彼是の配慮にも及不申、是迄多少の苦心に徒らに泡沫に属し、内外手を下すべき術計も無之、進退実に谷り候場合に陥り申候。右の如にては各国不残敵と相成、好て外寇を招候処置に相当り候訳にて、以の外の事故、前申入候三港鎖閉の商議をば廃し、去迚其儘差置候ては国内人心鎮圧の方略にも相成不申候ニ付、金川一港のみ鎖閉の義に候はゞ強ち外国人を拒絶致候訳にも無之候間、我国事実不得止の場合をも了察可有之と勘考致、各公使え右廉を以談判に渉候処、最前拒絶と見込候一塊の疑団氷解不致、先入主と相成候事と相見え、右談を承諾致候はゞ果は長崎・函館に及び、終に三港共閉鎖可及とのみ存取り、幾応申入候共何分談筋取合不申、徒に時日を送り候内、右輩不堪遅延粗暴の挙動を為んとの萌し顕然有之、何と歟所置の痕跡相見候様無之候ては難差置依て弥使節の挙に至り、金川閉鎖の義各国都府(に)於て談判及候積治定相成、去冬中使節出帆致候。(中略)扨貴国は旧来の縁故も有之、且隣好も厚く、旁外各国共相違ひ候間、夫是の訳を以前申入候縷々の事情を被察、今般使節差遣金川閉鎖の談は交際上に取り信義不厚様相聞可申哉に候へ共、素々和親永続を望候真心より出候訳に有之候間、右使節の談筋不都合不相成様周旋の力を被尽度候」(29)と話した。柴田は函館、神奈川、長崎の三港を閉鎖する予定だったが、まず神奈川の閉鎖を行い徐々に人心回復につとめ最終的には三港共に閉鎖する予定であると語った。また、日本側としては真心を伝えるため、ヨーロッパに使節を派遣したと説明した。これに対し、ゴシケーヴィチは「右は魯国のみ周旋の義に候哉、外国に迄周旋との事に候哉」(30)とロシアだけにこのことを話したのか、それとも欧米諸国にも話したのかと切り返した。柴田は、これについては話すのが難しいとはぐらかしている。つまり、柴田は横浜鎖港が不可能であると知った上でその影響が日本にとって悪いことを知っていたので、このような回答をせざるをえなかったのだろう。
 ゴシケーヴィチは「魯国義は素より金川へは入津の商舶も無之候に付、鎖閉被成候共格別不都合の義も無之候へ共、各国にて承允不仕候はゞ魯国のみ承允の義は迚も難相成存候。将亦各国人共政府にて全く御拒絶の義と存候赴(ママ)風聞仕候。私(に)於ても金川閉鎖不被成候共、如何様にも外に御鎮圧の御方略有之候哉と存候」(31)と、ロシアはもとより横浜港を使用していないため、影響ないが各国が承引しなければロシアも受け入れるのは難しいとした。続けて、ゴシケーヴィチは「両都両港延期御談判の節各国(に)於て右御談を承允不仕候はゞ、却て今般御談の一助にも可相成候へ共、右を承允の上又々ケ様の御談承允可仕見据は無御座候。一体両都両港延期する御条約面に触候義に候処、深く政府の意を察候より枉て承允致候事に候間、金川閉鎖の後は逐漸長崎・函館え及ぼさるべきとの疑団不解は尤の義に候」(32)と、柴田も加わった竹内使節団による「六カ国覚書」の約束違反に当たることをゴシケーヴィチは指摘し、今後の交渉は難しくなると予想している。
 これに対し、柴田は「一ト通り尤には相聞候得共、金川は外二港とは違ひ江戸近にも有之、右輩注目の地にも有之候間、特に同所のみを閉鎖致度事に候」(33)と横浜は江戸に近いため封鎖する必要があるというのである。
 その後、柴田は物価騰貴の問題を挙げ、鎖港の必要性を説いた。ゴシケーヴィチはこれについては各国公使も承知しているとし、物価騰貴だけでは事情が不十分であるとした。続いて、柴田は外国人殺傷事件について話を切り出し、ゴシケーヴィチは特に「長州一件」はすぐに処理をした方が良いとした。また、薩英戦争の結果を挙げ、「長州一件」も賠償交渉をするのかと尋ねた。柴田は政府の権威が無いように見えるが、幕府は精いっぱいの努力をして対処しようとしていると告げた。
 こうした話から再び鎖港の話に戻り、ゴシケーヴィチは「是非金川のみ閉鎖被成候義は了解難仕、逐漸長崎・函館へ及候義は眼前に御座候」(34)と、横浜港のみの鎖港は受け入れ難く、しばらくして長崎・函館にも及ぶというがそれはもう目前に迫っていると主張した。これに対し、柴田は「金川は江戸近々地にて右輩注目致候場所故、此地々(ママ)閉鎖致度、長崎・函館は隔絶の地故決て左様の義は無之候」(35)と、横浜は江戸に近いこともあり、攘夷派が注目しているところなので、この地を閉鎖するが、長崎や函館は離れているので、鎖港には及ばないだろうとした。
 ゴシケーヴィチは「鎮圧方を先とし閉鎖御談判を後と被成候方可然、鎮圧難被成義に候はゞ鎖相成候共無詮存候」と、鎮圧を先とし、鎖港談判を後とするのはわかるが、そもそも鎮圧がうまくいかなければ鎖港は出来ないのではないかと述べたことから、外国人殺傷事件を止めるのが先で、そうでなければ次の段階の話はできないと考えていることがうかがえる。これに対し、柴田は「閉鎖談判を後にし鎮圧方を先と致候ては、徒らに人心に激候のみにて、却て擾乱を醸の基と可相成候に付、閉鎖談判を先にし漸々鎮圧方に及ぼし候方都合可然存候」(36)と、柴田にとっては横浜鎖港=人心回復であり、横浜鎖港が出来れば、外国人殺傷事件もおさまると考えている。よってこの2人の考えの順序は違うので、話し合いは平行線をたどることになる。
 この後、平行線をたどった話は竹内使節団がロシアに来た時に国境画定のため、ニコラエフスキーに委任の者を派遣する予定になっているが、日本側はいつ派遣するのかという話題になり、柴田は4月頃から9月迄の間であれば渡海は差し支えないとした。
 1回目の談判から横浜鎖港について両国の意見が激しく衝突している。談判の節々を見ると、両国とも鎖港はほぼ不可能であるとわかっていながらも柴田は任務のため尽力しようとしていることがうかがえる。なお、この談判についてはゴシケーヴィチがロシア暦1864年3月31日付でアジア局(局長イグナチェフ)宛に送った書簡が伊藤一哉氏によって一部ではあるが紹介されている(37)。紹介されている文を検討する限り、柴田の談判書と内容は同じであることがうかがえる。
 元治元年2月29日、柴田は「第一時頃同様魯館江談判ニ行く此方談じハ一段落済彼より兌換銀増額、海岸地所、借受之儀申出、且明よりは祭日ニ付一杯を勧度趣ニ付、(中略)来會候様申聞る第四時頃寄宿」(38)と記している。この日の談判は横浜鎖港に関する記述は見当たらない。そして、ロシア側は交渉をしたいのかどうか疑わしいような感じを受ける。また、この日、「監察よりも同断並滞留日数等之義ニ付書状差越す」(39)とあり、箱館滞在期間についてうかがいをたてている。この日、2度目の対談が行われた。柴田は、「(前略)長崎表は御国従来通商の地に有之候へば、其土に居住致候者は左迄外国人を嫌忌候様子も無之、其辺を以察候に、全通商の利益を知よりの事に可有之歟、左候へば即今横浜御鎖港被成より、却て他港等御開被成候様の御盛挙も候はゞ、自然外国の事情をも弁知可仕、人心も随て一変可致候得ば、却て人心鎮静方の御方略と相成可申候。(中略)其内政府にて盛に御開港相成候へば、国民通商の利益有を知り、後には貿易の盛に不成を憂るに至可申候。(中略)兎角に通商等御取縮めの義は詰り国の衰微を招き候ものに有之候。左候へば、貿易の利益たる事、上政府は勿論下万民に至り候迄莫大の利益有之義にて、理と勢如此に候へば、鎖港の御談外国々え申遣し御周旋の義は何分難出来義に有之候。(中略)仮令戦争及候共御勝算も可有之、私考候処にては御国より五十倍の強国と被存候。(中略)御承知の義とは存候へ共、魯国義は交易の廃否に付損益は無之候。(中略)私於て鎖港の義御差止申上候は、損益に不抱(拘カ)只々至当の理を以申上候義に有之候。鎖港の義外国々にて承允無之、魯国のみ異存無之段申上候上は、上海に差置候魯国船等も是迄横濱へ来往致通信の事に相用候処、以来右様来往の義難出来候ては甚不都合に有之候(後略)」(40)と説明した。ゆくゆくは交易で盛んになることはわかるが、今のご時勢では鎖港が妥当と判断している。更に、柴田は「(前略)被申聞候通り諸港を開き交易を盛に致候はゞ国々の為にて、鎖港は却て国の不為との段一と通尤には候へ共、此方にて心痛いたし候は、我国内のもの外国の情態を弁知し交易の利益を存候様致候為、即今諸港を盛に開候はゞ、外国の情も不弁交易の利をも不存以前急遽に浪輩の暴発は顕然に有之、(中略)一時横濱鎖し暫く旧制に復し候様の手続を以徐々に鎮静の方略を施し、漸次に開港を目論見候はゞ、内乱外患等の掛(ママ)念も無之、(中略)漸を以開候と急を以て開候との相違有之迄にて候」(41)と述べた。柴田は開港が早いか遅いかの問題で、開くことに変わりはないとした。そして、柴田は「其許被申聞候趣にては横濱鎖港の義、貴国にて異存無之上は、貴国の船舶同所え出入不相成様の義と被存取候へ共、左様には無之、各国にて鎖港談判承允有之惣体商議確定の上ならでは、貴国のみ承知の挨拶有之迚他の国々に不拘貴国の船出入不相成と申訳には無之候」(42)と、各国の船同様ロシアにも同様の処置をするとした。これに対し、ゴシケーヴィチは「(前略)責て魯へのみ周旋有之様被成度趣に候へ共、各国にて承允無之内は魯国のみ承允の義は難出来候。且私職掌(に)於ても各国の議論を差置、魯国のみ横濱鎖港致候様申遣候義は是亦難出来候」(43)と、各国が認めないものはロシアでも受け入れがたいと主張した。
 柴田は「(前略)各国にて使節鎖港談判に渉り候節、貴国にては我内の情実を熟察有之異存無之承允有し赴を以弁論致し候へば、右談判の都合万々宜敷義に付、夫等の辺を以申入候義に有之、且貴国へも使節順行(ママ)相成候事故折入頼入候事に候」(44)と、使節団が各国で交渉をするので、協力してほしいと述べた。その後、ゴシケーヴィチは使節がいつ、どこの国の船を使って出発したかを問い、柴田は返答した。
 そして、柴田は「何れにも今般談判及び縷々申入候次第、乍手数其許より貴国政府へ曲さに被申通貴国(に)於ては鎖港の義に付、更に異存無之様致度、尤拙者共(に)於ても其許見込と其趣意に相違は無之、只各港開市の義に付急と緩との相違有之のみに候」(45)と述べた。ここでも柴田は開港開市が早いか遅いかの違いだと述べるにとどまっている。これに対し、ゴシケーヴィチはイギリス特命全権公使オールコックとフランス全権公使ロッシュが戦争をする構えがあることを述べ、「左候へば各国政府(に)於て御使節談判には取合不申、御国へ差渡置候者へ委任致置候間、其者へ御談判可有之とのみ可申上候」(46)と、各国政府は使節団との談判には応ぜず、日本にいる公使に委任するだろうと告げた。すなわち、外国へ行ったところで交渉の失敗は目に見えているということである。
 柴田は「素々政府(に)於て一図に鎖港を好候訳には無之、懇親永続を計り候真心より出候義に候間、其辺篤と了察被致、兎に角今般の談は貴国へ被申通度候」(47)と述べた。柴田は鎖港は本意ではないが、懇親永続を願う心からやらざるを得ないとした。これに対しゴシケーヴィチは「横濱開港以来各国(に)於て同所へ建物等も有之候へば、万一鎖港御談承允仕候共、右等の御償金莫太(ママ)の義可申出其節は悉皆政府の御入費と奉存候」(48)と述べた。鎖港をした場合、様々な補償をしなければならず莫大な償金を支払わなければならなくなるだろうと指摘している。
 柴田は止むを得ずこのような話をしたといい、ゴシケーヴィチは鎖港よりも厳しく浪士を取り締まるべきだと主張した。その後、話は平行線をたどり、ゴシケーヴィチは領事館引き換え銀について談判を申し入れた。柴田は各国と照会した上で判断すると告げた。その後、ロシア領事館の移転場所と引き換え銀に関する談判がなされ、この日の談判が終了した。
 3月1日、柴田は「此日魯コンシュルより申出候二件事ニ而濃州より文通せし、出懸ケ御役所江江連俣々立より当儀夫より午下一時此魯館江(中略)濃州一同行く、本日は更ニ談判無之享応(ママ)而巳也、(後略)」(49)と記している。ここで出てきている「濃州」とは箱館奉行小出美濃守秀実のことであり、この日は箱館奉行がロシア領事館を訪れている。柴田らは饗応を受けている。
 同2日、柴田は英・仏・米領事と会談を行った。この時、駐日箱館イギリス領事ヴァイス(J.Howard Vyse、前駐日神奈川イギリス領事)との対談内容がわかっている(50)。最初にヴァイスは英国商人と日本の商人は相対貿易ではないので、これを改善して欲しいと述べた。柴田は、仲買貿易に何の不都合があるのかと切り返した。ヴァイスは店の主人ではなく主人の代わりとなる人物と取り引きするのが不都合だと述べた。柴田は主人と取り引きするのはもっともなことだが、仲買の者と行違いがあった場合の損耗は激しいので何とも言い難いと述べた。ヴァイスはデント商会とその他の日本の商人(福島屋や長崎屋)の主人の調印は難しいということなので仲買の者の調印を貰った事例があると指摘した。柴田はどのような手違いがあったか篤と箱館奉行と談判に及んだ方がよいと主張した。ヴァイスは仲買や番頭は謝礼金として2分5厘ずつ貰っており、ほかの港ではありえないことだと主張した。柴田はこれに対し、箱館奉行と委細談判するよう促すだけだった。ヴァイスはそれが辱めを受けているとし、自国の者は居留地にいるが、兼ねてより望んでいる場所の貸し出しはいつになったら出来るのかと述べ、このままでは埒が明かないとした。柴田はその件は何度も奉行と話し合っていることではないかと述べた。ヴァイスは絵図面で望みの場所を指し示しながら、領事館の地税に兼ねて公使に申し送っているが、何の音沙汰もないと述べた。柴田はニールがオールコックと交代したばかりで、対応に追われているのだろうから、オールコックが戻ってきたら再び談判に及ぶとした。ヴァイスは絹糸の取り引きに付き、プロイセン商人ガルトネル(R.Gærtner)という商人が南部商人と5千ドルの取引をしたことを述べ、甚だ迷惑であるから、箱館奉行所に取締りの強化をして欲しいと要求した。柴田はその事件は配慮しているが、近日の内その消息もわかるであろうと告げた。最後にヴァイスは漂流船が松前に入った時、手厚く扱ってもらったことに対してお礼を述べた。柴田は互いに救助するのは勿論であると述べた。
 この会談からイギリスとは貿易摩擦が起こっていることとガルトネルに手をやいている様子がうかがえる。柴田の回答は苦しいものになっている。
 翌日、柴田は米館に招待されている。この時の対談内容は以下の通りである(51)。駐日箱館アメリカ貿易事務官ライス(E.E.Rice)は、柴田に絹糸の外国人への売込高をしたためたため、取替の証券を指し示したところ、書中には仙台南部そのほか諸侯には直に売買致すという文面で不都合だと思われるが売主の身元を糺してほしいと要求した。また、新規領事館の建設地についても話題を挙げた。柴田は、海岸地所については少々目論見があるとし、早急に返答はできないとした。恐らく海岸線は海防が絡むため、海岸の地所移転は難しいというのだろう。そして柴田は、この新築の入用は領事の方で出すのか、それとも政府の方で出すのか、と尋ねた。ライスはこれに対し、横浜表同様に右入用を差し出しても良いかと尋ねた。柴田は、何れにせよ地所のことは箱館奉行の進退にあることなので、相談をする方が良い、とした上で、不日奉行が各国領事たちと面会し何とか治定しようとしていると告げた。この日の対談は生糸の売主人の身元の問題と新領事館移転問題の2点であった。同4日、柴田は箱館の町の巡見を行った。
 同5日、柴田は「魯岡士対話記二冊を達控之分とも差立候」(52)と記し、この日、ロシア領事と2冊の談判書(2月28日、29日分)を取り交わしたことがわかる。更に、柴田は「今般当地立留魯岡士談判書記写し候分御使江遣し候積り一書を受致し監察江連も同写書差越ニ付、来而太左江測封いたし」(53)と記している。このことから、写しは江連にも廻ったことがうかがえる。
 同6日、柴田は「過日魯岡士一行江役ケ所割合銀江連より差越ス」(54)と記している。江連はロシア領事に割合銀を持ってきたことがわかる。ゴシケーヴィチは日本側から銀を借りて返さない状況が続いていたため、そこも日本側に指摘されたものと見られる。そして、「第一時より江連共之支配向一同魯館江行キ渠より申立候兌銀増額並居留地所之義返答およひ且欧州御使江之写書一封達方を頼ミ候帰途彼方之病院一見第四時過帰宿」(55)としている。ここで初めて池田使節団に関する記述が日記に登場する。明日、イギリス領事館やフランス領事館、アメリカ領事館に向かうという記述も有、柴田はロシア総領事を中心に現地にいる外国領事たちとも談判を進めようとしていることがうかがえる。この日、ロシアと最後の会談がなされた。柴田は、この辺りでそろそろ暇乞いさせてもらいたいと告げた。これに対し、ゴシケーヴィチは余りに早々すぎるが、「明後日御入来被下候はゞ、写真仕御覧の入度候」(56)と、明後日に来たならば、写真を撮影するとし、実際に写真撮影がなされる。柴田は文久使節団の際に写真撮影をしており、写真にも興味があったものと思われる。柴田は「忝は候得共、拙者共公務相済候上は、早々帰府の上復命致度候間、尚再会の期に譲可申候」(57)と述べたが、後述するように、柴田は写真撮影の後、箱館を離れることとなり、ゴシケーヴィチもその後まもなく箱館を離れ、帰国する。更に柴田は引替銀の件については「当所奉行と相談の上、当分の内定額引替高の上え、壱ヶ月五百弗宛相増候様取計ひ申候」(58)という約束を取り付けた。ロシアが箱館に来てから、引替銀の問題はずっとつきまとっていたようで一応、柴田の提示によって進展したこととなる。ゴシケーヴィチはこれに対し、感謝している。
 柴田は「縷々謝詞の趣了悉致候。外国々にては迚も周旋難出来義に候得共、過日も申入候通、魯国義は格別の国柄にて、以後情款懇切の義相望候間、右等の廉を以取斗候義に付、此上共我政府の為尚懇親尽力の義預所に候」(59)と、ロシアは格別の国柄であり、今後の懇親も期待できるので取計らってほしいと告げた。ゴシケーヴィチはまずイギリス領事は政府を欺いており、オランダ領事とポルトガル領事を兼任していると指摘し、信用が置けないと柴田らに語った。箱館にオランダ領事の資格を持ったものは確認できておらず、ポルトガル領事はデント商会の商人ハウエル(Alfred Howell)が勤めており、名誉領事であるとともに、イギリス系商社であるため、イギリスの影響を受けているのは当然といえよう。柴田はこれに対し、「只今英国岡士ワイスの義に付云々被申聞候へ共、右は横濱表在留の岡士等にも他国の岡士兼任致候もの儘有之候」(60)とし、一体この事例は公使から任命されているのか、それとも本国政府から任命されているのかと尋ねた。幕府も新政府もこの後、商人が領事になることについて、好ましくないと考えるようになっており、柴田はこうした問題に一早く情報を得ていたことがうかがえ、実際に外交交渉の場で尋ねていることがうかがえる。これに対し、ゴシケーヴィチは「其国在留のミニストル有之候へばミニストル選任致し、ミニストル無之候へば政府より選定致候義にて、夫も両国同意に無之候ては難出来既に魯国(に)於て支那香港の岡士相定候処、英国(に)於て不承知に付引替候例も有之、初て其国へ岡士差渡候節には、本国政府より岡士に選任致し差渡候趣書簡を以申入候義に有之候」(61)と領事任命システムについて、柴田にレクチャーしている様子がうかがえる。柴田はこれに対し、「左候得ば、英国岡士にて葡蘭岡(ママ)任致候は各其政府より任候義にて、若岡士不束に候はゞミニストルに掛合、ミニストル無之候はゞ本国政府え掛合可申遣候哉」(62)とゴシケーヴィチに確認している。ゴシケーヴィチはその通りだと返答している。柴田は更に質問を続け、「右掛合の節には岡士不束の廉々一々可申遣候義に候哉」(63)と確認をしている。ゴシケーヴィチは「廉々一々被申遣候迄には及不申、只今右様の岡士差渡置候ては両国の為不宜候間引替可申旨を以掛合候義に有之候」(64)と返答している。柴田は本国政府からの委任状を見せてもらっても問題ないかと問い合わせると、ゴシケーヴィチは問題のないことだが、最初に委任状を指し示すはずだと述べた。柴田は、改めてイギリス領事の兼任のことについて横浜のイギリス公使が承知しているのか、と尋ねた。ゴシケーヴィチは承知しているが、ロシアでは「尤魯国(に)於ては他国岡士兼任の義は不相成規則に有之候」(65)とロシアでは他国領事を兼任することは規則上認められていないと返答した。その理由は複数兼任すると、売り上げのことなど、どの国にくみするのかわからず曖昧になる可能性があるためだとした。即ち、ロシアは自国の利益を優先するため、他国の領事を兼務し、自国の利益に直接つながらない可能性のあるものについては認められないというのである。そこで、ゴシケーヴィチは柴田に領事委任状を指し示した。その後、柴田は今後ポルトガル領事にイギリスの商人が兼務する可能性があることを示すと、ゴシケーヴィチは本国から申し遣わされていれば問題はないと答えた。柴田は、商人の中にはけしからぬ行為をする者もおり、信用が置けないと主張した。ゴシケーヴィチはそういう者は何れ取締られるため問題はないとした。
 柴田は慶応元年に横浜製鉄所労働者雇用と機械購入のため、フランスを訪問した際に、日本領事としてフランス商人エラール(Paul Flury Hérard)をフランス駐日名誉領事に任命し、幕府にも許可をとるといった経緯がある(66)。この時のゴシケーヴィチとの対談が少なからず生きたということだろう。
 話は変わり、次に問題となったのは領事館移転問題である。移転場所の絵図面を柴田は借り受け、確認したが密貿易を防ぐのが難しいため、早急な返答は難しいと告げた。
 そして、朱書で「此以下進達ニ不及候事」(67)とした談判書が残されている。ここではまずゴシケーヴィチが息子ウラジミールに日本語の師範を付けてほしいと過去に村垣淡路守範正に述べた経緯を説明した。ゴシケーヴィチは日本を離れるが、息子を日本語勉強のため、日本に置いておけば、日本の情報が入手しやすくそういう狙いもあるのだろう。この点は、シーボルト(Philipp Franz von Siebold)が息子のアレクサンダー(Alexander Georg Gustav von Siebold)を日本に置いて行ったことに通じるところがあるのだろう。ゴシケーヴィチは更に「本国政府より日本語習業の為め四人の者さし越置候。御国政府よりも魯語習業のもの本国政府に御遣被成候はゞ、語学のみならず其政態迄をも御分り可相成されば多少の御都合にも相成可然御義と存候」(68)と交換留学生を持ちかけている。柴田はこれに対し、「拙者共(に)於ても可然と存候間、往々は魯語習業のもの差遣度候」(69)と返答し、柴田も非常にこの計画には前向きである。
 これは後に箱館奉行所付ロシア語通詞志賀浦太郎からも幕府に上申書が出されており、最終的には小出大和守秀実を正使とする樺太国境問題交渉をする使節団に留学生を連れてロシアを訪れることとなる。
 この日の会談はこれで終わり、ゴシケーヴィチの案内で病院を見て退席した。
 同7日、柴田は江連と幕府への報告の打ち合わせを行った。その後、イギリス領事館に向かっている。しかし、対話の内容を見ると対話をしているのは由比と小人目付で、柴田と江連はこの会談には立会って居ないようである。恐らく、柴田は会談をする予定だったが、急きょ予定を切り替えたものと見られる。ここで、イギリス領事ヴァイスと会談を行った。その内容は次の通り。
 由比が今日は「貿易上の事に付」(70)談判をしたいと申し出た。柴田は貿易が「直様長崎え差贈り候趣、就ては長崎の義は遥々の路程にも候間、当地え差越候様仕度、当地へ差越候と長崎へ差贈候とは、道路の遠近多少の相違にも有之、旁双方都合宜敷義と存候間、御帰府の上は政府へも御建言被下、左様相成候様仕度候」(71)と述べた。柴田は長崎の貿易を推進しているが、これは横浜鎖港をしても長崎は開いているから大丈夫であろうという考えもあったに違いない。更に、由比は「今日は兼て約束の事故、日向守義も是非面会可及処、江戸表より品々御用向申越、帰府も殊の外相急ぎ、就ては多少の調物等も有之に付、面会相兼、同人(に)於ても甚遺憾に存候へ共、無拠今日面会の義相断候処、被申立候義も有之に付、拙者にても面会致度旨被申聞候間、即罷越候義に付、尚被申聞度件々有之候はゞ可承候」(72)と述べた。柴田が面会の場に現れなかったことに対して釈明を行っていることがわかる。これに対して、ヴァイスは「日向守様へ御面会不仕候は遺憾存候得共不得已義に候。左候へば御用向御申越と申は何事に候哉、諸藩へ関係の義に候哉」(73)と、柴田に面会が出来ないことは遺憾に思うが、何の用事で来たのかと由比に問い合わせている。
 由比は「左様の義には無之候へ共、急ぎの御用向品々出来候に付、無拠同人面会相成兼候事に候」(74)と述べた。再び柴田が面会できない旨を述べたようである。これに対し、ヴァイスは「前申上候義は書面にも認置候間、篤と御建言被下度候」(75)と、前の会談の内容は書面にとってあるので、篤と話し合いましょうと述べた。そして書面を差し出して、ヴァイスは続けて「右書面はミニストルえも差贈候間、御持参の上宜敷相願候」(76)と、書面は公使(代理公使ニール)にも差し送っているので、御持参のをしていただきたいと申し出ている。由比はこれに対し、「当港の義は当所奉行え相談可及、尚其上の処は日向守帰府の上にも建言致可申と存候」(77)と、回答をはぐらかしている様子が見受けられる。これに対し、ヴァイスは「金川表(に)於ては商人取引の節前金不相渡候との事に治定相成居候義は御承知に候哉」(78)と、神奈川において商人取り引きの際、前金を渡していないという取極めは承知しているとした。由比はこれに対し、「右は承及候義も有之候へ共、同表は主役に無之候間、と相心得不申候」(79)と回答した。ヴァイスは柴田がすでに理解していることで、前金を渡して様々な問題となるので、神奈川同様の振り合いで箱館でもやってほしいと告げた。由比はもともと商売は相対で、政府や役人が携わるものではないとした上で、政府でも検討すると告げた。ヴァイスは「アールコツク佛国公使共相談の上、執政方へ申上の上、右様取極相成候間、同様相願度候。右は一八六一年十月十二日取極候事に候」(80)と述べた。このことは、オールコックとフランス公使ベルクールと相談の上、老中へ申し上げ、取極めてもらうようお願いする。そして、1861年の取極めは現段階で確認ができない。由比はこの件については、篤と柴田と話し合うように促した。ヴァイスは「前金不相渡約定相成候共、約定通り不参候ては矢張双方の手数に付左様無之仕度候」(81)と、前金を渡さないと云う約束も守られていないのでは意味がないとしている。由比は「既に南部商人生糸の義に付差縺れ等も有之由故、左様相成候はゞ右等の差縺れは有之間敷、都合可然と存候」(82)と、南部商人の件について、都合然るべきと存じ候とだけ答えている。この時、通弁名村五八郎が書面を見て、大意を述べた。名村は「前金不相渡義は、岡士館觸書にて則日本商人より金子不請取内品物相渡候共、品物不請取内金子相渡候得共、左様の事にて差縺れ候義有之節は訴出候共、岡士(に)於ては不取上候事」(83)と、日本商人から金子を受け取らず品物を渡し、品物を受け取らず金子を渡したら訴え出て、領事館では取上げないようにという考えを述べた。名村の一文は朱書きであり、名村個人の見解が入っていると見られる。ヴァイスは「何れともアールコツクより岡士え達しにて夫より商人相触候義に御座候」(84)と、オールコックから領事へ達してそれから商人に触れを出すとした。由比は「右は政府より日本商人え触置候よりも、外国商人方にて前金不相渡品物取引相成兼候自国商人と約定不致候はゞ差支無之事と存候」(85)と、政府から日本商人へ触れるよりも外国商人の方で気をつけて商売をすれば問題ないとした。ヴァイスは箱館でも長崎屋・山田屋は豪商であり、「何れも前金無之ては取引不仕候故、既に昨年中山田屋壽兵衛と取引の義に付差縺れ出来候義も御座候」(86)と述べた。日本商人とのいざこざが相ついでいる様子を伝えている。由比は詳しくは柴田へ申し出るよう述べた。また、由比は2、3日前オールコックが神奈川へ到着したが、噂に成っている事件はないのかと尋ねると、ヴァイスは貸渡地の件については早速話し合いが持たれるだろうと述べた。この地所については、由比は柴田から箱館奉行と会談を行ったと返答し、ヴァイスは箱館が江戸から見ると、隔絶の地なので早々に検討して欲しいと述べた。由比は承知したと告げた。
 今回の話し合いはガルトネル事件が大きく関係しており、日本の貿易のあり方の見直しがなされている。
 更に、箱館奉行小出に招かれて柴田と江連は宴会に招かれている。この日、ゴシケーヴィチから柴田らに贈品が届けられている(87)。
 同8日、柴田は「江連より文書を以時魯より此方同品贈り越候申来ル同しく受納之積り返書を遣す」(88)と記している。前日のゴシケーヴィチからの贈品に対して、受納したことを伝える返書を送っている。更に、「本日魯館尋問可致左も無之候へハ今ハ閑段無拠之積り申遣ス」(89)と記している。ロシアとの対談がなければ、意味がないと感じている。また、柴田は「本日魯館尋問之ため同岡士より浦太郎を以聞合ニさし越ス前書之趣を以程能申入願様談じ遣ス」(90)と記している。ゴシケーヴィチは通詞の志賀浦太郎を遣わして前書の通り談判するとしている。その後、フランス領事がやってきて名刺を提出したようである。更に、柴田は「魯並英岡士太左衛門談話記貮冊詰甚相来(後略)」(91)と記し、談話書が2冊送られてきたことがうかがえる。そして、「陣右衛門来リ魯館之行止を願聞合遣す」(92)と記している。陣右衛門なる人物からロシア領事館に行かないよう告げられたことがうかがえる。
 同9日、柴田は名村五八郎、平山謙二郎や小出秀実ら箱館奉行衆に別れを告げている。また、由比に船の調達を命じている。そして、柴田は「魯館江告別ニ行く。写真具を設ケ直一郎之写真を乞ふ。第二時此より五時頃迄談話夫より又々江連同行鎮臺江告別ニ行く」(93)と記している。この日、柴田はゴシケーヴィチに別れを告げ、箱館奉行をつとめた竹内下野守保徳と共に箱館に渡って以来、箱館に住んだ勘定奉行普請方庵原菡齋長男庵原直一郎時敬と思われる人物に写真を撮影してもらったようである。また、柴田のもとに志賀浦太郎が来てサンクトペテルブルグに留学生を派遣する計画を打ち明けている(94)。ただし、この写真は現在どうなっているのかわからない。
 同10日、柴田は「魯館兌銀増額之義箱館方江直之義聢与申談」(95)とし、ロシア領事の求める兌換銀に関しては箱館奉行に任せることにしたことがうかがえる。そして、この日、柴田らが乗船する船が決まり、亀田丸で帰ることとなった。亀田丸は文久元年に武田斐三郎を中心として箱館奉行所が単独でアムール地域を調査した船である。
 以上のことから、柴田の交渉は次の時代を見据えたものとなっていることがうかがえる。それは、ロシアとの交渉の中から、樺太国境画定交渉や留学生派遣などの政策が実現するところにあるといえよう。

3、柴田らの帰府

 柴田らは元治元年3月10日、亀田丸で箱館を出港した。翌日には、青森に到着している。
 同12日、由比太左衛門がロシア領事館の兌銀増額案に関する書類を届け(96)、翌日、柴田のもとに届けられた。同14日から同21日まで青森に滞在した。同21日朝、青森を出発し、小湊を経て野辺地まで陸路を使用している。同22日、天椅館(天間館)を経て、七戸へ至る。同23日、藤島を経て五ノ戸(五戸)へ至る。同24日、浅水を経て三ノ戸(三戸)に到着。同25日、金田市を経て一ノ戸(一戸)へ至る。同26日、小繋を経て沼宮内へ至る。同27日、渋民から森岡(盛岡)へ至る。同28日、郡山から花巻へ到着、同29日、黒澤尻から水澤を通過。同30日、一ノ関(一関)から金成に至る。
 4月1日、高清水から三本木を経る。同2日、吉岡へ至る。同3日、塩竃(塩釜)から國部町へ出ている。同4日、岩沼から大河原へ至る。同5日、白石から桑折へ到着。同6日、福島から二本松に至る。同7日、郡山から須賀川に到着。同8日、矢吹から白坂へ至る。同9日、鍋掛から太田原に到着。同10日、氏家から雀宮に至る。同11日、小山から栗橋を通過した。同12日、粕壁(春日部)を経て草加に至る。同13日、江戸に到着。行きと同じ道を通りながら宿場は一部変更されている。往復の限りを見ると、柴田は外交官として箱館に向かったので、船の利用を認めてもよいはずだが、実際にはそうはなっていない。この段階では、将軍上洛等に伴い、大坂へ向かう船は出ていたものの北へ向かう船の整備はなされていない。このことから幕府海軍の輸送船等の航路は初期の段階では極めて限定的にしか機能しなかったことがうかがえる。
 同14日、柴田は江戸城に登城し、老中板倉周防守勝静に面会し、報告を行っている(97)。この時、柴田は板倉へ「私儀箱館表より帰府仕候ニ付、御序の段御目見仕度、此段奉願候、以上」(98)と申し出ている。恐らく、この前後だと思われるが、柴田と目付江連は江戸城白書院縁頬替席で老中井上河内守正直らが列座して、「箱館表御用仕廻罷帰候」という理由で謁見し、更に外国奉行支配組頭由比が芙蓉間替席で老中井上と若年寄が列座して右同様の理由で謁見を行なっている(99)。
 同16日、柴田は箱館イギリス領事から江戸の総領事宛の品物を届けた(100)。
 同22日、柴田は「箱館御用ニ而受取候御朱印長持御用成物長持二棹本日御細工所江返納」(101)と記し、箱館に持って行った長持を返却している。恐らく、作事奉行に元箱館奉行で外国奉行もつとめた村垣淡路守範正がいたことから彼の忠告等も柴田にはあったのではないかと推測される。
 同26日、柴田は「箱館江召連し中小性着用品一式何レも受領せし度段」(102)と記し、この日、箱館に連れて行った小姓たちの着用品が返って来ていない状況がわかる。
 5月7日、柴田は「大和守殿東下貿易品定限之御談判せしよりて風評傳聞出り」(103)と記している。政事総裁職松平大和守直克が京都より戻って来て貿易品を定限する談判があったという噂が出たことをつかんでいる。
 同12日、柴田は「出殿大和守殿金川鎖港御用守立御取扱並生糸・繰残油輸出禁止談判筋評議等之儀三七衛門一同江御談せし」(104)と記している。松平直克は横浜鎖港に関して、前日の貿易統制の話をしたことがうかがえる。よって柴田のつかんだ情報は正確であった。同13日、柴田は「出殿時御談之儀同役評議之趣御直ニ申止る」(105)と記している。続いて、同役(外国奉行)で評議はすぐにとめられた。同15日、柴田は横浜に出張するに当たり、竹本隼人正雅に随従するよう老中板倉周防守から達せられた(106)。同16日、柴田は「第十一時過金港着程なく隼人正着合宿也」(107)と記しており、横浜に到着したことがわかる。それから、まず運上所に向かい英仏と長州について話し合いを行ったほか、アメリカ仮公使館(善福寺)焼失に付、談判を行っている(108)。
 同17日、柴田は運上所でフランス新公使ロッシュ(Léon Roches)と話し合ったほか、イギリス公使やプロイセン公使ブラント(Max von Brandt)とも会っている。
 11月26日、外国奉行竹本淡路守正雅・同菊池伊予守隆吉・同田村肥後守直廉・同柴田日向守・同星野備中守千之・同江連加賀守堯則・同井上信濃守清直は箱館在中ロシア総領事ゴシケーヴィチに対して、「(前略)當春柴田日向守并江連真三郎事加賀守、目付勤役の節其地え被差遣、其許え面晤の砌貴國其外國々え使節差遣候ニ付、周旋方等の儀頼入御引會の次第も有之候處縷々懇談の様も有之、然る処其後我國の景況一変し、右使節は被差上候事ニ相成我事務執政より其許え書翰差遣候、右は兼て懇談の趣も有之候間、拙者方よりも前文の様申入候(後略)」(109)と、ロシアに使節を派遣することを中止する旨を伝える書簡を送った。使節が実際に派遣されるのは慶応2年(1866)のことである。

むすびに

 柴田剛中は文久使節団に参加し、その功績も認められ、箱館に派遣された。ロシアは箱館に拠点を置く唯一の国だった。柴田はロシア総領事ゴシケーヴィチとの会談を経て、横浜鎖港を促したほか、ガルトネル事件等についても談判を行った。
 ロシアとの会談で重要な点はすでにこの段階で留学生派遣の件が話されていたことである。これは後の小出使節団、及び留学生派遣につながることであり、柴田との談判が幕府政治に着実に結びついた点である。
 また、この時、柴田は写真を撮影したが、この写真は現在行方がわかっておらず、この写真が今後どのような形で見つかるのか、注目される。
 柴田が外国奉行となって行った初の外交交渉は、日本の方針を説明しながら、ロシアの要求も容れるというようにバランス感覚に優れていたことがうかがえる。また、柴田個人はロシアとの強い結びつきを持つ出来事になったといえよう。それは柴田が横須賀製鉄所の機械購入に当たり、ロシア製の器械を導入すべきであると主張したこと(110)からも明らかといえよう。
 以上のことを踏まえると、柴田はどちらかというと、「親露派」の幕臣であったといえよう。また、柴田がロシア総領事にも横浜鎖港の件について理解を求めに行ったことは少なくとも徳川幕府が条約締結国に対して、協調外交を行おうとするものであり、横浜鎖港そのものは政策としては失策といえるが、協調外交を行おうとした姿勢は評価できよう。


(1) 文久使節団については、拙稿、「文久竹内使節団の人選過程について」(『東海史学』第43号 2009年)、同「文久二年の竹内使節団によるフランス訪問の意義について」(『開国史研究』第10号 2010年)、同「竹内使節団のプロイセン訪問の意義について」(『湘南史学』第20号 2011年)、同「文久二年の竹内使節団のオランダ訪問の意義」(『湘南史学』第21号 2012年)、同「文久竹内使節団のイギリス訪問の意義」(『湘南史学』第22号 2013年)を参照していただきたい。
(2) 『続通信全覧』類輯之部三四、770頁
(3) 柴田剛中『日載』五(『柴田剛中文書』九三 神戸市文書館所蔵)
(4)(5)(6)(7)(8)(9) 前掲、『日載』五
(10) 「魯西亜外国事務執政宛幕閣連名書簡写」(『柴田剛中文書』一四八 神戸市文書館所蔵)
(11)(12) 前掲、「魯西亜外国事務執政宛幕閣連名書簡写」
(13)(14) 前掲、『日載』五
(15) 「柴田日向守為御用従江戸奥州筋箱館迠人馬可出旨宿次証文」(『江戸城多門櫓文書』多041676 国立公文書館所蔵)
(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27) 前掲、『日載』五
(28) 「柴田日向守箱館行御用留(抄)」(『函館市史』史料編第一巻 1974年)、828頁
(29) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、829-830頁
(30)(31)(32) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、830頁
(33) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、830-831頁
(34)(35)(36) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、832頁
(37) 伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』 吉川弘文館 2009年 243-246頁
(38)(39) 前掲、『日載』五
(40) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、834-836頁
(41)(42)(43)(44) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、836頁
(45)(46)(47) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、837頁
(48) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、837-838頁
(49) 前掲、『日載』五
(50) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、840-842頁
(51) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、842-843頁
(52)(53)(54)(55) 前掲、『日載』五。
(56)(57)(58) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、843頁
(59)(60)(61)(62) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、844頁
(63) 前掲「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、844-845頁
(64)(65) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、845頁
(66) 柴田のフランス派遣のいきさつとフリューリ・エラール任命の件については、拙稿「柴田使節団の派遣と任務、及び帰国後の動向について」(『開国史研究』第12号、2012年)を参照。
(67) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、847頁
(68)(69) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、848頁
(70)(71)(72)(73)(74) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、849頁
(75)(76)(77)(78)(79)(80)(81)(82)(83)(84) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、850頁
(85)(86) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、851頁
(87)(88)(89)(90)(91)(92)(93)(94)(95)(96)(97) 前掲、『日載』五
(98) 「箱館表ヨリ帰府仕候ニ付御目見奉願候書付」(『江戸城多門櫓文書』多015702 国立公文書館所蔵)。
(99) 「箱館表御用仕廻罷帰候外国奉行柴田日向守・御目付江連真三郎於芙蓉間謁候儀ほか書付」(『江戸城多門櫓文書』多702372 国立公文書館所蔵)。
(100)(101)(102)(103)(104)(105)(106)(107)(108) 前掲、『日載』五。
(109) 「横浜鎖港一件」『続通信全覧』類輯之部一七 貿易門 140頁。
(110) 前掲、「柴田使節団の派遣と任務、及び帰国後の動向について」で筆者は柴田がロシア製の器械を横須賀製鉄所に入れることを提議していることを明らかにした。

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号 史料紹介

魯西亜から来た日本人 ―善六と函館

2015年2月16日 Posted in 会報

大島幹雄

ゴロヴニン事件解決200周年と石巻を結ぶもの
 高田屋嘉兵衛が活躍したゴロヴニン事件のかげに、もうひとりの日本人がいたことはあまり知られていない。ロシア側の通訳として交渉の場に立ち会った善六である。今日は函館と私の故郷である石巻を結んだひとりの日本人、「魯西亜から来た日本人」ピョートル・キセリョフこと、日本名善六の話を拙著『魯西亜から来た日本人――善六物語』に沿って話したい。

 いまから220年前、1792年11月に石巻の米沢屋平之丞所有の千石船若宮丸が、米と木材を積んで江戸に向かう途中に嵐にあって漂流、太平洋をおよそ6ヶ月漂流したあと、アリューシャン列島の島に漂着する。このあと漂流民は一年間ナアツカという島ですごしたあと、この島にいたロシア人たちによってオホーツク、そのあとヤクーツク経由でイルクーツクまで連れていかれる。石巻を出たとき乗組員は、16名であったが、イルクーツクまでたどり着くのは14名だった。このなかのひとりが善六で、彼はイルクーツクに着いた直後にロシア人に帰化している。
 この若宮丸漂流民の足跡は、帰国した4人の聞き書き記録『環海異聞』でたどることができる。『環海異聞』は蘭学者大槻玄沢が江戸の仙台藩屋敷で、帰国した漂流民たちから聞いたことをまとめた記録だが、この写本は、このあと全国中に流布していく。なぜかというと、ゴロヴニン事件の原因となったロシア船によるエトロフ・クナシリ襲撃事件のあとで危機感をもった各藩、特に沿岸諸藩が、ロシアについて、またロシア側を怒らせることになった事件の真相を知るために、こぞって『環海異聞』を取り寄せ、写本をつくっていったからだと思われる。

善六の人物像
 善六を見ていくとき、重要なポイントとなるのは、彼がいち早くロシア人に帰化していることと、そしてロシア語がよくできたことだ。このことを踏まえ、亀井高孝は『大黒屋光太夫』のなかで、次のような人物像を描いている。

 「商人らしい小悧巧(りこう)さがあり、船乗りらしい素朴さがかけていたが、異境の周囲に順応する才能があり、ともに語学がすぐれてロシアの役所その他で公私の掛合事や文書の作成などに長じていたので、他の漂流民らが近付いていけなかったからであろう。」

 彼のロシア語だが、帰国するときに乗船したロシア初の世界一周就航船「ナジェージダ」号の中で、この遠征の総責任者ニコライ・レザーノフと一緒に日ロ辞典をつくり、さらには公文書の翻訳をするなど、他の人に比べて抜きんでていたことがわかる。
 私は石巻日日新聞で連載していた小説「我にナジェージダあり」の中で、善六という男のアウトラインを次のように設定した。
 江戸で小間使いのようなことをした経験をもち、石巻にいたところ再び江戸から呼ばれ、江戸に行く途中で遭難した。デラロフという露米会社の支配人に気に入られ、日本とロシアの橋渡しをするように勧められ、帰化を決意した青年で、同年代の太十郎とは親友であった。

レザーノフの辞書と善六
 レザーノフとつくった辞書をよく見ると、善六の通訳としてのセンスの良さを見いだすことができる。
 「彼ら日本人は平民であり、抽象的、概念的、描写的な言葉は、彼らの知識のなかにはなかった」とレザーノフが書いているが、国が違う人間同士で話をするなかで、理解することが難しいこの抽象的な言葉を、単語は知らなくても、自分なりに理解した言葉に置き換えようとしている。
 例えば、次のような言葉を彼はこんな風に訳している。

クニノフデゴザリマス   習慣
ハズカシイ   良心
テンカサマノカネ   国庫
ワラシデゴザル   青春
ウズゥウズゥミマシテモ(鬱々みましても)   夢見る
アタマノアブラ   脳味噌
ハナタカクシマシテモ   誇る
セダシマシテモ(精だしましても)   努力する
イヌコチャン   犬の指小形
タビノヒト   異邦人

 最後にあげた異邦人を意味する言葉を「タビノヒト」と訳した善六は、自分の運命をそこにダブらせていたのかもしれない。漂流して、異国にたどり着き、ロシアに帰化しながらも、自分はあくまでも日本人である、旅人のように彷徨うことが、異邦人の宿命なのだという思いがあったのではないだろうか。

その後の漂流民
 漂流民4名が帰国を希望して、ナジェージダ号に乗って、およそ1年かけて世界一周をしながら1803年9月に長崎に着いた。善六は通訳としてこの船に乗り込んでいたが、最後の寄港地となったペテロパブロフスクで、レザーノフより下船を命じられる。ロシア人に帰化した善六の存在が、日本との交渉の時に不利に働くという懸念からだった。善六はこの港でレザーノフたちがもどって来るのを待つことになった。
 漂流民は半ば幽閉状態で、長崎で1年以上過ごすことになる。日本とロシアの交渉も、通商を求めるロシアに対して、日本側の二度と日本に来ないようにという回答はレザーノフにとっては屈辱的なものだった。ナジェージダ号は、長崎来航からおよそ半年後に長崎をあとにする。
 漂流民のひとり太十郎は、自ら喉を突き刺すという事件をおこす。通説では幽閉状態に絶望しての自殺といわれているが、私は「我にナジェージダあり」の中で、沈黙を正当化するため自ら選んだ道という解釈した。
 4人は1805年2月に故郷に帰った。

五郎次と善六
 レザーノフから交渉失敗の話を聞いたあと、イルクーツクに戻り、日本語教師として働く善六が再び表舞台に登場するのは、函館とも縁の深い中川五郎次が関わっている。
 ロシアにだ捕された五郎次は、ヤクーツクにいるとき、善六からの手紙を受け取る。ここには次のようなことが書かれてあった。

 「大明(大名)、おま衛(おまえ)のことをおもへ(思い)ます。日本のくにへおくりとどけたく、またもつて、此の方へまゐり候得ば、日本の人たくさんにござります。いる加うつか(イルクーツク)と申(申す)じやうが(城下)におめにかかりましやう。ぞう(そう)ぞう此方へくるよふに。どんばんなしに(心配しないで)」

 イルクーツクに着いた五郎次は、善六の家で59日間暮らすことになる。
 五郎次の聞き書き『五郎次申上荒増』を読むと、善六の家がアンガラ川の河口近くにあったことや、ほかの若宮丸漂流民についての報告も含まれている。
 その後五郎次は1812年2月リコルドに連れられペトロパブロフスクに向かうが、『五郎次申上荒増』のなかで、リコルドが自分の非協力的な態度をみて「善六を召し連れてこなかったことをいつも後悔していた」と語っている。

海を渡った種痘術
 ロシアから帰国するにあたって五郎次が種痘医学書『オスペンナヤ・クニーガ』を持ち帰っていた。さらに五郎次は、1824年、松前で天然痘が流行したときに、自ら採取した牛痘を接種することに成功。日本で最初に種痘術を紹介した人物となった。
 『五郎次申上荒増』で五郎次は種痘術との出会いについて「道中の途中で商人の家に一晩厄介になったとき、ロシアの本がたくさんあったので、それを見ていたら、そのなかに『ヲスペンネエ・ケニガ』(天然痘の本)と書いた本があった。その商人に頼んでこの本を貰い、ヤクーツクやオホーツクで医者に付いて歩き、種痘法のやりかたを覚えた」と書いている。
 五郎次の話を信じれば、イルクーツクからの帰りに偶然種痘術の本を見つけたことになるが、私は彼が、イルクーツクにいるときにこの本を入手していたのではないかと思っている。そしてそれは善六の家にあったか、もしくは善六から教えられて購入したのではと思っている。

函館交渉
 日本側にだ捕されていたゴロヴニン解放のための最終交渉となる、リコルドにとっては3回目の日本遠征に善六は通訳として参加した。日本とロシアの橋渡しをするという彼の夢の第一歩である。
 この交渉のために善六がした最初の仕事は、入港したときにリコルドが書いた手紙を訳すことだった。善六が訳した公式文書の写しは『飄々謾集』に収められている。

 「此度この所ニ来り候ところ、其方より船さしむけ、ありがたきしあわせニ存じ奉り候。又以て、くいもの、ま水等くださる様にきかせられ候へども、くい物たださへたくさんにあり、ただま水なきゆへ、どうぞま水ヲ被下度くねがいあげ申し候。其方のおん役人様。(中略)箱館までのみちさき、どうぞ高田屋嘉兵衛を此所によぶよふを。嘉兵衛ヲミチさきに致したく。どうぞ高田屋嘉兵衛を願い上し。

いくさ船大将軍 ぺうとろリコルド

文化十年九月廿二日 つうしにんきせれふ」


 さらに善六は3カ月ぶりに再会したリコルドと嘉兵衛の通訳をしている。

 「艦の必要な仕事をすますと、我われは大喜びで、堰を切ったようにわが善良な高田屋嘉兵衛と話しを始めた。今度は通訳キセリョーフの助けがあるので、以前よりははるかに都合よく、何事でも話し合えた」(徳力真太郎訳『ゴロウニン 続・日本俘虜実記』より「海軍少佐リコルドの手記」)

 オホーツク長官ミニャツキイの謝罪文も善六が訳しているのだが、この書簡の末尾には、こんな言葉が書いてあった。

 「此書物、尾宝津賀(オホーツク)の湊場所ノ大役人のおろしやんノことば、日本の字ニて書、通事ヲいたし二十一年、おろしやんニて役をつとめ、私日本の人の子供なり
通事の役人 きせろふ書」

 「私日本の人の子供なり」とは、通訳している自分は日本人なのですという、日本に向けての善六からのメッセージといえるのではないか。リコルドが、第1回目の交渉のときに松前藩高官に渡したイルクーツク県知事トレスキンの公式書簡にも、同じ但し書きがついている。
 いよいよ明日正式な日露会談に臨むという前夜、リコルドは善六を部屋に呼んでいる。幕府の役人たちが、善六が日本人であることを知った場合、善六に危険がおよぶことを心配したリコルドは、このことを善六に確かめる。

 「私はキセリョーフを自室に呼び寄せて言った。『君は自分の国の法律のことは私よりよく知っているから、私といっしょに上陸しても危険がないかどうかよく考えて欲しい』
 キセリョーフは答えた。
『私が何を恐れるというのですか。あなたを捕らえるなら、そのときは全員を捕虜にするのではないでしょうか。私一人を捕えることはあり得ないでしょう。私は日本人ではありません。通訳としての職務が果たせるようにどうか私を連れて上陸して下さい。陸上での両長官との交渉こそ、今度の事件で最も重要です。本艦上での高田屋嘉兵衛との話では、私はあまり役に立たないのです。もし艦長が私を陸上に伴って行かないのなら、私は何のためにこの長い航海の苦労に耐えてきたのか分からなくなります」(徳力真太郎訳『ゴロウニン 続・日本俘虜実記』)

 ロシアの公文書に「私日本の人の子供なり」と書いた善六が、ここで「私は日本人ではありません」と答えた奥底にあるものは何だったのだろう。ひとつは、彼が交渉の場に立ちたいという強い希望のあらわれであろう。そしてもうひとつは、「日本の人の子供」であっても、ロシアに帰化したいまはロシア人でしかないという自分の選んだ道への自負であったと思う。
 ロシアに帰化した「日本の人の子供」である自分こそが、日露に橋を架けることができるのだという、善六の自信でもあったはずだ。
 これを聞いたリコルドは、続けてこう書いている。

 「キセリョーフがこの事件で役に立ちたいと望んでいるのをみて私は言った。
『君のような忠実な通訳が傍に居ることは大変重要なことだ。ただ私としては、君に危険の恐れがある場合なので、君の希望に反した行動をしたくなかっただけなのだ』」

善六の絵姿
 10月1日高田屋嘉兵衛が、奉行の儀礼船に乗ってディアナ号にやってきた。陸上からの合図を待って、リコルドは善六と2人の士官、さらに10名の水兵を従えて、この船に乗り込んだ。
 このときに箱館に上陸したロシア代表団一行の中に善六がいたことを東北大学教授で、私ども石巻若宮丸漂流民の会の副会長でもある平川新氏が発見している。平川教授は、松前から箱館までゴロヴニンを移送した松田伝十郎が書いた『北夷伝』の中に残された絵の中に、善六を発見した。この『北夷伝』は、ここ函館市中央図書館にある。
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『北夷談』に描かれた善六(右端)(函館市中央図書館所蔵)

 このあと日本とロシアの交渉の席で、善六は通訳として存分に力を発揮したかというと、実はそうでもなかった。自分だけが日本語とロシア語ができるかと思っていたが、日本側の通訳となった村上貞助はロシア語もかなりできる男だったのだ。この交渉が終わり、ゴロヴニンたちは長い幽閉生活から解放され、ロシアに帰国し、善六もここで日本と永遠の別れを告げることになる。

函館領事キセリョーフ
 函館と善六の縁はこれで終わらなかった。
 昭和3年ディミトリイ・キセリョーフが、ロシア領事として赴任するため函館に向かった。キセリョーフは函館へ向かう前、東京日日新聞社の記者のインタビューに答えて、自分の先祖が百年あまり前にロシアに渡った日本人であったという、興味深い事実を明らかにしている。これは東京日日新聞に、「百余年ぶりに奇しき帰郷――文化年間にロシアへ定住した邦人の曾孫が領事で来朝」と大きく報道された。
 キセリョーフ領事自身のコメントも載せられている。

 「私の先祖が函館の人であるということは、小さい時から聞かされ、お伽の国日本に行って、函館を訪れたいものと始終思っていました。(中略)曾祖父の日本名がなんといったか私たちは全く知りませんが函館の生まれであることだけはわかっています。血統は争えないもので医者をしている私の従兄と従妹二人は日本人ソックリの顔です。幸い私は函館へ行ったら当時の歴史を調べて是非自分の先祖のことやまた今残っている親戚の人々も探し出し会って見たいと思っています」

 私はてっきり同じキセリョーフなので、これだけはっきりと日本人が先祖だと言っていたので、キセリョーフ領事こそキセリョーフ善六の子孫だと思っていた。
 実際に拙著『魯西亜から来た日本人』の最後はこのように結んでいる。

 「通訳として、二十一年ぶりに故国の土を踏んだ函館。ここでロシアに帰化した日本人、善六は、ロシアと日本の間に橋を架けるという夢を実現することができた。さまざまな思いが交錯するこの街での思い出が、子供に孫に、そして曾孫のディミトリイ・キセリョーフにまで伝えられていった。そして百年以上の月日の流れのなかで、キセリョーフ善六の故郷がいつしか函館として語り伝えられるようになってしまったのだろう。」

 しかしその後の調査でキセリョーフ領事と善六はどうやら関係がないということが明らかになった。
 これは善六の絵姿を発見した平川先生と同じ東北大学の東アジア研究センターの寺川恭輔教授が、キセリョーフ領事が暮らしていたノボシビルスクまで行って、彼の孫たちと会い、さらにはキセリョーフ文書を調査するなかで明らかになった(「日本人漂流民の子孫と名乗るソ連外交官キセリョフ」『[窓](126),(2003)』)。

「会報」No.35 2013.12.7 講演会報告要旨

函館・松前ツアー体験記

2015年2月16日 Posted in 会報

稲垣滋子

 8月29日(木)から3日間、函館と松前に行ってきました。「ゴロヴニン事件解決200年記念 函館ツアー」という、「函館日ロ交流史研究会」と「石巻若宮丸漂流民の会」の共同事業です。
 日程は、1日目が函館市内観光、2日目が松前のゴロヴニン幽囚の地見学、3日目が函館市中央図書館での資料閲覧と大島幹雄事務局長の講演という盛り沢山な内容でした。
 「函館日ロ交流史研究会」側の参加者は、長谷部一弘会長をはじめ7名、「石巻若宮丸漂流民の会」側は、木村成忠会長(仙台)、大島幹雄事務局長(横浜)、会員の佐藤三寿夫さん(横浜)、河元由美子さん(東京)と稲垣(東京)の5名でした。
 この若宮丸組5人は、ついたり離れたり、すべての時間を一緒に動いたわけではないのですが、重要な場では必ず行動を共にしました。

ロシア関係ポイント見学
 初日の函館観光は、倉田有佳さんの案内に私一人が参加という贅沢な時間となりました。
 8月29日(木)の午後、極東連邦大学函館校に、准教授の倉田さんを訪ねました。倉田さんは日ロ関係の専門の研究・教育と同時に、「函館日ロ交流史研究会」の会員として日露関係や函館のロシア関係の施設について取材・広報活動をしています。そして「石巻若宮丸漂流民の会」の会員でもあります。
 函館校の広いラウンジは、ロシア語で書かれた本ばかり、ロシア語の掲示ばかりです。履修科目を見ると、ロシア語はもちろん、通訳・翻訳、ロシア史、ロシア民族学、ロシア地理、ロシア国家政治体制、ロシア経済、日ロ関係史等多彩です。ネイティヴスピーカーによる授業が特色だそうです。本校から来る学生への日本語教育もあります。
 倉田さんが案内してくださったのは、船見町の函館の町が最初に開けた地域、幸坂を上って行ったところにある旧ロシア領事館、少しだけ離れたところにあるロシア人墓地でした。
 旧ロシア領事館は、壁の剥落があるため門から中へは入れません。倉田さんはご自身が建物内部まで取材・執筆した記事(『函館日ロ交流史研究会会報』33号)を示しながら説明してくださいました。最初のロシア領事館は実行寺の中にあり、当時の実行寺は現在の弥生小学校の場所にあったそうです。
 ロシア人墓地は、倉田さんが門の鍵を借りておいてくださったので、草地に点在する約50基のお墓を間近に見ることができました。墓石はかまぼこ型の石を縦に寝かせたような形で、墓碑銘、氏名、死去の年月日、年齢が刻まれています。半数以上はロシアの軍艦の乗組員だそうです。そのほか初代ロシア領事ゴシケーヴィチ夫人のお墓、幕末から明治初年に亡くなった人たちのお墓、1917年のロシア革命後に来函した人たちのお墓、日本人正教徒8人のお墓など、往時を偲びながらの見学でした。

松前の史跡散策
 8月30日(金)は、雨模様の一日でした。大島・佐藤・河元・稲垣の若宮丸組は特急白鳥とバスを乗り継いで松前入りしました。午前中は坂道を上ったり下りたりしながら、松前城の天守閣、松前家墓所、松前藩屋敷を見て歩きました。藩屋敷では、さまざまな建物を見たほか、アイヌの衣装や道具類を見学しました。
 散策中に、「五郎次のお墓はこの奥40メートルのところにあります。」という立札を見ました。中川五郎次は文化年間にロシアから種痘の書物を持ち帰った人物です。私たちは傾斜地に作られた墓地に入り、一つ一つの墓石を確かめて歩いてもわからず、佐藤さんが通りがかりの男性に呼びかけ、その方も探してくださったのですが、結局探し出すことはできませんでした。藩屋敷でボランティアをしている男性に尋ねたところ、本当にここが五郎次の墓地かどうかはっきりしないので、あまり熱心に宣伝していないのです、というお答えでした。
 午前中の見学を終わったところで、「石巻若宮丸漂流民の会」会長の木村成忠さんと合流して昼食を取りました。木村さんは、今朝は函館湾のクルーズに参加して、今作っている若宮丸漂流民の辿った足跡を記録したDVDの、仕上げの撮影を試みたそうです。しかし雨で、良い写真が撮れたかどうか心配だと言っていました。

長靴の隊列 ―松前のゴロウニン幽囚の地へ
 午後はいよいよ、今回のツアーの主目的である、ゴロヴニン幽囚の地見学です。目的地は、城から少し離れた山中のバッコ沢という沢を溯ったところで、ゴロヴニンたちが脱走して再び捕えられた後に収容された牢屋の跡地です。
 松前町郷土資料館前で、函館組の皆さんと、松前町教育委員会の前田氏、佐藤氏、それに町の女性職員の方たちと顔合わせをし、挨拶を交わしました。
 全員が資料館に備え付けてあった長靴を借りて履き替えました。総勢30人ほどです。いよいよ山道にかかるところで、隊長さん(前田氏)が、「一列になってください。この順番はいつも守ってください」と命令しました。長靴もこの命令も、何と大げさな、と思ったのですが、沢に足を踏み入れてみてすぐにその意味がわかりました。沢沿いの泥んこ道に、膝まである長靴もたちまち汚れてしまいました。急な斜面の上り下りや、沢に下る板切れの上を歩くとき、流れの中の飛び石を伝うときなどは、現地の方々に手を取ってもらいました。めいめいが勝手に動いたら、ほとんど前に進めなかったと思います。
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バッコ沢の入口で記念撮影

 20分ほど上って、ようやくゴロヴニンたちが幽閉された建物があった小さな平地に着きました。ここは松前の方たちが下草刈りをしておいてくださったそうです。片側は山崩れのあともある崖、片側は沢で、樹木に覆われた薄暗い場所です。建物はすでになく、礎石が一つ残っています。この礎石も、平成22年に教育委員会の調査で確認されたものだそうです。続いて、もう一段上の小さな平地に移動しました。ここにも幽閉されていた建物があったということです。少し奥には火薬庫もあったそうです。
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ゴロヴニン幽閉の地で説明を受ける参加者

 ゴロヴニンたちが脱走したという山の方を見上げてみましたが、道もないところへどうして踏み出したのか、想像できませんでした。
 見学を終えた後、郷土資料館に戻り、出土品や資料館所蔵の品々を見ました。食器などの発掘された品は、ゴロヴニンの時代よりも新しいということです。
 強烈な印象を胸に、車で帰る函館組の方たちと一旦別れ、私たち若宮丸組はバス、特急白鳥と乗り継いで、函館駅に戻りました。乗り換えた木古内駅には、北海道新幹線開通予告の看板が立っていました。
 そして夜。両方の組がまた集合し、市内の「魚一心」という店で懇親会となりました。「函館日ロ交流史研究会」の方たちの活躍は目覚ましく、それぞれの方のお話をうかがうにつれ、新しい視野が開けていくように感じました。美味しいお料理とお酒と交歓とで、楽しいひとときでした。若宮丸組はご招待いただいたことになり、恐縮しつつも感謝しています。

函館市中央図書館の貴重書閲覧
 8月31日(土)は、一日中雨でした。朝9時半の開館を待って、佐藤さん、河元さん、私の3人は、函館市中央図書館に入館し、奥野進さんに会いました。別室の閲覧室には、あらかじめ奥野さんを通じて閲覧予約をしてあった5種類の写本類が用意されていました。文化元年(1804)のレザノフ来航に関する書など若宮丸関係の資料や、イワン・マホフが文久元年(1861)に作った日本で最初のロシア語入門書『ろしやのいろは』など、貴重資料を見ることができました。ただ時間が短かったのが残念です。
 『市立函館図書館蔵 郷土資料分類目録』を見ると、ロシア関係の資料だけでも何年かかっても見切れないほどあります。今回は短時間しかいられませんでしたが、これから何度も通いたいと思っています。

講演会
 午後2時から、函館市中央図書館のホールで、今回のツアーの最後を飾る講演会がありました。講演者は大島幹雄事務局長、題目は「魯西亜から来た日本人――善六物語」です。副題には「ディアナ号艦長ゴロヴニン、幽囚の軌跡」とあります。
 司会者は倉田有佳さん。この講演会に集まったのは71人だそうです。倉田さんによると、この数字は、テーマや当日のお天気を考えるとかなり多いということです。
 講演は、氏が以前書かれた『魯西亜から来た日本人――善六物語』をベースに、ゴロヴニン解放の交渉に立ち会った、石巻若宮丸漂流民善六の足跡を追ったものでした。それとなく会場の皆さんの反応を眺めてみると、漂流から帰還までの若宮丸乗組員の物語によって、自らも実体験しているような感覚を持ったらしいこと、善六という突出した人物の働きには驚嘆している様子が伝わってきました。
 興味深かったのは、講演とその後の質問との対比です。講演はロマンに満ちた世界を描き出したのに対して、質問は外交上の問題点を指摘するものがあったりしました。これらが総体として相補って、若宮丸漂流民、レザノフ、ゴロヴニン、江戸幕府などがつながりを持って描かれたように思います。

 かくして、得難い3日間の体験を終え、雨足の強くなった函館から帰途につきました。
 私はこのツアーの前に、『ゴロヴニン幽囚記』(岩波文庫)を読んでみました。その上で現地を踏んだことで、一層感慨が深くなったように思います。そして、今回いただいてきた諸資料、『はこだて外国人居留地 ロシア編』、極東連邦大学函館校の案内、新聞記事、ゴロヴニン関係の年表、そのほか論文コピーなどを眺めていると、改めて中身の濃い数日を過ごしてきたのだと実感します。
 このツアーの企画を立て、実行してくださった方々、私たち若宮丸組を暖かく迎えていろいろな資料とお話を提供してくださった「函館日ロ交流史研究会」の方々、松前町の皆様に感謝申し上げます。

「会報」No.35 2013.12.7 松前研修会報告

松前で馬場佐十郎を想う

2015年2月16日 Posted in 会報

河元由美子


 履きなれない長靴でぬかるみに足をとられないように一歩一歩足と踏みしめながら15人の一行が黙々と雨もよいの林道を歩いて行く。函館日ロ交流史協会と石巻若宮丸漂流民の会のメンバー一行は、松前教育委員会の前田氏を先頭に同会学芸員佐藤氏と女性職員がしんがりを務め、前後を守られ、一列縦隊で歩を進めた。行先はゴロヴニン一行が脱走を図り、あえなく発見され連れ戻された後に収監された牢屋跡、人里離れたまことに辺鄙な場所だった。そこへたどり着くにはアップダウンの激しい狭い林道を歩き、小さな流れにかけられた木の橋をわたり、崖をよじ登り、滑らぬように木の枝をつかみ、あるいは手を引っ張られ、サバイバルゲームのような道のりだった。ようやく少し開けた平らな場所に着き、前田氏、佐藤氏のハンドマイクを通した説明に聞き入る。
 道々、この道を馬場佐十郎は通ったのだろうか、と考えていた。『日本幽囚記』を読んで確かめなければならない。両氏の説明により、『日本幽囚記』に記されたゴロヴニンの手記で地形や松前城よりの距離を推し量り、現在バッコ沢といわれるところがその牢屋跡であると確認されたことが分かった。建物を支える礎石から見てあまり広い牢屋とは思えない。そして今、我々はその場所に立っている。
 馬場佐十郎、この若き語学の天才は幕命により松前に収監されているロシア人から直接ロシア語を学ばんと、天文台の足立佐内とともにはるばる江戸から二百数十里の道をやってきた。松前に来る以前、佐十郎は既に大黒屋光太夫よりロシア語の手ほどきを受け、『東北韃靼諸国図誌野作雑記訳説』や『帝爵魯西亜国交易篇』の翻訳書を完成させている。両書はロシアや蝦夷地など北方領域の研究報告書であり、彼のこの地域に関する知識は十分あったと考えられる。しかし彼は直接ロシア人からロシア語を学んだわけではなく、今回の松前出張はまたとない生きたロシア語勉強のチャンスであった。彼の期待はいかばかりか想像に余りある。
 馬場佐十郎、名は貞由、字を職夫、号は穀里、天明7(1787)年3月、長崎の資産家、三栖谷敬平の子として生まれた。兄為八郎はもともと通詞の家柄ではなく、通詞株を買って蘭通詞になり、馬場姓を名乗るようになった。彼は実子がいなかったので、18歳年下の弟佐十郎を養子にした。文化元(1804)年レザノフが日本の漂流民を連れ、交易を求めて長崎に来航し、国書を提出したが、その答礼の蘭文国書を作成したのが馬場為八郎と石橋助左衛門だった。その際、ロシア人接見の場に佐十郎もいたので、この時初めてロシア人を見たことになる。しかし露艦の中にオランダ語を話す者がいたので、用いられたのはオランダ語だった。
 18世紀末から19世紀前半になると日本に来航する異国船が増える。寛政4(1792)年のラクスマンの根室来訪、寛政8(1796)年の英人ブロートンの絵鞆(室蘭)来訪、享和3(1803)年の米船長崎入港など、異国船が頻繁に日本にやってくるようになると、オランダ語だけでは対応できなくなり、幕府は仏、露、英語の学習を蘭通詞たちに命じた。文化4(1807)年2月、オランダ商館長、ヘンドリック・ヅ―フの下に石橋助左衛門、中山作三郎、楢林彦四郎、本木庄九郎、今村金兵衛、馬田源十郎の6人がフランス語学習のために送られた。一方、同年7月、馬場為八郎と名村多吉郎が江戸に召され(佐十郎も同行)、ロシア事情調査を命じられた。翌5年3月には蝦夷地出張を命じられ、松前に到り、露寇事件(フヴォストフらの樺太、エトロフ、利尻襲撃事件)の後始末をした。
 文化5(1808)年3月、佐十郎は22歳の若さでその能力をかわれ、江戸天文台御用に抜擢され、高橋景保を援けて地誌御用を務めるようになった。
 文化6年2月、幕府は本木荘左衛門、馬場為八郎、岩瀬弥四郎、末永甚左衛門、吉雄六次郎、馬場佐十郎に命じて英、露語の兼学を命じた。前年のフェートン号の長崎入港狼藉事件の対応と見られる。蘭語の他に、仏、露、英語の学習が本格的に始まったのである。
 馬場佐十郎に話を戻そう。彼のオランダ語学習は、養父為八郎の指導に始まることは前述のとおりだが、彼には2人の師がいた。一人は商館長ヅ―フで、佐十郎はネ―ティブ・スピーカーよりオランダ語を学んだ。ヅ―フは佐十郎を「すこぶる俊秀な青年」と呼び、頭脳明晰で学究的な佐十郎を愛し、彼にAbrahamというオランダ名を与えた。ヅ―フの日記にも1808年の佐十郎の江戸行き、1810年江戸参府の際、江戸で会ったこと、1813年3月に佐十郎が松前に出張したことが記されている。
 もう一人の師は、ケンペルの『日本誌』の翻訳で知られる「鎖国論」を書いた旧蘭通詞、志筑忠雄(中野柳圃)である。志筑は病身を理由に通詞役を退き、蘭語文法を本格的に研究し、『蘭語九品集』を著わした。のち、佐十郎が『訂正蘭語九品集』を著わしており、彼こそ師のオランダ語の造詣の深さを立派に継承したと言えるだろう。志筑は天文暦学などにも精通しており、星雲説を説いた。さらに彼はロシアにも関心があり、ロシアと清国の国境問題にかかわる「ネルチンスク条約」(1689年)をめぐるロシア使節の記録を「二国会盟余録」として文化3(1806)年に翻訳している。佐十郎はこのころからロシアに興味を持ったのかもしれない。
 では、佐十郎とロシア語との接点はどこにあるか。レザノフの長崎来航時が初めてであったろう。文化6年に露、英語学習を命じられた時の学習方法はさだかでないが、最もロシア語に近づいたのはゴロヴニンの書翰の翻訳を命じられた時である。即ち、文化8年5月にゴロヴニン一行がクナシリで捕縛された際、副館長リコルドが樽に入れて海に流したゴロヴニン宛ての手紙である。日本人は誰一人この書が読めず、ゴロヴニン自身に渡し、松前奉行同心になっていたアイヌ人の上原熊次郎が和訳したものだった。幕府はその正否を佐十郎に問うたが、佐十郎のロシア語はまだ不十分だったので、彼は大黒屋光太夫から習った数少ない単語をロシア文に当てはめ、大変な苦労の末、なんとか文意を判読した。内容は「今は帰帆するが、来年皇帝の許可を得て救出に来る」というもので、それは参考に送られてきた熊次郎の和訳がほぼ正確であったことを示している。その手紙はゴロヴニンに戻され、不明な個所を彼に質したが、その筆跡があまりにも書きなれた美しい文字だったので、ゴロヴニンはてっきりオランダ人が書いたものと判断し、オランダに対する不信感から返事を曖昧にした。
 この時以来、佐十郎は真剣にロシア語文法の研究と正確なロシア語辞書の作成を進言した。彼は2年ほど光太夫に師事しロシア語を学んだが、それは正規の学問ではなく、いわば聞き覚えのロシア語だったので、その程度では文書が読めず、書くにも限界があると感じていたのだ。佐十郎の学究意欲はロシア語文法書の作成へと高められていった。だから松前出張は彼にとってまさに好機到来であったはずだ。既に松前のゴロヴニンには村上貞助がロシア語を学んでいたが、貞助、熊次郎、佐十郎が如何に熱心にロシア語を学んだかは『日本幽囚記』にゴロヴニン自身が書いているので詳述しない。ゴロヴニンは特に佐十郎の真摯な学習態度に好感を抱き、彼の為に文法書を作ってやろうと決めた。ゴロヴニンは資料となる書物を持っていなかったので、自分の記憶から出来るだけ実用的な文例を考え出し、佐十郎に与えた。佐十郎はそれを翻訳して『魯語文法規範』を作成する。その外に彼の著書として、約1200語の日露対訳語彙集『魯語』がある。佐十郎はこのほか、ペテルブルグ版の「牛痘接種について」というロシア語の小冊子を訳しており、『遁花秘訣』として完成させたのは文政20(1820)年だった。
 松前のゴロヴニン幽囚跡地への道で考えたこと、この道を馬場佐十郎は通ったのだろうか、という疑問は筆者の思い違いで、佐十郎がゴロヴニンに会ったのは、この牢屋から前収容された松前藩士の屋敷だったことが『日本幽囚記』でわかった。
 つけたしになるが佐十郎は英語にも実力を発揮した。文政元(1818)年、浦賀に通商を求めて入港した英船、ブラザース号の対応には、江戸より馬場佐十郎、足立佐内が駆け付け、文政5(1822)年、再び浦賀に英船サラセン号入港の際も上の2人が出向、文政7(1825)年、常陸大津浜に英船が現れた時は、足立佐内と岩瀬弥四郎が出張している。英語での対応に大きく貢献したのは彼の作成した「訳詞必要・諳厄利亜語集成」と「諳厄利亜語・忽児朗土誤集成」という通詞必携書である。異国船対応の際、通詞が必要とする最小限の文例を載せた英蘭会話に日本語を付した書で、その後極めて利用度が高かった。前者は日本学士院に、後者(写本)は京都大学附属図書館に所蔵されている。
 フランス語にも長けていた佐十郎はその知識をゴロヴニンにロシア語を習ったときに媒体語としている。蘭、仏、露、英語を使いこなした佐十郎は通詞として学者として翻訳者として終始多忙を極めた。そのせいか、36歳の若さで病没してしまう。今風に言えばまさに「過労死」ではないだろうか。「穀里馬場生(馬場佐十郎)之墓」は東京都杉並区の宗延寺にある。

主な参考文献
片桐一男「幕末における異国船応接と阿蘭陀通詞馬場佐十郎」『海事史研究』10号 日本海事史学会、1968
平野満「馬場佐十郎のロシア語書翰和解――ゴロヴニンへ就学以前――」『駿台史学』89号 駿台史学会、1993
杉本つとむ「馬場佐十郎――天才的ポリグロット」『ドラマチック・ロシア・イン・ジャパン』Ⅱ 生活ジャーナル、2012

「会報」No.35 2013.12.7 松前研修会報告

サハリン/樺太(註1):帝国にはさまれた植民地

2015年2月16日 Posted in 会報

天野尚樹

はじめに
 2008年に函館経由ではじめてサハリン島を訪れた。サハリン国立大学でおこなわれた国際シンポジウム「サハリン:開拓/植民の歴史的経験」に参加するためである。サブタイトルに注目されたい。当初、主催者側から伝えられていたプログラムは「植民(kolonizatsiia)の歴史的経験」であった。ところが当日会場入りすると、そこに「開拓(osvoenie)」の語が加えられていた。シンポジウムでの議論においても、サハリンで「植民」があったのか、サハリンが「植民地」だったのか、という点について、ロシア人参加者から異論が噴出した。
 一方、日本領樺太を論じるにあたって、そこを「植民地」とする規定は近年の研究者のあいだでは常識化している。一般には、1889年の大日本帝国憲法施行後に領有した台湾、樺太、朝鮮、関東州、南洋群島が帝国日本の「植民地」ないし、これと同義の「外地」とされる2。しかし、樺太からの引揚者の前で「植民地」という語を使うと強烈な反対にあう。樺太は「日本」であり「植民地」ではないと。
 このような問題が生じるのは「植民地」という用語の多義性とネガティブなイメージにある。植民地の代表的なタイプに、「搾取型植民地」と「移住型植民地」がある3。前者は、原住者の土地の統治と搾取が主眼であり、本国からの移住者は相対的に少数である。帝国日本の植民地でいえば、台湾と朝鮮がこれにあたる。そして、一般的に「植民地」とイメージされるのもこのタイプであろう。一方、移住型植民地は、先住民を排除し、移住者がマジョリティを占める植民地である。移住型植民地には、本国からの移住者によって形成されるタイプと、外部からの移住者を入植させるタイプがある。前者は、本国からの移住者によって形成される植民地で、イギリスのニューイングランド植民地やオーストラリアなどが代表的である。ロシア帝国にとってのサハリン、帝国日本にとっての樺太もこれにあたる。外部からの移住者を入植させるタイプの移住型植民地の代表例が、アフリカからの奴隷輸入によって構築されたカリブ海植民地である。
 移住型植民地としてのサハリン/樺太が特徴的なのは、何より本国からの距離が近いことである。北海道の最北端からサハリン島までの距離は42キロ、ロシアの大陸部とサハリン島の距離は最短で7キロである。言語や文化の同一性だけでなく、その地理的位置からも、本国との差異がみえにくい。したがって、「外国」を想起させる一般的イメージをもつ「植民地」と名指されると、反発が起こるのだろう。
 本稿は、ロシア帝国領サハリン、日本領樺太の植民地としての特徴を考えることを目的とする。日本における植民地研究は近年きわめて活発だが、樺太の研究は立ち遅れてきた。2011年に、三木理史による『移住型植民地樺太の形成』4が出版されたが、これがはじめての専門的研究書である。ロシア帝国領サハリンについては、原暉之編『日露戦争とサハリン島』5の出版によって最初の一歩が踏み出された。一方ロシアのサハリン史研究は、もっぱらサハリンで進められているが、とりわけ帝政期の研究の進展ぶりには目をみはるものがある。代表的成果に、マリーナ・イシチェンコ『サハリンのロシア人古参住民:19世紀後半から20世紀初頭』6、ナターリヤ・ポタポヴァ『19世紀後半から20世紀前半におけるロシア帝国の信教政策と極東の宗教生活(サハリンを事例として)』7、ミハイル・ヴィソーコフ『チェーホフ「サハリン島」注釈』8、があげられる。本稿との関連でいえば、とくにイシチェンコの業績が重要である。
 本稿で具体的に問われるのは、ロシア帝国の移住型植民地だったサハリンが、なぜ日本帝国の移住型植民地になりえたのか、という問題である。結論を先取りすれば、それは、日露戦争サハリン戦の終結過程において住民を短期間に排除できたからである。では、なぜそのような短期間の住民排除が可能だったのか。それを探るには、帝政期サハリンの植民地化の過程を検証する必要がある。そこでまず第1節で、帝政期ロシアのサハリン植民の実態を検証し、第2節で、日露戦争の終わり方と住民の島外退去問題を考察する。

1.流刑植民地サハリンの実態
 1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約(いわゆる樺太千島交換条約)で、サハリン島はロシア帝国領となった。ロシア帝国領のサハリンは流刑植民地として知られている。1858年にはすでに流刑囚が護送されているが9、ロシア帝国が正式にサハリンを流刑地に定めたのは1868年のことである10。当時のサハリン島は、1867年のサハリン島仮規則によって、日露の共同領有地とされていた。流刑囚による入植は、島の実効支配を進めて、ロシア領にするための布石であった11。1873年の時点で島に居住していたロシア人は1162人、日本人は660人と倍近い差が開いていた12。イギリス駐日公使も、すでにサハリン島は事実上ロシアの実効支配下にあるとして、日本政府に対して、領有の放棄を暗にうながしていた13。1875年の決定は、こうした状況の結果である。
 ロシア帝国において、公式に植民地であったのはロシア領アメリカ(アラスカ)のみである。公的な文書でサハリンを「植民地」と呼ぶことは、ゼロではないが、きわめてまれである。すなわち、帝政期サハリンを「流刑植民地」と呼ぶのは、当時の一般通念であり、また実態の反映であった。日露戦争後のサハリンで出された資料集の序文に、サハリン州知事ドミートリー・グリゴリエフはこう記している。「苦役の時代はすでに過ぎ去り、それとともに、監獄植民地というサハリンのイメージも抹消しなければならない」14。
 ロシア帝国法典「流刑囚に関する規定」によれば、流刑囚には3つのカテゴリーがある。「流刑苦役囚(以下、苦役囚)」「流刑入植囚(以下、入植囚)」「浮浪人」である。苦役囚は、重労働を課される懲役刑である。刑期を終えると、入植囚に編入される。入植囚は、行政府が選定した入植地に居を構えて農業などに従事する。法的身分では流刑囚だが、生活の実態は自由民と変わりなく、自活していかねばならない。身分・住所不定者である浮浪人は入植囚として扱われる15。
 入植囚の期間は原則として10年だが、恩赦によって6年ほどで終わることも多い。入植囚期間が過ぎると、「流刑上がり農民(以下、流刑農民)」に編入される。流刑農民は、法的にはもはや囚人とはみなされない。島内であれば自由に居住地を変えることができ、1888年以降は島外への転出も認められるようになった。しかし、行政上の扱いは法的規定とは異なっていた。すなわち、苦役囚・入植囚だけでなく、流刑農民も「流刑囚」として扱われていたのである16。
 ロシア帝国民の一般的イメージにおいては、「流刑囚」とは苦役囚のことであり、サハリンは「苦役囚の植民地」と認識されていた。このイメージ構築にもっとも大きな影響を与えたのがアントン・チェーホフの『サハリン島』である17。『サハリン島』から得るイメージは、サハリンは「世界の果て」で苦役囚が耐え難い生活を送る「地獄の島」であり、誰もが「大陸」、すなわち「ロシア」に早く帰りたいと願っている、というものである。
 チェーホフがサハリン島を訪れた1890年は、サハリン植民史の転換期にあった。人口構造の実態が、「苦役囚の植民地」から「入植囚・流刑上農民の植民地」へと変わりはじめた時期なのである。
 サハリンへの苦役囚の数が増えはじめるのは、1879年に義勇艦隊が苦役囚の護送に携わるようになってからである。苦役囚の大半は刑期12年未満であり、1890年代以降、入植囚に編入されるようになり、90年代後半になると、流刑農民になっていく。1902年時点のサハリンの全人口は3万6595人であるが、そのうち、入植囚と流刑農民の占める割合は50.8%である18。すなわち、チェーホフ後のサハリンは、事実上「入植囚と流刑農民の農業植民地」に変わっていたのである。この点をはじめて実証的に明らかにした、マリーナ・イシチェンコ『サハリンのロシア人古参住民』の意義はきわめて大きい。
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図1 【資料】天野尚樹「サハリン流刑植民地のイメージと実態:偏見と適応」『境界研究』1号、2010年、138頁。

