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小出遣露使節団のロシア派遣前後の動向

2020年9月 7日 Posted in 会報

塚越 俊志

はじめに

 嘉永7年(1854)に締結された日魯通好条約は他の国との条約にはない国境画定の条文があった。この条約締結の流れとその後の動きを追いながら、箱館奉行小出秀実がロシアに派遣される経緯を見ていく。その中でも重要なのは使節団の人選である。
 嘉永6年7月18日、遣日使節で侍従長プチャーチン (Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин)海軍中将が長崎にやってきた。12月14日から日本と本格的な交渉を開始し、翌年、12月21日に日魯通好条約を締結する。この条約によって日露国境問題が条約に盛り込まれた。内容は択捉島と得撫島の間に日露の国境を定め、樺太は両国雑居の地とした1。ほかに、双務的領事裁判権を盛り込んだほか、片務的な最恵国待遇条項を取り決めてプチャーチンはロシアへ戻った。
 こうした事情もあり、嘉永7年4月にサハリンと蝦夷地の見分に派遣された目付堀利凞と勘定吟味役村垣範正は、出発前に老中阿部正弘にサハリンをロシアに引き渡しても仕方ないとの見解を示した。プチャーチンと交渉をしていた応接掛の大目付格西丸留守居筒井政憲と勘定奉行川路聖謨らも老中への意見書の中で同様の意見を述べている。ところが、イギリスやフランス、アメリカなどが日本に対し、利権の確保に躍起になっている状況下で、サハリンの領有は日露両国にとって重要な焦点となっていった。
 安政6年(1859)7月、シベリア総督ムラヴィヨフ (Николай Николаевич Муравьёв
-Амурский)が9隻の軍艦を率いて江戸に来航し、サハリン全島をロシア領と認めるように幕府に迫った。ロシアにとって艦隊の主港が置かれていたアムール川河口を塞ぐ形で位置するサハリン島を領有することは、戦略的にも課題となっていた。日本は若年寄遠藤胤統と酒井忠毗が交渉に当たり、日本こそがサハリン全島を所有すべきだと主張しつつ、北緯50度線での境界設定による妥協案を提示し、交渉は決裂した2。
 文久2年(1862)の竹内保徳を特派全権公使とする遣欧使節団はロシアとの交渉で北緯50度を国境線にするか北緯48度線を国境とするかについて折り合いがつかなかったため、ロシアはシベリア総督府から全権委任の使節を派遣し、日本政府もその通知があれば、全権委任の使節を派遣し、双方の全権が協議することで話し合いが決まった3。
 文久3年7月、ロシアはシベリア小艦隊兼東洋海港司令官4(拠点はニコラエフスク)カザケーヴィチ (Пётр Васильевич Казакевич)海軍少将がニコラエフスク(Николаевск)で交渉準備をしたが、幕府は代表を送らなかった5。
 元治元年(1864)9月、ロシア人が樺太の久春内(現ロシア連邦サハリン州イリインスコエ)からさらに南に進出しているという報告を箱館奉行小出秀実が行った。こうした矢先の慶応2年(1866)2月23日、樺太在勤の箱館奉行支配定役水上重太夫ら8名の幕吏が、久春内の北コモシオラを巡察中、ロシア兵に拘束されるという事件が起こった6。そこで、小出は自ら江戸に赴き、樺太国境画定交渉を直訴し、幕府もこれを認め、小出を正使とする遣露使節団派遣が決定した。
 この使節団に関する研究としては、秋月俊幸氏7などが挙げられる。これまでの研究では「カラフト島仮規則」がどのような内容だったかが明らかになり、特に秋月氏はこの規則の調印が「かえってロシア軍の南下に道を開き、その後の樺太における紛糾と日本の樺太放棄の直接的原因となった」という評価をした。このような武力衝突が起きるやもしれない状況下で、真鍋重忠氏は「初期から樺太・千島交換条約締結までのロシヤの対日政策は、その国力と国際情勢の制約を受けたとはいえ平和的であって、武力は対日政策の手段ではなかった」8と指摘している。
