函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

1925年2月、北サハリン亜港から脱出したペトロフスキー一家の足跡を追って

2017年3月16日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ 小山内道子構成・翻訳

 サハリン州アレクサンドロフスク・サハリンスキー市の郷土史家・グリゴーリィ・スメカーロフ氏は昨年初夏、2度目の函館訪問を果たし、函館日ロ交流史研究会の皆さまとの交流会を楽しみ、函館の名所・史跡を案内していただくなどたいへんお世話になったと感謝していた。
 また、倉田有佳氏からいただいた新聞記事を示して、私にロシア語への翻訳はお願いできないかとのことだったが、ちょうど忙しい時期だったのと、かなり大きな記事だったため、その時はお断りしてしまった。記事は『北海タイムス』、大正14(1925)年2月23日付の大きな写真入りの記事「悲話 トロイカも懐かし、安住の地を求めて漂白のたびに上ったペトロスキー(ママ)一家」の見出しで、当時の亜港(現アレクサンドロフスク・サハリンスキー)から小樽港に上陸したペトロフスキー一家の写真と亜港の様子を尋ねる家長コンスタンチンへのインタビューという内容になっている。スメカーロフ氏は北サハリン出身の亡命者で、その後も名を成した人たちの軌跡を探索し、記録する仕事を続けているが、これまでに日本との関わりでは函館にも大きな足跡を残したシュヴェツ家の足跡を調べ、既に当研究会の『会報』に寄稿しておられる1。また、柔道家であり、サンボ創始者そして諜報活動家でもあったオシェプコフ氏についても既にまとまった論文を発表している2。そして今スメカーロフ氏が最も情熱を傾けているのは、この新聞記事のペトロフスキー家の足跡をたどることである。昨年秋コンスタンチン・ペトロフスキーの長男ニック(ニコライ)が父祖の地・サハリンを訪れるというスメカーロフ氏からのニュースに接し、私もペトロフスキー家への関心を刺激され、北海道立文書館でこの新聞記事を入手したが、その他の関係資料検索には至らず仕舞いとなった。また、この時のニックのサハリン訪問も諸事情で実現しなかったのである。ところが今年3月、スメカーロフ氏からペトロフスキー家の皆さんが9月に来訪することになったと知らせてきた。今度はかなり確実な情報のようである。そこで、既に発表されていたスメカーロフ氏のペトロフスキー家の物語「母国ロシアへの郷愁」3を全文読ませていただきたいとお願いし、特別に送っていただいた。私は以前にもこの論考の断片を読んだことがあったが、今回はこの長い論考を全文を通して読むことになった。読み進むにつれ、心を打たれ、強く惹き込まれた。ペトロフスキー家が日本軍が5年間占領していた北サハリンの地でも麗しい「純ロシア」式の生活を営んでいたことにも感銘を受けたのである。ここでの詳述は省くが、この「母国ロシアへの郷愁」はニックの父親コンスタンチンが書いた「思い出の手記」であるが、全体としてたいへん資料的価値も高いという確信を深めた。北サハリンは日本軍による日露戦争時の占領とシベリア出兵時の尼港事件後5年に及ぶ「保障占領」など、日本との関わりが大きい。この書によってペトロフスキー家は「保障占領」期の日本軍と密接な利害関係があり、親交があったことも分かった。私はこの論考を翻訳・紹介する価値があると考えた。今回はスメカーロフ氏の諒解を得て「母国ロシアへの郷愁」を最初からページを追ってそのまま翻訳せず、まず新聞記事にある1925年前後を中心に訳出した。
 はじめに、新聞記事で「亜港屈指の資産家」と注目されている「ペトロフスキー家」とは?スメカーロフ氏は以下のように叙述している。
<過去において徒刑囚だったフィリップ・ペトロフスキーはこの町で石炭事業を興し、大規模なレンガ工場を建設した。その工場で生産されたレンガが今日残っているアレクサンドロフスクの一連の建造物や市の大通りにある数件の家々に組み込まれている...また、街にはこの家族を記念してペトロフスキー通りさえあるのだ...>

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小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)

 コンスタンチンの手記を紹介する前に新聞記事の写真説明を読んでみよう。 小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)
<亜港屈指の資産家として又亜港相談会役員の一人として近くは強盗事件*で亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られたコンスタンチン・ペトロスキー(ママ)の一家は我が軍撤兵と共に亜港を引き揚げなければならぬ運命となった。彼が北樺太に抱擁する幾多の富も今となっては全く何等の力を有していないのである。彼は悄然として妻エレナと共に長男コンスタンチン(九才**)長女アナスタシヤ(五才)次男アナトリー(七才)二女エレナ(四才)三女ナタリヤ(二才)等の手を取り新しき生活を営むために暖かい南国を指したのであった。一家が小樽経由長崎へ向かう途中ペトロスキー氏は北海屋ホテルの一室でしめやかな物語を聞かせて呉れたのであった。(m生)>(*強盗事件については後述。**「思い出の記」を書いた父親と同じ名の長男コンスタンチンは実際は1913年生まれの11歳である。)
 記事の本文:「北京交渉が愈々成立したと聞いて今更のように驚いたのは有産階級と日本軍に好意を持っている人達であった。どうしても引揚げなければならぬと覚悟はしているものの資力が充分でない為引き揚げてから何處に居を求めようかという不安を誰しも持っている。何れ五月撤兵の際軍の援助を仰ぎ方針を定める他はあるまいと協議中である。...中略(身の処し方に悩んでいる友人、知人の具体例等実名を挙げて亜港の状況を語っている)...自分等の家屋、土地、牛馬などは殆ど捨値同様の十分の一の価格で売らなければならなかった。吾々の汗と脂も空しく煙となったのである。実に悲惨な話だ。......吾々は委員を組織し南樺太行を懇請したが吾々が南樺太へ行っても農業は出来ず不適当である。日本の地を求めるに就いても北海道は家屋が不完全の為到底冬の寒さに耐えられない。吾々の求める處は南である。長崎辺りは暑さに慣れない我々が果たして耐えられるかどうか判らぬが、先ず落ちついておもむろに将来も考える積りだ」と語った。妻のエレナは「ほんとうに、吾々はロシアの冬を見捨てる事は此上もない惜しいことだ。ロシアのトロイカ(三頭馬車)に乗って走回る事も出来ない。然し安住の地を求める喜びの為には......これも止むを得ない事でしょう」と人形のように美しいナタリアのふさふさした金髪を撫で乍ら涙ぐんでいた。」