 「農民」になった流刑囚たちは、チェーホフの予想に反して、サハリンに根づいた。流刑農民になって島外転出が認められるようになっても、実際に島を離れたのは650人ほどである19。1883年時点で穀類39トン、ジャガイモ65トンだった播種量は、1901年には穀類609トン、ジャガイモ880トンまで増え、1901年の生産量は、穀類3454トン、ジャガイモ6642トンを数えた20。サハリン生まれの子供も、1895年時点の310人から、1901年には968人に増え、そのうち800人弱がすでに成人していた21。すなわち、1890年代後半には、サハリンを故郷とみなす「サハリン人」(sakhalintsy)という集団的アイデンティティが生まれていたと考えることができる22。
 ところが、行政府の認識は違っていた。1906年の苦役流刑廃止後に流刑植民を総括した文書によれば、流刑植民地建設の失敗は、公的機関が食糧を外部に依存し続けていることにその根拠を見出すことができるとしている23。しかし、それはサハリン農業自体が失敗に終わったからではない。「農民」たちは、自らの生活を十分に営むことができるだけの農業生産に成功していた24。行政府が彼らから食糧を購入しなかったのは、「島の気候条件が悪いせいで、移入品よりもはるかに質が悪いからだ」25とされているが、そこには、「流刑囚」に対する偏見が多分に混じっていることは想像に難くない。
 1905年3月、サハリン島が日本軍に占領される可能性が高いと判断した外務大臣ウラジーミル・ラムズドルフは、サハリンをアメリカに売却する可能性を探りはじめた。この案は結局実現しなかった26。しかし、ここからわかることは、サハリン島の国境線が引き直されるのは不可避であるとロシア政府が認識していたこと、そして、サハリンはすでに見捨てられていたことである。

2.日露戦争サハリン戦:住民の送還と殺害
 1905年7月7日、日本軍第十三師団は、コルサコフから東に20キロほどのアニワ湾岸メレヤに上陸した。南サハリン軍司令官アルツィシェフスキーは、サハリン南部防衛の拠点であるコルサコフ哨所に火をつけて退却し、パルチザン作戦に移行した。日本軍は抵抗もなく北上し、7月11日には、後に樺太の首府・豊原となるウラジミロフカ(現ユジノサハリンスク)を占領した。7月16日には、南サハリン軍の主力が降伏し、7月24日には、日本軍による北部平定作戦が開始された。サハリン島武官知事リャプノフ率いる北サハリン軍は目立った抵抗もせず、7月31日に降伏した。北サハリンではパルチザン作戦は展開されていない。南サハリンのパルチザン作戦は、主力軍の降伏後もつづいた。日本軍の掃討作戦が最終的に終了するのは9月1日、ポーツマス講和条約が調印される5日前のことである。
 戦闘の規模でいえば、日露戦争サハリン戦はそれほどの激戦であったとはいえない。ロシア帝国参謀本部編纂の公式戦史によれば、ロシア側の戦死者は将校3名、下士卒85名の計88名である27。しかし、この数字は実相からかけ離れている。何より、戦死者に数えられているのは正規兵の数字のみである。ロシア軍5934名の約4割を占める2262名の義勇兵の戦死者が含まれていない。日本の参謀本部が明治天皇に宛てて作成した報告書では、いまのユジノサハリンスク市にあたるウラジミロフカ村ではロシア側の死者100名以上と記録されている28。また、ロシア側の公式戦史でも、114名の義勇兵で構成されていた南サハリン第4支隊は「投降後に皆殺しにされたという情報がある」と記している29。
 この、公式戦史に記録されていない死者たちはどのような人びとで、彼らはどのように死んでいったのか。まず、ウラジミロフカの事例からみてみよう。
 ウラジミロフカに日本軍が進出したのは1905年7月10日である。アルツィシェフスキーの部隊はすでに、ウラジミロフカから北西に約10キロのダリネエ村まで撤退していた。ロシアの公式戦史でも死者2名とされているように30、戦闘らしい戦闘もなく、日本軍は同村を占領した。日本軍は、村の男性住民約300名を1か所に集めて夜を過ごさせた。翌朝、そのうち半数が解放された。残る150名はタイガの森に連れていかれた。ウラジミロフカ教会の司祭アレクシー・トロイツキーによれば、彼らは2回に分けて射殺されたという31。
 ここで殺害されたのは、正規兵でも義勇兵でもなく、一般の住民である。ウラジミロフカ村の住民も登録していたベレズニャキ村教会の教会戸籍簿には、7月11日に6名の住民が「日本人によって殺害された」と記録されている32。
 日本側は、これら一般住民と義勇兵を区別していなかった。戦闘に参加していたある日本兵の手帳には、「敵の、ホリョ〔......〕皆、鉄サツ〔銃殺〕」したと記されている33。国際法学者有賀長雄の著書『日露陸戦国際法論』によれば、日本軍を包囲したロシア人数百名を拘束したが、彼らは制服を着用しておらず、指揮官もいなかったため、義勇兵なのか民間人なのかの区別がつかず、仮に義勇兵だったとしても国際法など知らない「囚人」なので、国際法が適用される存在ではない。したがって、「取り調べの上百二十名計りを死刑」に処したという34。
 義勇兵は、1904年2月22日付サハリン島武官知事命令によって、刑期の短縮などの特典付きで募集された流刑囚によって構成されていた35。義勇兵であっても、国際法の適用対象であり、投降後は捕虜として扱われる必要がある。一方、非軍人の抵抗があった場合、裁判のうえで死刑にすること自体は当時の国際慣習法で認められていた36。だが、トロイツキー司祭によれば、住民の殺害はこのときだけにとどまらず、島外退去を希望した軍事病院の下働き56名をはじめ、合計で300名の民間人が殺害されたという37。これは、虐殺ということばがふさわしい事態である。
 日露戦争時の捕虜の取り扱いについては、一般に適正におこなわれたといわれている。しかし、南サハリン第4支隊の事件は、その評価を根底からくつがえす。すでに主力部隊が降伏していた8月30日、敗残兵の掃討作戦を展開していた日本軍は、ナイブチ川(現ナイバ川)上流でダイルスキー二等大尉率いる第4支隊を発見した。約3時間の戦闘後、ダイルスキーと、他の部隊からの合流兵で180名に増えていた義勇兵は投降した。掃討作戦に参加した日本軍兵士新屋新宅の手紙によれば、翌31日、捕虜は全員銃殺された38。このとき、タイガに身を潜めて生き残ることができた義勇兵アルヒープ・マケエンコフは、日本軍は、ロシア兵の手足を銃剣で釘づけにして残らず銃殺したと証言している39。
 なぜこのような事態が起こったのか、その理由を特定することは難しい。ニコライ宣教師は、日本に移送された捕虜から日本軍の無慈悲な行動を耳にし、外国人特派員がサハリンの戦場には従軍していなかったせいで、「日本兵たちは本性を現した」と日記に記している40。また、ロシア側の報道によれば、武官知事リャプノフが、戦争の混乱に乗じて流刑囚が多数脱走していることを日本軍に警告し、また刑務当局が、そうした囚人たちの取り扱いに遠慮は無用と通告したという41。流刑囚に対する蔑視も要因のひとつであろう。
 しかしここでは、日本のサハリン島占領政策の一環としてこの問題を考えてみたい。すなわち、サハリン島を「無人化」することによって、占領後に安定的な植民地統治を実現しようとする作戦行動である42。サハリン島における「無人化」作戦は、具体的にはふたつの方法としてあらわれた。ひとつが住民の虐殺であり、もうひとつが住民の島外送還である。
 住民の島外退去の方法は大きく4つに分かれる。官吏の家族は、日本軍上陸前までに行政府がチャーターした船に乗って自費で島外に退去していた。流刑囚の家族についても自費での島外退去が行政府から推奨され、500名が退去した。第2の方法は、日本経由での自費帰国である。これには民間人も含まれるが、多くは官吏とその家族、および孤児院の子供たちで、サハリン全体で800名近くが日本経由でオデッサにむかった43。南サハリンからは、占領後に、捕虜を移送する船に同乗して、224名が日本経由の自費帰国を許された44。第3の方法として、正確な数はわからないものの、完全に自力で脱出した者もいる。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』紙の通信員M・ディクスは、北サハリンの住民と官吏の一部が、タタール海峡を渡って自力で大陸にむかったと記録している45。
 そして第4の方法が、日本軍の費用負担によるデカストリ送還である。対象となったのは入植囚、流刑農民、流刑囚の家族などの自由民である。ネルチンスク監獄へ移送される苦役囚も同乗した。1905年8月末から9月初めにかけて、南サハリンから少なくとも3962人、北サハリンから2758人がデカストリに送還された46。その結果、1905年12月時点で、北サハリンには5487人(先住民を除く)、南サハリンには約500名の住民を残すのみとなり、南サハリンの残留住民の半数以上は1906年になってから島を離れ、結果的に、日本領樺太に残留したロシア人は200人弱であった47。
 住民の島外退去問題に関する日本での研究は、近年めざましい48。その中心である板橋政樹によれば、デカストリ送還は事実上の強制退去であり、南サハリンでは、食糧不足で住民に飢餓が迫っていることを理由にこれを実行したとしている49。
 確かに、サハリン行政府が保有していた食糧は不足していた。1904年2月の開戦によって、島と大陸部を結ぶ輸送体制は機能しなくなり、外部からの移入に頼っていた国庫への食糧供給は激減する。図2にあるように、南サハリンの場合、全部で9か所あった食糧倉庫への1904年中の納入量は、毎月の消費量を下回っていることがほとんどであり、主食の穀物粉の在庫自体が完全になくなる倉庫もあった50。1904年5月に、ミハイル・リャプノフ武官知事は、国庫からの食糧供給を制限する命令を出す51。5月末の段階で、南サハリン全体ですでに2か月分の在庫しかなかった52。7月から8月にかけて納入量が増えるが、その分、北サハリンのトゥイモフスク管区内の倉庫にはこの時期にまったく食糧納入がおこなわれていない53。1904年10月に、南サハリンへの補充物資の移送がおこなわれたのを最後に、11月以降の島への物資の移送は中止された54。
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図2 【資料】RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2520. L. 4-180. (1プード=16.38キログラム)

 占領時、南サハリンの住民は深刻な食糧不足を日本軍に訴えてきたと、日本側の史料は記録している。有力な食糧倉庫のひとつであるコルサコフの倉庫は、アルツィシェフスキーの部隊によって焼失させられていた55。したがって、南サハリン最大のウラジミロフカ倉庫を中心とする残りの国有倉庫に頼らざるをえず、飢餓の可能性が切迫している旨を占領軍は報告している56。南サハリン最大ウラジミロフカ倉庫には、1905年1月1日時点で穀粉9533プード、米75プードの在庫があった。同日時点で、その他の南サハリンの倉庫には、コルサコフ倉庫を除けば、合計で穀粉2217プード、米40プードがあったのみである57。
 国庫保有の食糧で生活していた官吏や監獄の看守が食糧の欠乏を実感していたことは間違いない。動員された軍にも十分な食糧は供給されなかった58。しかし、人口の大半を占める入植囚や流刑農民、およびその家族がほんとうに餓えに苦しんでいたのかというのは疑問である。彼らの多くが、農業を営むことによって、国庫に頼らず自活していたことはすでに述べた。飢餓が迫っているために、住民を大陸に送還するというのは、日本軍が「無人化」を正当化するための方便だったのではないか。送還先のデカストリは、さらに厳しい生活条件の地であった。北サハリンのアレクサンドロフスク管区長は、とりわけ婦女子はとても生きていけないとして、デカストリ送還を再考するよう日本軍に要請している59。事実、デカストリに渡った住民の多くは、戦後、ロシア領北サハリンに戻ってきている60。
 デカストリへの退去を「選択」した南サハリン住民個々の意思をはかることは難しい。推測される理由は2つある。ひとつは、行政機構の崩壊である。コルサコフ管区長ミハイル・ズヴャーギンをはじめ、行政府の官吏は捕虜とともに7月中に島を離れている61。もうひとつは、日本軍による住民虐殺の見せしめ効果である。樺太南部占領軍司令官の竹内正策は、日本軍を迎えた住民が大きく動揺しているが、その理由は、日本軍が「文明的」なのかどうかを疑っているからだと述べている62。その行動の実態はすでに述べた。トロイツキー司祭も回想のなかでこう訴えている。「こんな軍隊を本当に文明的と呼べるのか。読者自身で判断してほしい」63。
 住民のデカストリ退去は、形式的には住民の「選択」によるものである。ただし、日本軍が住民のデカストリ送還を正式に決定したのは8月6日、住民の退去希望出願期限は8月16日と定められていた64。行政が崩壊し、「非文明的」な日本軍の存在を前にして、わずか10日間のうちに、サハリンに根づき、あるいは故郷だと感じていた住民たちは、残留か退去の「選択」を迫られることになった。退去を選んだ住民が、日本軍による暗黙の強制を感じていたであろうことは想像に難くない。

おわりに
 サハリン島における住民の総入れ替えという事態は、日露戦争のときにだけ起こったわけではない。アジア・太平洋戦争後の南サハリンからは、日本人のほとんどが引き揚げたことはよく知られている。すなわち、サハリン島は、戦争と境界変動のたびに、原住者の「無人化」が起こっている。
 少数の支配民族が多数の原住者を支配するという搾取型植民地の形態は、本国から離れた場所で、「文明的」民族が「非文明的」民族を指導的に支配するというのが通例である。このような差別的階層意識と物理的な力の差が、搾取型植民地の形成を可能にした。
 しかし、サハリン島は、ふたつの帝国にはさまれた位置に形成された植民地である。帝国間に明確なヒエラルキーは存在しない。したがって、どちらかが一方を指導的に支配するという搾取型植民地の形成は想定しえなかったのではないか。また、この島は、本国から海峡を隔てただけの至近の距離にある。しかも、帝政期の領有を経験しているソ連だけでなく、日本にも、かつて「北蝦夷」と呼んでいた自国領を、日露戦争で「回復」したという意識があった65。その結果、遠くの異民族の土地を支配して植民地化するのではなく、「植民地主義なき植民」による自国のフロンティアの拡大と認識される66。すなわち、「本国」と「植民地」の境界がみえにくいかたちで、移住型植民地が形成されることになった。しかしその過程で、住民が故郷から強制的に切り離される事態がともなったことを忘れることはできない。


1 本稿では、ロシア帝国および現ロシア連邦の統治範囲として「サハリン」、1905~1945年の日本領南サハリンを「樺太」、地理上の名称として「サハリン島」という表記を用いる。
2 清宮四郎『外地法序説』有斐閣、1944年、3頁。
3 矢内原忠雄『植民及植民政策』有斐閣、1926年、164‐165頁。
4 三木理史『移住型植民地樺太の形成』塙書房、2012年。樺太研究の研究史について詳しくは、竹野学「樺太」日本植民地研究会編『日本植民地研究の現状と課題』アテネ社、2008年、155‐185頁。
5 原暉之編『日露戦争とサハリン島』北海道大学出版会、2011年。
6 M. I. Ishchenko, Russkie starozhily Sakhalina: Vtoraia polovina XIX - nachalo XX vv. (Iuzhno-Sakhalinsk, 2007).
7 N. V. Potapova, Veroispovednaia politika Rossiiskoi imperii i religioznaia zhizn' Dal'nego Vostoka vo vtoroi polovine XIX - nachale XX veka. (na primere Sakhalina) (Iuzhno-Sakhalinsk, 2009).
8 M. S. Vysokov, Komentarii k knige A.P. Chekhova "Ostrov Sakhalin" (Vladivostok; Iuzhno-Sakhalinsk, 2010).
9 V.I.Vlasov, Kratkii ocherk neustroistv, sushchestvuiushchikh na katorge (n. p., 1873), 22.
10 Polnoe sobranie zakonov Rossiskoi imperii, vol. 44 (1869), part 1, 330.
11 D. Tal'berg, "Ssylka na Sakhalin," Vestnik Evropy, 5 (1879), 220-221.
12 秋月俊幸『日露関係とサハリン島:幕末明治初年度の領土問題』筑摩書房、1994年、215頁。
13 外務省編『大日本外交文書』第2巻第2冊、外務省、1936年、476ページ。
14 D Grigor'ev, ed., Sakhalin. Sbornik statei po sovremennym voprosam Sakhalinskoi oblasti (O. Sakhalin, 1912), i.
15 Polnyi svod zakonov Rossisikoi imperii, vol. 14 (St. Petersburg, 1904), 1.
16 Obzor ostrova Sakhalina za 1899 god. Prilozhenie k vsepoddanneishemu otchety (St. Petersburg, 1900), 9.
17 A. P. Chekhov, Ostrov Sakhalin (Iz putevykh zapisok), in Polnoe sobranie sochinenii i pisem v tridtsati tomakh, vol. 14-15 (Moscow, 1978).
18 Ishchenko, Russkie starozhily Sakhalina, 38.
19 Sakhalinskii kalendar' (O. Sakhalin, 1897), 103; Ibid (1898), 76; Ibid (1899), 85; Obzor ostrova Sakhalina za 1899 god, Vedomost' 1; Obzor ostrova Sakhalina za 1900 i 1901 god (Post Aleksandrovskii, 1902), Vedomost' 1.
20 Ishchenko, Russkie starozhily Sakhalina, 217-218; Obzor ostrova Sakhalina za 1900 i 1901 god, Vedomost' 24.
21 Sakhalinskii kalendar' (1897), 103; Obzor ostrova Sakhalina za 1899 god, Vedomost' 1; Obzor ostrova Sakhalina za 1900 i 1901 god, Vedomost' 1.
22 Ishchenko, Russkie starozhily Sakhalina, 319-320.
23 "Otmena ssylki na o. Sakhalin," Tiuremnyi vestnik, 6 (1906), 319-320.
24 苦役囚および官吏・軍人を除いて、労働困難ゆえに国から食糧の供給を受けていたのは、1899年のデータによれば、総人口34893人中1705人であり、入植囚と流刑農民に限っていえば1万7240人中337人である。Obzor ostrova Sakhalina za 1899 god, 28-30.
25 Ibid., 26.
26 Iu. V. Basenko, V. I. Zhuravleva, eds., Rossiia i SShA: diplomaticheskie otnosheniia. 1900-1917 (Moscow, 1999), 79-85.
27 Russko-iaponskaia voina 1904-1905 gg. Rabota Voenno-istoricheskoi komissii po opisaniiu russko-iaponskoi voiny, vol. 9 (St. Petersburg, 1910), 133.
28 「明治三十八年七月十日晴気町付近ニ於ケル第十三師団南部占領軍戦闘詳報 第二号」『千代田史料』(防衛省防衛研究所蔵)5頁。
29 Russko-iaponskaia voina 1904-1905 gg., vol. 9, 109.
30 Ibid., 105.
31 Sv. Aleksii Troitskii, "Iz vospominanii o russko-iaponskoi voine na Iu. Sakahaline," Vladivostotskie eparkhial'nye vedomosti, 19 (1908), 478.
32 GIASO (Gosudarstvennyi istoricheskii arkhiv Sakhalinskoi oblasti). F. 23-i. Op. 2. D. 104. L. 27ob-29. 残念ながら、ウラジミロフカ教会の戸籍簿は残っていない。
33 原田宗二郎(第十三師団野戦砲兵第十九連隊所属)手帳(前澤哲也蔵)。
34 有賀長雄『日露陸戦国際法論』東京偕行社、1910年、142‐143頁。
35 RGIA DV (Rossiskii gosudarstvennyi istoricheskii arkhiv Dal'nego Vostoka). F. 1133. Op. 1. D. 2488. L. 102-103.
36 藤田久一『新版 国際人道法』再増補、有信堂高文社、2003年、83‐85、196‐197頁。
37 Troitskii, "Iz vospominanii," 19 (1908), 478.
38 「宗右衛門宛新屋新宅書簡(明治38年9月16日)」(笠松宗右衛門家)福井県立文書館 K0020-00901 (2-3/6).
39 RGVIA (Rossiiskii gosudarstvennyi voenno-istoricheskii arkhiv). F. 846. Op. 16. D. 10064. L. 73.
40 Sv. Nikolai, Dnevniki sviatogo Nikolaia Iaponskogo, ed. K. Nakamura, vol. 5 (St. Petersburg, 2004), 289.
41 A. A. Stepanov, "Oborona Sakhalina v russko-iaponskuiu voiny, "Na Rubezhe,book 1 (Khabarovsk, 1941), 289.
42 笠原十九司「治安戦の思想と技術」倉沢愛子ほか編『岩波講座 アジア・太平洋戦争5 戦場の諸相』岩波書店、2006年、215‐244頁。
43 M. V. Gridiaeva, "Sakhalin v usloviakh voennogo vremeni: polozhenie naseleniia v 1904-1905 gg.," in Sakhalin i Kurily v voinakh XX veka: materialy nauchnoi konferentsii (7-10 iunia 2005 g.), ed. A. I. Kostanov (Iuzhno-Sakhalinsk, 2005), 134-135.
44 「樺太南部帰国志願露国人民送還の顛末調 歩兵第25旅団長代理 (2)」(明治38年12月21日~39年1月31日 臨号書類綴第1号1~556 参謀本部副官管)JACAR (Japan Center for Asian Historical Records): C06041286700 (19/24)。
45 M. Diks, "Razgrom Sakhalina," Istoricheskii vestnik, 6 (1906), 898.
46 板橋政樹「退去か、それとも残留か:1905年夏、サハリン島民の「選択」」原暉之編『日露戦争とサハリン島』北海道大学出版会、2011年、182頁。
47 セルゲイ・フェドルチューク(板橋政樹訳)『樺太に生きたロシア人:故郷と国家のはざまで』日本ユーラシア協会北海道連合会、2004年、15‐17頁。
48 最新の成果は、原暉之「日露戦争期のサハリン難民とロシア政府の救恤政策」『ロシア史研究』91号、2012年、3‐22頁。
49 北サハリンの住民に対しては課税を強制することによって、住民の退去がうながされた。板橋「退去か、それとも残留か」168‐179頁。
50 RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2520. L. 94ob, 96ob, 112.
51 RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2419. L. 64.
52 RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2491. L. 52.
53 RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2520. L. 78, 81.
54 Russko-iaponskaia voina 1904-1905 gg, vol. 9, 98.
55 Ibid., 103.
56 「建築に関する意見其他の件」(明治38年『満密大日記 明治38年9月 10月』)JACAR: C03020412200 (12-13/22)。
57 RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2520. L. 172ob-180.
58 RGIA DV. F. 1133. Op. 1. D. 2488. L. 284, 286; Gridiaeva, "Sakhalin v usloviakh voennogo vremeni," 141.
59 「樺太南部帰国志願露国人民送還の顛末調 歩兵第25旅団長代理 (1)」(明治38年12月21日~39年1月31日 臨号書類綴第1号1~556 参謀本部副官管)JACAR: C06041286600 (11-12/50)。
60 M. I. Ishchenko, "Naselenie Sakhalina vo vremia i posle russko-iaponskoi voiny" (paper presented at the international symposium "Russo-Japanese War and the Sakhalin island", Sapporo, Hokkaido, 9-10 October, 2010).
61 板橋「退去か、それとも残留か」168‐169頁。
62 「建築に関する意見其他の件」JACAR: C03020412200 (11-12/22)。
63 Troitskii, "Iz vospominanii," 20 (1908), 507.
64 「樺太南部帰国志願露国人民送還の顛末調 歩兵第25旅団長代理 (1)」JACAR: C06041286600 (13-14/50)。
65 谷壽夫『機密日露戦史』原書房、2004年、306頁。
66 ユルゲン・オースタハメル(石井良訳)『植民地主義とは何か』論創社、2005年、37頁。

「会報」No.35 2013.12.7 研究会報告

シュヴェツ家との出会い

2015年2月16日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子 訳


はじめに
 『会報』№34掲載の拙稿「大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァ、そして函館ゆかりのシュヴェツ家について」にサハリン州アレクサンドロフスク市在住のG.スメカーロフ氏に当市に現存するシュヴェツ家のかつての家屋の写真を提供していただきました。そこで、スメカーロフ氏にシュヴェツ家について何か寄稿していただけないか打診しましたら、快諾を得て写真と共に以下のような文章を寄稿してくださいました。氏は何と函館を訪れたことさえあったのです。

(小山内 道子)

* * *

 私はサハリン州の最も古い中心地アレクサンドロフスク・サハリンスキー市にあるM・S・ミツーリ記念中央図書館の郷土誌研究部門主任として10年以上働いています。そして、私たちの町で心ならずも忘れられてきた出来事や人物に関する情報を少しずつ集めてきました。すなわち、これらの人々は100年前ここに「サハリンの巴里」と言われたサハリン州の最初の首都をつくり上げたわけですが、ソ連時代には亡命者、「人民の敵」となった人物が多かったのです。この「人民の敵・ブラックリスト」にはかつてアレクサンドロフスクの住人で、女流詩人アンナ・アフマートヴァの実弟ヴィクトル・ゴレンコ(コルチャークのシベリア艦隊の海軍士官)、伝説の力士・大鵬の父親マルキィアン・ボリシコ、さらにロシアの格闘技サンボの創始者ヴァシーリィ・オシェプコフ、また、将来「オスカー」の受賞者となるユル・ブリンナーの家族、その他多くの人々の名前が載っていたのです。

 このリストに載っている他の名前のなかで、ルーツは徒刑囚ですが生粋のアレクサンドロフスク住人のシュヴェツ家のことを私はよく知っています。ロシアで社会が二つに分裂してしまった革命期の内戦時代までに、シュヴェツ家の当主ニコライは資産家になっていました。彼の二男のドミートリィはアレクサンドロフスクで数軒の家作、倉庫、大小の商店を持っていました。毛皮類と酒類の販売を手掛けていたのです。その頃、サハリンの市民社会は、かなり進歩的な考えが支配的になっていたと私は思います。町では市議会が機能していましたし、村々にはゼムストヴォ(村会、郡会)がありました。そしてこれらの政治制度は十分民主的で、大陸本土での政治勢力の交代に左右されませんでした。新聞が発行されており、劇場も映画館も開いていました......このサハリン行政の中心地は国際的でもありました。ウクライナ人、ベロルシア人、タタール人、ポーランド人その他の後裔と並んで、大勢の日本人、中国人、朝鮮人のディアスポラが住んでいました。おそらくこのためにサハリンにおける内戦は、極東ロシアの他の中心地のように(ウラジオストク、ニコラエフスク、インペラートルスキイ湾)悲劇的、血なまぐさいものにならなかったのではないでしょうか。

 その時代の資料に当たると、一度ならずドミートリィ・シュヴェツの名まえに出会います。例えば、1917年3月6日付「アレクサンドロフスク社会安全委員会公報」第2号には、D・N・シュヴェツが総会の提案により、この組織の執行委員会の決定を得て委員会のメンバーになったことが出ています(ロシア国立歴史文書館、極東関係、РГИА ДВ ф,1416,оп.2,дю2,л5)。これはドミートリィ・シュヴェツの市民生活と人生に対する積極的な姿勢を証明するものですが、その時彼はわずか32歳だったのです。

 ロシア帝国の中では最後とはいえ、北サハリンの領域にもソヴェートの旗が掲げられることは予知されていました。アレクサンドロフスクの住民は間近に迫っている運命を既に理解していたのです。ソ連の極東で起こっていた「階級闘争」の事例によって、経営者たちはサハリンの状況に幻想を抱くことは出来ませんでした。その後サハリンに残った親族たちの悲劇が示したように、「亡命する」という選択が多くの人たちにとって唯一の正しい決定だったのです。こうしてアレクサンドロフスクを出ていった人たちの中にドミートリィ・シュヴェツ一家もいたのです。彼らは不動産はもちろん、その他の財産の一部もそのまま当地に残して出て行ったのでした。外国での苦難の数年を経て、ドミートリィは家族と共に日本の町、ハコダテに落ち着きました。

 ハコダテはロシア人の心にとっていつも真に愛すべき町です。ここにはロシア最初の領事館が置かれましたし、使徒に準ぜられるニコライ・ヤポンスキーはこの町でその前代未聞ともいうべき宣教師としての活動を始めたのです。ここでは、多くの建物がロシア式建築として建てられ、ロシア人の学校その他が機能していたのでした。

 私は郷土史家として日本への旅行を始めたのですが、もちろん、そこで同胞に出会える可能性があると考えていました。しかし、日本の土地で最初に出会うロシア人がリュボーフィ・セミョーノヴナ・シュヴェツになろうとは夢想だにしませんでした。

 2004年、私はフリゲート艦「パラーダ号」で長崎港に着きました。その時、出迎えの人たちのなかに帝政時代の金貨チェルボネツを繋いだネックレスを付けた美しい年配の婦人がいるのに気づきました。夫人はロシア正教会のニコライ神父と並んで立っていましたので私の視線を惹いたのです。私がアレクサンドロフスクから来たと言うと、夫人の目が輝きました。そして、リュボーフィ・セミョーノヴナは商人ドミートリィ・シュヴェツの嫁で、彼の息子ヴァレーリィの妻だと名乗ったのです。それから、サハリンの様子や昔のシュヴェツ家の家は残っているかどうかを訊ねました。彼女は日本でのシュヴェツ家のこれまでの歴史を話してくれましたが、私たちのおしゃべりは、その後は東京でも続きました。それは私が2010年にシュヴェツ家が住んでいる東京を訪問したからです。
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2004年、長崎ロシア人墓地でL.シュヴェツさんと

 ドミートリィ・シュヴェツはハコダテでも毛皮のビジネスを続けていました。1934年、いつものようにビジネスで出かけた帰途の列車で強盗に遭い、殺されたのです(遺体は鉄道線路の上で発見されました)。現在ハコダテのロシア人墓地ではこの町のために多くを為したドミートリィ・シュヴェツ(日本でもこの我々の同郷人は市民としての積極的な姿勢を捨てませんでした)のお墓の上に大きなスクレープ(柩安置所)を見ることが出来ます。この悲劇の後、家族は東京へ移りましたが、それはシュヴェツ家にも戦争が刻一刻と迫っていた時期でした。ちなみに、そのころ東京の中心地に2階建ての家を今の時代ではおかしいような安い値段で買い足したそうです。ドミートリィが貯めたお金で暮らせたのは最初のうちだけでした。しかし、家族のなかに労働を嫌う者はいませんでした。リュボーフィ・セミョーノヴナ自身は調理師の職業を習得しました。日本の首都でピロシキを出す軽食堂チェーンを始めたのは彼女でした。リュボーフィさんは第2次世界大戦時の少女時代、一家は長崎に住んでいました(ここに彼女の父親は埋葬されています)。リュボーフィさんは原子爆弾投下にどんなに苦しめられたか、また原爆の結果を逃れて山へ疎開したこと、いかに奇跡的に家族全員が生き延びたかについても物語ってくれました。

 神は、リュボーフィ・シュヴェツの勇気と忍耐に対して素晴らしい二人の娘を与えて報いたと言えるでしょう。二人は見事にロシア語を話し、ロシア文学、ロシアの文化に通じており、東京のアレクサンドル・ネフスキーロシア正教会の良き信徒になっています。
 ソ連崩壊後最初のロシア正教総主教アレクシイ2世が日本を訪問した際、シュヴェツ家がアレクシイ2世を自宅に招待したという事実は、この家族の日本のロシア正教会における役割をよく示していると思います。また、娘のエカテリーナはモスクワの救世主キリスト教会の聖水式に招かれたということです。

 私は国民の草の根外交は大きな力を持っていると思います。私たちロシア国民の代表といえるシュヴェツ家が善意の使者であるならば、そのことによって隣り合う両国民は共に良き評価を得るのです。清水恵の著書『函館・ロシア その交流の軌跡』がまさにこのシュヴェツ家に数十ページを捧げているのも故なきことではないでしょう。

 私が2010年に函館を訪問した時、当時の函館市国際交流課主査の倉田有佳さん、函館市中央図書館長長谷部一弘さん、その他大勢の郷土誌研究家、歴史家、司書、神父の方々との素晴らしい交流ありましたが、それはサハリンのディアスポラであるシュヴェツ家の市の発展への貢献があったからこそであり、また、日ロ文化への相互浸透に対する関心が高かったからこそ可能だったのだということが十分わかりました。
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2010年、函館市中央図書館を訪問して、倉田、長谷部さんと

 私たちは皆さまがアレクサンドロフスク・サハリンスキー地区とそこに住む人々に対して関心を持っていただくことを歓迎していますし、相互の交流をさらに深めたいと思っています。既にかなり以前からチェーホフ研究家の中本信行教授、旭川の詩人・小熊秀雄研究グループ、稚内の音楽家との実り多い協力関係を築き、相互訪問を行っています。

「会報」No.35 2013.12.7 特別寄稿

小島倉太郎の遺品にみるその足跡 ―クリルアイヌの強制移住と北海道物産共進会―

2015年2月16日 Posted in 会報
大矢京右・遠峯良太

はじめに
 小島倉太郎(1860-1895)は、明治初年の北海道でロシア語通辞として活躍した役人であり、1881(明治14)年に開拓使に奉職してから1895(明治28)年に死去するまで、クレイセロック号捜索*1をはじめ、ロシア語を必要とされる局面において数々の功績を残している。
 本稿では、小島が通訳として立ち会った千島樺太交換条約締結に伴うクリルアイヌ*2のシコタン島への強制移住(1884年)と、その後函館でクリルアイヌと再会する契機となった北海道物産共進会(1886年)について*3、市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』および北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』ならびに北海道大学附属図書館所蔵『北海道庁露語通訳小島倉太郎資料』のほか、当時の函館新聞などの関連文献をとおしてその足跡をたどったものである*4。  なお、本稿掲載のロシア語訳については遠峯が担当し、それ以外の文章および編集については大矢が担当した。
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<小島倉太郎(1884年撮影)(市立函館博物館所蔵)

千島樺太交換条約
 1875(明治8)年、日露間で千島樺太交換条約が締結され、それまでエトロフ島・ウルップ島間に設定されていた日露国境がカムチャツカ半島南端・シュムシュ島間となり、全千島列島が日本領となった。そして元来北部千島に居住していたクリルアイヌには、千島樺太交換条約附録第4条に基づき、1878(明治11)年までに日露いずれかの国籍を選択することが課せられたのである。
 1878(明治11)年8月4日、クリルアイヌに対する物資供与と国籍選択の確認を行うべく、開拓使八等出仕の井深基が汽船玄武丸にて函館から根室を経由してシュムシュ島へ向かった。そして同月12日にシュムシュ島へ到着した井深による意思確認に対し、生まれ育った土地を離れたくなかったクリルアイヌは日本国籍を選択している。
 なお、この巡航では、イギリス人地震学者MILNE,Johnと函館の写真師井田侾吉*5が同行しており、特に井田はクリルアイヌの生活文化やシュムシュ島の風景などを写真に収めている。井田自身、このときは悪天候のためにあまり写真が撮れなかったことを帰函後の函館新聞で述懐しているが、ここで撮影された写真はシコタン島へ強制的に移住させられる前のクリルアイヌの様子を撮したものとして、非常に稀少価値の高いものである。
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井田撮影のクリルアイヌの写真(1878年)(市立函館博物館所蔵)

クリルアイヌのシコタン島強制移住と小島の出向
 井深による国籍選択確認の後、1879(明治12)年と1882(明治15)年にも物資供与のためにシュムシュ島へ開拓使が巡航するが、いずれの場合においても、クリルアイヌに対してエトロフ島かその近傍への移住が打診されるようになる。これについては表向きシュムシュ島への巡航にかかる経費を軽減することや、より温暖な南方へ移住することによって一層手厚い「撫育」を施すことが目的とされているが、実際は緊張の高まりつつあるロシアとの国境地域にロシア文化を受容したクリルアイヌを住まわせておくことへの憂慮が覗われる。これらの申し出に対してクリルアイヌはいずれも固辞しており、業を煮やした政府は強制的な移住へと舵を切るのである。
 1884(明治17)年6月10日、函館県のロシア語通訳小島倉太郎に対して「御用有之根室県出張申付候事」の辞令が下され、同月16日に尾張丸で来函した参事員議員安場保和らとともに、同月22日16時に汽船函館丸で函館を出港した*6。襟裳岬沖を通過した船は25日11時に根室に入港し、本町に止宿した翌日の出港を試みるも、濃霧のために停泊を余儀なくされる。そして湯地定基根室県令も加わった小島一行は、翌27日6時15分に根室を出港した後、エトロフ・クナシリ海峡を通過してさらに北上、30日17時にようやくカムチャツカ半島と目と鼻の先にあるアライド島に到着したのである。
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明治十七年六月十日付函館県辞令(市立函館博物館所蔵)

 翌7月1日4時40分にアライド島を抜錨した後、同日8時40分にシュムシュ島チボイネ港に投錨した小島一行の元へ、クリルアイヌの首長アレキサンドルが函館丸の元へ舟で訪ねて来、歓迎の意思を表した。そして一行は13時30分にシュムシュ島に上陸し、小島は同行した赤壁次郎、吉田政明とともに戸口調査を行うとともに、人員調査を行っている。こうして具体的な話の無いまま一行は21時には帰船し、初日を終えている。
 翌2日、クリルアイヌに対する給与品が揚陸され、日がな一日給与品の配布が行われる。その合間には、小島を通訳としてアレキサンドルに対する聞き取り調査が実施され、クリルアイヌの生活の様相やシュムシュ島の風土などが記録されている。この日の作業は21時には完了するが、クリルアイヌに対しては翌3日に一同集合するよう指示が与えられた。
 1884(明治17)7月3日、この日がクリルアイヌの運命の日となる。給与品の礼に訪れたアレキサンドルに対して、湯地県令は「我国ノ内地ヲ一覧」するよう誘いかけた。家族を残してはいけない旨返答するアレキサンドルに対して、湯地県令は更に「家族又ハ其他共挙テ内地ニ行ク」ことはどうかとたたみかけ、答えに窮したアレキサンドルが「一同へ協議セサレハ御答申兼候、然シ私ニ於テハ家族ト共ニ行ク事ナレハ差支無之候」としたのに乗じて、クリルアイヌ全員のシコタン島への移住へと論点をすり替えていったのである。事実上この日のみでクリルアイヌのシコタン島移住が決定し、小島と吉田らは集落で家財道具の量を点検。最後まで頑強に移住反対であった副首長ヤコフ=ストロゾフは和人の幕営に連れて行かれて「説諭」され、午後には移住の準備に取りかかることとなった。既にシュムシュ島へは帰れぬことを悟ったのか、クリルアイヌは連れて行くことのできない犬たちをことごとく撲殺している。当時のクリルアイヌの様子については、その場に立ち会った政府側の人間である安場保和も「縣令懇諭の誠切なるに感ずる所」あるとしながら「老人は稍愁眉の態ある」【安場保1884(1931):49】とし、娘婿の安場末喜も「今回ノ移住ハ土人ニ取リテハ非常ナル事件ニテ容易ナルコトニアラズ。然レドモ果断ノ気象ト日本人ヲ信ズル処ヨリ、遂ニ意ヲ決シ、為事非常ナル英断ヲ為セリ。然レドモ流石ニ故郷ノ事ナレバ老人女子ノ如キハ流涕スルモノアリ」【安場末1884(1931):59】と述懐している。
 函館丸への家財道具積み込みが全て完了したのは、7月5日の16時である*7。同日17時30分には天幕の片付けも終わって全員が乗船し、翌6日15時にシュムシュ島チボイネ港を出港するという、まさに駆け足の撤収作業であった。同月9日にエトロフ島の紗那港と振別港に寄港した後、同月11日の7時20分にシコタン島に到着したのであるが、すでにこの時、後の民族の運命を暗示するかのように、複数のクリルアイヌが体調の不良を訴えていた。
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同行した根室県医員矢野大四郎(市立函館博物館所蔵)

シコタン島での生活と根室での別れ
 シコタン島に到着した一行は、取り急ぎ天幕を張って病人と子供を収容し、家財道具と給与品の揚陸作業に取り掛かった。作業は順調に進捗し、正午には作業が完了。酒宴が開かれた後、18時45分には通訳の小島、根室県医員矢野大四郎、根室県勧業課吏員赤壁次郎以外の役人全員が函館丸で帰根した。7月12日から14日までの3日間については確かな記録がないが、7月15日から19日までの間、小島と赤壁は集落建設地を決めるべく、クリルアイヌを引き連れてシコタン島内の巡検を行うとともに、漁業を試行している。その上でシコタン島北東部に位置する斜古丹湾岸が居住地として最適と判断され、同地の測量と道路工事が開始された*8。そして8月16日には根室県勧業課出張所が開設されるとともに根室県から大工1名と人夫6人が派遣され、集落の建設は急ピッチで進んでいったのである。おそらく移住したばかりの日本語の不自由なクリルアイヌにとって、ロシア語の堪能な小島の存在は欠かすことのできないものであったことは想像に難くない。なお、小島在島中の8月6日には、クリルアイヌの児童8名が根室の花咲学校に入学している*9。
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小島・矢野と根室花咲学校入学のクリルアイヌ子弟(1884年8月24日撮影)

 8月18日、根室県勧業課吏員の鈴木七郎が出張所に赴任してきたことにより、長かった小島の根室県出張が終わりを迎える。翌19日に矯龍丸で根室に戻った小島に対して、その功績大なるを認めた根室県は、22日に文書「御用義有之候条礼服着用即刻出頭可有之候也 十七年八月廿二日 根室県庁 小島倉太郎殿」で小島の登庁を促し、同日「千島巡航中格別勉励ニ付」「慰労金弐拾五円」を下付している。小島は24日に根室を離れるが、この際には根室県医員矢野大四郎と花咲学校に通うクリルアイヌの子弟らと記念撮影し、矢野からはポートレートをもらい受けている。
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明治十七年八月二十二日付根室県文書
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明治十七年八月二十二日付根室県辞令(いずれも市立函館博物館所蔵)

帰函と投稿・資料寄贈  8月26日に函館に戻った小島は、千島行の顛末についてかねてより記事投稿の約束を交わしていたロシアの隔週刊紙『Владивостокъ』へ9月10日に投稿した。この記事は10月14日発行の同紙1884年42号の5面から6面にかけて掲載され、クリルアイヌの(強制)移住について広く国内外に知らしめるものとなった。ちなみに、小島自身は12月1日に同紙を入手している*10。
 また小島は、クリルアイヌから入手した彼らの鎌と雪眼鏡を9月30日に函館県博物場(現在の市立函館博物館の前身)へ寄贈しており、それらの実物資料が現在も市立函館博物館に収蔵されているのはもちろんのこと、寄贈に伴う受領証も平成21年に小島の遺族から同館へ寄贈された『小島倉太郎関連資料』の中に含まれている。なお函館県は、1881(明治14)年に閉館した開拓使東京仮博物場の資料*11を受け入れるために、1884(明治17)年8月11日に函館県第二博物場を開館しており、おそらく小島の寄贈したクリルアイヌの民族資料も、開場間もない当該博物場において展示されたであろう。
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小島が函館県博物館に寄贈した雪眼鏡
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明治十七年九月三十日付受領証(いずれも市立函館博物館所蔵)

後日談 ――北海道物産共進会での再会――
 一方、シコタン島での生活をスタートさせたクリルアイヌは、1884(明治17)年8月10日付の根室県勧業課の指針に従い、「開墾種芸其他殖産上一切ノ事」や「養牛ノ監護及繁殖」などを奨励され、同時に「国語ヲ習ハシムル事」や「猟虎膃肭臍及黒狐等ノ銃猟ヲ禁止」されるなど、着々と同化政策が推し進められた。そしてこれら「殖産」活動の成果の一環として、移住翌年の1885(明治18)年11月1日から15日まで根室で開催された北海道物産共進会には、自分たちで生産した馬鈴薯や木工芸品などを出品し、褒賞を得たとの記録もある。
 クリルアイヌの移住から2年が経過した1886(明治19)年、10月15日から26日までの12日間にわたり、函館区海岸町*12において北海道物産共進会が開かれ、クリルアイヌも再び農作物と木工芸品を出品することとなった。根室からの出品物は20日には函館に到着して陳列されるが、根室の勧業課吏員鈴木七郎に引率された首長ヤコフ=ストロゾフと副首長ケプリアン=ストロゾフの二人は自ら出品物を携え、根室発函館行の陸奥丸で22日に函館に到着したのである。
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1887年当時ノ共進会場(函館市街全図より)(函館市中央図書館所蔵)

 来て早々24日には10時から褒賞の授与式が執り行われ、1~3等の者に北海道庁理事官時任為基から褒賞が授与されているが、このときにクリルアイヌの出品物が褒賞を授与したか否かについては記録がない。また、同日田本写真館で撮影された記念写真には、2人のクリルアイヌと鈴木七郎とともに、小島も一緒に写っている。強制移住直後のシコタン島で1ヶ月以上にわたって生活を共にし、はるばる函館までやってきた3人に対して、旧知の仲である小島が同行したであろう。北海道物産共進会は10,000人余りの来場者を記録して10月26日に幕を閉じるが、クリルアイヌが持参した楽器や杓子などの木工芸品の一部は、当時の函館博物場に寄贈されている。
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1886年10月24日田本写真館撮影写真(左からケプリアン・小島・ヤコフ・鈴木)(市立函館博物館所蔵)

 その後2人のクリルアイヌは「滞在中閑暇に任せ函館各学校及び博物場町会所七重農業場大野の水田其の他重立たる場所建物等」を見学して廻っている。クリルアイヌ関連資料が収蔵・展示されていたであろう函館博物場を見学したのはさもありなんといったところであるが、クリルアイヌに対しては1885(明治18)年4月2日付で「七重農工事務所」のサウスダウン種綿羊が貸与されており、桔梗村にあった七重勧業試験場所管の牧羊場にもおそらく足を運んだであろう。また「大野の水田」も見学していることは興味深い事実である。
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開場間もない頃の函館公園内の函館博物場
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七重勧業試験場桔梗牧羊場のサウスダウン綿羊(いずれも函館市中央図書館所蔵)

 10月31日、6時発の厚岸根室行陸奥丸にてクリルアイヌは函館を離れ、シコタン島へ戻っていく。シコタン島へ戻ったケプリアンはわずか2年後の1888(明治12)年12月16日に52才でこの世を去り、ヤコフも1903(明治36)年7月28日に66才で死去した*13。クリルアイヌに施された殖産事業も1894(明治27)年の洪水で大打撃を受け、結局その後は沿岸地域での細々としたフノリ採集が中心的になっていった。急激な生活環境の変化や慣れない生業への転換、和人との混血が進んでいく中でクリルアイヌ固有の文化は次第に姿を消してゆき、現在彼等の伝統的な文化を継承している方は確認されていない。

おわりに
 以上、クリルアイヌのシコタン島強制移住から北海道物産共進会函館開催までを、主に北海道大学附属図書館所蔵『千島巡航日記』および市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』中「明治初年の写真アルバム」を中心に、強制移住に立ち会った者の手記や当時の函館新聞の記事きなどで情報を補完しながらできるだけ詳細にその足跡をたどってみた。小島は本稿で触れたもの以外にも、『千島巡航日記』に合冊された「占守島」という標題の覚書や、北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』中の「Путешествие на Курильские острова」という手書きの文書を残しており、これらは強制移住前のクリルアイヌの生活文化を知る上で貴重な一次資料となっている。
 現在独自の文化を継承する方が確認されていないクリルアイヌの民族文化を研究するに当たっては、小島が残した文書資料ならびに小島にゆかりのあるクリルアイヌ関連民具資料を総合的に研究することは極めて重要になるであろう。
 なお本稿は、公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の平成25年度研究助成採択事業「道南のアイヌ文化に関する総合的研究」の成果の一部を利用したものである。


■ 註
*1 前稿「小島倉太郎の遺品にみるその足跡――クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで――」を参照。
*2 千島列島北部に居住していたアイヌの一分派で、千島樺太交換条約(1875年)に伴い1884(明治17)年に南千島シコタン島へ強制的に移住させられた。地理的・政治的にロシアの影響を強く受けていたため、言語や宗教などの生活文化はロシア化されていた。
*3 クリルアイヌ強制移住の顛末については、公的な復命書である『千島巡航日記』の他、『Владивостокъ』1884年42号に掲載された小島の投稿記事(以下「ウラジオストク掲載記事」とする)や同行した参事院議員安場保和とその娘婿末喜の私的な日記などがあり、それぞれの内容に細かな相違点がある。本稿においては時系列表現に最も妥当性のある『千島巡航日記』の内容に基本的に準拠して記述する。
*4 小島倉太郎の遺品は北海道立図書館にも寄贈されているが(主に書籍類)、小島の令孫である小島一夫氏が寄贈したとされる50点の資料のうち、小島倉太郎が旧蔵していたことが現在明確に確認される資料は、「小島」印(北大所蔵資料に押印されたものと同一)を押印された『蝦和英三対辞書』1点しかない。
*5 幕末~明治初期に活躍した函館の写真師、田本研造の弟子である。
*6 安場末喜日記では、天候不順のために23日に出航したとある。
*7 ウラジオストク掲載記事では7月2日14時となっている。
*8 ウラジオストク掲載記事では、クリルアイヌはシコタン島到着の翌日からすぐ斜古丹湾岸に住居を建て始め、その後周囲を巡検した上で事後承諾のような形で斜古丹湾岸を集落に決定した旨の記述がある。この記述に従えば、7月12日から14日までの空白期間と15日から19日までの巡検期間、それ以降の本格的な集落建設への着手という一連の流れには妥当性がある。
*9 ウラジオストク掲載記事では、8月4日に少年5人と少女1人の6人が連れて行かれたとしているが、8月24日に撮影された写真には少年6人と少女2人が写っている。
*10 ウラジオストク編集部から小島に送られた1884年4月2日付の書簡は、長崎・神戸・横浜を経由して、千島出発直前の5月12日に小島の元に届いている。同書簡とウラジオストク掲載記事については、本稿末に全訳を掲載する。
*11 1875(明治8)年の千島樺太交換条約締結に伴う千島巡検の際に開拓使によって収集された、クリルアイヌ、イテリメン、アリュートなどの民族資料である。
*12 現在の函館市立北星小学校近辺一帯に共進会場と競馬場があった。
*13 2012(平成24)年8月現在、シコタン島の「クリル人墓地」には現在も「神僕ストロソフイヤコフ酋長墓」と刻まれた墓標が存在している旨確認されている(函館ラ・サール高等学校教諭小川正樹氏によるご教示)。

■ 参考文献
阿部正己編「色丹島旧土人沿革」(河野本道選1984『アイヌ史資料集(第二期)』5 北海道出版企画センター;札幌市収録)
大矢京右2010「小島倉太郎関連資料」『市立函館博物館研究紀要』20 pp.51-56 市立函館博物館;函館市
大矢京右2012「小島倉太郎の遺品にみるその足跡――クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで――」『函館日ロ交流史研究会会報』33 pp.2-6 函館日ロ交流史研究会;函館市
小島一夫1994『小島倉太郎を偲んで』私刊;札幌市
小島一夫1998『けんかたばみ回想記』私刊;札幌市
ザヨンツ, マウゴジャータ2009『千島アイヌの軌跡』 草風館;浦安市
根室・千島歴史人名事典編集委員会編2002『根室・千島歴史人名事典』根室・千島歴史人名事典刊行会;根室市
安場末喜1884「日記」(清野謙次1931『明治初年北海紀聞』所収)
安場保和1884「北海道巡回日記」(清野謙次1931『明治初年北海紀聞』所収)
『小島倉太郎関連資料』市立函館博物館所蔵
『小島倉太郎文書』北海道立文書館所蔵
『千島巡航日記』北海道大学附属図書館所蔵
『田本アルバム』函館市中央図書館所蔵
『元開拓使七重勧業試験場写真』函館市中央図書館所蔵
『函館市街全図』函館市中央図書館所蔵
1884年6月11日付『函館新聞』1051号1面「御用出張」函館市中央図書館所蔵
1884年8月28日付『函館新聞』1090号1面「帰函」函館市中央図書館所蔵
1884年10月14日付『Владивостокъ』42号5面-6面「Заграничныи Известiя」 北海道大学附属図書館所蔵
1886年10月23日付『函館新聞』1668号2面「千島旧土人」函館市中央図書館所蔵
1886年10月28日付『函館新聞』1672号2面「色丹島旧土人」函館市中央図書館所蔵
1886年10月29日付『函館新聞』1673号3面「正誤」函館市中央図書館所蔵
1886年11月20日付『函館新聞』1691号1面「根室色丹島詳報」函館市中央図書館所蔵
1886年11月21日付『函館新聞』1692号2面「根室色丹島詳報」函館市中央図書館所蔵

■ 訳文:書簡(北海道立文書館所蔵)
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『Владивостокъ』編集デスクから小島への書簡(1884年4月2日付)(北海道立文書館所蔵)

週刊「ウラジオストク」新聞デスク
1884年3月2日
ウラジオストク市
(沿海州)
拝啓
 貴殿のご提案を喜んでお受けします。また、新聞からの抜粋と、日本の社会的・政治的現実のすべての特筆すべき現象に関するご自身の個人的メモをお送りくださるようお願いします。  新聞は同封したとおりです。

敬具
デスク N.■■■(苗字判読不能)

■ 訳文:ウラジオストク掲載記事(北海道大学付属図書館所蔵)
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『Владивостокъ』1884年42号(小島による書き込みが確認される)(北海道大学附属図書館所蔵)

海外の情報
函館(「ウラジオストク」通信員) 9月10日
 長い間沈黙していたのは、不在にしていたためであった。
 私は依頼を受けて根室、さらにそこからクリル諸島へ行っていたのである。日ロ間で樺太千島交換が成立してからというもの、わが国の政府は毎年根室から島々に、住民のための食料品や生活必需品を載せた船を送りこんでいるという事実がある。今年も例年のとおり船が派遣された。根室からは函館丸という汽船をチャーターし、食糧や品物のほかに、東京の中央政府によって根室から派遣された湯地縣令が乗船していた。
 6月30日、私たちはアライド島に、続いて7月1日にシュムシュ島に錨を下した。汽笛でクリル諸島の住民に到着を知らせると、30分後には村落から2艘の船が出てきた。そのうち1艘には首長アレクサンドルが乗っており、縣令らが順調に到着したことを歓迎し、島が平穏無事であることを知らせてきた。私たちは、上陸すると山側の彼らの村落へ向かった。集められた身分証明書を見て、この田舎の村落では、昨年において60人の人口増加があったことが判明した。彼らがどこから来たのか尋ねたところ、シュムシュ島とラショア島であり、仲間に面会するために来たとの答えが返ってきた。縣令は、全住民にたばこやワイン、パンなどの贈り物を配付するよう命じた。私たちは、近くに人の住む島はないかどうか知りたかったが、すべてのクリル諸島の人間はこのシュムシュ島にいるとのことであった。そこで縣令は、シュムシュ島が根室からあまりにも遠いため、必要な援助や保護を行うことが困難であるとし、彼らにもっと近い島へ移住してはどうかと提案した。住民はほぼ全員、縣令の提案に賛同し、家財道具を村落から汽船の停泊する海岸まで運んできた。翌日、クリル諸島の住民たちも船上の人となり、7月2日午後2時に、私たちは島を後にしたのである。
 縣令の指令により、全島民が根室から33里離れたシコタン島に渡った。7月9日にエトロフ島に立ち寄り、私たちが連れてきた人々がアイヌ語の方言を話すかどうか尋ねた(当地にはアイヌ民族が住んでいる)が、クリル諸島の人々の言語はアイヌ語との一致点が多く、互いの話を理解するのは容易であるとのことであった。クリル諸島民でアイヌ民族は1種族ではないのかと尋ねると、「それはわからないが、私たちはアリュート人でなく、カムチャダール人でなく、クリル人でもないからアイヌであると言い伝えられている」とのことであった。このことは、他の質問に対する答えにより裏付けられた。
 翌日、エトロフ島を後にし、私たちはシコタン島に向かった。7月11日の朝、ちょうど斜古丹湾の一つに入ったが、そこは船を停泊させるのに最適な場所であった。ここでテントが2つ壊れたため、クリル人たちを移動させ、私と農業技術者、医師も残った。翌日、それぞれの家族はめいめい自分の家を建て始めた。辺りを見て、クリル人たちにどこに移住したいかと尋ねたが、それに対しては次のような答えが返ってきた。この島は、申し分のない湾が豊富にある。なぜならば、魚やワモンアザラシ、オットセイなどを必要としているためであり、それらが最も多い場所を望むとのことであった。斜古丹湾の付近はワモンアザラシのほかにトドも生息しており、ましてこの湾にはカラフトマスなどのたくさんの種類の魚が数多く生息する川が流れ込んでいるため、私たちはここにクリル人たちを移動させることにした。
 この問題が解決すると、クリル人たちは急いで仕事に取り掛った。山で木を伐り移住地まで運んできて、家や家具を作っていった。板、釘、縄、大工道具などは根室から運ばれた。野菜栽培や畜産について、彼らのために教えられることはすべて教えられた。野菜栽培においては農業技師が、海の漁業における引網の改良においては漁師が雇われ、指導にあたった。
 クリル諸島民の人数はわずか97人で、うち45人が男性、52人が女性であったが、労働可能な人員は男性30人、女性25人であった。8月4日、矯龍丸という汽船で役人が数人根室から到着し、村落を検視し、クリル人の少年5人と少女1人を、教育を授けるためということで連れて帰って行った。8月18日、私たちは新たに任命された職員と交代することとなり、私は根室に戻って8月26日に函館に到着した。

K.K-a(小島倉太郎)

「会報」No.35 2013.12.7

過ぎ去りし時代に触れて

2015年2月16日 Posted in 会報

アンドレイ・グラチェンコフ/遠峯良太 訳

 75年も前の書物を手に取るのは、ある意味でイベントのようなものだ。そのような書物との出会いは、すなわち過ぎし年月との巡り合いである。ページをめくっていくと、何とも不思議な、過ぎ去りし時代に触れていくことができる。
 1937年に日本で刊行された「最新露語読本」を読んで、私はこうした過ぎ去りし時代への接触を経験した。
 この本はあまり分厚くはないが、著者のセミョン・ベク=ブラート=スミルニーツキーの肖像で始まっている。
 冒頭の写真には、3つの勲章をつけた黒いフロックコートを纏った、若く逞しい30歳過ぎの男性が写っている。これは1917年の10月革命以前に撮影されたものと思われるが、来日後間もない頃の写真かもしれない。黒い眼に黒髪、黒い髭はこの人物がタタール系の祖先をもつことを物語っているが、そのことを裏付けるのは、彼の長い苗字である。苗字のことは後述することとし、まずは勲章のことについて述べたい。
 写真には、三等聖スタニスラフ勲章、二等聖アンナ勲章、フランスのレジオンドヌール勲章が写っている。これらの勲章は一体何を物語っているのだろうか?

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写真左から、二等聖アンナ勲章、三等聖スタニスラフ勲章、レジオンドヌール勲章

 第一次世界大戦中(1914~18年)、著者はドイツ戦線で戦っていたが、このフランスの勲章を受けた場所は、ロシアとフランスのどちらなのであろうか?当時、フランスとロシアは同盟国であった。フランスではロシアの派遣軍がドイツ戦線で戦っており、多くの将兵がフランスの勲章を受章した。スミルニーツキーはフランス語に堪能だったことから、勲章はフランスで受けたのだと推察できる。根拠不十分のため、残念ながら断定することはできないが。
 また、これもあくまで推測であるが、スタニスラフ勲章は軍功により受章したものなので、写真では確認が困難だが、これは剣付スタニスラフ勲章ではないかと思われる。剣付三等聖スタニスラフ勲章が、この若き下級士官に授与されたのではないだろうか。
 そして、最高級のものが二等聖アンナ勲章である。これはスタニスラフ三等勲章よりも上位と見なされている。勲章は首に掛かっているが、これぞかの有名な「頚の上のアンナ」である。チェーホフの作品に親しむ読者ならば、もちろん同名の短編小説を想起するであろう。
 頚の上のアンナ、スタニスラフ、胸にはフランスの勲章。これは典型的な勲章の1セットであり、この若き士官が最低でも中尉、最高で二等大尉の階級に昇進していることを示している。
 次に、彼の苗字について少し触れたい。二重姓であることから、間違いなく貴族のそれである。二重姓は2つの部分、もしくは2つの姓で構成されている。著者の二重姓は父親から受け継いだものだ。なぜならば、二重姓は決して女系で継承されるものではないからである。それから、こうした苗字を持つ者は世襲貴族であった。
 「世襲貴族」とは何か?ロシア帝国の貴族には、世襲貴族と一代貴族が存在した。一代貴族は、自らの出自を誇れるものではなかった。元々は商人や農民、コサックあるいは職人といった人々であり、その称号は、一義的には兵士が主君に忠実に尽くし軍功をあげることにより与えられていた。なお、18世紀になると、貴族の称号とともに、金銭や土地、農奴も与えられるようになっていた。
 一方、世襲貴族は、12~16世紀には既に高い地位を得ていた。著者の祖先はタタールの公、あるいはブラート家の領地の「ベク」(訳者注:封建諸侯・地主・高官の称号)であった。まさに苗字の最初の部分が、そのことを示している。
 16世紀、モスクワ大公国がカザン・ハン国とアストラハン・ハン国を滅ぼした結果、多くのタタール人の名士がロシアのツァーリのもとに仕官し、モスクワ大公国の世襲貴族の一員となった。なお、同様の出来事は18世紀末に、ロシア帝国がクリミア・ハン国を併合した際にも繰り返されたのである。
 しかし、著者の苗字はタタール・ロシア系ではなく、タタール・ポーランド系である可能性もあり、興味深い。そのことが表れているのが、苗字の後半の「スミルニーツキー」という部分である。
 スミルニーツキー姓は、ロシアのスミルノフ姓に相当するポーランド式の苗字であり、「穏やかな」「優しい」という意味の「スミールヌィ」という語を子どもが渾名として用い、そこから派生したものである。スミルニーツキー姓を持つ貴族は多く、彼らの祖先は、当時、大ポーランド・リトアニア王国の一部であったウクライナやリトアニアから移住してきた人々であった。
 さて、二つの姓はいつ、どのような理由で一つに結合したのであろうか。著者の祖先の誰かが、他のベク=ブラート姓の人々と区別するために妻の苗字を繋げたということも考えられる。また、著者の祖先の誰かが、かつてスミルニーツキー家に属していた領地を取得したということも考えられる。新たに領主となった者は、領地とともに新しい姓を持つ権利も得られた。そのようなケースは頻繁ではなかったが実在した。しかし、根拠不十分のため、この謎を完全に解き明かすことは難しい。
 それでは、書物自体について少し述べたい。目次から、この本はロシア語の読本であることが見て取れるが、採用しているテキストが、著者の個性や文学的嗜好、政治的立場を自ずと物語っており、興味深い。一方、このテキストには、日本で日本人にロシア語を教える際に役立つ方法論が見当たらない。
 著者の個性は、間違いなく読本の題材に反映されている。
 彼は君主制主義者であり、このことは、君主制を共和制よりも遥かに高く評価しているテキストから垣間見ることができる。別の観点から述べると、1930年代に日本で君主制を批判することは、亡命者の立場としては不可能であり不適切であったことも忘れてはならない。

 また、この読本にざっと目を通しただけでも、ソビエト・ロシアの実情に言及したテキストが存在しないことがわかる。
 1917年のボリシェビキ革命から1937年まですでに20年、1924年の日ソ国交正常化から12年が経過していたのであるが、ソ連の新聞や雑誌、ソ連の作家による作品のテキスト(唯一の例外はあり)がこの読本には一つも収録されていない。なんと残念なことであろう!
 社会や日常生活における習慣が大きく変化したことにより、1920~30年代のロシア語には何百、あるいは何千もの新語が登場したのであった。しかし、1919年にロシアから亡命してきた著者は、こうした変化について知る由もなく、何よりも経験不足であったため、それらを過小評価していたのである。その結果、彼はロシア語の発音の変化を軽視することになり、基本的には、20世紀初頭のロシア語学習におけるアクセントがそのままになっている。
 テキストは教訓に富んだロシアの童話から採用されている。その主人公はペットや獣である。20世紀初頭にも、21世紀初頭にも子供たちに読まれてきたお話であり、私自身も子供時代に読んだし、自分の子供たちにも読み聞かせたものである。古き良き時代のロシア語ではあるが、馴染みのない農民の語彙も見られる。それらは童話の中に残っているだけで、日常会話としては完全に忘れられたものである。
 ロシアの農民の常識が反映された諺も多く、中には今でも使われているものもある。
 詩も多く、詳しくは、それはクルィロフの寓話である。この作家は今ではほとんど忘れられているが、40~50年代に広く出版され、学校でも教材として使われたものだった。
 童話が教材の大部分を占めるため、19~20世紀のロシアの古典文学作品は完全に欠落している。読本にはゴーゴリ、プーシキン、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフの作品の、ただの一節も入っていない。その理由は、ロシア語能力がそれほど高くない生徒向けの読本という位置づけにしたためかもしれない。あるいは詩の読解には高い語学力と詩文学の深い知識が必要だからかもしれない。一体、この読本はどのような人に向けに書かれたものだったのであろうか?
 また、著者がフランス語から翻訳したテキストがあることから、著者が生徒に自身のフランス語の知識を披露したかったように思われる。
 「運命」(No.103)という新しいソビエト文学の短編小説が収録されている。テキストは難しく、祖国戦争の時代にウクライナで起こった出来事について書かれたものである。過酷な時代の詳細な描写が豊富で、ウクライナ語の語彙も多い。
 ここで疑問がわく。もし読本のテキストが初級レベル向けであったとしたら、ロシア語能力の高い生徒とは読破できたのであろうか。このテキストは詳しい解説を必要とするはずであるが、それが読本中に存在しないのである。
 読本中には解説はついていない。基本的な慣用句の解説さえもない。こうした慣用句を学ぶことをこそ、いかなる読本も意図しているのにも関わらず、である。
 いや、著者の作品にあまり厳しい態度をとるのはよそう。21世紀の詩文学の立場から見て、過去50年で外国語教育法においてどのような変化が起こったかを忘れてはならない。ベク=ブラート=スミルニーツキーの教本は、彼の時代においては有益な書物であったのである。
 そして最後に、本書が出版されたのは1937年であるが、この時代について触れないわけにいかない。この年はソ連で大規模テロルの発生がピークに達し、その後下火にはなったが、スターリンの死去まで続いた。彼はこのことを知っていたのか、大変興味深い。もちろん、スミルニーツキーは、30年代のソ連で何が起こったのかは知っていたけれども、弾圧があったにも関わらず、君主制主義者のスミルニーツキーは、自身の息子のソ連国籍取得をソ連政府に申請しているのである。なぜだろうか?まず考えられるのは、多くのロシア人の亡命者たちと同様、スミルニーツキーもスターリンの独裁にナポレオン・ボナパルトの体制との共通点を見出していたのであろう。ナポレオンは最初の執政となった後、大フランス革命に反旗を翻すテロルの時代を経てフランス皇帝になったのである。
 ソビエト・ロシアでは、ボリシェビキ革命の指導者や祖国戦争の将軍であったユダヤ人とロシア人、ウクライナ人とポーランド人、リトアニア人とラトビア人、グルジア人とアルメニア人などが根絶やしになってしまった。つまり、スターリンがナポレオンのように大ロシアの皇帝になる段階になったということである。スターリンはロシアの皇帝になるのは間に合わなかったが、なりたいとは思っていた。しかし、彼が握った権力は、世界のどの君主も持ったことがないものであった。
 著者は、結局ロシアにおける君主制復活を待ちきれずに、第二次世界大戦後に日本で亡くなった。彼の生前、日本において生活のすべてが大きく変わり、ソ連が世界の大国の一つになった。日ソ関係の新しい時代が始まったのであるが、こうした変化を反映させた新しい読本を著すことはできなかった。

 これはオフレコであるが、最後に著者の伯爵の称号と苗字に関して不可解な点があることを指摘しておきたい。
 ロシア帝国の伯爵のリストには、1916~17年には著者の苗字はない。
 スミルニーツキー家には伯爵はいない。タタール人の称号のリストにも著者の苗字はない。ロシア帝国の貴族の主要な姓のリストにも著者の苗字はない。そして、貴族の主要な二重姓のリストにも著者の苗字はないのである。

「会報」No.35 2013.12.7 「会報」33号報告翻訳

ロシア国立極東歴史文書館と国立沿海地方文書館をウラジオストク市に訪ねて

2015年2月16日 Posted in 会報

倉田有佳

 今年の8月、ウラジオストクを訪問し、ロシア極東国立歴史文書館(「RGIA DV」。ロシア語表記では「РГИА ДВ」)と国立沿海地方文書館で史料調査を行った。前回調査に訪れたのは2010年3月のことで、この時のことは、会報33号で報告している。
 前回同様、「RGIA DV」から徒歩数分の場所にあるホテル「プリモーリエ」に予約しようとしたが、夏の繁忙期とあって既に満室だった。そのため、ウラジオストク日本センター職員のオーリャに助けを借り、ウラジオストクホテルの分館に当たるホテル「エクアートル」を確保した。
 ここのホテルは、8階と9階がリニューアルを済ませており、値段は他の階に比べて高い。私は海側ではない、安い方の部屋を予約したが、8階の客に対するフロントの女性たちの対応は親切だった。
 宿泊客の大半は、国境近くの中国東北地方からチャーターバスに乗って大挙して観光に訪れる中国人団体旅行客だ。夜はホテルの入口付近で涼むためにたむろしている中国人の数があまりに多く、函館西部地区に静かに暮らす日常とはかけ離れた光景に圧倒された。ウラジオストク・ビエンナーレが始まると、それに参加する日本人の若者の姿も見かけるようになった。
 8月半ばのウラジオストクは、函館とは比べ物にならぬくらいの猛暑だった。ホテルの部屋には扇風機しか備わっていないため、夜は寝苦しく、寝付かれない日々が続いた。お湯・水の出も悪く、モスクワでの寮生活の苦労が思い出された。
 さて、ホテルから「RGIA DV」のあるウラジオストク駅手前までの道は、往路は長い下り坂だ。そのため、毎朝8時45分にホテルを出れば、9時過ぎには到着した。閲覧室は冷房が寒いくらい効いていたため、首にストールを巻き、膝には大判のハンカチをかけるほどだった。


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ロシア極東国立歴史文書館の入口

 夏休み中ということもあってか、閲覧室には、ノボシビルスク、ハバロフスクなどから調査出張にやってきたロシア人研究者がいた。自分の家族に関する史料の閲覧を申し出る若者も1週間で3人ほどやって来ていた。
 史料をカメラで写すには、1枚810ルーブル(2,700円程度)必要だった。ロシア人は、自分のパソコンに打ち込んでいた。かつてのように、ひたすら書き写すという姿はあまり見かけなかった。
 前回来た時には、同じ建物に国立沿海地方文書館(「GAPK」、ロシア語表記では「ГАПК」http://www.arhiv-pk.ru/)が入っていたが、今回聞いてみると、「サハリン通り」という、ずいぶん遠くに移転したことがわかった。しかし、ヒサムディーノフの著書(Амир Хисамутдинов. Русские в Хакодате и на Хоккайдо, или заметки на полях. Владивосток, 2008,С.326.)によれば、レベデフの証明写真があるはずだった。だめもとで電話したところ、同日の昼過ぎに来るようにと言われた。
 駅から出ている31番のバスに乗り、「陶器工場(Фарфоровый завод)」で下車し、陶器工場に向かう長い長い階段を下りていった。下りきったところにホテル「白鳥(Белый лебедь)」が現れ、「GAPK 工場沿いに380メートル先」と書かれた表示が出ていた。老朽化した巨大な横長の工場の中からは、労働者たちの不審者を見すえるような視線が飛んできた。ソ連時代に逆行した気分がした。しかも歩いているのは、異臭漂うどろんこ道だ。

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沿海地方国立歴史文書館が入居する陶器工場の建物。上にある赤い看板が目印。この入口の扉から階段を上がっていくと閲覧室に出る

 やっとのことで「GAPK」の赤い看板が右手に見えてきた。入口の扉は開いており、ここから階段を上っていくと、その先は、外観からは想像できないくらい清潔で快適な空間があった。しかも閲覧室の女性は、約束通りレベデフのフォンド(簿冊)を用意しておいてくれた。その中には、トボリスクの中等神学校を終えたばかりの21歳のレベデフのポートレートが収まっていた。田舎臭い青年で、函館領事時代のプライドが高く、傲慢なレベデフとは別人のようだった。

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東洋学院入学時21歳のレベデフ

 帰りは下り坂を選び、停留所「サハリンスカヤ(Сахалинская)」に向かった。巨大な熱併給発電所の工場群を右手に見ながら、1キロほど歩き、行きと同様、31番のバスに乗った。行きは道路が渋滞していたため、1時間余りを要したが、帰りは30分程度で市の中心部に到着した。

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煙突が立ち並ぶ熱併給発電所

 今回の調査の成果は、論文「東洋大学卒 在函館領事E.レベデフ」(『ドラマチックロシア in Japan III』)に発表する予定である。
 最後に、今回閲覧した主な史料は以下のとおりである。

<RGIA DV>
○東洋学院時代のレベデフ関係
ф.226.оп.1.д.22.56Л. Списки студентов институтов за 1899-1914.
ф.226.оп.1.д.28.15Л. Журнал выходящих и исходящих бумаг за 1899-1912гг.
ф.226.оп.1.д.35.292Л. Экзаменационные ведомости и списки студентов и слушатели института. 21 апреля 1900- дек.1905г.
ф.226.оп.1.д.37. 58Л. Сведения о студентов (кондитные листы). Списки студентов и слушателей института 5 сентября 1900 - 22 ноября 1900.
ф.226.оп.1.д.46.137Л. Переписка со студентами о предоставлении им летных льготных командировок и получении на командировочных пособый. 20 марта 1900г.- 25 ноября 1904г.
ф.226.оп.1.д.56.176Л. Учебные программы предметов Восточного Института ноября 1901-1902.
ф.226.оп.1.д.117.48Л. Список лиц, окончивших института 1903-1913.
ф.226.оп.1.д.119.72Л. Список лиц, окончивших института 1903-1909гг.
ф.226.оп.1.д.129. 38Л. Отчеты директора Восточного Института о деятельности института за 1904г. и финансовый отчет Восточного Института за 1905г.
ф.226.оп.1.д.145. Переписки с Примаурским генерал-губернатором об окончании заняти по слуаю возникновения войны с Японией. 30 января 1904 - 27 февраля.
ф.226.оп.1.д.150.100Л. Переписка с министерством народного просвещении о выдаче аттестатов студентов и слушателями института 09 октября  - 15 ноября 1905.
○クラマレンコ、ビリチ関連
ф.1193 оп.1. д.22/д.466
ф.p-2228 оп.1. д.7/д.13/д.23
ф.p-4410 оп.1. д.23
ф.p-4414 оп.1. д.3/д.61

<GAPK>
ф.115 оп.1. д.592.54Л.