 安岡昭男氏は「カラフト島仮規則」調印の評価を「この際日本側は北緯五十度線を固執せず、依然イグナチェフ(引用者註―Николай Павлович Игнатьев、前アジア局長)が提案した四十八度(久春内)内外で境界を定めようとしたが、ロシア側はラペールズ海峡(すなわちサハリン全島領有)を主張して妥結に至らず、結局樺太島は従来通り日露雑居のままに据置かれたのである」9とした。
 また、榎森進氏は「日露和親条約」が「カラフト島」を両国雑居の地としたという意味の記述をしているが、条文に「雑居」ないし「雑居地」を意味する用語が使用されておらず、「カラフト島仮規則」で「カラフト島」を正式に雑居の地としたことと整合性が合わないことを指摘した10。
 これまでの研究では、小出使節団の交渉結果とその後の樺太・千島交換条約の土台となった点は明らかとなっている。小出使節団に関して、『続通信全覧』に「竹内下野守、松平石見守、京極能登守使節一件」のようなまとまった史料群もなく、当該期の老中だった水野忠精の日記11もこの時期のものは存在しておらず、史料上の制限から研究がしにくい使節団であった。また、使節団に加わったメンバーの日記も現時点では存在が確認できていない。それゆえ、小出使節団のみを扱った単独の研究がないのも事実である。
 以上の点を踏まえて、本稿では使節団の人選と帰国後の動向について検討し、小出使節団派遣の特徴を明らかにしたい。

1 使節団の選出と実績

 使節団は慶応2年10月から慶応3年5月にかけて派遣された。
 正使は小出秀実が選ばれた。小出は親族である土岐丹波守頼旨の二男として、天保5年(1834)、出石に生まれ、小出家七代目英永の養子候補として迎えられ、土田で養育された12。嘉永5年(1852)に家督を相続し、安政6年(1859)には学問吟味乙に合格した。文久元年(1861)、江戸へ出て、御使番として小姓組につらなり、同年、目付に登用された。文久2年、外国掛となり、9月には箱館奉行所勤務から箱館奉行に昇進。箱館奉行となった小出は10月11日、松浦武四郎を呼び出し、「同夜遅く迄飲して目録を貰ひ帰る」13とあり、実際に小出と武四郎が会った。しかし、貰った目録が何かはわからないが、武四郎の『蝦夷大概図』や『蝦夷沿革図』などの地図の類や『石狩日誌』などの地誌などの蝦夷地や千島・樺太、アイヌなどのことが記された著作が記されたものと推測される。続く、同15日にも「小出様行、是は小笠原壱岐守様より我をまた召連行候様の沙汰有りしが故なり」14と、老中格小笠原長行の命で小出に呼び出されている。同27日には、小出の指図で武四郎が箱館奉行組頭になったばかりの平山謙次郎のもとを訪れた15。
 小出の目付時代には生麦事件に関するイギリスとの交渉に立ち合い、神奈川駐在領事ヴァイス(Francis Howard Vyse)にしばしば苦しめられた。和議が終わって12月から箱館に住み始めた16。
 慶応2年(1866)8月26日、外国奉行兼任が命じられ、9月2日、樺太分界談判の使節団が決定した。
 目付、石川謙三郎(利政)は一橋家家臣石川源兵衛の子として天保3年に生まれた。安政3年に学問吟味乙に合格し、文久3年、小姓組から小納戸になるも翌年御役御免となる。慶応2年、遣露使節団の目付に選ばれた。
 箱館奉行支配組頭勤方の橋本悌蔵の出身は山城国で20俵2人扶持、本所南割下水に屋敷を拝領している。父は普請役格代官手附橋本祐一郎である。悌蔵は天保11年、部屋住から普請格代官手附となっており、天保14年には「父御暇明抱入普請格代官手附」17という記述が確認できる。