 ペトロフスキー一家の今後の課題この小樽以後の日本における消息についてスメカーロフ氏の論考は全く触れていない。また、後述のコンスタンチンの手記にも時系列的な記述はない。しかし、一家はどうやら日本に長く留まらずにその後の情勢によってハルビン、上海、香港へと安住の地を求めて移住したようだ。第2次大戦後はいったんドイツへも渡ったようである。そして一家が最終的に永住の地として落ち着いたのは、故郷サハリンのアレクサンドロフスクに自然も気候も土地の歴史さえ似ているオーストラリア・タスマニア島のロンセストン市だった。それは亜港脱出時11歳だったコンスタンチンが優秀な外科医となっていて、1951年市の病院長となって赴任したからである。
 スメカーロフ氏はペトロフスキー通りと言う名を残しているこの一家のことを州や市の文書館の資料、教会のメトリカ(洗礼簿)等で調べ、前述の資産状況、家族構成と出生記録等などを収集した。また、ペトロフスキーの刻印のあるレンガまで見つけたのである。そこで、今度は1925年以降この一家がどうなったのか、その子孫は現在どこかで健在なのかを調べることになった。2004年、スメカーロフ氏は国立サハリン州歴史文書館で資料検索をしていたとき、返信宛名のあるサハリン州政府宛のコンスタンチン・コンスタノヴィチ・ペトロフスキー氏の手紙とそれに対するサハリン州知事が出した以下のような「招待状」ともいうべき返信を発見したのである。
<親愛なるペトロフスキー様、知事として私は貴方をサハリンへ招待いたします。貴方のご都合の良い時にいつでもサハリンを訪問され、貴方のご家族の歴史と深く結び付いている場所をご覧になるため貴方の故郷、アレクサンドロフスク・サハリンスキー市を訪問されることを提案いたします。貴方と貴方のご親族の方々のご多幸を心から祈念いたします。 1992年9月2日 サハリン州知事 V・P・フョードロフ>
 スメカーロフ氏にとってこれは最も望んでいた大発見だった。早速、コンスタンチンの返信用宛名に手紙を出して、ペトロフスキー家との文通が始まった。後に分かったことだが、サハリン州知事からの招待状を同じ1992年9月中には受け取っていたコンスタンチンは、ひどく喜んで、故郷訪問の準備を始めていたが、高齢になっての71年ぶりの故郷訪問への期待は興奮と不安をももたらしたのだろうか、出発を控えた1995年4月、82歳の誕生日のお祝いを前に脳出血により急逝したのだった。
 現在スメカーロフ氏の文通の相手はコンスタンチンの長男、医者で世界的に有名な内分泌学者として活躍するニコライ(ニック)・コンスタチノヴィチ(1959年生)である。ニックは仕事が超多忙にもかかわらず、依然として母国ロシアへの関心を失わず、資料集めを続け、父の残した手記に手を入れ、ペトロフスキー家の歴史を書いていたのだ。そこで二人はお互いに資料を交換し、情報を伝え合った。やがてスメカーロフはぜひニックに会いたいと思い、オーストラリア行きを模索するようになった。しかし、それは簡単にはいかず、延び延びになっていた。ロシア人がオーストラリアを個人的に旅行しようとすると様々な障害があったのである。
 ペトロフスキーに会いたいという彼の願い、それが急転直下実現したのは、思いがけず援助の手を差し伸べてくれた同郷人のおかげだった。すなわち、サハリン州ムガチ村出身者でシドニー在住のエレーナ・ポターシニコヴァ(フェドレンコ)がその人である。そして2013年10月、スメカーロフとニックの素晴らしい邂逅の場所となったのはエレーナの家だった。シドニーにはニックと妻のシャーレン、ニックの妹のリーザが来てくれた。言葉の問題は全くなかった。ただ、話の中で微妙なニュアンスを伝えるときにムガチ出身のエレーナが通訳してくれた。
 そして、この時の対談とニックの父コンスタンチンが残してくれた英語で書かれた「思い出の記」が一家の物語の中心的な資料となった。スメカーロフ氏はこの英語版の手記をロシア語へ翻訳したが、それにはかなりの時間を費やしたという。手記を読了したスメカーロフ氏の感想は、「思い出の記」の著者の見解は相当に主観的なものに思えたという。しかし、サハリンの歴史をこのように主観的に述べた見解は長い間わが国、すなわちソ連時代にもロシア時代になってもなかったのではないかという新鮮さだった。そこでスメカーロフ氏はコンスタンチンの「思い出の記」を土台にして書いた論考に「母国ロシアへの郷愁」というタイトルをつけ、合間にG.S.の表記で注釈とコメントを書き込んだ。その論考から今回は「北海タイムス」の記事との関連で、ペトロフスキー一家が亜港を脱出するまでの2年ほど前から日本軍の砕氷艦で小樽港到着までをコンスタンチンの筆による「思い出の記」から紹介したい。それ以前の一家の歴史等は改めて次号以下に回すことにした。

 1923年、サハリン島は実際のところ大変平穏無事と言える状態だった。住民は豊かな暮らしを営んでいた。誰も政治について話すものは居なかった。島に駐屯している日本軍は住民に対して友好的だった。日本軍は地元の行政府に干渉することもなかった。住民の多くがこの状態はしばらく続くものと思っていた。しかし、実際はそうではなかったのだ。運命はサハリンの住民にいつものように生活の転換点となる大きな事件を準備していたのであった。
 1924年になると、町では日本はソ連邦へのサハリン北部の返還についてソビエト政府と交渉しているという噂が広がった。もちろん我々には交渉の詳細は分からなかったが、交渉が行われていること自体を島の住民は信じていたのである。9月になって日本駐屯軍最高司令官の高須将軍がわが家を訪れた。秘密の話し合いの中で高須将軍は北サハリンは間もなくロシアに返還されることになっていると父に断言したのである。このような大転換の知らせは僕の両親を当惑させた。僕たちはボリシェヴィキに我々が捕まった場合どうなるかということを既に予測できたからだ。僕たちの家族はもう何年にもわたって新政権のブラックリストに載っていたからである。
 故郷アレクサンドロフスクを引き払うことを決めることは大変困難だった。特に祖父のフィリップには辛い試練だった。祖父はここサハリンの地で家族の安寧のために忍耐強く、過酷な労働をあれだけ長い年月続けなければならなかったのだ。彼がもし「徒刑囚」のように労働しなかったならば、決してこの類まれな財産を築くことはできなかっただろう。一家の事業を築き、安定させて、運命のいたずらを逃れることが出来たのだが、そのことに何か悪いことがあったのだろうか?そうだ、祖父は帝政が崩壊した後、かなりの資金を白衛軍の運動に送っていたのは確かである。なぜなら、祖父は現在の体制はロシアにとって敵であると確信していたからだ。僕たちの家は依然として黒い宝石と言われる石炭を所有していた。僕は祖父がボリシェヴィキと戦っているシベリア政権に約50万ルーブルを金貨で送ったと聞いたことがある。紙幣はロシア領内では流通しなくなっているとのことで、ペトロフスキー家はツァーリの肖像入りの金貨で全額を集めたのだという。
 日本軍がアレクサンドロフスクに上陸したとき、祖父はまだ石炭の採掘事業を続けていた。1924年にペトロフスキー家は高品質のサハリン炭を日本に売るようになったが、この取引は好成績を上げていた。この炭鉱を持ち出すことはもちろんできないが、この島に留まることも危険だ。この問題について父と高須将軍の間で話し合いが行われていた。二人はペトロフスキー家の将来についてどうすべきかを決めていたのである。大いに尊敬されている日本人が父に助言したのはこうであった。日本における最大財閥の一つ・合資会社<ミツビシ>がペトロフスキー炭鉱の獲得に関心をもっている。この炭鉱の高品質の石炭(無煙炭)は日本では大変大きな需要があるので、この会社がこの石炭の採掘を引き受けたいという。「ミツビシ・コーポレーション」は現在炭鉱で働いている人達を雇用する用意がある。そして、この炭鉱で1924年末から1925年年初にかけての石炭採掘をする代償として会社はペトロフスキー一家を必要になったら直ちにサハリンから脱出する機会を提供するというのであった。この提案は、祖父フィリップが新体制の犠牲にならないためにできるだけ早く島を出るという考えと合致した。そこで、祖父はこの協定に同意し、サインしたのだった。

 スメカーロフ氏はサハリン州国家歴史文書館で全露中央執行委員会全権委員会の文書にペトロフスキー一家の財産が以下のように記載されているのを見つけ出した:
 亜港市中心街大通りに8戸の家屋、2万個製造能力の煉瓦工場、アレクサンドロフスカヤ通りの広大な宅地、残高9195ルーブル6,50カペイカのペトロフスキー炭鉱4
 スメカーロフ氏は「思い出の記」を残したコンスタンチンの長男ニコライとの談話から分かったこととして、ペトロフスキー家が一番望んでいたのは、彼らの資産に対してボリシェヴィキ側に補償してもらうことだったという。協定書によると、ソ連邦が日本から炭鉱を引き継ぐとき「ミツビシ」に対し炭鉱の額面価格を支払うなら、日本の会社「ミツビシ」はそのお金をペトロフスキーに支払うことになっていた。しかし、知られているように、全露中央執行委員会全権委員会は北サハリン受領の際、炭鉱に対しては1カペイカも支払わずに国家の必要のために国有化してしまったのだ。ペトロフスキー家は自分たちの期待を裏切られてしまったということになる。日本にいる間にも一家は何らの補償金も受け取っていない。そこで、日本側とペトロフスキー家の間にはその関係に初めての亀裂が生じたのであった。(この部分はスメカーロフ氏のコメントである。)
 今や日本側は様々な口実の下にペトロフスキー家と合意調印した取引協定の遂行を引き延ばしていた。そして、この協定問題で交渉が続いているとき、更に一つ実に驚くべき事件が起こったのである。(これは前述の新聞記事の写真説明の枕詞にあった「強盗事件」のことで、「亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られた」という事件で、コンスタンチンの「思い出の記」では非常に詳細に事件の顛末が述べられている。しかし、ここではコンスタンチンの記述を使い、そのダイジェストによって事件の概要だけを紹介したい。)
 