「会報」No.35 2013.12.7

大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァ そして函館ゆかりのシュヴェツ家について

2013年4月10日 Posted in 会報

小山内道子

元横綱大鵬のお父さん、マルキィアン・ボリシコ
 去る1月19日、元横綱大鵬が亡くなりました。まだ72歳という「若さ」でしたから、残念なことです。もう少し長生き出来て、大鵬の強さの土台となったお父さんの母国ロシア(出身地はウクライナ)との友好のためにも貢献してほしかった、貢献できればよかったと思いましたが、叶わぬ夢となりました。ただ、日本という社会環境では難しかったのかもしれません。いずれにしても、大変な苦境の中から大横綱となり、社会的にも立派な生涯を全うしたことに対して敬意を表し、心からご冥福を祈ります。戦前大鵬一家が住んでいたサハリン州ポロナイスク市(旧敷香)に大鵬の銅像を設立しようというサハリンの人たちの動きがあるそうですが、サハリンとの絆を示す確かな記念となることでしょう。
 大鵬のお父さんについてはロシア人だと一般にも漠然と知られていましたが、正確なことはヴェールに包まれていました。そこで、その出自や戦後の運命について資料に基づき、『オタス』(『トナカイ王』)の著者N.ヴィシネフスキー氏が「マルキィアン・ボリシコ」という論稿を書きました(≪ВЕСНИК Сaхалинского Музея 1≫、1995 所収)。ボリシコというのは大鵬のお父さんの名前ですが、彼は1925年日本軍占領末期の北サハリンから樺太に逃れ、大泊を経て敷香(現ポロナイスク)に住んで日本人女性と結婚し、家庭を持ちました。大鵬も敷香で生まれたのですが、終戦時日本軍の仕事に徴用されていたボリシコは、一緒に北海道に引き揚げることができず、ソ連領となったサハリンに残り、そのまま生き別れとなったのです。『オタス』を翻訳していた私はこの論稿をも翻訳しましたが、その後、この論稿は「大鵬の父親、サハリンに死す――歴史に翻弄された"白系ロシア人"の孤独な生涯――」というタイトルで『文藝春秋』(2002年5月号)に掲載されました。こうして私は大鵬家の問題と関わることになり、弟子屈町川湯温泉在住だった大鵬の実兄を何度か訪ねて樺太時代の生活や引き揚げ時の話などをうかがいました。ただし、それは本稿のテーマではありませんので、先へ進みたいと思います。

大鵬の異母姉ニーナ・サゾーノヴァ
 2001年の秋モスクワに滞在中、晴天の霹靂ともいうべき出来事が起こりました。日本と所縁の深い知人のB氏と電話で話していて、「ちなみに、大鵬のお姉さんがモスクワに居るという噂を聞きましたけど、ほんとうでしょうか?」と尋ねますと「ええ、いますよ。ニーナはよく知ってます。電話番号、教えましょうか?」と、いともあっさりと異母姉ニーナの所在が分かり、電話番号まで教えていただいたのです。有頂天になった私はすぐにニーナに電話して自己紹介し、午後にはキエフ駅近くのアパートを訪ねたのでした。さらに数日後にも伺い、ニーナの誕生から80歳になろうとしていたその夏の事まで話していただきました。また、その後もモスクワへ行くたびに訪ね、物語を補ったのですが、ここでは本稿と関わる部分だけを簡単に紹介したいと思います。
 ニーナ・サゾーノヴァは1919年、北サハリンのアレクサンドロフスク市で生まれました。母親はマルガリータ・サゾーノヴァ、父親はマルキィアン・ボリシコでした。マルガリータは大きな店を構えた裕福な商人アントン・サゾーノフの妻で5人の娘がいましたが、アントンが1915年に結核で亡くなった後、何かと支えてくれていたボリシコと1917、8年頃再婚したのです。ニーナの誕生についてはヴィシネスキー氏の調査でアレクサンドロフスク教会「メトリカ」の記載を確認しています。ボリシコ家はウクライナから移住してきた自由農民でしたが、マルキィアンは農業を嫌い、若いころから鉱山調査隊に参加したり、狩猟や行商に従事し、社交的で商売上ヴィノクーロフとも懇意だったと言われます。1920年、北サハリンが日本軍の占領下におかれて以降は、日本軍の協力者となり、羽振りがよかったのです。しかし、1925年3月、日ソ基本条約締結に基づく日本軍撤退とソ連軍進駐を目前にして、ボリシコは馬車を仕立て、娘ニーナだけを連れて内陸経由で日本領樺太への脱出を目指して出発します。ところが、しばらくして姉のリーダが馬を飛ばして追いかけてきて、ニーナを奪い取り母と姉妹たちの許へ連れ帰ったのです。こうしてニーナは父親と永久に別れてしまいました。
 夫アントンの死後、マルガリータは大きな家の半分を中国人と日本人に貸して暮らしを立てていましたが、ソ連軍進駐と共に立派な家屋は接収され、家内の目ぼしい品物は没収されて、一家は納屋に住むことになりました。その後北サハリンでは「体制の敵摘発」運動が展開され、特に1930年代にはこのキャンペーンはエスカレートして、日本人と少しでも関係のあった人々は逮捕されるようになります。マルガリータはニーナに自分の姓を名乗らせ、家内でもボリシコの名をタブーとし、ボリシコの写真はすべて焼き捨て、日本軍の協力者ボリシコとの関係は消し去られました。しかし、マルガリータやアントンの弟たちは逮捕され、その後行方不明になり、ボリシコの父親カルプ・ボリシコも逮捕されて行方不明になったのです。
 サゾーノフ家の5人の娘たちは1930年代初めまでには皆サハリンを出て就職していました。しかし、母マルガリータはアントン同様結核にかかっていて、1934年には治療のかいなく死去しました。ニーナは母の死でサハリンに1人取り残され、孤児院に入れられました。その時のさびしい思いは今も覚えているのです。法律によって14歳までは生地を離れられませんでしたが、誕生日が来てモスクワの姉の許へ引き取られました。それ以後はモスクワ在住で、その後の人生も波瀾に富んだものでしたが、ここでは割愛します。厳しい社会主義体制下では日本領樺太にいる父ボリシコを捜すことなど不可能でしたし、1960年代半ば、ソ連巡業でモスクワを訪れた大鵬に親方が「きょうだいがいるそうだけど、捜してもらおうか?」と尋ねたそうですが、大鵬は断ったと自叙伝に書いています。

サゾーノフ家とシュヴェツ家
 故清水恵さんは函館ゆかりのシュヴェツ家について、現在東京在住のシュヴェ家の方々に取材し、多くの資料に当たるなどして、シュヴェツ家について多くの論稿を残しています。それらはみな著書『函館・ロシア その交流の軌跡』に収められています。
 去る1月下旬、私は「サハリン・樺太史研究会」で「北サハリンにおける生活イメージを求めて――大鵬の異母姉ニーナ・サゾーノヴァの人生に見る歴史の軌跡」の報告をしました。その準備過程で、北サハリンのアレクサンドロフスクにおいて二大資産家の豪商と言われたサゾーノフ家とシュヴェツ家についても調べました。その際気になっていたのは、清水さんが「サハリンから日本への亡命者――シュウエツ家を中心に」の中で、1925年の日本軍の北サハリンからの撤退時のシュヴェツ家について、次のように書いている一節です。
 「......一家は革命をきらって、アレクサンドロフスクから、日本が支配する「樺太」に亡命した。それは一九二〇年代の前半のことだと思われる。豊原(現ユジノサハリンスク)に建てた家は現在でも残っているといわれているが、筆者はまだ確認していない。家業は毛皮商で、経済的には恵まれていたようである。ドミートリイとともに息子のフィリープも一五歳の時から商売をしていたという。
 フィリープは豊原でゾーヤ・アントーノブナ・サゾーノワと結婚した。彼女の実家も樺太にあり、シュウエツ家[ママ]よりさらに裕福だったという。それからゾーヤの出産のために、一家はハルビンへ移住し、......」(前掲著書、p.274)
 ところが、私がニーナ・サゾーノヴァから聞いたのは以下のようである。
 ニーナがまだ5歳の1924年、ニーナの2番目の姉ゾーヤが隣家でやはり大きな店を構えていた裕福なシュヴェツ家の幼馴染の長男フィリープと結婚した。若い2人の結婚式は、ニーナもおぼろげに覚えているが、それは華やかで盛大なもので、あとあとまでの語り種となったという。ですから、ゾーヤたちの結婚は実家のあるアレクサンドロフスクで行われ、豊原ではなかったのです。
 シュヴェツ家については、興味深い資料も見つけました。外務省記録『外国人ノ動静関係雑纂 府県報告 露国人の部』の大正11年(1922年)5月10日の報告、「露国商人来往に関する件」に「北樺太亜港寿町 雑貨商ドミトリ・シウヱツと同イワン・シウヱツがやはり雑貨商、材木商、農業の3人と共に横浜から大阪に来て総額2万円の雑貨、洋酒、綿布、羅紗服地等を購入した」と大阪府知事等に宛てた報告が残っています。亜港というのはアレクサンドルフスクの日本での呼び名で、1922年の日本軍占領時代には北サハリンと本州との往来による商品の仕入れが行われていたことが分かる資料です。それにドミトリはフィリープの父親でイワンはドミトリの弟です。
 また、「シュヴェツ家が豊原に建てた家が現存する」ということの真偽を確かめたくて、ユジノサハリンスク在住のヴィシネフスキー氏に調査を依頼しましたが、シュヴェツ家の家は存在しないとの回答でした。代りに大発見があったのです。氏の友人グリゴーリー・スメカロフ氏がシュヴェツ家の研究をしていて、氏が在住するアレクサンドロフスク市にシュヴェツ家の家屋が現存するとして、その写真をヴィシネフスキー氏経由で送ってくださったのです。拡大すると本当に大きくて頑丈そうな立派な家屋であることが分かり、建築年は不明ですが、歴史の重みが感じられる感動的な資料と言えるでしょう。
 スメカロフ氏にはサゾーノフ家に関しても、1907年の「埠頭荷揚げ許可通行証」のコピーを送ってくださったので、当時の商取引の実情が現実味を帯びてきました。今後スメカロフ氏のさらなる研究を通して、新しい事実を含め体系的に北サハリンの商取引などがサゾーノフ、シュヴェツ両家に即して明らかになることを期待したいと思います。

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Дом Швец アレクサンドロフスクにあるシュヴェツ家の家屋 D.スメカロフ氏撮影

「会報」No.34 2013.3.31

色丹島訪問記 ――北方領土問題を考える――

2013年4月10日 Posted in 会報

小川正樹

はじめに
 筆者は2012(平成24)年8月3日から6日まで、社団法人北方領土復帰期成同盟が実施した北方四島交流(教育関係者・青少年訪問)事業に参加し、色丹島を訪問してきた。近年、尖閣諸島や竹島など、領土をめぐる問題が社会の注目を集めている。この中で、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる、いわゆる北方領土の領有問題は第二次世界大戦・太平洋戦争での敗戦から現在に至るまで、60年以上にわたって解決されてこなかった、極めて重大で深刻な問題である。北海道で学ぶ児童・生徒は必ず北方領土問題を学習するが、児童・生徒の意識は世代・地域により差があると言わざるを得ない現状である。
 2012(平成24)年、本校生徒会長戸田幸一郎君から相談を受けたことから、今回の色丹島訪問は始まった。戸田君は前年、「"北方領土を考える"高校生弁論大会」に参加し、領土問題の重大さを認識し、さらなる学習と知識を広げるため、北方四島交流事業への参加を強く希望していた。こうして、筆者の北方世界への関心と戸田君の領土問題に対する情熱が結びついて、今回の色丹島訪問が実現した。

1 北方四島交流事業とは(1)
 1991年4月18日に日本の海部俊樹首相とソ連のゴルバチョフ大統領の名によって日ソ共同声明が発せられた。その第4項目では、歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属について、日ソ双方の立場を考慮しながら領土画定の問題を含む日ソ平和条約の作成と締結に関する諸問題が取り上げられた。ここでソ連側から日本の住民と四島住民との交流拡大、日本の住民の四島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定などが提案された。日本側もこれらの問などを継続的に話し合うことを表明した。同年10月14日付の日ソ両国外相間の往復書簡により、領土問題の解決を含む日ソ間の平和条約が締結されるまで、日ソの相互理解の増進を図り、いずれの一方の法的立場を害するものとならないよう共通の理解をしたうえで、領土問題解決に寄与することを目的に、日本の住民の北方四島への訪問を旅券、査証なしで行なう新しい「北方四島交流事業」の枠組みが作られた。
 1992年から開始された日ロ双方の住民が交流するこの事業は、領土問題解決に向けた好ましい環境の整備を目的とし、北海道においては北方四島交流北海道推進委員会が、全国においては北方領土問題対策協会が主体となって実施している。この事業により四島在住ロシア人住民の意識に変化が表れ、ロシア側では「領土問題は存在しない」立場から「領土問題は存在する」立場へと変わってきた。
 こうしたロシア人島民の意識の変化は、北海道大学スラブ研究センターの岩下裕明教授が2005(平成17)年10月21日から28日まで、択捉島、国後島、色丹島の3島で各島100人ずつ合計300人を対象とした世論調査の結果にも表れている(2)。この調査は北海道新聞社編集局報道本部が主体となり、サハリンの新聞社「自由サハリン」の協力によって実施された。この調査項目の第7番目の「北方領土の日本への返還」に対してロシア人住民の回答は以下のものであった。

 無条件で賛成する  (2.0%)
 条件付きで賛成する  (28.7%)
 反対する  (61.3%)
 わからない  (7.3%)
 無回答  (0.7%)

 ここから9割以上の住民が領土問題に対して賛否の判断をしており、住民の意識の中に領土問題が存在していることが裏付けられる。さらに第11番目の「日本人との共生は可能か」という質問に対してロシア人住民の回答は以下のものであった。

 可能である      (20.3%)
 条件付き可能である  (23.7%)
 不可能である  (38.7%)
 わからない  (15.0%)
 無回答  (2.3%)

 ここから無条件・条件付での可能と判断した住民は44%で、不可能と判断した住民38.7%をわずかに上回っていることがわかる。四島のロシア人住民の中には、北方四島が日本に返還された後、日本人と共生することができると考えている人が半数近くにのぼることが明らかにされ、「北方四島交流事業」によりロシア側に友好的雰囲気が形成されてきていることが裏付けられている。

2 2012(平成24)年度第3回北方四島交流訪問事業への参加
 筆者は2012年8月3日から6日まで、「北方四島交流事業」に参加して色丹島を訪問してきた。まず、8月2日に根室市の北海道立北方四島交流センター(愛称ニホロ)で結団式と研修会が実施された。ここで、外務省欧州局ロシア課の岡野正敬課長より北方領土問題についての講義が行なわれた。ここで「日本固有の領土」とは、一度も外国の領土となっていない土地であると説明され、改めて北方四島は近代以降、一度も外国に領有されていなかったことを確認した。国際社会でのルール、日本政府の立場を改めて認識するとともに、一般の日本人は領土問題に対して曖昧な立場であることを強く感じた。さらに、サンフランシスコ平和条約における千島列島の解釈についても説明を聞き、問題の難しさを痛感した。この条約では日本の領土を具体的に決定しているわけではなく、しかもソ連(現ロシア)はこの条約を調印さえしていない。日ソ(日ロ)関係はこの条約では規定されていないのである。外交交渉の難しさを現実の問題として改めて認識することができた。続いて岡野課長は、参加する中学生・高校生に対して今回の訪問の目的を説明した。基本的に相互理解を深めることが目的であって、具体的に何かを交渉することが目的ではないが、ただし、領土問題の重要性を認識して行動することを生徒たちに求めた。領土問題に対して国民の関心が低下すること、領土問題を発信しないことは、ロシアに対するマイナスのメッセージとなる恐れがあるので、領土問題解決のためには国民一人一人が問題の重要性を認識して、返還を粘り強く求めていくことが必要であると強調した。
 これからの訪問事業の中で、実際に中学生・高校生に求められていることは、日本の魅力、社会問題を発信し、北方四島の住民に日本に興味・関心を持ってもらうことであった。北方四島の住民が日本を身近な存在と思うだけで、領土問題の解決にはプラスになり、この訪問事業に参加した一人一人が外交に関わっているという認識のもとで交流に取り組むことが求められた。最後に、岡野課長は厳しい表情でロシア政府の管轄権に服する行為、ロシア政府の許可を必要とする行為は絶対にしないこと、誤解される恐れのある発言は慎むことを全体に注意した。
 続いて、今回の交流事業に参加する教員の意見交換会が開かれた。今回参加するのは、中学校教員7人、高校教員5人の合計12人であり、中学校教員は全員が道東地方に勤務しているが、高校は根室管内2人、石狩管内2人、渡島管内1人で、高校はできる限り全道から参加させようとする意図が見られた。
 意見交換会では四島在住のロシア人教員に北海道の教育現場でおきている問題と同様の問題を抱えているかどうかを質問することで方針がまとまった。この意見交換会では隣人としてのロシア人に興味を持つ点では共通していたが、各自の関心、訪問への期待は多様であった。これ以外に、現在の日本の教育における課題、懸念もいくつか提起された。

3 色丹島へ
 2012年8月3日の朝、第3回北方四島交流訪問団の出発式が根室港で行なわれた。今回の訪問には、元色丹島島民で現在は千島歯舞諸島居住者連盟の小泉敏夫理事長と高橋はるみ北海道知事も同行した。名簿で氏名・出欠を確認しながら、今年5月から供用された新船舶「えとぴりか号」に乗船した。当日は天候もよく、波も穏やかで、順調な航海であった。途中、船内では小泉敏夫氏による講演が行なわれた。この間に船はロシアが実効支配している海域に入った。
 出港から約4時間後に国後島の古釜布沖に到着した。湾内にはロシア船のほか、中国のコンテナ船が停泊していた。船上から見た古釜布の街並はまさにロシアの街並で、低層の建築がロシア独特の色彩でペイントされていた。ここでロシア国境警備隊の係官が乗船し、入域手続を行ない、ここからいよいよ色丹島に向けて出航した。古釜布から約3時間で色丹島穴澗沖に到着した。この日は湾入口に投錨し停泊した。海霧による視界不良のため、色丹島の様子はまだわからなかった。船内は日本時間のままであったが、現地時間に合わせるため、色丹島滞在中は全ての行動を2時間早く行なうことになった。
 8月4日は朝5時30分に起床し、朝食の後、いよいよ穴澗湾に進んだ。湾内には廃船がそのまま放置され、なかには戦車も放置されていた。7時過ぎに穴澗湾の桟橋に接岸した。この桟橋はコンクリート製で、湾内にある水産加工会社ギドロストロイが建設したもので、非常に立派であった。船員の説明によると、以前は木の桟橋を使用し非常に危険であったが、最近新しく建設されたとのことであった。ここでロシア風の歓迎セレモニーを受けた。民族衣装を着たロシア人学生がパンと塩を持って出迎えてくれた。この後、穴澗(アナマ)の市街地へ車で移動し、穴澗文化会館で歓迎セレモニーを受けた。
 島内を走る自家用車はほとんどが日本製の中古車であり、RV車が中心であった。島内には舗装道路が1か所もなく、悪路が続くため、日本製のRV車は大変役に立っていた。バスは、左側通行のため日本製は不向きであり、ロシア製か韓国製が使用されていた。これはサハリンやウラジオストクと全く同じであった。今回、筆者が乗車したのはトヨタのプラドで、2010(平成22)年まで名古屋方面で使用されていたものであった。車内の車検証のシールが平成22年となっていた。
 歓迎会には穴澗(ロシア名クラボザボツコエ)の村長のほか、サハリン州政府の幹部も出席した。ここでサハリン州政府が製作した日ロ交流のビデオが上映されたが、そこには領土問題の説明はなく、これまで20年の北方四島交流事業の経緯と実績が紹介されていた。領土問題、主権の問題を棚上げしながら、簡素化された手続きでのロシア入域と墓参、交流事業の様子が映像で流されるのを目の当たりにして、日本とロシアの認識の差を痛感した。ロシア政府としては、領土問題は存在せず、ロシア側の行為によりこの交流が実現している、という印象を与えようとしていると思わざるを得なかった。
 穴澗の市街地には数軒のスーパーと1軒のレストラン「インペリアル」があり、ここでお土産を購入することになった。今回の訪問では3,000円を換金し、1,050ルーブルを手にした。1ルーブルは約3円の交換レートであった。スーパーにはロシア製品と並んで、日本の商品、韓国の商品が売られていた。食料品では日本製品よりも韓国製品の方が多いことは、これまたサハリンやウラジオストクと同じであった。スーパーで使用しているエアコンもLG製品であり、北方四島が韓国商品の市場に組み込まれていることを実感した。
 午前中、穴澗の学校を訪問した。ここは1994(平成6)年の北海道東方沖地震により建物が倒壊し、日本からの人道支援でプレハブの校舎が建てられ、学校を再開することができた。最近、新しい校舎が完成し、日本の建てたプレハブ校舎は、現在、芸術(音楽)学校として使用され、放課後には子供たちがここで音楽を楽しんでいる。新しい校舎を案内され、各教室の様子を視察した。ロシア語、数学、理科、社会のほか、技術室や日本語学習の教室もあった。体育館はバスケットボール1面ほどの広さで、少し手狭な感は否めなかった。このほか、校舎内の空きスペースを利用して卓球台が設置され、生徒が卓球を楽しんでいる様子も見られた。午前中はここで日本人の生徒とロシア人の生徒のレクリエーションが実施された。
 「インペリアル」での昼食を済ませた後、学校に戻って意見交換会を開いた。テーマは「教育の現状と課題」で、日本とロシアの双方から説明、質問が行なわれた。まず、ロシアの教育システムについて、簡潔な説明が行なわれた。ロシアでは7才から17才までの11年間、一貫して1つの学校で学ぶ。1~4年の初等科には現在37人が在籍し、5~9年の中等科には現在52人が在籍し、10~11年の高等科には現在13人が在籍し、生徒数は合計で102人である。この後は、高等教育機関として大学に進学することになるが、北方四島に大学はなく、近くてもサハリン島、多くは極東本土やモスクワなどの大学に進学しているようである。ロシアの学校は1年を4つの学期に区分している。9月1日から11月4日までが1期、11月11日から12月31日までが2期、1月11日から3月31日までが3期、4月1日から5月31日までが4期で、6月1日から8月31日までの3ヶ月間が夏休みである。進級試験は9年生と10年生の間と11年生の終わりに実施される。9年生の終わりに進学するか終了するかを選択するが、ほとんどの生徒は11年間の学習を選択し、終了して就職する生徒はほとんどいない。授業数は初等科が1日に45分授業を4コマであり、中等科になると1日に5~6コマ、高等科になると1日に7コマとなる。休み時間は10分で、昼休みは20分で、ここで昼食もすませる。放課後は体育館やプレハブ校舎で過ごし、6~7時頃に帰宅する。初等科は週5日制だが、中等科以上になると週6日制となる。

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中央左の男性が小泉理事長、右の女性が高橋知事
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穴澗湾の景色
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穴澗村の市街地
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高校生の報告の様子

4 色丹島内の視察
 8月5日はあいにくの雨であった。島内には舗装道路がないため、雨天時は相当の悪路になる。この日は穴澗から斜古丹(ロシア名マロクリリスコエ)へ向かった。島内の悪路では日本製中古車が大活躍していた。1時間半ほどで斜古丹に着いた。まず、丘の上にある日本人墓地に向かう。墓地は柵で囲われていて、ロシア側により草刈りがなされていた。ロシア側の好意を感じた。日本人墓地として区画されている中には何基かの墓があったが、基礎の部分しかないものが多く、家名を刻んだ上の部分が失われているものが多かった。旧ソ連時代に、日本統治時代の痕跡を消し去るために撤去され、それ以来墓石は行方不明のままである。1998(平成10)年の墓参の時に、日本人墓地の標柱が建てられた。このほかに、クリル人(アイヌ)の標柱も同じ敷地内に建てられていた。今回同行した小泉敏夫氏の墓が墓地の中に残っていた。基礎の部分は当時のままの場所にあるそうで、墓石の上の部分は失われてしまったが、墓そのものは日本統治時代と変わらない場所にそのまま残されていた。墓参という、当たり前と思っていた行為が、ここでは本当に幸運なことであることを痛感するとともに、国家の対立に翻弄される民衆の悲しみと苦しみを感じた瞬間であった。
 墓参の後、ギリシア正教の教会を訪問した。丸太小屋風の教会で、外から鐘を鳴らすようロープが張られていた。訪問団が帰る時に、教会にいたロシア人が楽しそうに鐘を鳴らしていた。音楽を重視するのはニコライの日記にも見えるとおりであるが、ここでもそれを実感することができた。
 この後、斜古丹の文化センターに集合し、ホームビジットの班分けを行なった。ここからはバスに乗り、丘の中腹にある集合住宅に向かった。筆者のグループはアレクサンドルさんの自宅を訪問した。家の中には妻のゲオルギエブナさん、息子のキリルさんと孫が出迎えてくれた。ロシア人の一般家庭(集合住宅)では玄関のドアの前で靴を脱ぎ、靴はそのままドアの外に置くことになっている。家の中には靴は持ち込まない。集合住宅の外観は相当傷んでいるようであったが、室内は相当手入れがなされていて、壁紙や床、家具などはきれいに手入れされていた。外観からはわからなかったが、室内は非常に快適な空間であった。
 居間ではすでに食事の準備がなされていた。アレクサンドルさんは、娘の病気治療のため、一度北海道を訪問した経験があり、その時に日本語を勉強したそうで、わずかではあるが会話を成立させることができた。通訳は全グループに同行したわけではなかったので、通訳が巡回してくるまで会話集などを活用して交流することになっていた。筆者のグループには退出する時になってやっと通訳が巡回してきた。そのため、2時間近いホームビジットの時間、意見交換したり、確認したりすることはほとんどできなかった。息子のキリルさんは若干英語を話すことができたが、意見交換までには及ばず、片言のロシア語と身振り手振りで何とか会話しようと試みたが、最後はアレクサンドルさんの日本語が頼みであった。アレクサンドルさんは日本への渡航経験や訪問団受け入れなど、日ロ交流にはとても積極的であった。アレクサンドルさん夫婦は、斜古丹から穴澗まで同行し、出航する「えとぴりか号」を埠頭で最後まで見送ってくれた。こうしたロシア人との個人的交流は、日ロ交流の裾野を広げるものであり、これこそが北方四島交流事業の目指すものであり、こうした交流を積み重ねることが、わずかではあっても確実に領土問題の解決に向かっていくと感じた。
 息子のキリルさんは、島内の学校を卒業した後、シベリア地方の大学で教員になるために勉強し、体育の教員をしばらくした後に色丹島に戻ってきた。島では警察官となり、アレクサンドルさんの住宅近くで家族3人暮らしている。島内出身者の進路の1つの事例であろう。他の同級生の就職先や居住している場所などを質問したかったが、今回の訪問では確認することができなかった。
 アレクサンドルさんは室内を案内してくれた。集合住宅は2LDKでバスとトイレが別々であった。応接室にあったパソコンはサムソン製であったが、プリンターはエプソン製とキャノン製の2つを所有していた。テレビは、居間にパナソニック製のものが、同じくパナソニック製のDVDと一緒にあり、寝室にはLG製のテレビがあった。室内の家電製品は日本製と韓国製が半々であり、色丹島にも韓国の家電製品が確実に広まってきている。領土問題だけではなく、経済問題についても今後は真剣に検討していかなければならないことを痛感した。アレクサンドルさんの食卓にも韓国製のジュースが並び、一般家庭やスーパーでは韓国製の食料品が普通となっており、これはサハリンやウラジオストクのスーパーと同じ状況であった。これから先、韓国製品の影響力はさらに大きくなっていくものと思われた。
 ホームビジットの後、色丹島の景勝地であった稲茂尻(イネモシリ)の海岸を視察した。稲茂尻にも日本人の墓地があったが、車中では眠ってしまい、確認することができなかった。稲茂尻の海岸につき、景色を眺めた。実に美しい湾であり、砂浜が続いていた。浜辺には多くの昆布が打ち上げられており、海の中でも多くの昆布が手付かずであった。ロシア人は昆布を資源・商品として認識していないため、昆布を採取している様子はない。昆布を商品化・商業利用する技術や発想がないためであろう。これはサハリンと同様であった。この付近に日本の寺院があったそうだが、ここにかつて日本人が生活していた形跡は全く見られない。
 稲茂尻から移動し、マタコタンという入り江を視察した。日本統治時代には日本人の家が数軒あったらしく、小泉敏夫氏はここの漁師は豊かであったと説明していた。現在はロシア人漁師が網の手入れにこの入り江を利用しているのみである。そのほか、島内のロシア人もこの入り江に遊びに来ているようであり、付近にごみが散乱していた。
 この日の夕食会が色丹島訪問の最後の行事であった。日本人とロシア人の生徒がゲームをしたり、踊ったりして楽しい時間を過ごした。夕食会の後、埠頭まで歩いて移動した。今回交流した生徒、家族、関係者が埠頭まで見送りに来てくれた。色丹島のロシア人住民と交流し、個人としては相互信頼関係を構築することは可能であると思えたが、領土問題の解決を考えると、とても複雑な気持ちになる。色丹島の住民にとっては、日本とロシアが戦争した不幸な歴史よりも、ソ連の崩壊や北方四島交流事業、人道支援の歴史の方がはるかに身近であり、直接的な問題である。日本人はどうしても領土問題から離れることができない。終戦は8月14日か9月2日かという解釈の問題とともに、日本人とロシア人の意識のズレを大いに感じた。


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斜古丹村の日本人墓地の様子
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色丹島略図(独立行政法人北方領土問題対策協会ホームページより)
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アレクサンドルさんと記念写真(中央の男性がアレクサンドルさん)
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稲茂尻海岸の景色
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マタコタンの景色

おわりに
 今回、色丹島を訪問するまでは、北方領土問題は単なる知識であり、地図や資料集で確認する作業でしかなかった。実際に北方四島を訪問すると、そこには現実の問題が横たわっている。ロシアの国境警備隊による入域・出域の手続き、ルーブルへの換金、ロシアの街並、その中に日本人の墓地もあり、日本の人道支援で建設されたプレハブ校舎や発電所もある。北方四島には現在のロシアと現在の日本、そして過去の日本が同居している。今回の訪問で北方領土問題を知識としてではなく、体全体で、実体験として感じる、考えることができた。
 領土問題は政府レベルで解決すべき問題である。我々にできることは、その基礎固めとなる住民交流であり、友好・交流の積み重ねと隣人としての相互信頼関係の構築である。この交流が領土問題解決にどれくらいの影響を与えているのかはわからないが、日ロ双方の相互理解、相互信頼関係構築には多くの影響を与えている。ロシアは遠くて恐ろしい国家ではもはやなく、近くて、信頼できる国家に近づいている。
 領土問題解決のために我々ができることは限られている。しかし、今の我々ができることを、どれくらい真剣に継続していけるか、我々の意識と行動がまさに今、問われている。


(1)  『北方四島交流の手引』(独立行政法人 北方領土問題対策協会)。
(2)  岩下裕明+北海道新聞情報研究所「「北方領土問題」に関するアンケート・世論調査」(21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集15号『日ロ関係の新しいアプローチを求めて』北海道大学スラブ研究センター、2006年)1~64頁。

(函館ラ・サール高等学校教諭)

「会報」No.34 2013.3.31 研究会報告

「イコン画と山下りん」を学ぶ研修旅行の報告

2013年4月10日 Posted in 会報

大平利成

 平成25年2月9日、日本ユーラシア協会青森支部は冬の企画として、函館日帰り研修旅行を行いました。
 工藤朝彦副支部長の紹介で函館日ロ交流史研究会を知りその特別なお計らいで実現したもので、函館ハリストス正教会のイコン画拝観と画家山下りんの足跡を学ぶことが目的です。
 当日の参加者は会員7名で、このような研修を目的とした旅行はほとんど初めての人達ばかりです。
 午前8時青森駅発の特急に乗り津軽半島を北上、約2時間で函館駅に到着。
 目指す正教会は函館山に近い坂の上にありました。
 ロシア風ビザンチン様式といわれる聖堂の白い漆喰壁と青銅色の屋根がひときわ目を引きます。
 教会では函館日ロ交流史研究会世話人の岸甫一氏と中嶋肇氏が待ちうけ、案内もしていただきました。
 それによれば、この建物は万延元年(1860)にロシア領事館の付属聖堂として建立。
 その後、函館の大火で焼失したものの大正5年(1916)に現在の聖堂が再建され今では国指定の重要文化財になっているとのこと。  
 聖堂の内部正面に「救世主の復活」「最後の晩餐」、そして両脇に聖人たち。
 吹き抜けの壁面いっぱいに大小80点のイコン画が掲げられていて、山下りんが描いたものも多数あります。
 黒衣に身を包んだ神父のN.ドミィトリエフ氏がおみえになり、教会の歴史とイコン画、聖ニコライについてユーモアたっぷりのお話しをしていただきました。
 初代の聖堂ができた翌年には有名な聖ニコライが領事館付きの司祭として来日し手さぐりで伝道を開始したそうです。
 10年後、聖ニコライは東京の神田駿河台に転任し本格的な宣教活動を精力的に展開。
 そのなかで日本における伝道は日本人の手で行われるのが一番、イコン画の制作も日本人の手で、という結論に達し、そこでいよいよ山下りんの登場と相成るわけです。
 なるほどなるほど......私たちは神父さんのその達者な日本語と、ふくよかな語り口にすっかり魅了されてしまいました。
 さて昼食後は正教会に隣接する信徒会館に移り、いよいよ函館日ロ交流史研究会主催の研修会です。
 北海道立函館美術館の主任学芸員・大下智一先生が映像を駆使して「明治のイコン画家山下りんと北海道」と題して一時間ほど講演。
 山下りんは安政4年(1857)、今の茨城県笠間(かさま)市に生まれ、幼いころより絵を書くことが好きで16歳のときに単身で上京し豊原国周(とよはらくにちか)に弟子入りし浮世絵を修行。
 その後、洋画家をめざして明治10年(1877)開校の工部美術学校に女子1期生として入学、教官フォンタネージに油絵を師事。
 当時の作品を見ると、師には及ばないものの彼女のデッサン力もかなりのものだったことが分かります。
 明治13年(1880)美術学校在学中に入信したことにより、聖ニコライからすすめられて単身ロシアの首都ペテルブルクへ留学。イコン画の製作技術を習得するためでした。
 紆余曲折はあったものの帰国後はイコン画の制作に励み、その作品は全国の正教会に届けられます。
 山下りんの生涯については以前ユーラシア協会でもDVDを見る機会があり多少の予備知識を持っていましたが、大下先生のお話にもあった明治時代の開明期と反動期の波に翻弄される美術界と画家たち、そして山下りん。そのように事象を歴史的に捉えることによって彼女の遍歴がより理解できたように思います。
 また北海道のイコン画が歴史的にも美術的にも非常に価値の高いものであることも今回初めて知りました。
 道内のイコン画は函館をはじめ上磯、札幌、小樽、釧路、上武佐(中標津)に計70点も現存すること。これらは北海道が日本におけるロシア正教発祥の地であることや、ロシアとの地理的近さに由来すること。開拓民の精神的な支えとしても重要な役割を担ったこと。そして北海道に残っている日本人の油彩画としては相当に早い時期のもので、きわめて質の良いものであることなどです。
 また神父夫人、山崎ひとみさんの補足説明も素晴らしく、参加者から「まるで"NHK日曜美術館"のゲスト解説者のようだった。機会があれば山崎さんのお話も拝聴したい」という感想もいただきました。
 緊張した「勉強」から解放され、紅茶とお菓子をいただき記念写真を撮って研究会は無事終了。再び聖堂に戻りあらためてイコンをみつめました。
 イコン画は聖画となった瞬間、永遠に作者の手を離れもはや書き手は無となるという大下先生の話を思い出し、参加者一同あらためてイコンの精神性に思いを深くした次第です。
 観光コースではないこのような旅行は初めてでしたが函館日ロ交流史研究会の皆さんのおかげで大変充実したものとなりました。
 皆さまには心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

(日本ユーラシア協会青森支部支部長)

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「会報」No.34 2013.3.31 研究会報告

『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』を刊行して

2013年4月10日 Posted in 会報
 大西剛

遠いロシアと近いロシア
 あるとき大学生に、ソ連時代のロシアはアメリカと並ぶ先進国だった、と言うと、エッ、と驚かれた。それが逆に自分にとっては驚きなのだが、今のロシアが往時ほどのプレゼンスをもち得ていないということは私にも十分理解できる。それでも、今も軍事的には大国であろうし、日ロ間には領土問題が横たわっている。正直なところ日本人の間ではネガティブなイメージの方が強いのかもしれない。
 一方で、関西で育った人間としては、軍事や領土問題とはまた違ったロシアの甘い甘い記憶がある。
 かつて大阪にパルナスというロシア菓子の会社があって、高級洋菓子の代名詞だった。誕生日やクリスマスが近づくと、パルナスのケーキが食べられることを心待ちにしていたものだ。パルナスという言葉の響きは、今の高級洋菓子ブランドが束になってもかなわないほど、まぶしさに満ちていた。
 パルナスはピロシキでも知られていた。パルナス以外の「まがい物」のピロシキもあったが、パルナスの本物はゆで玉子の砕いたものが入っていて、それはたいそう美味しかった。当時はまだ玉子は貴重品であり、たまにではあるがパルナスのピロシキ食べるたびに、玉子を惜しげもなく入れるなんて、やはり先進国の食べ物は違う、という思いを強くした。
 マクドナルドの日本第1号店が誕生するのは、大阪千里万博が開かれた翌年の1971年のことだが、この私の記憶はそれ以前に遡る。そんな時代にあって、ピロシキは数少ない異国の香りのする食べ物だった。だからその記憶は強烈で、私自身はハンバーガーには目もくれないが、ピロシキと聞くだけで今もなお食指が動く。
 私が函館市民になる前、まだ旅行者として函館に足を運んでいたころ、港ヶ丘通りや八幡坂を歩くたびに、その甘いロシアを思い出した。そして、函館の人はロシアにどんなイメージを抱いているのだろうかと興味をもった。
 港ヶ丘通りと八幡坂とのT字路は、記念撮影の名所として、シーズン中はひっきりなしに観光客が訪れる。そのすぐ脇に、ロシア極東連邦総合大学函館校がひっそりと佇んでいる。ハレとケとでも言うべきようなその対比。坂を下ったその先に浮かぶ摩周丸をバックに夢中で写真を撮る人々に、意外と足元の景色は目に入らないのかもしれない。私にしても偶然目にしたというだけで、函館に来るまでは日本にロシアの大学の分校があることも知らなかった。だが、ここにそれがあるという風景は、函館市民にとっては、至極当たり前のことのはずだ。その「当たり前にある」という感覚は、いったいどのような感覚なのか。
 関西にいると、普段ロシアを意識することはまずないが、学生時代に根室に初めて行ったときには、北方領土の早期返還を叫ぶ看板の多さに驚いた。一方、同じ北海道でも函館には、ロシアの大学の分校があって、ロシアをルーツとする教会が町のシンボルになっている。幸坂を上って行けば「旧ロシア領事館」というのもある。根室のロシアは、函館のロシアよりも遠い国かもしれないし、関西からよりも、見方によってはむしろ遠い国とも言える。同じ日本国民でも、住んでいる場所によって各国との距離感は違ってくるし、直線距離では測りきれない遠さと近さがあるのだろう。

国際都市函館の始まりはロシア
 ロシア極東連邦総合大学函館校を最初に目にしたのは2008年の秋、私としては4年ぶりに函館を旅したときのことだった。それ以降、私は毎月、函館に来るようになった。当時は京都に住んでいたが、やがて住民票をこちらに移し、2011年秋に「新函館ライブラリ」という出版社をスタートさせた。
 最初はリスクもコストも小さくて済む電子書籍を中心に、と考えていたが、今の日本の出版環境では埒が明かず、2012年3月、初の印刷本として中尾仁彦氏の『箱館はじめて物語』を上梓した。高田屋嘉兵衛以来、海外に開かれた町であった函館の誇る「日本初」「北海道初」を経糸に、函館の歴史をわかりやすく解説した書籍である。
 その編集時のことであるが、本文関係ではあらかたの作業が終わり、表紙のデザインの制作に入った。当初は元町公園下にあるペリーの銅像の写真を使ったレイアウト案を考えていたが、歴史に詳しいある方の「はじめてならアメリカよりもロシアでしょう」という一言を素直に受け止め、ハリストス正教会の聖堂に朝日の射す写真をメインに据えた。
 開港都市函館のはじめてがアメリカというのは、あまりに教科書的に過ぎると言える。確かに条約上の開国は、日米和親条約の締結とそれに伴うペリーの来函ということになるのだろうが、私がこの場で述べるまでもなく、函館とロシアとの関係は、はるか以前に遡る。
 恥ずかしながら私の「歴史認識」はたかがその程度であり、以後もさして進歩はないが、2012年の夏、そんな私のところに、一通のメールが送られてきた。要旨は以下の通りだった。

・ハリストス正教会の司祭であった自分の祖父が翻訳し、1923年(大正12)に富山県の高岡新報に連載した『十五歳の露國少年の書いた勘察加旅行記』を復活させたい
・これは1918年にロシア人親子3人がカムチャッカを旅行したときの日記であり、経由地函館の町の様子やカムチャッカでのデンビー商会、『デルス・ウザーラ』の著者であるアルセーニエフとの出会いなどが書かれている。
・私家版として出版し、国立国会図書館等へ献本することで後世に残すことがいちばんの目的である。原稿のPDFファイルを添付したので、負担が少ない方法や率直な意見をお示しいただきたい

 駆け出しの出版社にとっては、こうして声をかけていただけるだけでありがたかった。だが、印刷・製本、編集費まで含めて、まともに計算するとかなりの金額になる。見積を出して驚かれはしまいか。
 売れそうな本ならば、費用は全部こちら持ち、あるいは編集費だけでも無料にして、販売利益を編集費に充てるという方法もあるが、それにしてもテーマがあまりに地味過ぎはしまいか。駆け出しの出版社であるがゆえ、あまり売れそうにない本を出すような余裕はない。
 そんなことを思う反面、函館に関係する本なら、書店売りをする本として、きちんとしたかたちで出してみたいという気持ちもあった。
 しかし函館はあくまでも経由地に過ぎない。翻訳者がハリストス正教会の司祭をしていた、とあるが、その経歴をよく読むと、残念ながら函館ではなく本州のハリストス正教会の司祭だった。また、その時点での私は、デンビー商会についてすらも、戦前の函館で手広く商売をしていた、という程度の知識しかなかった。

『カムチャツカ旅行記』の刊行
 ともあれ原稿を読んでみなければ何とも言えない。旧かな遣いで書かれたその原稿は決して読みやすいものではなかったが、期待半ばで読み進めていくうち、好材料がポツリポツリと見つかってきた。
 往路、函館ではデンビー商会の支配人の自宅を宿に1週間滞在している。その間、市電に乗ってオペラ鑑賞に出かけたり、大沼へ1泊の魚釣り旅行に出かけたりするが、一般の歴史書ではそんな場面は記載されるはずもない。そういった旅行記ならではの記述から、当時の函館の町の様子が垣間見られた。
 2カ月半に及ぶカムチャツカ滞在の宿舎となったのは、函館と縁の深いデンビー氏の別邸だった。別邸の近くにあったデンビー商会の鮭缶詰工場にも足を運び、その高度に自動化されたラインについて克明に描写していた。函館からやってきた船大工が、ロシアとは違う方法で船を修理している様子についても興味深げに綴られていた。
 この旅行記が商品として成り立つものかどうかは相変わらず未知数だったが、原稿に一通り目を通したときには、これを出版しようという気持ちが強くなっていた。依頼者との条件面での折り合いもつき、早速、編集に取りかかった。
 まずは、旧かな遣いのまま編集を行い、約1カ月後の8月初旬に、電子書籍として無料公開を開始した。これは、早くかたちになったものを見たい、という依頼者の要望を請けてのことである。
 その後、印刷書籍として有料販売するべく、読みやすい現代かな遣いに焼き直すとともに、当時の函館やカムチャツカ、あるいはデンビー商会に関する説明資料を付け足すことにした。
 その過程で、元函館市中央図書館館長の長谷部一弘氏から、市立函館博物館に旧日魯漁業株式会社が寄贈した写真帳があるはずであり、当時のカムチャツカの様子を知る上で参考になるだろうとのアドバイスをいただいた。
 このときすでに季節は冬になっていた。現代かなに置き換えるのは予想以上に手間のかかる作業だった。これは後で知ったことだが、厳寒の博物館収蔵庫から資料を取り出し閲覧するというのは容易ではない。たとえば冷たいままの写真帳は、めくるだけで写真が割れる。かといって急に温かい部屋に運ぶと写真の表面に結露が生じる。
 そういう中で閲覧を願い出た私に対し、市立函館博物館では、まず資料を前もって収蔵庫から暖房の入っていない部屋へと移して、穏やかに「冷蔵状態」を解き、閲覧当日は朝から暖房を入れ徐々に常温に戻していく、という手間な作業をしてくださった。労をお取りいただいた同館学芸員保科智治氏にはこの場を借りてお礼を述べたい。
 膨大な収蔵点数を誇る市立函館博物館では、各資料・史料の詳細や寄贈あるいは製作された背景を特定することも慎重を要する作業となるが、以前に博物館で「街と歩んだ北洋漁業~ニチロ創業100年」という企画展が催された際の担当者で、旧日魯漁業関係の資料に詳しい佐藤智雄氏(現在は函館市教育委員会文化財課学芸員主任)が、師走のお忙しい中、そのときの記憶をたぐり寄せながら、親身にご対応してくださった。
 また、デンビー商会や当時のカムチャツカに関する資料はないものだろうかと函館市中央図書館に相談したところ、同館主任主事の奥野進氏が函館・八幡坂にあったデンビー商会の写真をお出しくださるとともに、『函館・ロシア その交流の軌跡』(清水恵著・函館日ロ交流史研究会刊)という書籍をご紹介くださり、追加資料の作成に大いに役立つこととなった。
 各位のご指導、ご協力のおかげで、旧かな版の編集段階では気が付かなかったことがわかってきた。本誌の読者には当たり前のことかもしれないが、当時のカムチャツカはサケ、マスの宝庫として日ロ両国から熱い注目を浴びた有望の地であり、函館を拠点にいちはやく事業を展開したデンビー商会と、まだ黎明期であった日本の北洋漁業の推進者として頭角を現した旧日魯漁業株式会社がしのぎを削り、その製品である鮭缶詰のヨーロッパ輸出は巨万の富を生み出そうとしていた。そしてデンビー商会や日魯漁業が現地ににおける事業の中心地と定めたのが、まさに少年の旅したウスチ・カムチャツクであった。なお、「鮭缶を売って軍艦を買った」と言われるほどに、函館を拠点に展開された北洋漁業は、当時の日本において貴重な外貨獲得源の1つであったという。
 さらに興味深いのが、少年の旅した1918(大正7)年は、ロシア革命の翌年であるということだった。要するにデンビー氏のようなブルジョワジーは、未曾有の窮地に追い込まれようとしていた。事実、同年5月に、デンビー商会は三菱合資会社主導で設立された北洋漁業株式会社に買収されるという形をとり、デンビー氏は名目上、漁場経営の表舞台から退く。それにも関わらず、その翌月である6月から9月にかけて、ウスチ・カムチャツクで少年たちを迎え入れ、ともに狩猟三昧の日々を送るのだ。
 その心中、いかばかりだったろうか。ただ、発動機船で遠路熊猟に向かいながらも、デンビー氏一人が野営地に留まり猟に出ないといった場面があるなど、そういった背景を意識して読めば興味をそそる描写も散見される。
 また、その4年後の1922年には北洋漁業と旧日魯漁業が合併、デンビー氏はウスチ・カムチャツクでの事業から完全に手を引かざるを得なくなり、少年が足を運んだデンビー商会の工場は、旧日魯漁業の工場となった。ちなみに本書には、市立函館博物館が所蔵する旧日魯漁業製作の写真帳『東カムサッカ漁工場他事業風景』から、その外観や缶詰生産ラインの写真を、少年が旅した風景を想像するための参考資料として転載させていただいている。
 なおこの旅行記は、少年の父親がロシアでの出版を考えたが、革命の影響で出版活動が停止されたためそれがかなわず、結局ベルリンで出版されることとなるが、それがこの1922年のことだった。そしてその翌年、依頼者のメールにもある通り、日本語に翻訳されて高岡新報に掲載された。本書の巻頭には、高岡新報の掲載予告広告の文面も収録しているが、十五歳の少年の旅行記が新聞に載ったという事実は、この時代、カムチャツカにいかに高い関心が寄せられていたかということを物語っている。
 『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』〈復刻改訂版〉は年末ぎりぎりに編集が完了。印刷・製本を経て2013年1月23日に、まずは函館市内で先行販売を開始した。それからまだ日も浅いが、予想していたよりも興味を感じてくださる方が多く、「ロシア語の原書を知っていて、日本語版があれば読みたいと思っていた」という方がいらっしゃるという話を人づてに聞くなど、改めて函館とロシアの近さを実感することとなった。私自身もこの本の編集を経て、ロシアという国を少しは近くに感じるようになったのかもしれないし、北洋漁業については、「あの時代の函館はよかった」という語り草のレベルを超え、日本という国全体に果たしたその役割の大きさは、いつまでも語り伝えるべきだと思えてならない。
 本書はあくまでも十五歳の少年の手によるものではあるが、その観察眼はなかなか鋭い。どこかでお手にとっていただければ幸いである。

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刊行された『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』〈復刻改訂版〉
(新函館ライブラリ代表)

「会報」No.34 2013.3.31 特別寄稿

ガブリール・クラマレンコ:アストラハンからサハリンまで

2013年4月 9日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 先頃、ジョルジュ・クラマレンコ著・松本高太郎翻訳『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』復刻改訂版が出版された(1)。同書は、1917年に首都サンクトペテルブルクで勃発したロシア革命の翌年に当たる1918年の夏、横浜のセント・ジョセフ学院に通っていたジョルジュが、末弟のアーシャと共に父親(ガブリーフ・クラマレンコ)に連れられて向かったカムチャツカでの日々を綴った旅日記である。この復刻改訂版の出版のことは、本号で大西剛氏が詳しく触れている。
 ガブリール・クラマレンコは、19世紀末から20世紀初め、サハリンそしてカムチャツカで活躍した漁業家で、かつては函館の漁業者の間で良く知られた存在だった。
 ところが、クラマレンコ研究が日本ではほとんど行われていないこともあり、今ではその名もすっかり忘れ去られてしまった。筆者自身、サハリンの元流刑囚漁業家ビリチと同時代、しかも同じ地域(サハリン・ウラジオストク・函館・カムチャツカ)を舞台に活動した同業者ということで、以前からクラマレンコに注目していたが、特に調査研究を行ってきたわけではなかった。
 しかし、このたび『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』の復刻改訂版が出版されたことで、筆者のクラマレンコへの関心は一気に高まった。ジャーナリストのドロシェーヴィチ(2)、宣教師ニコライ(3)、動物学者で魚類学者のシュミット博士(4)といった、クラマレンコの同時代人によるクラマレンコに関する記述、あるいはクラマレンコの活動の場であったカムチャツカ(5)やウラジオストク(6)の研究者が近年発表した研究論文等を手に取ってみると、思いのほか情報量は多く、内容的にも非常に興味深いため、是非とも本号で紹介したくなった。
 本稿は、これまで日本で紹介されることのなかった、サハリンで漁業経営者として成功するまでの若き日のクラマレンコに光を当てる。それとあわせて、ロシア革命以降、クラマレンコ一家がたどった過酷な運命についても触れる。
 『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』を補完する情報として読んでいただければと思う。

■生まれ故郷アストラハン
 ガヴリル・アモーソヴィチ・クラマレンコ(Гаврил Амосович Крамаренко)は、1867年3月31日にアストラハンの町人階級の家に生まれた。アストラハン郡の中等専門学校を卒業し、13歳からクズネツォフ兄弟漁業商会の事務所で働くことになった。13歳で少年クラマレンコは両親を亡くし、それ以降、自立の道を切り開かなければならなかったのである。
 クズネツォフ兄弟漁業商会でクラマレンコは、事務所の会計係として働いた。漁業に携わったわけではなかったが、アストラハン県はロシアでも有数の漁獲量を誇る土地である。1週間の鰊が、丸々一年の生活を養ってくれた。そのため鰊到来の時期ともなると、本業はさておき、事務所の全員が漁を行う労働者を監督するため、現場に派遣された。そこが、クラマレンコの学び舎であり、あらゆる知識の源となったのである。
 1892年、クラマレンコは狂犬病に罹った犬に噛まれた。その治療のためモスクワに送られた。同地でたまたま購入した飢餓救済富くじが大当たりし、1,000ルーブルを手にした。これがクラマレンコの人生の大きな転機となる。
 「幼いころから冒険心にあふれる少年だった」、「サハリンやアムール川の魚の豊かさについて新聞で読んだことがあったため、極東に向かう決意をした」、と後年クラマレンコは回想しているが、「クラマレンコは、運試しに極東に向かう決心をした」(シュミット博士)、「進取の気性に富んだ性格でもあり、そろばんを捨て、腋の下にバイオリンを抱え、この時代多くの人々を惹きつけたウスリー地方へと向かった」(ドロシェーヴィチ)という同時代人の指摘からは、若きクラマレンコは、漠然とした夢を抱きつつ、新天地を目指したといった方が正しいであろう。

■極東の「オルフェウス」
 ウスリー地方(現在の沿海地方南部のこと)に到着したクラマレンコについて、ドロシェーヴィチの記述を借りれば、以下のとおりである。
 クラマレンコは「すぐさま成功を手にした」。「ウスリー地方全域が、彼のバイオリンの意のままに行動したとも言える。結婚式、洗礼式、名の日に演奏し、エキゾチックな君主のわけのわからぬメダルで身を着飾り、「アフガン、ブハラ、そしてお人よしのキルギスの君主の宮廷の名手」としてコンサートを行った」。
 クラマレンコのバイオリンを前に人々は狂喜した。故郷を捨て、ロシアやウクライナとは何もかもが異なる極東の地で暮らし始めた人たちに、青年クラマレンコがもたらしたのは、故郷ロシアあるいはウクライナを想起させる文化的な香りであり、余興の少ない未開の地での一瞬の空騒ぎといったところだろうか。
 しかし、「こうした様々な芸術に、彼自身、そしてウスリー地方の人々もすっかり飽きてしまった頃、クラマレンコは「演奏のために」サハリンへと去っていった」。

■漁業家へ転身
 クラマレンコがサハリンに到着するまでの経路について、同時代人のシュミット博士は、「1894年にウラジオストクに到着し、アムール川河口、そしてニコラエフスクに出かけ、サハリンに分け入った、と説明している。
 潤沢だった所持金も、サハリンに到着する頃には見事に消えてなくなっていた。バイオリンだけが残っていた。そのバイオリンで演奏を披露し、バイオリン教室を開き、一時的に凌いだ。
 しかし、それも長くは続かなかったようで、1895年、3年の期限で、サハリン島の監獄の漁労に対する「技術上の監督官」に任命された。「地元の官憲の勧めを受け」たため、とクラマレンコはドロシェーヴィチに説明したようだが、シュミット博士の、「サハリン島東海岸の漁労監督官のポストを得ることに成功し」た、との記述から想像するに、アストラハン時代に漁業者の監督した経験をアピールし、仕事にありついた、というのが真相ではなかろうか。
 いずれにせよ、この職を得たことは、クラマレンコのサハリンでの不安定な生活を安定させただけではなかった。漁業監督官として島の全ての海岸を巡視した経験を通して、クラマレンコは漁業のことを完全に理解した。そしてこの時得た情報は、魚の加工場を発展させる際に大いに役立つことになる。
 1896年には、サハリン島長官から漁場を借り受け、日本人とともにコルサコフに近い「ピェールバヤ・パーチ」(日本名で「一ノ沢」)で漁業を開始した。
 このようにして、アストラハンの事務所の会計係は、極東のバイオリン弾きを経て、漁業家へと転身したのである(7)。

■漁業家への道の模索
 エニセイ県出身のヤコブ・セミョーノフ、あるいはロシアに帰化したスコットランド出身のジョージ・デンビーのように、サハリン島が昆布や魚が豊富だという噂を聞きつけて、はるばるやって来た冒険心にあふれた人たちがいたのも事実だが、当時のサハリン島が流刑地であったことを忘れてはならない。つまり、自由意志でやってくる人はまれだったということである。そのため、クラマレンコがやって来るまでは、大量の鰊が上がればそれを食べることはしたものの、余った魚を塩蔵するという、加工について考える者はいなかった。おかげで、クラマレンコ程度の知識や経験でも、当地では珍重されたというわけである。
 しかし、クラマレンコがすぐに漁業家として成功したわけではない。知識不足からくる失敗があり、そこから学んでいった。一例を挙げると、クラマレンコは、ただ同然の支払いをしただけで、囚人労働で工場、地階、地下室を建てさせた。ところが魚を納める穴倉は魚を腐らせるだけで役に立たず、また魚を塩漬けにするための地下室からは塩水が漏れ出し用を成さなかった。これは何も囚人労働に問題があったからではなく、建造物の建て方を知らないクラマレンコに非があった。
 当初、クラマレンコは、監獄に魚を供給し、その代わりに毎年少額の助成金を得ていた。そして日本人漁業者には批判的で、大挙してサハリンに押し寄せ、鰊のような価値ある魚を、食用とするのではなく、大釜で茹でて肥料としていることに対して、「蛮行だ」、日本の漁業者は「濫獲者」だと声高に叫び、非難した(1896年の「サハリンカレンダー (Сахалинский календарь)」に論文を発表)。
 ところが、日本人と鰊の〆滓を作り、肥料として日本に販売し、日本人に漁場を貸す名義人となることが、助成金を得るよりもはるかに大きな利益をもたらすことを理解するようになると、クラマレンコは、自ら「濫獲者」の道を選んだ。

■独立した事業の拡大へ
 ジャーナリストのドロシェーヴィチは、クラマレンコの事業は、地元の人たちにとって何の役にも立っていないと非難し、資源豊かなサハリンは、ロシアで脱落した人たち、あるいは濫獲者たちの餌食になっていると嘆いた。しかし、当のクラマレンコは、次なる目標を立てていた。事業の拡大には会社を設立しなければならず、それには資金調達が必要だと考えた。
 1897年、東京経由で、オデッサ、ペテルブルグ、そしてアストラハンに向かった。東京駿河台の宣教師ニコライを訪ねたのは、同年10月22日(露暦11月3日)のことである。同日のニコライの日記によると、クラマレンコは、自分の事業計画案がプリアムール総督のドゥホフスコイに積極的に支持されており、公的補助金が支給されるよう奔走することを約束されたこと、総督と二人並んで写真を撮ったほど仲が良いこと、峡谷(8)にクラマレンコの名を冠することを命じたことなど、あれこれと自慢げにニコライに話したようである。
 故郷アストラハンでは、地元の大漁業家の関心を自分の事業に向けることに成功した。その中には、K.P.ヴォロビヨフ、そして保存期間の短い物資の輸送を専門としているN.V.ヴェレシャギンが含まれていた。クラマレンコは、資金調達のみならず、大規模な漁業経営法や長距離輸送のノウハウなど、今後の事業展開に必要な事柄を故郷で貪欲に学んでサハリンに帰って行ったに違いない。
 この時の旅には、もう一つ大きな目的があった。1898年、首都サンクトペテルブルクで、農務省と国有財産省を訪れ、全く新しい方向性で事業を発展させるために、現在日本人が借りているテルぺニア湾(日本名「多来加湾」)の4つの漁区とアニワ湾の8つの漁区を自分に貸与してほしい、と陳情したのである。「全く新しい方向性で」とは、日本人漁業者に握られているサハリン漁業を、ロシア人漁業者の手に移すことを意味していたとも受け取れる。
 サハリン南部に進出する日本人漁業者が年々増加するに従い、ロシア政府は日本人漁業者の進出を抑制し、自国民優遇策を採るようになっていく。決定的だったのが、1899年のアムール川漁業規則である(9)。
 これ以降、日露戦争が勃発するまでの数年間は、クラマレンコ、セミョーノフ、デンビー、さらにはビリチといった、サハリンのロシア人漁業家の黄金時代となる。日露戦争が勃発した年の1904年には、サハリン開拓で貢献したクラマレンコは、世襲名誉市民となった。

■クラマレンコ一家のこと
 以下では、断片的ではあるが、クラマレンコ一家についてまとめてみたい。
 G.A.クラマレンコの妻は、出自はポーランドで、シェホフスカヤの出身だった。二人の間には、長男ガヴリール(呼び名は「ガガ」)、次男ゲオルギー(同左「ジョルジュ」)、三男ニコライ(同左「コカ」)、四男アレクサンドル(同左「アーシャ」)そして長女マリア(同左「マルーサ」)の5人の子供がいた。
 長男・次男・三男の3人は、ツァールスコエ・セローで学んだ後、イギリスで学んだ。
 1910年5月22日、クラマレンコは、もうすぐ11歳になる長男ガガを伴い、カムチャツカを訪れた(10)。
 ところがロシア革命を機に、クラマレンコ一家の生活は一変する。
 1917年のロシア革命の初め(筆者注:2月革命から間もない時期に、の意か?)、クラマレンコは、寄宿制の女学校に通っていた長女のマルーサを呼び戻し、妻、マルーサ、次男、四男を日本に向かわせた。
 日本に着いてからのマルーサは、神経を患うようになり、入院が必要となった。日本でこの手の病を治療することが難しいと判断したクラマレンコは、ペトログラードに向かう精神科医夫妻に娘を託し、連れて行ってもらうことにした。
 一方、日本に残った次男ジョルジュと四男アーシャは、横浜のセント・ジョセフ学院に通い始めた。そして1918年の夏休み、父親、すなわちクラマレンコに連れられ、カムチャツカを訪れた(その時のことは『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』参照)。
 1918年の夏の時点で、長男ガガと三男コカはアルハンゲリスクにいた。なぜそのような遠い北辺の地に、両親や他の兄弟と離れていたのか、理由については明らかでない。

■一家のそれぞれの運命
 革命後、5人の子供たちの運命は様々だった。まず長男ガガについては、英国のカレッジで小型漁業船の技術免許を取得した後、第4ペトログラード商業学校を即席コースで終了した。1920年代末には、ウラジオストクに暮らし、ここで専門学校を特別に終了し、「ダリゴスリィブトラスト」で主任技師として働き、いわし漁のための引網船を造った。
 1927年以降カムチャツカの漁業会社(ACO)に所属し、新規の漁区の開拓や魚の缶詰工場建設など漁業の方面で、あるいは農業や林業経営でも力を発揮した。その後、カムチャツカのカラマツで漁獲用の小型の船を造ることを発案したことから、クリュチ市の木材加工コンビナートで働くことになり、そこで造船所建設の陣頭指揮に当たった。
 これらのことから、ソヴィエト政権初期の頃は、カムチャツカで活躍していたことがわかるが、1938年2月18日、内務人民委員部によって逮捕された。1940年10月26日には、8年間の自由剥奪を言い渡された。1946年8月13日に自由を回復した後、1981年までトボリスクの船舶工場で働いた。1991年1月20日死亡。
 最近までウスチ・カムチャツカ地区クリュチ市ベレゴヴァ通りには、ガガ一家が暮らしていた家が残っていた。
 次男ジョルジュと四男アーシャは、共にロシアから亡命。長男ガガ(ガヴリール)の息子ゲオルギー・ガヴリロヴィチによれば、二人はモロッコに暮らし、映画スタジオで働いていた。
 三男コカは、パリでタクシー運転手をしていたという説もあれば、白軍のデニーキン軍の戦線で戦死したとの説もある。
 マリア・ガヴリロヴナは、レニングラードに暮らしていた。
 クラマレンコ夫妻は、革命後亡命し、1928年に二人は死亡し、二人はドイツのベルリンに眠る。別の資料(ヒサムトディーノフ論文)によると、夫妻は亡命後、イギリス、フランスで暮らした。1928年10月10日、クラマレンコはパリで死亡した。

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長男ガガ(ガヴリール・ガヴリーロヴィチ・クラマレンコ)http://www.npacific.ru/np/library/publikacii/questhist/istor-25.htmより


(1) 原文は、Крамаренко Жорж. Камчатка Моё путешествие и моя охота на медведей и горных баранов в 1918г. Дневник 15 летнего школьника. Изд.Ольга Дьякова и Ко., Берлин.
(2) Дорошевич В.М. Сахалин (Каторга). М., 1903. ロシア人ジャーナリストのドロシェーヴィチは、作家アントン・チェーホフのサハリン来島から6年後の1897年に流刑地サハリン島の社会調査のため訪れた。首都に戻ってから、著書『サハリン(徒刑地)』を発刊する。同書の中で、サハリン来島以前、サハリンで漁業家として歩み始めた若き日のクラマレンコについて、「サハリンのオルフェウス」と題した一小節の中で触れている。
(3) 中村健之介訳・解説・註解『宣教師ニコライの全日記』第5巻、教文館、2007年。
(4) Шмид П.Ю. Морские промыслы острова Сахалина. Рыбные промыслы Дальнего Востока III. Спб., 1905.
(5) Борисов В.И. Семья Крамаренко на Камчатке // Вопросы и истории рыбной промышленности Камчатки. Сборник трудов. Вып.10(2). Петропавловск-Камчатский, Изд-во КГТУ, 2000. С.77‐89.
(6) Хисамутдинов А.A. Русские в Хакодате и на Хоккайдо или заметки на полях. Изд. ДВГУ, Владивосток, 2008.С.275.
(7) クラマレンコが直接漁業に携わるようになった時期や場所については、カムチャツカの研究者ボリソフ論文には、「1893年、プリアムール地方に到着し、そこで漁獲方法や販売市場に関する知識を得た。1894年、F.F.ブッセ移民局長の勧めを受け、アムール川で漁業を始めた。」、とあり、サハリン来島以前から漁業に関与していたことを示す資料もある。なお、フョードル・F.ブッセは、1882年から1892年までの10年間、南ウスリースク移民局長を務めたが、1884年ウラジオストクにアムール地方研究協会の起ち上げに尽力し、同協会の初代執行委員長を5年間務めるなど、学者としての評価も高い(Приморский край. Краткий энциклопедический справочник. Владивосток, 1997.С.58-59.)。ニコライ・ブッセは従兄。
(8) ロシア語で"падь"(Дневники святого Николая Японского. Под ред. К. Накамура. СПб., 2004.Т.3.С.616.)。1896年にクラマレンコが借り受けたピェールバヤ・パーチ」(日本名で「一ノ沢」)のことを指しているのかどうかは不明。
(9) この頃の状況について、『函館市史』(通説編第2巻第4編1147頁)には、明治31(1898)年は、新規則が調査中とのことで、旧規則が1か年適用されるが、6月には営業税率の改定を布告し、この実施をみた明治32年には樺太島の最良漁場であったアニワ湾内5か所とホロナイ川口海浜漁場をロシア人クラマレンコに許可した、と書かれている。
(10) この時、長男ガガも紀行文を残し、1910年にサンクト・ぺテルブルクで『ペテルブルクからカムチャツカまで、そして日本へ』として出版された(Крамаренко Г. В Камчатку: От Петербурга до Камчатки и в Японию. Путешествие школьника, опсанное им сами. СПб., 1910.)。参考までに、カムチャツカでクラマレンコ親子は、「古くからの知人ビリチ」のところに宿泊した。

「会報」No.34 2013.3.31 研究ノート


小島倉太郎の遺品にみるその足跡 -クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで-

2012年7月24日 Posted in 会報

大矢京右

はじめに
 小島倉太郎(1860-1895)は、明治初年の北海道でロシア語通辞として活躍した役人である。小島はその語学力を活かしてクリルアイヌ(1)の強制移住に立ち会うこととなったり、コレラの流行に伴う外国船への立ち入り調査を担当したりするなど、「役人」としての役割を果たすだけに留まらず、震災被災地への寄附行為や博物館への資料寄贈、週刊ウラジオストク新聞への寄稿など、「文化人」「国際人」としての役割をも十分に果たした進取気鋭の「函館人」であった(2)。小島の死後、彼の遺品は遺族によって市立函館博物館をはじめとした北海道内の諸研究機関に寄託・寄贈されたが、これらはいずれも北海道の教育史・行政史・写真史など様々な研究分野においてきわめて貴重な資料群と評価されており、これまでも渡辺1983やザヨンツ2009など重要な論文として結実している。
 本稿は、激動の時代に35年という短いながらも波瀾万丈の人生を生き抜いた小島自身のライフヒストリーの中でもひときわ強く輝きを放つ聖スタニスラフ第3等勲章受勲について、市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』および北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』ならびに当時の函館新聞などの関連文献をとおしてその足跡をたどったものである。

小島倉太郎略歴-クレイセロック号遭難事件前夜-
 小島倉太郎は1860(万延元)年に幕吏の長男として出生し、父の転勤に従って日ロ雑居地であった樺太へ移住、1871(明治4)年にロシア商人に預けられて以降ロシア語を学び、1873(明治6)年から1881(明治14)年までは開拓使仮学校・函館魯学校・東京外国語学校で官費生としてロシア語を修めた。
 卒業後小島は1881(明治4)年3月17日付で開拓使の御用係として辞令を受けると、1884(明治17)年のクリルアイヌ強制移住の立ち会いや1886(明治19)年に国後島近海で難破したアメリカ船員の護送、樺太から北海道へ逃げ出したロシア人囚人の護送など、持ち前の語学力を見込まれて日本中を奔走する。小島のクレイセロック号遭難事件への関わりはまさにこのような仕事の一つであったのだが、その辛苦はそれらのいずれをも遙かに凌駕するものであった。

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小島倉太郎の1881年2月19日付卒業証書(北海道立文書館所蔵)

クレイセロック号遭難事件とロシア人の来函
 1889(明治22)年11月、樺太クリリオン岬から沿海州ウラジオストク港に向かうロシア海軍の帆走船クレイセロック号が宗谷沖で消息を絶ち、乗組員と思わしきロシア人水夫の遺体が宗谷郡抜海村(現在の稚内市抜海村)の海岸(3)で発見された。そしてロシア領事を通じてその事実を把握したロシア東洋艦隊司令長官は、ロシア海軍軍医БУНГЕ,А.А.頭に少尉БУХАРИН,В.Н. および水夫 ОЩЕПКОВ,А.Ф.の調査派遣を決定し、1889(明治22)年12月30日にこの3名が来日したのである。
 БУНГЕ と БУХАРИН は年の改まった1890(明治23)年1月5日に和歌浦丸で来函し、ОЩЕПКОВも横浜から次便で合流、北海道庁は7日付で函館出張所の小島と第二部逓信課の井川義松の調査同行を命じた。

クレイセロック号の探索
 来函時、クレイセロック号遭難からすでに1ヶ月以上が経過しており、ロシア側としてはできうる限り早めに進行したかったのであろうか、3名のロシア人と2名の日本人の一行は早くも翌8日正午12時の函館発小樽行き高砂丸に乗り込んだ。そして小樽到着後は休む間もなく10日発の貫効丸で増毛へ出発する予定であったが、折り悪く暴風雨が彼らの行く手を阻んだ。一行は足止めを余儀なくされたが、いつまでも手をこまねいていることはできないので、海路をあきらめて陸路で札幌を経由して増毛をめざすことを決断した。札幌までどのようにして向かったかに関する記録はないが、調査行の目的とメンバーのステイタスから見ても、おそらく当時開通して間もない幌内鉄道を利用したであろう。それならばいかに冬場の北海道とはいえ、安全かつ迅速に札幌まで到着したことと考えられる。しかしこの調査行で最も困難な道のりはここから始まるのである。
 一行は1月18日に札幌を出発し、急峻な冬の増毛山道を通って稚内をめざしたのであるが、まさに筆舌に尽くしがたい困難が彼らを待ち受けていた。この様子を小島は「仝峻路ハ北海道中ノ大難所ニシテ夏時スラ通過シ得易スカラズ 當時積雪丈餘結氷シ恰モ銀板ヲ鋪クニ異ラズ其道ノ何レニ在ルヲ知ラス 加之烈風飛雪来襲シ滑路一歩ヲ誤チナバ千仞ノ雪蹊ニ陥ル可シ 或ハ躓キ或ハ倒シ辛フシテ生命ヲ保チ増毛港ニ出ツルヲ得」(4)と自らの旅行畧記に記している。

クレイセロック号の発見と生還
 増毛山道を何とか越えた一行は海岸沿いに北上し、ロシア人水夫の遺体が見つかった抜海村よりわずかに南方の手塩国ワッカサクナイ(現在の豊富町稚咲内)の海岸にて、全壊したクレイセロック号の残骸を目の当たりにした。厳しい寒さの中完全防備した一行は、クレイセロック号の全体像および破壊された内部の写真を撮影した上でさらに北上、抜海村の海岸に仮埋葬されたロシア人水夫の死体を検視した上で、ようやく北海道最北の地である稚内に到着することができた。しかしこれで調査が終了したわけではない。「遭難ノ模様及船体並乗組員行衛等巨細探知之為」「北海道西北海岸並ニ諸島ヘ」(5)派遣された3名のロシア人と小島たち一行は、休む間もなく宗谷岬最北端に位置する宗谷岬灯台附近も仔細に調査し、稚内発小樽行きの紀ノ川丸船上から礼文・利尻・焼尻・天売の各島も巡視した上で、2月23日に小樽に到着した。小樽では少し心の余裕もできたのか、同地で撮影されたБУНГЕのポートレートが小島のもとに残されている(6)。

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クレイセロック号の残骸と小島一行(北海道立文書館所蔵)

帰函と別れ
 一行は札幌の北海道庁で顛末を報告した後、小樽発函館行きの高砂丸に乗船、ようやく函館の地を踏むことができた。時はすでに2月28日で、1月8日に函館を出発してから実に50日ほどが過ぎていたことになる。帰還した当日に小島は函館田本写真館でポートレートを撮影しているが、その痩けた頬がいかに過酷な旅であったかを物語っているようである。また、函館市中央図書館が所蔵する古写真の中には、生死を共にした3人のロシア人と小島が一緒に写っている写真があり、撮影日や撮影場所などは明かではないが、小島の風貌や服装がポートレートと共通していることや、机の構造や床面の柄が他の田本写真館撮影のものと酷似していることから、おそらく同じ時に撮影されたものであろうと考えられる。
 翌3月1日に北海道庁函館出張所で二木理事官に調査の顛末を報告したのち、3人のロシア人は3日午後2時発横浜神戸行きの和歌浦丸で帰京することとなり、小島にも随行のために2日付で「出京ヲ命ス」辞令が下された。船出の際には二木理事官と函館ハリストス正教会のセルギイ神父が見送りに来ていたというから、3人のロシア人は出発前日(日曜日)に教会を訪れていたのかもしれない。横浜に到着したロシア人と小島がいつどのように別れを惜しんだのかは定かではないが、3月10日に横浜の鈴木写真館で撮影された ОЩЕПКОВのポートレートが小島のもとに残されており、おそらくその直後に3人のロシア人は船上の人となったのではないだろうか。
 なおこの在京時、小島は9日に東京で外国語学校時代の学友である戸澤鼎から写真を贈られたり、13日に東京丸木写真館にて同じく戸澤鼎や鈴木於菟平らとともに記念写真を撮影したりするなど、かつての学友たちと友人と旧交を温めている。
 また、小島がいつ函館に戻ったかについても具体的な記録はないが、3月25日に函館田本写真館で撮影された写真が残されていることから、少なくとも13日から25日の間には戻っていたものと考えられる。

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2月28日撮影小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)

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小島一行の記念写真(函館市中央図書館所蔵)

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1889年田本写真館撮影写真(市立函館博物館所蔵)

聖スタニスラフ第3等勲章の受勲
 小島の生命を懸けた協力に対して、ロシア皇帝アレキサンドルⅢ世は1890年6月29日付で小島への聖スタニスラフ第3等勲章の授与をロシア勲章局に対して勅命を下し、これに伴ってロシア勲章局長から小島に対して1890年7月16日付で第3133号勲記が交付された。しかし郵送の手違いなどもあって、実際に小島のもとに勲章が届き、併せて日本政府から「大日本帝国外国勲章佩用免許証」が交付されたのは1894(明治27)年9月3日のことであり、アレキサンドルⅢ世による勲章授与の勅命が下ってから既に4年以上の歳月が過ぎ去っていた。ただ一つの救いは、翌1895(明治28)年7月22日に急逝する小島の生前において、この吉報が届けられたことであろう。
 なお、これら勲記および佩用免許証などは現在北海道立文書館が所蔵しているが、聖スタニスラフ第3等勲章本体の所在については不明である。

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小島と東京外国語学校学友(東京丸木写真館 3月13日撮影)(市立函館博物館所蔵)

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3月25日撮影 小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)

おわりに
 以上、小島倉太郎のクレイセロック号調査行から聖スタニスラフ第3等勲章受勲までを、主に北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号探索関係アルバム」および市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』中「明治初年の写真アルバム」を中心に、当時の函館新聞の記事や写真資料の裏書きなどで情報を補完しながらできるだけ詳細にその足跡をたどってみた。そして改めて小島の果たした功績と国際貢献を認識するとともに、その卓越した能力とバイタリティに今更ながら驚かされるばかりである。
 小島の生涯は短いながらも明治初年の函館がおかれた国際的な状況等を如実に表出しており、当時の社会状況等をあぶり出すための一試論として、今後も小島の生涯における象徴的な場面を切り抜く作業を進めたい。


(1)千島列島北部に居住していたアイヌの一分派で、千島樺太交換条約(1875年)に伴い1884(明治17)年に南千島シコタン島へ強制的に移住させられた。地理的・政治的にロシアの影響を強く受けていたため、言語や宗教などの生活文化はロシア化されていた。
(2)小島の経歴などに関しては、小島1994などに詳しい。
(3)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」には「オネトマリ」と表記されているが、「オネトマナイ(利尻島対岸)」の誤りか。
(4)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」より
(5)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」より
(6)БУНГЕのポートレートは鶏卵紙に現像され、上野彦馬の台紙に貼られている。手書きで「отару」(オタル)と書き込まれており、小樽で撮影したものをБУНГЕがウラジオストクの上野の写真館で複製して小島に送付した可能性がある。

参考文献
大矢京右 2010 「小島倉太郎関連資料」『市立函館博物館研究紀要』20 pp.51-56 市立函館博物館;函館市
小島一夫 1994 『小島倉太郎を偲んで』私刊;札幌市
小島一夫 1998 『けんかたばみ回想記』私刊;札幌市
ザヨンツ,マウゴジャータ 2009 『千島アイヌの軌跡』 草風館;浦安市
渡辺雅司 1983 「東京外国語学校魯語科とナロードニキ精神-小島倉太郎の講義録をもとに-」『ロシヤ語ロシヤ文学研究』15 pp.1-14 日本ロシア文学会;京田辺市
『小島倉太郎関連資料』市立函館博物館所蔵
『小島倉太郎文書』北海道立文書館所蔵
1890年1月7日付『函館新聞』2629号2面
1890年1月8日付『函館新聞』2630号3面
1890年1月12日付『函館新聞』2634号2面
1890年1月19日付『函館新聞』2640号2面
1890年2月25日付『函館新聞』2669号2面
1890年3月1日付『函館新聞』2673号2面
1890年3月2日付『函館新聞』2674号2面
1890年3月3日付『函館新聞』2675号2面

「会報」No.33 2012.7.20

Прикосновение к прошлому.

2012年7月24日 Posted in 会報

ロシア連邦総合大学函館校教授 アンドレイ・グラチェンコフ

  Когда в руки попадает книга, возраст которой составляет почти 75 лет, это всегда событие. Знакомство с такой книгой это встреча с прошлым, а прикосновение к её страницам равно удивительному прикосновению к прошлому.
Таким прикосновением к прошлому стала для меня книга «最新露語読本», изданная в Японии в 1937 году.
 Книга не большая, но тем не менее, начинается она портретом её автора Семена Бек-Булат - Смирнитского.
 С парадной фотографии на нас смотрит ещё молодой, полный сил мужчина, чуть старше 30-ти лет. Он одет в черный сюртук, который украшают три ордена. Вероятно, фотография сделана ещё до октябрьской революции 1917 г., но может быть, сразу после приезда в Японию. Черные глаза, черные волосы и черные усы, говорят о татарских предках этого человека, а его длинная фамилия это только подтверждает. Но о фамлии позже, а снача поговорим об орденах.
 На фотографии можно разглядеть орден Станислава 3-ей степени, орден св. Анны второй степени и французский орден почётного Легиона. О чём же говорят эти награды? 

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 слева на право: орден св.Анны второй степени, орден св. Станислава третей степени с мечами, орден Почетного легиона
 Известно, что во время Первой мировой войны (1914-18) автор воевал на германском форонте. Вопрос, где же наш автор получил французский орден в Росии или во Франции? Франция и Россия были союзниками. Во Франции на германском фроне сражался русский экспедиционный корпус, многие солдаты и офицеры которого были награждены французскими орденами. Учитывая, что Смирнитский хорошо знал французкий язык, можно предположить, что он получил орден во Франции. К сожалению, за недостатком материала, это предположение не может быть доказанным фактом.
 Рискну предположить, что и орден Станислава получен  за боевые заслуги, а значит  это орден Станислава с мечами, хотя на фотографии такие детали разглядеть трудно. Орденом Станислава 3-й степени с мечами награждали молодых офицеров невысокого звания.
 Наконец, самый высокий по достоинству орден св.Анны второй степени. Вторая степень Анны считалась выше Станислава 3-й степени. Орден св. Анны второй степени носили на шее. Это знаменитая «Анна на шее». Те из читателей, кто знакомы с произведениями Чехова, конечно, вспомнят рассказ одноименного названия.
 Итак, Анна на шее, Станислав и французский орден на груди: типичный орденский набор, характерный для военной карьеры молодого офицера в чине не ниже порутчика и не выше штабс-капитана.
 А теперь несколько слов о фамилии нашего автора. Она, несомненно, дворянская и более того она, как вы видите, двойная.
 Двойная фамилия состоит их двух частей или двух фамилий. Значит, автор получил её от своего отца, т.к. двойные фамилии по женской линии никогда не передавались. Кроме того, носитель такой фамилии принадлежал к потомственнму дворянсту.
 Что такое «потомственное дворянство»? Среди дворян Российской империи были потомственные дворяне и дворяне служилые. Служилые дворяне не могли похвастатся древностью своего рода. Купцы, крестьяне, козаки или ремесленники, но в первую очередь солдаты получалили дворянство за верную службу государю. В 18 веке вместе с дворянским званием, получали и деньги, и землю и крепостных крестьян.
 Напротив, потомственные дворяне вели свой род от древнего предка, который уже в 12-16 веках, занимал высокое положение. Таким предком нашего автора был татарский князь или «бек» по имении Булат. Именно на него и указывает первая часть фамилии.
 В 16 веке, когда Московское царство приседенило к себе Казанское и Астраханское ханства многие знатные татары перешли на службу к русскому царю и стали частью потомственного дворянства Московского царства. Подобная история повторилась и в конце 18 в.когда Российская империя присоеденила к себе Крымское ханство.
  Но фамилия нашего автора интересна ещё тем, что она не только  татарско-русская, а,возможно, татарско-польская. На это обстоятельство указывает её вторая половина «смирнитский». Смирнитский это польская форма русской фамилии Смирнов, которая происходит от детского прозвища «смирный»: спокойный, добрый. Фамилию Смирнитский носили многие дворяне, чьи предки были выходцами с Украины или Литвы в то время, когда две этих страны были частью Великого Польско-литовского королевства
 Остаётся не ясным, когда и по какой причине две фамилии соеденились в одну. Возможно, кто-то из предков автора присоеденил фамилию жены, чтобы отличатся от остальных носителей фамилии Бек-Булат. Возможно, кто-то из предков автора приобрёл поместье, ранее принадлежащее Смирницкому. Вместе с поместьем новый владелец получал и право на ношение новой фамилии. Такие случаи не часто, но были. Но окончательно разрешить эту загадку, за недостатком источников пока трудно.
 А теперь несколько слов о самой книге. По своему содержанию эта книга представляет собой хрестоматию для чтения на русском языке, что тоже очень интересно. Ведь выбор текста для чтения тоже, хоть и немного, но говорит о личности автора хрестоматии, о его литературных вкусах и политических взглядах. Наконец, в текстах хрестоматии не могли не отразится и те методы, при помощи которых русский учитель в Японии преподавал русский язык японским ученикам.
 Личность автора, несомненно, отразилась на материалах хрестоматии.
 Он монархист и это видно по тексту, в котором монархическое правление оценивается значительно выше республиканского. С другой стороны, нельзя забывать, что в 30- годы критика монархического строя в Японии была невозможна и неуместна, особенно со стороны эмигранта.

 Кроме того, даже при беглом знакомстве с текстами хрестоматии в глаза бросается отстуствие текстов, прямо связанных с жизнью и реалиями Советской России.
 Со дня большевистской революции 1917 г. на 1937 г. прошло уже 20 лет, с момента восстановления отношений между Японией и СССР в 1924 году прошло 12 лет, но ни текстов из советских газет и журналов, ни текстов из произведений советских писателей (за единственным исключением) в хрестоматии нет. А жаль!
 Ведь результате огромных изменений в обществе и в укладе повседневной жизни в, русском языке 20-30 г.г. появились сотни, а может быть тысячи новых слов. Но автор, эмигрировавший из России в 1919 году, не знал об этих переменах а скорее всего, из за недостатка опыта недооценивал их. В результате, он проигнорировал изменения происшедшие в русском языке, и основной акцент сделал на изучение традиционного русского языка, характерного для начала 20 века.
 Отсюда выбор текстов, среди которых много нравоучительных русских сказок. Героями этих сказок являются домашние животные и звери. Сказки эти и в начале 20 века и в начале 21 века читают дети, я сам их читал в детстве и читал своим детям. Хороший, старый добрый русский язык, но нет нет, да и попадется незнакомое крестьянское слово, сохранившееся только в тексте сказки, а в языке горожан уже совсем забытое.
 Много поговорок, отражающих здравый смысл русского крестьянина, некоторые из этих поговорок живы и до сих пор.
 Много стихов, а точнее, басен Крылова, поэта сегодня почти совершенно забытого, но еще в 40-е и 50-е годы широко издаваемого и изучаемого в средней школе.
 Если сказки занимают в хрестоматии большое место, то произведения русской классической литературы 19-20 в.в. отсутствут совершенно. В хрестоматии нет даже маленьких отрывков из призведений Гоголя, Пушкина, Тургенева,Толстого или Чехова. Возможно потому, что автор предназначил свою хрестоматию для учеников, чей уровень русского языка еще недостаточно высок, возможно, но вот чтение стихов требует достаточно высокого уровня языка и серьезного знания поэзии. Так на кого же все-таки расчитана эта хрестоматия?
 На этом фоне, тексты переведённые автором с французского языка, сегодня выглядят, как простое желание автора показать ученикам свое знание французского языка.
 Наконец, короткий рассказ «Судьба»(№103) - произведение молодой советской литературы. Сложный текст. Действие рассказа происходит на Украине в годы гражданской войны. Много деталей, связанных с особенностями того сурового и жестокого времени, много слов, взятых из украинского языка.
 Возникает вопрос, если тексты хрестоматии, предназначены для начального уровня, то этот текст расчитан на учеников с высоким уровнем русского языка. Боле того, этот текст требует подробных коментариев, которых в хрестоматии нет.
 Нет в хрестоматии и коментариев к другим текстам, как нет и примеров основных фразеологических моделей. А ведь для изучения подобных моделей и предназначена любая хрестоматия.
 Но не будем слишком строги к автору и его работе. Оценивая его труд с позиций 21 века, нельзя забывать какие изменения призошли в преподавании иностранных языков за последние 50-т лет. Для своего времени хрестоматия Бек-Булат -Смирнитского была полезной книгой.
 И последнее, год издания этого пособия 1937. Мимо этой даты пройти невозможно. Это год, когда массовый террор в СССР, достиг своего апогея, а позже пошел на убыль, хотя до самой смерти Сталина не прекращался никогда. Знал ли об этом наш автор, это вопрос очень интересный. Конечно, Смирнитский знал, что происходило в 30-е годы в СССР, но не смотря на репрессии монархист Смирнитский поросит у советского правительства советского гражданства для своего сына. Почему? Скорее всего, как и многие русские эмигранты, Смирнитский видел в диктатуре Сталина сходство с режимом Наполеона Бонапарта. Наполеон стал первым консулом, а затем и императором Франции после периода террора, направленного против вождей Великой французской революции.
 В советской России тысячами истребляют лидеров большевистской революции и полководцев гражданской войны: евреев и русских, украинцев и поляков, литовцев и латышей, грузин и армян и т.д. Значит, прийдет время, когда Сталин, как и Наполеон станет императором Великой России. Императором России Сталин не успел стать, а скорее всего не захотел стать, ибо такой властью, которой он обладал, не обладал ни один монарх в мире.
 А наш автор так и не дождался восстановления монархии в России, умер после окончания Второй мировой войны в Японии. На его глазах в Японии произошли огромные премены во всех сферах жизни, на его глазах СССР превратился в одну из мировых держав. Началась новая эпоха в отношениях между Японией и СССР, но написать новую хрестоматию, отражающую все эти перемены он уже не успел.

 Примечание не для печати. Проблема графского титула и фамилии автора.
 В списке графов Российской империи на 1916-17 г. фамилии автора нет.
 Среди дворян Смирнитских графов нет. В списке титулованных татарских родов фамилии автора нет. В списке основных дворянских фамилий Российской империи фамилии автора нет. Наконец, в перечне основных двойных дворянских фамилий фамилии автора тоже нет.