 安政元年に箱館奉行支配調役下役となり、翌年には箱館奉行支配調役元締(80俵3人扶持に足高)に昇格し、安政3年には支配勘定格(100俵に足高)に任命されている。安政5年4月26日、根室の会所詰であった悌蔵のもとを松浦武四郎が訪れている。安政6年、箱館奉行支配調役並となった。
 文久2年、箱館奉行支配調役(150俵)となり、お目見以上となった。元治元年(1864)、箱館奉行支配組頭勤方となった。
 慶応2年9月には遣露使節団に加わるにあたって、箱館奉行支配組頭(永々お目見以上)となった。
 外国奉行支配調役並上田友輔(東作、畯)は文化13年(1816)に生まれた。文久2年の竹内使節団に外国奉行支配定役元〆として参加している。
 箱館奉行支配定役出役古谷簡一は、天保11年、古谷岩之の三男として生まれ、昌平黌に学び、榎本釜次郎と交流があり、蝦夷地情報を得ていたようである。安政5年に古谷栄の養子となり、安政6年には学問吟味乙に合格している。慶応元年、イギリス人数人がアイヌの墳墓を盗掘した事件があり、箱館イギリス領事ヴァイス(前神奈川イギリス領事)と博物学者ホワイトリー (Henry Whitley)を相手に数回にわたり交渉した。
 箱館奉行支配調役並小島源兵衛の屋敷は牛込御門内にある。嘉永6年8月から安政元年12月までは小人目付で第一次品川台場建設の「内海御台場御普請幷大筒鋳立御用掛」18に任命されている。慶応2年9月、箱館奉行支配調役並から箱館奉行支配調役(150俵)19に昇進した。
 外国奉行支配調役格通弁御用頭取名村五八郎(元度)は、文政9年(1826)、長崎のオランダ通詞名村八右衛門元義の子として生まれる。安政元年に箱館に渡り、それ以降、箱館在勤通詞となる。万延元年(1860)の遣米使節団には副詞に箱館奉行村垣淡路守範正がいたこともあり、首席通詞として同行させた。文久元年に箱館に英語稽古所を設け指導に当たり、慶応元年、名村は江戸に移り、慶応2年の遣露使節団に随行した。
 箕作秋坪は、儒者菊池文理の二男として文政8年に備中呰部に生まれる。江戸に出て、箕作阮甫の門人となり、さらに緒方洪庵の適塾に入門した。その後、阮甫の養子となり、幕府天文台で翻訳に従事し、蕃書調所教授手伝となる。
 文久元年、竹内保徳を正使とする遣欧使節団に医師兼翻訳方として随行。慶応2年の小出秀実を正使とする遣露使節団では外国奉行支配調役次席翻訳御用として選ばれる。
 箕作は慶応2年8月29日に若年寄田沼意尊から「魯西亜國江被差遣候ニ付而者先般亜墨里加國幷欧羅巴各國江被差遣候御使之もの江御黒印御下知状被下置候」20と下知されていることから、上田や名村もこの条件で選ばれたことが推測される。
 志賀浦太郎(親朋)は箱館奉行支配定役格通弁御用となっている。天保13年、長崎稲佐の庄屋志賀親憲と沙波の長男として生まれ、幼少から漢学、真陰流剣術、砲術、馬術を修めた21。嘉永6年に遣日使節プチャーチン海軍中将兼侍従武官長率いるロシア艦隊が長崎に入るのを目撃し、その後、入港するロシア艦隊との交渉に当たるのが浦太郎である22。とりわけ1858年9月、ロシアのフリゲート艦アスコルド(Аскольд)号が修理のため長崎に入港し、約500名が10カ月にわたって稲佐の悟真寺に宿泊した。この時、浦太郎は海軍士官ムハーノフとエトリンとの母国語の交換教授を通じて、ロシア語と西洋事情を学んだ23。さらに大きな動きは1861年のコルベート艦ポサドーニク(Посадник)号事件である24。長崎に入港した際に司令官のビリリョフ(Николай Алексеевич Бирилёв)海軍大尉と交渉役を務めたのも浦太郎で、さらに解決のため、ロシア領事との交渉になったため、ロシア語ができる浦太郎が箱館に派遣され、ロシア領事ゴシケーヴィチ( Иoсиф Антoнович Гошкeвич)と交渉することになる25。