 1924年12月1日、その日は僕の祖父フィリップの「名の日のお祝い」(自分の洗礼名があやかった聖人の祭日に当たる日)で、従来は大勢の親戚知人を招いて盛大に行っていたが、その年は時節柄簡素に祝うことになった。そのうえ大変な雪嵐で遠くの親戚は出席不可となっていたが、早めに到着した近い親戚や隣人何人かが集まっていて、その中には我が家と親しい日本駐屯軍副指令官高須将軍も来ていた。祖父と高須将軍は向かい合って座り、長男の僕も加わることが許されて、テーブルを囲んでいた。やがて宴会が始まって料理とお酒で賑やかな談笑となったが、それもさらに強まった風雪が窓をたたく音で時々かき消された。その時、突然台所へのドアがばたんと開き、拳銃を手にマスクをした男が二人入って来て、テーブルについている人達に無言で乱射し始めたのである。僕はテーブルの下に伏せて弾を受けなかったが、高須将軍は胸と顔に弾を受け血だらけになって床に倒れていた。男はさらに将軍の頭を撃って、出口へ飛び出して行った。その前に僕も頭を拳銃で殴られ、額に弾を受けて倒れたが、さらに僕を狙った拳銃を妹が男にしがみついて撃たせまいとしていた。その後祖父が別の男と絡み合いながら奥の部屋から出てきて格闘していたので、僕も男に飛びかかり、男のマスクをはぎ取って顔を爪で引っかきまくった。男は僕を引き離し、祖父から逃れて出口へと逃げ去った。そこへ父が日本軍の兵士を伴って到着し、一件落着した。表に逃れていた母も額に傷を受けていた。
 その後警察の捜索により、犯人たち5人が捕まり、尋問によって真相が明らかになったが、彼らはつい最近ペトロフスキー一家を無き者にする目的で大陸から渡って来ていたのだ。この計画が成功した場合、彼等への報酬は我が家から略奪した宝石類などすべてを与えるというものだった。この極悪人たちを日本側は処刑せず、ボリシェヴィキ到来時の報復を恐れて、刑務所で監禁を続けたのである。
 高須将軍は半死の状態で血の海の中に横たわっていたが、日露の医師が駆けつけ、何とか生命はとりとめることが分かった。然し、将軍を動かすことは出来ないので、将軍はその後ずっとわが家の一室で数週間も治療を続け、武器を持ったパトロール兵がわが家と表通りに常駐していた。わが家では僕を含めて全員が連発拳銃を携帯するようになった。結局、高須将軍が全治するまでにその後6か月もかかったのである。
 僕は頭を犯人の拳銃で殴打されたため、算数が出来なくなり、他の科目でも以前は覚えていたことが分からなくなった。両親は心配してサハリンを去るまで全教科の家庭教師をつけたが、はかばかしい成果は上がらなかった。
 われわれペトロフスキー家は全速力でサハリン脱出の準備を始めていた。それは1925年の冬だった。タタール海峡は氷に閉ざされていた。日本の島・北海道(そこが僕たちの目的地だった)へ到達するには二つの道があった。島の南部へそり道を荷馬車で行くか、砕氷船で氷を割りながら海峡を通って行くかである。アレクサンドロフスクへ接岸する砕氷船は日本の軍艦の構成艦とされていた。また、日本帝国軍艦の伝統として艦上に女、子供を乗せて航行できないという規則があった。驚いたことに、日本側は僕たち一家を輸送するために一時的に軍艦というステータスを変更したのである。それはペトロフスキー一家を最も安全な方法で日本へ送り届けるためであった。
 祖父のフィリップは不動産の始末をしたり、友人たちに家財や家畜類等を分与するためにアレクサンドロフスクになおしばらく残っていた。祖父はその次の便で到着して、日本で僕たちと合流した。先に書いたように祖父は「ミツビシ・コーポレーション」と炭鉱に関する協定書に調印してきたのである。もちろん、取引の総額は僕には分からなかった。契約書は調印されたが、会社の役員たちはお金を払うことを引き延ばしていた。僕たちが日本に到着したら全額を受け取ると定められていたのである。コーポレーションは同様の条件で僕たちの馬全頭と厩も買い取っていた。僕たちの純血種の競走馬と美しいその母馬も日本人の手に渡ったのである。こうしてある冬の日に僕たち一家は日本へと出航する砕氷艦に乗り込んだのであった。

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亜港投錨地の日本の砕氷艦、このタイプの砕氷船で一家は亜港を離れた。

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一家が後にした1925年冬の亜港の街並み

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1920年代の亜港の市街(日本の絵葉書より)、この通りにペトロフスキーの屋敷があった。

外国船舶の船上生活は大変快適なものだった。乗組員はそれぞれ自分の任務を遂行し、僕たちには西洋料理の食事を提供してくれた。水夫たちは僕たち子供に対してとても親切だった。僕たちと遊んでくれて、悲しい考えから気をそらせてくれた。1日目の航行では砕氷艦は海峡の氷を砕いて進んだ。僕たち家族は船酔いしてしまったママ以外は誰も不快な気分にならなかった。2日目になって砕氷艦が氷の傍をかすめて荒々しい外洋へ出ると、船酔いは父を含めて全員に広がった。僕はポートワインを飲んで大々的に吐いた時のような気分だった。わが家の人間は誰一人食べ物を見向きもしなくなった。砕氷艦の乗組員は僕たちのことを心配してどうしたら船酔いに打ち勝てるか助言してくれた。この間砕氷艦は安定性を欠き、それに加えて嵐のために全くガタガタになっていた。船は波を受けて右へ傾き、次の波で左へ傾くという風に何度も8の字にのたうった。しかし、砕氷艦は何とか北海道の小樽港にたどり着いた。船が港の水域に入ると、海は穏やかになった。その時僕は不意に僕がまだ火器・連発拳銃を胸ポケットに入れていることを思い出した。サハリンを出る時、父から日本に持ち込み禁止になっているものを持って船に乗るのは危険だと注意されたことも思い出した。どうしたら良いのだろう?そのまま置いて行くか、甲板から投げ捨てるべきか?長いこと考えあぐねた後、僕は苦渋の決断をして「わが友」と別れることにした。僕はそっと甲板に行き、誰も見ていないことを確かめて連発拳銃を水の中に投げ捨てた。
 僕たちは助かったのだ、僕たちはみな一緒にいる、一家の問題はみな後ろに捨て去ってきたのだという漠然とした安心感が、故郷に別れを告げたという悲しみをしばらくのあいだ忘れさせてくれた...


1 「シュヴェツ家との出会い」、『会報』第35号(2015年2月16日)
2 *Без Грифа ≪СЕКРЕТНО≫ Страницы истории органов безопасности на Сахалине Курильских островах // Н.В.Вишневский,Г.Н.Смекалов, "Секретные миссии в Ако", стр.17 -38, Южно-Сахалинск, 2012
 *Г. Смекалов. Основатель самбо, выпускник Токийской духовной семинарии, спортсмен и разветчик Василий Ощепков в журнале ≪Духовно-нравственное ВОСПИТАНИЕ ≫, 1-2015 
3  Блог Григория Смекалова. Сны о России ( из жизни сахалинского эмигранта), 著者の解説を得て ≪Сны о России≫ を「母国ロシアへの郷愁」と意訳した。(サハリン・エミグラントの人生から) АСТВ.РУ БЛОГИ вход регистрация
4  ГИАСО, (国立サハリン州歴史文書館) ф.23

「会報」No.37 2016.7.31  特別寄稿

「樺太の旅」記録フィルム紹介

2017年3月16日 Posted in 会報

 奥野進

 市立函館博物館が所蔵する16ミリフィルムのなかに「樺太の旅」記録フィルム(500815)という資料があります。このたび記録映画保存センターの協力によりDVD化することができました。
 「市立函館博物館蔵品目録3 歴史・民俗資料編」の説明書きには、小島清吉、昭和9年7月26日~8月1日の記載があります。
 小島清吉は、1928年(昭和3)の時点で函館商工会議所議員であり(「函館市史」通説編第3巻)、1939年(昭和14)には帝国製菓株式会社取締役を務めていました(「昭和14年版 函館要人録」函館日日新聞社)。1934年(昭和9)の函館といえば、3月21日に「函館大火」に見舞われたばかりであり、大火からわずか4か月しか経っていない中での、樺太訪問の目的も気になるところです。
 5分40秒ほど映像ですが、小樽?-稚内-大泊に至る船旅や市街地の様子、オタスの風景、列車での移動の様子等が映っていました。