(次号に和文を掲載します)

「会報」No.33 2012.7.20

函館の「旧ロシア領事館」案内

2012年7月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
  函館市西部の船見町の高台に位置する「旧ロシア領事館」は、函館とロシアの交流の象徴的建物となっている。また、「擬ビザンチン風建築」と言われるこの建物は、函館市の観光名所の一つとなっており、建物内部が閉鎖中であるにも関わらず、幸坂の急な坂を上り、わざわざ見に訪れる観光客も少なくない。建築の専門家からの評価も高く、その文化財的価値については、川嶋龍司著『函館市文化財シリーズ-第3集- はこだての文化財』(函館市文化財保存協会発行、非売品、1971年)、『函館市史 都市・住文化編』(函館市史編さん室編、1995年)などで触れられている。
 現在は「旧ロシア領事館」と呼ばれているこの建物は、1965年から1996年までの約30年間、「函館市立道南青年の家」として活用されていた。そのため、中学・高校時代に青少年宿泊研修活動で宿泊したことがある、という記憶を持つ市民も少なくない。筆者自身は函館出身ではないため、宿泊の経験はないが、1984年に函館を訪れた際に、「道南青年の家」の中に入り歴史展示を見学したことを思い出す。
 「旧ロシア領事館」の歴史は、函館港が露領漁業(のちの北洋漁業)の基地としての地位を確立した20世紀初頭に始まり、函館市の繁栄の源となった北洋漁業と密接に結びついていた。ロシア(ソ連)領事館・領事のことは、『函館市史』(①)でも詳しく取り上げられている。また、在札幌ロシア連邦総領事館経由で入手したロシア外務省史料を翻訳・解説した「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館」(②)は、初めて領事館の設計者がゼールであること、現存する領事館の完成が1908(明治41)年12月であることを確定し、領事館が完成するまでの経緯の詳細を明らかにした。
 筆者自身も、函館生活を重ねるに従い、ロシア(ソ連)領事館研究の重要性を認識するようになり、「函館のソ連領事館と日本人職員」(③)、「函館とロシア(ソ連)領事館-20世紀を中心に-」(④)、「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」(⑤)などでこの問題を取り上げてきた。
 郷土史研究の面からだけでなく、2001年4月から2012年3月まで函館市国際課に勤務していた時には、仕事上、「旧ロシア領事館」を案内・解説する機会が多々あった。
 旧ロシア領事館については、いずれ1冊の本にまとめたいと考えているが、本年4月に異動となり、仕事上「旧ロシア領事館」と関わることがなくなったため、これまで建物を案内する際に口頭で説明してきた事柄を活字にとどめておきたいとの思いからまとめたのが本稿である。「旧ロシア領事館」の概略書兼建物復原の際の簡易手引書にでもなれば幸いである。

■20世紀の函館のロシア領事館の位置づけ
  函館のロシア領事館の歴史をひも解くと、設立の経緯や目的、さらには業務内容まで、全く異なる領事館(あるいは副領事館)が現在までに3つ存在した。
 最初の領事館は、幕末開港期の1858年に開設された。初代領事はゴシケーヴィチである。これは、日本で最初に開設されたロシア領事館であり、かつ日本で唯一のロシアとの外交窓口という位置付けであった。
 ゴシケーヴィチ領事以降は、ビュツオフ、タラヘンテベルグ領事代理、オラロフスキーへと続くが、明治維新を経て、1872年に首都東京に公使館が開設されると、函館の領事館は夏だけ開庁する、横浜の領事館の管轄下に入る、長崎の領事と兼務するなどと、領事が函館に常駐することがなくなり、1870年代半ば以降は、事実上閉鎖状態に置かれた。
 再びロシアから函館港が注目され、恒常的に領事が置かれるようになるのは、20世紀初頭のことである。大きな転換点は、ロシア政府が自国の漁業者を優遇し、外国人、つまり日本人漁業者に対する規制を強化することになるアムール川下流域を対象とする漁業仮規則が公布された1899年であった(⑤)。出漁関連の各種事務を執るために、露領漁業の基地となっていた函館が領事館の設置場所に選ばれた。これが2番目のロシア領事館である。この時、西洋建築の独立した領事館が建設されるが、これが現存する「旧ロシア領事館」へと引き継がれていく。
 その後、ロシア本国では、ロシア革命(1917年)、国内戦争の時代を迎えるが、函館では帝政ロシア時代の領事が残った。1925年1月、日本はソヴィエト政権を正式に承認し、同年5月25日、函館にソ連領事館が開館した(⑤)。
 函館のソ連領事館では、これまでと同様、露領方面に出漁する船に対する査証(ビザ)を発給した。また、ウラジオストク、ハバロフスク、ペトロパブロフスク方面へのビザの発給権は与えられたが、これらの場所以外のビザは、東京の大使館で取り扱った(⑤)。
 ソ連領事館が閉鎖されたのは、1944年10月1日のことである。北樺太石油と石炭の利権がソ連へ委譲され、北サハリンのオハとアレクサンドロフスクの2カ所の日本領事館が閉鎖されることに伴い、ソ連側も敦賀と函館の2カ所のソ連領事館を1944年6月をもって閉鎖したいと通告してきた。敦賀は6月中に閉鎖となったが、函館では、閉鎖の期限を9月末まで延長し、漁期中、館員を残留させることでソ連側の合意を得た。閉鎖直前の9月29日には、日魯漁業(株)が湯の川若松館で送別晩餐会を開き、ザヴェーリエフ領事夫妻と通訳のアレクセーエフが出席した。日本側からは、日魯の首脳部のほか登坂函館市長も出席し、盛大な酒宴が張られたという(①)。
 3番目の領事館は、2003年9月19日に開設された在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所(元町14-1)で、現役の領事館事務所である。北海道・青森県・岩手県を管轄区域とし、商用・観光・留学を目的にロシアに渡航する日本人へのビザの発給や、サハリン石油開発プロジェクトが盛んな時期は、同プロジェクトに従事する外国人労働者のロシア滞在ビザの延長を行ってきた。初代所長はウソフ副領事(2003年9月-2008年8月)、二代目所長はブロワレツ領事(2008年8月-2012年7月)、そして8月には三代目所長が着任する予定となっている。

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左:元キング邸1(『函館』函館市役所発行、1926年)。右:現在。東坂を登り切った右手にあった(倉田撮影)

■船見町にロシア領事館が建設されるまで
 ゴシケーヴィチ領事着任から約2年間は、実行寺に領事館と居宅を置いていたが、1860年、現在のハリストス正教会敷地内に領事館が完成した。その場所は、現在司祭館が建つ辺りである。木造2階建ての白い瀟洒な建物は、港に入る船が最初に見る光景となっていた。ところが1865年1月、西隣に位置する英国領事館(現在遺愛幼稚園が建つ場所)からの出火で全焼した。1861年に函館のロシア領事館付属司祭として着任したニコライは、ニコラエフスクで毎土曜日に発行されていた週刊新聞「ヴォストーチノエ・プリモーリエ」(1865年6月11日付)に、「木造の日本式住宅の消火は困難を極め、2階建ての領事館・書記官の平屋・領事館付海軍士官の平屋は全焼、ゴシケーヴィチ領事が日本滞在中に蒐集した膨大な数の動植物・鉱物コレクションもすべて焼失し、日本人が特に消火に力を入れた通訳の家・司祭の家・病院・教会が類焼を免れた」と、被災状況を伝えている ( Гузанов В. Иеромонах. Документальное повествование. Жизнь и подвиги Святителя Николая Японского. М., 2002г. С.100-101.タチアナ・サプリナ氏提供資料)(⑤)。
 大火後は、被災を免れた建物を領事館に転用していたようだが、その建物も1870年ともなると、地震と暴風雨で完全に崩壊しつつあり、修理なしには住むことができない状態になっていた(⑥150-151頁)。しかし、ウラジオストクに新たな海軍基地を開いたロシアにとって、1870年代以降の函館港は、ロシア海軍の寄港地としての役割を終えていた2。また先述のとおり、東京に公使館が開設されたことで函館のロシア領事館は事実上閉鎖状態にあり、本国ロシアから修繕費が送金されてくる見通しもなかった。1877年に瀬棚沖で起こったロシア軍艦「アレウト号」遭難事件のような海難事故が北海道・樺太沖で発生した場合には、臨時に領事が函館に派遣され、臨時の事務所が置かれるにすぎなかった(⑦)。

■ロシア領事館の設計者たち
 ロシア領事館の設計者は、ドイツ人リヒャルト・ゼール3であるが(②)、実はその前に2つの案が廃案となっていた。最初の案の設計者は、数多くの東京の建築設計を手掛けたお雇い外国人建築家として有名なジョサイア・コンドルで、関東大震災で焼失した初代ニコライ堂の設計者でもあった。コンドル案は、ロシア産木材を使った、ロシア式の堅牢な木造建築を建てることが望ましいと判断され、1902年中に却下された(②)。
 次に設計を依頼されたのは、ハバロフスクのヤジコフ陸軍大佐だった4。こちらはロシア様式で設計されていたものの、やはり難点があり、函館で実現するのは難しいことが判明した(②)。どのような「難点」があったのかは不明だが、その後石造りでの建設が決定されたため、サハリン島から建設地(函館)に届けられていた木材は不要となり、その運搬・後片づけのために88円50銭を要したことが明らかにされている(②)。
 こうした折り、ゼールに新たに設計が発注され、1903年7月に石造りのすばらしい設計図が提出され、承認に至った(②)。ゼールは1903年11月4日、帰国の途に就き(⑩)、その後を継いだのは、同年5月に来日し、ゼールの事務所に入ったドイツ人デ・ラランデだった(②)。

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コンドル案(⑧) 下:上のコンドルの設計図の右端にあるサインを拡大したもの。「April 1902」と記載されているため、設計図が1902年4月には完成していたことがわかる。

■建物から見た旧ロシア領事館

1906年12月 領事館完成(船見町125-4、現在の船見町17-4。住居表示上は船見町17-3)。
1907年 8月 大火で焼失
1908年12月 同じ場所に完成(再建・現存)
1944年10月1日 領事館閉鎖
1952年    外務省の所管となる
1964年    函館市が外務省から建物を購入
1965年 4月 「函館市立道南青年の家」を開設
1972年 1月 宿泊研修棟部分を増改築
1996年 7月 「函館市立道南青年の家」を廃止

 「旧ロシア領事館」は、本館と附属建物から成っている。本館は、レンガ造り2階建(内部主軸部は全部木造)。屋根木造瓦ぶき、内壁および天井漆喰塗、一部紙張り。床木造板張り、リノリウム敷建具木製。附属建物の方は、レンガ造り、平屋建て、屋根木造亜鉛メッキ鉄板ぶき、内壁漆喰塗、天井竿縁、居室床木造、物置床コンクリート叩き、建具木製となっている。敷地面積は、3,732.23平米。本館の延床面積は、1階が428.12平米(附属建物の面積を含まず)、2階が253.90平米である(⑩)。
 領事館の外観は、用途の変更に伴い、変化してきた。主だった点をまとめると、表1のとおりである。

 表1 在函館ロシア(ソ連)領事館の外観の変遷
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ロシア領事館 左:大正初期のロシア領事館。右:1964年6月(函館市中央図書館蔵)。

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「旧ロシア領事館」外観 左:「函館市立道南青年の家」時代(1968年頃)。右:現在(倉田撮影)。

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本館建物は、1989年3月1日、函館市の景観形成指定建築物に指定された(倉田撮影)。

■函館大火前と大火後(現存)
 1903年に着手された領事館の工事は、1904年5月にすべてが完了する予定であったが、1904年2月に日露戦争が勃発すると同時に、工事は中断された。工事が再開されるのは戦後のことで、1906年12月、ようやく完成に至った。ところが翌年の明治40年の大火で領事館一帯は焼失した(②)。レンガ造とは言え、木骨であったため、一部土台を除き、全焼だった。
 ロシア政府にとってロシア領事館建設が急務であった証拠に、1908年4月には再建に関する契約書が函館の大工との間で結ばれ、1カ月以内に工事を開始することが約束された(②)。
 1908年12月、約8カ月で完成した領事館は、大火前と同じ場所に、ゼールの設計図とほぼ同じ形で再建された。ただし、若干、大火前と後(現存する「旧ロシア領事館」)とでは異なる点がある。その最大の相違点は、表階段の設置位置と形状である。ゼールの設計図にある表階段は、やはりゼールが設計し、1893年に竣工した同志社大学神学館(現クラーク記念館)の階段に酷似している。同志社大学クラーク記念館の階段の方が、見た目に美しく、いかにも手の込んだものであることが素人目にも明らかである。大火直後の再建ということで、経費と時間を節約するために変更されたのだろうか。
 それ以外にも、大火後は玄関入口にスロープや外階段の手すりがないこと、裏階段の位置、ビザや出漁関係の証明書を発給するための事務所の専用出入り口の位置5が異なっていたことなどが見てとれる。

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大火で被災したロシア領事館(⑧)

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左:ゼールの設計図より1階部分(②、⑧)。右:ゼールの設計図の右端に書かれたサイン(⑧)

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同志社大学「クラーク記念館」の階段(『同志社大学クラーク記念館』同志社大学キリスト教文化センター発行、2010)

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現在の「旧ロシア領事館」表階段(倉田撮影)

■「ソ連領事館」から「函館市立道南青年の家」に用途変更
 ソ連時時代の間取りは、表2のとおりである(ロシア外務省史料館所蔵、在札幌ロシア連邦総領事館提供資料)。本館1階部分は、正面玄関向かって右手に領事の執務室、函館市の政財界の代表を招いて設宴を行った食堂、食後にダンスや音楽を楽しんだ客間などがあった。正面左手の出入り口から入ると、査証や出漁関係の書類の受付、事務室、そして翻訳室へと続いた。1階の風呂と寝室は、おそらく来客用のものであろう。2階は、領事の家族が暮らす居住空間で、家庭教師用の部屋もあった。平屋の附属建物は、使用人のために作られたものであった。
 さて、1944年10月1日に閉鎖され、領事館員が引揚げた後は、日本人の管理人(小田切由太郎)が管理に当たり、函館西警察署が側面的に協力することになった。連合軍占領下にあった1947年、大蔵省管轄となり、1951年のサンフランシスコ講和条約締結(ただし、ソ連は同条約に調印せず)の翌1952年以降は外務省の所管となった。同年8月、道庁から渡島支庁に管理を委嘱され、渡島支庁が直接管理の責任に当たった(⑩)。
 1962年7月末、日本外務省はソ連側に対し、在ソヴィエト連邦日本国外交領事財産が返還されることを条件として、在本邦ソヴィエト連邦領事財産をソヴィエト連邦政府に返還することを口上書でもって提案した6。これに対するソ連政府の回答は、日本政府が支出した費用を支払わない代わりに、ソヴィエト連邦領事財産、つまり、函館の領事館の権利を放棄するというものであった7。
 1964年、函館市は領事館の建物を外務省から購入し、翌1965年から1996年までの30年余りにわたり、青少年宿泊研修施設「函館市立道南青年の家」として活用された8。また、敷地は日魯漁業(株)からの借地だったが、1981年に函館市は同社から市有地(弥生町)との等価交換で取得し、現在は市有地となっている9。
 ソ連領事館閉鎖直後の平面図は図1のとおりであるが、宿泊研修施設に用途を変更した後のものが図2である。さらに図3は、開館当初の定員は50名だったが、利用者の増大から、約2倍に相当する120人を収容する施設とするため、附属建物を一部壊し、2階建てブロック造の宿泊研修棟を増築し、本館の部屋の大半を畳部屋に替えるなど、大規模な増改築工事が行われた後のものである(「旧ロシア領事館」の現状も図3と同じ)。

表2 ソ連領事館時代の間取り(⑧)
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左:図1 ソ連領事館閉鎖直後の平面図(⑩)
中央:図2 道南青年の家開設当初の平面図(⑩)
右:図3 増改築後(現況)の平面図(⑩)

■旧ロシア領事館復原に向けて
 領事館の建設当初の外観は、函館みやげ用に作成された絵葉書等から知ることができるが、内部について知る史料はほとんど残されていない。
 以下は、1968年に撮影された写真と現在の姿を比較したものである。筆者は、建築に関して全くの素人であるため、専門家の視点からの再考が必要だが、筆者が知る範囲内のことを紹介しておく。

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1階の照明器具 現在(倉田撮影)

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2階の照明器具(1968年頃)

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シャンデリア 左:1968年頃。右:現在(倉田撮影)。 領事館時代には、「客間」にあったシャンデリアが、増改築時に港側の部屋に移設された。この時に電球の上下逆に取り付けられた。

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暖房器具(倉田撮影) 道南青年の家時代に使われていた石油ストーブと煙突。ソ連領事館時代は、向かって左手の部屋に作りつけのペチカ(燃料は石炭)が用いられた。

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食堂 左:領事の歓送迎パーティー風景(『函館日日新聞』1932年11月26日より)。右:現在(倉田撮影)

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食堂の小窓 左:道南青年の家時代(1968年頃)。右:台所側から写した現在の小窓(倉田撮影)。ソ連領事館時代には、現在よりも左手にあった小窓。当時の利用方法は定かでないが、道南青年の家時代には、台所側から食事の差出口として利用されていた。

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食堂の天井(倉田撮影)

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食堂と客間の間の扉と装飾された取つて(倉田撮影)扉は横開き。

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2階の部屋(中庭に面する側の部屋) 左:壁が取り除かれ、二段ベッドが設置された(1968年頃)。右:ベッドが撤去され畳敷きになった(倉田撮影)。

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門柱と門扉 左:道南青年の家時代の門柱と門扉(1968年頃)。右:現在の門柱と門扉 中央左側の門柱は、2005年夏、坂下にある墓地にお盆の墓参りに来た市民が自動車の操作ミスにより倒壊。古い時代のレンガの雰囲気を持たせて再建された(倉田撮影)。

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ソ連時代の国章と標章 左:ソ連領事館時代に設置されていたソ連の国章(函館市蔵)。右:正面扉上に鎌と槌の標章。

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附属建物入口 左:1968年頃。右:現在(倉田撮影)。屋根付きの小さな出入口が増築されたことがわかる。

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附属建物(南東方向から)(倉田撮影)

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附属建物(北東方向から) 左:1968年頃。まだ附属建物が完全に残っていた。右:増築された宿泊棟との継ぎ目部分(倉田撮影)

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左:増築された宿泊棟(北東方向から。夏)(倉田撮影)。庭の樹木は、戦時中、日本軍により植木も伐採し、終戦の燃料難から盗伐などにあったといわれている(⑩)。
右:増築された宿泊棟(ブロック造2階建)(倉田撮影)

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外階段
左:ゼールの設計図には階段に装飾的な手すりがある。
中央:道南青年の家時代は、扉の開閉可。外への出入り自由。手すりはない(1968年頃)。現在ははめごろしになっており、出入り不可。
右:階段部分は集合写真の撮影に良い場所だった(『函館毎日新聞』1932年11月8日)。

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1967年4月財団法人相馬報恩会から寄贈された国旗掲揚台(⑪ 倉田撮影)

旧ロシア領事館ゆかりの品々(市立函館博物館蔵)

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おわりに
 「旧ロシア領事館」は、築100年以上が経過した。閉鎖されて既に15年余が経ち、老朽化も進んでいる。しかし、函館とロシアの交流を現在に伝える貴重な建物であり、かつ、専門家からも文化的価値の高い建築物と評価されていることから、復原・活用されることを期待したい。
 閉鎖中の「旧ロシア領事館」を外側から見ていると、建物にばかり目がいきがちだが、「旧ロシア領事館」が、露領漁業の勃興によって始まり、函館の街の繁栄を支えた北洋漁業と共に歩み、日魯漁業(株)と共栄共存してきた歴史を忘れてはならない。


1 日本人を嫌っていたレベデフ領事が、建物の中に日本人を入れることを嫌い、13年の任期中、一度も改修を行わなかったため、すぐに使える状態にはなく、船見町の通称「堤倶楽部」(元キング邸・元米国領事館 当時の船見町60番地。咬菜園跡の隣接地)にソ連領事館の仮事務所が開館された。元の領事館の改修工事は1927年7月から始まり、9月末に工事は終了、現在地に移転した(④)。
2 函館に代わってロシア海軍の冬期保養基地となったのが長崎。しかし、1898年にロシアが遼東半島を獲得し、大連・旅順の租借権を得ると、長崎もその役割を終えた。
3 1888年10月、エンデ&ベックマン建築事務所の全権代表として来日し、司法省と東京裁判所の工事に従事。明治政府との雇用契約は1893年3月31日で終わるが、1894-95年まで明治学院大学に「建築顧問教師」として雇用され、1897年に横浜山手で設計事務所を開設した(⑨)。函館のロシア領事館の設計図を依頼された当時は、横浜の設計事務所で活躍していた。
4 ハバロフスクのヤズィコフ(Языков)工兵大佐には3人の娘(長女マリア20歳、次女ヴェーラ19歳と三女)がおり、築地のカトリック学校で学んでいた。1901年5月、3人の娘はハバロフスクへの帰途に就くため横浜港から神戸に向かう汽船に乗った。ところが、船内で長女が失踪したため、妹たちは神戸で下船し、東京のニコライのもとに駆け込んだ。当時のロシア正教とカトリックの対立関係も相まって、露仏の両公使館を巻き込む大事件となった。カトリックに改宗した長女は、カトリック修道女の手引きで、カナダ行きの船に乗せられたことが明らかになるが、その後の長女の行方は不明(1901年5月4日、5月6日のニコライの日記より。中村健之介訳・解説・註解『宣教師ニコライの全日記』第7巻、教文館、2007年)。
5 現在の建物には、領事館正面玄関と同じ向き(東側)に事務所の出入口が作られているが、ゼールの設計図では、南側(附属建物のある側)になっている。
6 この口上書には、1956年の日ソ共同宣言で、日ソ両国政府が戦争の結果として生じたすべての請求権を相互に破棄することが規定されたが、外交領事財産(=函館の領事館)については所有権の放棄を定めたものではないこと、日ソ両国間に外交関係が回復して既に5年以上が経過する中、ソ連大使館も日本国内で正常な活動を行っているため、今後も日本政府が引き続きソヴィエト連邦領事財産を管理する理由は乏しいこと、そして、函館のソ連領事館の土地・建物を良好な状況のもとに管理するために日本外務省が支出した総計641万7,077円(1954年4月の暴風雨による災害や1961年5月の台風4号の被害による修理費を指す)の弁済をソ連側に求めることなどが盛り込まれていた。そして、1963年3月31日までに日本政府の提案に応じない場合は、日本政府が管理しているソヴィエト連邦領事財産を全て競売に付し、その売得金のみを日本政府が保管することが提案された(⑩)
7 長崎ロシア領事館では、土地を巡って裁判にまで発展した(堀合辰夫「帝政ロシア 長崎領事館-敷地についての法的側面」『ドラマチック・ロシアin Japan II』、生活ジャーナル、2012年、333-347頁)。
8 青少年宿泊研修施設の設置場所として、湯川町1丁目35番3号の市有地(606.08坪)が候補地として内定していたが、1964年5月に外務省からソ連領事館の建物の購入が認められると、函館市は6月29日、1,558,388円で購入し、同建物に開設することを決めた(⑪)。
9 ロシア領事館が建設された当時、日本は外国人の土地所有を禁じていたため、日本人が領事館に永代借地していた。ところが、ノモンハン事件(日ソ両軍の満蒙国境紛争)が起こった年(1939年)夏、高台に位置するソ連領事館から船の出入りはもちろん、船渠(どつく)に時々入る海軍の駆逐艦等が見えることを面白く思わない軍部が、ソ連領事館の追い出しにかかった。具体的には、領事館の坂下に位置する境内から高い塀のようなものを建てて、「皇威宣揚」という1字何メートル四方もある大きな文字を書いたものを建て、領事館の正門は板塀でふさぐなど、様々な嫌がらせを行った。対するソ連領事館は、この事件が発生した時期は、ちょうどカムチャツカの送込時期にあり、日魯漁業(株)の船が沢山揃って函館の港に入港し、領事館からの査証(ビザ)を求めているところであったことを逆手にとり、査証拒否という反撃に出た。これに驚いたのが日魯の平塚社長で、1日出港が遅れると巨額のチャーター料の損害が出るということで、土地の所有者を探し出し、日魯が土地を買うことにし、以来土地は日魯が無条件無期限でソ連領事館に貸与することになった。(常野知一郎「外国領事館にはられた立退命令書」(『道南の歴史 私の終戦史』道南の歴史研究協議会編・発行、1982年、32-35頁)。ちなみに領事館の土地の登記簿類は、昭和9年(1934年)の函館大火で法務局が被災し、焼失していた。

出典
①函館市史 通説編』第3巻、函館市史編さん室編、函館市発行、1997年。
②清水恵・A.トリョフスビャツキ「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館」『地域史研究はこだて』第25号、1997年、65-87頁。
③倉田有佳「函館のソ連領事館と日本人職員」『函館日ロ交流史研究会会報』No.30(2007年10月)11-15頁。
④倉田有佳「函館とロシア(ソ連)領事館-20世紀を中心に-」『はこだて外国人居留地研究会会報』No.3、15-21頁。
⑤倉田有佳「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁。
⑥伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009年。
⑦清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』函館日ロ交流史研究会編・発行、2005年。
⑧在札幌ロシア連邦総領事館提供資料(ロシア外務省史料(АВПРИ)。史料提供時に、函館日ロ交流史研究会で使用する件については、領事の事前了承済み)。
⑨「リヒャルト・ゼールの経歴ならびに建築作品について -R.ゼール研究 その1」、「同左その2」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)』2002年8月。347-350頁。
⑩函館市所蔵資料。
⑪『函館市立道南青年の家20周年記念誌』1986年。

「会報」No.33 2012.7.20

高田嘉七氏の死を悼んで

2012年7月24日 Posted in 会報

大矢京右

 去る2011年11月27日、近世北方開拓の雄、高田屋嘉兵衛の七代目に当たる高田嘉七氏が、不慮の事故で急逝された。箱館の発展に心血を注ぎ、ゴロウニン事件の解決に奔走した嘉兵衛の血と魂を受け継ぐ氏は、「社団法人北方歴史研究協会理事長」「登録博物館北方歴史資料館館長」「ロシア地理学会会員」などそうそうたる肩書きとともに常にロシア関連研究および民間日ロ外交の先頭をひた走り、その業績については枚挙にいとまがない。
 私は2008年4月に函館博物館へ異動となり、その縁で高田さんが北方歴史資料館で月1回開催していた「博物館連絡協議会」なる集まりに誘われ、幸いにも高田さんと交誼を結ぶことができた。その会は仰々しい名前に反してとてもフランクな情報交換会であり、市内の登録博物館の学芸員をはじめとした高田さんを慕うメンバーが、高田さんの手料理のご相伴に預かりながら様々なジャンルの話題に花を咲かせていた。そして、亡くなる12日前にも恒例の仲間たちが集まったのだが、終わり際に「来月(12月)は26日だな」と確認したのが高田さんの最後の姿になってしまった。
 我々は高田さんと約束だった12月26日に偲ぶ会を開催して高田さんに献杯し、今年1月21日に称名寺で開催された「お別れ会」では裏方として微力を尽くさせていただくことができた。高田さんを失ったことは途方もなく大きな損失だが、高田さんが我々に、そして函館に残してくれたことを心に、一人の「函館人」として地域へ貢献していくことが、高田さんの恩に報いるただ一つの方法であろう。心から高田さんのご冥福をお祈りしたい。

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2009年5月27日に開催した「高田嘉七さんの喜寿を祝う会」

「会報」No.33 2012.7.20

青森とロシアの交流史

2012年4月25日 Posted in 会報

工藤朝彦

 青森とロシアとの交流は、古くは、近世中期、多賀丸漂流のことが挙げられる。
 1744年(延享元年)11月14日、下北半島佐井村の商人、竹内徳兵衛が新造船「多賀丸(1200石積)」に水主17名と供に乗り込み、大豆・昆布・魚粕等を満載し、江戸に向けて出航した。しかしながら、難風により遭難し、半年も海上を漂流してから、翌年5月、千島の第五島のオンネコタン島に漂着した。漂流中に7名が死に、この島で竹内徳兵衛も死に、残りの10名はカムチャッカのポシエレックに連行された。その後、選抜された5名が、1754年にイルクーツクに日本語学校が開校されるとともに同市に移り住み、教師として働き、最後の者は1786年頃まで生存していたらしい。多くの者は現地の女性と結婚し、そのうちの二世の一人、トラベズニコフは1792年、根室、次いで松前に来た第1回ロシア使節団の総理として日本を訪れ、また、別の二世のアンドレイ・タターリノフは露和辞典(露和会話)を編さんしたが、これは、旧ソ連科学アカデミーに保管されているレクシコン(露和語彙集)で、ロシアに入った最初の日本の言葉であるとロシアの学界で言われている。
 佐井村出身の5人が、イルクーツクの日本語学校で、日本語を教えていた頃、1772年にシベリア調査のためにイルクーツクに来ていたドイツの学者ゲオルギは彼らと親しくなり、日本に関する情報を彼らから知ることとなったという。ゲオルギが書き著している彼らに関することは、誌面の関係から、別の機会に述べたいと思う。また、順天堂大学教授の村山七郎博士が青森県の地元紙、東奥日報社に「多賀丸の漂流民が伝える200年前、ソ連で発見された下北の方言」で詳しく掲載しているので、これもまた、1997年10月に多賀丸の軌跡を追った青森の学術調査隊の成果と併せて、今後、紹介したい。
 また、他には、日本で最初に種痘を施した中川五郎治の物語がある。中川五郎治は、陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)に1768年に生まれ、江戸後期の北方系牛痘種痘法の伝来者として知られている。小針屋佐助の子で、本名は佐七。若い頃から蝦夷地に渡り、松前の商家に奉公する。
 後に択捉島の会所番人となったが、1807年(文化4年)、ロシア船の同島襲撃で捕らわれ、シベリアへ流される。五郎治40歳の時である。シベリア抑留生活は5年に及び、逃げ出したり、捕らえられたり、仲間に死に別れたりした。1812年(文化9年)に松前に送還されるが、出国した危険人物として厳しく取調べられた。シベリア抑留中にロシア語を読めるようになったことから、ロシア語の種痘書を持ち帰り牛痘種痘術を覚えた。
 1824年(文政7年)、日本で初めて、田中正右偉門の娘イクに天然痘の予防接種を施したと言われる。種痘は、種苗を得るのが難しく、シーボルトはじめ日本の数々の名医が試みるが失敗に終わっている。公式には、日本への種痘導入は、1849年(寛永2年)に楢林宗建がオランダ商船の医官モーニックの協力を得て長崎で成功したとされるが、これに先立つこと25年前に、五郎次は、松前で多くの人々に種痘を施していたのである。
 その種痘法は函館の医師である高木啓蔵、白鳥雄蔵によって、秋田、京都に紹介され、福井の笠原良策によって実践されたが、医学界では画期的なことであった。後に、ロシア語の種痘書は馬場佐十郎が翻訳し「遁花秘訣」、さらに、三河の利光仙庵が「露西亜牛痘全書」として刊行している。
 1848年(弘化5年)9月27日、中川五郎治は一生を終えた。享年81歳。(参考文献:松木明知「北海道の医史」、同編「北海道医事文化資料集成」)
 近代では、1906年(明治39年)に青森港が特別輸出港に指定され、税関出張所が置かれたこと。1907年(明治40年)7月、青森~ウラジオストク間の試航のため交通丸(1540トン)が青森港に寄航し、1909年(明治42年)7月から定期就航したこと。これにより、対露貿易の促進に繋がったが、前後して、青森市と青森商業会議所が、ウラジオストクに調査団を送っている。このように対露貿易の環境形成が整う中、青森県議会議長、衆議院議員、青森市長などを歴任した北山一郎が、1909年(明治42年)9月1日に、合資会社青浦商会を設立し、浦塩港に支店を設け、青森県のリンゴを輸出した。実業家としての北山一郎は、他に、木材とパルプ事業を目指した樺太ツンドラ株式会社や日出セメント株式会社運営にも係わっていた。

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ウラジオストクの青浦商会支店

 北山一郎は明治3年、青森県南郡浅瀬石村に生まれた。北山家は代々豪農で、地方に名高い素封家であった。早稲田専門学校政治科を卒業後、帰郷し青年団を組織し、33歳で県会議員に当選している。日露戦争中は出身地の浅瀬石村の村長におされ、戦争終結と共に、青森に転出した。北山一郎の転出の動機は、日露戦争によって日本が獲得した北方の利権を、北方人自ら開拓しないという信念からであり、青森県の物産をシベリアに輸出して貿易の拡大を図ることであった。彼は樋口喜輔、渡辺佐助、藤林源右衛門、小館保治郎、佐々木彦太郎といった財界人の後援を得て、青浦商会を株式組織に変え、業務を拡張、リンゴ、醤油、蔓細工、大理石、牛馬を輸出し、大豆、豆粕の輸入をした。
 しかし、露国は大正5年、経済復興の理由の下に、リンゴの輸入を制限したため、玉葱、馬鈴薯の輸出に転じ、浦塩鰊の輸入の斡旋をしたが、欧州大戦後、露国革命になってからは、全く取引が出来なくなり、大正15年に青浦商会は解散したのである。
 青浦商会については、青森大学学長末永洋一氏が『「青浦商会関係資料」調査記(市史研究あおもり3)』で「青浦商会の本店は青森市濱町三十八番地、支店は露領浦塩斯徳港ペキンスカヤ街五、出張所は敦賀港富貴藤原商店方、また、中国東北部(当時満州)にまで営業地域を拡大するため、ハルビンに出張所を設置していた。当時、交通丸が、青森とウラジオストク間を年間26回就航していた。」と述べている。
 年代を遡ること、1892年(明治25年)、探検家で青森市長も務めた笹森儀助は千島探検をした。笹森儀助は1845年(弘化2年)1月25日に弘前在府町に弘前藩士の子として生まれ、1915年(大正4年)9月29日に弘前で死去したが、その人生は波乱万丈で想像を絶するものであった。
 儀助は政府が軍艦を千島諸島に派遣する計画があることを、郷里の友人で新聞「日本」の社主陸羯南から知らされた。以前から北方視察を望んでいた儀助は、伯爵佐々木高行に斡旋の労をとってもらい、民間人として巡航に参加できることとなった。
 周知のことだが、千島諸島が日本領に編入されたのは、1875年(明治8年)である。
 以前の北方国境は得撫島と択捉島間が日本とロシアの国境とされ、樺太については両属雑居地であったが、ロシア側が全島の領有を主張するなど、両国間の問題となっていた。日本政府は、樺太の利権を全て放棄するかわり、千島諸島全てを領有し、両国の国境はカムチャッカ半島南端ラカッパ岬と占守島間に引かれた。これが樺太千島交換条約である。
 さて、儀助は帆船軍艦磐城(長さ47m、幅8m、656トンの木造砲艦)に乗り、7月6日に函館港を出航。乗組員は120人、便乗者は儀助ら6人。この小船は、狭いこと限りなく、水も食料も少なく、北に行くほど寒さが厳しく、体力は一気に衰弱したようだ。7月10日に根室に着くと、儀助は根室郡庁や警察署、測候所、水産会社を訪ねて日露交流史、根室開拓の沿革や実態を調査している。千島調査は後に『千島探検』にまとめられ、明治天皇にも上呈されるが、千島諸島の実効支配はロシア側が有利で、政府の無策が批判されると共に、今後の施策が13項目に亘って提案されている。
 7月31日、磐城は根室を出航し千島諸島に入り、8月1日に択捉島留別港に停泊。食料や石炭を積み込み、3日出帆し、6日には千島諸島最北端の占守島と南隣の波羅茂知島間の海峡に至り、20日間に渡り調査を行ったが、その間、磐城は嵐で難破しそうになり、食料・水が底を突くなどで、途中で調査を打ち切らざるを得ず、9月3日に根室に帰港した。また、艦長の榊原長繁は、1891年(明治24年)に起きた大津事件以後の日露関係に配慮してか、儀助の島上陸が許されたのは一週間程度であった。
 しかしながら、千島アイヌのヤーコフという酋長との出会いで、現地の様子を聞くことができ、1893年に刊行された『千島探検』で、儀助は、千島列島の警備として島庁の設置と、色丹アイヌの占守島復帰を提案している。樺太千島交換条約により、1884年に占守島から97人のアイヌが列島最南端の色丹島に移住させられたのである。
 儀助の他、1861年に、民間人として最初に千島探検をしたのは青森県田子町出身の真田太古であり、翌年には千島開発会社を設立している。(参考図書:辺境からのまなざし~笹森儀助展(青森県立郷土館)図録)
 ロシア革命後から第二次世界大戦終了前までに、青森市内には、数家族の白系ロシア人が住んでいた。このことについては、私が体験した事実として、「会報」No6(1998年1月8日)で紹介しているので、ご覧いただきたい。
 次に現代の平成に入ってからの青森の日ロ交流について、年表でその概要について述べたい。

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戦前、青森に住んでい白系ロシア人「カチヤとワレンチン兄妹」

《一つには、みちのく銀行の大道寺小三郎の偉業である。》
【1990年】
4月 みちのく銀行「ハバロフスク・ナホトカ・ウラジオストク経済視察」
ウラジオストクではダルソーと「中古車輸出」「医療関係者の交流」等、12項目について「覚書」を取り交わす
5月 ウラジオストク・ダルソー一行来青
6月 「青森県日ソ交流協会」設立 発起人55名 会長:菊池武正 副会長:大道寺小三郎
7月 「ペレストロイカのロシア9000キロの旅」実施報道関係者ほか総勢152名参加
青森港からソ連客船「ネジダノーバ号」で出発、青森空港史上はじめてアエロフロート機で着陸帰国
8月 「青森県日ソ交易株式会社」設立 資本金2億5千万円
ウラジオストク・ダルソーと青森・ウラジオストク間の定期航空路開設について継続協議
9月 ダルソー派遣の車両検査員3名が160台の中古車輸出の事前検査のため来青
ソ連車両運搬専用船「ニコライ・プリゼバルスキー」号が青森港へ入港
10月 「ソ連経済・文化ミッションツアー」実施
中古車の継続輸出、ソ連科学アカデミー水中生物学研究所とバイカル湖水の商品化に関する「覚書」締結
「医学研修」ウラジオストクから医師3名が弘前大学医学部で研修開始
12月 在札幌ソ連邦総領事館領事V.Iバラーキン夫妻来青 講演:「極東と日本の関係」
ブリノフ、ウラジオストク市長歓迎の昼食会 場所:函館
歓迎パーティ(函館市・函館日ロ親善協会主催)【1991年】
2月 ハバロフスク人民代議員議会議長一行来青
4月 ソ連科学アカデミー・シベリア支部湖沼学研究所一行来青
5月 弘前大学医学部前でソ連へ援助する医薬品の発送式
17,400千円の義援金、24,200千円相当の支援物資を調達
ハバロフスク・ウラジオストクで医療品の贈呈式、とうもろこしの種を市民に配布
6月 ノボシビルスク航空産業財団より自動車修理取得のため実習生3名来青
青森県とソ連の交流活動のための民間大使として、モスクワからの通訳クーロチキナ・リュドミラ・アナトリエブナさん来青(以後、2年間みちのく銀行で勤務する。恐らく戦後初の長期にわたって在青したロシア人。)
7月 ノボシビルスク航空産業公団に中古車200台輸出
青森県日ソ協会・鯵ヶ沢町主催、「極東シベリアの旅」 青森港から「オリガザドフスクヤ」号でウラジオストク港へ
8月 青森朝日放送の招きで沿海州テレビ・ラジオ委員会(ウラジオストク市)来青
相互協力関係の合意
鶴田町町議会一行訪ソ。
*ソ連でクーデター勃発
鯵ヶ沢町齋藤町長(協会の発起人)「第13回日ソ沿岸市長会議(ウラジオストク市)」参加
10月 ハバロフスク州ダリニュク議長あてに県民の無償提供による中古タイヤ5000本を(ソ連貨物船「BALTIYSKIY-71号」で)送る
【1992年】
2月 鯵ヶ沢町が招聘したナターリア・クズメンコ女史がウラジオストクから来青 
4月 大道寺副会長(みちのく銀行頭取)が東京でゴルバチョフ元大統領と会談 10万ドルをゴルバチョフ財団に寄贈
5月 ユジノサハリンスク市長 みちのく銀行の招待で来青
6月 みちのく銀行の招待でハバロフスク・テレビラジオ委員会議長が来青
8月 青森空港からアエロフロートのチャーター便「ロシアツアー(みちのく銀行企画)」。県知事団長とする「青森県ミッション団」が同乗し、27日にハバロフスクにおいて「青森県とハバロフスク地方との友好的なパートナーシップに関する協定」を調印
10月 RAB青森放送とハバロフスク・テレビラジオ会社「極東」と放送業務について協定書締結
【1993年】
2月 みちのく銀行の招待でチジョフ駐日大使来青
3月 青森公立大学の開学式典出席のため、ハバロフスク・ウラジオストクから教育関係者が来青
5月 青森県の招待でハバロフスク地方政府代表団が来青
第1回のロシアチャーターツアー
6月 第2回、3回ロシアチャーターツアー
7月 第4回ロシアチャーターツアー、ユジノサハリンスクで花火大会開催
戦前に青森市の新町小学校に在校していたエカテリーナさん(サハリン パナチョフ氏の妹)来青
第5回ロシアチャーターツアー
8月 第6回ロシアチャーターツアー
青函ツインシティの共同開催事業「ウラジオストク訪問クルーズ」
(函館市とウラジオストク市の姉妹都市提携1周年記念)
9月 第7~9回ロシアチャーターツアー
10月 第10回ロシアチャーターツアー
青森南高等学校でロシア語を教えることとなったタマーラ・ドレゴワさん来青
【1994年】
4月 (財)鳴海研究所清明会からハバロフスク州立第二病院へC/Tスキャナーと200万円を寄贈
5月 第1回ロシアチャーターツアー
サハリン日本産業見本市に県産品(りんごジュース、日本酒、津軽凧等44品)を出展
7月 第2回ロシアチャーターツアー
8月 ハバロフスク卓球選手団来青 卓球交流
青森県の国際交流員フォロンコフ・オレグさん赴任
9月 第3回ロシアチャーターツアー
日ロ親善サッカー交流のためハバロフスク訪問
10月 ロシア・東欧学会第3回大会シンポジウム「環日本海経済圏を目指してーロシア極東と経済・地域交流の状況と展望」が青森公立大学で開催される
【1995年】
4月 青森~ハバロフスク定期航空路の開設
5月 ハバロフスク・ウラジオストク・サハリンで市民にトウモロコシの種子を無料配布
6月 ハバロフスク市において親善花火大会を実施30万人の観客が堪能
7月 みちのく銀行のユジノサハリンスク駐在員事務所開設
ロシアでは東京銀行に次いで2番目の開設
大道寺副会長がハバロフスク市より外国人で初めての名誉市民章を受賞 
青森青年会議所主催の「グローバルちびっ子トレーニングスクール」にロシアの子供たちが参加
8月 大道寺副会長がユジノサハリンスク市より外国人で初めての名誉市民章を受賞
9月 ハバロフスク市で「青森県フェア」開催 3日間で1万人来客
10月 青森県立郷土館において「ロシア極東の自然と文化 ハバロフスク郷土博物館所蔵品」開催
12月 国立ハバロフスク医科大学関係者が弘前大学と学術交流協定の締結のため来青
【1996年】
4月 極東3市に、トウモロコシ・野菜・花の種94,000袋空輸
青森明の星短大でハバロフスク教育大学の2名の女子留学生が、2年間学ぶこととなった。
7月 みちのく銀行は合併20周年記念事業の一環でサハリンにピアノ55台を寄贈
8月 ウラジオストク極東国立工科大学に「みちのく銀行日本語センター」開設
10月 大道寺副会長に、モスクワのプレハノフ経済アカデミーより名誉博士号を授与
11月 鯵ヶ沢町と幻の魚といわれるイトウの保護と養殖で交流しているサハリン州政府は、技術者の派遣と発眼卵の提供に関する協定を結ぶ
【1997年】
4月 鶴田町の鶴の舞橋丹頂鶴自然公園に、アムール州ヒガンスキー国立自然保護区から丹頂鶴二羽が届く
大道寺副会長にハバロフスク国立極東総合医科大学とハバロフスク総合教育大学から、外国人として初めて名誉教授号を授与
5月 サハリン州ポロナイスク市でA型肝炎が流行、サハリン州政府に注射器10万本緊急輸送
11月 青森県とハバロフスク州の友好協定締結5周年記念式典に、イシャーエフ知事が出席
【1998年】
5月 ハバロフスク州政府にリンゴ5トン寄贈
大道寺副会長、ハバロフスク市創立140周年記念式典に出席
11月 佐井村は「多賀丸漂流記念碑」建立に伴い、多賀丸漂流の歴史調査に関係の深い、イルクーツク大学のクズネツオフ教授を招聘
【1999年】
2月 「みちのく銀行モスクワ」設立、邦銀では初のロシア現地法人となる
7月 青森~ハバロフスク国際定期便に「アエロフロート」に代わり「ダリアビア航空」が就航
【2000年】
8月 モスクワで運行される予定の「青森ねぶた祭り」が、ロシアの原子力潜水艦事故のため中止となる
9月 弘前大学はハバロフスク国立極東総合医科大学、モスクワ大学と大学間交流協定を締結
【2001年】
1月 みちのく銀行大道寺会長のロシア連邦名誉領事伝達式が行われる(任命日:2000年12月7日)
7月 ウラジオストクからロシア極東漁業技術大学所属の「パラダ」、ロシア極東アカデミー所属の「ナジェジュダ」の2隻の帆船が来青、青函ヨットレースに参加
【2002年】
2月 青森市で開催された「北方都市会議」にハバロフスクのソコロフ市長、ユジノサハリンスクのシドレンコ市長が出席
8月 みちのく銀行モスクワのユジノサハリンスク支店開設
9月 大道寺氏、ユジノサハリンスク市創立120周年記念式典に出席
【2003年】
3月 みちのく銀行モスクワのハバロフスク支店開設
9月 モスクワに由紀さおり・安田祥子姉妹を招いて、コンサート「ロシアにひびく日本の歌」を開催(主催:みちのく銀行)
10月 大道寺氏のロシア極東国立総合大学教育部門名誉博士号授与式がウラジオストクで開催
11月 大道寺氏、ロシア連邦プーチン大統領令により「友好勲章」を受章
【2004年】
5月 大道寺氏にロシア連邦プーチン大統領令により「サンクトペテルブルグ建国300周年記念メダル」授与
8月 東シベリア天然ガス視察ツアー
【2005年】
7月 中学生ハバロフスク視察派遣事業
【2006年】
3月 青森県日ロ交易(株)解散
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
【2007年】
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開
ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
中学生ハバロフスク派遣事業
【2008年】
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開(1往復) ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
【2010年】
7月 ハバロフスク極東シベリアツアー(ウラジオストク航空チャーター便) 7月25日~7月28日
注:  (下線部)は私と交流のあったロシア人である。ウラジオストク在住のナターリア・クズメンコさんとは、今でもメールを交換している。

《青森県のハバロフスク地方との友好提携までの経緯・現状》
 東西の緊張緩和により青森県とソ連との交流の拡大が考えられることから、平成2年12月に「ソ連との交流に関する基本方針」を策定し、今後のソ連との交流に当たっての基本的な考え方を取りまとめた。方針では、青森県と地理的に近く、交流の機運が醸成されつつある沿海地方。ハバロフスク地方、イルクーツク州を交流推進地域とし、これらの地域との交流を始めることとした。
 平成3年2月に、ハバロフスク地方人民代議員会議ダリニュク議長を招聘し、交流についての協議を行った。平成4年8月には、知事を団長とする青森県ミッション団をハバロフスク地方、イルクーツク州、沿海地方に派遣した。ハバロフスク地方行政府イシャーエフ長官との会議の結果、農林水産業・文化・スポーツ等の分野で交流することで合意に達し、平成4年8月27日、ハバロフスク市において友好協定を締結した。
 ハバロフスク地方とは、地方政府代表団の受け入れ、青少年、医師及び農業技術者の派遣・受け入れ、水産技術者の派遣、民族芸能団の受け入れ、国際交流員の招致、県職員のハバロフスク派遣・行政実務研修などの分野で交流を行っている。
 平成19年度は、友好15周年を記念して記念行事を実施している。

《青森公立大学とロシアとの交流》
 平成4年10月、佐々木誠造青森市長は、加藤勝康学長予定者(青山学院大学でロシア経済学等を教鞭)、加藤幸廣大学開設準備委員会専門委員(元外務省職員でナホトカに駐在後、日本商社に勤務)とともに、ロシア極東地域の各大学(極東国立大学、極東国立工科大学、ハバロフスク国立教育大学)を訪問した。また、ウラジオストク市長のエクレーモフ氏、ハバロフスク地方行政府第一副知事のミナキル氏等と懇談し、教員及び学生の相互交流の可能性について意見交換をした。
 帰国後の記者会見で、佐々木市長は「教員と学生の相互交流について基本的な意思を確認し合う事ができた。今後の進め方については、相互主義を原則に具体的な交流プログラムと条件を事務的に詰め、これらの環境が整った段階で協定書の調印へと運びたい。大学間の相互交流により、双方にとって有意義な人材養成が実現されることになれば、将来それを核として、学術文化にとどまらず経済など様々な分野の交流の促進に繋がる。」と述べた。
 こうして、翌年の平成5年4月に青森公立大学が開学し、ロシア語講座が開講したのである。ロシア語講座の講師は、トルスト・グーゾフ・アントリーエビッチ(1952年2月15日、ウラジオストク生まれ)、極東国立大学東洋学部日本語学科を卒業後、モスクワ科学アカデミー東洋研究所日本研究センターに勤務し、日本の歴史を学び、特に鎌倉時代に制定された武士政権のための法令「御成敗式目」のスペシャリストである。現在、青森公立大学の准教授。因みに、弟さんは広島大学の非常勤講師としてロシア語を教えており、江戸時代の「目安箱」に詳しく、また、帝政ロシアと日本との関係について研究している。
 また、青森公立大学は、極東国立工科大学と学術交流の締結をし、学生の相互派遣、留学生の派遣・受け入れを実施している。
 縁あってか、2000年5月13日に、函館日ロ交流史研究会の研究会を青森公立大学で開催し、トルストグーゾフ氏に「青森公立大学でのロシア語教育」について、留学生のイワン・カシェーエフ君には「ウラジオストクの日本クラブ紹介」について、講演していただいている。
 ロシア人留学生の中でも、現在も友人関係が続いているアンドレイ・シビニィニィコフ(32歳)について少し紹介したい。祖父は、今でも健在でウラジオストクに住み、戦前、ハルビンの日本語学校で学んだことから、日本語を話すことができる。また、ウラジオストクのアルセニエフ博物館の館長を務めたという。母は、ウラジオストクの病院で内科医として勤務しており、弟は、早稲田大学での留学後、モスクワの銀行で働いている。
 彼は、極東国立工科大学を卒業した後、本格的に日本で経営経済学を学びたいとの思いで、今度は、日本政府の文部科学省からの奨学金を得て、再び、青森公立大学大学院で学ぶこととなった。約6年前、修士を取得し、東京のロシア系貿易会社で働くこととなり、現在は、専ら、ロシア等海外からの水産物の輸入取引に携わっている。一昨年、日本の女性と結婚したが、私はロシア式結婚式に招待され、東京在住の多くのロシア人と懇談することができた。今、奥さんは、ロシア語習得に熱が入っている。

 最後になるが、芽生えだした、ちょっとしたロシアとのビジネスの話を紹介したい。
 青森公立大学の学生が設立した貿易会社がある。会社は、学生が所属するゼミの教授の名前を冠した「TLFIT」丹野大教授(多国籍企業論)とゼミ生が2006年10月、研究室内に設立し、資本金は10万円。社長・輸出入担当と組織化されている。
 取扱商品は、ペルーのコーラ・スコットランドのチョコクッキー・韓国の即席ラーメン等約20種類で、主に大学の売店で販売している。
 先に紹介したアンドレイ・シビニィニィコフとタッグを組み、青森県産のリンゴをロシアに輸出した経験のある丹野教授は、ロシア向けの県産品の輸出を提案した。八戸出身の社長(3年生)は海産物の輸出を試みたが、賞味期限があることから取り止めた。そこで、毎年秋にハバロフスクで開催される国際見本市2007年に初出品し、12品目をそれぞれ5個から30個販売した。「にんにくふりかけ」「焼肉のたれ」は好評であったので、賞味期限の長い加工品にターゲットを絞り、戦略を練っているところである。
 また、この国際見本市では、青森県・物流会社の現地法人の関係者が、「蜂蜜入りりんご酢」1本900ルーブル(約3,600円)を120本、「顆粒みそ汁」1食30ルーブル(約120円)を3,500食、販売した。他に、試飲として「しじみ汁」の人気が高く、日本酒や焼酎を輸入したいというロシア商社と弘前市の酒造会社での商談も始まり、青森のロシアビジネスが、再び動き出している。

「会報」No.32 2010.8.30

ワクワク函館への旅

2012年4月25日 Posted in 会報

小林千香子

 2010年2月18日から20日、生まれて初めて北海道の地を踏む日がやって来た。「日本・ウラジオストク協会懇談サロンin函館」出席のためである。飛行機の往復だけではあまりにあけっけないので行きは新幹線「はやて15号」で東京出発、八戸で特急「白鳥15号」に乗りかえる。
 気のせいか青函トンネル前から雪景が本州とは異なるような感じ。サイロがあったり、すっきり伸びた樹木が雪景の中でロマンチックに異国的に写る。
 私の背後で若い女性が「就職が決まらない」ことを相方に訴えている。ガランとした車中で厳しい社会状況を知る。不況はもちろん全国的規模なのだが......
 初日はロシア極東国立総合大学函館校で日本・ウラジオストク協会浅井事務局長の「ロシア極東と日本地方都市の貿易」と題しての特別講義。ソ連(ロシア)ビジネスに携わって来られた浅井さんならではの厳しい現状も伺った。40名の聴衆は熱心に耳を傾けていた。
 続いて「マースレニッツア」という冬を追い出し春を迎え祝うロシアのお祭りが同大で行なわれた。冬を象徴するワラ人形「モレーナ」をかついで冬を楽しむ「クマ」「ウシ」のお面たち。やがて彼らは「太陽」にほうきで追い出されるという寸劇が演じられる(絵A)。「冬」と書いてあるワラ人形に火が放たれ、「冬」の左に朱で糸ヘンをつけると「終」りという文字に。つまり冬は終りということになる。
 春の神「ヤリロ」が訪れ春となり、その寸劇は終わる。「コール八幡坂」の合唱団や学生達が加わり「マースレニッツア」が盛り上がる。日本流にいえば立春の訪れだ。
 雪の校庭いっぱいに香ばしい焼肉の煙が漂い始めた。料理の達人アニケーエフ副校長の指導のもと、学生達の手作り料理が次々と完成。ブリンヌイ、ボルシチ、シャシリーク(くし焼)、コンポート、ピロシキ等の御馳走が運ばれて来る。紅いボルシチの色がロシアを想い起こされなつかしい。

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絵A

 私達の周りでも日本人男性と結婚した若いロシア人女性、留学生、教師、函館に住み着いたという東京人等との会話が弾み、楽しい交流会だった。
 同校のイリイン・セルゲイ校長は流暢な日本語を話された。2009年北海道新聞の「ひと」の記事によれば、先生はウラジオストク生まれ。中学時代ナホトカ近郊で過ごした。その折、図書館で川端康成の「山の音」の翻訳を読み「こんな国もあるのか」と感銘を受けたという(非常におませな中学生だったと思う)。私ごとになるが、学生時代私もやはり「山の音」を読み衝撃をうけた。突然大人の世界に投げ込まれた気がした。今から50年も前、宝塚から急行列車に飛び乗り鎌倉の川端先生宅の自宅前に佇む変な女学生を先生はジッと鷹のような冷徹な目で見つめられた。以来川端文学は私の原点になった。
 イリイン校長はこんなことも言われた(絵B)。「以前卒論といえば学生が原稿用紙に手書きしたものを、うやうやしく持って来て両手で手渡したものだが、今はこんな小さなメモリーチップを持って渡しに来るのです。」それを先生がパソコンに入れて読ませて頂くというのもなんだか主客転倒しているような気がする。先生のため息もわかる。しかし時代は先に先に進んで行く。良きにつけ悪しきにつけ決して後戻りしない。

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絵B

 夢の又夢でも20代に戻ってこんな大学でロシア語を勉強してみたいなアと希った。明るくユーモアとペーソスに満ちた校長先生の存在は今後も同大学の更なる発展を可能にするだろう。
 おみやげに同校の「15周年記念文集」、「15年の歩み」「関連新聞記事」等の冊子を頂いた。どれも立派で同校を知る上で貴重な資料だ。
 その後、同校内に置かれている付属函館ロシアセンターを視察した。若い女性スタッフが生き生きと活動している姿が頼もしかった。
 ハリストス正教会のニコライ・ドミトリエフ神父を訪ねた(絵C)。白く美しい日本初のハリストス正教会の建物である。情熱的な語り口、巧みな日本語、何か不思議な人を包み込むようなお人柄だ。
 教会内でニコライ神父著蔦友印刷(株)「ロシア人・日本人」を求めた。帰ってから読んでみたが面白くて面白くて止められない。ハートフルな自叙伝である。「大好きな日本人にロシアを知ってほしい!」と訴えている。これこそ私の求めているものだ。多くの友人達にこの本を回覧することにした。

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絵C

 市立函館博物館視察。
 函館をみおろす丘の上の木造の古い建物が時代を感じさせながら佇んでいる。雪の道をふみしめ博物館にたどり着く。
 佐藤・大矢両学芸員が出迎えてくださる。樺太関係や露領・北洋漁業関係の資料をみせて頂く。熱心な説明が嬉しい。「にしん御殿」などという言葉を子供時代にきいたことがある。それも北洋漁業の盛んな時代の言葉だろう。
 夜函館山夜景を楽しむ(絵D)
 これが噂にきいていた百万ドルの夜景!太平洋と日本海どちらをも右と左に眺められるぜい沢。広大な夜景に息をのむ。弘前からかけつけたロシア語勉強中の青年と合流。山頂レストランで夕食。

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絵D

 2月20日 宿泊先のホテルは清潔で眺めのよいホテルだ。夜景を眺めながら屋上露天風呂としゃれ込む。朝は風花に打たれながら湯に浸る。この幸せを何と表現したらよいか...
 赤レンガ倉庫群は海の側に立ち並び昔の繁栄をかもし出している。
 ロシアホテル跡地、ロシア人墓地―雪の墓地に眠る函館にかかわった過去のロシア人がたくさん居ることを知る(絵E)。

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絵E

 この墓地は大切に保存されていた。
 旧ロシア領事館は擬ビザンチン風建築で二階建て建物。1908年に新築され、今は両国民の友好のシンボルとなっている。
 「旧ロシア領事館復元・活用の会」の工藤玖美子代表との出会いもあった。東京を脱出し、函館を本拠にし、この運動に全力をあげているという。函館を愛し、ロシアを愛する、ロマンを地でいく女性、私には彼女の気持ちがとてもよくわかる。
 午後の交流会は、函館日ロ交流史研究会が主催し、函館日ロ親善協会、旧ロシア領事館復元・活用の会、はこだて外国人居留地研究会、極東大学函館校教師の皆さん24名の参加があった(絵F)。

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絵F

 函館日ロ交流史研究会長谷部世話人代表からは同研究会の15年余りの歩みほか、前職場である市立函館博物館とアルセニエフ博物館との交流について画像を見ながらこの説明があった。
 日本・ウラジオストク協会事務局田代さんからは、協会の設立経過活動についての報告。中本会長からは、「日露の架け橋チェーホフと日本人をめぐる秘話 ‐チェーホフ生誕150年によせて」の興味深い話が画像と共に参加者を魅了した。
 又、エレーナ・イコンニコワさん(サハリン大)は、御自身のテーマである「ロシア文学におけるサハリンとクリル諸島のイメージ」について、中本会長による通訳を介して講演された。モスクワからみて極東の地もかくも知られざる深い歴史をもっていること、流刑の地であっても案外自由に人々は生きていたこと等。
 このような内容を普段知らされることはなかった丈に、よく綿密に調べられたことに驚きであった。18世紀19世紀、又は日露戦争の背景も加わり、詩や文学が極東の地を舞台に生き生きと語られているのに感動した。
 懇親会は失礼してひと足先に帰途についた。タクシーの運転手さんが、新幹線の止まる予定地が函館ではなくて次の駅に決定したことを「函館の危機」だとふんがいしていた。地形的に函館は無理だということなのだそうだ。
 旅人の私がとやかくいうことはできないけれど、これだけロシアとの深いつながりのある都市はない。この魅力ある都市は、東京ものですら東京を捨てて住まわせるほどの美しさやエネルギーを放っている。交通の不便さにより人々の足が遠のくのだとしたらロシアとの文化交流の妨げにならなかと心が痛む。次の機会には家族や友人と一緒に函館を訪れ、なつかしい人々と再会したいと希っている。
 この日のために奔走してくださった倉田有佳さん、そして函館の関係者の方々に心から御礼申し上げます。

「会報」No.32 2010.8.30 特別寄稿

サハリン島で迎えた日露戦争とビリチの戦後 -ロシア極東国立歴史文書館史料より

2012年4月25日 Posted in 会報

倉田有佳

■ロシア極東国立歴史文書館訪問
 今年3月7日から17日までウラジオストクを訪問し、ロシア極東国立歴史文書館(RGIA DV)での資料調査を行ってきた。場所は、ウラジオストク駅のすぐそばで、宿泊先に選んだホテル「プリモーリエ」から徒歩で10分弱である。
 実は、同文書館の利用は、今回が2度目で、ウラジオストクの総領事館に専門調査員として勤務していた当時(2000年12月)、日頃からお世話になっていた極東大学モルグン教授の案内で訪れたことがある。RGIA DVは、1992年にシベリアのトムスクからウラジオストクに移転してきた(詳しくは『ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(III)』参照)。同じ建物には、国立沿海地方文書館(GAPA)が入っており、閲覧室も同じ。閲覧室の扉を開けてすぐの机がGAPAの担当者で、右手前方の机に座っているのがRGIA DVの担当者であるとの説明を受けた。
 当時のウラジオストクは、深刻な暖房問題を抱えていた。文書館の閲覧室も室温は常に1-2度、3-4人いる閲覧者も、皆がオーバーを羽織って新聞や史料に向かっていた。覚悟はしていたが、もものの15分も経つと身体が芯から凍えてくるため、廊下に出て、持参した魔法瓶に入れてきた熱い紅茶で暖を取った。
 そのような懐かしい思い出を胸に、10年ぶりに訪れてみると、建物の造作は変わっていないが、廊下の壁紙が新しく、明るい雰囲気になっていた。無論、暖房の心配もなく、閲覧室は机も床も清潔で、非常に快適だった。一方、変り映えしないのは、担当者の女性の対応で、1990年代半ばのモスクワの図書館や文書館が思い出された。また、閲覧者が必要な箇所を黙々と書き写している姿も懐かしかった。昨今は史料の写真撮影が許可されているものの、1ファイル、1ドキュメントにつき800ルーブル(当時:3000円強)と高額であるため、ロシア人学生や研究者は、書き写しが中心とならざるを得ない。
 領事館函館事務所ブロワレツ所長からトロポフ館長に事前連絡しておいていただいたおかげで、行った初日から史料を閲覧することが許可されたが、RGIA DVの閲覧時間は、月曜から金曜日の9時から15時までと短く、しかも「アルヒヴィストの日」だの、まれにみる大雪による急な閲覧室開放時間の短縮もあり、史料の写真撮影は、閲覧最終日にあわてて行うはめになってしまった。
 とは言え、このたびの調査は、私の近年の研究対象であるKh.P.ビリチの生涯のうち、サハリン島時代の空白部分を埋める上で大いに役立った。具体的な成果は、今年末を目処に発刊予定の論文集『日露戦争とサハリン島』の中の倉田担当章に反映させたため、詳しくはそちらをご覧いただくとして、以下、本稿では、函館と関係のある点を中心に、このたびの成果を紹介したい。

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左:ロシア極東国立歴史文書館の看板 右:国立沿海地方文書館の看板

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外観

■日露戦争中ビリチが拿捕した函館からの密漁船
 日露戦争勃発直後、ビリチは自費で義勇兵隊を編成し、自ら隊長となった。そして、RGIA DVの史料を典拠としたサマーリン論文から、サハリン島の沿岸警備に就いていたビリチ隊が密漁船2隻を拿捕したことまではわかっていた。しかし、今回、自分の目で史料を確かめた結果、ビリチが拿捕した船の名前は、「ダイサンカイショーマル」ではなく、正しくは「ダイサンカイチマル」であることが確認できた(Ф 702 оп.1 д.482)。
 この事件については、外務省外交史料館所蔵史料でも調べてみた。すると、1904年4月12日、函館近郊の銭亀沢や石川県羽昨郡の漁夫計63名が、松前郡吉岡に赴くと称し、汽船「東洋丸」に乗りこんで函館を出航したが、吉岡には上陸せず、「第三加悦丸」に乗り換えてサハリン島に密航したことが明らかになった。「カエツマル」を「カイチマル」と聞こえたのは、函館弁の影響だろうか。それはともかく、「ダイサンカイチマル」は、函館の小熊幸一郎所有の「第三加悦丸」のことと考えてほぼ間違いないないだろう。
 実は、「東洋丸」に乗った銭亀沢村出身の漁夫一行が、サハリン島で拿捕された事件については、『函館市史 銭亀沢編』(函館市史編さん室編、函館市出版、1998年、79-81頁)で詳しく述べられている。しかし、「東洋丸」とだけあり、「第三加悦丸」には全く触れておらず、ビリチ隊との接点が見出せなかった。ここにようやく、函館からの密漁船を拿捕したのがビリチ隊であることが判明したのである。
 外務省記録から、「第三加悦丸」が拿捕された状況をたどってみると、1904年4月19日、悪天候の末、ウッスロ(日本時代の鵜城、現在のオルロヴォ)に漂着し、飲料水と焚火を求めて上陸すると、露国守備隊38名が銃剣を伴って陸上の山影から出て来た。逃げ切ることもできないまま拿捕され、5月21日、一同は本船に乗り移された。露国将校1名と兵16名、ロシア側船長1名が同行し、アレクサンドロフスクへ護送された(外務省記録[3. 5. 8. 19])。
 アレクサンドロフスクから先、大陸側のニコラエフスクへ渡り、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、さらにトムスク、チュメニ、ペルミとシベリアを横断し、最終的にドイツのブレーメンへと送られ、函館を出航して8ヶ月後の12月6日、長崎港に無事到着したことなどは、『函館市史 銭亀沢編』で触れているとおりである。
 なお、ビリチ隊が拿捕した船ではなかったが、1904年8月7日に小樽から出航した「加茂丸」の乗組員13名は、サハリン西海岸でロシア兵に捕えられると、「第三加悦丸」でアレクサンドロフスクからニコラエフスクに移送され、「第三加悦丸」一行と同様のルートでシベリアを横断し、ブレーメンから日本に送られ、約1年後に神戸港に到着した。その状況は、一行が帰国後に語った「樺太遭難実話」(『北海タイムス』1905年8月26日-9月30日)に詳しい。

■戦場サハリン島でのビリチ
 RGIA DVで今回閲覧した史料は、貴重な情報を提供してくれるものばかりだが、中でも、戦時中に失った自己資産を回復するために、戦後になってからプリアムール総督に宛てたビリチの請願書(Ф. 702. оп. 1. д. 482. л. 209об-210)は、重要だった。
 請願書の中でビリチは訴える。敵の手に渡る前に漁場一帯を焼き払えという軍の命令に従ったため、ウッスロの自宅や倉庫など堅牢な計15の建物、漁場の船、漁労用具類などの資産を失った。軍の指揮官の助言に従い、飼育していた大型角獣の家畜84頭と馬9頭を参謀本部が置かれているアレクサンドロフスクに送り、残る大型の英国種の豚150頭は、屠殺後廃棄処分にした。4人の義勇兵を伴わせ新品の完全武装の木造船を軍に提供した。
 請願書という性格上、ビリチが事実を誇張している可能性は否めないが、日本軍の樺太上陸後、軍の命令に従い、軍当局に積極的に協力したビリチの姿が浮かび上がってくる。

■ロシア側に求めた戦時中の補償
 ビリチが捕虜となり、弘前のロシア人捕虜収容所に送られたことはわかっていたものの、本国帰還直後については空白だった。それが上記プリアムール総督宛ての請願書により、ビリチが帰還後、真っ先に居住登録した場所は、プリアムール総督府や漁場の入札等の問題を所管するプリアムール国有財産局が置かれているハバロフスク市であることが判明した。
 ビリチの戦後は、戦時中に失った自己資産の回復請求から始まった。上述のような莫大な資産を失った埋め合わせとして、かつて日本人が経営していたオリガ湾とプチャーチン島の海面漁区の長期借区権の付与を願い出た。プリアムール総督府官房とプリアムール国有財産局は、ビリチの訴えに善処するが、地元住民に鮮魚を供給することが優先され、これらの海面漁区は、1906年の入札リストから外されていたことが判明し、あえなくビリチの訴えは却下された。

■日本政府に求めた漁場賠償問題
 ところで、日本政府によるロシア人漁業者への補償問題については、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ等の長期契約の特許を有する、いわゆる優先漁場には、120万円の賠償金が日本政府から支払われたことは、清水恵論文で明らかにされているが、ビリチほか15名のロシア人漁業者の漁場については、これまであいまいにされていたため、以下、外務省編『日露交渉史』を基に事実関係を整理しておきたい。
 ビリチら15名も、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ同様、日本政府に賠償を求める。しかし、一年限りの許可を得た漁業者ということで、一旦は日本政府から賠償の対象外と判断される(1908年2月14日付駐日露国公使宛て文書)。しかし、日露協約が成立し、両国の友好ムードが高まる中、ロシア政府は、従来懸案となっていた戦中戦後にロシア側が蒙った損害に関する一括解決を提案していく(1908年8月)。ここにビリチら15名の漁場の賠償問題も含まれることになる。
 ロシア政府は、日本の官憲がロシア人漁業者の漁業権を否認して、ロシア人漁業者が経営していた漁場を日本の官憲が競売にかけたことは、ポーツマス条約第10条に違反する、それと言うのも、ビリチらは、長期漁業借区の条件に服従すべき誓約を済ませており(このたびのRGIA DVでビリチらの誓約書を閲覧。Ф. 1193. Оп. 1. Д. 210. Л. 51)、ロシアの官憲から5年間の借区の特許を与えられるべき予備手続きを完了していたが、日露戦争が勃発したために正式の特許を受ける時機を失っただけで、事実上は長期契約者に等しいからである、と主張した。
 日本側はロシア政府の主張を法的に正しいと考えるまでには至らなかったが、戦後の両国の友好ムードに後押しされる形で、両国政府の閣議決定を経た後、1911年8月26日、他の案件を含め一括解決をみた。
 ここに「南樺太旧露国漁業者救恤金15万円」が交付され、ビリチら15名は、戦後6年目にして日本政府から賠償金を受け取ることになったのである。

「会報」No.32 2010.8.30 研究会報告要旨

平成21年度市立函館博物館函館開港150周年記念特別企画展「アイヌの美-カムイと創造する世界-ロシア民族学博物館・オムスク造形美術館所蔵資料」

2012年4月25日 Posted in 会報

大矢京右

はじめに
 本特別企画展は、函館開港150周年を記念して市立函館博物館と財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の共催で、2009年7月18日(土)~9月6日(日)の51日間(実開館日数44日間)に渡り市立函館博物館本館にて開催されたものである。展示資料についてはロシア民族学博物館所蔵のアイヌ民具資料215点とオムスク造形美術館所蔵の平澤屏山筆アイヌ絵12点を各館より借用し、資料の少ないアイヌ絵については市立函館博物館および函館市中央図書館等が所蔵するアイヌ絵等を追加展示することで内容の充実を図った。なお、市立函館博物館での開催終了後は、北海道立帯広美術館・帯広百年記念館(2009年9月18日(金)~11月11日(水)開催)ならびに京都文化博物館(2009年11月23日(月)~2010年1月11日(月)開催)において巡回展示された。

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1. 資料来歴
1-1.ロシア民族学博物館

 1902年にロシア皇帝アレクサンドルⅢ世の命により創設されたロシア民族学博物館はロシア連邦サンクトペテルブルグ市に所在し、約2,600点ものアイヌ関係資料(北海道・サハリン)を所蔵する、ロシア国内で最も大規模な博物館の一つである。
 所蔵アイヌ資料の大部分は、ロシア帝国地理学協会正会員ヴィクトル=ニコラエヴィッチ=ヴァシーリエフによって収集されたものであるが、サハリンアイヌの民具については1912年7月~8月の約1ヶ月間で約1,000点が収集され、北海道アイヌの民具についてはその帰途北海道平取において5日間で約800点が収集されている。これらヴァシーリエフによって収集された民具類は、収集年や収集地が明らかである上、その数量もさることながら資料の種類も多岐に渡り、当時のアイヌの生活の細部までもうかがい知ることができる。また、北海道で収集された資料については、北の玄関口であった函館で現地ロシア商人の手を借りて整理・取りまとめされ、本国に向けて発送されていることから、いささか函館にも縁のある資料であるということができよう。ちなみに、資料の使用イメージを伝えるために借用した写真資料も、1900年代初頭にポーランドの民族学者ブロニスワフ=ピウスツキによってサハリンで撮影されたものなどで構成され、当時の生活の様子を直接視覚的に伝える貴重な資料である。

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ヴァシーリエフ

1-2.オムスク造形美術館
 1940年に設立されたオムスク造形美術館は、ロシア連邦オムスク市(西シベリア)に所在し、18世紀から20世紀にかけて制作された線画を中心に、約26,000点の資料を所蔵している。
 同館が所蔵するアイヌ絵は、幕末・明治の函館で活躍した絵馬屋平澤屏山(1822-1876)によって描かれたとされる「ウイマム図」「オムシャ図」「種痘図」「穴熊引き出し図」「熊送り図」「踏舞図」「夜間サケ漁図」「鹿猟図」「熊猟図」「眺望図」「貝突き図」「斬首図」の12枚である。平澤屏山は、杉浦嘉七に伴われて十勝でアイヌと生活を共にするなどしてつぶさにその様を観察しており、色鮮やかなウルトラマリンブルーやエメラルドグリーンといった人工顔料を用いて描かれたアイヌ絵の数々は、国内はもとより国外でも高い評価を得ていた。
 これら12枚の絵はロシア科学アカデミー会員のエヴゲニイ=ミハイロヴィッチ=ラヴレンコが1949年にレニングラードの古書店で入手し、1985年に同館に寄贈したものであるとされるが、どのような経緯で古書店に流れ着いたかは定かではない。しかしいずれにせよこれらの資料が、幸か不幸かこれまで日の目を見ることが無かったため、褪色などの劣化もない素晴らしい状態で今回公開される運びとなったわけである。

2.展示および開催状況
2-1.第1展示室-アイヌ民具-

 市立函館博物館本館2階の第1展示室には、ロシア民族学博物館から借用した資料215点が「まかなう」・「まとう」・「いのる」の3つのテーマ別に展示された。
 最初の「まかなう」のコーナーには、アイヌの生活用具を作り出すマキリ(小刀)や、それから作り出されるチェペニパポ(皿)などの木製品、そしてカロマハ(物入れ)などの布・毛皮製品などが展示された。それらかたちや文様からは、ものとしてのカムイを飾った「装飾美」が伝わってくるとともに、使いやすさを追求した道具の形状や素材の性能を遺憾なく発揮させる適材適所などの「道具としての機能美」も感じられるものであった。
 次の「まとう」のコーナーには、アイヌの衣服や装飾品の形や文様の「装飾美」が伝わるような、サハリンアイヌが用いたテタラペ(イラクサ製の草皮衣)や北海道アイヌが用いたアットゥシなどの衣服やタマサイ(首飾り)などの装飾品が展示された。これらの資料からは、刺繍や切伏による装飾や素材の色合いと質感を活かした「もの自体の美しさ」とともに、夫や子どものために針を運んだ女性の「装飾に込めたこころの美しさ」も感じ取ることができる。
 第1展示室最後の「いのる」のコーナーには、イクパスイ(捧酒篦)やラマッタクイコロ(呪術用宝刀)などの精神文化に関わるものと、トンコリ(五弦琴)が展示された。これらの資料からも、前2コーナーの資料と同じようにアイヌの木彫りの巧みさが感じられるとともに、カムイ(神)に敬意を払い、日々祈りを欠かすことの無かったアイヌの「信じるこころ」や「家族を想うこころ」、そして手慰みにトンコリを爪弾く「人生を楽しむこころ」などの「こころの美しさ」が伝わってくる展示であった。

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展示を見る観覧者たち

2-2.第2展示室-アイヌ絵-
 市立函館博物館本館3階の第2展示室では、「描かれたアイヌの世界」と題して、オムスク造形美術館所蔵の12枚のアイヌ絵とともに、市立函館博物館、函館市中央図書館、北海道開拓記念館などが所蔵する江戸時代から明治にかけて描かれたアイヌ絵など44枚を一堂に集めて展示した。
 展示室は「平澤屏山以前のアイヌ絵」「平澤屏山のアイヌ絵」「平澤屏山以降のアイヌ絵」の3つで構成され、屏山以前のアイヌ絵の草分け的な存在である小玉貞良の作品から、屏山作の函館市指定有形文化財「アイヌ風俗12カ月屏風」、そして屏山の弟子にあたる木村巴江の作品などが時系列で展示された。中でも明治期の函館で製材業を営んでいたトーマス=ライト=ブラキストンの邸宅で飾られていたという2枚の大判のアイヌ絵は、傷みが激しいことからこれまで展示されることがほとんどなかったものであるが、今回のテーマに合わせて函館図書館への寄贈当時の新聞記事とともに展示され、多くの観覧者の目を引いていた。

3.おわりに
 7月18日の開催初日には、市立函館博物館本館での開会式でテープカットが行われ、函館市中央図書館でパネル展示とともに第一線の研究者を招いたシンポジウム「箱館開港とアイヌ絵師平澤屏山」が開催されるなど、華々しいスタートをきった。
 また、展示期間中も学芸員による展示解説(8月8日)や、世界的なトンコリ奏者OKIを迎えたナイトミュージアム「OKIのトンコリコンサート-伝統音楽の夕べ-」に多くの参加者が来館するなど盛況を極め、最終的には44日間の開館日数で2,752名の観覧者が来場したのである。
 今回の特別企画展は、函館開港150周年という一つの節目を迎えるにあたって、函館に縁のあるアイヌ資料の里帰りという趣旨で開催された。そして多くの市民がこの趣旨に賛同・協力して博物館へ足を運ぶとともに関連事業に参加したことから、いわば開催する側と観覧する側とでともに作り上げた展覧会であったといえよう。これにより博物館交流を核とした日本とロシアの友好が促進されるとともに、先住民族に対する理解の向上による和人とアイヌの友好も促進されたことは、大きな前進となるに違いない。

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OKIのトンコリコンサート

「会報」No.31 2010.1.31

ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』に描かれたKh.P.ビリチ

2012年4月25日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 近年、筆者が研究対象としているフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)に関する最初の発表の場は、当会会報23号「研究ノート」(2003年)であった。以来、研究成果は、様々な場で発表してきたが※、集大成と言うべきものは、昨年11月末、筆者が在籍する北海道大学大学院博士後期課程「研究論文II」として提出した「来日ロシア人漁業家ビリチの生涯-流刑の島から大いなる北の海へ」(A4判62頁、未刊行)である。現在は、この論文を基に、博士論文の執筆に取り組んでいるところである。
 さて、当地函館は、漁業家時代のビリチが足跡を色濃く残した地であり、函館でビリチと言えば、「サハリンの金持ち漁業家」、「堤商会」のライバル会社「デンビー商会」の幹部として知られている。しかし、ビリチの全生涯を振り返ってみるならば、19世紀半ば、ヴォルィニ県ザスラフスキー郡シェペトフカ村で生まれ(生年については、1857年、1859年もしくは1860年、1863年と諸説ある)、青年期以降は、准医師、サハリンの流刑囚、サハリン南部の漁場の経営者、カムチャツカの「デンビー商会」漁場の監督官であり同商会が経営する缶詰工場の経営者、ウラジオストクの商人、そして臨時プリアムール政府全権代表としてカムチャツカを統治した政治家などと、様々な側面を持っていた。
 そこで、本稿では、函館で良く知られている「サハリンの金持ち漁業家」となる直前の、流刑地「サハリン島」時代のビリチの姿を、ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』を通して紹介したい。

描かれたビリチ
 流刑地サハリンの実態を世に広めたのは、何と言っても作家チェーホフの『サハリン島』である。その中で、ビリチについては、移住囚「ビリチ某」として触れられている(第12章)。しかし、人間ビリチに肉薄し、ビリチの本質を見事に描いたものは、チェーホフ来島から7年目の1897年にサハリン島を訪れた社会・政治評論家で劇作家のV.M.ドロシェーヴィチ(1865-1922)の『サハリン(監獄)』(Дорошевич В.М. "Сахалин (Каторга)". М., 1903)を置いてほかにない。
 ドロシェーヴィチは、ちょうどマウカに出張中だったビリチと、偶然にも同じ宿、しかも隣の部屋に泊ることになり、図らずもビリチと深く関わることになった。自著『サハリン(監獄)』には、「ビリチ」という小節まで設けている。
 描かれたビリチは、背が低く、おしゃれには関心がなくみすぼらしい格好をしており、チョッキには、時計ならぬ犬でもくくりつけられそうに「大きな」鎖を付けた中年男である。
 ドロシェーヴィチによって描かれた外貌からは、品性は感じ取れないが、ビリチ自身はインテリ(知識階級)を自称し、教養ある人(=ドロシェーヴィチ)と知り合えたことを喜び、自分の妻が専門学校出で、現在は漁場に住んでいることを話す。と同時に、日本からの漁船到着が遅れているため「何千もの」損益を被ったと愚痴る。ちなみに、ドロシェーヴィチによると、「何千もの」は、ビリチの口癖だった。ドロシェーヴィチは、早くもビリチが俗物であることを見抜いている。
 乞われもしないのに、まるで影のようにドロシェーヴィチの行く先々に付きまとい、宿では大酒を飲んだビリチが、嫌気がさすほどしつこく、そして途切れなく話を続け、特に監獄に対してはすざましい罵倒の言葉をのべつ幕なし吐いた。だが,ドロシェーヴィチは、これはビリチなりの暇つぶしだろう、と軽く受け止めている。
 2人で話している時、ビリチはドロシェーヴィチの膝をぴしゃりとたたく。かと思えば、フロックコートをつかんでほうりだす。はたまた自分の煙草の吸いさしをドロシェーヴィチの小皿の中に投げ捨てる。このように、ビリチは無意味で無遠慮な振舞いを繰り返すのだが、ドロシェーヴィチは、この行動は、ビリチが、「あたかも毎秒毎に相手に対して、自分とあなたとは平等で「遠慮なく」ふるまってもよいということを証明しようとしているかのようだ」と捉えている。
 描かれたビリチから察するに、ビリチが最も憎悪したのは、平然と怠惰な生活を送る自堕落な徒刑囚たちだった。食らって、飲んだくれ、何にもしないでいるろくでなしどもへの鞭打ちは当然だと豪語した。同時に、ろくでなしどもへの懲罰が何ひとつないことに憤慨し、これでは徒刑地ならぬ、ろくでなし奨励の場だ、と怒りを露わにし、ドロシェーヴィチに対して、ろくでなしとは何なのかを世間に知らしめてくれ、と頼んでいる。

「流刑囚上がりの農民」ビリチの苦悩
 1893年にペラゲア・ペトロヴナと教会結婚(正式な結婚)し、「流刑囚上がりの農民」という自由身分に昇格して少なくとも4年が経過していたが、当局の支配を受け続け、その一方で、長年の囚人生活の中で身についてしまった動作やしぐさから自分が抜けきれていないことを恥じ、いたたまれない思いをしているビリチの姿をドロシェーヴィチは描いている。
 ビリチとドロシェーヴィチの2人が町のメインストリートを歩いていると、突然、不意に角から顔をはち合わせるかのように管区長に出くわした。ビリチは瞬時に脇に飛びのけた。「あたかも電流が彼を捉え、頭からひさし付きの帽子を脱ぐのではなく、はぎ取った。」ビリチは狼狽し、ドロシェーヴィチに懇願する。こうしたしぐさを取ったことは書かないでくれ!と。そして、「ここでは多くの我慢をしなければならなかった!」と小声で、苦しげに言った。
 何よりもビリチを苦しめたのは、監獄や徒刑囚のつながれた足枷の音が日々の生活空間の中に存在していることであり、それがある限り、流刑地「サハリン島」から解放されることはなかったのである。
 ただし、こうした苦悩は、ビリチだけのものではなかった。そもそもドロシェーヴィチは、ビリチを取り上げた理由は、ビリチの監獄に対する考えが、元流刑囚が感じる典型的なものだと感じたからで、そうでなければ「彼の小さな身体には、ほんのわずかの注意を払うほどの価値もなかったであろう」、と語っている。チェーホフもまた、『サハリン島』の中で、「流刑囚上がりの農民」の苦悩について、ほぼ同様の指摘をしている。

むすび
 ビリチを「サハリン島」から解放したのは、日露戦争であった。ビリチは漁夫隊から成る義勇兵隊の隊長として闘い、捕虜となった後は、大尉相当の待遇で弘前のロシア人捕虜収容所に収容された。講和条約締結後、本国に帰還するが、サハリンに戻ることはなかった。
 日露戦争でロシアが敗北した結果、北緯50度以南のサハリンは日本領となり、サハリン南部で手広く漁場経営をしていたロシア人漁業家は、サハリンから手を引き、カムチャツカに進出した。ビリチもその一人であった。
 そして、「サハリン島」も、戦後のサハリン徒刑制度の廃止に伴い、流刑の島から解放されたのである。

※ 「Kh.P.ビリチの生涯-20世紀初頭のロシア極東と日本-」「ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア」研究会通信No.5 、「Kh.P. ビリチの生涯‐19世紀末-20世紀初頭のロシア極東と日本」『異郷に生きるIII』所収(成文社、2005年)、「弘前ロシア人捕虜収容所とKh.P. ビリチ」『異郷に生きるIV』所収(成文社、2008年)、「サハリンの元流刑囚Kh.P.ビリチの子供たちと日本の学校」『異郷』(来日ロシア人研究会会報第31号)。

「会報」No.31 2010.1.31

「浦潮日報」のデジタル化について

2012年4月25日 Posted in 会報

 ここ数年来、懸案となっていた函館市中央図書館所蔵「浦潮日報」のデジタル化が終了しました。国立国会図書館の「全国新聞総合目録データベース」によると、国内では国立国会図書館、函館市中央図書館のほか東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、敦賀市立図書館のみが所蔵する貴重な新聞で、函館にとっては極東ロシアとの交流を語る貴重な資料となっています。
それぞれの館が所蔵している号数は他館と補完関係にあり、原紙保護の意味も含め、当会会員の研究資料として複製化に取り組みました。撮影データは、DVD2枚に保存し、会員の利用希望があれば、配布しますので、お知らせください。新聞リストを巻末に添付します。

函館市中央図書館所蔵 「浦潮日報一覧(PDF)」

「会報」No.31 2010.1.31 研究会活動報告

函館に縁の深いズヴェーレフ家の人たち ―キューバからオリガさんを迎えるに当たって―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

■ズヴェーレフさんとは
 昭和18(1943)年、「レリメツシュ商会」関係外諜容疑事件が摘発されて、小樽、釧路 函館の白系ロシア人7名が逮捕された。そのうちの一人が函館の洋服商クジィマー・ズヴェーレフさんで、札幌刑務所に収監されたが、1年後に獄中で死亡した悲劇の人物である。また、ズヴェーレフさんは1929年から「北海道亡命露国人協会」会長として、北海道の白系ロシア人を束ねる活動していたことでも有名だった。対米戦争が苦境に陥っていた当時、貿易や行商で樺太、千島を含め全国を動き回る白系ロシア人へのスパイ容疑事件が度々起こり、様々な悲劇をもたらした。現在私達は内務省警保局の残した『外事警察概況』や『外事月報』により事実を知ることができるが、「ズヴェーレフさんの獄死」という事件も一つの「歴史上の事実」という感覚になっていた。つまり、函館に残された家族はその後どうされたのかなど、生身の人間と歴史の接点は見えないまま霞んでしまい、現実感は失われていた。

■次女ガリーナさんとの出会い
 1999年秋サンクト・ペテルブルグで友人のナターリアさんに東京生まれのヴェーラさん宅に案内していただいた。ヴェーラさんは1956年ソ連に帰国した元白系ロシア人で、戦前から戦後1958年まで東京に滞在して大学でのロシア語教育に貢献した画家ブブノワさんの晩年のお世話をした方である。東京の白系ロシア人のお話を伺うつもりだった。ところが、ここで「こちらはガリーナ・アセ-エヴァさん、函館にいたズヴェーレフさんの娘さん。北海道の方だというので、お呼びしたのよ」とガリーナさんを紹介されたのである。「ああ、あのズヴェーレフさんの......」とすぐに「獄中で亡くなった」ズヴェーレフさんを思い出した。「ガリーナさんですか?ペテルブルグに住んでおられたのですね!」ほんとうに驚いたが、こうして「歴史上の」人物を「発見した」のである。私は夢中でガリーナさんの両親のこと、また、何よりも日本からペテルブルグに至るまでのカリーナさん自身の人生の物語を根掘り葉掘り尋ね、メモしていた。最初に両親の歩みを紹介しよう。

■ロシア革命・内戦・日本への亡命
 1917年のロシア革命とその後の内戦により多くのロシア人が国外へ亡命した。ソビエト政権を受けいれず祖国を脱出、あるいはソビエト政権打倒のため戦う白衛軍に加担したが敗退して亡命した軍人や家族など、1917年-1921年に約250万の人々が亡命したといわれる。亡命先は独仏などヨーロッパ諸国が一番多かったが、シベリア、極東地方から中国の国境地帯、東清鉄道沿いにハルビンを目指す場合も多かった。これらの亡命者は革命派の人々がソ連軍即ち赤軍から赤系と言われるのと対比して白系ロシア人と呼ばれる。
 ガリーナさんの父クジィマー・ロジオーノヴィチ・ズヴェーレフさんは1887年ウラル地方ペルミ県クングール市(当時)で生まれた。第1次世界大戦に徴兵されてドイツ戦線で戦い、負傷して捕虜になったが、その後釈放されてゲオルギー十字勲章を授与され、2等大尉に昇進して兵役免除となった。しかし、革命が起こり、さらに内戦に突入、1918年ウラル地方ではコルチャーク将軍率いる白衛軍が優勢となり、ズヴェーレフさんも今度は白衛軍に徴兵された。負傷した脚が悪いため経理部主計として働く。しかし、コルチャーク政権崩壊後は、逃れてセミョーノフ軍に加わるが、彼の軍隊もシベリアより敗退しため、ズヴェーレフさんらは逃走、1922、3年頃ハルビンに到達したのである。このように元白衛軍の兵士とその家族など様々な避難民がハルビンに流入したため、革命前9万人だった人口がその頃35万人に膨れ上がり、生活は日増しに困難になっていた。他国への移住を望んでも、祖国を棄てた無国籍者ではビザ取得は不可能だった。この状況は世界的な問題となったため、国際連盟で論議され、ナンセン博士の提案によりロシア難民に「身分証明書」(以後「ナンセン・パス」と呼ばれる)を発給する決定がなされた。これによりビザを取得して他国へ移住することが可能になった。日本政府は従来難民の入国を厳しく制限していたが、1925年から「入国提示金制度」を適用することになった。日本での生活資金として一人1500円を提示すれば入国を認めるのである。これは大金だったため、資金のない人たちはグループを組んで2、3家族ずつが一定の期間をおいて提示金を貸し回ししながら移住するという方法を考案したという。
 この「ナンセン・パス」と提示金制度を利用して1925年ハルビンから北海道旭川に移住したのが、後の日本初の300勝投手ヴィクトル・スタルヒンの一家である。娘ナターシャ・スタルヒンの書いたスタルヒンの伝記『白球に栄光と夢をのせて』を読むと、避難民となった白系ロシア人の苦難の逃避行が生き生きとした具体像として迫ってくる。           
 さて、ズヴェーレフさんはハルビンで生活の資を得るためあらゆる仕事をしたが、その過程で同郷ペルミ出身の親しい仲間が出来た。そして、人口急増で展望の持てないハルビンから、当時着物から洋服への転換が急激に進んでいた日本へ移住し、洋服の行商をすることになった。