 ここから、浦太郎の活動拠点は箱館となる。文久2年からロシア領事館附から正式に箱館奉行所附となり、彼のロシア語能力は重宝された。慶応元年、浦太郎は箱館に「改税約書」等の説明に来た外国奉行柴田剛中26に浦太郎はロシアに留学生を派遣する旨を建言した。これが受け入れられ、市川文吉、田中二郎、大築彦五郎、緒方城次郎、小沢清次郎らが派遣されることとなり、監督役に箱館奉行支配調役並山内作左衛門が選ばれた。しかし、浦太郎はこの留学に加わることはできなかった27。翌年の箱館奉行小出秀実を正使とする遣露使節団には通訳として加わり、ロシアに渡った。そこで出会うのが日本からロシアに密航した橘耕斎である28。
 箱館奉行支配調役武治四男通弁御用海老原絹一郎も加わっている。
 徒目付岩田三蔵(信卿)は、文政5年、下総香取郡に生まれ、幕府に出仕(屋敷は駿河台)した。安政4年6月5日、三蔵は留萌詰で松浦武四郎に会っている29。その後、炮兵指揮官となり、徒目付となる。
 関口大八郎は小人目付として随行した。
 従者には会津藩士山川大蔵(浩)が加わった。弘化2年(1845)、父は1000石の家老山川重固、母は会津藩士西郷近豊の娘えんで、大蔵は長男として生まれる。万延元年(1860)、父の死によって、家督を継ぐ。文久2年、京都守護職に任命された藩主松平容保に従って上洛した。慶応2年、会津藩士外島義直と広沢安任らが相談して、藩主松平容保に勧め、小出に頼んで遣露使節団に随行した。
 従者にはもう一人、会津藩士田中茂手木が加わった。茂手木は天保14年、知行300石の奏者番・御刀番大炮組頭田中八郎兵衛の弟で、田中玄清の子として若松城下に生まれる30。慶応2年、遣露使節団に加わった。
 小出の従者として小出家家士足立豊治郎が使節団の一員に加わった31。

2 帰国後の動向と実績

 ここでは、帰国後の使節団のメンバーの動向と実績を追っていく。
 正使小出は、帰国後、慶応3年(1867)7月、勘定奉行に転じるが健康を害して閑職となり、12月に江戸北町奉行に任命された。しかし健康がすぐれず、慶応4年2月に辞職した。
 明治2年(1869)、付き人を菩提寺の麻布にある臨済宗大徳寺派天真寺に赴かせていた6月22日の留守中、自宅を訪れた刺客の手によって殺害。刺客は小出の対露交渉を「樺太をロシアに売り渡した」32と誤解しての犯行であった。
 目付石川は、慶応3年の帰国後は外国奉行を経て、兵庫奉行へと転じた。
 慶応4年、前任の小出秀実の跡を受け最後の江戸北町奉行となる。幕府から政権を譲渡された新政府軍は、江戸市中の取り締まりのため、石川を大目付に抜擢するも、切腹して果てたとされる。墓は浅草本願寺の浄土真宗長敬寺にある33。
 箱館奉行支配組頭勤方の橋本は、慶応3年、一橋家郡奉行を務めた。慶応4年、老中稲葉美濃守正邦は一橋家郡奉行であった橋本を箱館奉行並(1000石)34に任命した。
 外国奉行支配調役並上田は、帰国後、遊撃隊の一員になる。維新後、外務省官僚となり、明治2年には外務中録として、新潟開港事務を指揮した。この時、官立新潟英学校の教師として、ブラウン(Samuel Robbins Brown)牧師と宣教師メリー・キダー(Mary Eddy Kidder,のちのフェリス女学院院長)が来任している。明治4年外務権大録になっている35。娘孝子は文久遣仏使節団(正使池田筑後守長發)の従者(理髪師)で加わった乙骨亘を婿養子に迎え、彼は上田絅二と名を改めた。この二人の間に生まれたのが小説家上田敏である。その妹悌子(1855-1939)はキダーに英語を習い、岩倉使節団の女子留学生5人のうちの一人となった。その時の畯の肩書は「東京府貫属士族外務省中録上田畯」36となっている。