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大泊港駅への到着

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オタスでの先住民の生活

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鉄道駅の物売り

 博物館所定の資料利用手続きで、閲覧等の利用が可能ですので、興味のある方は市立函館博物館までご相談ください。

(市立函館博物館勤務)

「会報」No.37 2016.7.31  史料紹介

札幌総領事から寄贈された二葉の写真

2017年3月16日 Posted in 会報

倉田有佳

 二カ月ほど前、ファブリーチニコフ在札幌ロシア連邦総領事から本研究会に対して、ロシアのアルヒーフ(文書館)に所蔵されている函館関連の写真4枚が提供されました。このうち、旧ロシア領事館に関連する写真2枚を以下ご紹介します。

【写真1】写真右下のキャプション:函館の副領事館建物 190■年(最後の数字は不鮮明だが、「3」か?)。37-3-1.jpg

 この写真は、清水恵、A.トリョフスビャツキ論文で紹介されている写真「明治40年焼失前の東側概観」と同じと思われる。同論文によると、ロシア領事館の建設工事が着工されたのは1903年6月のことで、同年12月初頭には屋根までの工事が行われた。すべての工事は、1904年5月に完了する予定の中、ゲデンシュトロム副領事は、1903年12月21日、短期休暇のため函館を発った。翌年3月には函館に戻る予定だったが、1904年2月に日露戦争が勃発したため、函館に戻れなくなった(清水恵 A.トリョフスビャツキ「<史料紹介>日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館 -在ロシア史料より-」『地域史研究はこだて』第25号、68(20)、83(5)頁)。
 これらのことから、【写真1】は、本国へ一時帰国する直前(1903年12月)に撮影されたものではないかと筆者は推測する。
 戦後(1906年5月14日)函館に戻って来たのは、トラウトショールド(ウィルヘルム・ウィルヘリモヴィチ)副領事で、6月から工事は再開され、12月末に竣工した。ところが、完成から1年も経たないうちに明治40年の函館大火で領事館は焼失した。
 現存する「旧ロシア領事館」は、同じ場所(現船見町17-3)に再建された(1908年12月完成)。

【写真2】
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領事館内部(本館食堂)の写真。
【写真2】の椅子と下記写真の椅子は同形のものと思われる。そのため、ソ連領事館時代(1925年10月~1944年9月30日閉鎖)に撮影された写真の可能性が高い。

【参考】

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チホノフ領事離任とスタート新領事の着任披露宴(『函館日日新聞』1932年11月26日。函館市中央図書館所蔵)

 このたび、キャプション付きの写真をご提供いただいたことで、写真1の撮影年代を特定することができました。また、写真2は、領事の日常生活の中での食堂の様子を知る貴重な資料です。紙へのコピーではなく、写真(画像)でいただけたことに改めて感謝申し上げます。

※参考写真は、本研究会ホームページ
http://hakodate-russia.com/main/letter/33-03.html(倉田有佳「函館の「旧ロシア領事館」案内」『会報』No33)からご覧いただくことができます。
 また、函館のロシア(ソ連)領事および領事館の歴史的変遷については、以下で触れています(倉田有佳「20世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」長塚英雄責任編集『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁)。

「会報」No.37 2016.7.31  史料紹介

日本軍の北樺太占領末期に函館に避難してきたロシア人(1925年4月~5月)*1

2017年3月16日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 1920年から25年までのおよそ5年間、日本軍は、1920年にアムール川下流域のニコラエフスクで700名もの日本人の軍人や民間人が虐殺された「尼港事件」の報復措置として、北緯50度以北のサハリン島(「北樺太」)を保障占領(実効支配)していた。
 1917年のロシア革命、続く国内戦争(革命軍と反革命軍との闘い)を経て、1922年末にソ連邦は樹立されるが、日本政府はこれをすぐには承認せず、北樺太の保障占領は続いた。しかし、1925年1月20日に北京で「日ソ基本条約」が調印され、日本政府はソヴィエト政権を正式に承認したことで、日本軍は北樺太から撤兵することになった。
 この時、日本人および朝鮮人、そして中国人の間に混じり、「親日派」、「資産家」、そして革命軍に敗れた「元白軍の軍人」などの反ソヴィエト派ロシア人が、身の安全を確保するために北樺太を去った。日本軍撤兵のうわさが流れた1924年9月半ばから避難は始まり、撤兵完了期限である1925年5月15日の直前まで続いた。海路で日本へ避難・亡命したロシア人は、300から400名だったと筆者は推測する。
 本稿では、このうち函館に上陸した53名の避難・亡命者に焦点を当てる。

1 北樺太から日本への避難

 北樺太から日本への避難は、亜港(アレクサンドロフスク)から海路で小樽港に向かうというルートが最も一般的だった。移動には、逓信省の命令航路*2「宗像丸」や民間の定期便(運航は4月から10月までの7カ月間)のほかに、日本軍の御用船(砕氷船)で、真冬の2月、流氷を避けながら避難してきた人たちもいた(亜港有数の資産家ペトロフスキー一家など。一家については、本号グリゴーリィ・スメカーロフ論文を参照)。
 小樽に到着すると、税関で旅券もしくは渡航証明書と入国提示金のチェックを受けた。保障占領下の北樺太では、軍司令部が渡航証明書を交付する規則となっていたため、日本への入国の際に大きな障壁となったのは、「入国提示金」*3だった。
 上陸が許可された人たちは、列車で函館へ移動し、連絡船で本州へ向かい、「ナンセンパスポート」*4を所在地の地方長官(現住所の知事。東京府下では警視総監)から発給してもらった。日本に留まる人もいたが(後述のロマーエフ一家)、多くは、南米ブラジル、メキシコ、上海、ハルビンなど第三国へ避難・亡命した。

2 函館で下船した避難民・亡命者

 こうした中には、函館で下船し、しばらく函館に滞在した一団があった。これは、その年の初便となる逓信省命令航路の「宗像丸」に乗って4月12日に亜港を出発し、4月17日に小樽港に到着した56名のうちの53名である。
 「宗像丸」は、1921年の運行表によると、函館-亜港間を4月から10月までに計10便を運行しており、所要時間は、一日目の午後4時に亜港を出発すると、二日目午後6時に真岡に着き、三日目午後2時小樽到着、四日目午後9時終点の函館着となっている。ただし、天候その他の都合で36時間以内の伸縮は、想定範囲内だった(外務省記録『薩哈連占領地施政一件』5.2.6.33)。
 4月12日亜港発「宗像丸」で避難してきた人で、新聞報道*5から名前が確認できるのは表のとおりである。軍政部に雇用されていた人が多かったことがわかる。

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1925年4月29日に警視総監(東京)から発給されたアンドレイ・ロマーエフの「ナンセンパスポート」(写し)(外務省記録3.9.5.25)

 彼らが北樺太を離れる直前の亜港が、非常に緊迫した状況にあったことを示す避難者の次のような談話がある。ハルビンへの避難・亡命を考えていた医師が、ソヴィエト政権側の人間によって留まるように命ぜられたことを悲観し、ヘロインを多量に飲んで自殺するという事件が起こっており、自分たちも、ウラジオストクに向かうと嘘をつき、ソヴィエト側の目を盗み、何とか亜港を離れることができた(『北海タイムス』1925.4/16)。
 そもそも、4月12日というのは、亜港の港にソ連政府が派遣した行政官や、軍隊とその家族を乗せた「エリワン号」が到着し、日本軍からの上陸許可を待つばかりとなっていた。ソヴィエト政府からの報復(身の危険)を非常に恐れていた「親日派」、中でも軍政部に雇用されていた官吏にとっては、これがぎりぎりのタイミングでの脱出行だったことがわかる。
 こうした状況の中で、日本軍はこれまで軍に協力的に働いてきた「親日派」の一団が安全に避難できるよう支援した。避難者のマケーエフは、「私共数十名が亡命するに先立ち井上、高須両閣下が何に呉れとなく援助して下され、剰(あまつさ)へ多分の御金を恵まれ船賃まで自分の懐中より御払ひ下さつた」ため、涙を流して感謝した(『北海タイムス』1925.4/22)、と語っている。