■札幌、室蘭を経て函館へ
 1926年頃日本に渡ったズヴェーレフさんのグループにアンドレイ・ヴォルコフ、その妻ダーリアと1歳の娘ヴェーラがいたことは確かである。その他に旭川に行ったコレジャトコフ氏と青森に住んだ旧教徒のベーリコフ家も一緒だったと思われる。が、確証はない。昨年札幌ハリストス正教会に信徒の戸籍簿とも言うべき「メトリカ」が残されていることが報道され、拝見する機会に恵まれた。ヴェーラとアンドレイは日本移住後間もなく病気で亡くなったと聞いていたが、「メトリカ」には確かに1926年、1927年の永眠と記載されていた。この時同時に「札幌里塚霊園」にロシア人の墓碑が残されていることが分かり、訪ねてみた。この霊園は札幌薄野に隣接し古くからあった「豊平墓地」が全面移転されたもので、一角に「ハリストス墓域」があり、そこに1924年から1941年に亡くなったロシア人の墓碑8基が残されていたのである。「函館外人墓地」は有名だが、札幌にもロシア人墓地があることが分かった。そして、ここにヴォルコフさん父娘の墓碑もあった。ガリーナさんにも確かめたが、このグループは当時は札幌に住んでいたことが分かった。
 実はズヴェーレフさんの妻ダーリアは亡くなったヴォルコフさんの未亡人である。ダーリアもペルミ出身で、革命後既にハルビンに逃れていた父親を頼って筆舌に尽くしがたい艱難の末1922年頃ハルビンに到達した。1924年頃ヴォルコフと結婚、翌年にはヴェーラが生まれ、一家は1926年頃ズヴェーレフと共に北海道へ移住した。札幌に落ち着いた後、相次いで娘と夫を亡くし一人残されたダーリアは、その後ズヴェーレフたちと室蘭に移り、二人はやがて結婚する。1929年と推定される。子どもには次々に恵まれ、1930年から1933年まで毎年誕生している。長女タチアーナ、長男ミハイル、次男アレクセイ、次女ガリーナの4人である。1932年末か33年には函館に移住しているので、ガリーナは函館生まれである。その頃父親は「北海道亡命露国人協会」の会長として活躍していたが、生業の洋服の行商は続けていた。母親は「ボルガ」という喫茶店を開き、パンやケーキ類も売っていた。しかし、1934年の「函館大火」により店は焼失、大きな痛手を蒙ったが、何とか立ち直って、松風町に店も再建した。

■ズヴェーレフ家の子供達と教育
 4人の子供たちは4歳または3歳から第二大谷幼稚園に通い、6歳になると皆大森小学校に入学した。また、毎日店の前の歩道で近所の子供達と遊んでいたから、日本語には不自由しなかった。しかし、両親は子供達にロシア人としての教育を受けさせたいと考えて、小学校2年の1学期終了後長女から順番に東京にある寄宿制のプーシキン名称ロシア初等国民学校に入学させた。次女のガリーナが入学したのは1940年9月である。ガリーナはここで、しっかりロシア語の教育を受けたので後々まで役立ったという。この学校は当時4年制だったため、タチアーナとミハイルが卒業して横浜のミッションスクールに編入した1942年9月、下の二人も一緒に転校した。横浜に家を借り、函館から母親が4歳のナージャと3歳のオ-リャ(オリガ)を連れて出てきて、子供達の面倒を見た。しかし、太平洋戦争に突入し、戦況が悪化の一途を辿っていた情勢の中で、1943年1月ズヴェーレフ氏がスパイ容疑で逮捕された。母親はこの知らせを子供達には「パパが入院した」とだけ告げて帰函した。夏になっても父親は釈放されず、状況は改善の兆しさえ見えない。ミッションスクール閉鎖も伝えられたため、両親は上の子4人を当時日本の植民地だった大連のロシア人中学校(ギムナジア)へ転校させることに決定し、1943年12月に出発させた。そして、これがその後14年にわたる家族との別れとなった。その約1月後に父親は獄中で亡くなっている。家族が再会出来たのは、1957年ソ連のロストフ市においてであった。

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ズヴェーレフ一家、店の前で

■ガリーナさんを招いた10周年研究会
 2003年12月、函館日ロ交流史研究会は創立10周年記念シンポジウムの特別ゲストとしてペテルブルグからガリーナ・ズヴェーレヴァ(現在の姓はアセーエヴァ)さんを招待した。この席でガリーナさんは小学校2年まで過ごした函館の思い出を幼稚園・大雨・大火・アイヌの人達・行幸・祝祭日などの項目で詳しく話され、また当時の自分たちの暮らしやお付き合いのあったロシア人のこと、大森小学校の思い出、さらに函館を出て東京と横浜で通った学校と暮らしについても語られた。後半は日本を出てから大連での終戦、ソ連の市民となりウラジオストック、サハリンを経てペテルブルグの姉弟の許へ合流するまでの長い道程についても。この時私達は歴史が個人の人生に刻み込んだ軌跡をたどることができ、歴史を直接的に実感できたのである。
 60年ぶりに故郷函館を訪れたガリーナさんは奇跡のような体験だったと語った。様々な人達との出会い、教会で見せていただいた「メトリカ」、60年を経て初めての父のお墓参り、懐かしい場所の数々、そして父の「事件」の記録文書、これらすべてがガリーナさんにとってもやはり歴史と自分の人生との接点を実感させ、深い満足感を与えたのである。

■キューバから迎えるオリガさん
 ガリーナさんの末の妹オリガ(キューバではスペイン語風にオルガ)さんは1940(昭和15)年函館で生まれた。戦後になっていたがやはり大森小学校に通った。そして、姉たちと同じように3年生の頃横浜のセント・モア女学院へ転校した。しかし、英語で行われる授業についていけないこと、ロシア人であるなどでいじめられ、また東京から通っていたため病気になって函館に帰り、1年ほど休学した。4年から卒業までは大森小で学び、卒業後は遺愛女学校に入った。しかし、1953年夏、一家は東京に移住する。そこで9月からは恵泉女学院に通学した。1957年、ソ連政府の勧めにより、また、何より1943年に別れた兄弟姉妹に合流するためにソ連へ帰国する。14年ぶりに長兄の家でようやく父をのぞく家族全員が再会を果たしたのである。オリガは2年通ってソ連の10年制学校(当時)を卒業、1959年秋レニングラード大学(当時)東洋学部日本史学科に進学した。17年間馴染んだ日本語が専門の勉強に多いに役立った。大学時代に革命の国キューバの留学生イダルベルトと知り合い、彼の社会主義にかける理想と情熱に惹かれて結婚した。1965年に大学を卒業、2年働いて1967年にはキューバへ渡った。今年でキューバでの生活も40年になる。今では歴としたキューバ人というべきだろう。キューバではロシア語の教師をしていたが、ソ連崩壊後は日本語の教師に転向した。
 1994年国立国会図書館に勤めていた高木浩子さんはキューバに出張したが、その時の日本語通訳がオリガさんだった。1ヶ月の滞在で二人は大変親しくなる。当然、オリガさんの数奇な人生の物語についても詳しく聞き、高木さんは大いに感銘を受けた。翌年オリガさんは国際交流基金の日本語教師研修で東京に来た。その時高木さんと以前からオリガさんと親交のあった慶応大学のキューバ研究者工藤多香子さんがオリガさんを函館や恵泉女学院などゆかりの場所に案内した。お二人はますますオリガさんの物語に関心を寄せ、今年11月私費でオリガさんを東京へ招待することに決めた。函館の研究会もこの好機にオリガさんを函館に招くべく計画を進めている。13歳まで函館で暮らしたオリガさんは、函館で一番長く生活した白系ロシア人として1953年頃までの思い出を、ロシア人社会のことを含めて語って下さるだろう。

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1970年前後のズヴェーレフきょうだい 前列右からアレクセイ、タチアナ、イワン(ガリーナの息子)、オリガ
後列右からガリーナ、一人おいてミハイル、ナジェージダ

「会報」No.30 2007.10.1

現代ロシアの結婚式(体験談)

2012年4月24日 Posted in 会報

遠峯良太/エレーナ

 2006年8月18日、新婦の故郷であるウラル山脈の麓の町エカテリンブルグで私たちは結婚式を挙げた。
 関空からウズベキスタンのタシケント経由で約半日。新郎はロシア初渡航となる両親、おばと共に向かった。
 ロシアの結婚式の長い一日(正確に言うと一日では終わらない)は、昼すぎに新郎が新婦の家に迎えに行くことから始まる。
 しかし花嫁はすぐには出てこない。アパートの入口で新婦の友人に通せんぼされ、新婦にふさわしい男かどうか試される。新婦の家まで数々の難関――新婦のキスマークを当てる、輪切りのレモンの下に女性の名前が書かれた紙が入っていて、新婦の名前を引き当てるまで食べ続ける、結婚に関するクイズを解くetc. ―─を突破しなくてはならない。
 この儀式を「ヴィクプ」といい、ロシアの結婚式の始まりには欠かせないイベントである。結婚に際して新郎新婦の同姓の友人各1名が「証人」となるのであるが、「ヴィクプ」を取り仕切るのは新婦の証人。一方、新郎の証人は新郎が関門を突破できるよう手助けするのである。
 では、問題が解けない場合はどうなるか?手持ちの現金やウォッカ、お菓子を差し出し、新婦側と交渉して通してもらうのである。
 なお、「ヴィクプ」という言葉には「買収」という意味もあり、元来は花嫁を買う儀式であった。結婚前に金品を贈るという意味では、意義も形式も異なるが、日本の結納に似ているとも言える。
 ヴィクプが無事に終了し、新郎が新婦を「買収した」ところで、数台の車に分乗して町の名所めぐりに繰り出す。「ヨーロッパとアジアの境界線」や二人の通っていたウラル大学などで記念撮影をしたりシャンパンで乾杯したり......晩夏のウラルの青空の下、のどかなひと時を過ごすことができた。ロシア人のカップルは、無名戦士の墓に行って花束を捧げたりすることも多い。新郎が留学していた3年前と比べ、町並みが確実に近代化してきており、旧ソ連時代の面影が次第に薄れていっているのがはっきりわかる。立ち並ぶ新築の高層ビルにこの国の好景気ぶりを実感させられた。
 続いて、夕方6時から挙式が始まる。場所は町の戸籍登録所(ザックス)。役場の一室が式場になっているのである。宗教活動が制限されていたソ連時代の名残といえるだろう。現在は正教会で挙式を行うカップルも多いが、新郎新婦共に正教徒であることが条件となる。
 婚姻届1枚で済んでしまう日本とは異なり、ロシアの婚姻手続きは煩雑だ。結婚式の1ヶ月前と2日前の2回、夫婦そろって役場に出向いて申請しなくてはならないのである。若くして結婚し、すぐに離婚してしまうカップルが多いため、考え直す時間的猶予を与えるためといわれている。
 役場の結婚式では、式を執り行うのは聖職者ではなく役場の職員。教会のような荘厳さはないが、親しみやすい雰囲気であった。全体的な流れは日本のキリスト教式の挙式のような感じだが、やはり要所要所で違いはある。式の途中に婚姻届にサインすると、結婚証明書が交付される。続いて指輪の交換(ロシアでは右手薬指にはめる)。そして最後に新郎新婦が皆の前で一曲踊るのである。
 披露宴は町はずれのホテルで行われた。入口では、新婚夫婦を新郎の母がパンと塩を両手に出迎える。新婦を新しい家に迎える儀式である。このパンに新郎新婦が順番にかじりつく。より多くかじり取った方が、家の主になるという言い伝えがある。さらに、これが人生最後の辛味になるよう願いを込め、パンにたっぷり塩をつけて相手に食べさせる。感動もあって(?)思わず涙が出た。ロシアの結婚式は、とにかく身体を張る場面が多い。
 披露宴が始まると、陽気な参加者のテンションがさらに高まり、我々から時間の概念をすっかり取り去ってしまった。所定の時間内で詳細なプログラムが組まれ、スタッフが常時進行を確認し、細かい指示に従って動く最近の日本の披露宴とは対照的である。その場にいたほとんど全員が余興やスピーチを行い、時間が空くと音楽が流れ出し、ダンスに興じる。
 その合間に、突発的に「ゴーリカ!」という掛け声がかかる。「酒が苦い(ゴーリカ)からキスで甘くしろ」という意味で、この掛け声がかかるたびに新郎新婦は立ち上がってキスをするのである。
 披露宴の最中、突然新婦の靴が盗まれた。新郎たちが芸をしてそれを取り返すのだが、これもロシアの披露宴の定番で、本来は新婦自身が盗まれ、新郎が探し当てる、というイベントである。
 この一日は時間を忘れるほど楽しく、参列者一人一人が心からの言葉をかけてくれ、胸が熱くなった。お開きは結局夜中の2時。翌日も午前中から2次会という豪快なスケジュールであった。通常はその翌日も宴は続くそうだが、新郎側が外国人ということで、手加減してくれたそうである。
 総じて形式ばらず、心のこもった今回の結婚式は、言葉の壁を軽々と乗り越え、一緒に行った遠峯一家をたちまちロシアファンにしてしまった。

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「会報」No.30 2007.10.1 研究会報告要旨(その1)

クリルアイヌ研究と市立函館博物館

2012年4月24日 Posted in 会報

大矢京右

■クリルアイヌとは
 アイヌ民族は、北海道、樺太南部、千島列島といった環オホーツク地域における先住民族である。北海道や樺太に居住していたアイヌは、江戸時代の場所制度の中に組み込まれたり、明治時代の同化政策などが行われたりすることによって、彼ら独自の文化の中に日本文化の影響が色濃く現れるようになった。また、カムチャツカ半島南端から千島列島にかけて生活していたクリルアイヌは、千島列島という日露両国の勢力が拮抗する地帯に生活していたことから、日露双方の影響がその生活文化の多方面に見られることとなった。特にウルップ島・エトロフ島間の渡航が禁止されていた19世紀初頭から中葉にかけてはロシアの千島経営の影響を直接的に受け、全千島が日本領となった千島樺太交換条約締結時(1875年)には、ロシア語を話し、ロシア式の名前をつけ、ロシア正教を信奉するなど、生活文化の隅々にまでロシアの影響が見て取れる状態であった。
 しかし当時は日露間で緊張感の高まっていた時期でもあり、その国境地域に文化的にロシアとのつながりの強いクリルアイヌを住まわせておくのは危険であるとの考え方もあったことから、主に北部・中部千島に居住していたクリルアイヌは、1884年、日本政府によってシコタン島に強制移住させられる。慣れない気候風土や同化政策の一環として日本政府により強制された慣習(衣食住に至る)は彼らを弱らせ、移住当初97人を数えたクリルアイヌの人口は急激に数を減らしていった。また、日本政府による同化政策は言うまでも無く、和人との結婚による文化伝承の断絶や、和人からの差別による自らの文化への自己否定などによって、現在に至っては彼らの文化を伝承する人はいなくなってしまったとされている。

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pic.1:1899年当時シコタン島のクリルアイヌ

■クリルアイヌ研究について
 文化を伝承している人がいないとされるクリルアイヌを研究する際、フィールドワークや聞き取り調査を直接行うことができないことから、かつての探検者や研究者らがクリルアイヌを直接「観察」してその様子を記述した「民族誌」と、彼らが実際に作成・使用した「物質文化資料(民具や考古資料)」がその生命線となる。「民族誌」は多種多様な事象をその記述者の目線で表現したものであり、クリルアイヌの文化の一端を直接捉えることができるものの、記述者の思想・立場などがバイアスとなって現れることがある。また、「物質文化資料」も、民具に関しては収集者の意図がその内容に反映され、考古資料に関しては自然環境やモノの素材により得られる資料に偏りが出る可能性がある。よってこれらの資料を相互補完的に研究することがきわめて重要であると言えよう。

■クリルアイヌ関連物質文化資料について
 クリルアイヌ関係資料のうち物質文化資料に関して言えば世界中の博物館に約500点ほどが収蔵されているが、日本国内には、東京帝国大学で助手をしていた鳥居龍蔵によって収集された民具資料82点(国立民族学博物館所蔵)や、馬場脩によって収集された考古資料194点(市立函館博物館所蔵)、また、河野常吉によって収集された考古資料30点(旭川市博物館所蔵)などその大半が存在している。しかしそれらの資料のほとんどは情報が欠落してしまっており、資料の分析・研究を困難にしてしまっているのが現状である為、まず資料の整理・分類から始めていかなければならないことが多い。
 市立函館博物館には世界中で確認されているクリルアイヌ資料の約半分にあたる222点が収蔵されており、その内28点の民具資料は千島樺太交換条約締結による開拓使の千島調査の際に収集されたものや、馬場脩による収集品、そしてその他篤志家等による寄贈品などで構成され、194点の考古資料に関してはほとんどが馬場脩の千島調査の際に直接収集されたものである。資料の数が多いのはいうまでもないが、その属性も多岐に及んでいるため、クリルアイヌ研究において比類無き好素材であると言える。しかしその世界屈指のクリルアイヌ資料の収蔵量を誇る市立函館博物館も、資料に関する情報(素材・用途・製作時期・使用時期等)が付帯しているものがほとんど無く、その為に研究が進んでいないのが現状であり、早急な整理・分類が待たれているところである。

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pic.2:クリルアイヌ関連資料の展示状況

■市立函館博物館所蔵資料の研究にむけて
 前述のとおり市立函館博物館には多くのクリルアイヌ関連資料が収蔵されているが、これらを研究するにあたっては、まず函館博物場時代に収蔵された所謂「旧蔵資料」と馬場脩によって寄贈された所謂「馬場コレクション」の2種類に大きく分類することができる。
 「旧蔵資料」は、千島樺太交換条約締結後に開拓使が行った調査時に収集された民具資料や篤志家による寄贈品(民具資料・考古資料)で構成されている。開拓使による収集品は、収集時期が判明している上、樹皮編袋やテンキ(ハマニンニクの草をクリルアイヌや北米海岸インディアンに共通して見られるコイル編みと言う技法で巻き上げて作られた容器)等の手工芸品が多く見られ、クリルアイヌの生産能力を見極めようとする開拓使の意図が見て取れる。また、収集地に関しても資料に直接貼り付けられた旧函館博物場の整理タグや、函館博物場の資料を函館商業学校に移管した際の『素博物場陳列物品商業学校江引継物品及其外物品書類』から特定することができる。これに対し、篤志家による寄贈品に関しては、多種多様な人々によって様々な時代に収集された経緯があるため、資料に付帯する情報量の差も大きく、その整理・分類は困難を極める。よってこれらに関しては、今後函館博物場および函館博物館関連の文書資料等を調査していくことから始め、暫時情報の蓄積を行っていくことが重要であろう。
 馬場コレクションに関しては、コレクションそのものに関する研究は長谷部一弘によってなされているものの、個々の資料に関する分析は未だ途上にあり、ましてそれらを利用した研究に関してはほぼ手付かずの状態である。今後、馬場脩の発掘調査時の論文や著作物と資料を照らし合わせることで個々の資料に関する情報を整理することで、初めてクリルアイヌ研究の用に供することができるようになると言えよう。直接クリルアイヌに接して描かれた民族誌とその際に得られた民具資料、また直接遺跡や住居跡を調査して書かれた報告書とその際に得られた考古資料。整理・分類された馬場コレクションはこの好条件を全て備えており、クリルアイヌ研究において世界に二つと無い重要な資料群となり得るものである。

■ケーススタディ~「バラライキ」
 市立函館博物館所蔵のクリルアイヌ関連資料の中に、フラットバック形態をした3弦の弦鳴楽器「バラライキ」(収蔵番号1218)がある。シコタン島で製作され、1886年に函館で開催された北海道物産共進会に出品された資料であり、出品後に函館博物場が収蔵したものである。これについて考古学的手法である実測図の作成・観察に加え、文献資料を用いて分析を行った。
 「バラライキ」のヘッドは平たく形成され、細長いネックにはおそらく獣の腱を撚って作ったと考えられるフレットが巻いてあり、ずれないようにネック自体に刻み目が作られている。共鳴胴は角が丸くなった三角形をしており、共鳴胴表板には砂時計のような向かい合った三角形の響孔が空けられている。素材はマツ材が用いられ、共鳴胴側板は熱を加えることで湾曲させたイチイ材の薄板が用いられている。弦と駒は欠損しているが、ヘッドの表面に対して垂直に貫通した3本の糸巻きと、3箇所に溝を切った竹製の糸受けから、3本の弦を共鳴胴側板の底部に貫通させた木釘を根緒にして張っていたと考えられる。
 胴体に貼られたタグからは、この製作者がケプリアン=ストロゾフであることが読み取れる。ケプリアンは1836年9月9日生まれでクリルアイヌの元首長であり、函館博物館の原簿では製作年が「明治十九年十月」(1886年)となっていることから、製作当時50歳であったと考えられる。ケプリアンが首長を勤めていたのは1882年までであるが、1884年のシコタン島移住以降も次首長であるヤコフ=ストロゾフとともにクリルアイヌの精神的支柱であった人物の一人であったと考えていいだろう。
 ちなみに19世紀中葉のロシアで製作・使用されていたバラライカはこの「バラライキ」とほぼ同じ形態をしており、クリルアイヌがロシア人と接する過程においてその芸能文化にも影響を受けていたということは、大変興味深い事実である。
 また、この資料が作成された時期と共進会に出品された時期が同じであることを勘案すると、共進会に出品する為に作成された資料であることが考えられる。すなわち、クリルアイヌの指導者的立場の者が、自らの独自性と生産能力を示すために作成したのがこのロシア風の楽器であったということは、いかにクリルアイヌの生活の中にロシア文化が根付いていたかを傍証するものであろう。
今後は、類似したクリルアイヌ関連資料や北海道アイヌや樺太アイヌの資料(トンコリなど)とも比較研究していくことにより、クリルアイヌの文化についてより詳細な研究が可能になっていくことだろう。

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pic.3:「バラライキ」(収蔵番号1218)

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pic.4:クリルアイヌと開拓使職員

図版説明
pic.1:鳥居龍蔵(1919)「Etudes archeologiques et ethnologiques. Les Ainou des iles Kouriles」(仏文)中の「PLANCHE7A」
pic.2:函館市北方民族資料館2階展示室における展示。クリルアイヌの舟形大皿、杓子、テンキ等が配置してある。
pic.3:実測図上に置いたバラライキ。共鳴胴裏板に和紙製のタグやシール式のタグなどが貼られている。
pic.4:共進会に製品を出品する為来函した時の写真。左端からケプリアン=ストロゾフ、小島倉太郎(ロシア語通詞)、ヤコフ=ストロゾフ、赤壁次郎(根室県役人)。北海道大学附属図書館北方資料室蔵写真資料

「会報」No.30 2007.10.1 研究会報告要旨(その2)

函館のソ連領事館と日本人職員

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 昨年3月、市内在住の石塚さんという方から、当会会員の岸甫一さん宛てに手紙が届いた。これは、函館市中央図書館主催「地域の歴史講座」で岸さんが「函館の日ロ交流」をテーマに講演を行うのに併せて、同図書館展示ホールで開催された写真パネル展「函館日ロ交流史展」(市国際課提供資料)の中で、石塚さんがご尊父のお名前(「石塚軍治」)を見つけたことによるものであった。
 手紙によると、石塚軍治さんは、1927(昭和2)年5月から1933(昭和8)年9月まで在日ソ連通商代表部函館支部(函館の通商代表部は昭和10年に閉鎖)に、続く1933(昭和8)年10月から1938(昭和13)年9月まではソ連領事館に通訳として勤務されていたとのことである。
 冷戦時代のソ連大使館は、警備員、掃除婦、料理人に至るまで、本国ソ連から連れてきて、日本人職員は一切雇わないと聞いていたため(現在のロシア大使館も同様の模様)、戦前の函館のソ連領事館で、通訳をはじめ、雑役婦や運転手までもが日本人であったことは驚きであった。
 ともあれ、研究会としては、今年度中に石塚さんをお招きし、ソ連領事館に通訳として勤務されていたお父様に関するお話を伺わせていただきたいと考えているところであるが、初代領事のゴシケヴィチ時代のロシア領事館については、研究が進んできているものの、ソ連領事館については、掘り下げた研究は行われていない。
 そこで、石塚さんをお招きする前に、まずはソ連時代の函館領事館と日本人職員について、内務省警警保局編『外事月報』を基にして、多少なりとも明らかにしてみようと試みたのが今年4月の研究会での報告であり、以下は、当日の報告の取りまとめである。

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石塚軍治さんのお名前が下段右よりに出ている(『函館日日新聞』1932年11月26日付け)

帝政時代の函館のロシア領事館
 函館のロシア領事館は、1858(安政5)年に日本で最初のロシア領事館として開設された。初代領事ゴシケヴィチ時代のロシア領事館は、ロシア病院による日本人医師への西洋医学の浸透、洋服や写真術の伝授など、北の地の「文明開化」に大きな役割を果たしたと高く評価されている。
 しかし、ロシアの極東開発の拠点がニコラエフスクからウラジオストクに移行したことから函館港の重要性は低下し、また、明治維新後、首都東京にロシア公使館が開設され、ロシア正教の宣教活動の拠点も東京に移されたため、函館は交流拠点としての地位も失っていった。
 これが、20世紀初頭、露領漁業の勃興を契機に、函館港は再び注目されることとなり、ロシア政府は、査証(ビザ)を発給する領事館用の独立した西洋風の建物を多額の官費を投じて建設した(日露戦争をはさんで1906(明治39)年に建物が船見町に完成するが、翌年の大火で焼失。すぐさま再建工事が始まり、1908(明治41)年に同じ場所に完成した。これが現存する旧ロシア領事館)。

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大正初期のロシア領事館(函館市中央図書館蔵)

ロシア革命後の函館の領事館
 1917(大正6)年のロシア革命、そして続く国内戦争と、ロシア国内の混乱は5年に及んだ。函館の領事館には革命後もレベデフ領事が残留し、1921(大正10)年にウラジオストクに白系のメルクーロフ政権が樹立され、日本政府との間で漁業条約が締結されるまでの間、露領に出漁する日本人に査証など各種証明書を発行し、手数料を徴収し続けたのであった。
 1921年-1922(大正11)年は、ロシア極東の混乱した情勢の中で、査証を取得せずに日本の軍艦に見守られながらカムチャツカ方面の漁場に出漁する「自衛出漁」が採られたが、1923(大正12)年、当時東京市長であった後藤新平とソ連全権代表のヨッフェとの合意により、ソ連から函館に査証官が派遣され、五島軒に事務所が置かれた。

ソ連領事館の誕生
 1925(大正14)年1月、日ソ基本条約が締結され、日本がソヴィエト政権を承認すると、2月にレベデフ領事は函館を去ってメキシコに亡命し、4月には、ソヴィエト政府から派遣されたロギノフ領事が函館に着任した。当初、査証官として派遣されてきたロギノフ領事であったが、東京の大使館にソヴィエト政権の代表が着任すると、函館も「函館事務所」として公告された(同年5月25日)。
 事務所は、通称「堤倶楽部」(元キング邸・船見町60番)に置かれたが、これは、日本人嫌いで知られたレベデフ領事が、領事館の建物内に日本人を入れたくないため13年間の任期中、一度も改修を行わなかったため建物の傷みが激しく、改修工事を終えて移転したのは、2年後の1927(昭和2)年9月末のことであった。
 「堤倶楽部」で執務が行われるようになった年の初夏、時事新報の伊藤記者が、日魯の関係業者ということにして、カムチャツカ取材に出かけている。日魯漁業の強力なバックアップを受けたおかげで、わずか数日で査証を取得することに成功した。同氏は見聞記に、「一定の地域に止まり、労働者として働く者は、別に一人ひとり領事館まで出頭する必要もなく、百人二百人と人数を限って、その数に依って函館の査証が受けられる。だがこうした査証では各地を旅行するということは全然できな」いと記している(伊藤修『最北の日本へ(カムサツカ見聞記)』大正15年)。
 また、1929(昭和4)年、ソヴィエト政権下で最初にカムチャツカを日本の新聞記者として訪問した大阪毎日新聞の長永記者の旅行記によると、「毎年カムチャツカ方面へ出かける日魯漁業会社の人々は函館のロシア領事から楽に査証を得られるが、突然、視察などで出かける者の査証は甚だめんどうな手続きをとらねばならない。特に、私は大阪毎日新聞記者としてロシア官憲の査証をとる必要があったので比較的寛大な函館のロシア領事館に呈出せず、東京にあるロシア大使館の総領事に査証を求めた」(長永義正『カムチャツカ大観』昭和5年萬里閣書房)、とあることから、函館の領事館は、漁場に出漁する人たちのための査証に限定して発給したのではないかと考えられる。この点、確認が必要である。

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ソ連領事館時代のソ連の国章(函館市で保管)

ソ連領事館と日本人職員
 ソ連領事館で雇用された日本人には、先述の石塚軍治氏のような通訳以外にも、掃除・洗濯などを行う雑役婦や料理人や自動車の運転手、そして時には、館員の幼い子供の面倒を見るための保母がいたことが確認される。当時の資料から、領事館の北側にある本館と隣接する平屋の付属建物には、従僕や雑役婦のための部屋や召使の厨房、便所(汲み取り式)、洗濯室が置かれていたことが明らかになっている。
 1936(昭和11)年11月25日、日独防共協定(1937(昭和12)年には日独伊三国軍事同盟へ)の締結は、日ソ漁業条約改定交渉(1928(昭和3)年に結ばれた条約の改定)にも影響を与えた。この交渉のひずみが原因で、1938(昭和13)年12月25日、函館のソ連領事館が、国旗と国章を撤去して、東京の大使館に引揚げるという事件が起こった。
 これは、日本の官憲から圧力を受け、雑役婦、料理人、自動車の運転手が次々に解雇を申し出、その代わりの人材が見つからない状況が続き、領事館の執務や領事をはじめとする館員の一般生活に大きな不便が生じたことから、領事館側が強硬手段に訴え、問題の解決を図ろうとしたためとも考えられている。中でも日本人の運転手を雇えないことは、ソ連の自動車運転免許証で日本国内の運転が認められていなかっただけに、深刻な問題であった。
 函館は、政治・経済の中心地から遠く離れていたこともあってか、ソ連領事館に雇用された日本人通訳が検挙されるようなことはなかったが、東京では、2・26事件の関連で、ソ連大使館に情報部通訳として勤務する井上満が検挙され、軍機保護法違反で有罪となり、2年以上を獄中で過ごすといった事件や、日本ハリストス正教会の瀬沼恪三郎がソ連のスパイ容疑で逮捕、7週間獄に入れられるなどといった事件が起こっている(1936(昭和11)年3月)(澤田和彦「日本における白系ロシア人史の断章―プーシキン没後100年祭 (1937年、東京)―」『スラブ研究』47号)。
 函館のソ連領事館に話を戻すと、1939(昭和14)年4月2日に日ソ漁業条約仮協定(暫定)が妥結され、北洋への出漁者や諸物資輸送のための査証発給が必要な時期が来ると、領事館は再開されることになった。そのため、日本側も妥協し、領事館は雑役婦、料理人、さらには領事代理の次女のための保母の雇用が可能となった。

国際関係の悪化とソ連領事館
 関係改善もつかの間、モンゴル国境でノモンハン事件が起こり(1939(昭和14)年5月)、日ソ関係は急速に悪化した。函館でも日本官憲の取り締まりが一段と厳しくなった。
 同年6月、パウリチェフ領事代理は、東京の大使館に行ったまま函館での査証発給事務を拒否するという行動に出た。函館に残った館員には査証を発給する権限が与えられていなかったため、日本外務省は、査証発給業務が遅れることは、露領漁業に支障を与えることになり、日本側に経済的に大きな打撃を与えかねないと判断し、ソ連領事館に対する取締りを緩和することにした。
 こうした外務省の譲歩に対して、内務省は、ソ連側の足元につけ込むような不当な要求を避け、これまでどおりの方針で断固臨むという強硬な態度をとり続けようとするが、外務省からの再三の要求を受け、内務省は政策的見地から取締りを緩和し事件の解決をはからざるを得なくなった。
 このように、当時は査証の発給が政争の具として利用されることがしばしばあった。
 1941(昭和16)年6月22日、独ソ戦が始まると、日本で暮らすロシア人外交官の家族にモスクワ引揚げ命令が出された。これは、家族を人質にとり、駐日外交官の逃亡を防ぐ手段としてスターリンがとった措置であったと見られているが、函館では、10月26日の第5次引揚げで家族(夫人と子供)全員が引揚げ、ザベーリン領事以下5名が残った。
 領事館館員の最大の関心事は、独ソ戦の戦況であったが、日ソ中立条約締結直後であったため、函館における領事館館員の諜報活動は、まだまだ消極的であった。

領事館における防諜活動の強化
 これが一転して、防諜活動が積極化するのは、1943(昭和18)年以降のことである。ただし、函館の場合は、査証事務が閑散となる秋から冬の一時期に限られていた。
 外事警察の報告書によると、防諜活動の内容は、各種図書の購入、市内を徘徊したり映画館等に出入りして、市民の生活状況や市民の言動に特に注意するといったことであった。しかし、市内の書店で、書籍(新経済辞典や電気化学便覧ほか)を購入しようとすると、2件の書店で店主から婉曲的に購入を拒否されるなど、図書による諜報活動は、総じて不振であったとも報告されている。同時に、各種新聞、書籍等を訳すため、熱心に日本語の勉強するようになり、これまでの露語を解さない日本人の語学教師に加え、露語を解する日本人教師が1名増強された。なお、雇用に係る交渉は、領事館通訳のアレクセーエフが行った。『外事月報』には、「殊に大東亜戦争の決戦段階に於いて北方アリューシャン及千島、樺太方面の我軍事情報を諜知」するための諜報陣の強化を目的とするものだと報告されているが(1943(昭和18)年12月分)、こうしたことは、領事館に勤務していた日本人通訳から外事警察が入手した情報ではないかと考えられる。
 館員の諜報活動は、北洋漁業における日魯会社の等の漁獲高を知ることにも及んだ。さらに、函館郊外に暮らす旧教徒のクラフツォフやサファイロフなど、白系ロシア人を諜報宣伝活用に利用するため、二人のところに行けば酒が入手できるなどと言って、領事館に勤務する日本人の料理人をそそのかして彼らの住所を聞き出したことも外事警察の報告書には記されている(『外事月報』1943年4月分)。
 太平洋戦争が激化する中、1943(昭和18)年末には、館員が5名から8世帯15名に増員された。これに伴い、日本人の炊事婦1名の増加が求められているが、戦争末期まで、ソ連領事館の方から日本人通訳や雑役婦などが解雇されることはなかったようである。

ソ連領事館の閉鎖
 北樺太石油と石炭の利権がソ連へ委譲され、同地のオハとアレクサンドロフスクの日本領事館が閉鎖されるのに伴い、1944(昭和19)年6月をもって敦賀と函館のソ連領事館を閉鎖したいとソ連側が通告してきた。
 敦賀の領事館は6月に閉鎖されたが函館の場合、漁業期間に査証の発給を止められては困るため、漁期が終わる9月末まで延長してもらうことになり、10月1日をもって閉鎖となった。
 閉鎖される二日前、ザヴェーリエフ領事夫妻と通訳のアレクセーエフは、日魯漁業が開催した送別晩餐会に出席した。温泉街湯の川の老舗割烹旅館若松館で開かれ、函館市長も同席している。
 函館のソ連領事館は、北洋漁業と切っても切れない関係にあった。日本の官憲や軍部が
強気の行動に出ても、北洋漁業で多大な利益を得ていた日魯漁業は、査証発給の遅れや発給の拒否が出ないために、あくまでもソ連領事館との良好な関係維持に努めていた。そうした姿勢は、領事館の閉鎖直前まで続けられたのであった。

おわりに
 戦後、函館市はソ連領事館を再び函館に誘致しようと試みるものの実現はしなかった。この間、管理人として地元函館の日本人夫妻が留守を預かっていた。
 1952(昭和27)年からは外務省の所管となり、1956(昭和31)年の日ソ共同宣言による国交正常化を経て、1964(昭和39)年には函館市が外務省から建物を購入し、「函館市立道南青年の家」を開設した。土地については、戦時中、敷地をめぐる騒動が何度か持ち上がり、日魯漁業が買い上げていたことから、1981(昭和56)年に函館市は日魯漁業から取得(市有地と交換)している。
 1996(平成8)年までの約30年間、青少年の宿泊研修施設として使用されたが、現在は、外観のみを一般開放している。
 その一方で、2003(平成15)年9月、在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所が開設された。事務所は所長(2代目)と所長夫人の2名体制がとられており、日本人職員は置かれていない。

「会報」No.30 2007.10.1 研究会報告要旨(その3)

ハバナで出会ったオリガ・ズヴェーレワさん

2012年4月24日 Posted in 会報

髙木浩子

出会い
 函館のズベレフ家の消息については、函館日ロ交流史研究会の『函館とロシアの交流』に掲載された次女のガリーナさんと小山内道子さんの報告に詳しい。ここで、再びズベレフ家について触れるのは次の理由による。
 ガリーナさんは1943年に姉兄3人と大連に旅立っており、それ以降1957年にソ連で再会するまでの母、祖父、2人の妹の日本での生活についてはほとんど知られていない。しかし、それを語れる人がいる。その人はズベレフ家の末っ子でガリーナさんの妹オルガさんである(筆者はオリガではなくスペイン風のこの呼び名に馴染んでいる)。
 筆者とオルガさんの出会いは偶然だった。筆者は、ハバナの海岸から大勢のボートピープルがフロリダを目指していた1994年に、勤めていた国立国会図書館からハバナにあるアジアオセアニア研究所に派遣されたが、そこで通訳をしてくれたのがオルガさんだった。彼女が函館生まれで、父上が戦時中にスパイ容疑で収監され獄死、戦後ソ連に帰ってレニングラード大学に進学し、キューバの留学生と出会い結婚、キューバに移り住んだことを聞いた時は驚いた。キューバに来てからは、ハバナ大学でロシア語を教えていたそうであるが、ソ連邦の崩壊とともにキューバにおけるロシア語のニーズが減ったため、日本語教師および日本語通訳に転じた。翌1995年春、彼女は"国際交流基金の海外日本語教師のための短期プログラム"で38年ぶりに来日した。
 東京でもニコライ堂や住んでいた落合の家の跡等思い出の地を訪ね歩いたが、5月にはいっしょに函館に飛び、松風町の家の跡、通った大森小学校、父上のお墓のあるロシア人墓地を訪ね、ハリストス正教会では受洗者名簿も見ることができた。それは、彼女自身はもちろん同行した私にとっても忘れられない感激的な旅であった。そこで、帰国するオルガさんに家族の物語をまとめるよう勧め、ここで紹介する彼女の手記を送ってくれたが、私信として手元で眠っていた。
 昨年、インターネットで偶然、函館日ロ交流史研究会のホームページを見つけ、『函館とロシアの交流』を送っていただき、ズベレフ家に関するガリーナさんと小山内さんの報告を発見した時の驚きと喜びは忘れられない。長年、探し求めているものに出会ったと思った。その後、小山内さんから、追加情報もいただいて、10月、オルガさんにこれらの資料を届け、もっと詳しく彼女の物語を聞くため11年ぶりにハバナに飛んだ。いくら離れているとはいえ、オルガさんがガリーナさんの日本訪問を知らないのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、残念ながら、ロシアもキューバも郵便事情が甚だ悪く、驚くに値しないことなのである1。ハバナへの直行便はなく、メキシコかカナダで1泊しなくてはならないから2日がかりである。
 ハバナではオルガさんの家の直ぐ側のホテルに1週間滞在し、毎日、持参した報告を読み語り合った。そこで、彼女は、沢山の写真を見せてくれた。それらは、彼女が函館から東京、ソ連を持ち歩いた貴重な写真だった。特に私が心を打たれたのは、室蘭であいついで亡くなったヴェーラ(お母さんと前夫ヴォルコフ氏の娘)とヴォルコフ氏の葬儀の写真で、後に再婚することになるオルガさんのお父さんをはじめとする亡命ロシア人の仲間が棺の脇に立つお母さんを取り囲むように写っていた。オルガさんに追加情報を含め、私信を公開したいことを伝えたところ快諾を得たので、ここに紹介する。オルガさんの日本語力はすばらしく、ごく一部補足したが、ほぼ原文のままである。

両親のこと
 ガリーナさんたちが大連に渡るまでの戦前戦中の家族の事情は、オルガさんは幼かったので、直接の記憶はないようであったが、お母さん、おじいさんから断片的に聞いていたようである。以下、「 」内はオルガさん直筆の手記。

「私の両親はロシアで起こった十月革命の亡命者でした。父の事は殆ど何も知りません。白軍の将校だったそうです。彼が日本に来る前どこに住んでいたか、また彼に私達の他に家族があったか、何も知りません。母に聞いた事がありますが、彼女の話では、亡命者の間では余り過去について聞かない事になっていたらしいです。それは、きっと亡命者は各自みんな色々な過去を背負っていたからではないでしょうか。
 エリク・マリア・レマルクのある小説の中で、たしか「凱旋門」という小説だったと思いますが、その主人公は亡命者で男性と女性の間の関係はベッドの関係の方が簡単に出来て、過去についてとても話しにくかったと書いています。きっと亡命者は逃れて来た所の事や残して来なければならなかった自分の家族について、自分の過去について話すのが辛かったのかも知れません。
 母はウラル山脈の近くのペルミ地方から来ました。母の父(私の祖父)はセレドニャーク(その頃のロシアの田舎の百姓はクラーク=富農、セレドニャーク=中農、べドニャーク=貧農の3つの階級に分かれていました。)で2回も銃殺されそうになったので中国に逃げて、ハルピンに落ち着いてから自分の家族を呼び寄せました。母は自分の母と弟ステパンと一緒にシベリアを通って中国に行く事にしましたが、旅行の途中で母の母がチフスにかかり亡くなりました。そのころ母は20歳くらいで弟は10歳くらいでした。母はシベリアに残って看護婦になりたかったが、小さな弟と一緒では無理だったので中国に行くことにしたそうです。だから、母は勉強するチャンスを無くし、無学で一生を送ることになったわけです2。
 中国ではいろいろな家でメードや子供の世話をする仕事をして働きました。そこで彼女は一番目の夫に会って結婚して、1925年頃、日本に行き、室蘭に住み、娘ヴェーラを産みました。しかし、ヴェーラと夫はあいついで亡くなりました。
 未亡人になった母は私の父に会って、好きになって、結婚して、6人の子供を生みました。1934年の函館大火の後、中国にいた祖父も、母の弟が病死した後、父の招待で日本に来て私達といっしょに住んでいました。1941年太平洋戦争が始まって、1943年、父がスパイ容疑で逮捕され、刑務所に入れられたので、母は姉や兄がいじめられるのを心配して、上の兄姉4人を中国の大連に送る事にしました。そこにはそのころロシアの学校(ギムナジア)があったからです。父が1944年1月7日に刑務所で亡くなり、1945年8月に戦争が終わりましたが、大連に行った姉兄との連絡がとれなくなり、私達は長い間、離れ離れに住むことになりました。」

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ズベレフ一家

函館の暮らし――思い出すこと
 オルガさんは1940年に函館で生まれた。1944年にお父さんが亡くなった後、戦中戦後の混乱期をお母さんは自分の父親と2人の子供とともに1954年まで函館で暮らした。そのころのことをオルガさんは次のように語っている。

「私は昭和15年に函館の松風町で生まれました。私の姉兄は、そのころ東京にあったロシア語学校で勉強していたので、末っ子の私が7月15日に生まれたことを喜びました。それは私の誕生日に家に帰って来る事が出来るからでした。しかし、それも戦争のせいで2回か3回しか来ることが出来ませんでした。
 一番上の姉は13歳、次の兄は12歳、その次の兄は11歳、その次の姉は10歳で中国に行ってしまいました。私と直ぐ上の姉はいつも姉と兄たちが帰って来るのを待っていました。父が亡くなった事も知っていましたが、何かの間違いで父はまだ生きているのではないかと想像したこともよくありました。
 私は父を全然覚えていません。ただ、お葬式の日、1月だったので、とても寒くて、誰かの肩の上に乗せられて、元町の下の方から坂を見上げている場面を今でも思い出す事がありますが、実際にその思い出はお葬式の時かどうか、余りはっきりしていません。もしかしたら、命日だったのかもしれません。
 戦争の事については余りよく覚えていませんが、函館の空襲を覚えています。それはもう戦争の終わる直前に近かったからだと思います。空襲がひどくなったとき私達一家(祖父、母、姉と私)は湯の川に疎開しました。そこで私の代母のクラフツォフ家が木苺の砂糖漬けを作っていましたので、そこの倉庫を借りて、どのくらいだったかは覚えていませんが、一時住みました。祖父は松風町に留守番する為に残り、母は行き来していたと思います。その家は丘の上にあって、冬になると、そこからそりで滑り降りるのが楽しみでした。その近くに日本の女性と結婚していた1人のロシア人(サファイロフ?)が住んでいた事を覚えています。彼はグズベリを栽培していて美味しい砂糖漬けを作っていたようです。彼の名は覚えていませんが、とても親切で教養のある人だったと思います。彼の家で初めて揺り椅子を見ました。彼の奥さんは病気だったと思います。その後、姉ナジェージダは学校に入る為母と一緒に松風町に帰ったので、私は後に残され、とても寂しくて、悲しかったのを今でも覚えています。その後、母が会いに来た時、私が母にすがりついて泣いたので母は置いて行くのが、可哀相になったので、家へ連れて帰ったと言っていました。」

 お父さんが収監されるまでは、比較的余裕があった生活も、亡くなられた後は相当、厳しいものであったようで、そのころの生活を次のように語っている。

「戦後はみんな苦労していました。函館では母は父が残した洋服屋をやっていましたが、店には古いものしかなく全然お金が入ってこなかったので、母は家を留守にして、よく商いに出ました。そのときは母が待ちどうしかったです。函館の港まで行って、青森から来る船を待って、それに母が乗ってきたかを確かめたりしました。
 家にはお風呂がありましたが、その風呂を使わないで家族そろって家の前にあった銭湯に行きました。ある日お風呂に入った後とてもおなかがすいて力が全然なくなったので母に抱かれて帰った覚えがあります。今から考えれば食料不足だったのでしょう。そのころは非常に生活が苦しかったと今になって思います。しかし、そのころはそれでいいのだと思っていました。私は普通、祖父が作った木製の下駄(それは日本の伝統的な下駄ではなく板の上に鼻緒代わりに革をとりつけたもの)を履いていました。私は日本の下駄が欲しかったが、それはなかなか手に入らなかったのでしょう。教会に行くときだけ靴を履きました。」

 しかし、戦後の函館の生活については楽しかったと語っている。

「私の少女時代はとても楽しかったです。家にはいつも自転車があって函館中を駆け回りましたし、相撲を見に行ったり、芝居を見に行ったり、映画を見に行ったりしました。函館の競馬を見に行ったこともあります。紙芝居も楽しみでした。戦後アメリカ軍が来たときは家にも来ました。そのころのアメリカの兵隊は戦争を体験した人達だったから人情があったような気がします。そしてその人達にかわいがられました。
 野球を見に行ったこともあります。ヴィクトル・スタルヒンが函館に来た時は、必ず家に来て、私達は母に買って貰えなかったお菓子を買って貰いました。随分かわいがって下さいました。母は父が生きていた時、いつもヴィクトル・スタルヒンを可愛がったと言っていました3。それはヴィクトルも父親を亡くしたからです。兄ミハイルの話では、私の父はヴィクトルの代父(名付け親)であったそうです4。それが本当であれば、私の父はロシアでヴィクトルの父親の友人であった事になります。」

横浜のインターナショナルスクール
 オルガさんは函館で幼稚園に入り、大森小学校に入学したが、お母さんが将来を心配してであろう、9歳頃、お姉さんのナジェージダとともに、横浜のインターナショナルスクールに転校させた。しかし、そこはなじめなかっただけでなく病気になり、函館にもどって大森小学校を卒業し、函館の遺愛女学校に進学した。その頃の思い出を次ぎのように語っている。

「大体私が9歳の頃、母は横浜にあったセント・モーアという修道女の女学校に私を入れました。その時までは大森小学校にいっていて、英語は全然出来ませんでした。その学校では何から何まで英語だったので、随分泣かされました。何も分からなく、数学だけしか出来ませんでした。私のすぐ上の姉が1年か2年前に横浜に行った時は、セント・モーア女学校は戦争で焼けて、建設中だったので、セント・ジョセフ学校で1学年をやりました。その学校は修道士が教えていましたが、殆どの修道士は日本語を知っていたので、生徒が分からない時は日本語で説明してくれたので、姉は私のように苦労しませんでした。
 横浜の学校に通っていた間、私達は御茶ノ水のニコライ堂の下の戦前ロシアの学校があった建物に住んでいたロシア人の家族(コイチェフ家)に預けられました。その建物の二階にはロシア正教の教会がありました5。そこから横浜まで通うのは大変でした。朝はいつも早く出なければならなくて、帰るのも遅かったです。
 学校には色々な国の子供がいました。私はロシア人だったので、そこでも差別されました。それに英語が出来なかったので、ますます差別される一方でした。だから小さい子供はすぐに言葉を簡単に覚えられると考える人が多いですが、私はそう思いません。今でもどんなに辛かったか思い出す事があります。そこで病気になったので、母は私を函館に連れ帰りました。1年間ぐらい病気のため学校を休んで自宅で療養し、そのあと4年生から6年生まで大森小学校にいきました。」

一家で東京へ
 1954年、オルガさんが遺愛女学校に進学した年の9月に一家は東京(下落合1-5-5)に移り住んでいる。洞爺丸台風の年である。東京でオルガさんは1957年にソ連に帰国するまで、経堂の恵泉女学園に通った。その頃の思い出やソ連に帰国するいきさつを次のように語っている。

「東京では目白に住み、毎日目白から新宿に出て小田急線に乗って、経堂の恵泉女学園に中学校を終えるまで通いました。とても楽しい時代でした。学校には広い土地があって野球場やテニスコートやバスケットコートなどがあって、友達同士で早く学校に来て、ソフトボールを練習しました。授業は午後3時までだったので、そのあとは学校の近くの写真屋さんのおばさんがよく写真を撮りに来たので、いまでもその写真を見てそのころの事を思い出します。
 東京には、そのころロシア人のクラブ6があって、そこには色々なサークルがありました。そこで私はロシア語を習ったり、マンドリンの弾き方を習ったり、コーラスに参加したり、演劇をやったりしました。そこでソ連の事情を聞いて、社会主義は素晴らしいシステムだと考えてました。そして、私の兄姉に会うためには、ソ連に帰らなければならない事も理解できました。
 母は自分の子供に会う為にソ連に帰る決心をして、1956年に高校を卒業したすぐ上の姉ナジェージダをソ連に送りました。一番難しかったのは私の祖父をソ連に帰るように説得する事でした。最後に彼も自分の孫達に会いたかったからソ連に行く決心をし、私達一家は1957年9月にソ連に帰りました。その年はモスクワで青年のフェスティバル(第6回世界青年学生平和友好祭)があったので、それに参加した日本の団体が帰国した船7に乗って、新潟からナホトカに行きました。」

ソ連へ帰国して
 ソ連国籍取得の詳しいいきさつはわからないが、ソ連政府からの働きかけもあったであろうし8、なによりソ連にいる子供たちと連絡がとれたことが帰国の動機となったのであろう。帰国に関しては、日ソの国交が回復した1956年に直ぐ上の姉ナジェージダがまず仲間と帰国し、翌年、残りの家族がナジェージダが落ち着いたロストフ・ナ・ダヌーへ帰国し、1943年に別れた兄姉たちと再会した。しかし、帰国後も生活は大変だったそうである。ソ連帰国後の生活について次のように語っている。

「ナホトカは建設中でした。ソ連の一番最初の印象は余りいいものではありませんでした。私はお米のご飯を食べるのに慣れていたので、その代わりに他の穀物が出てくると、余り食べたくありませんでした。ナホトカから汽車に乗ってモスクワまで行きました。長い間、夢見て来たモスクワに着いた時は嘘みたいな感じがしました。そこから、私のすぐ上の姉がいたロストフ・ナ・ダヌーへ行きました。
 まず、初めに驚いたのはみんなロシア語を話している事でした。日本では誰かが近くでロシア語を話している場合は、必ず私達の知り合いでしたが、そこでは、私達の知らない人もロシア語を話しているのです。長い間それに馴染む事が出来ませんでした。まず、最初に直面した問題は住居の問題でした。住む所がなかったから、部屋を借りて、そこに住み始めました。アパートを借りる事はその頃出来なかったからです。その後今はよく覚えていませんが、大体3ヶ月後2部屋のアパートを貰いました。その頃のソ連はモスクワやレニングラードのような大都市では食料の問題はありませんでしたが、ロストフ・ナ・ダヌーは大変でした。勿論、市場には何でもありましたが、値段が高かったので、何時もそこで食料を買う訳にはいきませんでした。それから年金生活に入る為に母は病院で掃除のスタッフとして6ヶ月働きました。
 私達がロストフ・ナ・ダヌーに着いてから上の姉達と兄達が来て、母は15年振りに、翌年夏休みに帰って来ると思って中国の大連に送った子供達に出会った訳です。子供の面影もない大人になった子供達でした。きっと、母は自分の子供達が色々苦労した事を聞いて随分辛い思いをしただろうと思います。何しろ13歳、12歳、11歳、10歳の子供達が、母の元から離れて、自分で自分の運命を決めなければならなかったのです。もし、近くに誰か経験のある人がいて相談に乗ってくれたら、どんな運命を選んだか分かりません。もしかしたらみんな日本に帰って来ていたかも知れません。その様な事を考えれば限りがありません。」

 ソ連帰国後、大学に進学、キューバに渡るまでのいきさつについては次のように語っている。
「一応落ち着いてから私は学校に行き始めました。東京にいる時ロシア語を勉強していたのですが、実際には余りよく分かりませんでした。教室で先生が説明している時は全部分かるような感じがしましたが、家に帰って宿題をする段階になると、何も分からなくなって、とても苦労しました。ソ連の学校で9学年と10学年をやって、1959年に学校を卒業してから、1961年にレニングラード大学の入学試験に合格して、東洋学部の日本史科に入り、日本の歴史を勉強し始めました。勿論、私が日本語を良く知っていた事は入学する為の大きなプラスでした。
 大学では色々な知識を得て、沢山の友達ができて、とても充実した生活を楽しみました。私が2年生の時、ソ連にキューバから沢山の留学生が来ました。レニングラード大学にも十人ぐらいのキューバ人が色々な学部で勉強し始めました。そして、私は経済学部で勉強していた今の夫であるイダルベルト9と知り合い、彼の理想に惹かれました。なぜなら、ソ連に来た時の私の理想に合っていたからです。ソ連の青年達は革命が起こってから五十年も経っていたので、ずっと物質主義的になっていたのです。キューバではほんの一、二年前(1959年)に革命が起こったから、みんな熱心に社会主義こそキューバにある様々な社会問題を解決すると信じていました。しかし、結果的にはそうではありませんでした。その事について話す為には色々な国際事情や経済の知識を持っていなければなりません。ですから、その様な分析は専門家に任せましょう。
 イダルベルトと知り合ってから2年経った後で結婚して、1965年に大学を卒業してから2年間インツーリストというソ連の旅行会社でガイドとして働きました。1967年にキューバに渡りました。」

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左上からミハイル、ガーリャ、タチアナ、左下からナジェージダ、アレクセイ、オリガ

キューバで新しい生活
 また、キューバに着いてからの生活については次のように語っている。

「キューバに来てからは、スペイン語を知らなかったので、ロシア語を教える事になりました。そして、1990年までロシア語を教えていました。
 ソ連が崩壊してからキューバでのロシア語の必要性が全然なくなったので、転身を図らなければならなくなりました。その時ハバナ大学で松尾先生10の日本語教師養成クラスに参加して、私の頭の中に眠っていたが、使う機会がなかった為にもう話せなくなっていた日本語を呼び起こす機会が与えられたのは幸運でした。よく覚えていませんが、確か1990年の9月から私は日本語の授業を始めました。日本語のクラスは大学だけではなく、アジア会館(アジアの家)やアジア・オセアニア研究所などでもやりました。1998年に大学を退職して、今は時々、大学で教えたり通訳をしています。」
 
 オルガさんは、現在、ハバナ市内にご主人のイダルベルトと住んでいる。息子イダルベルトと娘グロリアの2人の子供がいるが、グロリアはメキシコ人と結婚しメキシコに住んでおり、イダルベルトもメキシコで仕事をしている。キューバはソ連崩壊後、未曾有の経済危機に直面し、一時期よりはましになったとはいえ、相変わらず、国民は窮乏生活を強いられている。10年前に行った時は外国人用のホテルを除くと一般家庭では長時間の停電が常態化していたが、今回もホテルの窓から停電して真暗な街を眺めるはめとなった。物不足も相変わらずで、街には古い自動車が走り、バスなどはいつくるかわからない有様である。
 でも南国のことゆえ太陽の光はまぶしく海は輝き、夜ともなると、あちこちでサルサの音も聴こえる。毎年やってくるハリケーンの被害も深刻で、私が帰国後1週間目に襲来したハリケーンでオルガさんの家も冠水した。好転しない経済状況に絶望して国を離れる若者も多いと聞いた。こういう状況の中で、キューバではエリートに属するオルガさんの暮らしもなかなか大変で、ロシアに帰国するのもままならぬのが実情である。
 オルガさんは17歳まで日本ですごし、ソ連(ロシア)ですごしたのはわずか10年、キューバに来て既に40年たっているが、国籍はいまだにロシアだそうである。彼女はどこでも異邦人だったのではないかと思う時があるが、その心情を次のように語っている。

「よく次のような質問をされます。「あなたの母国語は何語ですか」と。この質問に答えるのは案外難しいです。なぜなら私はロシアの家族の中に生まれ、初めて発音した言葉はきっとロシア語だったと思います。しかし、幼い時から私は日本の幼稚園に行き、その後日本の学校で色々な知識を得ました。外では日本の子供と遊んだり、喧嘩したりしました。でも、私は、外の子供とは異なっていたから目立ちました。それがとても嫌いでした。しかし、いまそのことを考えると、それが私の運命だったのでしょう。
 日本では金髪だから日本人になりきることが出来なかったし、ソ連へ行った後も私は外の人と違いました。服の着方から物の考え方も違っていました。」

終わりに
 オルガさんは、幼い頃をすごした函館をとても懐かしがり、10年前、函館を訪れた時も、函館は父のお墓もあるし私の故郷だと言っていた。17歳まで日本にいたとはいえ、その後、日本語とは遠ざかっていたに違いないのに、彼女の日本語はきれいで、いかにも少女時代に読んだらしく、『赤毛のアン』をまた読みたいと言っていた。
 10年前に日本に来た時は、オルガさんは残念ながら函館の小学校の友達や東京の恵泉女学園の友達と会うこともできなかった。今回、『函館とロシアの交流』を届けた時、10年前に研究会のことを知らなかったことを残念がっていた。彼女がまた来日できれば、友達にも会わせ、戦後の函館や東京の生活、またソ連帰国後の生活についてもっと聞きたいと思っている。


1 今回も小山内さんがペテルスブルグのガリーナさんから預かった手紙を私がハバナのオルガさんに届けたが、これが1番確実な通信手段である。現在は、ガリーナさんの息子とオルガさんのご主人のパソコンでメールの交信ができるようになったそうである。
2  オルガさんはこう表現しているが、革命後のハルピンへの逃避行にはじまり、日本亡命、2人の夫との死別、6人の子供の教育、ソ連への帰国をなしとげたお母さんは無学などではなく知恵と才覚にとんだ女性だったと思われる。
3 スタルヒンの父親が1933年1月に旭川で殺人事件をおこした時に、オルガさんの父親が北海道露国移民協会会長としてめんどうを見た可能性が高い。
4 スタルヒンの父親もオルガさんの父親もウラル地方出身の軍人であったようなので、オルガさんの父親が1916年にタギールで生まれたスタルヒンの代父となる可能性はあると思われる。
5  戦後、アメリカからニコライ堂の主教が派遣されることになった時、ロシア正教会との連携を望んでいたいくつかのロシア人グループは日本正教会を離脱し、大聖堂南石段下の「プーシキン学校」と呼んだロシア人学校の2階に祈祷所を設け、モスクワ総主教庁との関係を続けた。(『東京復活大聖堂修復成聖記念誌』1998)
6 現在、駒込のロシア正教会駐日代表部教会のある場所にあったという。
7 日本から参加した約150人の青年・学生たちはソ連船アレクサンドル・モジャイスキー号で新潟、ナホトカを往復した。
8 1946年9月26日、ソ連大使館は亡命ロシア人のソ連国籍復帰令を布告(高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館1977)
9 イダルベルトは高校時代にキューバ革命に参加、革命後はしばらく税関で仕事をしたが、若い人に勉強させるべきであるというゲバラの進言で、ソ連に留学、経済学を学び、帰国後は経済企画の仕事についている。
10 松尾威哉氏は、キューバ政府の要請を受けて、1990年9月から3年間ハバナ大学で主としてオルガさんのようにロシア語教師からの転身を図らねばならない大学教授に対する日本語教育にシルバーボランティアとして携わった。(松尾威哉『キューバの光と影』)

「会報」No.28 2006.11.11 特別寄稿

明治初年の函館に於ける露語和訳露西亜語教科書

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

1 史料の性格
 市立函館図書館(現、函館市中央図書館)に来歴は不明ながら、標題のようなタイトルをもつ冊子がある。もっともこのタイトルは、表紙に貼られた短冊に墨で書かれたものであり、後年になって付けられたものと思われる。体裁は縦20.6センチ、横13.9センチの布張りのノートブックである。
 本史料は黒インクの手書きのもので、序文の中に編者として小野寺魯庵、三輪魯鈍、嵯峨善次郎の名が記されている。本文は84頁で、目次によれば一課から十五課までになっているが、内容は十三課までで終わっている。
 さて、この史料は序によれば、初心者用のロシア語教科書として製作されたものとある。同じく序にはこれが上下篇であることが記されているが、ノートは上篇にあたる部分のみで終わっていて、下篇の存在は確認できない。続いて述べる通りこのノートは原本からの写しらしいが、いつ誰が何の目的で写したかは、何ら記載がない。
 では、この冊子の原本と思われる「魯話和訳」という史料について、松村明氏の論考(1)を紹介しよう。それによると、広田栄太郎氏(2)所蔵になる「魯話和訳」は、半紙本(縦24センチ、横19.2センチ)袋綴一冊、墨付百十枚という体裁である。第一の扉にロシア語、第二の扉に日本語で書名・著者名・訳者名・成立年・成立地が記されている。第二扉の方をここに転載すると、「魯話和訳魯西亜司祭官ニコライ著 日本仙台小野寺魯庵・江戸三輪魯鈍・加賀嵯峨善次郎 同訳。箱館一千八百六十七年」とあり、これが1867(慶応3)年という明治以前のもので、ニコライが執筆し、箱館で製作されたことが明らかにされている。そして松村氏は市立函館図書館の本史料を確認の上、「魯話和訳」を書写したものであろうとされている。なお、この「魯話和訳」も同じく上篇だけしかないという(ただし、こちらは十五課まであるらしい)。
 今回、この「魯話和訳」と本史料との照合はできなかったが、本史料の成立の事情を解明する上では是非必要なことであろう。
 さて、この教科書の存在を言及している文献がもう一点存在している。昇曙夢著「ニコライ大主教の生涯と業績」(3)である。これには次のように書かれている。
 ...『魯和和訳』は最初写本で行われたようだが、あとで明治二年にニコライ師が日本ミッション(傳道会社)創立の件で帰国し、同四年に帰任した時持ち帰った石版印刷機で自ら印刷したとのことである...
 これが真実とすれば、石版刷りのものはある程度普及したことも考えられる。以上を総合して考えれば、本史料は慶応3年に作られたロシア語会話教科書を、箱館の学習者が石版刷りのものが普及する前に書き記したもの、といえるのかも知れない。
 次に著者と編者について若干の解説を試みてみよう。ニコライ(俗名、イワン・ドミートリェヴィチ・カサートキン)は改めて紹介するまでもないほど有名で、1861(文久元)年に箱館のロシア領事館付の司祭として来日、その後、日本正教ミッションを開設。以降、一生を日本での正教布教に尽くし、宗教界にとどまらず様々な方面で多大な影響を及ぼした人物である。
 編者として名前が上がっている3人はあまり著名とはいえない。それでも嵯峨善次郎こと嵯峨寿安(1840・天保1年、金沢生まれ)は比較的知られているほうだろう。嵯峨は加賀藩の命で1869(明治2)年ロシアに留学するが、その際のシベリア横断が有名である。彼の事績については左近毅氏の研究(3)があるので、詳しくはそれを御覧いただきたい。本史料に関することだけを引用させてもらうと、嵯峨が箱館に来たのは1866(慶応2)年のことで、ニコライと語学の交換授業を行っている。箱館には2年と数ヶ月の滞在だったが、ロシア語学習歴1年足らずにして、本史料のような翻訳に携わっていたことになる。
 小野寺魯庵とは小野寺魯一(1840・天保11年、仙台生まれ)に相違ない。河野常吉『北海道史人名字彙』によれば、ニコライに師事したとあるが、いつ頃のことかはわからなかった。しかし本史料により慶応3年以前に来箱していたことが明らかになったわけである。しかし本史料により慶応3年以前に来箱していたことが明らかになったわけである。彼は維新後外務省に入り、ほぼ嵯峨寿安と同時期にロシアに留学している。帰国後は開拓使に奉職し、その間1875(明治8)年の樺太千島交換条約、1878(明治11)年の黒田長官らのウラジオストク訪問に同行するなど重要な任務をこなしている。
 3人目の三輪魯鈍(江戸)がいかなる人物かはほとんどわからない。先の村松氏も不明としておられる。可能性があるのは明治初期の外務省職員の中に、外交書簡担当として名前がある「三輪」少佑という人物である(4)。明治17年の職員録にも庶務係として「東京府士族三輪帆一」という氏名があるが(6)、彼が明治10年に市川文吉(この時ロシア公使館勤務)の父に「魯国荷物」を届けているのは(7)、ロシア担当だったからではないだろうか。いずれにしろ幕末に、嵯峨や小野寺と同様箱館に滞在して、ニコライからロシア語を教わっていたわけである。

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露語和訳露西亜語教科書

2 幕末の函館とロシア語の関わり
 函館とロシア語について、本史料の位置付けを考える上でも参考になると思われるので、幕末の状況をここで簡単に紹介しよう。
[ロシア領事館のロシア語学校]
 はじめ寺院の一遇に居住していたロシア領事は、1860(万延1)年、新築なった領事館に移転した。この領事館の構内に小さな家が建てられ、その半分が日本の子供たちのための学校として利用されるように作られたことが、1861年のイワン・マホフの報告によって語られている(8)。
 この学校が実際機能していたことは、1861(文久元)年の「各国書簡留」という運上役所の書類に表れている。これには箱館役所の下級役人の子弟を中心とした生徒たち(奉行が指名した)の名前があり、中には2年後に箱館奉行から「魯語通弁御用」を申し渡された千葉弓雄もいる。ここでは最初領事自らが教鞭をとったのかも知れない。「領事より」として稽古のために、上述の生徒氏名とほぼ一致する10人ほどに「仮綴書物」と「稽古本」を、またそのうち4人にはさらに「魯国風聞書」「魯国イロハ本」が贈られているのである。「和魯通言比考」もおそらく使われたことであろう。
 ニコライ司祭が来日してからは、学校は彼の仕事になったらしい。というのは生徒のために「ゴロインの書籍」(『日本幽囚記』の和訳「遭厄日本紀事」は文政年間に脱稿している)の貸し下げを運上所に頼んでいて、領事も「彼(ニコライ)の学校」と表現しているのである。
 こうして始まったニコライによるロシア語教授に、小野寺魯一、嵯峨寿安や三輪魯鈍のように全国から青年たちが集まってきたのだろう。しかしその個別の実態は定かではない。因みに1868年7月15日付けのニコライの手紙には、「わたしは自分の住まいに学校を開いており、最も近しい人を助手として日本人[複数]にロシア語を教えている」とあり、ロシア語教授は連綿と続いていたことがわかる。この一連の過程で本史料が製作され、代々筆写されていったものであろう。
[志賀浦太郎による教授]
 箱館奉行の命令によって、御役所のロシア語通訳者養成のため教授が行われた。その教師となったのが、長崎から来た志賀浦太郎である。もっとも志賀の当教授がはじまったのは、文久2(1862)年であるが、生徒はニコライが教えていた役所の子弟たちと重複している。しかし志賀は、慶応2(1866)年7月にロシア軍艦で箱館を出航したまま(11)、ついに帰ってこなかったので、彼の授業もそれまでだった。彼は運上所にあった、「鄂羅斯語戔箋」(魯西亜語日本文字対訳)1冊と「鄂羅斯語小成」(魯西亜語日本文字対訳字引)47冊(12)を借用していたから、授業にもこれを用いたことであろうが、これ以上のことはわからない。
 興味深いことには、ニコライと志賀浦太郎の授業では、さすがに前者が難しかったらしく、ついていけない生徒が志賀の授業に移りたいと申し出ている記録もある(13)。


(1)松村明「幕末期ロシア語学書についての覚書」(『文章語学』33号 昭和39年)
(2)『えうゐ』17号(解説・注 外川継男)
(3)左近毅「嵯峨寿安とロシア」(共同研究『日本とロシア』)、同「嵯峨寿安(一八四〇~一八九八)関連年表(共同研究『ロシアと日本』第3集)
(4)・(5)『外務省の百年』(原書房)注
(6)宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」(『社会労働研究』第39巻 第4号)
(7)秋月俊幸「ロシア人の見た開港初期の函館」(『地域史研究はこだて』第3号)
(8)・(9)文久元年「異船諸書付」(北海道立文書館蔵)
(10)中村健之介「日本もまた稔りは多い-箱館のロシア人からの手紙」(『地域史研究はこだて』第16号)
(11)『杉浦梅潭 箱館奉行日記』によれば、杉浦兵庫頭は神奈川での通訳のため、というロシア軍艦アスコリドの要望でやむなく浦太郎を乗船させたのであって、要務を終えたあとはまた箱館に返してもらうつもりだったことがわかる。
(12)「訳官黜陟録」(函館市中央図書館)
(13)同上

「会報」No.29 2006.11.11 史料紹介

「日露修好150周年回航事業」に参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一

回航事業
 2005年は日魯通好条約が調印され、日露間に国交が樹立されてから150周年というという年でした。これを記念して日露の次世代を担う青年150名を乗せて6月24日~7月5日、函館・下田など日露交流ゆかりの地を訪れる回航事業(日露青年交流委員会主催)が実施されました。リーダーである内田一彦外務省ロシア交流室長によれば、「この回航事業の目的は、日本とロシアの青年が、日露交流の歴史を深く知ることにより、日露関係の重要性を認識すること、船という閉ざされた空間の中で約2週間の間、生活を共にすることにより、密度の濃い交流を体験することにあった」。「ルーシー号」という富山伏木港とウラジオストクを結ぶロシアの定期航路船に乗船したのは、日本からはロシアについて学んでいる学生、伝統文化に携わる学生や青年、日露ゆかりの地の関係者など50名、ロシアからはおもに極東を中心に日本について学んでいる学生、文化芸能関係者、青年政策関係者、若手ジャーナリストなど100名。

セミナー資料の準備
 私は、本研究会会員であり、市国際課職員の倉田さんを通して、ウラジオストクから函館に向かう船上のセミナー「函館に関わる日露交流史」の講師依頼があり、不安はありましたが、この機会に自分の研究視野も広げられると思い、蛮勇を振るって引き受けることにしました。4月~5月はセミナー資料作成のため、移転による一時閉館間際の市立函館図書館に毎週のように土日に通い、購入間もないデジタルカメラで画像資料を撮影しました。また、清水恵旧蔵書を清水正司さんからお借りできたことも資料の作成上、大変助かりました。
 6月24日に日本人参加者は富山伏木港を出て、26日にウラジオストク着。その地でロシア人参加者と合流。私は勤務の都合で26日午後、飛行機で新潟空港からウラジオストク空港に到着しました。

日露学生会議
 翌27日午前は、極東大学で日露学生会議。「日露交流150年、将来への提言」というテーマで日露学生の数名がスピーチをおこないました。ここでは船上の夜、一緒にビールを飲んだ東京外国語大学ロシア語専攻3年・福田祥君の、日露間の壁と可能性を過去にとらわれず率直に主張したスピーチの一部を紹介します。 

 「現在、日本ではロシアに関する情報が絶対的に不足していると思います。特に私たちくらいの年齢の若者達は、大学などでロシアについて勉強している人達を除いて、まったくと言っていいほどロシアについて知りません。また、ロシアのことについて報じるメディアは少なく、たとえ報じたとしてもほとんど政治的な話題ばかりです。
 このような状況が蔓延しているということは、日本人とロシア人の間に立ちはだかる障壁であると思いますし、そのためにお互いが正しい理解に達することができなくなってしまうのであればそれは大変な損をすることになると思うのです。
 私の友達の多くは、私がロシア語を学んでいることを知るととても驚きます。しかしそのあと、大体がロシアについて色々と質問をしてきます。もちろん私は知っている範囲でしか答えられないのですが、それでも興味津々な様子で話しを聞いてくれます。つまり、ロシアに関して興味を抱いてくれる人は確かにいるのです。きっかけさえあれば、ロシアと日本が学生・市民のレベルでより近づくことも可能だと思うのです。
 そのきっかけの一つとして、私達の担っている役割は重要です。この事業を通して出来た友達や、手にした発見や感動のことは、必ずや周囲の人々にも伝えたいですし、そうしなくてはならないと感じています」。

その後、会場の参加者も含めて活発な自由討論を行ったが、筆者は残念ながら、この学生会議には出席できませんでした(ウラジオストクの日本センターのオリガさん、3年前にお世話になったドミトリーさんと、つかの間の面会のため)。青年たちの議論は「領土問題は一刻も早く解決して日露間の交流を飛躍的に促進すべきではないか、北方領土に両国の国民が共生することは可能か、ステレオタイプから脱却したイメージを日露双方が形成すべきではないか、文化交流を進めることが相互理解の早道ではないか」(内田)に集約されるという。

船上セミナー
 28日10時、いよいよ私の出番。船上セミナー「函館に関わる日露交流史」の時間。前夜、夕食を挟んでロシア語通訳の鍋谷さんと綿密に打合せをしたつもりでも緊張が走りました。講義内容は「Ⅰ箱館・蝦夷地とロシア人の出会い、Ⅱ箱館開港とロシアとの交流、Ⅲ日露交流全盛期の函館と露領(北洋)漁業」の函館で日露交流が活発であった3つの時期に注目し、アイヌの役割・地図の交換・ロシア語学習・翻訳・ロシア語入門書作成・ニコライの日本研究・ロシア語版函館案内・ロシア語版函館新聞・露領漁業での亡命ロシア人や日本人通訳の活躍など、経済的・文化的には函館では日露両国民が協力関係にあった事実を具体的に紹介しました。正味1時間程の話はアッという間に終わってしまいましたが、嬉しことに終了後、ロシア側のバルカノフ・セルゲイ団長から「自分も歴史の教師であり、興味深く聞いた」との謝辞をいただきました。同セミナー資料は函館日ロ交流史研究会のHPの「函館から見た日露交流史」で見ることができます。そのほか、船上では文化交流も活発に行い、ロシア人参加者は茶道、折り紙、能、書道、剣道などを体験しました。

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船上セミナー

函館での交流
 29日はロシア極東総合国立大学函館校の学生の案内で散策したり、ロシア人墓地で慰霊祭を行いました。私は午後の函館市長への表敬に参加し、夜は西波止場に停泊中の「ルーシー号」の船上レセプションに出席しました。
 船上から函館港に下りるとき、上手な日本語で話しかけてきたイルクーツク国立言語大学2年のマリア・マリツェヴァさんは、日本の歴史に興味があるのだがイルクーツクには日本の歴史にかんする適当な日本語の本が無いというので、勤務校で使用している「日本史」の余っている過年度教科書1冊をプレゼントしたところ大変喜び、船上レセプションで返礼にイルクーツクの絵はがきとバッジをいただきました。彼女はこの回航事業から帰国して、「出発前には、日本の文化に触れる楽しみとともに、日本の学生とうまく会話できるか、共通点を見出すことができるか大変心配でした。しかし、私たちの間には異なる点より、一致する点がいかに多いかわかりました。今では、私たちはメールの交換をしており、今後ともこの世界でお互いを見失わないよう希望しています。......この航海の間、私はほとんど眠りませんでした。私たちにとって毎分、毎秒が貴重だったからです」と述べています。

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マリツェヴァさんに「日本史」教科書をプレゼント

"将来への提言"
 私は函館で一行と別れたが、学生たちは自らのイニシアティブで、その後の航海の途次においても学生同士で議論を継続し、最終寄港地である下田に到着した7月2日、日露学生による"将来への提言"を発表しました。内田ロシア交流室長は「(ロシア人青年は)日本に対しても固定観念を持っていません。青年間の交流が日露関係を動かす原動力となるかもしれない、という印象をもちました」と述べています。発表された"将来への提言"の中の「北方領土問題の理解を深めるため、この問題に関する共通認識を見出すことを目指します」の一文は、学生たちが船上で議論の末まとめた草案では「領土問題の解決に向け、共通認識を見出すことに務めます。」であった。この興味深い修正の経緯については、回航事業に同行した佐藤陽介『北海道新聞』記者による記事【次世代たちの提言】をぜひ読んでいただきたい。日露学生による"将来への提言"、『北海道新聞』の記事【次世代たちの提言】は本研究会のHPの「函館から見た日露交流史」に掲載されています。

終わりに
 短期間とはいえ日露の次世代を担う青年と生活を共にできたことは、私にとって当初の目的であった「研究視野を広げる」のみならず、日露交流全体のなかで奥行きの深い立場に立たされていたような気がしています。"将来への提言"をまとめ上げて、立派に使節団の役割を果たした日露青年の今後の活躍を大いに期待すると同時に、本研究会や終始お世話になった岩城さん、菅原さんをはじめ日露青年交流センターの皆様から日露交流史の研究をさらに深める契機を与えて頂いたことに改めて感謝申し上げます。

「会報」No.28 2006.5.1 2005年度第2回研究会報告要旨

→船上セミナー「函館に関わる日露交流史」の資料は、こちら(日露青年交流センターへのリンク)をクリックしてください。

むかし、「露探」という言葉があった ―函館の場合

2012年4月24日 Posted in 会報

奥武則

 昨年6月末、函館を訪れた。《「現場」を踏んでおかないと......》という気持ちだった。
 観光地・函館の「売り」は、函館山からの夜景とともに「文明開化」の言葉が似合うハイカラでノスタルジックな雰囲気だろう。
 1858年、日本はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結んだ。函館(当時の表記は「箱館」)は横浜、長崎とともに開港地となる。この結果、函館は幕末から明治初期にかけて、横浜、長崎とともに国際貿易港として西洋文明の取り入れ口となった。
 だが、同じ西洋文明の取り入れ口といっても函館には横浜や長崎と明らかに違う要素がある。ロシアとの深いつながりが、それだ。
 横浜や長崎に比べて函館はロシアに圧倒的に近い。蝦夷地と呼ばれた鎖国時代の北海道では、この地を支配していた松前藩がアイヌ人を通して事実上、大陸と交易をしていた。幕末・明治初期に日本の北の玄関となった函館において、横浜や長崎にみられないかたちで「ロシア」が大きな存在となったのは必然だった。私が《「現場」を踏んでおかないと......》と思った「現場」の意味も、この点にかかわる。
 そのころ、前年秋に手を初めた「露探」についての著作をようやく書き終えようとしていた。そこでは、1つの章を「函館」に割いた。原稿は本会会員である菅原繁昭氏・奥野進氏らからお送りいただいた資料などを使ってほぼ書きあげた。だが、「函館」に何のアイサツもしないまま、というのが気になっていたのである。

 日清戦争の後、当時の満州(中国東北部)をめぐって日本とロシアの対立が深まる。結局、1904年2月、日露戦争が火を噴く。ロシアとの緊張が深まる中、登場した言葉が「露探」である。
 「露西亜の軍事探偵」を短くして「露探」。つまりロシアのスパイということになろう。「露探」という言葉そのものの「起源」についてはいくぶん込み入った状況があり、ここではふれない。
 いずれにせよロシアとの戦争勃発の可能性が濃厚になった1903年秋以降、「露探」は当時唯一のマス・メディアだった新聞に登場し、多くの人々が「露探」として指弾された。「ロシアのスパイ」だから本来はロシア人ということになろうが、指弾された人々の大半は日本人だった。要するに、「敵国・露西亜」に内通する許しがたい輩、というわけだ。
 作家・社会運動家の木下尚江が《流行の毒語「露探」》と題した論説を、1904年3月4日の『毎日新聞』(『横浜毎日新聞』の後身。今の『毎日新聞』とのつながりはない)に書いている。冒頭の部分と結語を引く。
 《今日に当りて若し他を毀傷せんと欲する者は、呼ぶに「露探」を以てするに如くはなし》
 《「露探」あゝ、何等危険なる毒語の流行ぞや、吾人は敢て之を毒語と云ふ》
 「毒語」という表現は、当時、「露探」が単なる誹謗中傷を超えて放っただろうまがまがしさをよく伝えてくれる。函館は、その「毒語」が最も力を発揮した「現場」なのである。
 「文明開化」の時代、函館の「ロシアとの深いつながり」として、もっとも見えやすいものは、日本ハリストス正教会(ロシア正教会)とのかかわりだった。
 ギリシャ正教は10世紀末にロシアの地(当時はキエフ公国があった)で国教とされた。帝政ロシアのもと、ロシア正教会は大きく発展する。開港地となった函館では、1859年、上大工町(現在の元町)にロシア領事館が完成し、付属の聖堂が造られた。日本における最初のロシア正教会の教会である。
 初代の領事館付司祭が病気で帰国した後、1861年6月、ニコライ(1880年に主教、1906年に大主教)が赴任した。東京・神田駿河台のニコライ堂(東京ハリストス復活大聖堂)にその名を残す人である。彼はロシア正教会の日本での本格的布教を目指し、1862年1月、拠点を東京に移すが、後任の修道司祭アナトリイも函館で布教に励んだ。同年9月にはすでに信徒は100人を超えていたという。
 こうしたロシア正教会の存在とともに「露探」にかかわって函館が「現場」となった要因は、これも実は現在の観光地・函館の「売り」と重なる。
 「函館の夜景」は標高334メートルの函館山の山頂から見下ろす。眼下の市街地のさまざな光、その向こうに広がる函館湾の漆黒の闇。これが夜景の見事さを生む。だが、平和な時代、夜景スポットとして函館山を有名にしたこの立地は、戦争を想定した場合、要塞を築く絶好の条件だった。
 1898年から4年間かけて、この地には大小合わせて5カ所の砲台が築かれ、ロシアとの有事に備えることになった。これが函館要塞である。要塞がある地域は1899年、これも「露探」と深いかかわりがある軍機保護法と同時に公布された要塞地帯法によって特別の「保護地域」となる。たとえば、その第8条第1項は次のように規定する。
 《要塞司令官ハ要塞地帯内ニ於テ兵備ノ状況其ノ他地形等ヲ視察スル者ト認メタルトキハ之ヲ要塞地帯外ニ退去セシムルコトヲ得》
 日露開戦が必至の状況になっていた1904年2月8日、この条項が函館の地で発動された。10日の『函館新聞』が前日、函館市内に撒かれた号外を再録している
 《露探嫌疑者として其筋の密偵中のもの少なからざる由は兼ねて耳にする所なりしが果然一昨日午後六時より九時十五分までの間に左記十七名は二十四時間内に要塞地帯外に退去を命ぜられたり》。
 当時の新聞はいまのような段を越える見出しはないが、この記事の冒頭には「●売国嫌疑者」という大きな活字が付いている。
 「左記十七名」は、住所、職業つきで列記されている。最初に《元町五十四番地 正教会祭司 目時 金吾/同 伝道師 村木 彌八/同 伝道師 豊田 正一》が登場する。「祭司」は「司祭」の誤りだが、言うまでもなく3人ともロシア正教会函館教会で布教・伝道に当たっていた人たちだ。12番目には《元町五十四番地正教内 税関吏》として倉岡馬之助という人物も出てくる。この人物も正教会関係者だろう。退去命令が出た17人のうち、直接、正教会に関係する人物が4人いたことになる。目時ら3人は当時の正教会のスタッフのすべてではないかと思われる。函館教会は活動停止に陥ったにちがいない。
 さらに《露語通弁》の沢克己、竹中淳太、楠瀬菊水、《露領漁業者》の中瀨捨太郎といったロシアとのつながりが分かる職業の人物もいる。
 17人の退去をセンセーショナルに伝える号外が出た翌2月10日、ついに日露戦争が始まった。14日、函館区(当時は行政的に函館区)は周辺7村とともに戒厳令施行地域となる。この戒厳令は要塞区域を「臨戦地境」とするもので、その区域内での軍事に関係する地方事務および司法事務が要塞司令官の指揮下に入る。要塞司令官は集会の禁止や新聞雑誌の発行停止などについても大幅な権限を持つことになった。要するに、地域的に「軍政」が敷かれたと思えばいい。戒厳令は函館のほか、長崎、佐世保、対馬も対象となった。
 要塞地帯法に基づく退去命令はこの後、2月22日に第2弾があり、さらに日本人6人が退去させられたようだ。「軍政」の下、函館市民の緊張は一層高まっていただろう。「ロシア」に少しでもかかわりのある人やものへの反応もより敏感になっていったはずだ。そうした状況を背景に、この時期、『函館新聞』には「露探」の文字が頻出する。単に「露探疑者」にふれるだけではなく、「露探」とされた人々の私行などを取り上げ、道徳的に糾弾する論調が目立つ。《祖先伝来の日本民族たるj純血を失ふて露国の狗となり国家の秘密を売る人面獣心の亡者》(2月25日『函館新聞』)といった表現が、その典型である。
 最終的に退去命令が出された人数は画定できないが、新聞報道を通じて確認できるのは日本人24人とロシア人6人。実際にはもっと多かっただろう。だが、新聞の大仰な「告発」にもかかわらず、軍機保護法などで、罪を得たものは何と1人もいなかった。
 全国的にみると、この時期「露探」として軍機保護法違反で逮捕され、有罪となった人物もいないわけではない。だが、大半の人は函館のケースと同じように、具体的なスパイ行為が明らかになったわけでも何でもないのに「ロシア」との何らかのつながりなどから「露探」として指弾された。
 私としては、ここには「国民国家」における《非「国民」》排除」の構造が見たいと考える。むろん、メディアが、そこで大きな力を発揮した。刊行予定の拙著では函館のケースを含めて、こうした「露探」と国民意識のかかわりに光を当てたつもりである。
 日露戦争が終わってすでに1世紀余。「露探」は死語となったけれど、「流行の毒語」を生み出した構造は消滅したわけではない。