 明治5年、東京築地万年橋にある自宅に「上田女学校」を開いた。いつ頃、廃校になったかは定かではないが、明治12年11月、新潟で畯は死去した37。
 箱館奉行支配定役出役古谷は、明治元年、松岡林吉と江川太郎左衛門手附元締上村井善平(文久元年、小笠原調査団の一人)らと出納権判事兼皇学所掛となる。明治5年、緒方洪庵の適塾で学び、フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck) にも学んだほか維新後、開成所教授を務めた若山儀一と石渡貞男と租税権助に任命された。明治7年、勧業助となるも明治8年、死去した38。
 箱館奉行支配調役並小島は、帰国後も箱館奉行支配調役並であったものとみられる。
 外国奉行支配調役格通弁御用頭取名村は、維新後は、官職にはつかなかった。明治9年1月18日に死去した。
 外国奉行支配調役次席翻訳御用箕作は、維新後は、東京に三叉学舎を開き、明六社に参加した。明治8年、官立の東京師範学校の摂理(校長)に就任し、明治11年辞任し、翌年から国立科学博物館の前身教育博物館の館長となり、明治15年から図書館長も兼任するが、翌年辞任し、腸チフスのため死去した39。
 箱館奉行支配定役格通弁御用志賀は、帰国後、一度長崎に戻り、長崎奉行支配定役格、さらに同調役格に昇進し、明治維新を迎えた。明治2年、「親朋」と名を改め、開拓使権小主典に任命され、函館詰外務掛となった。さらに小主典に昇り、根室詰となった。明治4年からは外務省に転属し、文書少佑から外務権中録、さらに外務中録と昇進していった。明治5年にロシアからアレクセイ・アレクサンドロヴィチ(Алексей Александрович)大公が親善訪問したときに親朋が通訳を務めることになった。明治8年には榎本武揚特命全権公使のもとで、ロシアと樺太・千島交換条約の締結がなされるが、その下交渉を務めていたのが、親朋であった。その後も志賀は交渉に関わるが、市川文吉が中心となっていったようである。
 明治10年親朋は外務七等出仕となったが、まもなく帰郷することとなる。その後も長崎で日露関係の橋渡し役となっていたが、大正5年(1916)に親朋は病死した。
 箱館奉行支配調役武治四男通弁御用海老原は、帰国後も身分・役職共に変わっていない可能性が高い。
 徒目付岩田は、帰国後、慶応3年、勘定格徒目付となった。維新後、民部省出仕。印刷事監工審査を務めたほか、大蔵官吏となり、明治11年、印刷局一等技手となる。明治20年死去している40。
 小人目付関口は帰国後も変わらずその職に当たった可能性が高い。
 従者山川は、戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸から会津に戻り、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。会津戦争では、敵陣に包囲された城に入城するため、伝統の彼岸獅子を舞わせながら入城するという離れ業を演じた。籠城戦は防衛総督として奮戦、戦後は禁固謹慎になるが、明治3年、斗南藩権大参事になるも、困窮が続いた41。
 廃藩置県後は青森県に出仕したが、日光口の戦いで谷干城に敗れたが、その時の指揮ぶりが認められ、干城の推薦で明治6年、陸軍八等出仕となった。同年陸軍少佐となり、熊本鎮台に移り、明治7年の佐賀の乱で左腕に重傷を追うものの、中佐に昇進する。明治10年の西南戦争では、陸軍中佐・征討軍参謀として出征した。熊本包囲を打ち破り、谷干城を救出した。明治13年、陸軍大佐に昇進した。明治19年、文部大臣森有礼の命により、高等師範学校校長に任じられ、附属中学の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。