3 函館での一行

 函館に到着した一行の函館上陸後について、一団のまとめ役となったグーセフ元陸軍中将は、自分たちは「万世ホテル」に滞在し、自分は函館に留まり、亜港からの荷物の取りまとめなどを行うつもりだが、他は一先ず神戸に向かうだろう(『函館毎日新聞』1925.4/21)、と語っている。
 だが、上陸直後の4月18日(土)夜から19日(日)午前3時まで続けられたハリストス正教会での復活祭には、「会堂に集まった露人は例年に比べて今年は北サガレン方面より来函中の露人が加はりなかなかなかの盛儀であった」(『函館新聞』1925.4/23)、とあるように、避難民の多くが参加したようである。
 5月7日には、「朝日丸」が函館に到着した(『函館新聞』1925.5/7、『函館毎日新聞』5/9(8日夕刊))。同船は、5月4日に小樽に到着し、一部は小樽で下船するが、函館には17名が到着した(『函館毎日新聞』1925.5/9(8日夕刊))。函館税関によると、1,200‐1,300ルーブル相当の銀貨を携帯している「ブルジョア級」の人たちで、「幾名かは当地経由上海辺に向かふが露人の大部分は函館を永住の地と定めるらしい模様」(『函館新聞』1925.5/7)だった。
 そして5月19日、亜港からの撤兵を完了させた井上司令官一行が、函館で予定されている祝賀歓迎会に出席するため函館駅に到着した。この時、約50名のロシア人避難民が、駅のホームで司令官を出迎え、花輪を捧げた。司令官は、感無量の態で「函館露国避難民団」グーセフ団長と固い握手を交わした。グーセフは謝辞を読み上げ、司令官は英語でこれに答えた(『函館新聞』1925.5/20、『函館毎日新聞』5/20、『函館毎日新聞』5/21(20日夕刊))。亜港では農具の販売などを行っていたグーセフだが、元は白軍将校である。日本軍の幹部クラスと親しい関係にあったのであろう。ただし、ロマーエフ、バベンコ、バラネツの3家族計15名は、4月29日に東京で避難民証明書の発給を受けているため(外務省記録3.9.5.25)、既に函館を去っていた可能性が高い。
 ところで、統計上、函館に暮らす露国籍者(白系ロシア人)が最も多かったのは1925年の157名だった(『函館市史 統計資料編』1987 年)。同年の日本(内地)の露国籍者数は1,176人で、東京の329人(『内務省統計報告』)、神戸の346人(『神戸市史』)に次ぎ、函館は3番目に多かった。
 当時の新聞も、市内の外国人の中でロシア人が近年増えていることを伝え、交番の調べとして、ロシア人が集中している場所は、元町の旧函館商業学校の寄宿舎跡に建つ二階建ての長屋に三軒、元町別院(東本願寺函館別院)前に一軒で、その数はざっと13-14人を数えたこと、そして「亜港から引揚げてきた者で会所町辺にも居るが長屋住ひの外は異動が多い」(『函館新聞』1925.5/19)、と報じている。函館での定住を考える人たちは、この頃までにハリストス正教会からほど近い元町界隈の長屋で暮らし始め、それ以外の人たちは、他都市(関東大震災以降、横浜に代わって亡命ロシア人の集住地域となっていた神戸など)へ移住したということだろう。
 当時は市外(現在の「湯の川」や「銭亀沢」)にもロシア人集落があった。ここには、20世紀初頭、沿海州から移住してきた「旧教徒」と呼ばれる人たちが自己の信仰を厳格に守り、自給自足的生活を営んでいた(中村喜和「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」『地域史研究はこだて』17号)。ただし、ロシア革命後、サファイロフのような白系ロシア人の中にもこの近辺で暮らす人が現れていた(清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』)。1925年4月10日付『函館日日新聞』によると、渡島支庁管内に暮らすロシア人は25名、ポーランド人は1名おり、ロシア人の職業は、荷馬車業(男1・女2)、パン業(男3・女3)、農業(男7・女8)、無職(女1)、となっている。
 北樺太から避難してきた一連のロシア人の中で、函館に定住した人がどのくらいいたのか、正確なことはわかっていない。唯一、シュウエツ家が、神戸、ハルビンを経た後、1929年から36年頃まで函館で暮らしたことがわかっている。毛皮商などで成功を収め、1930年に5,000円で建てた邸宅は、現在「カールレイモンの旧居宅」の名で知られている。また、函館のロシア人墓地には、1934年に列車事故で亡くなった(他殺説あり)ドミートリの墓がある。

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元シュウエツ邸(現カールレイモンの旧居宅)

むすびにかえて

 ロシア人避難民の最初の上陸地小樽では、避難者の上陸日時・船名・人数を即時に『小樽新聞』が報じ、『北海タイムス』は避難民の宿泊先の北海ホテルに訪れ、亜港の様子や、「革命後から現在の亜港へ イワン・ペトロフスキー氏談(一)~(六)」や「避難民ローマンス(一)~(三)」などのシリーズで、亜港で名の知られた人物から避難までの様子を聞き出し、詳しく伝えている。 
 これに対して、函館の三紙(『函館新聞』、『函館毎日新聞』、『函館日日新聞』)は、管見の限り、函館で下船した「宗像丸」と「朝日丸」の避難者情報以外は紙面でほとんど触れられていない。本州への連絡船に乗る避難民が函館には続々と到着していたはずにも関わらず、である。
 当時の函館は、日ソ基本条約締結に沸き、全市を挙げて祝い、2月11日の紀元節には大々的な祝賀会が開かれた。祝賀会場となった公会堂には約600人の来会者があり、市中在住の7名の「露国人」(実際は主に漁業関係者の「ソ連人」だった)が来賓として出席した(1925年2月15日「函館市公報」)。市中では商工連合会主催の提灯行列が練り歩き、約5,000人がこれに参加した(『函館市史』)。
 ソヴィエト政府から査証委員長の名目で来函したロギーノフ(東京に大使館が開設された5月半ば以降は、函館の初代ソ連領事となった)を市、商業界、露領水産組合がそれぞれに歓迎会を開くなど、熱烈に歓迎し、その様子を地元三紙はこぞって伝えた。
 ロギーノフが来函したのは、「宗像丸」の一行が函館に上陸したのと同時期で、4月23日に市主催歓迎会が行われた場所は、一行が泊まっていた「万世ホテル」だった。24日からは、査証(ビザ)発給事務を船見町の堤倶楽部(元キング邸)で開始した(『函館新聞』1925.4/24)。露領漁業の出漁基地・函館にとっては、新生ソヴィエトと良好な関係を構築していくことが大事で、漁期の前にロギーノフが着任したことで市民は大いに安堵した。
 それ以外にも、この時期の函館では、サハリン北部の漁区の入札問題(軍政下で契約された邦人漁業者の漁区に対するソヴィエト新政府の承認や借区料の問題等)の行方に大きな注目が集まっていた。そうした状況を考えると、ソヴィエト政権に反対の立場をとる避難民の事件に対して一定の距離を保とうとしたのも頷けよう。それどころか、函館人のしたたかさが見え隠れするようで、筆者には、非常に興味深い。
 1917年のロシア革命、続く国内戦争によって引き起こされた社会的、政治的混乱から生じたロシアから日本避難・亡命の大きな波は、1920年をピークとし、この北樺太からの避難・亡命を以て終りとなった。


*1 保障占領末期の北樺太からの避難・亡命者全般については、倉田有佳「日本軍の保障占領末期に北樺太から日本へ避難・亡命したロシア人(1924-1925年)」(10月発行予定『異郷に生きるⅥ』成文社所収)を参照されたい。
*2  「逓信省命令航路」は、北日本汽船が逓信省に提案し実現した航路で、樺太庁から航海補助金を交付され、北日本汽船が航海を命ぜられた。函館を基点に、小樽、真岡(現ホルムスク)、アレクサンドロフスク経由ニコラエフスクに至る「函館尼港線」は、1921年4月に創設された(『北日本汽船株式会社二十五年史』北日本汽船株式会社、1939年、61-63頁)。
*3 日本への在留を希望する者は1,500円以上、他国へ移住するための一時滞在を目的に入国する場合は250円以上が必要とされた(1920年2月17日警保局通牒『外事警察関係例規集』内務省警保局。1931年、172-173 頁)。
*4  「ナンセンパスポート」は、難民が海外に移動する際に身分を証明する書類のことで、北極探検家として有名なナンセン博士の提唱により、1922年7月20日の第19回国連理事会で可決された。日本では、「露国避難民身元証明書」と呼ばれ、1923年2月1日から発給を開始した。渡航先が未定の場合も発給した。
*5 『小樽新聞』1925.4/16、『函館毎日新聞』4/19、『北海タイムス』4/19、4/22、『樺太日日新聞』4/20。
*6  シュウエツ家については、清水恵「サハリンから日本への亡命者 -シュウエツ家を中心に-」『異郷に生きる -来日ロシア人の足跡』2001年、成文社、77-87頁。小山内道子「大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァそして函館ゆかりのシュヴェツ家について」『函館日ロ交流史研究会会報』No.34。グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子訳「シュヴェツ家との出会い」『函館日ロ交流史研究会会報』No.35、を参照。

