函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

函館に眠るP.P.バトーリン

2020年9月 7日 Posted in 会報

倉田 有佳

 昨年の9月初旬、タタールスタン共和国のエラブガ(ヴォルガ川支流のカマ川右岸にある都市)から、エカテリーナ・カシャコーワさんが来函した。国立エラブガ市歴史博物館館長のエカテリーナさんは、エラブガ郡出身のバトーリン(1878-1939)の生涯をテーマに、現在カザン連邦大学エラブガ校の大学院で博士論文を執筆中だ。このたびの来函目的の一つは、上海で亡くなったバトーリンの墓が本当に函館にあるのか、自分の目で確かめることにあった。
 まず初めに、通訳をお願いした遠峯エレーナさんと共にエカテリーナさんと市立函館博物館を訪れた。ここでは、エドワルド・バールィシェフさん(筑波大学)から教えていただいたデンビー一族のアルバム(「プレゾー族写真アルバム」、「アルフレッド・ジョージ・デンビー一族写真アルバム」、「アンナ・イワノブナ・ニーナー・ブレゾ一族写真アルバム」)を閲覧した(写真1)。

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写真1

 保科学芸員の説明を受けた後、エカテリーナさんは我々がバトーリンの顔がわかっていないこと知ると、すぐさまアルバムの中からバトーリンの写ったスナップ写真を見つけ出してくれた。そのうちの一枚が写真2である。右端の中年男性がバトーリンで、真中が妻のアンナ(1898年サマーラ生。旧姓クルプスカヤ。函館では「アンナ」ではなく、「ニーナさん」の名で通っていた)だ。左端の若い女性は、妻アンナと前夫イワン・ゲオルギエヴィチ・デンビーの間の子「リュドミーラ」(1914年ウラジオストク生)と思われる。
 次に三人で向かった先は、船見町のロシア人墓地だ。エカテリーナさんは、バトーリンの墓前で黙祷した後、墓石に刻まれた生年を見て、「1880年だ!」、と歓声を挙げた。エカテリーナさんによると、バトーリンは「露暦1878年7月7日」に生まれたが、しばしば「1880年生」と自称した。「バトーリンが故郷の村から大都市エラブガに働きに出たのが17歳。兵役にとられないために2歳若く自称したのではないか」、というのがエカテリーナさんの推論だ。

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写真2

 確かに函館の墓碑には 「1880年7月21日生」と刻まれている。だが、バトーリンとアンナが1932年2月に結婚(互いに再婚)した際の函館ハリストス正教会の記録簿(メトリカ)には、「1878年7月8日生」、と記されている(写真3)。神を前にしてまで偽ることはなかったようだ。


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写真3

 ところで、函館ではほぼ無名のバトーリンだが、1918年春、北サハリンの鉱山や石油の採掘権を握る「スタヘーエフ商会」の代表として日本に招へいされた時には、「露国経済界の巨頭」として大隈重信や久原房之助といった日本の政財界人から丁重にもてなされたことを忘れてはならない。なお、エカテリーナさんは、1918年6月頃、バトーリンが大隈に贈ったとされる鉄道の車輪の鉄の玉(?)の行方を追っている。
 その後のバトーリンは、北サハリンの石油開発のために1919年に結成された「北辰会」と深く関わっていく。だが、1931年9月、フランスから再来日した際のバトーリンに利を見出す日本人はいなくなっていた1。
 そうした中で、親交を深めたのが晩年の小西増太郎だった。トルストイと最初に会った日本人として知られる小西だが、スターリン体制打倒を叫ぶバトーリンと二人でドイツに向かおうとし、まずバトーリンが上海に赴くが、同地で急死した。小西は、「新しきロシアの夢は破れた」、と落胆した。バトーリンの遺骸を上海に引き取りに行ったのも小西だった。バトーリンの急死については、スターリンによる暗殺説もあったようである2。
 馬場脩『函館外人墓地』によると、1939年8月2日、上海の「アスター・ハウス」に宿泊中心臓麻痺のため死亡したバトーリンは、8月6日に火葬に付され、9月6日函館のロシア人墓地に埋葬された。『函館新聞』(1939年9月5日付)は、葬儀のため来函し、湯川のデンビー宅に滞在中の小西と喪服姿のバトーリナ夫人の写真を掲載している(写真4)。

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写真4

 寡婦となったバトーリナ夫人は、その後コンスタンチン・プレーゾと再婚し(三度目の結婚)、1988年に亡くなると、実母や姉と同じく軽井沢に埋葬された。後に三人の遺骨は横浜外国人墓地にあるデンビー家の墓に移され、現在に至る。
 一人函館に残されたバトーリンの隣には「ニーナさん」ことアンナの娘リュドミーラが眠る(写真5 右の墓石)。馬場脩の前掲書によれば、リュドミーラ・チェリー夫人は1939年6月18日上海で銃殺された。日本軍の諜報活動をしていたという噂もあったようだが、真相は定かでない。
 我々の知らぬバトーリンについて、エカテリーナさんの手で明らかにされることを期待したい。

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 写真5

1 外務省記録『外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂 蘇連邦人之部』(K.3.6.1.1-1)。
2 吉橋泰男「小西増太郎(1861-1939)トルストイとスターリンに会った日本人」『ドラマチックロシア in Japan4』所収。著者は小西の直孫。

「会報」No.41 2020.3.3 会員報告