 昼間の晴天に安心していていたら、日が落ちるとともに函館山は霧に包まれ、結局夜景は見ることができなかった。しかし、その日午前、元町の丘を登って、青空には映える日本ハリストス正教会函館教会と出会うことができた。
 日露戦争期の建物は1907年に焼失し、現在の聖堂は1916年に再建された。尖塔と礼拝堂は緑色の屋根を持ち、アーチ型の装飾が施された白壁と美しく調和している。ちょうど「ガンガン寺」の愛称を生んだ鐘が鳴った。

「会報」No.28 2006.5.1 特別寄稿(その1)

博物館交流と日ロ交流展覧会 ―国立アルセニエフ博物館にて―

2012年4月24日 Posted in 会報

佐野幸治

 2002年7月にウラジオストク市沿海地方国立アルセニエフ博物館と市立函館博物館が姉妹提携を結び4年目となる2005年、函館空港発着ウラジオストク航空チャーター便による函館市訪問団と共に7月1日から5日間の日程でウラジオストク市を訪れた。
このたびの訪問は、国立アルセニエフ博物館において博物館交流事業「新しい函館そして交流の形」と題する展覧会を開催するためである。
両博物館は姉妹提携以来、博物館文化交流を中心として日ロ交流の歴史、とりわけウラジオストクと函館との関係について、1992年の両市の姉妹都市提携以来様々な交流が続いてきている中にあって、さらに両市及び両市民の交流について理解を深めるべく、2003年にウラジオストクにおいて、2004年には函館において相互に交流の歴史を伝える展覧会を開催してきたところである。
国立アルセニエフ博物館は、アムール地方地理学協会の博物館として1884年に創設され、主に民族学・考古学資料の収集を中心に始まっている。その後、「ウラジオストク国立州博物館」、「沿海地方郷土誌博物館」と改称され、1945年に探検家で学者であるウラジーミル・クラウディエビッチ・アルセニエフ(1872~1930)の名を冠した「アルセニエフ沿海地方郷土誌博物館」に、そして1985年に現在の名称となっている。正式名称は「国立文化機関 沿海地方国立アルセニエフ総合博物館」ある。
国立アルセニエフ博物館は極東シベリア地域において最も古い博物館として、また、ロシア極東地域における文化教育機関の拠点として活動し、職員数約200名、収蔵点数40万点を超える総合博物館である。
 現在の博物館本部は1906年に建てられた3階建ての建物で、路面電車が走るスヴェトランスカヤ通り(革命戦士広場・青年劇場方向、ゴーリキー劇場へも)とアレウツカヤ通り(シベリア鉄道出発点ウラジオストク駅方向、駅は博物館からほど近い)に面し、かつて日本の商店が並んでいた一角にあり、歴史的建造物として欧州的な佇まいが残されている。アレウツカヤ通りを挟んで向かい側には真っ白な沿海州政府の高層ビル、その横には革命戦士広場が広がり、そして目の前の港には多数の軍艦などが碇泊している。
博物館本部から反対側(裏手)のなだらかな坂を海の方向に歩いて15分ほどの所には、アルセニエフが住み最後を過ごしたという煉瓦造りで2階建ての家があり、そこは博物館分館の一つ「アルセニエフの家博物館」として公開され、写真・愛用したタイプライターや机などのほか調度品等の遺品の数々を見ることができる。そして、書斎の壁には大きな虎、「デルス・ウザラ」を感じ取ることも......。(アルセニエフの足跡を追い続けた「おれ にんげんたち ―デルスー・ウザラーはどこに―」の著者岡本武司は、この本でアルセニエフと共に「デルスー・ウザラー」を克明に描いている。岡本氏は元朝日新聞記者で、ウラジオストクの大学に留学し沿海州地方の先住民を研究、2002年7月に急逝、生前アルセニエフ博物館を一度ならず訪れている。この本は2004年7月京都市ナカニシヤ出版から刊行。)
また、ハバロフスク博物館長も歴任しているアルセニエフは、カムチャツカ調査隊として調査の際、1918年7月に来函し博物館を訪問していることも知られる。その後1926年にも日本を訪れている。
2005年はウラジオストク市創立145年、日露通好条約が調印されてから150周年の節目の年にあたり、文化交流事業など様々な記念事業が行われ、特に古都ウラジオストクでは、6月30日から7月6日まで記念行事の一環として「第4回ウラジオストク・ビエンナーレ―ビジュアル・アート・フェスティバル―」が開催された。この期間中、青年劇場、大学、展示センターや中央広場など市内各所において、ドラマや美術工芸展、コンサートなど多彩なプログラムが繰り広げられ、日本からも音楽、書道、民謡舞踊や各種の展覧会など多数の団体、個人が参加している。中でも展覧会など中心的な会場となった国立アルセニエフ博物館は多くの市民たちで賑わった。
今回の様々なビエンナーレ・プログラムの中で、市立函館博物館や函館日ロ交流史研究会などによる共同展示プログラムは、国立アルセニエフ博物館で開催の博物館プログラム「時代と間隔の交差点―ウラジオストク」展として位置付けされ、函館のほか、ハバロフスク、ブラゴヴェシェンスク、ウラジオストクの4つの博物館が参加、それぞれ展覧会を行った。
ウラジオストク・ビエンナーレは今回で4回目となるが、この様に一同に会したのは初めてだそうである。「時代と間隔の交差点......」だったのかも知れない。
今回のウラジオストク・ビエンナーレ博物館プログラムの函館の展覧会テーマは「新しい函館そして交流の形」と題した。それは、一つは合併して新しく函館市となった地域の文化などを紹介すること、そしてもう一つは、これまでの歴史資料に基づく交流の軌跡のほか、博物館はもとより様々な交流活動を紹介することにより、今後の交流や研究等に向け、より一層の活用資源となるのでは、とのことからこのようなテーマとした。
従って、展示内容は縄文遺跡をはじめとする地域文化、市立函館博物館に開設のウラジオストク・アルセニエフ博物館コーナーの紹介、函館の書物に見るロシアとの歴史交流軌跡、函館日ロ交流史研究会からの「函館にみるロシアの面影」を紹介した展示、姉妹都市交流や民間団体の交流、スポーツなど青少年交流など、そしてきらめく函館夜景をはじめ国際観光都市函館を紹介するポスターの掲示まで及んだ。そのほかに縄文紹介リーフレットや函館を紹介するロシア語入りのパンフレットなどをお持ち帰り用として会場に備えた。
展示にあたっては、前記した通り函館日ロ交流史研究会から多くの出品がなされこと、更に会員による展示作業等の協力を得た。
さて、7月3日午後に予定された博物館プログラムのオープニングに間に合わせるため、展示作業は2日朝から始めた。事前にそれぞれのコーナー割付は概ねあったが、実際の現地を見ての作業であり、パネル等展示資料を床いっぱいに並べ壁面との位置関係を見比べながらの作業となった。
作業は、私、函館日ロ交流史研究会会員のほか、国立アルセニエフ博物館バプツェヴァさん、ナターシャさんと通訳のヨーダさん(3人共女性)の協力で進められたが、時間がない中で特にポスターの掲示や国際交流関係のパネル等は函館日ロ交流史研究会の会員にお願いした。会場中央に配した2台の陳列ケースには書籍類、そして壁4面にはそれぞれ沢山の資料が並び、ボリューム感ある展示ができあがった。また博物館と違った視点での資料などバラエティーに富むものとなった。午後6時頃までには展示室内の後かたづけや清掃も済み無事作業を終えることができた。
7月3日午後2時15分、ウラジオストク会場で沢山の人たちが詰めかけてる中、地元男性歌手によるロシアならではの力強い歌声(ウラジボストカ......と聞こえた)でオープニングセレモニーが始まり、国立アルセニエフ博物館員から参加した各博物館が紹介された。参加の博物館は、私以外はすべて女性の博物館員である。そして、ウラジオストク展示会場から順にそれぞれの会場で代表者から展示などについてスピーチが行われ、観覧者も順に各会場を巡った。セレモニーの締めくくりは函館会場での表彰式、大勢が見守る中、各博物館に国立アルセニエフ博物館館長名の賞状が授与された。
函館へは《「新しい函館そして交流の形」展で第4回ウラジオストク・ビエンナーレに参加した市立函館博物館一同を表彰する。》と記された賞状が贈られた。
「一同」とは、これまでの交流が積み重ねられた、そして今回の展覧会が協働による成果としての「交流体」であったことを意味する。
 函館日ロ交流史研究会からの協力は、展覧会を通じて色々な出会いが更なる互いの理解と様々な交流を深める貴重な機会であったと考えており、今後の進展を願うものである。
函館日ロ交流史研究会の皆さんには、新ためてこの場を借りて感謝申し上げたい。
 函館に戻り、「荒野の7人」、「王様と私」や「十戒」などの有名映画俳優ユル・ブリンナー(ユル・ブリネル)がウラジオストク出身であると聞いたことを思いだした。

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アルセニエフ博物館、函館会場でのレセプションの様子と賞状

「会報」No.28 2006.5.1 特別寄稿(その2)

函館のロシアホテル

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今回は1860年代初頭から1879年までの約20年にわたって函館に存在した「ロシアホテル」についての報告したい。
 なおこのホテルの名称については、香港のDaily Press社から発行された1870年版の住所氏名録、いわゆる「ディレクトリー」に、「russian hotel」と表示されている。ホテルはもっと前から存在していたが、「ディレクトリー」上ではこの年が初出で、1879年版まで継続して登録されていた。同時代の日本語資料では、今まで見た限りでは商人ピョートルの家とかピョートル屋敷というような表現しかないが、「ディレクトリー」に記載のある「ロシアホテル」としたい。ホテルというと立派なものを想像するが、史料からは食堂兼宿屋ぐらいのものだったと推測される。
 このロシアホテルについては、「函館市史」通説編第2巻(1990年)にも書いたことがある。その時は、断片的な資料しかなく、十分な記述ができなかったが、数年前、ロシアの作家ヴィターリー・グザーノフ氏と左近毅氏が、ホテルの経営者であるピョートル・アレクセーエフについてかなり詳しい経歴を紹介されたので、正直驚いた。お陰でようやくストーリーが見えたというところだ。
 両氏の論考は、グザーノフ氏は『ロシアのサムライ』という本のなかで、「ロシアの仲買い」と題して、1章をさいている。私が読んだのは左近毅氏の翻訳版。また左近氏は『異郷に生きる』の中で「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」と題して、グザーノフ氏の本をさらに肉付けされた形で発表している。
 ただ私にとって残念だったのは、この二つの本には典拠となった資料名が示されてないものがあるため、出典確認が困難な点だ。その意味では、この報告にも課題があるが、ともあれ、本論に入りたい。話は日本の開港当時に遡る。その頃日本に住んでいたロシア人といえば、函館における領事団、すなわち、外務省と海軍省に属する人たち、それに領事館附属教会の修道司祭だったが、このホテル経営者アレクセーエフとその妻及び従業員は、一応は、日本における最初の民間ロシア人であるといえる。一応と断ったのは、その前歴に領事団との関わりがあるからで、まずはグザーノフ・左近両氏の本からアレクセーエフという人物、そして彼が函館にたどりつくまでを紹介したい。
 ピョートル・アレクセーエフは、トゥヴェリ県のイワノフスコエという村で、1832年6月に生まれた。ここは貴族コルニーロフ家の世襲領地で、アレクセーエフの身分は農奴だった。クリミヤ戦争が起きると主人のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・コルニーロフは黒海艦隊所属フリゲート艦の砲兵下士官として出征することになり、アレクセーエフも雑役水夫として同行することになったのだ。彼らはこの戦争で大きな功績をうち立てた。戦後、コルニーロフは海軍中尉となって北ドゥヴィナ川のソロンバラ造船所に派遣され、ここで新造されたクリッパー「ジギット号」に乗り込むことになった。もちろんアレクセーエフも一緒である。
 「ジギット」号は太平洋艦隊に配備され、函館のロシア領事館の庸船として、ロシア暦1858年10月24日に、領事一行を乗せて、初めて函館港に姿をみせた。すなわちアレクセーエフも領事団同様、1858年には函館に来ていたことになる。生年からするとこの時は26歳だった。ちなみに当初ジギット号の艦長はカズナコフという人だったが、1860年の時点ではコルニーロフが艦長になっている。
 もう少し2人の本から引用を続けたい。1861年2月にロシアでは領主農民の解放が実施され、コルニーロフ家の農奴アレクセーエフは、函館でその知らせを受けたと書かれている。しかし、グザーノフ氏は年月をはっきりと記していないので、いつのことだったかはわからない。左近氏は1862年初頭のことと書いている。両氏とも太平洋艦隊が函館に集結した時にその知らせが届き、ポポフ海軍少将とゴシケーヴィチ領事が各軍艦を訪れて乗員に祝意を告げたと記述していて、自由の身となったのは、アレクセーエフだけではなく、それぞれの軍艦には同じ境遇の人たちがいたことがわかる。
 その中で多分アレクセーエフだけが国に帰らず、函館に居留することになった。どういう経緯だったのか、ここからは主に日本にある資料に基づき私の考えを述べたい。
 函館居留の理由は二つあって、一つは函館で結婚相手を見つけたこと、もう一つは函館に商売ができる環境や条件があったことだ。
 まず、妻となった女性について言及したい。彼女の名前はソフィヤ・アブラモヴナというが、この名前は横浜外国人墓地にあるピョートル・アレクセーエフの墓に妻として刻まれている(アレクセーエフについて詳しく言及する前にお墓の話というのも恐縮だが、彼は1872年10月に東京で亡くなった。詳しくはあとで触れたい)。
 そのほか、ソフィヤ・アブラーモヴナに言及している人は、ニコライ神父とニコライ・マトヴェーエフがいる。
 ニコライ神父は1882年2月20日の日記に「ソフィヤ・アブラモヴナが1858年から日本にいて、私はまだ若い頃の彼女に会った」と記している(この日記については最後にもう一度ふれるが、非常に貴重な情報が書かれている)。
 1858年といえばニコライ自身はまだ来日おらず、領事一行が来日した年だ。当時の日本を考えると、常識的に言えばソフィヤ自身が単独で来日したとは考えらない。その年に函館に来たのは領事一行と、軍艦だけのはずで、軍艦には乗っていなかっただろうから、領事とともに来日したとしか考えられない。
 ロシア領事が来た時の箱館奉行の記録、「村垣淡路守公務日記」(『大日本古文書』幕末外国関係文書附録之六)の安政5年10月23日の項に、在留ロシア人というメモ書きがあり、そこに「下女2人」という表現がみえる。私は今のところピョートルの結婚相手は、この下女、すなわち領事のメイドだったのではないかと思っている。
 下女に関しての記録はほとんどないが、青森県の三戸町立郷土資料館に珍しい資料「安政七年庚申歳 魯西亜人通行之節諸取扱手續并見聞之書」がある(詳しくは、清水恵「安政七年のロシア領事奥州街道通行に関する三つの史料」『地域史研究 はこだて』第19号を参照)。1860年、領事一家と医師の妻が江戸に行った帰り、奥州街道を通って函館に帰るときに宿泊した三戸本陣の記録だ。この記録の中に一行に随行していたメイドの姿が描かれている。ソフィヤかどうかはわからないが、当時のメイドの様子が伝わってくる貴重なものだ。絵の脇には「年16、7才位」で「丈5尺位」とあるので、身長およそ150センチとかなり小柄な女性のようだ。
 仮に彼女がソフィヤだとしたら、ピョートルとの年齢差は10才ぐらいだったことになる。

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「安政七年庚申歳 魯西亜人通行之節諸取扱手續并見聞之書」(三戸町立民俗資料館)に描かれた「下女」

 次にこの2人がいつ結婚したのかという点を考えてみたい。当然1858年以降ということになるが、文久四元治元子年「異船諸書付」(東京大学史料編纂所蔵)には、「子年二月」(西暦でいえば1864年3月頃)における居留ロシア人調査という報告(「各国外国人居留人数取調書」)があり、新築島住居...(このあと述べるとおり外国人居留地)商人ペヨトル、すなわちアレクセーエフには妻と子どもが1人いると記録されている。子供がいるぐらいだから、1863年にはあるいはもっと以前に、結婚していたのではないかと考えられる。
 話が横道にそれるが、1864年に子どもが1人というのは、よく考えると驚くべきことで、流れからいえば函館で生まれたと考えるのが自然である。そうすると、これまで初めて日本で生まれたといわれていた、ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフはいったいどうなるのか、と頭をよぎる。マトヴェーエフは准医師の息子として1865年に生まれたと宣教師ニコライの日記にあるが、その前の1864年には同じペトローヴィチあるいはペトローヴナの父称を持つ赤ん坊が存在していたわけで、何となくすっきりしない。そしてこの赤ん坊はニコライが洗礼をさずけたと考えるのが自然だ。しかも、ピョートル・アレクセーエフは、先ほど触れたように1872年に亡くなっていて、幼くして父親が死んだという点でもマトヴェーエフの境遇に似ている。
 話を戻そう。同じ居留ロシア人調査によると、ゴシケーヴィチ一家の家族構成は母と倅、他に女1人となっている。妻がいないが、彼女は亡くなったことがわかっているので、この女はメイドをさすと考えられる。前は2人いたのが1人になっている。もちろん1人は帰国したのかも知れないが、アレクセーエフの妻になったとも考えられ、ソフィヤ、メイド説と矛盾がない。
 参考までに、グザーノフ氏はピョートルの妻をニコラエフスクの十等文官で功労貴族ワシーリー・チェルノーフの娘、ソフィヤ・ワシーリエヴナ・チェルノーヴァで、2人は1867年に結婚したとしている。この記述は日本側の資料に基づきこれまで述べてきたこととは整合性がとれない。左近氏もグザーノフ氏と同じ女性を妻としているが、結婚成立に至る経緯はわからないとしている。今のところこの食い違いを説明できないが、そのような説があるとだけ紹介したい。
 ホテル経営者の素性がわかったところで、次にロシアホテルの開業について触れたい。
 位置は現在のJR函館駅から海岸伝いに西側に進んだところで、当時の居留地、現在の住所は大町11番地で相馬倉庫が建っている。もともとは、江戸時代末期に埋め立てられた土地だった。開港場の函館には、各国の領事や商人がやってきたが、函館山のふもとの狭い地域に発達した街だけに、外国人居留地として専用スペースを確保することは不可能だった。
 そこで箱館奉行はとりあえず、海岸を埋め立てて少しばかりの「居留地」を作ることにして、当時の運上所(税関)の隣りに、およそ2000坪の埋立地を作り、10区画に分割して、各国の商人たちに貸し渡すことにした。この居留地は当時、大町築島あるいは大町築出地と呼ばれていた。
 こうして1861年春には埋立が完了し、当初は第6番に、ロシア領事ゴシケーヴィチ名義の土地が確保された。表口12.5メートル、奥行38.7メートル、面積は約480平方メートル(145坪)。決して大きな敷地ではないが、後日ここにロシアホテルが建てられた。
 「地税請取書」(地崎文書、札幌学院大学蔵)という書類によれば、この土地の地税は、1861年4月から半年分を、ゴシケーヴィチが納めているが、それ以降1864年10月まで3年分の地税を、1865年になってピョートルが納めたとある。すなわちこの敷地は1861年10月以降は、名義上、ゴシケーヴィチからピョートルに変更になっていたことになる。この頃にピョートルが農奴の身分から解放されたのかもしれない。
 ホテルの建設・開業年ははっきりしないが、1864年には間違いなくできていたことがわかる。ソフィヤと一緒に暮らすために家を建てたとすると、早ければ1862年、遅くても63年には、出来ていたと思われる。自宅兼ホテルだから、ホテルといっても空き室を提供する程度だったのかも知れない。

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「居留地」分割図(『函館市史』通説編2、文久元年「大町築出地外国人江貸渡規則書」より作成)

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「函館戦争図」、右は部分拡大図に見るロシアホテル(市立函館博物館蔵)

 なおグザーノフ氏によれば、コルニーロフ艦長は、1863年末にバルチック艦隊への転属となり、函館を去るにあたって、函館に残りたいというアレクセーエフの身元保証のために領事ともども尽力したそうだ。結局函館領事館付きの人間ということで海外長期滞在証なるものを発行してもらったという。またゴシケーヴィチとニコライ神父が彼の庇護者であったとも書いている。
 この頃の様子を示す日本側の史料として、前出の文久四元治元子年「異船諸書付」に「日本人正助差出候別紙書付ニ偽り記し有之候ニ付差出候別紙相添御届申上候書付」という史料があるので、紹介しておきたい。
 内容はアレクセーエフが自分の家兼ホテルで使っていた日本人召使正助の賃金に関わるトラブルを領事に訴えた文書で、もとはロシア語の史料だ。志賀浦太郎が日本語に訳したものが残っているが、アレクセーエフの肩書きが「お台場にまかりありそうろう コルニロフ君江附属人」となっている。私が知る限り、コルニーロフとピョートルの関係を示す唯一の日本側文書だ。また文書の末尾に、アレクセーエフは読み書きができないので、エゴル・イワノフが聞き書きした旨の注意書きがあるのも、非常に興味深い。
 次にアレクセーエフの仕事についてだが、ホテル業に加えてグザーノフ氏や左近氏が「仲買人」と書いているように、「ロシア海軍御用達商人」という側面があったようだ。石炭や食糧品の買い付けに始まり、その他公然とあるいは内密で様々な用事を引き受けていたのでは、と推測される。
 実際、当時このような人が必要とされており、函館で商売人として残る環境や条件があったというのはまさにこの点だ。
 様々な用事の一端を示す一つの書簡が残されているので紹介したい。1865年の「英国官吏来翰録」(北海道立文書館蔵)という簿冊に収録された文書だ。同じ大町居留地に住む欧米人が連名で、イギリス領事宛に「ロシアホテル」の不都合を訴えている文書で、それによると、まず大町居留地規則ではここにホテルや食堂、娯楽施設などを建ててはいけないことになっているのに、それに違反していること、さらにロシア軍艦が入港するとこのホテルはpublic resortとなり、街の遊女が大勢やってきて大変な醜態をさらすので居留地の住人は困惑させられると訴えている。
 それから、1885年にドイツで出版された雑誌"Allgemeine Konservative Monatsschrift fur das christliche Deutschland,1885.5"に、1866年11月に来日して1871年まで滞在していたドイツ人R.ゲルトナーという人の日記(翻訳の概要がA.H.バウマン「R.ゲルトナーの日記」『地域史研究 はこだて』第25号に紹介されている)が掲載されている。彼は函館に滞在し、アレクセーエフと妻のことをこう記している。
 「函館のホテルの主人はアレクセフ・ピンターといて、まさにロシア人そのもので静かで働き者の妻がいる。主人は客と同じくらい大酒を飲んだが、働き者の妻がきちんと家計を切り回していたので、経営はうまくいっていた。ピンターの妻は牛を数頭飼っていて、新鮮な牛乳を1リットルあたり1.5マルクで居留外国人に売っていたし、養豚も行い豚肉を売っていい商売になっていた。」
 わずか数行の文章だが、酒飲みの亭主とよく働く寡黙な妻のイメージが伝わってくる。ソフィヤが牛や豚を飼っていたのは、狭い居留地ではなく別に土地を借りていたことがわかっている。1867年から、現在の海岸町付近に民間同士の契約で土地約3500坪を借りていることから、ここがその牧場だったと思わる(国文学研究資料館史料館蔵「明治7年函館港外国人エ地所相対貸渡書類」)。ちなみに当時このあたりは亀田と呼ばれる地域で、函館ではなかった。この牧場で飼育している家畜以外にも、周辺の日本人から牛などを購入していたこともわかっている。ホテルのレストランや居留外国人に供するほか、多くは軍艦に積み込んだものと思われる。
 1868年4月8日、外国人居留地のデュースの家から火が出て、居留地はほぼ焼けてしまう。ロシアホテルも被害を免れなかったようで、この年の秋にアレクセーエフの家と蔵と厩の建設を巡って日本人と裁判沙汰になっている書類が残されている。また火事のあと、6番に加えて隣接した8番の地所も新たに賃借したことが土地契約関係の書類からわかっている(この契約書原本は、未見だが、北海道大学の北方資料室にあるようだ。[編注―北海道大学図書館北方資料データベースによると「魯西亜商人アレクシスへ地所所持の証書](和文原本・露文原本)(開拓使外国人関係書簡目録)、もしくは「魯西亜商人アレクセイ地所保有証書(仮題)(日本北辺関係旧記目録)カ])。
 火事の後、日本は江戸から明治へと体制が大きく変化し、明治2年函館は、戊辰戦争の最後の戦闘の地となるが、その箱館戦争を描いた絵図の中にロシアホテルらしき建物も描かれているので、紹介したい(下図参照)。ロシアの旗がたっているのでホテルとわかる。さらに山側にもロシアの旗が見える建物があり、正教会の建物も見え、教会の屋根はタマネギ型のクーポルがはっきりと描かれている。
 さて、箱館戦争も終わって暫くした頃、いよいよニコライ神父が東京での宣教活動のため、上京することになるが、アレクセーエフも同行したことが、グザーノフ氏によって明らかにされた。私はこれに関する資料を全く持っていないので、グザーノフ氏から引用した。アレクセーエフは1871年中に函館を離れたと書いている。ニコライ自身が東京に着いたのは、翌年の3月11日なので、先遣隊として早く出ていたものと思われる。
 ニコライは色々な雑事をアレクセーエフに手伝ってもらったと書いているが、駿河台に土地を購入する際にもアレクセーエフが資金的協力をしたようにほのめかしている。函館時代からニコライとアレクセーエフの間には、親しい関係があったようだが、ニコライの生まれたベリョーザ村とアレクセーエフの故郷トゥヴェリは、ロシアの地図でみると、近いところにあり、異国でお互いに親近感のようなものを感じていたのでは、と想像させられる。
 しかしこの年の10月26日に風邪がもとでアレクセーエフは亡くなってしまう。享年40歳。遺体はニコライにより横浜の外国人墓地に埋葬されたという(アレクセーエフの墓碑銘は今ではかなり読みにくくなっている)。
 さて、函館には子供をかかえて突然未亡人になったソフィヤがいた。さすがに働きものだけあって、その後も立派にホテルを切り盛りした様子がうかがえる。居留地も牧場も夫名義の土地証書をソフィヤ名義にし、開拓使宛のアメリカ産の牛を輸入したいと書いた書類も残されている。夫が亡くなったあとも意欲満々といったかんがある。
 ここで従業員についてもふれたい。前掲の「ディレクトリー」にはアシスタントとしてパラウチンという名前が見える。ロシア人と思われるが、どういう人かは不明である。「ディレクトリー」では、1879年版までその名前があり、ピョートル亡き後もずっと働いていたことがわかっている。もしかするとアレクセーエフ同様もと農奴で自由になった軍艦乗員だったのかも知れないし、領事館の下男として働いていた人かも知れない。
 日本人従業員については、下表をみると、コックや牛飼い、馬てい、下男など数名いたことがわかる。マキシモヴィチの植物採集で助手をつとめた須川長之助や、日本人初の正教受洗者の一人川股驚礼の妻の名前もみえる。ホテルの食堂ではロシア料理かどうかわからないが、とにかく洋食が供されたことと思うが、従業員リストからわかるように少なくとも1868年以降日本人コックが3人採用されていた。彼らはそういった料理のレシピを修得しただろうし、ここでパンも焼いてたのでその技術も身につけたものと思われる。函館におけるロシア料理の元祖は、このロシアホテルといってもよいだろう。

ロシアホテル関係日本人スタッフ

1876年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
コック ヒキヤ チュウスケ
41
辰年[1868]11.24 秋田県湊新城町、農民 親分、カワサキチョオジロオ
牛飼い コメヤ ソオキチ
46
丑年[1877]9.15 秋田県船越村、農民 親分、トリガタ キジベイ
馬丁 ミカミ トラキチ
30
戌年[1874]10.16 青森県紙漉村、農民 サイド シンペイ
下男 藤田幸八
18
戌[1874]7.27 函館地蔵町15番地、農民
コック助手 須川長之助
36
明治9年[1876]4.20 岩手県郡山下松本村、農民 親分、クドオ ゲンザイ、恵比須町
1878年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
下男 イガラシ トオゾウ
45
明治5年9月 函館開拓使平民 親分、ナシ
門番 イシダ ニスケ
54
明治5年9月 函館開拓使平民 親分、ナシ
コック オノ タイチ
41
明治4年12月 函館開拓使平民 親分、ナシ
ボーイ クラオカ ウマノスケ
46
明治4年12月 函館開拓使平民 親分、ナシ
洗濯婦 川股篤礼の妻
34
明治11年6月 陸前国水沢県金成村商人 函館平民、沢辺琢磨
1879年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
コック トガシ ヨオスケ
48
明治5年3月 山形県酒田下新町、平民
馬丁 ヨネヤ ソオキチ
49
明治3年3月 秋田県男鹿船越村、平民 函館平民、ムラタ コオキチ
下男 藤田 幸八
21
明治8年6月 函館、開拓使平民 ナシ

「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文85通」より翻訳(函館市中央図書館所蔵)

 ホテル経営以外の記録としては、ソフィヤはアナトーリイ司祭が管理する宣教団の女学校で教えていたいうことが1878年のニコライの報告書にある。この学校では一般科目のほか裁縫や編み物が教えられていたというので、その先生だったのかもしれない。 
 また1874年に函館のロシア語学校の教師サルトフが亡くなった時に、彼女が解剖同意書にサインをしたり、遺品の整理をしたことなどが記録されている。
 その後ホテルは1879年夏に廃業となったようで、明治12(1879)年8月22日の「函館新聞」の広告によれば家具の競売が8月25日におこなわれている。廃業の理由はロシア海軍の基地がニコラエフスクからウラジオストクに移って、函館に軍艦が入らなくなったからだ、と書いているものがある。また函館で成功した東洋堂というパン屋は、外国軍艦への仕込みも一手に引き受けるようになり、ロシア人のパンを駆逐したと言っている。
 1880年にはロシアホテルの土地は函館在留のポーターというイギリス人に正式に譲渡されており、土地契約書からもロシアホテルの文字は消えた。
 なお、明治15(1882)年7月29日の「函館新聞」には、藤田幸八という元従業員が、ホテル廃業から数年後にビリヤード場を開いた広告がある。彼は主がいなくなったホテル内で少しの間パン屋を開いたこともあったが、その後別の場所にパン屋を開き、さらに明治15年にこの広告どおり玉突き、すなわちビリヤード場を営業している。同日の新聞本文に「玉撞き開業」と題して事情を述べた記事があるので、要約すると、「玉突きは以前にピョートルが営業していたことがあったが、その後、しばらく函館にはなかった。ある人がその頃の器械一式を購入してしまい込んでいたが、今度それを柴田幸八に貸し出すことになった。それは彼が玉突きをよく心得ていて洋語(英語なのかロシア語なのか)もできるからだ」というものだ。 
 ほかの従業員も何らかのかたちで、ホテルで身につけた技術や知識を活かした人がいるのではないかと思われるが、今のところ不詳である。
 一方ソフィヤはどうしたのかといえば、前に紹介したニコライの日記に彼女のことが出ている。当会会員の倉田さんに翻訳をしてもらったところ、彼女は東京の公使館にいたらしく、スツルーヴェ公使が1881年にアメリカに転勤となった時に彼女も子守として一緒に日本を去ることになり、ニコライに別れのあいさつに来たことが記され、ニコライが彼女が若かりし頃に会って、白髪となった彼女と別れるという言葉が記されていた。
 気になるのはソフィヤとピョートルの間に生まれた子どもだが、そのことに言及している資料は未見で、ソフィヤと一緒にいたのかどうか消息は不明である。
 話の締めくくりにまた、マトヴェーエフが出てくるのも因縁深いが、彼は1910年にウラジオストクで発行された「極東の星」という雑誌に「日本におけるロシア人召使」という文章を書いている。これは檜山真一氏が見付けられた資料で『地域史研究はこだて』第18号に翻訳が掲載されている。
 マトヴェーエフはソフィアの写真まで手に入れているが、この文章を読み直してみると、彼は何を伝えたくてこのような文章を書いたのかと、改めて感じる。このことについてはまた別な機会に譲るとして、今回はこれで報告を終わりたい。

ロシアホテル小史

年次
出来事
1858 安政5 ロシア領事一行が来函する(下女が2人同行)(『大日本古文書』幕末外国関係文書 付録之六)
ロシア海軍のジギット号が領事館の用船として来函(ヴィターリー・グザーノフ著・左近毅訳『ロシアのサムライ』 2001年、左近毅「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」『異郷に生きる』成文社 2001年 63-75頁)
(コルニーロフとその農奴だった水夫のピョートル・アレクセーエフ乗船)
1861 文久元 この年2月、ロシアで農奴解放(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
1862 文久2 (アレクセーエフ、自由の身となり、退役する)
1863 文久3 この年末、コルニーロフ艦長は太平洋艦隊勤務から、バルチック艦隊勤務となる(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
アレクセーエフは函館に残り、大町居留地でロシアホテル経営及び仲買人となる(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
この頃にソフィア・アブラーモヴナと結婚する(領事館付きの下女か)
1864 元治元 アレクセーエフ夫妻に子供が生まれている(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
1865 慶応元 居留地の外国人から苦情あり(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
「ロシアホテルに遊女たちがきて、ロシア士官たちと大騒ぎ」
1867 慶応3 アレクセーエフ、海岸町に3450坪の土地を借用する(国文学研究資料館史料館「明治7年函館港外国人エ地所相対貸渡書類」)
牛を飼い市内の外国人に牛乳を宅配、豚も飼って豚肉販売(「ゲルトナーの日記」(Allgemeine Konservative Monatsschrift fur das christliche Deutschland))
1868 明治元 居留地デュースの家から出火、居留地はほとんど類焼(『杉浦梅潭日記』)
居留地のアレクセーエフ邸宅建設で、日本人大工とトラブル(地崎文書「明治二年検印録」)
1872 明治5 アレクセーエフ、ニコライ司祭の東京進出に同行する(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
約8か月後、アレクセーエフ、東京で没する(お墓は横浜外人墓地)(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
夫の没後も妻ソフィアが日本人スタッフを雇いホテル経営を続ける(函館市中央図書館所蔵「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文八五通」)
1874 明治7 ソフィア、ホテル経営のかたわら正教女学校で教える(中村健之介『明治の日本ハリストス正教会』)
函館ロシア語学校の教師サルトフ死去につき、ソフィア、遺品の引き取りをするなど後始末(函館市中央図書館所蔵「御雇魯学校教師サルトフ変死一件書類」)
1879 明治12 ホテルを廃業し、家具が競売になる(明治12年8月22日「函館新聞」)
ソフィアは横浜の公使館へ(公使ストルーヴェの子守か)(中村健之介ほか編『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学出版会 2000年)
1881 明治14 ストルーヴェの転勤にともない、ソフィアも日本を去る(アメリカへ)(前掲『宣教師ニコライの日記抄』)
?
ソフィア、ロシアのどこかの養老院で亡くなる(檜山真一「日本におけるロシア人召使』『地域史研究はこだて』18)

*この報告は、故清水恵さんが2003年6月に第42回来日ロシア人研究会で報告されたもので、当日の配付資料をもとに、奥野が出典など一部補記しました。

「会報」No.28 2006.5.1

平成18年度 函館市の対ロシア国際交流事業紹介

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館市は、ロシアとは、ウラジオストク市(1992年7月28日)、ユジノサハリンスク市(1997年9月27日)の2つの都市と姉妹都市提携を結んでおり、市代表団の相互派遣、教育・文化・スポーツ・経済など、様々な分野で交流を継続的に行ってきています。2002年には、市立函館博物館とウラジオストク市のアルセニエフ博物館が姉妹博物館提携を結びました(博物館交流の詳細は本号掲載佐野幸治氏報告を参照)。
 平成18年度の姉妹都市交流事業は、ウラジオストク市とは、青少年交流団の相互派遣、市職員の研修受け入れを、また、ユジノサハリンスク市とは、公式訪問団の受け入れ、青少年交流団の相互派遣、市職員の研修派遣、サハリン経済訪問団の派遣などが予定されています。
 姉妹都市交流事業以外にも、2006年は在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所が開所して3周年を迎えるため、事務所が開所した9月には、「ロシア(ソ連)映画週間」を開催します。会場は函館市中央図書館の視聴覚ホール(150名収容)ですが、視聴覚ホール横では、写真パネル展「函館とロシア(ソ連)の交流 1956年~2006」を同時開催する予定です。
 さらに、2007年3月末には、サンクトペテルブルグの国立図書館所蔵の写真・版画・書籍を展示する巡回展「日露修好150周年記念 ロマノフ王朝と近代日本」を北海道立函館美術館と共催で開催します(会場:北海道立函館美術館)。
 これ以外にも、今年はガガーリン宇宙飛行士が人類初の宇宙飛行を行って45年(1961年4月12日)に当たるため、来る5月18日(木)から30日(火)に、函館市中央図書館1Fホールにおいて写真展「~人類初の宇宙飛行から45年~ガガーリンとソ連(ロシア)の宇宙開発」を開催します(水曜日は図書館の休館日です)。日本で初公開となるものを含め、APN通信社撮影・在札幌ロシア連邦総領事館提供による約60点の貴重な写真を展示します。
 以上、今年は文化的な行事の比重が高くなっています。函館市外の道内や青森在住の当会会員の皆さんもこの機会に函館を訪れ、ロシアを知り、体験する機会としてみてはいかがでしょうか。

(当会会員・函館市企画部国際課主査) 

「会報」No.28 2006.5.1

訂正します

2012年4月24日 Posted in 会報

○昨年7月に当会会員有志がウラジオストク市建都145周年記念訪問団に参加し、「ウラジオストク訪問記 2005.7.1~7.5」を発刊したところですが、その中の「旧日本人街散策マップ」(8頁)掲載の「旧杉浦商店」の写真について、ウラジオストクの日本人街の地図の作製者の一人であり、関西のハルビン・ウラジオストクを語る会の会員杉山公子さんから誤りについてご指摘がありました。掲載した写真は杉浦商店ではなく、正しくはこの建物の右隣の建物(次頁写真)でした(杉山公子「ペキンスカヤの"日本人ビル"」『セーヴェル』第18号を参照)。ご指摘いただきましたことにお礼を申し上げるとともに、ここに訂正いたします。

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杉浦商店は、看板が掛かっている2階建ての建物でした

「会報」No.28 2006.5.1

コーカサス情勢 ―民族紛争とカスピ海地域のエネルギー資源を中心に―

2012年4月24日 Posted in 会報

廣瀬徹也

1.コーカサス地方
 黒海とカスピ海に挟まれ 約44万平方キロメートル、5,000m級の山がつらなる 大コーカサス(カフカス山脈)で北と南に分かれる。18世紀末から徐々にロシア帝国に征服された。現在山脈の北はロシア連邦に属し、ダゲスタン、チェチェン、イングーシ、北オセチア・アラニア、カバルディノ・バルカル、カラチャエヴォ・チェルケス、アデイゲヤの7つの共和国とスタブロポリ地方、クラスノダル地方、ロストフ州があり、山脈の南(ザ・カフカス)にアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの三つの独立国がある。
 温暖な気候にめぐまれた農業地帯で、長寿(平均寿命グルジアで72.6歳、アゼルバジャンで64.8歳)の秘訣は温暖な気候と豊富な野菜、果物とヨーグルト。ワイン、ブランデー、絨毯とキャビアは世界的に有名。鉱物資源とすばらしい観光資源もあり。優秀な人材があり、かつ人件費も安い。治安さえ安定すればと、経済的に大きく発展する可能性があると考えられる。

なぜ今コーカサスが注目されるか
(1)欧亜、北のロシア、南のイスラム圏に接する地政学的重要性
 西アジア情勢がいまだ不安定な今、その裏庭にあたるコーカサス地域の安定はユーラシア地域全体の平和と安定に不可欠である。
(2)国際的パワーゲーム
 この地域において政治的及び経済的(特に下記石油、天然ガスをめぐって)観点から、ロシア、米を筆頭に地域大国たる、トルコ、イランも加わり、さらに国際情勢を利用して自国の安全保障を確保し、国内少数民族による独立運動やイスラム原理主義過激派の封じ込め、隣国との紛争の有利な解決を図らんとする域内諸国の思惑もからんで「第二のグレートゲーム」とも呼ばれる勢力争いがおこなわれている。
(3)カスピ海周辺地域のエネルギー資源(石油、天然ガス)の存在

2.民族紛争
 北、南とも言語系統、宗教・宗派を異にする複雑な民族構成で、多彩な文化の宝庫であるが、一方その複雑な民族構成が様々な民族紛争・領土紛争の源となっている。

〈民族構成〉
・カフカス諸語系......この地域の先住民族。
グルジア人:キリスト教徒(グルジア正教)。
チェチェン人 、イングーシ人 、アバール人、 チェルケス人 、アディゲ人 、アブハーズ 人等:ほとんどがスンニー派イスラム教徒。
・インド・ヨーロッパ語族......アルメニア人:キリスト教徒(アルメニア 教会:単性論)、クルド人:スンニー派、オセット人:スキタイの末裔と言われキリスト教徒が多い。ロシア人などスラヴ系:キリスト教徒(正教)
・アルタイ語族......アゼルバイジャン人:シーア派、その他はスンニー派イスラム教徒

1)チェチェン 北コーカサスでは歴史上最も反抗していた勇猛な山岳民族がムスリムのチェチェン人達。独ソ戦争中イングーシ人とともにカザフスタンへ強制移住させられたこともある。完全独立派が武闘しており、外国のイスラム過激派組織の関与もあると見られている。石油利権もからんでいる(原油産出・パイプライン通過)。

チェチェン紛争の経緯とチェチェン武装勢力が起こした疑いのあるテロ事件等:
○1991年11月、ドゥダーエフ空軍少将(後初代大統領)らチェチェン民族会議がソ連邦からの独立を宣言。
○1994年12月―1996年8月(エリツィン時代)、第一次チェチェン戦争、ドゥダーエフ戦死、70万人のチェチェンの人口のうち、8万人から10万人が死亡したと言われる。
○ロシア国内の厭戦気分の高まりでロシア安全保障会議のアレクサンドル・レベジ書記と対ロシア交渉派のアスラン・マスハドフ総参謀長「ハサブユルト和平合意」成立。独立問題は2001年まで先送り。
○1997年2月、欧州安全保障機構(OSCE)などの監視のもと、初のチェチェン共和国大統領/議会選挙が行われ、マスハドフが当選。その後誘拐などの犯罪の横行。
○1999年8月7日、チェチェンの野戦司令官バサーエフとハッターブがダゲスタンに侵攻。8月31日から、モスクワなどの都市では大規模なアパート爆破事件が続発し、9月23日、ロシア政府、再びチェチェンへの空爆を再開始(「第二次チェチェン戦争」)。その間プーチンが大統領に就任。ロシア側はマスハドフ政権に対抗して、宗教指導者であるカディロフ行政長官を首班とする臨時行政府を設置。
○2001年10月、グルジア領内に拠点を置くゲラエフ指揮官率いる武装勢力の一派が、カバルディノ・バルカル共和国あるいはカラチャエボ・チェルケス共和国への侵攻を企図している動きが見られ、両共和国の国境警備が強化された。
○2002年1月、スタブロポリ地方のゴリュガェスカヤ村に対し、自動小銃等により武装したグループが攻撃。
○2002年10月、チェチェン武装勢力による劇場占拠事件。
○2003年7月、モスクワ郊外トゥシノ飛行場で自爆テロ事件、12月モスクワのナショナル・ホテル前で自爆テロ事件。
○2004年2月6日 モスクワ市内地下鉄車内での爆弾テロ事件。
○同年5月9日、正常化プロセスに中心的な役割を果たしてきたカディロフ・チェチェン大統領爆弾テロにより殺害。
○同年6月21日から22日、イングーシ共和国において300~500人の武装兵が同共和国治安機関を襲撃、88人が犠牲。
○同年8月24日、深夜にモスクワから飛び立った旅客機2機が墜落し、乗客・乗員全員が死亡。
○同年8月31日、モスクワ市北部地下鉄駅周辺での爆弾テロ事件、9月1日北オセチア共和国の学校占拠事件 数百人死傷。

 自己の主張を貫くためには自らの命も子供を犠牲にすることもいとわないテロリストと強硬策一本槍のプーチン政権、チェチェン問題は解決への出口が見えない。
 ロシア人女性記者ポリトコフスカヤの著書「チェチェン―やめられない戦争」は、チェチェン戦争の実体をあますところなく描いている。
 今のところ諸外国政府はテロとの戦い支持の観点から厳しいプーチン政権批判は出来ない状況。
 日本外務省はチェチェン、イングーシ、ダゲスタン、北オセチア・アラニア、カバルディノ・バルカル、カラチャエボ・チェルケス各共和国及びスタブロポリ地方に渡航延期勧告を出している。
 日本政府は、ロシア連邦北コーカサス地方における避難民に対し、平成13年世界食糧計画(WFP)を通じ、食糧援助(小麦粉、1億5,000万円)を行っている。民間でも「チェチェンの子どもを支援する会」という日本のNGOがバクーでチェチェン難民学校に民族楽器と衣裳、文房具を贈るなど支援活動を行っている。

2)南コーカサスの民族紛争と国際関係
イ)アゼルバイジャンとアルメニア間のナゴルノ・カラバフ地域の帰属をめぐる紛争
 ナゴルノ・カラバフ自治州はソ連期を通じてアゼルバイジャンに属してきたが、同地の70%を占めるアルメニア系住民が、同地のアルメニアへの移管を求めて、ペレストロイカ末期から運動を起こし、それが双方の民族虐殺に発展した。ソ連崩壊後はアルメニア、アゼルバイジャン間の戦争となり、多くの犠牲者を出した。1994年の停戦合意以後は小規模の停戦違反を除き、停戦が維持されているが、アゼルバイジャンは国土の20%を占領されたままで、早期の解決が求められているものの、両国を仲介しているOSCEミンスクグループも成果を出せておらず、事態の打開は難しそうである。
ロ)グルジア国内
 アブハジア自治共和国がグルジアより分離独立を求める動き、南オセチア地方がロシア領北オセチアとの統合を求める動きなどがある。
 グルジアはロシアとは従来より上記アブハジア、南オセチア紛争でロシアが独立派を支援しているとして関係がぎくしゃくしていた。逆にチェチェン武装勢力がロシア領から国境を超えてグルジアのパンキシ渓谷に逃げ込むため、ロシアはグルジア政府にその取り締まりを求めてきたが、グルジアが取り締まらないことを理由として、グルジアへの締め付けを強めている。
 他方、目下建設中のカスピ海のアゼルバイジャンからグルジアを通りトルコの地中海岸に出る石油パイプラインを護りたい米国はグルジア軍の防衛能力向上のために訓練、装備供与中心の軍事援助を進めている。
 極めて単純化すればアゼルバイジャン、グルジアは親欧米・親トルコ、これに対しアルメニアは親露・親イランである。
 三国いずれもこれら紛争で生じた数十万の難民、国内避難民をかかえている。
 日本外務省はいくつかの地域に同じく渡航延期勧告を出している。

3.カスピ海周辺地域の石油・天然ガス
 「第二の北海油田」と言われ、沿岸5ヵ国(ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、イラン)だけでなく、米国やトルコが政治的及び経済的観点より大きな関心を示してきた。開発には日本企業も参加しており、中国もなんとか食い込もうと懸命である。
 カスピ海の法的地位の問題やパイプライン・ルートの問題、更にはインフラの未整備などから同地域の開発は必ずしも順調には進んでいないが、9.11後、米露協調ムードが高まるにつれ、開発が活性化する可能性も生じてきている。エネルギー供給源の多様化、中東依存度の低減等の観点より、同地域周辺のエネルギー開発の進展は、わが国のエネルギー安全保障にとっても重要な意味を有している。
(注)カスピ海の法的地位の問題
 自国の沖合いの資源は各国が独占的権利を有するとの立場のアゼルバイジャン、カザフスタン、ロシアと5ヵ国の共同開発すなわち20%の権益獲得を強く主張するイランの対立。

4.南コーカサスの政治変動
 1991年末のソ連崩壊で三国は独立を果たしたものの、独立後数年は内政不安と内乱が続いた。その後大統領による権威主義体制の下で一応安定してきたものの政治や官僚機構の腐敗が激しく、経済の停滞と深刻な失業問題があり。昨年来政治変動あり。
1)アゼルバイジャン:2003年10月の大統領選挙で権威主義者としてならしたヘイダル・アリエフ大統領の息子イルハム・アリエフが選出され、旧ソ連初の「権力世襲」が起こった(12月にはヘイダル・アリエフが死去)。
2)グルジア:2003年11月に無血クーデター(バラの革命)が起こり、同じく権威主義体制を強めていたエドゥアルド・シェワルナゼが失脚。2004年1月に実施された大統領選挙で政変の中心人物であったサーカシビリが圧倒的支持を得て当選。

5.日本政府の「対シルクロード地域外交」
 このような中で日本政府は「対シルクロード地域外交」の旗印の下、様々なODA、難民支援を行なっており、いまや日本はトップドナーの一つになった。〝政治的野心のない真の友情〟と感謝されている。
 「対シルクロード地域外交」は次の三つの方向性を持っている。すなわち、
(1)信頼と相互理解の強化のための政治対話
(2)繁栄に協力するための経済協力や資源開発協力
(3)核不拡散や民主化、安定化による平和のための協力

(資料)
本年6月外務省欧州局新独立国家室(現中央アジア・コーカサス室)作成

地域エネルギー情勢
(1)概観
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(2)域内の主要石油・天然ガス・プロジェクト
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第3回研究会、北方民族資料館にて

「会報」No.27 2004.10.8 2004年度第3回研究会報告要旨

補遺―1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦「アレウト号」の遭難をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今年3月に発表した拙文「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」は、以下の一連の事件を取り扱ったものであった。

(1)1877(明治10)年11月、ニコラエフスクからウラジオストクに航海中のアレウト号、暴風のため流され瀬棚沖において座礁する。死傷者はなく、62名全員が救出される。
(2)同年12月、アレウト号乗員送還のため、ウラジオストクよりアブレク号来る。62名中49名を同号に乗艦させ、残り13名は座礁したアレウト号および搬出物看守の目的で瀬棚に残す。しかし、この収容作業中、今度はアブレク号の13名が暴風のため本船に戻れなくなる。結局、アレウト号の看守役13名と、本船に戻れなくなったアブレク号収容隊の13名、計26名が瀬棚に残留する。アブレク号の13名はその後間もなく函館に移動。アレウト号の13名は瀬棚にて越冬。
(3)1878(明治11)年、4月、再び送還船来る。艦名はエルマーク号。函館でアブレク号の13名を乗船させて後、瀬棚沖に投錨。アレウト号の13名を収容しようと、本船から大型カッターで上陸。全員を乗せて本船に戻る途中に転覆。12名の死者を出す。

 その際、わたしが用いた資料は以下の4点であった。

(1)救助されたアレウト号仕官が開拓使及県令に宛てた手紙
(2)開拓使がアレウト号の瀬棚沖漂着、救援について報告した公文書
(3)ソ連国防省海軍本部が瀬棚における水夫埋葬について作成した報告書
(4)後日アレウト号を引上げた函館在住ジョン・ウイルの回想録
 さて、この一連の事件真相解明の難しさは、「3隻のロシア軍艦が事件の渦中にあること」と「上述4点の資料間の記述に齟齬が多いこと」にある。わたしは執筆段階で、さまざまな可能性の示唆を試みたものの、「...この遭難事件に関してはまだ不明な点が多く、今後の研究の進展が待たれる...」と結ぶよりなかった。死亡した12人も不詳であった。
 ところが、最近、瀬棚町を訪れた知人がカメラに収めてきた「アレウト号慰霊碑」を見てわたしはあっけにとられた。12名の死者は不詳どころか、慰霊碑の下部には9人の姓名がロシア語とカタカナで併記され、「外3名不詳」と刻まれているではないか。しかも、9名の内訳は、アレウト号乗組員6名、エルマク号3名となっているではないか。「12名の死者の中には、カッター船を漕いでアレウト号残留者を迎えにいったエルマーク号の船員も含まれていたのではないか」という、執筆時のわたしの仮説は、仮説でも何でもなく、すでに周知の事実だったのである。

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瀬棚町のアレウト号慰霊碑

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1972年、アレウト号慰霊碑建立時の「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」と町長(当時)の声明文を刻んだ銘版

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1988年、新たに加えられた「遭難者名碑」
 
 それにしても、執筆時に1972年建立のこの記念碑を自分の目で確認せず、また、瀬棚町が所蔵する関係資料も未見であったことが悔やまれてならない。昨年、わたしは瀬棚町役場に電話で取材を行なったのだが、そのとき得た回答は「12名の死者は不詳、関連書類は喪失」というものであった。このときの瀬棚町役場の対応を恨むつもりはない。今後の調査・執筆にこのような過誤のないよう、今回の失策を肝に銘じる所存である。

 さて、アレウト号に関するこれまでのわたしの研究の経緯を簡単に説明して、今回、あらためて瀬棚町役場に問い合わせてみたところ、以下のことが判明した。

(1)アレウト号慰霊碑建立の1972(昭和47)年当時は、「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」の銘版と、慰霊碑建立規成会代表として当時の町長の名が署名された声明版だけだった。
(2)しかし、1988(昭和63)年になって、新たに死者9名(外3名不詳)の名を刻んだ「遭難者名碑」が設置された。これは、ソ連邦地理学協会沿海州支部学術書記(当時)ア・ヒサムトジーノフによる町長宛嘆願によるものである。ヒサムトジーノフは嘆願書の中で、死者9名の姓名を明らかにしている。

 このことは、わたしが使用した先述の4資料の外に、新たな関係資料が極東ロシア史の分野で精力的に活動するヒサムトジーノフ氏によってロシア側で発見されたことを暗示している。アレウト号にまつわる一連の事件の真相解明は、そう遠くない未来に果たされるかもしれない。わたし自身であれ、他の研究者であれ、その真相に一歩ずつ近づくのは誠にスリリングな経験であろう。

*この補遺を記すにあたり、慰霊碑の写真を提供くださった当会会員の桜庭氏と、ヒサムトジーノフの嘆願書の存在を調べてくださった瀬棚町役場総務町民課の加賀谷さんに厚くお礼申し上げます。また、本編を執筆する際には、北海道立文書館の宮崎美恵子さんに多大なご協力をいただきました。ここにあらためて記してお礼申しあげます。

「会報」No.27 2004.10.8

失われた墓碑銘 ―函館のロシア人墓地

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 先般、当会世話人の一人である清水恵さんから、市立函館図書館蔵の「墓地関係書類 函館正教會」という史料をみせていただいた。表題通り、函館ハリストス正教会の墓地に関わる様々な書類の写しを集めたものであるが、そのなかに昭和24年3月28日付けで函館ハリストス正教会から大蔵省管理局長宛に提出された「連合国人墓地調」という書類が含まれている。これには1859年のG.ポウリツエフから1944年のK.ズヴェーレフまでの45名にのぼるロシア人埋葬者の氏名、男女別、死亡年月日などが記載されている。
 これまでにロシア人墓地については、函館出身の民族学研究者である馬場脩が1基ずつ丹念に調査しており、調査結果は『函館外人墓地』(昭和50年、図書裡会)という労作にまとめられている(馬場脩の人となりは、清水恵「覚書・モイセイ馬場脩の生涯―北方民族研究に捧げた人生―」『地域史研究はこだて』第31号所収、を参照されたい)。ところが清水さんが両者を比較してみたところ、「連合国人墓地調」に記載されているが、馬場脩の調査に欠落している者が12名(表参照)もいることに気づいたという。しかも1911年から1928年までと特定の時期に限られている。

表 墓碑が確認されないロシア人埋葬者一覧

氏名 性別 死亡年月日
1 シメオン・シソツエフ 1911.07.28
2 ニコライ・アントノウイチ・キム 1914.09.09
3 グリゴリイ・ストロユーク 1914.10.20
4 エフイミヤ・ホフローワ 1915.07.27
5 エラセイ・セーデイユ 1916.10.17
6 ウラジーミル・オリソフ 1919.11.10
7 アンナ・ジエルトビナ 1919.11.10
8 ワシリイ・コートフ 1919.11.20
9 フエオドル・ワーロフ 1920.09.24
10 セラフイーマ・ユーロワ 1922.10.21
11 イワン・コビヤコーフ 1926.10.22
12 サーラ・グリゴーリエワ 1928.03.13
「墓地関係書類 函館正教会」(市立函館図書館蔵)より作成

 馬場脩の調査に漏れたということは、いうまでもなくロシア人墓地に彼らの墓碑がなかったためである。彼らはどのような人々であったのか、埋葬された時期を考えれば、亡命ロシア人も含まれている可能性もある。はたまた漁業関係者もいることであろう。あるいはまた、どのような状況で亡くなった人々なのか、そうしたことを知りたい。それを確認するために図書館に所蔵されている地元紙を調べてみることにした。対象者全てについて調査をし終えていないが、二、三の該当例を見つけることができたので、とりあえず、ここに紹介しておく。
No.3:大正3年10月21日付け「函館毎日新聞」
 大正3(1914)年10月20日にカムチャツカから入港中のロシア義勇艦隊汽船ニジニノブコロド号で来港していた漁夫カルホール(30歳)が、仲浜町税関構内沿岸で溺死体で発見された。
 人名表記が異なるが、状況的に同一人物と思われる。
No.4:大正4年7月27日付け「函館新聞」
 大正4(1915)年7月26日にカムチャツカから入港したロシア汽船エニセー号に乗船していた23歳くらいの露国美人が同日(船内で)死亡、函館入港後に警察医の検視を受け、死因は肺結核と判明、死体は塩漬けとしてウラジオストクに「赴くべし」とある。
 死亡日に1日のずれと遺体をウラジオストクに送る予定とあるが、実際は函館で埋葬されたと思われる。
No.9:大正8年9月26日付け「函館毎日新聞」、同年9月25日付け「函館新聞」
 大正8(1919)年9月24日に函館停泊中のロシア汽船(義勇艦隊)トウヴェリ号船客の漁夫フエオドル・ワーロフ(48歳)は西カムチャツカのアストラハン漁場から来函していたが、船内において墜落死した。
 これは記事と調書とでは1年違うが、明らかに調書が誤記したものである。
その他:大正11年12月3日付け「函館毎日新聞」
 大正11(1922)年12月1日に函館停泊中のロシア義勇艦隊汽船シーシャン号乗船の「白軍の幼児」が感冒のため船内で死亡、白軍家族30名の上陸が許され、会葬を行う。
 この幼児の記録は調書にないが、この幼児もロシア人墓地に埋葬されたと思われる。
現在、ロシア人墓地に行くと、現存している墓碑はいずれも石造であるが、墓碑の確認できない人々の墓碑は木柱であったと考えられる(厨川勇「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」『地域史研究はこだて』第20号所収)。木柱ゆえに時間の経過とともに朽ちてしまい、そのまま忘れられてしまったものであろう。なお、「墓地関係書類」中に昭和25年調査の「墓地設置調査」と題した書類があり、これには埋葬者が約380体とある。つまり、表に掲載した12名以外にも、その名も知られていない数多くのロシア人がこの地で永遠の眠りについていることになる。今後、さらに新聞史料を渉猟し、また当地のハリストス正教会にも関連史料が所蔵されている可能性も高いと思われるので、機会をみておたずねしようと思っている。新しい情報を得たら、稿を改めて報告したい。

「会報」No.27 2004.10.8

函館とウラジオストクとの新たな交流 ―文化・学術交流、はじめの一歩―

2012年4月24日 Posted in 会報

長谷部一弘

新たな博物館交流の一歩
 平成14年7月28日、市立函館博物館と沿海地方国立アルセニエフ博物館との間において博物館姉妹提携がなされた。これは、函館市市制80周年記念、函館・ウラジオストク両市の姉妹都市提携10周年記念事業の一環として行われたものであったが、とりわけ北東アジアの両地域における博物館を媒体とした新たな文化交流のかたちをめざす博物館交流のはじめの一歩となった。
 そもそもこの提携にいたる経緯を思い起こせば、平成13年2月に「日本の中のロシアを求めて」を取材するために来函したアルセニエフ博物館の研究員スヴェトラーナ・ルスナク女史(「会報」No.20に寄稿)がロシアとゆかりの深い函館の地に在る函館博物館との博物館交流を提案したことがきっかけであったと記憶している。地域に根ざした博物館をめざす函館博物館は、北東アジアを視野に入れた幅広い博物館活動の可能性を探るものとしてそれを受け入れたわけである。
 調印書には、博物館交流の具体的な手だてとして、刊行物等の情報の交換、専門分野における共同研究、共同企画による展覧会、シンポジウム等の開催が盛り込まれ、両博物館が地域の中で先ず出来るところから交流を図っていくことで合意した。函館市青少年研修センターを会場に開催されたガリーナ・アレクシュク館長と金山教育長による調印式に引き続き、ルスナク女史による「函館―ウラジオストク:歴史的関係と協力の展望」と題した記念講演では、およそ150名の参集者を前に函館とウラジオストクにおけるこれまでの歴史的事実と今後の可能性を篤く述べられた。
 そしてこの博物館姉妹提携の調印により、早速交流事業の第1回として、平成15年にウラジオストク市において開催される第3回ウラジオストク・ビジュアル芸術ビエンナーレ参加の博物館プログラムノミネートの展覧会「函館とウラジオストク―歴史的関係と協力の経験」を企画、開催することとなった。

博物館姉妹提携1周年記念事業(ウラジオストクで函館を紹介する)
 平成15年7月1日から6日の1週間、アルセニエフ博物館を会場に多くのウラジオストク市民を集めて博物館姉妹提携1周年記念展覧会「函館とウラジオストク―歴史的関係と協力の経験」が盛大に開催された。「函館、ロシアの架け橋、その人々」、「函館、ウラジオストクとの出会い」、「目で見る今日の函館」で構成された展示内容は、函館から持参したジュラルミン製ケース2箱分の写真パネル、年表、書籍、観光ポスター、ビデオ映像、CD等の限られた展示資料で満たされた。期間中の新聞報道等のインタビューでは、博物館交流の意義や展覧会の趣旨などにおよんで初めて紹介された函館とウラジオストクとの歴史的関係や函館の街の素顔などに大きな興味と関心が寄せられた。また、この展覧会開催期間中には、沿海地方に在る地方博物館を一堂に会した「博物館円卓会議」が設けられ、文化の相互理解発展に向けた博物館、ギャラリーの役割や博物館と地域の関わりについて活発な討議がなされた。特別ゲストとして迎えられた佐野館長と私は、日本、函館における博物館と地域の関わりについての実態や可能性などを紹介し、共有した情報交換の場を持つことが出来た。ちょうど、平成15年は、「ロシアにおける日本文化フェステバル 2003」にあたり、ロシア各地では多岐にわたる日本文化に触れる機会が設けられ、滞在期間中の沿海地方、日本などの周辺地域を取り込んだウラジオストク市あげての芸術、文化の祭典ビエンナーレでも書道などの多彩な日本文化のプログラムが組まれる中で、博物館交流事業がその一つとして参加できたことも大きな交流の成果であった。私が観た祭典ビエンナーレに沸いた1週間のウラジオストク市民と博物館との関わりは、博物館そのものが地域と市民に当たり前に向き合い、市民も生活の一部として当たり前に博物館を行き来していることであった。

平成16年度函館、ウラジオストク博物館交流事業(函館でウラジオストクを紹介する)
 博物館姉妹提携1周年記念事業「函館とウラジオストク」展の成果をもとに、平成16年7月5日から7月11日の1週間、函館市民芸術ホールにおいて展覧会「ウラジオストクと函館」が開催され、函館市民にこれまでのウラジオストク市と函館市との歴史的、文化的交流やウラジオストク市の歴史、文化、姉妹博物館アルセニエフ博物館の歴史などが紹介された。展覧会は、事前の企画準備から展示に至るまでイライダ・バプツェヴァ主任研究員、ライダ・クリメンコ写真所蔵専門員をスタッフとしたアルセニエフ博物館と函館博物館との共同企画・展示によるものであった。
 展示に関わる写真パネル、年表、解説パネル、キャプションなどは、双方による資料のリストアップ、事実関係の確認、翻訳、画像処理、校正にいたるまで長距離のFAX通信などで詳細に協議、調整され、両博物館スタッフのほかに、双方の交流に関係する多くの機関や人々の協力によって遂行されたと聞く。このたびの展覧会の開催のためにバプツェヴァ、クリメンコ両女史のアルセニエフ博物館スタッフに加え、ウラジオストク日本センター職員であるオリガ・スマローコヴァ女史が翻訳や通訳の労をとって来函されたことも博物館交流事業の意義を覗かせている。
 なお、今回の展示にあたっては前々日の7月3日から、函館博物館、アルセニエフ博物館の職員らと共に、当会の会員もボランティアで展示作業に加わり、実際に汗を流しながら交流を深めることができた(展示内容の一部は当会のホームページで公開します)。
 さらに、来函した3人は、展覧会開催期間中、渡島、檜山地方の博物館や教育委員会でつくる道南ブロック博物館等施設連絡協議会の研修会や市民を対象とした展示解説セミナーでの講師参加、ゴローニン幽閉の地松前探訪、そして当函館日ロ交流史研究会の例会でも、特別ゲストとしてアルセニエフ博物館のお話をしていただくなど多岐にわたり交流を深めた。
 滞在期間中、ウラジオストクでは、アルセニエフ博物館が博物館姉妹提携の記念日にあたる7月28日より3ヶ月にわたり路面電車を使った移動博物館、つまり博物館電車が昼夜市街を駆けめぐるイベントを展開する計画を準備中であることを聞いた。車内には、昨年アルセニエフ博物館で使用した展覧会の写真パネルや年表、解説パネル、観光ポスターなどが掲げられ、函館とウラジオストクの歴史的、文化的関わりがウラジオストク市民はじめ大勢の観光客の眼に触れられるようだ。走る博物館電車の展示内容にも増して、路面電車という仕掛け装置によって博物館交流の意味やその可能性を地域市民に積極的に訴えていこうとする姿勢に共感するとともに博物館交流の成果が着実にウラジオストクで浸透しているように感じた。
 博物館電車のホットな話題を聞いた時ふと、昨年の展覧会終了後、函館博物館で用意した120枚程の展示パネル類をすべてアルセニエフ博物館に寄贈した際、その好意に応えるかのようにアレクシュク館長が、いただいた貴重な写真パネル類を沿海州地方に在るすべての地方博物館の巡回展などによって多くの地域の人々にも是非紹介したいと篤く語っていたことを思い出した。

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芸術ホールでの展示作業

「会報」No.26 2004.9.10 2004年度第1回研究会報告要旨

アルセニエフ博物館について

2012年4月24日 Posted in 会報

アルセニエフ博物館主任研究員 イライダ・バプツェヴァ

 国立沿海地方アルセニエフ総合博物館(以下、アルセニエフ博物館とする)は極東・シベリア地域における最も古い博物館である。現在に至るまでに名称は4回変更された。

1884年 アムール地方地理学協会の博物館として創設された。
1890年 この年一般に入館を開放。19世紀末からF.F.ブッセ、V.P.マルガリートフ、L.Ja.シテルンベルグ、M.I.ヤンコフスキー、V.K.アルセニエフ等の著名な学者の協力により、主に民族学・考古学のコレクションを行ってきた。
1900年 全世界パリ展示会でアルセニエフ博物館の民族学コレクションは銅メダルを2つ授与された。
1925年 ソビエト政府によりアムール地方地理学協会の博物館は、独立した機関となり、名称もウラジオストク国立州博物館に変わった。
1938年 ロシア極東地域で沿海州がハバロフスク地方と沿海地方に分けられた。
1939年 上記の理由でウラジオストク国立州博物館は改組され、沿海地方郷土誌博物館となった。
1945年 ソビエト政府令により沿海地方郷土誌博物館に有名な探検家V.K.アルセニエフの名前を冠した。
1985年 アルセニエフ沿海地方郷土誌博物館が、現在の名称である国立沿海地方アルセニエフ総合博物館となった。

Ⅱ 概要
・国立文化機関 国立アルセニエフ沿海地方総合博物館 ウラジオストク市スヴェトランスカヤ通り20番
・1884年創立。ただし、1890年9月30日に一般の入館者に開放したため、市民にはこの日が本博物館の創立日とみなされている。
・職員数は198名、うち、学芸員・研究者66名
・ウラジオストクの本部のほか、ダリネレーチェンスク市歴史博物館、パルチザンスク市歴史博物館、レソザヴォツク市歴史博物館、アルセニエフ市歴史博物館、チュグエフカ村にある作家A.ファデーエフ文学記念館の5つの支部を沿海地方に有する国立総合博物館。
・ウラジオストクの本部は、街の中央にある本部(スヴェトランスカヤ通り20番)の他、国際展示センター(ピヨートル大帝通り6番)、アルセニエフの家博物館(アルセニエフ通り7番―B)、スハーノフの家博物館(スハーノフ通り9番)の全部で4つの建物を管理し、総面積は2778平方メートルに及ぶ。
・収蔵コレクションは、ロシア極東地域で最大で、自然・歴史・考古学・民俗学・文化関係の40万点以上に上る。毎年、6000点以上の新蔵品が博物館に入ってくる。

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研究会の様子

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アルセニエフ博物館

「会報」No.26 2004.9.10 2004年度第2回研究会報告要旨

最後の「低い緑の家」 ―サファイロフの晩年―

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 大正末期から昭和初期にかけて、湯川には一群の白系ロシア人が居住した。現在の私の住まいからそう遠くないこの地域に、かつて「ロシア人集落」があったことは、私もこれまで何度か耳にしている。そして、「あまり裕福ではなかった」、「自家製のジャムや酢漬け、パンを売っていた」などと聞くたびに、市内西部地区のロシア人とは別様の暮らしぶりが想像されていた。この集落の特異さは、斉藤茂吉が昭和7年の来函時に詠んだ歌からも伝わってくる。
 「ロシアびと ひとかたまりに 住みつきて 街のかげなる 家等はひくし」(7首のうちの1首)
 このようなおり、私は「湯の川風景」という一枚の絵の存在を昭和8年4月21日の「函館新聞」(以下、「函新」)で知った。画家の名は宮島求、草耀社なる美術グループに所属する市内の教員であった。新聞に紹介された絵は白黒で寸法も縮小されているが、そこには確かに湯川のロシア人集落が描かれている。市立函館博物館に尋ねてみたが、原作品の存在は確認できなかった。集落の様子は掲載記事中に以下のように述べられている。

「鎮守の社、湯の倉神社の裏道を登る。由緒ありげな老木の根もとに腰を下し初夏の赫熱を緑陰に遁れる。丁度ここで左右より登る来る二坂は合して更に登りとなる。人の世からおき忘れた山道、轍の跡と馬糞と朽葉の坂道は大きくうねって続いている。坂道に添ふてこれからは露人村を形成している。コバルト色のペンキを塗った素人造りの低い家屋、而も不規則な並べ方、無雑作に壁の所々を破った気まぐれな西洋窓、道南に珍しい題材である。
 夏の夕べ彼等グループは各自愛妻携帯で庭先―道路ばたの草のいきれの中にテーブルを出して持寄り晩餐会に喜々として赤高い鼻を働かしている。時々三脚へ寄り来り
  エカキサン、オモシロイデスカ
など愛想を振りまいている。
  アレ、オクサン、サキ、コドモオカシ、ゴッソサン
 今坂を上がって来た鍬を担いだ女との会話。中々ここは国際的で彼我認識充分である。」(旧漢字、旧仮名使い以外は原文のまま)

 記事中で「コバルト色」と言われているのは、恐らく「明るい緑色」のことだろう。相馬久子(元函館市長登坂良作氏長女)さんの記憶によれば、湯川のロシア人の家は緑であったという。また、彼女がモスクワからサンクトペテルブルクまで旅行したおりに車窓から見た家々は「まさに湯川のロシア人の家と同じ」だったそうである。人里離れた雑木林の坂道に沿った家々。故郷の家を模したのだろう、壁はみな明るい緑一色に塗りこめられている。しかし、素人普請のせいか、梁は高く掲げられることなく、屋根はみな一様に低い。でたらめな寸法でくりぬかれた窓が、雑然とした集落からさらに統一感を奪っている。想像の中の湯川ロシア人集落は、憐れで、奇妙で、しかし、どこか牧歌的である。
 第二次世界大戦後、この集落の住人はクラフツォフ、サファイロフの2家族だけとなる。そして、クラフツォフが東京へ移ってからは、とうとうサファイロフだけになる。サファイロフについては田尻聡子さんの「百万本のバラの花」(『道南女性史研究』第9号、1992年)に詳しいが、私はここで、最後の「低い緑の家」の住人の晩年を中心に、二、三の新しい知見を記しておこうと思う。

 サファイロフの来函時期は(田尻さんは不明としているが)、大正7年であったらしい。昭和3年8月5日の「函新」にはサファイロフが同年8月1日付けで内務大臣から日本への帰化を認められた旨の報告があるが、そこには彼が大正7年9月に来函したと言及されている。ペトログラードからリューリ商会の会計係として極東出張中に革命となり、妻子は本国に残したまま亡命を決意したという(昭和33年8月11日「北海道新聞」(以下、「道新」)。
 サファイロフの生業は、日本帰化当時はリューリ商会事務員であったが、リューリ商会の撤退後から第二次世界大戦までは化粧品の行商もした。しかし、この後は定職もなく、戦前、戦中と湯川の自宅で栽培した果実からジャムを作って生計を立てていた。戦後砂糖の配給が中断され、ジャム作りがままならなくなったとき、サファイロフは昭和23年2月15日付けで田中北海道知事に砂糖の配給を求める嘆願書を出している(「函新」昭和23年3月1日)。これに対して、同知事は彼の高齢と困窮に同情し、砂糖の代わりに水あめ10缶を配給した。この「ジャム美談」には後日談もあって、この2年後、田中知事の来函時に、サファイロフは水あめ配給の謝礼を兼ねて知事の宿泊先を表敬訪問している(「函新」昭和25年1月11日)。
 サファイロフは市井のロシア語教師としても長いキャリアを持っていた。私の手元にある新聞記事では、彼が出した最も古い「露語教授」の広告は「函新」の大正13年9月22日で、この年には暮れの12月28日にも同じく個人教授の広告が出ている。翌年、サファイロフは元陸軍露語通訳寺西準一が創立した「函館露語講習会」にも講師として名を連ねている(「函新」大正14年9月15日)。
 サファイロフは風変わりな老人だったのかもしれない。たとえば、道を歩いていて人とすれちがう時、絶対に自分から脇に譲ることはなかったという。次のようなエピソードもある。戦後、彼は愛犬の急死を悼み、犬を剥製に出した。ところが、できあがった剥製に生前の美しい毛並みは面影もなく、「これでは剥製にした甲斐がない」として、剥製業者の菊地某に5万円の損害賠償を求めて告訴している(「道新」昭和25年7月26日)。いずれにせよ、サファイロフは常にちょっとした有名人であった。
 日本人の妻を得て、日本に帰化したサファイロフは、社会主義国となった祖国に帰る意志を持たなかった。ところが、1957年、モスクワに住んでいた長女から「お父さん、帰ってきませんか」という写真入りの手紙が届く。肉親の情が思想的相反に優ったのだろう。この手紙を受け取って以来、故国に帰り娘と逢うことが彼の悲願となる(「道新」昭和33年8月11日)。彼の帰国実現のために奔走したのが、日ソ友好協会函館支部理事長の原忠雄と棒二森屋の渡辺熊四郎社長であるが、高齢となっても行商して歩く、その「尾羽打枯らした」様子をみかねて、渡辺社長が長く彼を援助したことはあまり知られていない。
 原氏は昭和33年訪ソ親善団の一員としてモスクワを訪れ、ついにサファイロフの長女、ミーリッツァ・ドシール・コーヴィチさんに会うことができた。帰国後、彼女から預かった写真をサファイロフに手渡し、彼女の近況を報告した(「道新」昭和33年10月3日)。
 サファイロフの望郷の念はこれを機にいよいよ募り、また、それに共感した周囲の人々が彼の訪ソ実現に向けてさらに熱心に運動していたとき、不幸が襲う。昭和34年8月19日、サファイロフは行商中(カール・レーモンのハム、ソーセージ等を売っていたらしい)にトラックと接触し、左大腿骨骨折の重傷を負うのである。妻の入院などで、既に決定していた訪ソ予定が遅れていた矢先のことであった(「道新」昭和34年8月20日)。結局、この交通事故がもとで、サファイロフは翌昭和35年1月、訪ソを果たすことなく、94歳で函館に骨を埋めた(田尻さんは、サファイロフが永住帰国を望んだので、帰国が阻まれたと記しているが、上述の新聞によればあくまで交通事故が原因だったらしい)。
 彼の死から3年後、昭和38年9月、彼の教え子でもあった市内中学教師の山田誠二さんが、日ソ協会の使節団の一員としてソ連を訪問することになった(「道新」昭和38年7月22日)。このエッセイ執筆にあたり、山田さんを探して当てて電話で伺ったところ、今から40年前、確かにサファイロフ夫人正子さんから手紙や遺品を預かり、モスクワの娘さん家族を訪ねたとのことだった。あいにく娘さん本人は不在だったので、留守番をしていたお孫さんにそれらを託してきたという。サファイロフの帰国はこうした形で実現したのであった。

 歳月は流れた。現在の湯川地区に、ロシア人集落の跡を留めるものは何一つない。かつて歌人や画家の、そして市民たちの耳目を集めた「低い緑の家」は、今や、私たちの記憶や想像の片隅に残るだけである。

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宮島求「湯の川風景」(昭和8年4月21日付「函館新聞」)

「会報」No.26 2004.9.10

「函館とロシアの交流」を読んで

2012年4月24日 Posted in 会報

前川公美夫

 北海道の歴史に関心を持ってはいても、札幌に暮らしていると、ついつい目は開拓使が置かれて以降のことに向いてしまいがちである。外国との交流についても、お雇い外国人のアメリカ人を主体に眺めてしまってロシアとの交流史に特段の思いを致すことはないのだが、函館では事情は大いに違っているようだ。
 函館日ロ交流史研究会創立10周年記念としての本書を読んだりペリー来航150年を迎えての活動を見聞きしたりすると、函館ではひとりロシアに限らず、アメリカや、フランス、ドイツなど、北海道が諸外国とかかわりを持ち始めたころから濃いつながりがあったという認識が、複数の世紀をまたいだ現在に至るまで、市民に潜在意識として生き続けているのだろうことを感じさせられる。それらの国の代表格としてロシアがあるのだろう。
 ロシアとの交流史の研究では、水産業を軸とした経済面が主流をなすだろう。人、金、物の動きの大本には経済活動があるのだから、その背景をなす外交交渉ともども、研究の本流にあるべきことは当然である。
 鈴木旭会長の巻頭言「創立10周年を迎えて」には、北洋漁業をめぐる経過が、その拠点都市としての函館市の動きを含めて分かりやすくまとめられており、本書の各論を読み進める上で大いに参考になった。菅原繁昭「ロシア(ソ連)極東諸港と函館の海運事情」も、函館が沿海州、サハリン、カムチャツカを結ぶ要の位置にあることを、歴史的経過の中で理解させてくれる。
 清水恵「ロシア革命後、函館に来たロシア人」は函館が道内におけるロシア人居住の中心地であったことをまず示し、うち幾人かの例を引いてその暮らしぶりを紹介している。その内容のうち、ロシア革命後の外交史をめぐり、ソ連から函館に、正式な国交を結ぶ前から査証官が派遣されていたことが示されている。便宜的な措置であったろうが、「北洋出漁」を滞らせずに行っていこうという、両国間にあった経済活動第一の姿勢がうかがえるようだ。
 その一方で、シンポジウム「大正・昭和期に函館に来たロシア人」は、経済面での交流にまして長く心に残るのが人と人とのつながりであることを理解させてくれる。「大正・昭和期」は、函館の対外交流史の中で注目が集まる幕末から明治初期にかけての時代に比べれば歴史としてはまだ新しいと言えるが、そうであったとしても、関係者が健在のうちに聞いておかなければ消え去ってしまう話が多いだろう。今やっておかなければならない仕事であった。
 そうした人たちの1人として招いた女性の来し方を紹介する小山内道子「ガリーナ・アセーエヴァの歩んだ遠い道のりをたどって」は、ズヴェーレフ家の家族とその暮らしぶりを紹介することにより、函館、さらには東京のロシア人社会の様子を描き出している。
 かねて、函館に限らず、当時のロシア人たちのなりわいの中で、故国の食べ物を出す飲食店のほかに衣類の行商というのを目にしたり耳にしたりしたとき、仕入れ先やお得意先はどんなところだったのだろうと、漠然と考えていた。この論考で、その背後には全国的なロシア人の輸入・行商グループがあったらしいこと、そして、ちょうど日本人の衣服が洋服に切り替わる時期に当たって商売は大きな利益を上げることができたことが示されていて、ようやく納得がいったことだった。
 研究者にとって、新たな事実や観点の発掘には心が躍るものがあるだろうし、その高ぶりは読む方にも及んでくる。
 原暉之「ロシアの新聞雑誌記事に見る洋式船亀田丸の事績(1861年)」の、資料4で、亀田丸がニコラエフスクに携えていった日本の商品が全く先方の関心を引かなかったこと、山田伸一「ロシア領事館前の朝鮮人座り込み」では、函館に来ていた人たちが「本州経由ではなく、朝鮮半島の東北部からロシア沿海方面を経て、海路で北海道に至っていることは、朝鮮半島と北海道の間の言わば『日本海北回り』の人の流れを示して」いたことがそうした例である。
 そのほかにもまた、歴史のひとこまとして書き残しておきたい、あるいは語り継いでおきたいテーマにも心が動く。
 桑嶋洋一「もう一つのロシア交流史―ディアナ号の大砲について―」は、1854年に伊豆下田港で津波に遭い、戸田村に向かう途中で沈没したディアナ号由来の大砲に関しての、函館と横浜を結んでの謎解きである。「おわりに」には、「(横浜で出てきたディアナ号の大砲が)昭和35年の発掘以来、今回まで世に明らかにされなかった理由は、横浜市が日露開国交渉と無関係だったからであろう」という嘆きとも言えそうな筆者の思いが記されているが、他面から見ると、こうしたあたりに函館の研究者の腕の振るいどころがあることを示してもいよう。
 また、ところどころ現れる研究者の感想に、新聞社に身を置く者として、己を振り返ったり、共感を覚えたりするところもあった。
 「ロシア極東から函館に避難したロシア人―1922年秋―」で倉田有佳は、ペトロパブロフスクからの避難民が乗った船2隻の間に起こった騒動と、その取り扱いをめぐる函館側の動きを調査し、函館日日新聞、函館毎日新聞、函館新聞に当たって記事の内容を比較しつつ全体像を探っている。
 函館の歴史を調べるうえで、かつて3つの新聞が競っていたことは貴重である。それぞれの記事が内容を補い合い、また矛盾を見せてくれることを手掛かりに、より真実に近付いていくことができるだろうからである。「新聞情報を鵜呑みにしてはならず、他の資料で検証する必要がある」のはもちろんである。
 当時の記者たちがそんなことを思っていたかどうかはともかく、記事は歴史を文字に刻んでいっている。いまその場にある私にとって、自分がかかわっている記事が、後世の研究者に役に立つことがあればという思いは常にある。
 また、「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」で、清水恵がジョン・ウイルの回想録について、「表には出ない裏話は、逆に信ぴょう性を感じさせるものがある」と書いていることには同感するものがある。
 すべてには触れられなかったが、いずれも読み応えのある内容であった。
(北海道新聞文化部長)

「会報」No.26 2004.9.10

Морской сборник(Morskoi sbornik『海事論集』)にみる函館とロシア 1856-1870

2012年4月24日 Posted in 会報

天野尚樹

はじめに
 ロシア海軍省が発行する機関紙『海事論集』には、開港初期の函館(箱館)に来航したロシア人による報告記事が多数掲載されている。主たる投稿者は、軍人と領事館員である。それらの記事は、当時のロシア人による直接の見聞に基づいた函館認識を示す貴重な資料といえる。そこで、幕末から明治初年度にかけての『海事論集』に掲載された函館関連記事から、その特徴的傾向を析出し、開港初期におけるロシア人の函館認識の(部分的)再構成を試みる。