「会報」No.37 2016.7.31  研究会報告

平成26年度函館日ロ交流史研究会の活動について ――ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業、函館開催をふりかえる――

2016年3月 7日 Posted in 会報

長谷部一弘

 平成26年度の函館日ロ交流史研究会の活動において、「ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業」への参加が主たる事業となった。ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業は、周知のとおり、函館で初代駐日ロシア領事となったヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケヴィッチが1814年3月にロシア帝国ミンスク県レチツァ郡(現ベラルーシ共和国)で誕生してからちょうど200年にあたることからゴシケヴィッチゆかりのベラルーシ・ミンスクをはじめとしてロシア・サンクトペテルブルグ、フランス・パリ、日本・函館が連携して実施された記念事業である。
 記念事業の函館開催にあたり、函館日ロ親善協会、日本ユーラシア協会函館地方支部、財団法人北海道国際交流センター、函館ゴシケビッチ顕彰会、函館日ロ交流史研究会によって実行委員会が設立され、ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業実行委員会委員長に函館日ロ交流史研究会代表世話人長谷部一弘が就任した。
 記念事業は、ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業実行委員会を主催者とし、外務省、函館市、日本たばこ産業株式会社、ロシア極東連邦総合大学函館校、ハコダテ☆ものづくりフォーラムの後援、協賛、協力のもと、ゴシケヴィッチゆかりの地函館市を会場に大勢の市民や関係者を迎え盛大に執り行われた。
 函館市地域交流まちづくりセンターをメイン会場に9月27日から10月18日まで開催された記念事業は、「ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業移動展」、「移動展オープニングセレモニー&ギャラリートーク」、「記念講演会・フォーラム」、「旧ロシア領事館特別公開」がおもな内容である。また、開催期間中には旧ソビエト連邦時代の1989年に函館市に寄贈されたゴシケヴッィチの胸像のお披露目やベラルーシから6名の学生の来函による学生交流などによって函館ならではの多彩な記念事業となった。
 移動展では、はるばるベラルーシから搬送されたゴシケヴィッチの生涯をたどる写真パネルが展示紹介され、ベラルーシ国立歴史博物館のスタッフによるゴシケヴィッチと母国ベラルーシにまつわるギャラリートークが花を添えた。
 函館山山麓にあるカフェ・ペルラで開催された記念講演会は、当研究会の会員でもあるロシア極東連邦総合大学函館校准教授倉田有佳氏によって「初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館」と題し、自ら訪れたゴシケヴィッチ誕生の地ベラルーシなどの最新情報を交え講演された。またこの度の記念事業には、ロシア連邦共和国エヴゲーニー・アファナシエフ大使、ベラルーシ共和国セルゲイ・ラフマノフ大使が臨席され、ロシアと繋がりの深い高田屋嘉兵衛の子孫である高田菜々氏とともにフォーラムのパネラーとして参加され、歴史的背景に裏打ちされた今後の函館とロシアとの交流の展望について述べられた。
 このようなゴシケヴィッチ生誕200年を祝う節目の年に、函館日ロ交流史研究会として多くの市民や関係者の皆様とともに盛大な記念事業に参加できたことは、これまでの日ロ交流の軌跡を垣間見ながら今後さまざまな分野における日本・ロシア・ベラルーシ交流の発展と可能性を探求すべく新たな日ロ交流の一ページを刻んだものといえよう。

(函館日ロ交流史研究会代表世話人)

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号

初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチゆかりの地ベラルーシを訪問して

2016年3月 7日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 2014年、ゴシケーヴィチ生誕200年を迎えた。ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチ(ГОШКЕВИЧ Иосиф Антонович)は、1814年3月16日(露暦4日)ロシア帝国ミンスク県レチツァ郡ストレリチェヴォ村(現ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区)で、同村ミハイル教会の司祭だった父アントーニ・イワノヴィチと母グリケリヤ・ヤコヴレヴナの間に生まれた。筆者が暮らす函館との縁では、1858年から1865年までの約7年間函館に滞在した初代駐日ロシア領事である。
 筆者にとって2014年は、生まれ故郷のベラルーシで開催されたゴシケーヴィチ生誕200年記念国際会議への参加に始まり、函館でのシンポジウムに終わるまで、ゴシケーヴィチ一色に染まった。
 筆者のベラルーシ訪問記や初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館については、「日露ビジネスジャーナル」(「初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの故郷を訪ねて 前編・後編」(http://www.nrbj.info/)、日ロ交流協会会報『日ロ交流』 2014年5月1日号、『北海道新聞』「いさり火」(2014年9月5日)に寄稿したほか、当研究会等で報告する機会を得た。
 本稿では、ゴシケーヴィチの故郷ベラルーシでの生誕200年記念事業とゆかりの地訪問について紹介したい。

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服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』より

1 ゴシケーヴィチ生誕200年記念事業オープニング

■ゴシケーヴィチ生誕200年記念国際移動展(3月20日)

 ゴシケーヴィチ生誕200年記念事業は、3月20日、ベラルーシ国立歴史博物館における「国際移動展」のオープニングセレモニーで始まった。会場は、ゴシケーヴィチの全生涯を紹介した展示パネル(写真とベラルーシ語・日本語・英語の三か国語の解説)、ゴシケーヴィチ時代の領事執務室の再現、日本の着物や陶器の展示など、たいへん趣向が凝らされていた。
 この移動展は、ベラルーシの後、外交官ゴシケーヴィチが勤務した帝政ロシア時代の首都・サンクトペテルブルグ(於:国立サンクトペテルブルク歴史博物館分館ルミャンツェフ邸)、フランスのパリ(於:ユネスコ本部。生誕200年記念事業は2014年-2015年のユネスコ事業として認定された)へと続き、初代駐日ロシア領事として勤務した函館(於:函館市地域交流まちづくりセンター)で締めくくられた。

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展示会場。三村在ベラルーシ大使

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ゴシケーヴィチ時代の領事執務室を再現(函館市での移動展では会場の関係から展示されず)

■「第3回ゴシケーヴィチ記念国際学術会議」(3月21日)

 ゴシケーヴィチ記念国際学術会議の第1回目は、1995年5月にベラルーシのオストロヴェツで、2回目は2002年10月にミンスクで開催された。第2回会議では、高田屋嘉兵衛の七代目高田嘉七さんが報告し、NHK函館放送局の権平記者(当時)が同行取材した(当会会報第24号参照)(http://hakodate-russia.com/main/letter/24-02.html)。
 このたびの「第3回ゴシケーヴィチ記念国際会議」は、3月21日(金)、ベラルーシ国立大学国際関係学部の516教室で開催された(ベラルーシ国立大学国際関係学部主催、在ベラルーシ日本国大使館後援、スポンサーJTI(日本たばこ産業国際部))。
 ベラルーシ対外友好文化交流協会会長のニーナ・イヴァノヴァが司会を務め、12名が報告した。ゴシケーヴィチ関連のテーマで報告をしたのは、地元ミンスクのリジヤ・クラジェンコ(歴史学準博士)「ベラルーシにおけるゴシケーヴィチ一族」、ナタリヤ・オブホヴァ(ミンスク州教育・教授法センター専門家)「イオシフ・ゴシケーヴィチの運命におけるロシア正教北京伝道団」、ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたオストロヴェツ出身で、これまでのゴシケーヴィチ会議の主催者でもあるアダム・マリジス(人文学博士・教授)「ベラルーシ初の外交官ゴシケーヴィチ」、そして現地在住日本人の古澤晃(ベラルーシ国立大学日本語教師)「イオシフ・ゴシケーヴィチの語学研究と現代日本における言語研究」、辰巳雅子(ミンスク市第5番児童図書館日本文化情報センター長)「函館におけるヨシフ・ゴシケーヴィチの活動」である。いずれもベラルーシ語もしくはロシア語で報告したが、ロシア語からベラルーシ語への翻訳は行われなかった(不要だった)。これらの報告は、後日論文集として刊行される予定である。