 明治23年、衆議院選挙には敗北するも貴族院議員に勅選され、明治31年、男爵に叙せられるも、病没した42。
 従者田中は、パリ万博も見物して帰国。帰国して江戸から船での帰途、新潟港で家老梶原平馬に会い、平馬を助けて新潟港を管理した。故郷会津に帰らないうちに、慶応4年7月29日、新政府軍の新潟来襲の際に戦死した43。
 小出の従者足立は、帰国後も小出に従った可能性が高い。

むすびに

 「カラフト島仮規則」を締結するに至った小出使節団の特徴として、北方の調査を行っていた箱館奉行所の役人、使節団経験のある随行員、そして幕府の学問吟味を合格した正使小出秀実と目付石川利政らが選ばれたことを明らかにした。
 使節団のメンバーの帰国後の状況は小出や石川は不運だったが、それ以外のメンバーはおおむね明治政府のもとで仕事に携わった者たちが多く、明治政府の初期の段階ではやはり幕臣たちの協力がなければならなかったことがうかがえる。
 本稿では、同時期にロシアへ派遣された日本人留学生44たちとの交流等については全く触れられなかったため、今後の課題としたい。


1 石井孝『日本開国史』吉川弘文館 1972年。麓慎一『開国と条約締結』吉川弘文館 2014年。
2 秋月俊幸『日露関係とサハリン島 幕末明治初年の領土問題』筑摩書房 1994年。伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館 2009年。
3 尾佐竹猛『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』講談社学術文庫 1989年 200頁。この書では、小出使節団は扱われていない。
4 この役職名は秦郁彦編『世界諸国の制度・組織・人事 1840-1987』東京大学出版会 1988年 373頁による。
5 『新北海道史』第2巻通説1 1970年 778-780頁。
6 この事件の概要は、檜皮瑞樹「『国境』の発見と領土交渉――久春内幕吏捕囚事件と小出秀実」(同『仁政イデオロギーとアイヌ統治』有志舎 2014年)を参照。
7 秋月俊幸「明治初年の樺太」(『スラヴ研究』40号 1993年)、同『日露関係とサハリン島――幕末明治初年の領土問題』筑摩書房 1994年。
8 真鍋重忠『日露関係史 1697-1875』吉川弘文館 1978年 342頁。
9 安岡昭男『幕末維新の領土と外交』清文堂 2002年 73頁。
10 榎森進「『日露和親条約』がカラフト島を両国の雑居地とする説は正しいか?」(『東北文化研究所紀要』45号 2013年) 1頁。
11 水野忠精の慶応2年の日記は1月・2月・5月期が確認されている(水野忠精著、大口勇次郎監修『水野忠精幕末老中日記』第9巻 ゆまに書房 1999年)。
12 川濱一廣「土田陣屋と小出秀実」(和田山町史編纂室編『和田山町の歴史』2 和田山町 1986年)、61頁。
13 笹木義友編『新版松浦武四郎自伝』北海道出版企画センター 2013年 300頁。
14 前掲、『新版松浦武四郎自伝』、300頁。
15 前掲、『新版松浦武四郎自伝』、300頁。
16 前掲、「土田陣屋と小出秀実」、64頁。
17 小川恭一編『寛政譜以降旗本百科事典』第4巻 東洋書林 1998年 3617の3-1。
18 同じ役につき、小島同様後に箱館奉行所に勤めることになったのは堀利凞、竹内保徳、河津三郎太郎、平山謙二郎らがいる。冨川武史「高松彦三郎筆『内海御台場築立御普請御用中日記』(5)」(港区立郷土資料館『研究紀要』第14号 2012年)などによる。
19 小川恭一編『寛政譜以降旗本百科事典』第2巻 東洋書林 1997年 1866の3-1。
20 石川駿河守「慶応二寅年八月 魯行一名御用留」(函館市中央図書館所蔵)。