1 貿易に対する関心の薄さ:中国条約港体制の影響
 19世紀後半に出版された太平洋地域におけるロシア貿易についての研究書に、「長崎に次いでロシアにとって重要な日本の港はエソ島にある函館である。......にもかかわらず、これまでのところ、ロシア―函館間に貿易関係はない」(1)と記されているように、国際貿易港として発展した函館におけるロシアの交易活動は非常ににぶい。当該時期における『海事論集』の函館関連記事の圧倒的多数が来航者による航海記録であり、貿易に関する報告がきわめて少ないことが、ロシア人の函館貿易に対する関心の薄さを裏書している。1856年から1870年にかけての『海事論集』掲載記事中、函館貿易についての記事はわずか4本であり(2)、その内容も、「輸出のための主要な産業は魚の干物と昆布である。以前、それらを扱う交易は松前経由でおこなわれていたが、いまでは干物も昆布もエゾ島全域から函館に直接運ばれてきて、ここから英国船で中国へ輸出される」(3)といった程度の、第三者的なそっけないものである。
 函館貿易におけるロシアの影響力の低さの原因は、ロシア中心部からの地理的遠さ、貿易港ウラジオストクの開基(4)などに加えて、中国における条約港への参入の遅れが大きく響いている。1842年の南京条約締結以降、中国は欧米諸国に開港をせまられ、不平等条約体制に基づいた貿易活動が各地で展開されることになった。しかし、中露貿易には、18世紀からつづく陸上交易の長い伝統があり、またそれを理由に、条約港での海洋貿易を中国側はなかなか認めなかった。1858年の天津条約によって、ロシアの条約港貿易への参入が許可されたが、すでに交易開始後10年以上がすぎていた中国条約港貿易にロシアが入り込む余地は少なかった。そこで圧倒的な影響力をほこっていたのはイギリスであり、主力商品である海産物の最有力市場を上海とする函館貿易で当初主導権を握ったのも、必然的にイギリスであった。

2 石炭補給地としての函館:長崎の台頭
 函館に来航するロシア船にとって、そこでの最重要の目的は燃料である石炭の補給であった。1867年には約5200トンの石炭を函館で補給している(5)。しかし、石炭補給地としての函館の重要性も低下していく。理由としてはまず第1に、函館で採掘される石炭の質である。「函館の石炭は、サハリンの石炭に比べるとずいぶんと質が落ちる」(6)「函館でとれる日本の石炭は、煙管が小さく蒸気再熱器(換気機能)のついたロシア船のスチームボイラーには合わない。蒸気が落ちて煙管が絶えずつまってしまうのだ」(7)と乗組員が報告しているように、質自体の良し悪しはともかく、ロシアの蒸気船には不適合なものであった。第2の理由は、上記報告でも触れられているが、サハリンでの石炭開発の進展である。第3の、そして最大の理由は、長崎の高島炭田の開発である。「サハリン石炭にとって最も危険な競争相手は高島(長崎)の石炭である。高島炭田は、イギリスのグラバーが経営しており、函館とも横浜とも距離的に非常に近い。高島(長崎)炭田の発展はかなりのもので、急速に進歩している」(8)。上海に籍をおくイギリスのジャーディン・マジソン商会の支援を受けて1869年に炭層が発掘された日本初の近代的大炭鉱である高島炭田の発展で、ロシア船の石炭補給地は、ウラジオストクの開基ともあいまって、函館から長崎へと移行していった。

おわりに
 ロシアにとっての函館は、函館の重要機能である貿易と石炭補給の意義が弱かったことから、地図上の近接性にもかかわらず、その重要性はさほど高くなかったといえる。もっとも、『海事論集』掲載記事からのみで断定的結論を下すことはできず、ロシア外務省外交文書館(モスクワ)に所蔵される在函館ロシア領事館報告等を利用した、より広範な調査が要求されることはいうまでもない。ただし、管見のかぎり、ロシアによる函館貿易をめぐる資料の数はきわめて少ないことを付言しておく。


(1) K・スカリコフスキー『太平洋におけるロシア貿易』サンクトペテルブルク、1883年、408ページ(露語)。
(2) 「函館における船舶と貿易の動き」(無署名)第46巻、1860年第5号、雑報欄;ナジーモフ「函館」第48巻、1860年第9号、雑報欄;I・マホフ「日本」第67巻、1863年第8号;スタリツキー「スタリツキー大尉の手紙」第94号、1870年第8号、非公式文書欄。
(3) ナジーモフ前掲、143ページ。
(4) 「長崎―ウラジオストク間に定期航路が開設されたので、現在、両港間の貿易は間違いなく発展している」。スカリコフスキー前掲、404ページ。
(5) スタリツキー前掲、23ページ。
(6) マイデリ「プロペラ式クリッパー船『ジギット』号船長・海軍大尉マイデリの報告」第40巻、1859年3号、公式文書欄304ページ。
(7) 「コルヴェット艦『ヴァリャーグ号』の航海について」(無署名)第88巻、1867年1号、海事雑報欄22ページ。)
(8) スタリツキー前掲、25ページ。

「会報」No.25  2004.6.24 2003年度第3回研究会報告要旨(その1)

函館日ロ交流史研究会第3回研究会に参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

堀江満智

 2003年8月、私は北海道を訪れて函館日ロ交流史研究会の例会でささやかな発表をさせていただいたことは、心に残る有意義な経験となりました。北海道訪問の前半の目的は、札幌の北海道開拓記念館での北海道北方博物館交流協会主催「アルセニエフ沿海州探検とデルス・ウザーラ」特別展に提供した私の資料の受取りをかねて、同展スタッフの方々にお会いしたことでした。
 特別展の中の「海を渡った日本人」のコーナーで、浦潮の居留民だった堀江一家が遺した生の資料を展示していただいてお役に立てたこと、北方博物館交流協会の方や開拓記念館役員の皆さんから日頃の活動をお聞きし、ロシア、いえ北東アジアとつながりの深い北海道の地にあらためて興味とロマンを感じたことでした。その仕上げが帰途訪れた函館日ロ交流史研究会でした。
 原物資料をお見せできる機会でもあり、明治、大正時代のウラジオストク居留民の典型的事例である祖父、堀江直造の足跡と今後の日ロ交流について、稚拙ながら次のような話をさせていただきました。

 堀江直造(1870―1942)は、京都府舞鶴に生まれ、働いていた大阪の西澤商店が浦潮で食料や日用品の輸入商を始めるのに伴い、店主西澤源次郎と共に1892年に浦潮へ渡った。草深い浦潮にあって刻苦勉励し、西澤商店は当時11軒しかなかった二等商店(ロシア政府による商店のランク付け。一等商店は当時は大会社4軒のみ)となり、直造も日本人倶楽部の幹事になるなど日本人社会の基盤づくりに努めた。
 日露戦争で一旦帰国したが、多くの二等商店がそうであったように、戦後すぐ渡航し、更に商売を発展させた。1907年には浦潮商友会内露語学校創設の寄付をし、1909年に自由港制度が廃止され高い関税が課せられるようになると、自ら浦潮に缶詰素麺製造工場をつくり、アレウツスカヤ街の港に近い場所に居を構えた。そして日本人小学校学務委員や日本人居留民会会頭、商工会副会頭などを務め、また邦字紙『浦潮日報』創設に経営面から協力し、日本人社会の更なる発展を夢みた。
 これは直造に限らず、多くの日本人居留民が日露戦争からロシア革命までは最も活躍し、他民族と共生して近代的市民社会を建設した時期でもあった。その矢先に起こった革命と干渉戦争「シベリア出兵」のため、ご承知のように日本軍の敗退と共に日本人社会は破局を迎えた。
 この間の肉声がきこえてくるような資料は少ないのが現状だが、直造は日記、写真、手紙、絵葉書、電報、ルーブル紙幣、帳簿の切れ端といったものを遺した。公的資料の隙間から見える生身の居留民の暮らしの匂いがするようなものであった。
 商売や日々の生活の記録の他に、特に1918年の日記には「出兵」に際して、日本人居留民会が軍や総領事館とどのように協力したか、「石戸商会事件」等さまざまな出来事を通して書かれている。革命の過渡期の混乱の中、営業と生活を守るために奔走し、またロシアの当時の体制側の人達と交流する中で自然に反革命の側に組み込まれていく様子もわかる。現地住民の声の集約者であると同時に国策の末端の推進者でもあった居留民会の苦悩も少し見える。
 初めは「出兵」に疑問をもっていた日本人居留民も次第に商売人の顔になってゆく。直造ら主な商人が日本軍の兵站を担う「軍事用達社」や「西比利亜商事株式会社」を作り、直造は社長になったが、やがて大損をして1921年に浦潮を引き揚げることになる。侵略的「富国強兵」政策と共にあった日本の近代化の中で多くの日本人居留民が辿った道であった。
 妻、萬代(1876―1944)の明治の日記には草創期の浦潮の暮らし振りが主婦の目線で描かれている。直造と萬代の日記にある多くの固有名詞は日本人社会の主な人々の行動記録でもある。
 子供のなかった直造夫婦は妹の子である正三(1898―1963)を養子にしたが、その正三は浦潮の日本人小学校を出た後、早稲田中学から東京外語ロシヤ語科へ進んだ。ロシア語を専攻したのは直造の跡を継ぐためだけでなく、正三自身もロシアの文学や芸術が好きだったからだ。
 極東ロシアで活躍することを夢みて1919年外語を卒業して浦潮に戻った正三は、カムチャツカに商店を出したりしたが、情勢は厳しく1922年やむなく日本へ引き揚げた。帰国直後の日記には美しいロシア語のページがあり、ロシアの思い出やロシア人女性との恋の顛末が綴られていた。その後はロシア語を生かすことも、ロシアの地を踏むことも二度となかった。
 居留民二世は、ロシアの文化や国民性、生活の中のロシア語を身をもって学んだ世代であり、さまざまなレベルでのロシア理解を深めた者も多く、本来なら日ロの有為な架け橋となる筈であったのだが。
 民衆が個人で渡り自発的に辺境の地を開拓し日ロ交流も育んだが、世界史の流れと国策に翻弄されてすべてを失った。その後の不幸な日ロ(日ソ)関係の中で、そんな史実は殆ど語られることなく70年余りの歳月が流れた。90年代に入って私は何人かの元居留民の子孫の方々と知り合った。ご自身がかつて浦潮に暮らしたことのある方もあり、一様に日本人街に「良いところだった、楽しい暮らしだった」と美しい思い出をもっておられるのだ。それまで私が少し抱いていた負のイメージ、つまり売春婦や女衒、投機的商人や悪徳商人もたくさんうごめく街で、最後は侵略戦争の橋頭堡となったというのとは逆のメルヘンチックな思い出をずっと胸にしまってこられたのだ。建設的な生活と珠玉の想い出、やくざな街とキナ臭い最後、どちらも浦潮の本当の姿であろう。私が知っているのはほんの一部だ。関係者も高齢に、或いは故人になりつつある今日、日ロ協同で新たな事例の発見や総括がなされて、全体像を多面的に後世に伝えられたらと思う。

 あとで参加された会員の皆さんから質問やご意見が出されましたが、ある方が「そんなに発展していた日本人社会が国策によってつぶれた、とだけいわれるがなぜか、もっと詳しい理由や事情があったはずだ」とおっしゃったのが印象に残りました。1919年以降の資料は私の家にはありませんが、引き揚げの迫った浦潮で、明治以来、仕事や生活を共にしたロシア人やその他の人々とはどんな別れがあったのか、国家とは別次元の民衆の心情や行動はどうだったのか、今後のきめ細かい調査を期待したいと思います。
 なんだか釈迦に説法のような話になってしまいましたが、函館日ロ交流史研究会の皆さまと懇親会や夜の函館見物をご一緒できて、何重にも思い出深い旅になりました。
 倉田さんや清水さんなどお世話になっていてもなかなかお目文字の機会のない方々とお話しできたこと(倉田さんとは最後の夜に一献傾けながら)も楽しかったです。
 関西でも「関西日露交流史研究会」というのを1998年に立ち上げて、貴会と似たような雰囲気でやっておりますが、質量共にこちらには及びません。でもこれからも交流させていただければ嬉しく思います。

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堀江満智著『遙かなる浦潮』

「会報」No.25 2004.6.24 2003年度第3回研究会報告要旨(その2)

ガーリャさんの東京・横浜滞在を共にして

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

出迎え
 モスクワからのSU583便は2003年12月4日定刻10時55分に成田空港に着いた。2日前の電話連絡が最後だったので、実際に姿を見せるまでは気が気ではない。ところが、ガーリャさんが到着ロビーに現れたのはかなり最後の方で11時40分だった。ともかく「元気で無事到着」にほっとして、2年余ぶりの再会を喜び合った。
 10歳の時日本を離れて60年ぶりに全く違った日本にやって来たのだから、ガーリャ(敬称を略す)の思いはどうだったのだろう。私には、その思いに共鳴するゆとり、気遣いがたりなかったかも知れない。今振り返ると、「ガーリャさん招待」の道のりは結構たいへんだったからともいえよう。日ロ交流史研究会の10周年記念シンポジュウムへの異例の招待がほぼ決まったのが5月、早速電話をかけてまず健康状態を確かめると、問題があったので(白内障だった)、早速の治療をお願いし、次の電話では子ども時代の函館、東京などの生活を隅々まで思い出して、お兄さんたちにも伺っておいてほしい、また、ありったけの写真を探し出してほしいと頼み、追って手紙で、「報告文」作成のお願いと共にたくさんの柱とすべき項目を書き送った。眼の治療が終わった8月初旬にはパスポート申請をしていただき、函館の事務局では清水さんを中心に倉田さんの協力で一番難関のビザ取得のための「招待状」作成にとりかかった。日ロ間では航空券があっても未だに個人が自由に旅行することはできない。私たちの研究会が財政基盤の弱い民間組織であるところが招待者として障壁になるのでは、と懸念されたが、案外すんなり通ったのは嬉しかった。最後に航空券を日本の会社で購入し、ペテルブルグの提携会社で受け取れるように手配して準備が完了したのは11月下旬だった。つまり、たっぷり半年間皆で努力した結果である。
 リムジンバスで品川へ移動し、ホテルへチェックインした後しばし休憩してから遅い昼食をとる。東京ではわずか2日ほどしかないが、まず最初に一番大事な思い出のニコライ堂を訪ねることにした。ガーリャが函館の小学校から転校して学んだプーシキン初等学校は、当時このニコライ堂の敷地内にあったのである。

ニコライ堂(東京復活大聖堂)
 御茶ノ水駅に着いた頃には、冬の日は陰り始めていた。通用門から中へ入れたが、懸念したように大聖堂の扉は開かなかった。教会の事務所に伺って事情を話していると、奥のドアが開いてニコライ司祭が出て来られ、「ペテルブルクからいらしたのですか?特別に開けてさしあげましょう」と案内してくださった。こうして、ガーリャは大聖堂の中でしばし祈りを捧げ、プーシキン学校時代に思いを馳せることができたのである。
 私たちはプーシキン初等学校のあった場所を確かめることにした。正門を出て右に折れてぐるりと大聖堂を回って、正門前の通りと平行に走っている通りに出た。この通りには普通のビルがいくつも建ち並んでいるが、角から二つ目のビルの辺りにプーシキン学校の建物があったそうである。学校の出入り口はこの裏通りにあったことになるが、「幅広い美しい階段」が学校から教会の中庭に設置されていたのである。

銀座
 私たちは大仕事を終えた気分で銀座へ向かった。午後6時過ぎの銀座はたいへんな賑わいだった。人波に揉まれつつ三越まで「銀ぶら」し、くたびれたので、「カフェ・不二屋」に腰をおろす。ガーリャが注文したのは何と「あんみつ」だった。函館時代にお母さんが年に1、2回作ってくれた思い出の味だという。驚いたことに、ガーリャには銀座もお馴染みといってよい場所だったのである。プーシキン学校に居た頃、お父さんが上京すると必ず銀座に連れてきてくれて、文房具を買ってくれたり、レストランで食事をさせてくれたそうである。亡命ロシア人は概して生活レベルが高かったのだろうか...
 8時過ぎに品川に戻った私たちは夕食は軽く済ますことになり、ガーリャの希望でお蕎麦屋さんに入った。そしてガーリャはここでも60余年ぶりの蕎麦つゆにいたく満足したのである。

セント・モア(サン・モール)学院
 2日目は横浜探索の日となった。プーシキン学校の後転校したセント・モア学院とその頃住んでいた家を訪ねたいのである。私は事前に調査できなかったので、横浜市と神奈川県の教育委員会に電話して尋ねてみた。しかし、なかなか分からず、県庁の学事振興課というセクションでようやく兄弟校だったセント・ジョセフ学院の消息が分かり、そこでセント・モア学院の電話番号を教えていただき、横浜へ向かった。
 学校は意外に分かりにくく、ずいぶん歩いてやっとたどり着いた。ガーリャは「セント・モール」と発音するので、聖トマス・モアの名を冠していると思っていたが、現在校名はカタカナでは「サン・モール・インターナショナル・スクール」とフランス語読みになっていた。シスター・カーメル理事長が私たちに会ってくださったが、学院はアイルランドとフランス共同のカトリック系ミッションスクールで、戦後は1948年に再開された。生徒名簿は残念ながら戦前の分は消失したそうである。最近の名簿からロシア人らしい名前を2、3拾い上げてくださったが、全く馴染みのないものだった。ガーリャの時代との一番大きな違いは、学校が現在男女共学なっていることで、幼稚園を有する1年から12年までの一貫校で多様な国籍の生徒が集まっているが、日本人は「帰国子女」が多いそうである。カーメル理事長は校内も隈無く丁寧に案内してくださった。ガーリャはとても満足し、得意げな様子だった。数年前サンフランシスコからカーチャ・パンチューヒナ(注)が横浜を訪れて、やはりセント・モア学院を捜したが、見つけられずに帰ったと聞いていたからである。

鷺山とイリイン家
 次にガーリャたちが住んでいた「鷺山の家」を捜すことにした。学校を出ると、昔ガーリャたちが歩いて通学した道をたどることになったが、ガーリャの記憶が不確かな上、周囲の様子も変化しているので、雲をつかむような感じだった。大分歩いて、何とか高台の「鷺山」にたどり着いたが、岡の上はかなり広くて細い道が何本か通っている。何軒か「この家だと思う」という場所立ったが、確定できない。向かいにイリイン家があれば間違いないということになり、向かいの階段を上ってみた。そして奇蹟が起こったのである。私たちの後から上がってきた女性に尋ねると、その方がイリイン家の長男ヴィターリさん(故人)の2番目の奥様であることが分かり、ガーリャたちの家も確認できたのである。奥様は私たちを招じ入れてもてなして下さり、イリイン家の様々な物語を語ってくださった。ガーリャは天国のパパが引き合わせてくれたと感動しきりだったが、私にとっても感銘深い横浜の1日となった。
 3日目は「来日ロシア人研究会」で報告と交流の1日を過ごし、4日目は清水・倉田さんが合流して午前中皇居周辺を散策し、午後いよいよ函館へと旅立ったのである。

注)カーチャ・パンチューヒナは、戦前釧路で洋服屋をやっていたパンチューヒンさんの娘さん。ガーリャの姉ターニャの同級生でプーシキン初等学校で学んでいた。戦後アメリカに移住したが、1997年ペテルブルグを訪れ、皆に再会した。現在の姓はドウダーエフ。

「会報」No.25 2004.6.24

石川政治「ソ連捕虜通信」から

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館に居住して丸3年が経つが、市立函館図書館所蔵資料は膨大であり、ロシア関係資料に限ってもほんの一部を閲覧したに過ぎない。今回ご紹介する「ソ連捕虜通信」は、市史編さん室にさりげなく置かれていた市立函館図書館図書目録の索引をぱらぱらめくっていた時、そのタイトルが眼に飛び込んできたもので、まったくの偶然から閲覧することになった。
 これは、美しい赤色の表紙をした24頁から成る豆本(7㎝×5㎝)で、タバコ用にと現地の子供からもらった紙が帯として使われている。捕虜通信という名前から、質の悪い新聞紙に印刷されたものを想像していただけに、愛らしい豆本が油紙に大切に包まれて出てきたのにはたいへん驚かされた。
 さて、捕虜通信の基になっているのは、捕虜用郵便葉書で、平壌第47部隊で終戦となり、シベリアに捕虜として抑留された石川政治氏が、昭和22年夏以降過ごしたボルガ川上流のカマ川のほとりにあるエラブガ(ソルジェニーツィン著「ガン病棟」の舞台でもある)の第97収容所から函館に住む両親に宛てたものである。この5つの通信を、10年後の昭和30年12月、「ソ連から引揚船大成丸 舞鶴入港のラジオニュースをききつつ」、ガリ版刷りで再構成したものが「ソ連捕虜通信」で、奥付によると発行日は翌昭和31年4月29日である。
 内容は、ラーゲリ(収容所)での生活状況、ラーゲリで迎えた正月の食事や娯楽、物価、帰国状況などが詳しく書かれている。
 帰国後、石川氏自身が分析しているように、葉書はおよそ4~5ヶ月かかって父母の元に届いた。葉書をよく見てみると、この郵便物がウラジオストクの郵便局経由で日本に送られたことがわかる。ソ連全土から、様々な思いを乗せてシベリア抑留者の故郷の肉親に宛てられた捕虜通信の集積所が、ウラジオストクの鉄道駅と道路を挟んで向かい側に建っているあの郵便局であったとは何とも感慨深い。
 ところで、著者の石川政治氏は、大正12年に埼玉県で生まれ、現在の北海道大学水産学部の前身である函館高等水産学校を卒業し、北海道庁経済部水産課に勤務して間もなく、平壌で入隊、終戦後ソ連に抑留され、昭和23年8月に帰還した。帰還後、市立函館博物館に勤務し、昭和44年に3代目館長となった。
 「ソ連捕虜通信」は、70部刊行されたが、昭和31年5月8日付『北海道新聞』によると、かつてエラブガ収容所で労苦をともにした人々のグループ「エラ草会」の会員たちに配布したところ、当時の思い出を伝える小冊子として非常に喜ばれたそうである。
 この資料を補足する形で紹介したいのが、平成7年に石川氏が亡くなられた後、現在埼玉県にお住まいの夫人が回想録をまとめ、7回忌に当たる平成13年に発行された『ヒザラ貝の涙雫―石川政治回想録―』(非売品)である。
 先の捕虜通信は、「悲惨な食生活やひどい真相も書きたかったが、さしひかえて出した」ものだったが、帰還後、シベリアでの収容所生活について回想録をまとめている。散逸したものも少なくないようだが、現存するものは『ヒザラ貝の涙雫』に収められている。テーマは44項目に上り、うち10項目は食べ物と関連していたことからも、ラーゲリの厳しい生活環境が偲ばれる。
 また、『ヒザラ貝の涙雫』の巻頭には、昭和31年4月27日に五稜郭公園で戦友会が開かれた時の案内状、抑留中に描いたという絵6点、収容所での唯一の娯楽で日曜日は朝から晩までやっていたというマージャンのパイ、捕虜用郵便葉書のオリジナル、そしてソ連から帰還の際に持ち帰ったという黒パンが写真で紹介されているため、「ソ連捕虜通信」と併せて見てみると、一層興味深い。

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捕虜通信より

「会報」No.25 2004.6.24 市立函館図書館所蔵資料紹介

サハリン島の漁業をめぐるロシア政府(プリアムール総督府)の対応

2012年4月24日 Posted in 会報

神長英輔

1.報告の目的と方法
 私は目下、「北洋漁業」の起源を解明する作業をすすめている。今回の報告は「露領漁業」の初期、19世紀末から20世紀初頭を対象としている。この報告は、この時期におこったさまざまな変化のうち、プリアムール総督府による一連の規制策の動向を日本からの出漁規模の拡大という事態と関連づけて理解する試みである。
 具体的な論点は二つある。まず、ひとつめは政策担当者が状況の急激な変化にどう対応したか、という点、もうひとつは政策の地域差である。ここではこれらの点を中心に総督府の漁業規制の論理を読み解く。

2.1880年代後半から1890年代前半までの漁業政策
2.1.1890年前後までの振興策
 この時期の政策担当者はプリアムール総督府管内の漁業を発展途上と見なしていた。具体的には、まず、良質で安価の塩の供給が重要とされた。また、新しい漁場の開拓を促すため、徴税は漁獲物の量を基準に賦課する方法がよいとされた。基本的にはロシア人漁業者を優先する方針が明らかにされたが、その方針は外国人を排除することを意図したものではなかった。

2.2.1890年代前半の振興策
 1890年代前半、事情はやや変化する。この時期、ニコラエフスクを中心地とするアムール川下流域には日本人の漁業者が現れて、操業や買漁などをおこなうようになった。また、軍務知事の正式な許可のもとで沿海州の各地で日本人の漁業が始まったのもこの時期とみられる。
 こうした現状をふまえ、起業したてのロシア人漁業者たちは日本人との競合を意識した主張を展開するようになった。税制面での優遇や、雇用義務や買い上げ義務の廃止がその例である。
 一方で総督府は管内の漁業の総合的な発展を指向していた。総督府は塩の供給の円滑化、漁業移民の誘致、専門家の招請といった政策に加え、外国人(日本人)の誘致による新規漁場の開発の試みなどを政策の柱に据えた。
 また、サハリン島においては、こうした漁業による地域の開発を囚人の民生向上策と絡めて実施しようとした。
 この時期、総督府の政策に外国人、特に日本人漁業者の活動を警戒している様子はあまりなかった。

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サハリン島の日本人漁業者と在コルサコフ領事一家
(樺太定置漁業水産組合編『樺太と漁業』より)

3.1890年代後半から日露戦争直前までの漁業政策
3.1.1890年代後半
 1890年代後半、ロシア極東各地の沿岸をめざす日本人漁業者の数はさらに増えた。1890年頃には日本人漁業者がほとんどいなかったニコラエフスク周辺も、1898年頃の夏季には1000から2000人の漁業者が訪れるようになっていた。
 この時期、総督は各地でロシア人漁業者の起業が相次ぎ、遠隔地への輸出も構想されている現状をふまえ、管内の漁業の将来については楽観的な見方を示した。一方で日本人を中心とする外国人が各地で操業している実態も把握しており、漁区の長期貸与には消極的な姿勢をとった。
 ここには、原則としてロシア人漁業者を優先する、という方向性がすでにみえつつある。その一方で、この時期の総督府の政策には強制的な外国人排除の姿勢がうかがえないし、ロシア人を一律に優遇することにも二の足を踏んでいた様子がある。総督府の態度は、名義貸しを防ぐためにも漁業の発展のためにも、ある程度の競争に耐えうるロシア人漁業者の出現を期待する、というものだった。一方、新規の漁場を開発するために外国人の力を借りるという政策はすでに撤回されていた。総督府の漁業規制策は転機を迎えつつあった。

3.2.政策転換
 1899年からの数年で総督府の漁業政策は大きく転換する。
 日露戦争直前の1903年に刊行されたプリアムール国有財産局の報告書は、管内の漁業振興の基本方針は「国民化」にあるとした。これは、外国人に代えてロシア人漁業者による漁業の発展をめざす政策である。この報告書は、すでにある程度の漁業の発展が達成された以上、外国人漁業者の役割は終わったとも述べた。
 同年に開かれた第四回目の代表者会議の報告書でも当面の漁業政策の課題は「国民化」にあるとされた。日露戦争直前、「国民化」は管内の漁業振興において揺るぎない最優先の課題とされていた。
 1880年代から「国民化」は管内の漁業振興における主要な目的のひとつだった。しかし、1890年代末までは、それが総合的な開発や国庫収入の増大といった目的よりも優先される課題ではなかった。そうした意味では1890年代末に大きな転換があったといえる。
 ただ、この時点で早くも管内一律の「国民化」政策は挫折していた。サハリン島においては日本政府の反発に妥協して、規制策の施行が延期されていたし、監視が行き届かないカムチャッカ半島では密漁が相次いでいた。「国民化」政策は限られた条件の中でしか成立しなかった。各地方においてはそれが自覚されつつあったが、それが具体的な政策に反映されないまま、ロシア極東は日露戦争を迎えることになった。

4.結論
 この時期、一連の規制策によって活動が規制されたにも関わらず、日本からの出漁の規模は拡大を続け、輸入量も増大した。これは一見して逆説的である。
 しかし、以上の内容をふまえれば、この「逆説」は初めから矛盾した論理にみえる。そもそも、日本人漁業者に対する規制策の多くは日本市場への依存度が高い地域で施行が延期されたため、ロシアによる規制が一概に強化されていったとはいえない。また、規制の効果も地域によっては限定的であり、名義借りや密漁が相次いだことはむしろ真の効果だった。実際、アムール川下流での禁漁の後にカムチャッカでの密漁が激増したという。さらに「国民化」を最優先する選択は最初から決まっていたわけではない。上述の通り、日本人漁業者を誘致する試みもあった。
 したがって、ロシア側が一貫して日本人漁業者の排除をめざしてきた、という見解は誤っている。
 これは対立が存在しなかった、ということではない。各地で日本人とロシア人の漁業者の対立は相次いでいたのは事実である。ここで主張したいのは、そうした個別的な事例の積み重ねがそのまま単純に政策に反映されたわけではない、ということである。

「会報」No.24 2003.10.1 2003年度第2回研究会報告要旨(その1)

ゴシケーヴィチ記念学会取材より

2012年4月24日 Posted in 会報

権平恒志

 私はNHK函館放送局の記者で、今回、ベラルーシの第2回ゴシケーヴィチ記念学会(The Second International Historical and Literary Reading Dedicated to Iosif Gashkievich, a Prominent Scholar, Writer, Traveler and the First Consul of Russia in Japan, a Native of Belarus)の会議で高田嘉七さんに同行して取材をした。
 この学会は去年の10月にあったが、1回目は1995年5月にオストロベツで開催された。ベラルーシのペンセンター総裁で国際ベラルーシ研究者連盟の会長、アダム・マリジス教授が主催したものである。彼の話ではソ連崩壊後、ベラルーシが一つの国としてやっていくにはベラルーシの歴史を再評価しなければならない、それにあわせてベラルーシ出身の歴史的人物あるいは詩人、学者や作家など色々な人を再評価しようということだった。その一環で、今回はゴシケーヴィチを通じて日本との関係を深く考えようと開かれた会議であった。
 日本からは高田さんのほか東大名誉教授佐藤純一先生が、長くベラルーシの研究に携わっているということで招待されていた。
 ベラルーシでの取材は3日間の滞在で、首都ミンスク(人口170万人)とオストロベツに行った。学会は2日間、3つのセッションで行われ、1日目の第1セッションは「ゴシケーヴィチの生涯と業績、その学問的遺産」、午後には第2セッション「ベラルーシ、ロシア、日本―社会・文化的交流」と題して行われた。翌日にオストロベツに行って、「ゴシケーヴィチとオストロベツの郷土史」という第3セッションが持たれた。
 報告者は41名だったが、それ以外にも大学で歴史を勉強している学生等が参考ということで自分の論文を発表したり、詩の朗読をしたりと、総勢では50人ほどが報告をした。大勢のゴシケーヴィチ研究者がいるので驚いたが、ベラルーシだけではなく、日本、アメリカ、リトアニアのビリニュス、ポーランドのワルシャワからも研究者が来ていた。
 報告について紹介しよう。最初に佐藤先生が報告をされたが、1857年にゴシケーヴィチの編集でペテルブルクで刊行された「和魯通言比考」の共同執筆者橘耕斎について、ロシアにある資料をもとに話をされた。
 その他、ミンスクで出版社をやっているイワン・ソロメヴィチ氏が、ロシアの作家ヴィターリー・グザーノフの書いた『白ロシアのオデッセイ』をベラルーシ語に翻訳したことについて述べた。ゴシケーヴィチがいかにベラルーシにとって重要であるかという思いを強くし、さらに研究を深めたいということであった。
 ミンスクの歴史学者(聖スカリナ啓蒙センター)リディア・クラジャンカ氏は「日本におけるゴシケーヴィチのキリスト教のミッション」という報告をし、ブレスト在住の歴史学者アレクサンドル・イリイン氏は「ゴシケーヴィチの仲間であるフィラレート修道士の謎について」という報告をした。これは日本に滞在したことがあり、後にブレスト女子修道院院長になったフィラレート修道士がパーヴェル大公とエカテリーナ二世の間に生まれた私生児ではないかという変わった推察であった。それに対しては会場から反論や多くの意見が出ていた。
 ミンスクのベラルーシ国立大学学生のオリガ・ザハレンコ氏は「ゴシケーヴィチの日本と中国における研究活動」について報告をした。それからミンスクの昆虫学者イーゴリ・ロパーチン氏の「ゴシケーヴィチの昆虫研究」は、短い報告だったが、会場の関心を呼んだ。ゴシケーヴィチの発見による標本を実際に持って来て、ゴシケーヴィチの学名がついていることを紹介していた。
 高田嘉七さんはゴシケーヴィチと高田屋嘉兵衛の意外な関係についてを報告された。高田屋の支配下にあるエトロフで働いていた父を持つ横山松三郎がニコライ神父と親交を深めたこと、またゴシケーヴィチの昆虫研究を助けて昆虫の絵を描き、その後ゴシケーヴィチに写真術を教わって写真家になり、日本人初の航空写真を撮ったことなどが紹介された。
 ほかにグロードノの歴史学者ドミトーリイ・ゲンケーヴィチ氏が、1872年ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたマリ村で生まれた息子ヨシフ・ヨシフォヴィチ・ゴシケーヴィチの学術活動を報告した。
 第二セッションでは、ベラルーシ国立大学で日本語教師をしている古澤晃氏の報告があった。ベラルーシで初めて日本語教育が行われたのは、1993年ミンスク国立言語大学で、現在通訳学部東洋語学科で10人、ベラルーシ国立大学国際関係学部東洋語学科でおよそ20人が日本語を学んでいるとのことであった。
 私がおもしろかったのは、ペテルブルクの大学助教授ヴァレンチン・グリツケーヴィチ氏による、ベラルーシと日本の関係において、ルーセリという名前で知られているニコライ・スジロフスキーの生涯についての報告である。彼は20世紀の初頭日本に来て新聞や本を発行したり、極東に関する論文を書いたという興味深い人である。
 アンドレイ・ソコロフというペテルブルクの歴史学者はアイヌ民族の研究者ブラニスワフ・ピウスツキーの報告をした。
 ところで、ミンスクの市民にゴシケーヴィチに知っているか、街頭で10人に尋ねたところ、誰も知っている人はいなかった。学校でも学んだ記憶がないといっている。日本について、という問いには、好意的な印象を持っているが、多くは詳しく知らないということだった。ヨーロッパをむいているので、あまりアジアに関心はないという。
 2日目、朝にミンスク市内のペトロパブロフスカヤ教会でゴシケーヴィチのパニヒダが執り行われた。今回の学会にあわせて開いたということである。その後、昼から第3セッションとしてオストロベツにむかった。ミンスクから北西へ車で2時間ぐらい、リトアニア国境に近いところにある。色々な報告の中でさかんに、ベラルーシとリトアニアとの関係が深いことが指摘されていた。オストロベツの住人はスラブ系のバルト人だということである。この町にはゴシケーヴィチの胸像があって、大人も子どももみんなゴシケーヴィチを知っている。彼について尋ねると日本、函館で働いたベラルーシが誇る偉大な人という答えが返ってくる。オストロベツのウダガイにある学校では8年生から9年生が、近代史の授業で、ゴシケーヴィチについて詳しく学んでいる。教科書には5年前から彼についての項目が登場した。学校の一階には2年前に郷土資料室が設けられ、ゴシケーヴィチの肖像や日本人研究者から寄贈された絵などが展示されていた。なおバスで移動して、ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたマリ村に行ったが、郷土歴史資料館が建設されて、日本の外務省の協力を得て資料等が集められている。今後日本との交流を深めたいと望んでいるそうだ。
 オストロベツというこんなに遠いところで、函館の名前を聞いて、率直にうれしかったし、ゴシケーヴィチは日本でももっと光が当てられるべきだと感じた。そしてここからまた交流が生まれていけばと感じた。
 なお最後にマリジス教授が報告で、2年に1度ぐらいこの研究会を開きたいし、日本でも開催したいと言っていた。

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(2003.7.19報告より―文責:清水)

「会報」No.24 2003.10.1 2003年度第2回研究会報告要旨(その2)

満州国建国宣言とユーラシア主義 ―ルスナクさんの報告「ハルビンの白系ロシア人」に寄せて―

2012年4月24日 Posted in 会報

米重文樹

 2002年4月6日付の本会報No.20に掲載の「ハルビンの白系ロシア人」と題する報告を最近になって偶然読む機会を得た。その中に私の名前に言及した箇所があって、一読して納得のいかない点があったので、以下若干のコメントを記すことにする。問題の箇所は次の通りである。
 東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。また、米重教授は、五族協和の協力の上に創られた平等な国家という思想は、当時の多くの日本人の目に非常に魅力的なものに映ったに違いないと述べている。
 後半部分はさておき、問題は「東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の満州国建国宣言にも影響を与えていると考えている」となっている点である。
 ルスナクさんのこの判断が1997年に私の書いた論文「極東におけるユーラシア主義」(露文)に依拠としたものであることはすぐに分かったが、私自身はその論文の中で「ユーラシア主義者の思想が1932年の満州国建国宣言に影響を与えた」とは一言も述べていないし、それを匂わすようなことも一切書いていない。おそらくルスナクさんは、私が拙論の中で「満州国建国宣言」の骨子のひとつをなす五族協和に触れた直前の節で、「満州国建国宣言」と同じ年の1932年パリで出された「ユーラシア主義宣言」の日本語訳の存在を紹介していることから、「米重教授は影響関係があったと見ている」と判断されたのであろう。ちなみに、この日本語訳(正確には翻案)の筆者嶋野三郎は当時満鉄の調査部に所属、1931年から1933年にかけてパリの満鉄欧州事務所にあって、ソ連事情調査のため欧州各地にでかけるという多忙な日々を送っていた。「ユーラシア主義宣言」はその中で嶋野が出会った本のなかの一冊であるが、その日本語訳が「日満共福主義」と題して雑誌『大亜細亜』に二回に分けて掲載されたのは、彼が帰国した年の1933年のことである。いずれにせよ、満州国建国宣言にユーラシア主義思想が影響を与えたという具体的な事実関係および介在者の存在については今のところ確証はない。ただ、拙論でも記したが、「ユーラシア主義の著作を翻訳するための相当な予算が満鉄の特別な課で組まれた」と いうことを当時ハルビンにいたロシア人ジャーナリストV.N.イワノフが1926年の時点で書き残している。しかも、その翻訳は「限られた範囲の人たちのための限られた部数」を予定したものであったという。この翻訳作業が実行に移された確証もこれまた今のところ見つかっていないが、その可能性は完全に捨て去ることはできない。なお、嶋野三郎が「ユーラシア宣言」を翻案のかたちで題名も変えて満州国建国の翌年に訳出した意図については、私なりの判断を拙論の上掲箇所の直後に段落を改めて記したつもりである(以下はロシア語原文からの日本語訳)。
 「(ユーラシア)宣言」の翻訳である嶋野の論文は、一方において「新国家」満州国における、他方において共産ロシアにおける、「単一尺度への平準化」政策に対する鋭い批判であった。
 最後に、ルスナクさんの報告の中で満州におけるユーラシア主義思想の受容者として、嶋野三郎の他に、本間七郎、中野の名が挙げてあるが、いずれも拙論の前半で私が扱った人たちで、報告はそれを転用したものである。その際報告者が「中野氏」としている人物は「中根」の誤りで、拙論ではロシア文字綴りで《Наканэ Рэндзи》と明記してあるだけに、誠に残念である。「中根錬二」は1937年ハルビン学院を卒業後、協和会を経て母校で教鞭を執る傍らロシア史(特に東洋との関係)の研究に従事、『哈爾濱学院論叢』(第3号、1943年)にユーラシア主義を代表する歴史学者サヴィツキーの「ロシア史に関する地政学的覚書」(1928年、プラハ)の翻訳ならびにユーラシア主義についてのすぐれた解説を発表した。1943年ハルビン学院より東京帝国大学文学部に研究生として派遣されたが、ほどなく学徒出陣で出征、翌年の1944年秋フィリピンにて戦死した。
 蛇足であるが、拙論「極東におけるユーラシア主義」(露文)については、日本スラブ東欧学会発行の欧文誌Japanese Slavic and East European Studies(vol.18,1997)を、また嶋野三郎については「精神の旅人―嶋野三郎(1)~(17)」(『窓』92号~110号、ナウカ、1995-1999)を、それぞれ参照されたい。
(2003年7月13日記)

*編集より
 ルスナクさんの報告「ハルビンの白系ロシア人」は、原稿を事前に入手できなかったことから、通訳者が同時通訳し、それを後日倉田がテープおこしし、とりまとめました。
 米重教授のコメントの中で、文頭の、「東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。」という点については、ルスナクさんの発言がテープからは聞き取り難いこともあり、通訳者の訳に基づきました。折をみて、ルスナクさんに確認したいと思います。
 2点目の、「中根錬二」を「中野」と間違えているというご指摘について。テープを注意深く聞き直してみましたところ、1回目の引用では「ナカノ」とも聞こえるのですが、2回目の引用では、確かに「ナカネ」と発音していたことが確認できました。ここに訂正しお詫び申し上げます。(倉田)

「会報」No.24 2003.10.1 特別寄稿

厨川勇氏の生涯と業績 ―ご逝去を悼んで―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

突然の訃報とご葬儀
 厨川勇氏が亡くなられた。享年98歳だった。今年4月7日のことである。4月9日の『北海道新聞』に訃報と葬儀を知らせる公告が掲載された。全く予期していなかったご逝去である。今年お出しした年賀状には昨年同様1月下旬にお元気なご挨拶状を頂いていたし、2月27日のお誕生日にも昨年同様お花をお送りし、同居しておられるご長女の阿部恭さんから近影を伝えるお写真を頂いていたからである。是非近々上札の折にお訪ねしようと考えていた矢先だった。前日東京から戻ったばかりで新聞を見たのが午後だったことと、その日は既に断れない予定があったなどで葬儀列席は諦めることになった。厨川先生には是非お別れがしたかったが、もうお話の出来る先生にはお目にかかれないのだ。結局弔電を間に合わせ、翌日恭さんにお悔やみのお手紙と香料をお送りした。
 釧路ハリストス正教会発行の『道東教会報』5月号にピアニストで教会聖歌隊のリーダー役を務める(そのため厨川氏とは聖歌研修会などでご一緒する機会もあった)笠原茂子氏の「厨川神父永眠す」の追悼文が掲載された。以下、その中から紹介させて頂く。まず厨川神父とのご縁を〈笠原家はもともと函館教会所属でしたので、主人の曾祖母、祖母、大叔母達の埋葬式の時厨川神父様のお世話になり、また主人が小学校の時、堂役としてお仕えしたと聞いております〉と認めておられる。
 〈葬儀は4月9日午後6時に前晩梼パニヒダ、10日午前8時に聖体礼儀及び午前10時から埋葬式をセラフィム主教様の司梼、3人の神父・輔祭様(名前は割愛)の陪梼で司祭埋葬式が聖堂をうめ尽くすたくさんの参梼者に見守られながら厳格に執り行われました。
 埋葬式は3時間に及ぶご祈祷で、主教様と3人の神父様達によって四福音書が交代で長く読まれました。〉
 以上のように、葬儀は20年間函館教会の司祭を勤められた神品としてのもので、格式ある荘厳のものだったことがうかがわれる。

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福住のアパートで(1998年6月)

厨川先生との出会い
 厨川先生の約1世紀にわたる長いご生涯の内私がおつき合いさせていただいたのは、最晩年1998年93歳からの5年に満たないわずかな期間だけである。
 その頃私は「戦前の札幌における白系ロシア人の足跡」を調べていて、資料に散見される記録だけでなく、直にロシア人と交流のあった方々を捜し求めていた。1920年代後半から1945年の戦争終結までの期間釧路市でさえ10数人の白系ロシア人が住んでいたのだから札幌市にも、と予測を立てたが手がかりをつかむことが出来ずにいた。
 一番頼りになると思われた『札幌正教会百年史』には、わずかに1行シャルフェーエフ氏に言及した箇所があるだけで、意外にも信徒としての白系ロシア人集団についての記述は一切ないのである。ただ、この『教会史』によって厨川先生が1930年代からは札幌に住んでおられ、札幌教会の中心的な働き手であられたことが分かった。そこで、改めて1994年出版の『函館ガンガン寺物語』と北海道新聞に1995年1月、10回にわたって掲載された「私のなかの歴史」を読み返してみた。そして先生にお手紙を書いたのである。〈、、、先生のご本には、また新聞掲載の「歴史」にも現代のロシア人は殆ど登場しておりません。そこで先生が函館や札幌で直接間接におつき合いのあったロシア人について語っていただけないでしょうか。〉とインタビューさせていただくことをお願いしたのだった。
 2ヶ月ほども経ったある朝、突然先生からお電話があった。朗々たる元気なお声にまず驚いてしまう。しばらく入院されておられた由。早速お伺いする日時の打ち合わせをする。そして、数日後のお昼前札幌教会に近い福住のアパートを訪ねる。先生にはちゃんと計画がおありのよう外出の身支度をして待っておられた。初対面の挨拶などしばらくお話をしてから、タクシーでまず古い信徒で隣同士の親しいおつき合いもあったという窪田さんを藻岩山麓のマンションに訪ねる。戦前お姉さんが嫁いでいた釧路にしばらく滞在し、教会ではベロノゴフさんなどいろんなロシア人とおつき合いがあったというお話などをうかがう。ここで立派なお昼をご馳走になり、3時頃北東部の清田まで取って返し、やはり古い信徒の太田家にお邪魔する。太田家は夫人のお母さんである田村芳さんの父・田村末吉さんが、函館から移り住んだ札幌で最も古い信徒で、白系ロシア人を下宿させ、面倒を見ていたというユニークでたいへん興味深い方だった。この家族は『函館ガンガン寺物語』にも登場する。ここでも話が弾み、合間には先生ご自身の思い出も語られて、時間はかなり経過した。勧められるままに夕飯をご馳走になり、先生のアパートに戻ったのは、日もとっぷり暮れてからだった。次は函館の義姉97歳の石井ワサさんを訪ねましょう、という申し合わせをして、お暇した。とても長い1日だったが、いきいきと座談をリードされる語り口と人格からかもし出されるゆったりしたムードは、93歳というお年を感じさせず楽しいデートの思い出となった。
 先生のお考えでは、1920年代に増加した函館のロシア人は三つの系統に分けることが出来る(一部は革命前からも住んでいた)。一つは、カラリョフのようにちゃんとした会社に勤めたり、自ら会社を経営していた人たち。二つ目は、ラシャの行商をしたり、パンや菓子を売る小さな店やカフェをやるなど市内で何とか生計を立てている人たち。三番目は湯の川、団助沢の荒れ地を開墾し、農業に依存していた旧教徒や貧しい人たちである。1925年頃は100人以上はいたはずで、復活祭などには教会に何十人ものロシア人が集まっていたそうである。ただ先生ご自身は日常的にはカラリョフ家の息子たちと遊ぶくらいで、他のロシア人とは交渉はなかったのである。
 太田さん宅は、その後も独自に何回かお邪魔して、その成果は来日ロシア人研究会で「札幌における1930年代のロシア人模様」として報告し、また、北海道新聞文化欄に「札幌における白系ロシア人の足跡」として紹介させていただいた。
 因に、この頃の先生は手代木俊一氏監修による『明治期讃美歌・聖歌集成』(大空社)のハリストス正教会編執筆を担当しておられ、生き生きと仕事に励まれておられた。最近になって、先生のお名前も入ったこの立派な著作を見せていただいた。これも先生が残された大きなお仕事の一つなのである。

ベラルーシ政府の表彰と『函館ガンガン寺物語』
 心残りなことに函館を訪問するという2回目のデートは成立せず終いとなった。秋頃にでもという約束は、私が9月後半モスクワに出かけたこともあり、釧路―札幌―函館往復旅行はちょっと荷が重い感じで、その年はなかなか具体的に提案できないままとなってしまったのである。そして1999年には2月にずっと入院しておられた奥様が亡くなられ、先生も何度か入退院を繰り返されておられたため、一人暮らしを禁止されてご長女宅に引き取られたのだった。その間2、3回はお電話でお話したものの、最早「お見舞い」という感じの訪問しかなくなっていた。
 この年には先生にとって晴れがましく嬉しいこともあった。厨川氏が最も心酔している初代ロシア領事ゴシケヴィッチの妻エリザヴェータの遺骨を特定して埋葬、墓石を建て守ってきたことに対しベラルーシ政府と在日ベラルーシ大使館から感謝状を贈られたことである。授与の日にはクラフチェンコ大使自ら江別のお宅まで足を運ばれた。先生は20年ぶりに司祭服に身を包み、精魂込めて『函館ガンガン寺物語』に再現した遥かなる140年前の函館に思いを馳せつつ、歴史の恩返しとも言うべき賞状と記念品を受けたのだった。
 私が先生に最後にお会いしたのは2001年の春で、あの闊達さは失われていたものの、まだ函館やロシア人の話を2時間ほどもおつき合いくださった。残念なことに、予定されていた『函館ハイカラ物語』の執筆開始には至っていなかった。
 ご逝去後の6月末お邪魔して、恭さんから思い出や最後の日々のお話を伺った。恭さん宅での約4年間一度も病気もせずに過ごされ、寝込まれたのは死の1週間前からだった。風邪の症状が出て往診していただき、肺炎の診断だったが、穏やかな経過で亡くなられたのである。死の前日の午後、「恭、オレは明日死ぬからな」とおっしゃったという。
 恭さんの思い出。〈子どもの頃は父を変わった人だと思った。浅草オペラの田谷力三に憧れていた父は、歌詞を書いた紙を壁に貼り、ハモニカを吹き、そろばんを鳴らし、お菓子の缶を足で蹴りながら、3人の娘に歌を歌わせていた。学生時代は陸上をやり、短距離の選手。水泳は小さい頃からずっとやっていて、「土左衛門を助けて死にそうになった」こともあるし、スキーも得意で横津岳で滑っていて、片方のスキーをなくした友人に片方を貸して、自分は死ぬ思いをしたなどの逸話も多い。ここに来てから、私に「お前は常識的だなぁ。そんな常識的な生き方でお前は面白いか」と言われてしまった、などなど〉
 先生は戦前函館大谷高女の教員になり、8年間数学、美術、音楽を担当され、1934年の大火以後は札幌に転去して会社経営に参加された。1960年函館教会の司祭になられた後、函館有斗高の非常勤講師を約20年勤められ、数学、工業英語、倫理社会、美術を担当、合唱指導もされている。とにかく多彩な才能に恵まれ、好奇心旺盛で活動的なアイデアマンでもあられたと思う。だからこそ、あの素晴らしい『函館ガンガン寺物語』の筆力が生まれたのではなかろうか。江戸時代末から筆を起こしているが、叙述がとてもヴィヴィットである。著者がまるでその頃その場に居合わせて経験しているようである。この著書は函館の歴史を語る大いなる遺産として著者厨川勇氏の名と共に特に函館市において記念されるべきではなかろうか。
 この著書では教会が中心に据えられているので、世俗の文化史をカバーしなければ、というのが先生の願いだった。書き残されたものはないが、既に先生の頭の中には構想が形作られていたようにおもわれる。私が断片的に伺った中に、岡田氏による私設の函館図書館誕生物語があったし、ダンスホールや写真屋のお話もあったように思う。この稿を終えるに当たって、『函館ガンガン寺物語』と対をなす『函館ハイカラ物語』の執筆者が出現することを切に願い、期待したいと思う。
(司祭であられた厨川先生の追悼文としては、あまりにに一面的であるのかも知れませんが、教会以外のお仕事について私なりにまとめさせていただきました。先生のご長女阿部恭様にはいろいろお世話になりました。記して感謝いたします。)

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ベラルーシ大使館から感謝状を授与される

「会報」No.24 2003.10.1

新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

中村和之

 北海道の歴史を考える時、アムール川(黒竜江)流域や樺太(サハリン)との接触・交流を無視することはできない。この地域は中国王朝との関係が深く、モンゴル帝国(元)以降も明・清が支配の手をのばしたことが知られている。元は、それまでアムール川流域に置かれていた拠点をすべて廃止し、アムール川下流域のティルに、新たに東征元帥府(とうせいげんすいふ)を設置して支配を強化した。当時アイヌは樺太に姿を現し、ニヴフなどとの間に紛争を起こしていたが、元はこれに介入してアイヌを攻撃し、樺太からアイヌを排除した。
 15世紀の初頭、明の永楽帝は女真人の宦官(かんがん)・亦失哈(イシハ)を派遣し、かつて東征元帥府のあったところに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。以後、明はアムール川流域・樺太の諸集団に積極的に支配を及ぼしたが、現地で活躍した官吏のなかには、アムール川流域の住民から登用された者もいた。明は、貂皮などの朝貢の見返りとして絹織物を下賜したが、そのなかには竜袍(りゅうほう)・蟒袍(もうほう)などといわれた役人の服が含まれていた。これが蝦夷錦とよばれるものである。
 亦失哈は、奴児干都司に併設して永寧寺(えいねいじ)という寺院を建立し、この顛末を記した石碑を建てた。これを「勅修奴児干永寧寺記」といい、立石は永楽11年(1413)のことである。この寺は現地の先住民によって破壊されてしまい、亦失哈によって再建された。亦失哈はこのことの経緯を記した石碑を建てている。これが宣徳8年(1433)の「重建永寧寺碑記」である。
 現在、この2基の石碑はウラジヴォストクに移されているが、ティルに立っていた時の姿を目撃した日本人が少なくとも二人はいる。一人は1809年の間宮林蔵(まみやりんぞう)で、『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』にその時のことを書いている。間宮の記事は良く知られているが、もう一人1886年に黒田清隆がこの地に赴き、石碑を見ていることは、ほとんど知られていない。
 この石碑は、明朝のアムール川下流域・サハリン統治の内容を示す貴重な史料であるが、その内容は清朝を築いた満州族にとって都合の悪いものであった。自分たちの祖先が、明朝の支配下にいたことを示す証拠だったからである。そのため、この石碑の存在は長く忘れ去られてしまい、1885年に曹廷杰(そうていけつ)が発見して初めてその存在が知られるようになった。1891年に出版された『吉林通志』の金石志は、曹廷杰の持ち帰った拓本をもとにしたもので、これによって「勅修奴児干永寧寺記」と「重建永寧寺碑記」の内容が知られるようになった。
 『吉林通志』にいち早く注目したのは、内藤湖南である。日本における中国史研究のパイオニアである内藤は、若いときからこの石碑に注目し、良い拓本を得て釈文を完成しようとした。そのため、現在は京都大学人文科学研究所に収蔵される内藤湖南旧蔵拓本は、日本に現存する最良の拓本とされている。
筆者の調査では、現存する、あるいは採拓されたことが確認できる拓本は、以下の4種類である。

 1.金(きん)旧蔵拓本
  永楽碑表 宣徳碑(曹廷杰の採 拓?、1885年?)
 2.白鳥庫吉旧蔵拓本
  永楽碑表・裏(白鳥庫吉の採拓、 1909年)
 3.市立函館博物館蔵拓本(=新発見)
  宣徳碑(採拓の経緯不明、1924年2月1日に受入)
 4.内藤湖南旧蔵拓本
  永楽碑表・裏 宣徳碑(梅原末 治の採拓、1930年)

 このうち1は、残念なことに拓本そのものではなく、拓本の写真である。しかし状況の良い拓本だったようで、吉林省社会科学院の楊暘(ヤンハン)氏は、1980年代にこの拓本を使って「勅修奴児干永寧寺記」・「重建永寧寺碑記」の研究を一新した。2は現在のところ所在不明である。
 したがって、このたび、市立函館博物館の長谷部一弘氏により発見された3の拓本が、日本では最も採拓の時期が古いものとなる。4に比較するとやや墨が薄いなど、拓本の状況は必ずしも良くないが、3と4とを比較し、それに楊暘氏の釈文とも対校することによって、これまで判読が難しかった文字を確定できる。また、デジタル技術で白黒のコントラストを強調するなど、これまでは考えられなかった方法を用いることにより、「重建永寧寺碑記」の釈文の完成に近づけるかもしれない。
 なお「重建永寧寺碑記」の原碑は、現在は屋外に置かれており、摩耗が激しいため、ほとんど判読できない状態だとされている。その意味でも、今回発見された「重建永寧寺碑記」の拓本の価値は大きいといえよう。

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アルセーニエフ博物館所蔵の永寧寺碑の上部。右から左に「永寧寺記」と彫ってある(『白い国の詩』2000.4より)

「会報」No.23 2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その1)

函館とロシア料理

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 函館では、ロシア料理がはやった時代は大きく2度あったように見受けられる。最初は幕末から明治初期、2度目は大正期から昭和初期にかけてである。
 函館、すなわち日本に初めてロシア人が居留したのは、1858(安政5)年のロシア領事団である。同時に函館にはロシア海軍の軍艦も頻繁に出入りし、乗員たちが上陸した。料理の具体的な内容は別として、彼らが日常領事館や軍艦内で食べていた料理を一応ロシア料理とすれば、函館における、すなわち日本におけるロシア料理は、ここに始まったわけである。彼らと接触を持つ日本人がまずそれを体験したものと想像される。
 1859年に来函したイギリス領事ホジソンは、奉行や各国領事とロシア海軍士官等を招いて正餐会を開いた。正餐は「ロシア風」にふるまわれたと書いてあるのがおもしろい。メニューをあげてみると、スープ、鮭の蒸し焼き、野菜つきの羊肉コートレット、脂身を刺した鶏の胸肉、ケイパーソースのかかった羊の足、野生の鴨と鵞鳥のあぶり肉、タルト、クリーム、コーヒー。それにシャンペンやキュラソー酒等飲み物も供されたが、日本人たちが非常によく食べて飲んだのには、ホジソンも驚いたようだ(多田実訳『ホジソン長崎函館滞在記』)。
 1863年前後にオープンした「ロシアホテル」は、函館で第一号、すなわち日本で最初のロシア料理店でもあったといえよう。場所は当時「大町居留地」と呼ばれた埋立地で、現在は相馬倉庫が建っているあたりである。ロシア人ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフと妻が経営するこのホテルの食堂には、コックとして複数の日本人が雇われていた。彼らは当然ロシア料理のレシピを学んだことであろう。また、ここではパンも焼かれたが、その技術を覚えた日本人従業員が後にパン屋を開業している事実もある(「函館新聞」明治12年9月7日付け)。
 それから経営者の妻ソフィヤは今の海岸町のあたりに、約3500坪の土地を借りて牧場にしていたらしい。牛や豚を飼って、牛乳や豚肉などの食材を自ら調達していたのである。当時の居留外国人たちも、彼女から肉や牛乳を買っていたそうだ(A.H.バウマン「A.ゲルトナーの日記」『地域史研究はこだて』25号)。
 ホテルの主人は1871年に東京での布教を開始するニコライ神父のために上京し、その年、その地で亡くなった(グザーノフ著、左近毅訳『ロシアのサムライ』)。残された妻ソフィヤと番頭のパラウーチンが、日本人スタッフとともにその後もホテルを切り盛りし、1879(明治12)年まで経営が続けられた。20年弱にわたるこのホテルの存在は、函館に少なからぬ影響を残したものと思われる。
 五島軒は1886(明治19)年にフランスで修業したコックを雇って開業した(「函館新聞」明治19年7月9日付け)。それ以前にロシア料理を出していたと言われているが、それを示す同時代資料はない。店主となる若山が明治17年に「森善」という別の西洋料理店で働いていたという記録もあり(『北海道立志編』明治36年)、今後の調査が必要である。1912(大正元)年頃に店の看板を英語からロシア語に取り替えたという記事があるが(「函館新聞」大正元年10月11日付け)、この時にはロシア料理を出していたものと思われる。当時、北洋漁業が好調で、港にはたくさんのロシア船が入った。漁場への行き帰り、多くのロシア人たちが函館でつかの間の休息を楽しんだのである。彼らが買い物をしたり、食事をしたりするので、函館の商店街にとってはいいお客様であった。第二のロシア料理ブームの始まりである。
 五島軒で修業したコックがいたというレストラン「鞍馬軒」(1909年開業)や「ライオン」も大正時代から第二次世界大戦が始まるまで営業していたが、どちらもロシア料理で名をなしていた。その当時の新聞には「ロシヤ料理/独特ザクースキとロシヤスープ/クラマ軒」、「精養軒の黒パンとライオンのビフテキ」といったような広告が頻繁に掲載されていた。五島軒は今も営業を続けているが、鞍馬軒やライオンが戦後復活できなかったのは、誠に惜しかった。
 なお、ロシア革命を逃れて亡命してきた、いわゆる「白系ロシア人」の店があったことも函館らしい。大正から昭和戦前期、銀座通りにはロシア人が経営する「チョコレートストア」があったというし、松風町にはズヴェーレフの経営になる喫茶店「ヴォルガ」があった(『近代函館』昭和9年)。またカムチャツカから来たプシューエワ母娘もロシア食堂を開いていた(「異国流亡」『経済往来』1974.8)。十字街にはオスモロフスキイ経営の食料品店があり、「カルバサ(ソーセージ)」が人気を博していた(「函館新聞」大正15年4月2日付け)。市内の至る所にロシア人の「パン売り」が見られたことも函館の風物であった。
 第二次大戦後は、ロシア人の血をひく吉田和子さんが1980年に始めたロシア料理店「カチューシャ」が特筆できる。オホーツク市で貿易商を営んでいた先祖は、パルチザンによって財産を奪われ、命からがら函館にやってきた。お祖母さんから教わったロシア料理のレシピが吉田さんの宝物だそうだ。

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「函館日日新聞」(明治42年11月3日付け)掲載の露西亜パンの広告

「会報」No.23  2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その2)

函館という名の夢

2012年4月24日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキイ(訳 岩瀬夏実)

 沿海州の南の静かな田舎町ウスリースクで、この手紙を書いています。両親が暮らす小さな家の窓からは、昼も夜も車が果てしなく走り続けるウラジオストク―ハバロフスク自動車幹線道路が見えます。ロシア正教会の鐘が代わる代わる街中に鳴り渡り、車の騒音をかき消しています......。
 この数年で、街はアジアに向けてその扉を広く開け放ちました。ここには、沿海州で最大の中国市場があり、至るところに中華料理レストランが建ち並んでいます。ウスリースクの住民が日常生活で使うもののほとんどが中国製です。日本に関するものと言えば、ただ街の通りを走る自動車だけが、日本を思い起こさせます。とりわけ面白いのは、貨物自動車やトラックに日本語で、JR西日本、コープ、宅急便などと書かれていることです。ときおり、交差点では、そのような貨物自動車から日本語で、「左に曲がります!」とアナウンスが聞こえてきたりするのです。
 日本......。地図の上では目と鼻の先にあるのに、果てしなく遠く、まるで異次元にあるかのような国......。映画『おろしや国酔夢譚』の主人公が、「おろしや......あれは夢だったのか」と叫んだように、「日本......あれは夢だったのか」と叫びをあげることしかできません。実際、それがもし夢だったなら、とても素敵で幸福です。夢のあとには、今の生活と曖昧さに満ちた将来の現実に立ち返らざるをえないのです。しかし私たちは、かくある自らの運命に感謝しています。私たちは、数年のあいだ函館で過ごすことができました。両親と、日本について話すとき、「彼らの日本では」とは言えず、つい口癖で、「私たちの函館では」と言ってしまうのです......。
 函館の街には、まるで鏡のように、最も重要な歴史的事件や経過が映し出されています。それは、現在の日本の地理的な範囲だけではなく、太平洋の北西地域という大きなスケールにおいてです。函館は、日ロ関係の歴史のうえでも特別な位置を占めており、ロシアの文化を日本へ送り出す門戸の役割を果たしています。そのことを今もって思い起こさせるのが、ロシア正教、ロシア人墓地、ロシア領事館その他多くの建物です。かつて、函館の街には、ロシアの国内戦争から逃れてきた大勢のロシア人亡命者が住んでいました。ここには、南樺太や千島からの数千人もの引揚者が暮らしています。私は、彼らの運命に興味と親近感を覚えます。というのも、彼らの生まれ故郷は樺太と千島、そして私の故郷はサハリンとエトロフであり、それは実際上同じ場所なのです。残念ながら昔も今も、サハリンと千島の歴史は決して交わることなく平行して進み、日本人には日本人の、ロシア人にはロシア人の歴史がある。私は、函館にやって来るまでそう思っていました。
 函館日ロ交流史研究会の諸先輩や友人との興味深く独創的な交流は、多くの点で私のこの紋切り型の考えを打ち壊すことになりました。サハリンやクリル諸島の歴史の断片が、「純粋にロシア」あるいは「純粋に日本」ということはありえないのです。とりわけこれらの島々や北東アジア全体の非常に複雑な歴史的経過を正しく理解するには、ロシア、日本、中国、朝鮮その他の国々の考古学者、民族学者、歴史家らの独創的な協力が必要です。微力ながら私が参加させていただくことができた函館日ロ交流史研究会の活動は、ロシアと日本の歴史家の相互理解を深めるという方向性をもち、そのことは、日ロ関係の歴史における出来事や経過の客観的な理解を深めることに役立つものとなるでしょう。
 サハリンにおける日ロ関係の歴史に関する学位論文の準備に際しては、研究会の諸先輩に全面的な援助をしていただき感謝しております。日本とロシアの間の領土問題が、様々な歴史段階において、日ロ関係に影響を与えた重要な要因のひとつとなっているということはよく知られています。私の仕事は、19世紀の日ロ関係における主要な領土問題の研究―「サハリン問題」―に向けられています。研究会の諸先輩は、きわめて当然のこととして、「サハリン問題」と20世紀後半の領土問題―今もって未解決で現段階の日ロ関係の前進的な流れに歯止めをかけている「北方領土問題」―の間には、原因となる歴史的類似現象として関連性があることを指摘されていました。同時に、歴史的資料によって、「サハリン問題」が17世紀から19世紀にかけてロシアと中国の間に存在した「アムール問題」から派生したものであることが証明されています。そして、ロシアと中国、ロシアと日本の結びつきの強化、とりわけ、これら国家間の領土策定の過程が、何もない場所で行われたのではなく、長期にわたる歴史の中で中国と日本の「従属関係」を介した文明の影響下にあった人々が暮らす「周辺地域」と呼ばれる一帯で起きたことなのです。
 19世紀の領土策定過程で日ロ間に起こった出来事を客観的に理解するためには、極東全体において、それらの出来事が歴史的過程で果たした役割を認識し、関連する歴史学や民族学、歴史地理学の研究の成果を考慮することが必要です。私はその仕事に取り掛かりました。
 過去の事実と出来事が映し出す客観性と、見解が確立している過去の事象に対する批判的な分析は、ロシア、中国、そして日本の新しい一次史料を学術利用するのと同様に、非常に重要な要因となっているのです。私は仕事の上で、日本の一次史料を使い、ロシアがアムール問題の最終決定の範囲でサハリン島を戦略上監視下に置こうとしたことによって、幕府やその後の新しい明治政府の政策が活性化されたということを示そうと試みました。
 1860年の末から1870年の初めにかけて、明治政府はサハリンの南部の植民地支配をしようとしました。サハリンをめぐる日本とロシアの領土に関する論争に影響を与えたのが、1875年のサンクト・ペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)です。20年にわたって領土策定の様々な案が検討されたのち、ロシアと日本はペテルブルグで、きわめて独創的な決定を受け入れることになりました。それは、極めて離れた場所に位置するそれぞれの領土を交換するというものです。加えてロシアは、サハリンの戦略的領有を保障し、経済制裁を行ったりは決してせず、その後30年にわたって日本がサハリンで漁業を営むことができるようにしたのです。
 函館で私が研究していたサハリン問題は、極東地域のロシアへの複雑な併合過程のほんの一部分でしかありません。今後私は、アジアにおいてロシアが果たした役割について研究すべく、微力ながら力を注いでいくつもりでおります。とりわけ、アジア・太平洋地域でのロシア帝国の外交政策、そして露米会社の活動にも興味があります。函館日ロ交流史研究会の諸先輩そして友人の皆さんには、今後ともご支援ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします。この場をおかりして、研究会10周年をお祝いし、歴史的知識の普及と歴史家の国際協力を進める研究会の有益で崇高な活動にご期待申し上げます。

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送別会でのアナトーリイさん(2003.3.15)

「会報」No.23 2003.7.1 特別寄稿

地に落ち、豊かな実を結んだ人々 ―『異郷に生きるⅡ 来日ロシア人の足跡』を読んで―

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 2002年6月8日、9日、当地の北方歴史資料館を会場に「来日ロシア人研究会」の研究合宿が開かれた。交流史研究会にも案内があり、出席させていただいた。小生は、よんどころない事情から初日の第1セッションしか拝聴できなかった。しかし、この函館合宿で発表された各氏の研究成果をもとに本年4月に成文社から『異郷に生きるII 来日ロシア人の足跡』として刊行されたので、遅ればせながら、あの時の追体験をすることができた。
 本書は6部構成からなる。「1.異郷に生きる」では文字どおり異郷たる日本に生きているロシア人からの聞き書き2編、それに来日したロシア人をマスとして捉え、その来日時期を3波に分け、それぞれの特徴や相違・類似点を総合的に分析したP.ピョートル氏の論攷「ロシア人はいかに来日したか」からなる。
 清水恵さんが聞き手となって纏めた「リュボーフィ・セミョーノヴナ・シュウエツさんに聞く」は、第1集の「サハリンから日本への亡命者―シュウエツ家を中心に―」の続編にあたる。第1集では1936年に函館を離れたシュウエツ家が、神戸を経由して東京に落ち着くが、その後当主となったヴァレーリイ・シュウエツは「在日ロシア人が横浜の外人墓地に埋葬される時には、ほとんど毎回のように立ち会った」と述べられている。第2集の聞き書きでは、話者として登場するリュボーフィさんの妹が1963年に亡くなり、横浜の外国人墓地に埋葬されるが、その際に一切を取り仕切った人物が、ほかならぬ、このヴァレーリイ・シュウエツであり、しかも彼は、のちには話者の伴侶となるという奇縁が語られている。ヴァレーリイは結婚する前にはロシア語通訳の仕事をしており、ボリショイサーカスの仕事もしたという。ボリショイサーカスといえば、1958年に初来日しているが、彼らを日本に招聘したのが函館出身の神彰(作家有吉佐和子の夫、後離婚)であったから、二人はどこかで遭遇していたかもしれない。ちなみに神彰は、交流史研究会の幹事である佐藤一成氏の函館商業学校の1年先輩にあたり、美術部に在籍という縁からいろいろな交流があったという。
 さて聞き書きに戻ろう。リュボーフィさんは、下関で生まれ、長崎で育ち、戦時下も日本に留まる。スパイ呼ばわりされるなど、辛い思いをしたようだが、父親の励ましの言葉で支えられていたという。強制疎開も経験させられ、また米軍機による来襲時には、急降下してきた戦闘機から相手の顔が見えるくらいの低空飛行で、パイロットが自分を日本人ではなく外国人と認識したため、難を免れたといった生々しい体験談が臨場感たっぷりに語られている。戦後は一時、神戸にでて、その後、横浜に移住、結婚して以来ずっと東京に住まいされており、昨年の研究会にも出席されていたのが記憶に新しい。なおリュボーフィさんが軽井沢に避暑に出かけた時のことが回想されているが、ここで私たちは再び函館に繋がる人物に出会う。それはA・デンビーとその妻マリヤ、さらにその妹ニーナ、それに彼女の夫のK・プレーゾの面々である。ちなみに平成元年、プレーゾの手を経て、デンビー一族の肖像画が市立函館博物館に寄贈されているが、昨年、同館の特別企画展において「函館ゆかりの人々」のコーナーでそれらの肖像画が展示されていた。
 次の「2.芸術家たち」は4編からなる。安井亮平氏の「ブブノワとトワルドフスキー」は、日本から帰国して絵画創作のかたわら絵画論や回想記を書き始めたブブノワ晩年の活動を紹介し、文芸誌「新世界」の編集長で詩人のトワルドフスキーとの邂逅と両者の訣別に至る経緯からブブノワの人柄にも言及する。書くという行為が、「目の記憶」=「個人生活のもろもろの面に現れる人間性の光景」を表現するためとするブブノワにしてみれば、「社会的意義」を強調する「ソビエト社会のエリート」たるトワルドフスキーとの間の対立は必然となるだろう、しかも両者の出自や個を形作る時代・環境差もパラレルに対立要素をもたらしたという指摘に同感することしきりであった。
 石垣香津氏の「来日ロシア人の肖像画―画家鶴田吾郎のロシアへの思い」を開くと鶴田の描いた「盲目のエロシェンコ」(表紙カバー参照)が目に飛び込んできた。何か懐かしい人との再会を果たしたような気がした。それが何であったか思い出すのに少々時間がかかったが、7年前に読んだ『新宿中村屋相馬黒光』(宇佐美承)であり、挿絵として使われていたものであった。石垣氏の論攷によって、若い日にロシアに憧憬をもった鶴田吾郎という一人の画家が複数のロシア人の肖像画を書くに至った状況を詳細に知ることができた。『盲目の詩人エロシェンコ』(A.ハリコウスキー)によると、エロシェンコは新宿中村屋を舞台に早稲田大学教授の片上伸らと交流を持っており、1915年7月に、その片上に誘われて北海道旅行を行い、函館では知人の教師大西亀三郎方に滞在している。ちなみに片上伸の父は、片上楽天といい、伸が来函した翌々年の1917年に大西らとともに五稜郭公園の中で懐旧館という観覧施設を開設している(大正6年8月8日付け「函館新聞」)。
 中村喜和氏は、1982年に来日したソルジェニーツインの日本印象記が2000年に「ノーヴィ・ミール」誌に発表されたので、それをもとに要約紹介されている。日本で案内役をつとめたロシア文学者の木村浩には一貫して好意と敬意を示しているソルジェニーツインであるが、日本食をはじめ「日本人の話し方、笑い方、暮らし方、それに心のもちかたまでが、彼の共感を拒んだ」という。苦虫をつぶしたようなソルジェニーツインの顔が目に浮かぶようだ。彼はいつも機嫌が悪いのだろう。そのほうが彼らしい(?)。
 「3.学者・教師たち」では3人の人物が紹介されている。小山内道子さんの「ワレンチナ松坂=宮内の人生の軌跡」は、ハバロフスク生まれのワレンチナさんという女性に焦点をあてている。同地の領事館でロシア語通訳を務めていた松坂与太郎と結婚、のちにハルビンに移り、ソ連参戦により夫は行方不明となる。1952年に夫から日本に行くようにとの便りがあり、子供らをつれて夫の親戚を頼って来日、最初は網走に住み、それから札幌に移る。1955年に夫が抑留生活から解放されて帰国が叶う。しかし彼はラーゲリ生活の後遺症からかワレンチナとの生活に破綻をきたし、一人で上京してしまう。その後、宮内幸雄と再婚。かつて宮内が北大の助手であった時に彼女からロシア語を習っていたが、彼女の子供達の教育にも誠実に対応していたこともあり信頼を寄せられており、二人は結ばれたのである。ワレンチナは1970年から札幌大学のロシア語講師として10年勤める。彼女は講壇だけの先生に留まらず、自宅を開放して学生たちによる「文化ロシアのミニサロン」となっていく。全てを包み込むような包容力のあるワレンチナ先生はどんなに学生達に愛されたことだろう。彼女の晩年にかつての教え子が通い続けたという。「「一粒の種」ワレンチナは札幌の地に落ちて、豊かな実を結んだのである」との結語に然り。
 「4.宗教家たち」では、「宣教師アンドローニクの日本滞在記より」と題し清水俊行氏がニコライを援助するために来日したが病気に罹り、1年足らずの滞在で帰国しなければならなかったことから「今では忘れられた存在」となっているアンドローニク宣教師の人となりを彼の日記をもとに紹介している。この中で函館に関係する興味深いエピソードが目にとまった。アンドローニクの来日から1か月が過ぎたころ、ニコライは彼をどこに配置するか熟慮していた。そんな時に函館の信徒がサハリン(樺太)の優良漁場を得て、その利益の三分の一を教会に捧げるという約束でニコライから親書を取り付け、漁場の提供を受けたが、他の漁場まで侵入して利益を得るという事件を起こす。このため沢辺神父は、事件のために信頼を失った山縣神父の後任にロシア人神父の赴任を求めたが、ロシア人宣教師は日本正教全体の発展のためであるとして、ニコライが函館派遣に難色を示した。
 この事件に関した当時の新聞記事を清水恵さんから教えていただいたので紹介しておこう。明治30年7月12日付け「小樽新聞」に「希蝋教僧侶の漁業」の題で報道されているものである。それによれば、サハリンの西海岸は、かつて日本人に漁業を許可していなかったが、函館の同教神父(日本人某)が教会費補充のために同所に好漁場を開くことが許可された。その神父はニコライ主教からロシア公使あての添書をもらい、それをもとに公使からサハリンのロシア官吏あての紹介状を得て、サハリンに渡り、その請願が受理されたという。「日記」と「新聞記事」の記述はほぼ合致している。記事は、この神父には2人の従者がいるが、漁業の利益は彼らに占められるだろうと締めくくられている。記事中の神父某は「日記」によって山縣神父ということが明らかとなる。また明治31年6月28日付けの「小樽新聞」には、「函館復活正教会」名の広告が掲載されている。函館の下田孝吉と長瀬長兵衛の二人が明治30年6月、7月に「薩哈嗹嶋」のタムラオ、ロモウ、ナヨロ他1箇所において鱒鮭漁業の許可をロシア政府から受けたが、彼らは当教会の代表役員の名義を乱用または詐称出願したものであり、最初から当教会は該事業に何ら関係はなく、ニコライ主教の承認を得て広告するという内容である。先の記事にある二人の従者とは「下田と長瀬」を指すと考えられるから、記事の予測したとおりの結果となったようだ。神父を巻き込んだ信徒による詐欺まがいの事件は正教会にとっては苦々しいものであったろう。
 「5.日本海を越えて」は4編からなるが、倉田有佳さんの「函館における露国艦隊1922年秋」などが所収されている。昨年の函館合宿、そして当会の2003年1月「第3回研究会」での発表と、内容を深めていったものである。概要は会報No.22を参照していただきたい。赤軍によるウラジオストク入城という政変にかかわり函館と小樽に入港した避難民を乗せたロシア艦隊の動向を函館の地元紙3紙を渉猟して、精緻な筆致で描いている。「はじめに」でそれらの艦船の「碇泊港での出来事や出航に至る経緯を明らかにする試み」は成功したというべきだろう。シーシャン号のウラジオストク回航に奔走するデンビー商会のダニチ支配人、同商会がロシア義勇艦隊の代理店を務めているから当然といえば、それまでであるが、水上署と歩調をあわせた彼の敏捷な動きに注目した。また露領漁業でカムチャツカなどへ漁夫や漁業用物資の輸送で用船される機会の多かった第2錦旗丸がロシア人避難民輸送のためにチャーターされるという巡り合わせも奇遇だ。
 「6.資料」は沢田和彦氏による「「日本で出たロシア語定期刊行物」書誌」。1900年代から1950年代までの日本で刊行されたロシア語の雑誌、新聞類の定期刊行物のリストである。所蔵先のリサーチといい、その一覧といい圧巻であり、これは研究者にとり、ありがたい1級品のデータとなろう。沢田氏のご労苦に敬意を表したい。函館関係でいえば竹内清の「週間函館」やアルハンゲリスキーの「日本の新聞雑誌展望」がリストアップされている。
 第2集を読み終えて、主に来日したロシア人の歩み、そして、そこに生まれた人と人との交流、そうした点にスポットを当てた、各自の研究は、歴史研究を包括しつつ、人間洞察という点における深さを表現し得ているように思えた。そして、編者の長縄光男氏の「はしがき」の言葉を借りれば「日本人研究者にとっては、ロシアとロシア人、そしてロシア文化への敬愛の念」があってこそ、はじめて成り立つ作業なのだということも痛感させられる秀作揃いの1冊であった。各著者にあらためて感謝したい。

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「会報」No.23 2003.7.1 新刊本紹介

F.P.ビリチについて

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチの名前は、漁業家デンビーとの関わりの中で、時には「デンビーの子分」として、良く知られているのではないだろうか。しかし、筆者がビリチに関心を持ち始めたのは、ほんの3ヶ月程前のことで、これは、当研究会の今年2月の研究会報告でも取り上げた、1922年秋にオホーツク・カムチャツカ方面から函館や小樽に寄港した、露国艦船の問題と深く結びついている。事件の詳しい経緯は、会報22号あるいは『異郷に生きる II』を参照されたい。
 筆者は、論稿を仕上げた時、当時のオホーツク・カムチャツカ方面の赤軍と白軍との政治的対立や政治情勢の変化について言及できなかったことを、少なからず恥じていた。しかし、関連資料も調査する時間も限定された中では、事件のあらましだけでも明らかにしておくことを当面の課題とせざるを得なかった。
 脱稿直後、当会会員の清水恵さんから、1923年3月1日付『函館毎日新聞』の記事を見せていただいた。そこには、「前カムチャツカ執政官」ビリチが、著者が論文で取り上げた、あの「トムスク」号でペトロパヴロフスクから避難し、しばらく小樽に滞在した後、上海方面に亡命したが、ウラジオストクの赤軍の手で捕らわれ、投獄された後に市外の刑場で銃殺されたことが報じられていた。
 そのような人物が「トムスク」号に乗っていながら、なぜ記事に取り上げられることがなかったのか、強く疑問に感じながらも、これをきっかけに、これまで筆者にはなじみの薄かったビリチという人物について知りたくなり、新聞等で調べてみた。すると、小説にでもなりそうな波乱万丈の人生を歩んだことが明らかになり、彼を中心軸に置いて、19世紀末から20世紀初頭のロシア極東と函館(日本)の歴史的関係を明らかにしてみたいと考えるようになった。
 本稿は中間報告であり、今後の課題も少なくないが、会報に発表することによって、当会会員はもちろん、漁業と関わってこられた函館在住の方々の知るところとなり、本稿の誤りに対する指摘や、新たな情報の提供が生まれるなど、有益な反響を期待するところである。
 なお、漁業家としてのビリチについては、清水恵著「函館におけるロシア人商会の活動―セミョーノフ商会・デンビー商会の場合―」『地域史研究はこだて』21号、今田正美著『日魯漁業株式会社社史』で言及されているため、本稿でも各所で参考にさせていただいた(前者は、以下では引用を(1)で示す)。
 筆者はビリチの生涯を次の6つに大分してみた。1.サハリン流刑以前(1863年~1883年頃)、2.サハリン時代(1884年~1900年頃)、3.函館を拠点に漁業家としての基盤を築いた時代(1901年頃~1903年頃)、4.日露戦争と弘前での捕虜収容所時代(1904年~1905年)、5.カムチャツカの漁場で活躍した時代(1906年頃~1921年頃)、6.プリアムール政府特別全権~カムチャツカへ派遣~ウラジオストクへ引揚~銃殺(1921年10月~1923年2月)。

1.サハリン流刑以前(1863年~1883年頃)
 フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)は、1863年にロシアで生まれた。かつては将校だったが、1884年に軍規違反の罪で3年間サハリン流刑を宣告された(『宣教師ニコライの日記抄訳』、以下、引用は(2)で示す)。
 『日魯漁業株式会社社史』には、「その兄が医者であったため、これを扶けているうち自然医術を身につけ、薬剤の調合なども心得る器用な、利口な人であったが、その薬剤知識が仇となって劇薬の用法で法に触れる間違いを起こし、サガレン下りとな」ったとある。
 出生地を始め、サハリンに流刑される以前のことをビリチは語りたがらなかったのだろうか、その辺の事情を知る人は少なかったようである。

2.サハリン時代(1884年~1900年頃)
 流刑囚時代のビリチについては、樺太の一漁夫の投稿による新聞記事に詳しい(『東奥日報』明治38年8月23日および25日)。これは、同時代人が語る資料として貴重であるが、反面、当人は、ビリチ、デンビーは、「種々奸計を廻らし地方官吏に利を喰はして、己に許可になった漁場を威嚇的に横領した」他、ビリチは「君主然としてその漁場に居る漁夫の如きに対して公然殺生与奪の件を振ふて居た」として、ビリチに敵意むき出しにするなど、情報の客観性が問われるところである。
 ともあれ、「樺太の一漁夫」の話をまとめると、ビリチは殺人罪で流刑された囚人で、デンビーが「マウカに越年して辛く漁場を営んで」いた時に、ビリチは「徒刑囚として他の囚人と同じく灰色粗製の囚人衣や臭き羊毛の羊皮衣を身に纏ひ、満州人夫と共にデンビーの漁場で雇われ昆布採集を」行っていた。「デンビーは越年中、退屈の余り」ビリチを「露語の教師として露語を研究した」。それが元で、だんだんデンビーとの縁故ができ、引き立てられるようになった。その後、デンビーが病気に罹ると、コルサコフの病院に入院中、「元看護夫揚り」であるビリチは薬に関する知識を生かし、一生懸命看病に当たった。幸いデンビーは全快し元気になったため、それ以降は一層ビリチを「寵愛」した。
 前掲『日魯漁業株式会社社史』にも、「流刑地のサハリンで医者まがいのことをやっていた」こと、デンビーに医療面で施した恩がデンビーの共同事業者としての関係の基礎を造ることになったことが言及されている。
 時にジョージ・フィリプス・デンビーは40代半ば(1840年生)、ロシア国籍を取り(1894年頃)、漁場経営を有利に進める前のことであった。