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筆者は「函館とロシアの220年の交流史から見たゴシケーヴィチ領事時代」をテーマに報告

2 ゴシケーヴィチ晩年の地を訪問

 会議の翌日、在ベラルーシ日本国大使館のご案内により、晩年の地・グロドノ州オストロヴェツ地区に向かった。首都ミンスクから北西方向に車で約2時間、リトアニアの首都ビリニュスまで50キロという国境近くの長閑な農村地帯である。
 現地でオストロヴェツ地区中央図書館に勤めるナターリヤ・オチェレトヴァさんと合流し、オストロヴェツ市にあるゴシケーヴィチ胸像、図書館、ゴシケーヴィチが埋葬されている聖コジマ・ダミアンカトリック教会、そして晩年を過ごした屋敷のあったオストロヴェツ地区マリ村などを案内していただいた。

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オストロヴェツ市にあるゴシケーヴィチ胸像(1994年ヤヌシケーヴィチ作)

■オストロヴェツ地区中央図書館

 ナターリヤさんの職場であるオストロヴェツ地区中央図書館の展示棚には、ミンスク出身のグリンツェーヴィチV.P.(1933-2013)がベラルーシ出身者の偉業について言及した"От Немана к берегам Тихого океaна(ニョーマン川から太平洋岸へ)"(1986年、ミンスク)が展示されていた。全303ページのうち、ゴシケーヴィチを取り上げた章(「白髪領事」)は12ページだ。
 著者のグリンツェーヴィチ氏の名前は、会議前日に訪れたベラルーシ国立文書館のアーキヴィストから、ゴシケーヴィチ研究者として真っ先に挙げられた。第2回ゴシケーヴィチ国際会議の報告者でもある。
 いわばゴシケーヴィチ研究の先駆者と言える氏だが、自著の中(註書き)で、ゴシケーヴィチの墓の所在地はビリニュスの「聖エフロシニア正教会」、没年は1872年、という説を採っている。筆者が腑に落ちないのは、その根拠だ。ゴシケーヴィチが晩年完成させ、息子のヨシフが父親の死後の1899年にビリニュスで刊行した『日本語の語源』(『日本語の語根』などと和訳されることもある。)の序文で、父は1875年に亡くなった、と記しているが、ビリニュスの聖エフロシニア正教会の墓碑には1872年と記されているため、自分(グリンツェーヴィチ)はゴシケーヴィチの没年は1872年だと考える、と説明しているのだ。
 もっとも、ゴシケーヴィチの没年月日、埋葬場所については諸説存在していたようで、今回ベラルーシ国立歴史博物館が作成した移動展用の解説パネルには、ゴシケーヴィチの死亡月日が「10月5日」と書かれていた。
 実はこの類の情報は、メトリカ(正教徒の出生・洗礼日・婚姻日・没年月日などを記した信徒記録簿)を見ればわかるものだ。筆者はベラルーシ国立文書館でゴシケーヴィチの生年月日や洗礼日が記載されたメトリカ(オリジナル)のページを閲覧させていただいた。ただし、文書館のアーキヴィストによると、研究者が最初にゴシケーヴィチの生年を記した簿冊を閲覧したのは2007年と、比較的最近のことだ。ソ連時代にメトリカの閲覧が禁じられていたわけではなかったのだが、ソ連時代にロシア帝国時代の外交官ゴシケーヴィチが研究対象となることはなかった、ということらしい。
 だが、先頃アダム・マリジス教授がリトアニア国立文書館に照会した結果が届き、ゴシケーヴィチは、1875年5月15日(露暦3日)にマリ村で没し、オストロヴェツ市の「聖コジマ・ダミアン教会」に埋葬されたことが証明された。

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「白髪領事」の章

■聖コジマ・ダミアンカトリック教会

 聖コジマ・ダミアンカトリック教会(写真)は、1918年以降、ロシア正教会からカトリック教会になった教会で、ゴシケーヴィチが亡くなった時はロシア正教会だった。教会内部は、イエスとマリア像(カトリック)とイコン(正教会)が共存している。こうした教会がベラルーシには少なくないが、このことを理解するにはベラルーシの歴史を知る必要があろう。

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「聖コジマ・ダミアンカトリック教会」外観。
教会左手奥には聖職者たちの墓碑がいくつもある。だがこの中からゴシケーヴィチの墓碑は見つかっていない。埋葬場所の特定は今後の課題である。

■マリ村図書館のゴシケーヴィチコーナー

 さて、日本から本国に戻ったゴシケーヴィチはロシア外務省に戻り、ペテルブルクで官吏として数年を送るが、1867年には引退した。その後はオストロヴェツ地区マリ村で晩年を過ごし、61歳の生涯を閉じた。
 晩年の地とあって、マリ村の図書館には、常設のゴシケーヴィチコーナーが設けられている。今からおよそ30年前の1986年、「ゴシケヴィッチを偲ぶ旅」(団長:高田嘉七氏)に参加者した方々が提供したのであろう、壁には「函館市立道南青年の家」(現「旧ロシア領事館」)、ロシア人墓地の写真などがきれいに展示されていた。筆者もせっかくなので、自分で撮影した函館のロシア人墓地内のゴシケーヴィチ夫人・エリザヴェータの墓の写真をデータで寄贈し、新たに展示に加えてもらうことにした(1864年に病死したエリザヴェータ夫人は、領事館の敷地内に埋葬された。この土地はハリストス正教会に引き継がれ、1907年の函館大火で初代のハリストス正教会は焼失。焼け跡で見つかった夫人の遺骨と遺品はロシア人墓地に移葬された。長年その場所は不明だったが、1998年に厨川神父が特定し、翌年、同神父によって墓が建てられた。つまり、30年前にはエリザヴェータ夫人の墓はなかった)。

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マリ村図書館の向かいにあるゴシケーヴィチ記念碑

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図書館のゴシケーヴィチコーナー(上)とそこに展示されているゴシケーヴィチとエカテリーナ夫人の写真(左)

■ゴシケーヴィチの屋敷へと続いていた並木道

 マリ村の図書館員によると、ポーランドとの国境に近いこの村の住民は、1941年6月22日、飛行機が上空を飛んで行き、遠目に火の手が上がるのが見えて初めて戦争が始まったことを知った。幸い村はドイツ軍の戦車が通過していくだけで、焼き払われるなどの被害はなかったそうだ。
 それではゴシケーヴィチ関係の品が残っているのかと思いきや、ゆかりの品はないとの返事だった。息子のヨシフがビリニュスに引っ越した際に持って行ったのだろうか。
 唯一、当時の面影を今に残すものは、ゴシケーヴィチの屋敷へと続いていた並木道だ(写真)。再婚したエカテリーナ夫人との間にもうけた息子ヨシフ(ゴシケーヴィチの血を分けた唯一の息子)に囲まれながら、『日本語の語源』を完成させるなど、この地で心静かな余生を送ったことだろう。

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おわりに

 このたびベラルーシから始まった記念移動展、そして国際会議の意義だが、これまであいまいにされてきたベラルーシ時代のゴシケーヴィチに関する正確な情報がベラルーシの研究者の手によって発信され、ベラルーシ時代のゴシケーヴィチの姿が浮き彫りにされたことにより、ゴシケーヴィチをベラルーシ人として捉える(あるいは意識する)きっかけを作ったことではないだろうか。
 筆者自身、今回の展示でゴシケーヴィチの両親の名前を初めて知り、国際会議では地元研究者から、「ゴシケーヴィチの母親は若くして亡くなったため、函館に着任した際に伴ってきたのは「母」ではなく「姑」(妻エリザヴェータの母)だろう」、というご教示をいただき、晩年を送ったベラルーシを訪ねたことで人間としてのゴシケーヴィチについて考えてみたくなった。それまでゴシケーヴィチのことをベラルーシ人として捉える視点を持ち合わせていなかったが、ゴシケーヴィチを捉え直してみた試みが、2014年9月に函館で開催された記念フォーラムでの筆者の報告である(次頁のとおり)。
 最後に、今回ベラルーシ訪問の機会をいただいたこと、そして現地でお世話になった方々には、この場を借りて改めて感謝申し上げたい。