21 沢田和彦「志賀親朋略伝」(沢田和彦『日露交流都市物語』成文社 2014年)、296-297頁。
22 拙稿「開国期の日魯関係」(『湘南史学』第18号 2009年)。松村秀雄『ながさき稲佐ロシア村』長崎文献社 2009年などによる。
23 前掲、「志賀親朋略伝」、298頁。
24 事件の概要は岩下哲典『江戸の情報海外ネットワーク』吉川弘文館 2006年や拙稿「ポサドニック号事件に関する一考察――箱館に於ける日魯交渉――」(『湘南史学』第16号 2007年)。前掲、『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館 2009年を参照。麓慎一「ポサドニック号事件の衝撃」(小松久男編『1861年 改革と試練の時代』山川出版社 2018年)。
25 前掲、「ポサドニック号事件に関する一考察――箱館に於ける日魯交渉――」、および前掲、『ロシア人の見た幕末日本』を参照。
26 この交渉については、拙稿「柴田剛中の箱館での交渉」(『函館日ロ交流史研究会会報』第36号 2016年)を参照。
27 幕府ロシア留学生に関しては、内藤遂『遣魯伝習生始末』東洋堂 1943年を参照。
28 橘耕斎との接触については、拙稿「橘耕斎の人物像をめぐって」(『京浜歴科研年報』第31号 2019年)を参照。
29 前掲、『新版松浦武四郎自伝』、223頁。
30 芳賀幸雄編『要略会津藩諸士系譜』下巻 歴史春秋出版 2001年 35―36頁。
31 前掲、「土田陣屋と小出秀実」、82頁。
32 前掲、「土田陣屋と小出秀実」、90頁。
33 河原芳嗣『江戸の旗本たち――墓銘碑をたずねて――』アグネ技術センター 1997年 238-240頁。
34 前掲、『寛政譜以降旗本百科事典』第4巻による。函館市史編さん室編『函館市史』通説編第2巻 函館市 1974年 182-186頁。
35 『日本外交文書』4巻1冊 353頁。明治4年2月1日改『職員録』 112丁。
36 寺沢龍『明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女』平凡社新書 2009年 18頁。
37 前掲、『明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女』、115-117頁。
38 「故正六位古谷簡一君之墓表」(谷中霊園甲四号八側)の来歴記載による。
39 岩下哲典『津山藩』現代書館 2017年 89頁。
40 「正七位岩田三蔵墓」(谷中霊園乙三号三側)の来歴記載による。
41 小桧山六郎「戊辰戦争における会津藩、および幕府、東軍主要人物像」(『幕末における会津藩――松平容保の時代――』会津武家屋敷 2007年)、67頁。同「戊辰人物事典」(『会津人物群像』NO.13 歴史春秋社 2009年)、98頁。
42 間島勲「会津藩士人名小事典」(『幕末会津藩』 歴史春秋社 1999年)、200頁。
43 宮崎十三八「田中茂手木」(安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻 新人物往来社 2010年 84頁。
44 先行研究としては内藤遂『幕末ロシア留学記』雄山閣 1968年。宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉のこと」(『社会労働研究』37 1991年)。同「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」(『社会労働研究』39 1993年)。同「幕末ロシア留学生に関する一資料」(『社会労働研究』43 1996年)が挙げられる。

「会報」No.41 2020.3.3 会員報告