3.函館を拠点に漁業家としての基盤を築いた時代(1901年頃~1903年頃)
 前掲「函館におけるロシア人商会の活動」によると、1900年初めには、セミョーノフ商会の資金で漁場経営をしていたロシア人が何人かおり、彼らの素性はビリチ同様、もと流刑囚農民が多かったようである。中でもビリチは、セミョーノフ商会経営及び同商会の融資漁場の3分の1近くを所有し、金持ちの漁業家として地位を築いていった。
 1903年9月7日、当時東京を拠点に宣教活動を行っていたニコライの下を訪れている。ニコライに渡されたビリチの名刺には、住所は「サハリン島、ウッスロ」となっていた。ニコライは、「ビリチは金持ちの漁業家である。彼の会社では、日本人向けに肥やしとなる鰊粕を作るために700人以上の日本人と100人以上のロシア人が雇われて働いている」と日記に記している((2)。
 前掲の「樺太の一漁民」は、この頃のビリチについて、「漁が当たりまして、開戦前迄には十二箇所の漁場を得て営業して居りました。段々金も自由も使い、追々頭を擡げると云ふ工合で、函館辺へ参りましても紳士風を吹かせて居りました」と語っている。
 経済的な豊かさを基盤に、紳士然とした立ち居振る舞いで、時のロシア領事の信頼を得るようになっていたのだろうか、ロシア領事館用の土地が必要となった時、ビリチがロシア政府の内命を受けて土地を物色し、代表して契約者となっている。
 これは1901年(明治34)のことで、当時船見町一帯に通称「西出山」と呼ばれたほどの広大な地所を所有していた西出孫左衛門が、五反五畝八分の畑地(1657坪)を9948円60銭で(9947円60銭とも)中瀬捨太郎宛に売り渡した。ここは、旧ロシア領事館が現在建っている場所と同じ船見町125番地の3で、当時の政府は、外国人名義で不動産登記を行うことを禁止していたため、中瀬がその信託的名義人となり、ビリチが地上権を999年にわたり賃貸借するという形が取られた(清水恵、A.トリョフスビャツキ著「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館」『地域史研究はこだて』25号および『北海道新聞』昭和31年12月3日)。また、売渡証書によると、このうち、領事分が1129坪で、ビリチ分が539坪と、ビリチは全体の3分の1強を所有することになった。
 この時代のビリチの生活は、順風満帆のように見えるが、わが子の教育には頭を痛めていたようである。先述の1903年9月7日に書かれたニコライの日記によると、当時ビリチには、長女エミリア12歳、長男セルゲイ9歳、次男パーヴェル8歳の3人の子供がいた。長女は、前年の同時期(1902年9月頃の意)、ビリチの妻が、カトリック系のフランス人学校に入れるために東京に連れて来た。そして、今回はビリチが3人の子供を連れて上京したが、これは、長女エミリア同様、下の2人の子供たちも同じ学校に入れるためであった。
 子供たちをロシアの学校に入れない理由についてビリチは、「残酷な寄宿舎学校の生徒が、息子たちを流刑囚の子供と言っていじめるのではないか、そのため息子たちがつらい思いをするのではないか、と恐れている」ことをニコライに話している。その一方で、「子どもたちにフランス語を身につけたいのだが、こんな年齢ではもう無理だということもよく承知している」とも述べており、その複雑な心境が伺える((2)。
 この時、ビリチが宣教団に100円献金したいと遠慮がちに申し出たこと、また、ビリチの妻もその前年、50円献金したことについても、ニコライは日記に記している。

4.露戦争と弘前での捕虜収容所時代(1904年~1905年)
 日露戦争中、ビリチは義勇兵隊長として参戦した。当時の新聞には、「義勇兵(囚徒)」とあるように(『東奥日報』明治38年7月25日)、ビリチはサハリンの囚人を統率して戦ったものと考えられる。前掲の「樺太の一漁民」は、「公権剥奪されたる免囚が、戦争の賜物で一躍大尉に任ぜられ、厳しく官服を纏ひ元の仲間たる免囚義勇兵を指揮すると云う境遇に上ったのは、本人も定めし満足のことであろう」と、皮肉たっぷりに書いている。
 ビリチ自身の言によると、戦争中は、コルサコフとアレクサンドロフスクの中間におり、その連絡をとる要務にあたっていた。しかし、弘前出身の向井連隊に捕らえられ、1905年8月12日に青森に到着、他の将校等と共に弘前の収容所に送られた(『東奥日報』明治38年8月12日)。
 当時、将校は土手町の天理教教会に、従卒は民家に収容され、その数は大佐を含む将校が15人、従卒は10人に上った(『弘前市史』)。ビリチは将校扱いであったため、天理教教会に収容されたに違いない。
 弘前の人たちは、ロシア人捕虜が、家族や従者を連れてきたことにたいそう驚いたようだが、ビリチの場合も妻を連れ立ってきた。その妻について、前掲の「樺太の一漁民」は、ビリチの妻は、「放火犯で同島へ流刑に処された女の娘」であったこと、弘前時代の話として、ブランデー5瓶を傾け、「酒狂の余り同伴の下女を殴打し警察に厄介になった」ことを伝えている。
 ビリチは、1905年11月30日にもニコライの下を訪れており、ニコライは日記に、「弘前より、捕虜のフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ来訪」と記している。この時ビリチは、戦場における日本人の残虐行為についてニコライに詳しく語っている((2))。なぜニコライにそのような話をし始めたのか、なぜニコライに会いに行ったのかといった疑問が湧くが、残念ながらニコライの日記には記されていない。もしかしたら、フランス人学校に通う子供たちの様子を伺うために上京したのかもしれない。
 弘前のロシア人捕虜収容所は、1905年7月26日に設置され、12月16日に閉鎖された(『弘前市史』)。

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弘前のロシア人捕虜(『青森県史』資料編 近現代2より)

5.ムチャツカの漁場で活躍した時代(1906年頃~1921年頃)
 日露戦争の結果として、サハリン南部は日本領となり、デンビーはサハリンの漁場を失った。しかし、その代償として多額の賠償金を得、それを元手に、カムチャツカに進出し始めた。一方、ビリチも日本政府に補償を求めたが、ロシア政府との契約自体が正式なものではないとして却下された((1))。
 さて、1907年、ロシア政府が自国民の漁業誘導を目的に、ロシア人だけに沿海州沿岸河川内に長期漁業の許可を与えると、ビリチは、カムチャツカ東海岸のストルボーワイ川とネルピーチ湖を落札した。そして、デンビーと資本を同一にし、パートナーとなった((1)。
 この時代の漁業家としての活躍ぶりは、前掲「函館におけるロシア人商会の活動」および『日魯漁業株式会社社史』に詳しいが、筆者が特に注目したのは、後者の、「1914年(大正3)頃のデンビー商会は、ウスカム河川漁区3、海面漁区5を基に、缶詰工場2、冷蔵庫、孵化場を経営し、デンビーとビリチの住宅をはじめ、北欧人幹部職員の住宅、事務所、労務者のアパートなど、防寒住宅が軒を並らべ、病院も病室や医療設備を整えたので、カムチャツカ随一のものとなり、部内の傷病者診療手当てはもとより、遠い奥地から現地人が、夏は舟で冬は犬橇りで診療を乞いに」来たという指摘である。
 おそらくビリチは、カムチャツカの地理や現地事情に詳しく、かつ、現地の少数民族の間でも広く知られる人物であったに違いない。

6.リアムール政府特別全権~カムチャツカへ派遣~ウラジオストクへ引揚~銃殺(1921年10月~1923年2月)
 さて、1921年5月、ウラジオストクでは、資本家のメルクーロフを首班とする白衛派政権が樹立された。そして同年10月末、メルクーロフ政府の命を受けたビリチは、オホーツク・カムチャツカ地方のプリアムール政府特別全権として、200名のコサック兵を率いて、艦船「キシニョフ」号でウラジオストクからカムチャツカに向かった。
 真偽のほどは定かでないが、大正12年3月1日付『北海タイムス』は、ビリチがカムチャツカに向かったのは、艶麗で虚栄心が高い妻が、一生の願いとして女王になりたいという「御伽噺にあり相な希望」を言い出したためだと報じている。さらに同記事には、ちょうどその頃は、「ロシア各地に於ける赤白の闘争激しく、ビリチにして見れば、自分が王となり、美しい妻を女王となすべき絶好の機会に思われた」ため、妻から託された5万円で「ボロ軍艦2隻」を購入し、「白軍兵の野心家」達を乗り込ませ、自分は「総司令官」としてカムチャツカの首都ペトロパヴロフスクに向かったと伝えている。
 時に、ビリチ58歳であった。同記事によれば、ビリチの妻は「農夫の娘とか漁夫の娘とか噂されていた」ということだが、筆者には、これが長年連れ添った妻と同一人物とはどうも思われない。
 いずれにせよ、カムチャツカ制覇の野望やデンビーと共に開拓したカムチャツカの漁場を赤軍の手に渡すことはあってはならないという思いから、地の利があるカムチャツカに乗り込んだのではないかと筆者は考える。
 先の『北海タイムス』の記事は、ビリチの最後について、「トムスク」号でペトロパヴロフスクを逃れ、ウラジオストクへ赴いたが、時既に遅く、身の置き処がないビリチは、暫しウラジオストクに潜伏していた。しかし、赤軍の手に発見され、2月8日に銃殺されたと報じている。さらに、2月8日にビリチがウラジオストクで銃殺されたことは、カムチャツカの漁場経営を専門的に行っていた函館の大北漁業に入電があったこと、彼の妻のその後については判明していないことにも触れている。
 このように、ビリチの最後については釈然としない部分もあるが、いずれにせよ、この当時のウラジオストク、そしてオホーツク・カムチャツカ方面の政治情勢を明らかにすることが先決であろう。

終わりに
 ビリチの数奇な運命の糸を手繰っていく作業は、大変魅力的であるが、ビリチ自身はなんとも人間的魅力に乏しい。しかし、筆者がこれほど強い関心を抱いた来日ロシア人はこれまでにいなかった。
 最後にお願いとして、ビリチについては、その顔すら明らかでないため、資料・情報等お持ちの方はご教示いただきたい。

「会報」No.23 2003.7.1 研究ノート

元山のロシア人避難民(1922年秋) 函館港における「マグニット号」とその周辺をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 日本軍のシベリアからの撤兵の完了期日である10月25日の前後、当時日本の統治下にあった朝鮮の元山には9000人以上のロシア人が避難した。その大半はウラジオストクからスタルク提督に率いられた船団で避難した陸海軍人であった。朝鮮総督府内務局がまとめた元山のロシア人避難民に関する報告書『露国避難民救護誌』(1924年)には、「マグニット(函館より廻航せるもの)」との記述がある。そこで筆者は、当時の新聞(『函館毎日新聞』、『函館日日新聞』、『函館新聞』)を主な情報源として、この一件についてまとめてみることにした。
 そもそもマグニット号とは、シベリア艦隊所属の白軍砲艦(排水量750トン)で、メルクーロフ政権下でカムチャツカ、樺太方面でのパルチザンや日本人などの外国業者の略奪的な漁撈や木材伐採を取り締まるためにスタルク提督が派遣した特務艦であったが、友軍への弾薬、食糧、物資の海上補給にも当たっていた(関栄次『遥かなる祖国』)。
 日本軍のシベリアからの撤兵後、ペトロパヴロフスクでは赤軍勢力が著しく増加し、情勢が危険になると、同地の白軍とその家族全員はウラジオストクへ引揚げる決意をした。11月2日、マグニット号に白軍将卒等114名(140名とする記事も有り)が、同艦船の僚艦であり露国義勇艦隊所属貨物船のシーシャン号(総頓数1362トン)には白軍兵及び同家族約110名が乗り、約4年分の食糧を積込み出航した。しかし沿岸を巡回中暴風激浪に遭い、11月8日、函館港外に碇泊した。
 無線の故障から、ウラジオストクが赤軍に制覇された事実を一行が知ったのは函館入港後のことで、白軍将卒は赤化したウラジオストクに行くことに断固反対し、一方、船長と船員は、自分の身を案じると同時に家族をウラジオストクに残してきていたことから、ウラジオストクに戻ることを強く主張した。
 しかし、両者の反目は大きな騒動に発展したため、函館水上署では、危険極まりなく捨て置けぬとして強制退去命令を下した。それを受けて11月15日、マグニット号は白軍将卒170名を満載し、吹雪の中、スタルク船団が碇泊中の元山へ向かった。
 11月21日、スタルク提督は、海軍軍人、幼年学校生及び家族の約1970人を14隻に分乗させ元山を出航した。マグニット号は1日遅れて出航し、釜山で船団と合流後上海に向かった。
 さて、露国義勇艦隊所属貨物船のトムスク号(総頓数2715トン)は、10月18日、オホーツクの白軍交代員51名と乗客の計62名を乗せて同地を出航し、ウラジオストクに向かう途中、炭水補給のため小樽に寄港した(10月26日)。白軍将卒はウラジオストクの政変を知ると元山へ直行することを希望したが、思うように事は進まなかった。窮状を察した函館在住某ロシア人が出樽し、安全地帯に避難させるため小樽の船舶会社と傭船交渉を行うもののこれも成功せず、一同は絶望した。
 そのような中、アレクサンドロフスク港(以下亜港)には武装解除した白軍避難民が多数いることを聞き知り、下士官30名他は定期船永保丸で亜港に向かった(11月9日)。一方、将校等23名(うち3名は婦人)は、政情の鎮静化を待ち、当面は上海方面に亡命することを希望したため、露国領事館、函館と小樽の両水上署、道庁等で協議し、函館に碇泊中のマグニット号に移乗させることになった(一部シーシャン号に分乗)。これによりトムスク号は船長、船員、残留兵士9名をウラジオストクに送るのみとなったが、船長はマグニット号からの攻撃を恐れ、出航を渋っていた。しかし、11月15日にマグニット号が出航し、かつ、永保丸が亜港で日本の軍政署から人口増による食糧、住宅、職業難を理由に上陸を拒絶され小樽に戻るという知らせが入ると、11月16日、暗闇に乗じ、無断でウラジオストクに向けて出航した。
 11月下旬、在ウラジオストク露国義勇艦隊総支配人コンパニオンL.F.(後に日本に亡命、1924年に神戸で結婚、1934年に大連へ移住)等が来函し、義勇艦隊代理店を務めていたデンビー商会ダニチ支配人等と話し合った。その結果、シーシャン号はウラジオストクに戻すことで円満解決し(12月16日、ウラジオストクに向けて出航)、白軍将卒は傭船で元山もしくは上海方面等に送ることに決定した。
 12月初め、中国のロシア領事が旅券を下付する見込みが立ち、東京の露国大使館からは8000円が送金されたことにより、やっとのことで傭船契約を結ぶことに成功した。
 12月13日、白軍将卒170余名と亜港から小樽に戻った白軍兵を含む計約200名を搭載した第二錦旗丸が、上海に向けて出航した。途中、上海下流の呉淞(ウーソン)で、露国艦船十余隻が碇泊している横を通過した。これら元山からの艦船は、赤軍から帰順勧告が出されていたこともあり、長い間中国当局から上陸許可が得られなかった。第二錦旗丸の場合は、日本総領事館や露国領事館の助けを得て、到着から4日目の12月27日にようやく上海への上陸が許可された。
 ところで、上海にはロシア革命以前からロシア人の富裕層700名ほどが租界で暮らしていたが、避難民が大量流入した結果、上海には新たな亡命ロシア人社会が形成された。
 シーシャン号が出発した前日の12月12日付で、イリイン司令官から函館全市民及び函館在住ロシア人に対する感謝状が函館毎日新聞に届けられていることから、在函ロシア人、函館市民、場合によってはハリストス正教会と具体的関与があったとも考えられるが、事例に乏しいため、この点、今後も引続き調査したい。

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写真は船内で上海安着を祝う第二錦旗丸の一行(右からススロフ副官、イワノフ将軍、南勇太郎船長、イリイン海軍大佐『函館毎日新聞』大正12年1月10日付(9日夕)より)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度第3回研究会報告(その1)

ウラジオストク研修の旅 2003年1月5~9日

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一・岸伸子

 このたび、函館日口交流史研究会、極東大学函館校、在ウラジオストク日本国総領事館などのお力添えにより、初のウラジオストクへの旅を無事に終えたことに感謝いたします。
 研修目的は、甫一にとって日日交流史研究の糸口発掘にありました。ロシア語を学び始めたとはいえ、おぼつかないと知りつつ、まずは行ってみようと、夫婦で出かけました。
 極東大学付属東洋大学では、ロシア正教クリスマスイヴというのに試験中......生徒たちが学内にあふれていました。繁忙期にもかかわらず、シュヌイルコ先生・モルグン先生・アフォーニン先生からアドバイスをいただくことができました。
 北海道・旭川でも教えたことがあるというシュヌルコ先生は、東洋大学が語学を重視し、日本、中国、韓国(朝鮮)の3部門からなり、沿海地方・サハリン・千島そしてアジア諸国から学生が来ていると説明されました。
 アフォーニン先生には、19世紀の日本・ウラジオストク関係の古文書の所在を文書館に確認していただくことになり、1日おいてアフォーニン先生の研究室(ロシア科学アカデミー歴史研究所)を訪問すると、空き時間を縫って閲覧紹介状をしたためてくださいました。只ただ感謝です。急遽、門限間近なロシア国立極東歴史文書館へ着くと、準備されていた目録と付箋の付いた文書ファイル4~5冊を文書課長(50歳代?の女性)が持ってきて親切に説明してくれました。ディーマさんの必死の通訳により、概略を知ることが出来ました。
 また、モルグン先生は18世紀の史料はここにはないが、「もっとやってほしいことがある」と積極的に提案されました。たとえば、「ウラジオストクと日本の関係はまだ研究が進んでいない」「日本時代のサハリンのことは、まだまだ分かっていない」と逆に研究を勧められました。1999年函館・日口交流フェスティバル報告書に掲載のモルグン報告に「北のからゆきさん」が触れられていたので質問すると(伸子)、「日本からの研究はない」とのこと。1937年までのウラジオストクの日本人の生活がよく分かるものに、戸泉米子『リラの花と戦争』(改訂版、2000年刊、福井新聞社)を紹介してくださいました。
 さらにサハリンからの引揚げ日本人について、関心をよせているモルグン先生と、その体験者から名寄で聞き取りをしたことがある伸子とは話しがおのずと進み、改めて樺太からの引揚げは日口交流史の課題であったことに気づかされました。
 アルセーニエフ名称沿海地方国立博物館はお洒落なヨーロッパ風の建造物の建並ぶスヴェトランスカヤ通りの一角にありました。博物館のガイドさんとオーリャさんの通訳で、2時間かけて見学。伸子の目をひいたのは、第二次世界大戦の展示室の2枚のポスターでした。銃剣をバックに「母なる祖国が呼んでいる」と女性が左手を挙げて兵士募集を訴えたもの、もう1枚は、血痕がついたハーケンクロイツのマーク入りの銃剣におびえる子を母親が「助けて」としっかり抱きしめているもの。日本は、戦争に向わせた象徴が女性ではなかったこと、再び銃剣を向ける側になってはいけないことをロシアの展示が教えてくれました。
 翌日、博物館で親しく迎えてくださったのはアレクシュク館長とルスナク学術評議会書記ら3名の女性でした。帰りがけに「仕事と家庭の両立は難しいですね」と問いかけると「まったくです。子どもは少ししかもてません」と、女性同士納得するものが通いあう一コマもありました。
 極東大学函館校卒業生の吉崎花野子さんを極東大学の学生寮に訪ねました。運動機能の障害をもちながらも、ロシア語とウラジオストクに魅せられ頑張っている花野子さん。彼女がクリスマスプレゼントにいただいたチョコレートをごちそうになり、ピロシキをほおばりながら、よもやま話に花が咲きました。
 ゴーリキー・ドラマ劇場では「クリスマスの夢」を観劇。"ウソから出たマコト"に託すという喜劇で、地元の名優たちが劇中何度も発っした「スノービン ゴーダム スャスチャ」(新年を祝う言葉)をすっかり覚えました。同行のオーリャさんらのおかげで市民に混じって楽しむことができました。イルミネーションも色とりどりの中央広場では夜9時をすぎても、小さい子たちが化粧姿のトナカイにのったり、滑り台を楽しんでいました。極東の国際都市ならではの干支・ヒツジをあしらったデコレーションケーキが売られているのには驚きです。
 ウラジオストクは、ここ数年で目抜き通りの外観を一新したようで、変化のただ中にありました。それにしても訪問した先々で、女性たちが責任ある職務を果たしており、今回の研修は、案外、伸子の方が刺激を受けたのかもしれません。

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極東大学付属東洋大学前で

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ウラジオストクのアルパート通りで(歩行者天国になっている)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度第3回研究会報告 (その2)

国立サハリン州文書館所蔵資料をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

アレクサンドル・コスタノフ

 サハリン州にはアルヒーフ(以下、文書館とする)は18ある。国立の州文書館は1つ。残る17箇所は市立の文書館で、第二次世界大戦後に設立・整備されたもので、市の歴史資料を取り扱っている。州文書館には1860年以降の資料(下田条約以降のロシア軍関係のものなど)が収蔵されているが、資料は150年のサハリンの歴史を映しだしたように複雑な運命を辿って現在に至っている。その過程は4つの時期に区分される。

第1期 19世紀末~20世紀初頭
 サハリン島の運命と同じく、最古のロシア語の公文書は、1855年の日露通好条約が締結された頃、ロシア軍の哨所ができた時期のものである。この時期の文書は分散と散逸を経て、現在その一部は北海道大学附属図書館北方資料室に(「明治初年樺太関係ロシア語文書」等)、残りの大半はロシアの海軍史料館と文書館に保管されている。
 1875年のペテルブルク条約(樺太千島交換条約)で樺太がロシア領となり、流刑地となった。19世紀末から20世紀初頭のサハリンには、多くの文書があった。これは、流刑地には行政府が置かれ、強固な官僚体制下にあったためである。当時は、バイカル湖東のネルチンスクの流刑地と同様、サハリンも「ロシアのオーストラリア」と呼ばれていた。
 日露戦争が起こった最初の頃は、サハリンはまだ平和だった。1905年7月に日本軍がサハリンに上陸し、3ヶ月に亘る戦闘の後、北サハリンの長官リャプノフ中将が降伏した。しかし、サハリンの公文書は被害を余り受けなかった。これは、リャプノフ長官の命令で、日本軍との戦いの前に、北サハリンの安全な場所に疎開させていためである。ただし、長官自身が持参していた文書は日本の手に渡った。
 降伏したリャプノフ中将の罪状は、(1)防衛戦略が下手であったこと、(2)武装したまま降伏したこと、(3)貴重な資料が敵の手に渡ったことであった。(3)は、民間の資料はロシアに返却されたが、軍の地図は返却されなかった。
 島で最も古い資料は南樺太が日本領になってからもコルサコフに保管され続け、この資料は現在州文書館に保管されている。

第2期 ロシア革命・国内戦争の時代
 1917年にサハリン州の州都は、アレクサンドロフスクからニコラエフスクに移されたが、古い資料は、アレクサンドロフスクに残された。
 1918年のシベリア出兵をへて、1920年にニコラエフスク(尼港)事件が起こり、ニコラエフスクはパルチザンにより全焼した。しかし、アレクサンドロフスクに残された公文書は無事だった。
 1920~1925年、日本軍の北樺太占領下では軍政が敷かれたが、この時、サハリンの資料は日本軍の手に渡った(これが2度目)。日本軍は、ロシアの公的機関の活動を中止させ、全ての資料を一箇所に集めた。アレクサンドロフスクの歴史的資料もここに集められた。日本軍の資料の取扱は丁寧で、財産に関する資料などは、ロシア人が請求すれば与えてくれた。
 日本は、北樺太における恒久的利権を主張し、当時日本に亡命中であった帝政ロシア時代のサハリン州知事グレゴーリエフを首班とする「サハリン自治国家」の樹立を試みた。後に日本軍が北サハリンから撤兵し革命軍がやって来ると、グリゴーリエフは中国に亡命した。
 日本の最大の関心は、非鉄金属、石油、金、石炭がどこに埋蔵されているのかを示す鉱山関係の資料だった。この分野は、当時、日本の地質学者が調査に当たっており、事実上重要な資料であった。この資料により、開発前にロシア人の石油利権者が誰であるかということなども明らかになった。
 日本はニコラエフスク事件に関する資料に関心を持っていた。パルチザン部隊の資料など、資料の一部が日本側に渡されたものと想像するが、どこに行ったのかは不明である。
 1925年、日ソ基本条約が締結されると、モスクワからサハリンに役人がやって来た。アレクサンドロフスクで数週間に亘る話し合いが行われ、この年の5月15日には日本軍は北樺太から完全に引揚げた。協定書には、「公文書の引渡しについて」という項目がある。これにより、北樺太の資料は、(1)ロシアから日本軍の手に渡ったものはソ連側に戻され、(2)日本軍の占領下にあった5年間の資料(日本語と露語、量的には余り多くない)は一箇所に集められ、モスクワに送られることになった。
 ちなみに、1920年代後半は、白軍・反共組織の資料も集められた時代だったが、日本の文書は、コルチャーク政権に関するものなど、反革命文書の中に入れられた。こうして他の反革命文書と一緒にモスクワに送られ、党の秘密文書として取り扱われた。
 1920年代後半~1930年代は、ソ連全土に文書館が設立されていった時期であった。しかし、サハリン州は、中央から遠く、専門家も不足していた。特に1930年代は粛清の嵐が吹き荒れた複雑な時代であり、専門家はロシア極東へは行きたがらなかった。そのため、国立サハリン州文書館が設立されたのは1938年末と、遅かった(注:1947年に独立のサハリン州が設置され、ユジノサハリンスクが州都となるに及び、同文書館はアレクサンドロフスクからユジノサハリンスクに移転した/佐藤京子「サハリン州の文書館」『北海道立文書館研究紀要』第18号)。これ以降、本格的なシステマチックな資料整理が始まった。
 1930年代には、白軍関係の反革命資料のみならず、それ以前の資料も中央(モスクワ)に送られることになった。これは、「共産党史」、「ロシア革命運動の歴史」といったテーマが研究されたためで、研究に必要な関連資料全てであった。サハリン同様に、ネルチンスク流刑地の全ての資料もモスクワに送られることになった。ところが、実際はハバロフスクまでしか送られず、第二次世界大戦まではハバロフスクに置かれた。これは、1930年代後半は大粛清の時代で、上層部にとっては、公文書のことは二の次となっていたためと考えられる。

第3期 第二次世界大戦時代
 1941年、ソ連は独ソ戦で人的・物的のみならず、資料や公文書のかなりの量を失うことになった。この経験から、ロシア極東は、日本軍からの攻撃を受ける可能性が高い危険な地域と認識され、歴史関係や秘密資料は国境付近のハバロフスクから安全なシベリアに移されることになった。
 そして、1943年、トムスクにソ連極東中央文書館が設立された。トムスクに疎開したおかげで資料は失われずにすんだというプラス面があった一方、極東の研究者にとって、長年使いにくい状況に資料が置かれるというマイナス面もあった。
 1992年、ウラジオストクに資料が戻され、ロシア国立極東歴史文書館と名を改めた。ウラジオストクは、トムスクと異なり、保管場所はあるものの、まだ資料目録が完成していない(現在準備中)。ここにサハリン関係の資料も入っている。現在の館長は意欲的な人なので、近い将来使いやすくなると期待している。

第4期 第二次世界大戦終了直後
 1945年8月、対日戦争が始まり、8月11日、北緯50度線を越えてソ連軍は南樺太へ進入した。独ソ戦で受けた大破壊に比べると、こちらは二週間と短期間の戦いだった。難民は出たものの、日本の樺太庁公文書は被害を受けなくても良いはずだった。
 ところが、1945年末、豊原に内務省所管の公文書部が作られ、ロシア人アルヒビスト(文書整理者)は、資料の所在調査を進めたところ、樺太庁時代の公文書がないことに気がついた。理由は、日本国内と同様、南樺太ではソ連占領の直前に、かなりの量の公文書が国家機関によって焼却されたためであった。樺太庁長官の口頭での命令により焼却されたのであったが、警察関係の資料のみならず、民間会社の資料も焼却されてしまった。そのため、道路、鉄道、炭鉱、製紙会社といった、経済活動にとって重要な資料が失われた。行政機関では全ての資料を焼却してしまったため、戦後になって、水道修理をする際なども、図面すら残っておらず苦労した。なぜこのような措置がとられたのか、我々には理解し難い。しかも、ソ連側の北サハリン行政府の公文書についても、なぜか焼却措置が取られた。
 大津敏男樺太庁長官は逮捕され、シベリアに送られた。取調べでは、公文書は炭鉱かどこかに隠しているのではないかと疑われたが、どこにも隠していないことが判明した。1947年、ソヴィエト政権は、残った公文書(トン単位、袋・車両単位で計測)を一箇所に集める作業を行った。しかし、残ったものの中に歴史的資料は少なく、反古紙同然で、価値のないものばかりであった。
 当時、サハリン州には通訳官が不足していたため、ハバロフスクにこれらの資料は送られた。そこで重要書類と非重要書類に分けられ、15年間をかけて公文書の目録作りなど、資料整理が行われた。
 これらの資料は「戦利文書」として、サハリンに戻された(注:1963年に非公開文書として国立サハリン州文書館に受け入れられた/前掲佐藤京子論文)。1980年代末までは、研究者はアクセスできなかった。私は1987年から文書館で働いているが、自らも戦利品があることは公表しなかった。
 1991年に初めて日本の研究者がやって来た。この時初めて資料室へ案内した。日本人は皆驚いた。この後、ジャーナリストも大勢やってきた。最近では普通に取り扱っており、自由に閲覧できる。
 1995年、日本の資料全てを新目録に入れた(「樺太コレクション」)。日本人の協力で、分類名を日本語で作成した。この目録は堀知事宛に寄贈され、北海道立文書館に保管されている。3年前には、堀知事が公文書部を視察に来た。
 1997年には、資料集『南樺太におけるソ連の軍政時代(1945~1947年)』を出版した。現在は、1890年にチェーホフがサハリンを訪れ、人口調査を行った際の資料の整理が進行中である。
 なお、現在サハリン州には資料・文書などを扱う類似機関は100箇所ある。

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国立サハリン州文書館資料案内
(A.Iコスタノフ氏は監修者の1人、ユジノサハリンスク、1995年)

(報告者:サハリン州行政府文書館部部長、報告会通訳:A.トリョフスビャツキイ)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度報告会

幕末の函館に「ロシアの影」を見たアメリカ人

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 日本が開国すると、多くの外国人がやって来たが、その中にフランシス・ホールというアメリカ人がいた。彼が来日したのは1859年11月のことで、「ニューヨーク・トリビューン」紙の通信員としてであった。あるいは1861年に横浜居留地に創立された「ウォルシュ・ホール商会」の経営者というと、知っている人もいるだろう。日本人には「アメリカ一番」とも呼ばれた有名な会社である。
 英文雑誌「イースト」のバーリット・セービン編集長からホールの滞日中の日記(Japan through American Eyes,2001,Westview Press)が刊行されていることを教えられので、早速読んでみた。
 そこには日本語のローマ字表記考案で有名なヘボンことヘップバーンと一緒に、1860年9月に函館を訪問した時の記録もあった。紙幅の都合上、全てに言及はできないが、函館滞在中に彼が体験した「ロシアの影」について述べたところを抜粋して紹介しよう。
 「9月28日金曜日...、船が函館港に近づくと、人目をひく白い建物、ロシア領事館が目に入った。この日の夜、船は無事に入港した。翌29日、空は晴れて素晴らしい朝だった。夜のうちにロシアの軍艦がやってきて、近くに錨をおろしていた。甲板からは函館の街がよく見えた。目立っているものは、白い建物の一群で、洋風の二階建てである。あれは何だろうと思っていると、ロシア軍艦の側面から煙りが巻きあがってきた。8時の空砲であった。すると軍艦と陸上の白い建物から一斉に正十字の旗(アンドレイ軍艦旗、革命前、ロシア軍艦の船尾につけられた)があらわれた―この北方海域にはロシア人たちがいるのである。彼等の勢力は、凍える北の国をはい出して、怪しげな影のように忍び寄っている」
 函館で、彼は自分がまさにロシアの影響力下にいることを肌身で感じとっていた。函館の街では、英語よりもロシア語のほうが普及していたと言い、彼はさらにこんなことを書いている。
「10月6日土曜日...、ロシアは世界のこちら側に港を持っていないことを悲しんでいた。だが、この〈ロシア熊〉はお粗末な冬の家から、ものほしそうな目で、広々として安全でジブラルタルのように難攻不落な港、夏が長くて冬も許容できる寒さにある港、木材や鉄、石炭がみんな安く手に入る港をじっと見ているのである。ロシアにとっては西におけるコンスタンチノープルより東における函館のほうがより重要でさえあるのだ」
 ロシアが北海道を狙っているという噂が流れたことがあったらしいが、実際、ホールの文章からはそういった噂が流れても不思議ではなかった状況が読みとれる。
 ところで、このホールの日記を読んでまもなく、伊藤一哉さんの論考(『地域史研究はこだて』34号)を読んで驚いた。そこには、ロシア領事ゴシケーヴィチが、江戸に「フランク・ホール」という通信員を置いていて、1863年11月16日付けの本国にあてた書簡では、副領事に推挙するほど、その仕事ぶりを評価していたというくだりがあったからである。
 ホールの日記によれば、彼は「フランシス」よりも、「フランク」と呼ばれるほうを好んでいたとあるから、同一人物に間違いないだろう。ホールは、「ロシアの影」に飲み込まれてしまったのか、あるいは影の正体を見極めようとしていたのか、益々興味深い。

「会報」No.22 2003.3.10

北の大航海時代 ―ラクスマン来航を中心に

2012年4月24日 Posted in 会報

岸甫一

 1792年のラクスマン来航は、日口関係史のみを見たのではその世界史的意義は把握できない。S.ズナメンスキーは「ロシア人が太平洋沿岸に現れてから1世紀半のあいだは、太平洋の北方海域を支配したのは彼らのみであった。......... だが18世紀の最後の四半期になると事情は一変した。太平洋北部海域に西欧の海洋大探検隊が出現したのである。.........探検隊は北アメリカを廻航してヨーロッパからインドや中国へ通ずる、重要な交易路を探索するとともに、毛皮の王国に拠点を確保することを意図して、このために太平洋北部沿岸の地図を作成したのである。」(秋月俊幸訳『ロシア人の日本発見』)と述べている。
 1778年、イギリス人クックが太平洋探検の際、ヌートカ湾(現バンクーバー島)で豊富なラッコの毛皮を対中国貿易の新資源として紹介し、カムチャッカのペトロパヴロフスクにも寄港したことから、1780年代にヨーロッパ諸勢力による北アメリカ北西岸と中国間の毛皮貿易ブームが勃興し、"環北太平洋地域"ともいうべき世界が形成されはじめた。
 ロシアは、アメリカ植民地領有の既成事実の確保を急ぎ、1784年シェリホフはアラスカのコジャック島を占領し、1785年にビリングス等がアリューシャン方面を測量した。
 一方、1885年~88年のフランス人ラペルーズによる世界周航に際し、ルイ16世が与えた計画指令書には「ロシアの統治はカムチャッカ半島に最も近い千島の若干の島に及んでいるにすぎない。それより南方の島々やロシアに属さない島における、フランスとの毛皮の交易の可能性、ならびに原住民の襲撃から安全な植民地ないしは企業所設置の可能性について調査すること。」(小林忠雄編訳『ラペルーズ世界周航記 日本近海編』)とあり、スペインも北アメリカ北西岸に沿って探検隊を北上させ、1788年にコジャック島を占額、1789年にはヌートカ湾を占領し、イギリスとの間で国際紛争となった。
 ラクスマン来航は、以上のような太平洋北部沿岸海域の毛皮貿易をめぐるヨーロッパ諸勢力の角逐が最高潮に達した時点にあった。イギリスが大黒屋光太夫を対日接近に利用しようとしたことは、1794年、エカテリーナ女帝に宛てイルクーツク太守ピールが「イギリス人は、アメリカ北部北緯50°のヌートカという良い場所を占領した上に、明らかに中国貿易の拡大に努め、対日貿易に関する策謀も放置することはない。現に日本に帰ってしまったコオドユを連行しようとする機会を狙っていたのである。」(郡山良光『幕末日露関係史研究』)と述べている。
 さて、幕府直轄直前の蝦夷地をめぐる国際関係には、その異域性から開放的一面がある。根室で、ラクスマンは「彼(松前藩役人鈴木熊蔵)の手もとに松前島すなわち蝦夷と.........樺太(からぶ)と呼ばれる島の地図があったので、写しを取るために借り受けた。写し取ってから医師の肩吾(加藤肩吾)に文字を書き入れてもらい、その地図は今後の航海の参考までに航海士のロフツォフ氏のもとにのこした。」(中村喜和訳『日本来航日誌』)と述べているように松前藩役人から北方図を入手しており、これを参考にしてクルーゼンシュテルンの航海図が作られたという。また1797年イギリス人ブロートンは「(エトモで、加藤肩吾が)......この島の港の一つである箱館では、ロシア人が商取引をしていることも知らせてくれた。」(久末進一訳『プロビデンス号 北太平洋探検航海記』)と述べている。
 18世紀末蝦夷地の動向も従来の"北方の危機"という国防論的視点からでなく、以上をふまえて、国際的な"環北太平洋地域形成史"の一環として把握してみたい。

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アダム・ラクスマン

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第1回研究会報告

アニワ湾のムラヴィヨフ哨所とサハリン問題の発端 ―ここにおいてロシアと日本は遂に隣人となった―

2012年4月24日 Posted in 会報

トリョフスビャツキー・アナトリー

 ロシアの東方進出はある歴史的時点まで他国の国益に直接触れることはなかった。開拓者たちが進出していた地域には国家を持たない先住民族が住んでいたからである。
 状態が転換期を迎えたのはロシア人がアムール流域に進出し、開拓を試みた17世紀の半ばの頃であった。その地域にダウール人など満州人と親戚関係にある先住民族が住んでおり、隣の清国はそれに対し自分の潜在主権を意識していた。繰り返されるロシア人と満州人の衝突は1689年のネルチンスク条約により治まり、両国は勢力範囲を確定した。その後1世紀半にわたってロシアの進出はアジア大陸の北東方面に向けられるようになった。それとともにロシア人のカムチャツカから千島列島沿いの南下は日本に不安を抱かせることになる。ロシア人の千島の南下こそが幕府の北方政策を積極化させ、その結果サハリンの南端部や南千島は日本の支配下に置かれることになる。17世紀の清国と同様に、江戸幕府はロシア人の国境付近への出現を自分の勢力範囲への侵入や国益に反することとして過度に受け止めていた。幕府は北海道、千島、サハリンのアイヌ民族は太古から日本帰属であり、アイヌ民族が住んでいたすべての地域は日本国の主権下にあると考えた。(実際には国後・択捉の首長らは1731年に、サハリンアイヌの首長らは1812年だけに松前を訪れ、ウイマムを献上した)。
 19世紀の半ばに再びロシアと清国・日本との間に領土権をめぐる争いが起こる。今度は極東における欧米列強の外交的・軍事的な行動により国際情勢が急激に変化し、それは東シベリア総督ムラヴィヨフなどの帝政ロシアのエリートの一部に不安を感じさせた。アムール河口やサハリンがイギリス等の外国に占領されないように、ロシアはその地域を予防的に占領することにした。
 1853年4月11日にロシア皇帝のサハリン占領命令が下され、それに従ってネヴェリスコイ海軍大佐はサハリンにおける日本人の拠点であるクシュンコタン(現在のコルサコフ)のすぐそばにムラヴィヨフ哨所を築いた。それは西海岸の久春内に一ヶ月の間存在したイリインスキー哨所を除けば、ロシア人にとって島での最初の拠点となった。
 東シベリア総督ムラヴィヨフはサハリン占領の実施要領についてネヴェリスコイに「サハリン島南端に居住する日本の漁民に不安を与えてはならない。しかして彼らに対しては友好的な態度を示し、われわれのサハリン島占領は外国人の侵略を防ぐためであり、彼らはわれわれの保護のもとに、安全に漁業と交易を続けうることを説明せよ。」と指令を与えた(和訳:秋月俊幸、『日露関係とサハリン島』、筑摩書房、1994年、69-70頁)。
 興味深いのは、当時の文書やこの問題に詳しい歴史家(ファーインベルグ、クタコフ、アレクセーエフなど)の著作にはサハリンに居住していた日本人に関して「日本の漁民」「サマーハウス」(летник)「仮小屋」(времянка)など長持ちしない、一時的な存在の色彩を添える傾向があった。実際には19世紀半ばのサハリンをめぐる露日両国の論戦は植民地の所有権をめぐる争いであったといえる。ロシア側は最初からサハリン南部にあった日本人の漁場は植民地であったことを分からなかったか知らないふりだけをした。
 この争いの特徴は武力行使となる恐れが多分にあったにもかかわらず両国はユニークな方法で、すなわち「雑居」という形でそれを避けることにした。アニワ湾のムラヴィヨフ哨所はある意味で島における日露両国民の「雑居」への道を開いた。その「雑居」はたった8ヶ月しか続かなかったが、1867年に調印された樺太仮規則への第一歩になったといえる。その仮規則によってサハリン島は日露両国の所有となり、雑居が正式に認められることになった。

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唐太クシュンコタン之図(市立函館図書館蔵)

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第2回研究会報告(その1)

北海道函館商業学校ロシア語担当教員中、最近当時の状況が判明した3名について

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 『函商百年史』(1989年[平成元年]3月30日発行)の184頁―第一編 沿革〈全日制〉の処を見ると、「函商における露語教授者」として、5名の教員の氏名が見える。今回、筆者は、このうち初代の山村栄亀氏、第5代徳武良信氏、そして本史に記されてない第6代目に当る成田ナヂェージダさんについて、調べた処を報告したい。

 1、山村栄亀氏(前掲百年史では英語・露語教授とあり、又182頁には同氏は東京高商出身とあり)は、後に教頭となるのであるが、筆者は東京高商なる学校でロシア語を学習したのであろうかと思い、この学校の後身である現一橋大学の学園史資料室に山村氏の件につき調査依頼をしたところ、次のような回答があった。
 「山村栄亀氏は、明治15年7月東京外国語学校ロシア語科を卒業。勤務先―在日本ロシア公使館。外語卒業後東京商業学校に入学せるも中退。この時勤務先は函館商業学校」
 東京商業学校は明治20年9月より高等商業学校となった。この学校でロシア語を教え始めたのは、明治26年からである(『一橋大学学園史』―ロシア語の部:中村喜和氏著作担当、昭和61年刊)。一橋大学学園史資料室の松村美子氏より資料ご寄贈、加えて種々ご教示頂きましたことに、記して感謝申し上げます。

 2、徳武良信氏(長野県派遣学生)は1920年(大正9年)9月24日満州哈爾濱に創設された日露協会学校の第1期生である(この学校は日本文部省令による3年制の専門学校。目的は対ロシア、後にソビエトの専門家の養成。外務省監下の日露協会による経営。後昭和7年より15年まで、哈爾濱学院、以後満州国に移管され満州国立大学哈爾濱学院[4年制大学]となる。昭和20年8月廃校)。
 徳武氏は大正12年3月25日に卒業し、日魯漁業株式会社に入社する。昭和16年には、日魯漁業株式会社函館支社事業本部外事部第1外事課整備係主任となっている。
 昭和14年から16年頃までロシア語の授業を担当していたが、非常勤講師であったろう。終戦後、昭和41年4月刊の哈爾濱学院同窓生名簿にカナダ移住とある。夫人はナターリア(ポーランド系ロシア人)さんといい、娘さん2人は函館遺愛女学校を卒業した。昭和54年バンクーバーにて死去された。

 3、成田ナヂェージダ氏(ロシア語担当時期は、昭和17年~昭和19年?)は、本名をナヂェージダ・ドミトリエブナ・サンプルスカヤ(日本名ケイ子)といい、1903年(明治36)9月17日、ロシア沿海州ニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムール)に生れる。同地の女学校卒業の頃、尼港事件が起き、日本の軍艦で樺太の真岡に避難、日本人医師のもとで働くも、望郷の念止み難く、帰国に必要なヴィザ取得の為東京へ。東京でヴィザ取得が長引いていた時、関東大震災に合い、函館に避難。函館に来たのは、ロシア人が多く、又ロシア語通訳が沢山居ると聞いていたから。函館で縁あって成田実氏と結婚。成田氏は小さな漁業会社に勤めていて、北洋漁業に従事していたが、会社が日魯漁業に吸収されたので、日魯の外事係として働く。ロシア語は若い頃、漁場でロシア人と接するうち覚えたのであろう。42歳の時漁場で倒れ、帰函。結核で10年間柏野に在った函館療養所で療養するも死亡。この間日魯は良く面倒を見てくれたと云う。後にナヂェージダさんも日魯で働いたとのこと。子どもは男3人、女2人に恵まれたが、「合いの子」とよく云われ、悲しい想いがしたと云う。それで男の子2人は、千葉県の柏市の予科練にやったとのこと。(終戦後無事帰還した。)
 戦時中家が時任町にあり、同じ隣組に商業学校の校長公宅があり、ナヂェージダさんは良く遊びに行った。校長は立野與四雄と云った。夫人の外に2人の娘が居て、ナヂェージダさんを「成田のママさん」と歓迎した。ロシアの民話を聞くのが、とても楽しかったと姉の恵美さんは云う。立野夫人はナヂェージダさんの良き相談相手となった。ナヂェージダさんの処は子どもも多く、家計は苦しかった。そのことを知った立野校長はナヂェージダさんを、商業学校のロシア語講師に迎えた。
 その時ロシア語の授業を受けた本間哲男氏は、戦後、図書館第1分館で、ロシア語の市民講座をナヂェージダさんを講師に長いこと続けたのであった。又当時、商業学校で英語の教員であった屋代玲子(現奥座玲子)さんは、立野校長から「これからは隣国ロシアとの交渉も大切になるだろうから、生徒にロシア語を勉強させたいので、よろしくお願いする」と教職員にナヂェージダさんを紹介されたと語った。
 ナヂェージダさんは終戦後、北大水産学部でロシア語の非常勤講師をされた。(昭和44年4月14日~51年3月31日)
 昭和59年4月21日死去。(肺癌の為)成田家の墓は高龍寺にあったが、ナヂェージダさんはロシア正教徒として、函館山の裏手の正教会墓地に、夫実氏と共に眠っておられる。
 筆者も同じ頃水産学部に同業で勤めていたので、週1回の授業日にお会いしたことを懐かしく想出している。

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第2回研究会報告(その2)

ハルピンの白系ロシア人

2012年4月24日 Posted in 会報

ルスナク・スヴェトラーナ

 ハルビンの白系ロシア人という問題について、日日関係の一面として話したい。
 ハルビンの白系ロシア人の物語は、実に悲劇的である。白系ロシア人のある詩人は、将来、ハルビンがロシア人によって創られたことを覚えている人は一人もいなくなってしまうかもしれないと詩に書き残している。現在、ハルビンに白系ロシア人はたった一人しか残っていない。悲しいことが現実となってしまった。中国では、公式には、ハルビンがロシア人によって創られた街であることに触れていない。そのため、ハルビンの白系ロシア人の歴史は、ロシア時代のハルビンの最後の一ページと言えるだろう。
 ハルビンは国際的な街で、ロシア人のみならず、朝鮮人、ポーランド人、日本人、そして中国人が暮らしていた。1998年、ハルビンでは、大学の研究者達がハルビン創建100周年記念シンポジウムを開催しようとした。しかし、当局から許可されなかった。それは、中国当局は、ロシア人による中東鉄道建設以前から、そこには小さな町が存在していたと考え、ハルビンの町の起こりは中東鉄道建設開始以前からであるという立場をとっているためである。しかし、多くの歴史研究者は、満州を横断し、ウラジオストクと結ぶ鉄道建設が始まった時(1898年)を町の始まりと見なしている。ハルビンは、チ夕方面、ウラジオストク方面、大連方面の交通の要衝となり得る、戦略的に理想的な地点であった。数キロメートルに及ぶ鉄道付属地は、中東鉄道管理下にあったため、満州におけるロシア人の歴史は、鉄道に沿って発展したと言ってよいだろう。
 1898年~1917年までは、ロシアの普通の地方都市と同じ様にハルビンは発展し、初等教育機関から高等教育機関まで開設され、ロシアの行政機関の代表部が置かれた。1917年までに、ハルビンのロシア人人口は約7万人に達した。そして、1917年のロシア革命後、新しいロシアのハルビンの歴史、つまり、白系ロシア人のハルビンの歴史が始まった。当時中東鉄道総督であったホルワット将軍は、中東鉄道に共産主義者を入れないために、鉄道の管理権を中国側に譲った。
 1917年~1924年は、ハルビンの白系ロシア人の歴史の第一期と言える。この時代の特徴は、白系ロシア人の増大である。彼らの多くが中東鉄道沿線に住んだ。1924年、中国のロシア人人口は25万人を数えた。うち、ハルビンのロシア人は10万人に及んだ。1924年10月、中ソの話し合いの結果、中国は中東鉄道の管理権をソ連に返還し、中東鉄道の勤務者は、中国籍もしくはソ連国籍を有する者に限ることが法で定められた。その結果、ハルビンの白系ロシア人社会は、大きな打撃を受けることとなった。すなわち、ソ連国籍を取得したり、中国籍を取得する白系ロシア人が現れ始めたのである。
 1932年~1945年までがハルビンの白系ロシア人の歴史の第二期である。この時期の特徴は、「満州国」が建設されたことである。「満州国」時代、白系ロシア人は少数民族に位置付けられた。
 中東鉄道が「満州国」に売却された1935年以降、ソ連への帰還が始まった。帰還者の数は2万5千人に及んだ。他国へ移住した人達もいた。1930年、中国東北部のロシア人の内訳はソ連国籍者15万人、白系ロシア人10万人、中国国籍者1万5千人であったが、1934年には、ソ連国籍者11万人、白系ロシア人9万人、中国国籍者2万人となった。ハルビンだけでもロシア人は9万人にまで減少した。
 そして1945年、白系ロシア人の歴史は終焉を迎えた。当時、白系ロシア人たちは冗談で、今後ABCの選択、つまり、オーストラリア(A)、ブラジル(B)、カザフスタンなどのソ連の開拓処女地(C)(倉田:ロシア語で「ツェリナー」)に行くという3つの選択が迫られると言ったそうである。こうして、70年に及ぶ、満州におけるロシア人の歴史は幕を閉じた。
 中国籍を取ったロシア人の運命は多様であった。戦後、ソ連に帰還する人がいる一方、米国への移住希望者も少なくなかった。ところが、当時米国は、中国系移民を大きく制限しており、実際には、白系ロシア人は中国人でないものの、中国籍を取得したが故に、米国移住はかなり難しかった。どうしても米国に移住したい人は、まずチリに行き、そこで米国へ行く可能性を待ち続け、かなり時間を経た後に米国に移住することができた。他方、中国籍を取得して中国に残った人達は、中国企業で働いたり、中国政府から年金をもらったりしており、さほどの苦労はなかったと聞いている。(倉田:ロシア人の血を8分の1引くという20代の中国人女性から、「文革時代」はロシア語を解することが周囲に知れると当局に密告され、投獄される恐れがあったため、家庭内では決してロシア語を使わなかったという苦労話も聞いているため、中国籍を取得して中国に残ったことが、他の選択肢に比べて楽な運命を導いたとは言い切れないのではないかと考える)
 さて、国際都市ハルビンは、様々な民族が共存した街であったという点からも興味深い。白系ロシア人が暮らした時代、22のロシア正教会があったが、カトリック教会、ユダヤ教会も建てられた。また、13の医学や技術関係の高等教育機関の他、ロシア人による9つの研究所(東洋学、農業、郷土史研究他)が開設された。また、ハルビンには、帝政ロシア時代の教育方式に則った音楽院(3校)、バレエ学校(2校)、そして、市民が誇る「ハルビン交響楽団」(団員約60人)があった。
 最も興味深いのは、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ人といった、ロシア帝国の様々な民族が民族協会を設立し、共生していた点である。1998年に中国で開かれた会議の席上、ある中国人学者が、ハルビンが国際都市として豊かな文化を作り上げたことは、ハルビンの誇りであると述べた。
 様々な民族が相互に影響を与えつつ、共生する中で得た経験は、ユーラシア主義思想の側面からも興味深い。司馬遼太郎は自著『ロシアについて』の中で、日本人がシベリアというプリズムを通じて見たロシア人について書いているが、ユーラシア主義者はこれと非常に良く似た考え方を持っていた。ユーラシア主義とは、1921年にプラハなど東欧の白系ロシア人の間で生まれた思想で、東からロシア史を眺め、歴史を再評価することの必要性を説いた。ユーラシア主義思想は、アジアに暮らす白系ロシア人にも影響を与えたと言われている。
 「満州国」にふさわしいイデオロギーを模索していた日本人も、ユーラシア主義思想には強い関心を寄せた。満鉄調査部の本間七郎氏、彼の上司の嶋野三郎氏および中野氏は、ユーラシア主義者の主な著作を日本語に翻訳した。彼らは、多民族国家の繁栄、つまり、五族協和の上にできた「満州国」の繁栄を考える上で、ユーラシア主義の基本的考え方に特に関心を示した。ユーラシア主義の共同宣言は、日本と「満州国」の共同繁栄の宣言として和訳された。ユーラシア主義者の影響を受けた嶋野氏は、これが今後のアジア人の解放の基盤となるべきであると考えるなど、ユーラシア主義者の思想は、満鉄調査部の知識人たちにかなり大きな影響を与え、新しい国造りに役に立つ思想と見なされたようである。
 東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。また、米重教授は、五族協和の協力の上に創られた平等な国家という思想は、当時の多くの日本人の目に非常に魅力的なものに映ったに違いないと述べている。しかし、ユーラシア主義者の夢、そして、彼らの影響を受けた日本人は失望する結果となった。実際は、「満州国」は関東軍の管理下に置かれ、理念とは異なり、平等ではない、一定のイデオロギーに支配されてしまった。
 どんなにすばらしい理念であっても、実現された時には期待通りにならない場合があるということに注意しなければならない。「満州国」の場合も然りである。
 近年、ロシアの政界では、ユーラシア主義という言葉が復活している。日本でも、ソ連崩壊後の旧ソ連地域をユーラシアと呼んでいるようである。数十年前のユーラシア主義者と同様の考え方を持つ人もいる。
 ユーラシア主義者が主張した、東からロシア史を見直すという新しいアプローチは、私には、非常に興味深い。

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前列左端がルスナクさん。五島軒本店で

(報告者:アルセニエフ博物館学術協議会書記、報告会通訳:トリョフスビャツキー・アナトーリー、記録:倉田有佳)

「会報」No.20 2002.4.6

聖ニコライ祭に臨んで

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤朝彦

 昨年12月に札幌ハリストス正教会の松平康博司祭様から、聖ニコライ祭が没後90年の命日にあたる2月16日に函館ハリストス正教会で執り行われることをお伺いしておりました。函館日ロ交流史研究会の事業参加や息子が所属するサッカーチームと函館のチームとの交流試合引率などで、年数回は函館を訪れておりますが、今回の訪函には特別の感慨で臨みました。
 教会には在札幌ロシア連邦総領事ご夫妻をはじめ各地から日本人やロシア人の信者の皆様が集まられ、ニコライの不朽体を納める「聖体礼儀」が行われました。聖堂では司祭や信者さんが祈りをささげる中、セラフィム辻永昇東日本主教々区主教が金属製のケースに入った豆粒ほどの遺体(東京・谷中墓地に埋葬されたミイラ化した聖ニコライの一部)をニコライを描いたイコンの板絵に納める様子を目のあたりにして、まるで映画の中のキャストの一人になったような、はたまた夢の世界にいるようでした。
 実ははずかしながら、信者でもない私は、事前に案内パンフレットを頂いていたのですが、聖ニコライ祭の聖体礼儀の詳細については知っておらず、この度のモレーベン(祈祷)が日本正教会の歴史上、極めて意義深い出来事であることを当日に実感した訳でありました。亜信徒・大主教聖ニコライが修復されたばかりの函館の教会に戻ってきて、今、白亜の教会がタイムカプセルとなって我々を聖ニコライが生存していた時代に運んでくれたのですから。
 私は、昭和50年代はじめ、ロシア語を学ぶために東京のお茶ノ水にあるニコライ学院に通っていたことがありました。何故ロシア語を学んだかと言えば、早稲田大学では商学部に籍を置いておりましたが、青森港に入港するロシア船を見て育ったこともあり、第二外国語としてロシア語を選択しました。しかしながら、一学年でロシア語の基礎を学んだ後、二学年と三学年での授業はマルクス経済学の原書を読むことが中心で会話はほとんど出来なかった状況、もっと生のロシアと接したい思いであった頃、アルバイト先であったお茶ノ水の「山の上ホテル」の近くでロシア語を教えている学校があることを知りました。
 多分、NHKロシア語放送のテキストに紹介されていたと思います。
 ニコライ学院では、夜間コースに通いましたが、生徒さんの大半は社会人で自分が一番年少でした。最初は単なる語学学校かと思っていましたが、学院の敷地内には、大きな聖堂があったり何か修道院みたいな施設(後で、司祭の養成機関であることがわかりました)があるなど、歴史を感じさせるとともに、ロシア的雰囲気を強く与えてくれたのです。また、同時に聖ニコライという方を知りました。
 そういうことから、大学4年の夏、寝袋を持って横浜港からロシア客船で津軽海峡通過ナホトカ経由シベリア横断鉄道でモスクワ・レニングラード・北欧・英国などまで旅をすることにしました。
 当時は、国鉄お茶ノ水駅を降りると聖堂の半円球が直ぐ見えたのですが、今は高層ビルの谷間の中にすっぽり埋まってしまい、何か寂しさが漂っている感じです。
 さて、聖堂での祈祷終了後、午後1時半からロシア極東国立総合大学函館校で開催された記念講演会は、立ち見がでるほどの盛況でした。概要について述べさせていただきます。

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聖ニコライ

●タチアナ・サープリナ女史(歴史学者で在札幌ロシア連邦総領事のご夫人)
「日本の聖ニコライの宣教の偉業」
・ニコライは24歳の時日本行きを決意し周囲の人々の反対を押し切り、141年前に日本の土を踏んだ。
・日本人の心を理解するために日本語教師の下、日本語をはじめ日本の古代から現在までの歴史、仏教徒の僧侶からは仏教書も学んだ。8年をかけて日本の歴史・文学・宗教に関する知識を身につけたが、方言には苦労した。
・日本人は外国人を避けるとともに憎んでもいた。ニコライが最初に宣教したのは、ニコライを殺そうとした神道の澤辺琢麿だった。当時、日本では洗礼は禁止されていたが、1868年には20名に洗礼を施したが仏教徒が多かった。父のような愛情で人々に接し、聖ニコライを囲む会も結成された。
・ニコライは聖書と使徒経の翻訳を死ぬまで続けた。
・日露戦争時、本国から帰国するよう説得されたが、日本の信者の懇願などにより日本に残り平和を祈りました。しかしながら、日本ではスパイ、ロシアでは売国奴といわれた。
・生活は質素で、継ぎ接ぎの祭服を着ていた。
・ニコライは死に際「私の生涯はかすみのようなものだった。日本での50年は何も出来なかった。私は鋤に過ぎない。土地を耕して使い物にならなくなった鋤は捨てられる。私は捨てられる。皆さん、誠実に絶え間なく土地を耕してください。」と言われた。90年前の葬儀には沢山の人々が参列し、明治天皇からは花輪があがった。
・過去10年間で、ニコライは母国ロシアで注目され、氏に関する本が発行されている。2000年2月16日、故郷のベリョーザ村ではお墓の起工式が行なわれ、函館ハリストス正教会をモデルとする教会を建設する計画も進んでいる。

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函館ハリストス正教会

●中村喜和氏(共立女子大学教授)
「まことの愛の半世紀 聖ニコライの偉業を回顧して」
・一橋大学では、第二外国語としてロシア語を選択した。ロシア語を学ぶためにロシア文化を知る必要があった。
・『宣教師ニコライの日記』を中村健之助さんをはじめ四人で訳した。
・ニコライの思いやりのある人柄は、後にイコン画家となった山下りん宛の手紙からも覗われる。
・ニコライの一生を彼の芸術的なところ、特に音楽の感覚の優れたことについて語りたい。
・ニコライは聖歌を重んじ、明治8年、詠隊のソプラノとアルトを養成する為に正教女学校を創設した。
・聖体礼儀(レトルギー)は聖歌と一体となってはじめてその儀式が成り立つ。
・明治12年、ニコライの二度目で最後の帰国時、聖歌を聞いた印象を、「ペテルグルグのネフスキー修道院の聖歌は実に素晴らしい。一方、神学大学付属聖堂の聖歌隊は以前ほど良くない。バスが劣る。」と述べている。
・明治36年、お茶ノ水駿河台で正教新聞主催のコンサートが開かれ、ニコライの好んだ曲「バビロンの川辺」や「ヘルビムの歌」などが演奏され、大変感動された。当時、コンサートは教会だけの催事ではなく、知識人が集まる文化的行事であった。
・ニコライは信仰には形式(聖歌・儀礼儀式)と内容(心と精神)があるが、内容がよければ形式にこだわる必要はないという日本的な考え方もあるが、形式も重要であると言われた。
 中村喜和先生はこの3月で70歳の定年を迎えられるとのこと。

●アレクセイ・ボゴリュボフ氏(エルミタージュ美術館学芸員)の報告
 また、山下りんの研究者で岡山大の鐸木道剛先生の紹介で、エルミタージュ美術館日本文化部学芸員でニコライの研究者でもあるボゴリュボフ氏から当該施設に保管されている絹の巻物に描かれた昔の箱館絵図(縦50㎝×横80㎝、ロシア領事館付属教会も見える)のスライドによる紹介があり、大変興味深い一齣でした。
 正教会信徒会館内に展示された遺品を見た後、17時台発の津軽海峡線で青森へ帰る予定でしたが、聖ニコライが身長182センチの大男であったことを窺わせる祭服のフェロン・マンティア・サッコスをはじめ、愛用されていた品々、直筆の手紙、文献、眼光鋭い自身の写真、1891年に建立された当時やその後の改築時の東京ニコライ堂の写真など興味尽きない数々の展示品に見入ってしまい、列車の出発時刻を忘れてしまい一列車遅らせることになりました。信徒会館を出る頃は、既に薄暗くなっていましたが、夕暮れの青空に浮かび上がった塗り替えられた白壁のガンガン寺が眩しくてしょうがありませんでした。
 司祭の皆様が打ち鳴らす鐘の音は一層大きく力強い響きとなって坂を下りてテクテクと歩いて函館駅に向かう私の耳にはいつまでも余韻が残っていました。これまで何回も聞いていたのですが、今回ほど活き活きした音ではありませんでした。
 「ああそうか イオアン・ドミトリビッチ・カサートキン(ニコライ)が巨体をゆすりながら鐘を打っているからだな」とふと思いました。

「会報」No.20 2002.4.6

話題の本の紹介

2012年4月24日 Posted in 会報

堀江満智著『遙かなる浦潮』
(2002年1月、新風書房)

 著者堀江満智さんの祖父堀江直造は、明治時代にウラジオストクに渡り、日本人経営の商店に勤めた。その後独立して、堀江商店と看板を出し、商売の成功とともに居留民会会頭となるなどウラジオストクの日本人社会の有力者となっていった。
 堀江商店については、1995年、当会が主催したシンポジウムにおいてゾーヤ・モルグン氏(当時ロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所)が発表した「ウラジオストクにおける日本人企業家」でも詳しく言及されたので、ご記憶にある方もいらっしゃるだろう。
 この度、孫の満智さんが堀江家に残された貴重な資料や写真を駆使して執筆されたのが、本書である。シベリア出兵時の様子など、公的な記録ではみられない興味深い事実も知ることができる。

「新日本古典訳文学大系、明治篇」第15巻『翻訳小説集 二』
(2002年1月、岩波書店)

 昨年7月28日の茶話会でお話しいただいた安井亮平先生の校注・解説による、高須治助訳『露国奇聞 花心蝶思録』が、収録されている(本文291~348頁、補注479~490頁、解説523~537頁)。
 「古典文学」に関心のある方は言うに及ばないが、「函館と高須治助」について、関心をお持ちの方にも必見の書である。
 当研究会としては、函館と高須についての新資料発掘が待たれるところである。

「会報」No.20 2002.4.6

ロシアとロシア人

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤精一郎

 隣りの大国ロシアのことは、日本では残念なことだが、ほとんど知られていない。そこで歴史上の大きな事件を瞥見しながら、ロシアとロシア人について考え、ロシア理解の一助としたい。
 まず建国伝説だが、原初年代記によると、西暦850年頃ドニェプル河畔のキエフ付近に東スラブ族(現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)が農耕を営み、水路ビザンチンと交易を行っていた。ところが収穫期になるとスキタイ、ホロペツ等の遊牧民に襲われるし、交易船が掠奪される。これが毎年のようにくりかえされた。そこで長老たちが集ってワリャーグ人(ヴァイキング)を招くことにした。「わが国は広大であり豊かであるが、秩序がない。来りて君臨し、われらを領せよ」それを受けて武将リューリクが手勢を率いて乗りこみ、請われるままに支配し封建国家のようなものを作り上げ、遊牧民の襲撃を防ぎ、交易船の安全を守った。これがキエフ公国リューリク王朝の成立である。
 ここから考えられるのはロシア人は本来農耕民族で強者に支配されるのを望むということで、これがツァーリ幻想となるのである。
 次にキリスト教の受容である。四代目ウラジーミル聖公の時代になると、封建国家の宿命で、国が大きくなるにつれて秩序が乱れはじめて、国民を団結させる精神的中心が必要となった。そこで聖公はビザンチンからキリシア正教を入れて国民の精神のよりどころとし、ビザンチンの王女と結婚して自分の権威を高めた。聖書普及のためキリール文字が入り、キリスト教文化と共にロシア文化発展の基礎となった。こうして国が大きく飛躍しようとしたまさにその時に大きな不幸に襲われ、キエフ公国は壊滅した。
 1230年代のモンゴルの襲来である。強力な騎馬軍団モンゴルの前に平原国家キエフ公国はひとたまりもなかった。モンゴルは1243年キプチャク汗国をつくって居座り、以後240年間にわたりロシアを支配し、しぼり上げることになる。この間にロシア人がロシア人として生き残ることができたのは、モンゴルが宗教には手をつけなかったことと、ロシア人の強い忍耐心ニチェヴォの精神があったからにほかならない。
 モスクワ公国。北の森林地帯に逃れたリューリク一族のイワン・カリータがモスクワ河の畔にクレムリン(城塞)を造り、モンゴルに恭順な態度をとりながら、しだいに勢力をのばし、モスクワ公国を築き上げた。イワン三世の時代(1460年代)にはもうモンゴルに対応し得る国力に達していた。そしてビザンチンがオスマントルコに滅ぼされたので、皇帝の姪ソフィアと結婚し、ギリシア正教の総本山をモスクワに移し、モスクワを第三のローマと称し、ビザンチン皇帝の紋章双頭の鷲を自分の紋章とした。1480年イワン三世はついにロシアをモンゴルの桎梏から解放した。このモスクワ公国もイワン四世(雷帝)の死をもって幕を閉じることになる。そして15年におよぶ空位の内乱時代が始まる。これはツァーリ幻想、民衆の力の大爆発、強烈な国土愛などロシアの要素が表面に出た史上最も興味ある時代であるが、1613年ロマノフ王朝の成立をもって終った。
 ロマノフ王朝は徳川幕府と重なり、約300年つづくことになる。大きな流れは、ピョートル大帝とエカテリーナ女帝の西欧化政策によって、その恩恵に浴した貴族知識階級と元のままの民衆に二分化され、これがロシア発展に大きな歪みを生み出すことになるのだが、ここでは抑圧された民衆の大爆発について考えてみることにする。これがおもしろいことに100年周期で発生するのである。
 まず1670年のステンカ・ラージンの乱、当時はスウェーデンとの戦争が国民生活を圧迫し、忍耐は限界まできていた。ドンコサックのステンカ・ラージンの反乱に農民暴動が合流し、国を二分する農民戦争となった。スローガンは「全ロシアを政府の役人と農奴制から解放する。」この反乱は2年間つづいた。
 次は1770年のプガチョフの反乱。この頃もロシア・トルコ戦争の重圧で民衆の忍耐は限界をこえていた。ドンコサックの首領プガチョフが反乱を起し、ピョートル三世を名乗って農民解放を叫び、農民暴動が合流し、2年間にわたる農民戦争となった。エカテリーナ女帝はピョートル三世の皇后だったが、夫を排して女帝となった。ピョートル三世は難を逃れて民衆の中に生きているという噂が民衆の間にひろまっていた。ツァーリは神に命じられた存在で民衆を守ってくれる。悪いのは取巻きの役人どもだ。これが民衆のツァーリ幻想である。
 1861年アレクサンドル二世は、時代の流れを見て、上からの農奴解放を行った。これがガス抜きとなって100年周期は30年ほどずれた。そして1905年に日露戦争が契機となって第一回革命が起ったが、これは不完全燃焼となって、1917年第一次世界大戦を機に十月革命という大爆発が起った。
 こう見てくるとロシアの歴史は、建国以来培われたニチェヴォの精神が忍耐の限界を越えると強者による救いを夢想して大爆発を起す。この大きな抑圧を大きな爆発のほぼ百年周期の繰返しであったことがわかる。これがロシアとロシア人の来し方である。

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講演中の工藤精一郎先生

(2001年11月10日の講演会より)

「会報」No.19 2002.1.22 2001年11月10日の講演会より

ガリーナ・アセーエヴァさんに再会して

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

編集者より
 小山内さんには以前「会報」13号に「故国に帰った白系ロシア人の運命―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―」を書いていただいたが、これはその続報である。ガリーナ(愛称:ガーリャ)さんは、昭和21年頃まで函館に暮らしていた白系ロシア人ズヴェーレフ家の次女である。
 一家の日本での生活やその後ロシアに帰国したことなどは、13号で紹介されている。

「註」登場人物について
*ヴェーラ:ヴェーラ・アファナーシエヴァ、東京に生まれ、1956年ソ連に帰国。晩年のブブノワさんとレニングラードで暮らし、お世話した。
*ブブノワさん:1922年、日本に嫁いでいた妹のヴァイオリニスト小野アンナを訪ねて来日した画家。長年早稲田大学でロシア文学を講じ、1958年帰国した。
*ナターシャ:ナターリア・マクシモヴァ。最晩年のブブノワさんと交流があった。

ロストフ在住の長兄ミハイル(ミ-シャ)
 昨年9月半ば思い立ってモスクワへ出掛けた。ちょうど2年ぶりのモスクワは、予想外に暖かくお天気も良かった。「バービィエ・レータ(秋の小春日和)が今年はずいぶん長く続いているんですよ」と皆嬉しそうに話していた。このお天気のせいか意外なほど市民の表情も明るく、落ちついていた。「アメリカの悲劇」、「カミカゼテロ」は話の前置きとしては話題になっていたが、やはり「遠い国」のことで、深刻さは感じられなかった。ドル安になるのは困ると不安がる友人もいたが、下がったドルはすぐに持ち直した。
 一昨年、ほんとうに思いがけなく出会うことが出来たガーリャさん(以下名前の敬称略す)には会いに行くかどうか迷っていた。というのはお姉さんのターニャが昨年9月急逝してしまったからである。ズヴェーレフ家の長女として日本のことを一番良く覚えており、北海道から来る私にとても会いたがっていたということだったのに。
 ガーリャに電話してみたら留守である。次にかけたガーリャの友人ヴェーラによると、ガーリャはお兄さんのミーシャを訪ねてロストフ・ナ・ドヌーに行っているが、数日後には帰宅するはずとのこと。念のためお兄さんの電話を教えてもらう。
 2、3日経ってロストフに電話すると、ガーリャはその日の早朝の汽車で帰路についた後だった。ペテルブルグまで36時間もかかるそうである。良い機会だと思ってミーシャとおしゃべりした。日本のことはいろいろ覚えているよと、日本語で挨拶の言葉などを使ってみせた。思い出すのは函館の五稜郭、湯の川、カラリョフ家の息子たちと遊んだことなど。ズヴェーレフ夫妻はカラリョフ家の子どもたちの洗礼時に代父母を勤めたほどの親しい間柄だった。
 ミーシャは2年生からは東京のプーシキン学校に行ったが、上野公園、菊人形の展覧会がなつかしいという。その後12歳で大連に行った。今ロストフには昔日本に住んでいた人たちが数人居て、折りにふれて集まっているという。10数分の電話でのおしゃべりだったが、日本とつながる小さな社会がロストフにもあることが分かって、いつの日か訪ねてみたくなった。

ペテルブルグで
 数日経ってガーリャに電話すると、前もって訪ロを知らせずに今頃電話してくることに不満げな様子が伝わってきた。会いに行かないのは「信義にもとる」ような気がして、ともかくその週末ペテルブルグへ出掛けた。ナターシャは新しい仕事で忙しい中ガーリャと連絡を取り合ってホテルに会いにきてくれた。とりあえずカフェで話したが、話題はまず4月に開かれた「日本週間」のことで、日本からコーラスグループが訪れたりしたが、行事のメインとなったのはナターシャの"「日本」百景"展だったのだ。そのカタログをいただいたが、初めてまとまった形でみるナターシャの絵の数々は「最も日本らしい日本」ともいうべき風景や人物像を表現していてとても素晴らしいものだった。
 ナターシャの言うように、ヴェーラを含めた人の輪、日ロの交わりはブブノワさんから枝葉を広げたものなのである。
 ナターシャとは別れて、便利だからとガーリャの案内で亡くなった姉のターニャの家へ行った。今は娘のオーリャの家族が住んでいる。オーリャは仕事に出ていて9歳の息子ダーニャが留守番をしていた。
 今回の訪問で一番感激したことだが、長女のターニャが管理していたという日本時代のアルバムをたくさん見せていただいたことである。今では骨董品としても価値がありそうだが、表紙が日本の名所の蒔絵で飾られたオルゴール付きの立派なアルバムに家族の歴史を刻む写真の数々が収められていた。
 ロシア人が皆で集まった時、夏に川湯に保養に行った時、ターニャが松風幼稚園に通っていた時...、ここに1枚お借りしてきたのは、家族で休日によく遊びに行ったという大沼公園でのスナップ(1938年頃)である。当時のロシア人は条件に恵まれなくとも、努めて生活をエンジョイしていたことが分かる。この次はアルバムに沿って具体的な詳しい話を聞かせてもらえるよう準備して訪問したい。
 午後にはバスを乗り継いで訪ねてきてくれたヴェーラも加わって、4人でガーリャが腕を奮ってくれた昼食を楽しんだ。ヴェーラといえば、去年半世紀ぶりに偶然消息が分かった聖心女学校時代の親友に招かれて初夏3ヵ月もアメリカ周遊の旅をしてきたそうで、いきいきと元気そうだった。そういう幸運とは無縁のガーリャはちょっと気の毒にも思えた。誠意をもって今後も交流を続けていくことが幾分かでもガーリャに喜びをもたらしてくれたらと願いつつ、再会を期して別れた。

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大沼でのズヴェーレフ一家 前列左からガーリャ、ターニャ、アリョーシャ、ミーシャ。後列は父クジィミーン、祖父テレンチイ、ナージャを抱いた母ダーリィア

「会報」No.19 2002.1.22

高須治助訳『花心蝶思録』をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

安井亮平

 1883年(明治16年)6月に、『露国奇聞 花心蝶思録』が東京で刊行された。原作はプーシキンの最後の長篇小説『大尉の娘』(1836年)。わが国最初のプーシキンの単行本である。ロシア文学としてもこれが最初の単行本であった。
 東京外国語学校でロシア語を学んだ高須治助が原作から訳述したのを、当時の人気作家服部撫松が校閲したのだが、今日の理解では到底翻訳とはいえない、独特の作品である。
 原作は、「私」ピョートル・グリニョーフがその体験と見聞を孫のために記した一人称体の手記であるが、『花心蝶思録』の方は、三人称体で、その訳者序文で謳っているように、あくまでもピョートルとマリーヤの二人の若き恋人の「情史」中心である。プーシキン自身の歴史研究『プガチョーフ反乱史』(1834年)を踏まえて描かれるプガチョーフの反乱の様子とか、プガチョーフをはじめとする、恋人たち以外の登場人物の記述とか、風景描写や心理描写は、ほとんど省かれている。その量も原作の五分の一ほどにすぎない。主な登場人物の名前も、たとえば、主人公のピョートル・グリニョーフはジョン・スミス、その父アンドレーイ・グリニョーフはジョン・グリー、その母アヴドーチヤ・グリニョーワはジョネサン・サラムスと、姓と名を混同した、なんとも奇妙なイギリス風に変えられている。
 訳文は、漢文の読み下し体で、各章に七言の題詞が付されている以外、漢詩が随所にちりばめられている。当時もてはやされた、明治初期の翻訳史上画期的な、リットン著丹羽純一郎訳の『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)張りである。『花心蝶思録』という題名も、『花柳春話』に倣ってつけられたものらしい。ちなみに『花柳春話』の校閲者も服部撫松であった。
 高須の訳文に服部がどの程度手を加えたか、一体「私」の手記という一人称体の原作が、なぜ、どの段階で、誰によって、三人称体と変えられ、「情史」中心の作品となったのか、などなど、詳かでない点が数多ある。
 『花心蝶思録』は、内容や文体からいって、また分量から考えても、決して『大尉の娘』の翻訳とはいえないのだが、しかし逆に、一人称体の作品を三人称体に改作するという、面倒で困難な作業をいとわず、ヨーロッパの文学作品を、自らのことばと文化に拘りつつ、紹介しようとした、明治初期の先人たちの辛労とがんばりには、頭が下がる。
 『花心蝶思録』について詳しくは、来年1月刊行予定の「新日本古典文学大系、明治篇」第15巻『翻訳小説集 二』(岩波書店)所収の小生の校注をごらんいただければ、幸いです。

 高須治助は、『花心蝶思録』の出版される(明治16年6月、ただし版権免許は前年11月)少し前、2月ころからしばらく函館に滞在した。この時の見聞をもとに、函館の主として花柳界の風俗を描いた、漢文体の『函館繁昌記』を著し、17年に刊行した。
 16年10~12月には「函館新聞」に、フランスの情話(原典不明)をロシア語より翻訳して、人情本風の『三重比翼の空衣』(未完)を連載した。これについては、桑嶋さんと清水さんにお世話になった。改めてお礼申します。
 まだ高須の函館に来た事情とか、滞在期間、その間の生活など明らかでない。どうかご教示のほどお願いいたします。

 研究会で報告した時には、まだ市立函館図書館を高須の件で訪れていなかったので、席上何度かその旨お断りしたのだったが、あの数日後訪ねてみると、案の定、図書館に高須の著書が6部所蔵されていた。その中4部は初見だった。『中央亜細亜露英関係論』の原著者はテレンチェフ、『馬術警策』の方は、マホチーヌイ陸軍少将であった。
 さすがに市立函館図書館。改めて脱帽。報告の前にまず図書館に行くべきであったと、反省することしきり。どうかご海容のほど。

「会報」No.18 2001.10.24

高須治助と函館図書館 ―安井亮平先生のお話から教えられたこと―

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 今回の交流史研究会の茶話会は、函館近郊の大沼に来られているという安井亮平先生(元早稲田大学教授)がわざわざ函館まで足をのばしてくださり、お話してくださった。高須治助といえば当地では「函館繁昌記」(明治17年刊)の作者として知る人ぞ知るといった存在である。ちなみに清水さんが会報No.13掲載の「高須治助来函のなぞ」のなかで、来函事情等について推論を交えて紹介している。
 このたび、安井先生は、プーシキンの「大尉の娘」ロシア語原本と高須治助が翻訳した「露国奇聞 花心蝶思録」のコピーを携えて、いろいろな角度から翻訳の妙について話してくださった。高須治助が翻訳するに際し底本としたものが1869年のペテルブルク版であり、それが旧東京外国語学校から東京高等商業学校(現一橋大学)に伝わっていくが、その根拠として高須が原書のミスプリ部分をそのまま訳出していることで判明したといったくだりは、まるでミステリーの謎解きのようであり、思わず聞き惚れてしまった。
 ところで函館の歴史研究に関わりを持つものとして、明治10年代の函館の様子を記述した高須がどのような人物であったのかということに関心を持つのは自然なことであろう。安井先生は、そうした我々の関心にも丁寧に応える形で高須治助の略年譜を用意してくださり、それを紐解きながら、高須治助のロシア語と翻訳という世界を通してみた彼の心情にも肉薄しつつ、その歩みから伺い知れるその人となりを実に懇切な語り口で教えてくださった。
 ロシア文学といえば、かつて良く読んだ部類として、いわずもがなのドストエフスキーからはじまり、大学に入ると周囲の影響もあってゴーゴリ、ロープシン、そしてソルジェニーツィンくらい。自分にとり、プーシキンといえば、チャイコフスキーの「エヴゲーニイ・オネーギン」、はたまた、グリンカの「ルスランとリュドミラ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」といったロシア・オペラの台本の原作者といった印象が強いのが正直なところである。しかしプーシキン自体は遠い存在であっても、いざ高須治助がプーシキンの初の邦訳者と聞くと俄然、プーシキンが身近になるというのもおかしなことかもしれないが、これが函館の地域史フリークというやつであろうか。
 さて安井先生の作成された年譜をたどると高須治助は秋田藩士の富岡英之助の二男として生まれているのが分かる。富岡英之助という名前に見覚えがあったので、もしやと思い「函館繁昌記」の奥付を開いてみるとたしかに出版人の欄にある。高須治助の実父はこうした形で実の息子を支えていたといえるだろう。また治助は14歳(明治6年)で父と同じ秋田藩の藩医である高須松亭の養子に迎えられている。この養父の勧めで治助は、翌々年の8年に東京外国語学校露西亜語科に入学する。時の政府が「魯清韓」の3か国語を修得する者に奨学金を出したそうだ。そのためもあって没落した旧幕府の人々が、時流に乗っているとはいえないロシア語を学ぼうとしたものが多くいたそうだ。松亭が治助にロシア語修得を勧めた背景も、同じ文脈でとらえることができるという。そうであれば治助自らの意志でロシア語に向かったわけではなく、そうしたことが、その後の彼の人生にも陰を落としたようである。
 この養父にあたる高須松亭は、沢田和彦氏の研究によると、ロシアの使節として1853年に長崎に来航したプチャーチンが日本側の応接掛に提出した書簡(オランダ語)を江戸で翻訳しているという(「I.A.ゴンチャローフと二人の日本人 」『スラヴ研究』45号(1998)所収)。であれば経済的な事情とともに、かつて対ロシア関係において少なからぬ関わりをもった松亭は人並み以上にロシアへの関心を持ち、その想いを養子の治助に託したのではないかと想像を逞しくしてみる。
 さてプガチョフの乱に題材を求めた「大尉の娘」の翻訳本「露国奇聞 花心蝶思録」は、明治16年に刊行されているが、現在、サンクトペテルブルク、国立国会図書館、それに早稲田大学図書館の3冊のみが確認されているそうだ。挿絵は月岡芳年の手になる。彼は「浮世絵師の最後の偉人」とか「明治の浮世絵師」と呼ばれ、残酷趣味の絵も描き評判になったほか、洋風を融合した独特の描法で歴史上の事件に取材した作品を多く制作したことでも知られている。でも彼の浮世絵と、この挿絵のタッチはずいぶん違うように思えるが、いずれにしても当代一流の絵師を登用すること自体、なかなかのものだ。
 ちなみに原作には挿絵はなく、これは日本の読者の理解を助けるために創作されたものなのだろう。この芳年の挿絵は、服装、顔つき、室内の様子や背景など、どれをとってもリアリティがなく、日本的に変形されており「似て非なるもの」である。この翻訳本が1910年にロシア国内の雑誌に紹介された時に奇妙な挿絵が掲載されていると評価されたという。確かにエカテリーナやマリーの顔もロシア風とはいえないものの、未見の世界を想像しながら描いたものとしてはなかなかの出来映えだし、何よりも稀代の浮世絵師とプーシキンという取り合わせが面白い。
 さて「花心蝶思録」は明治19年に改訂版が出され、その題名も「露国稗史 スミス、マリー之傳」となる。改訂版も安井先生が確認されているのは国会図書館(4図)、早稲田(6図)、個人蔵(3図)だけという(括弧内は図版の点数、本によって差がある)。ところが茶話会の席上で桑嶋洋一さんから市立函館図書館にも「スミス、マリー之傳」があったはず、それ以外にも高須関係のものが複数所蔵されていると教えていただいた。後日、追跡調査をしたところ、いわば稀覯本といえる「スミス、マリー之傳」ミス、マリー之傳」の4冊目が確かに所蔵されていた。また高須がロシア語の原書から翻訳したもの4点、編集に関わったロシア語辞典の1点も確認できた。「スミス、マリー之傳」の挿絵は6図あるので、これは早稲田本と同じということになる。
 図書館に収められた年代順で列記してみると、「露和袖珍字彙」(昭和10年・個人寄贈)、「馬術警策」(同11年・東京明治堂購入)、「スミス、マリー之傳」(同12年・東京明治堂購入)、「中央亜細亜//露英関係論」(同13年・時代や書店購入)、「露国教育法」のみ不詳。すべて明治時代に刊行されているが、図書館に入ったのは昭和10年代に集中している。大半は古書として東京方面から購入され図書館に納められたものである。おそらく当時の図書館長岡田健蔵の独特の嗅覚が働いたものと思われるが、どのような意図があって購入したのか非常に興味深い。彼に