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号

初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館

2016年3月 7日 Posted in 会報
倉田有佳
はじめに

 函館は、「日本で最初のロシア領事館開設の地」、「日本ハリストス正教会発祥の地」である。函館の西部地区には、ハリストス正教会、旧ロシア領事館、ロシア人墓地といったロシアとの長きにわたる交流の歴史を現在に伝える施設・場所が残っている。
 それだけでなく、ロシア交流発祥の地という名誉が現在にしっかりと受け継がれていることは、2000年と2012年にロシア正教会総主教聖下が、ロシア(ウラジオストク)から函館に政府専用機で直接到着したことや、領事館開設150周年を迎えた2008年にロシアのラヴロフ外相が函館を訪問したことからも明らかである。
 「ロシアゆかりの地・函館」とロシアの交流の始まりは、1793年のロシアの最初の遣日使節アダム・ラクスマンの来航に遡ることができる。その後も、ゴロヴニン、プチャーチンと、日露交渉史に名を残す有名なロシア人が函館に来航した。しかし、いずれの場合も、当初から函館に目的があり、函館を目指してやって来たわけではなかった。函館港がロシア極東に地理的に近く、しかも天然の良港に恵まれていたため、ロシアとの接点を生み、結果として交流が生まれたのであった
 こうした偶発的で一度限りの交流(「交流の黎明期」)が「実質的な交流」へと転換する契機となったのが、1858年のロシア領事館開設だった。その初代駐日領事がゴシケーヴィチだった。

1 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの時代(1858年-1865年)

■ロシア領事館、函館に開設

 1855年に日露和親条約が下田(静岡県)で締結され、下田か函館のいずれかに領事館を設置することとなり、函館が選ばれた。函館に開設されたロシア領事館は、明治維新後首都となった東京にロシア公使館が開設(1872年)されるまでの間、日本で唯一のロシアの外交窓口だった。
 この時代、ロシアが「函館」に着目した理由はいくつか考えられる。
 まず、当時のロシアの極東政策として、ニコラエフスクが極東の拠点だった。沿海州から遠くない距離にある不凍港函館は、ロシア艦隊にとってニコライエフスク-ウラジオストク、ポシエト、オリガなどの南部諸港間の海上交通を営むうえで、休養・載炭・食糧調達・越冬に不可欠な寄港地とみなされていた。
 次に、当時、日露間には未解決の問題としてサハリン問題があった。
 さらに、サハリンのドゥーエで産出された石炭の貯蔵倉庫を函館に置き外国に売る、といった経済的な視点からも函館は重視された。
 1858(安政5)年11月5日、軍艦ジキット号でゴシケーヴィチ領事は函館に入港した。この時、函館の役人は、ゴシケーヴィチを「見たことのある人だ」と気付いた。後述のとおり、顔を覚えていてくれていた日本人の役人がいたことは、ゴシケーヴィチにとって幸先の良いスタートだった。

■「北の地の文明開化」に寄与したロシア領事館員たち

 領事一行は、領事家族、書記官、医師夫妻、海軍士官、司祭、下男4人、下女2人の計15名で構成されていた。これらの領事館の団員は、各自がそれぞれ日本(函館)での任務を帯びてやって来た。
 海軍士官は、ゴシケーヴィチ領事のもとで領事館を設計し、気象観測を始めた。医師は、ロシア病院でロシア人のみならず日本人の患者も無料で治療した。日本人の医師では治療が難しく、ロシア人医師が得意としたのは、梅毒治療だった。また、領事館の館員から、写真術、西洋医学、造船技術など日本人が欲する西洋の先進的な技術が日本人に伝授された。この時期のロシア領事館は、「北の地の文明開化」の推進に寄与する存在でもあったのである。
 領事館付きの教会関係者は、キリスト教解禁前のこの時代、ロシア語の普及に努めた。読経者のイワン・マホフは、子供向けのロシア語教本『ろしやのいろは』(函館市指定文化財)を完成させ、文久元年の正月(1861年)、将軍献上用、箱館奉行用、そして函館、江戸、京都、長崎の子供たち用として各100部ずつ箱館奉行に贈呈した。この頃には、領事館構内の小家屋の半分をロシア語学校に充て、箱館奉行所の役人の子弟にロシア語を教授したという記録がある。しかし、ロシア人による本格的なロシア語教育は、司祭ニコライの函館着任後(1861年)に始まった。
 ゴシケーヴィチは、着任して最初に迎えたクリスマス(1859年初め)に箱館奉行所の役人とその子供たちを招待し、ロシアの文化を紹介しながら地元の役人と親しくなるよう努めた。
 これらはいずれも本省からの訓令に従ったものであり、ゴシケーヴィチ個人の功績とは言えないかもしれない。とは言え、できる限り訓令に忠実に、そして早急に訓令を実現するためにゴシケーヴィチが惜しまぬ努力を尽くした結果であり、領事館員と衝突しながらも実現させたトップとしての力量であり、さらには、地元の日本人の役人との交渉力の高さと粘り強さに裏打ちされるものであったことを忘れてはならないだろう。
 このことは、帰国後、ゴルチャコフ外相が、「箱館にロシア領事館が開設されてから今日までの8年間(正しくは7年間だが)、領事館と日本政府、現地住民との関係は最も満足すべき状況にあった。領事館、現地当局と中央政府との間で、再三行われた交渉では、双方は常に満足した...」と、ゴシケーヴィチの日本滞在中の活動を高く評価していることからも明らかである。

2 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチ再考

 初代駐日領事ゴシケーヴィチを理解する上で、来函以前のゴシケーヴィチの経歴は重要な鍵となっている。そこで、以下では、領事となるまでの経歴を振り返りながら、函館でのゴシケーヴィチ領事の言動と照らし合わせてみたい。

■ベラルーシ人の司祭の息子(1814年-1851年)

 ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチは、1814年3月16日、ロシア帝国ミンスク県レチツァ郡ストレリチェヴォ村(現ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区)で、同村ミハイル教会の司祭だった父アントーニ・イワノヴィチと母グリケリヤ・ヤコヴレヴナの間に生まれた。生誕地は、現在のウクライナのキエフに近い、ベラルーシ共和国の南東に位置している。
 ミハイル教会付属の学校で初等教育を終えた後、ミンスク神学校で学び、1835年に「優等」で卒業した。成績優秀のため特待生としてサンクトペテルブルクの神学アカデミー(大学相当)に進み、卒業後は1839年から約10年間、ロシア正教の第12次北京宣教団の一員として中国に滞在した。北京滞在中、ゴシケーヴィチは、墨や化粧(紅)の製造方法、養蚕業、そろばん(数の数え方)について中国語文献を基に論文をまとめ、『在北京ロシア正教団論集』に発表した。これらの功績は高く評価され、「聖スタニスラフ勲章」を受章した。
 領事になってからのゴシケーヴィチの次のような言動は、司祭の家に生まれ、ペテルブルクの神学大学を終えたことと深く関係しているものと考えられる。
 まず、ゴシケーヴィチは、ロシア領事館付属聖堂だった函館正教会の「復活聖堂」の命名者だった。
 次に、1861年に2代目の函館のロシア領事館司祭として着任したニコライのような志高い人物を日本に呼び寄せるきっかけをつくったのは、実はゴシケーヴィチの熱い思いにあった。
   さらに、ゴシケーヴィチは帰国後、ロシアから函館の教会にイコン(ロシア正教の聖像)を送っている。
 このように、ゴシケーヴィチは、初期の日本のハリストス正教会の発展を側面から支えた人物でもあった。

■遣日使節団全権代表プチャーチンの中国語通訳(1852年-1857年)

 中国から帰国後、1855年の日露和親条約交渉のロシア側全権代表プチャーチンの中国語通訳兼秘書として遣日使節に同行した。ちなみにゴシケーヴィチは、13カ国語もの言語を話せたと言われるほど語学に堪能だったが、幕末開港期の日本(長崎)での交渉で必須とされたオランダ語は解さなかったようである。
 さて、この日本への使節団の中で、文民はゴシケーヴィチと『オブローモフ』の著者として有名な文筆家ゴンチャロフの2名だけだった。1852年にクロンシュタット港を「パルラーダ号」は出航し、アフリカ南端、東南アジア経由で長崎に到着した。この間の様子をゴンチャロフは『日本渡航記』に詳しく記している。
 その『日本渡航記』の中で、ゴンチャロフは、長崎での第1回目の会談後の日本側全権代表の印象を次のように記している。「筒井(政憲)が聡明さと善良さを兼ね備え抜群の魅力を放っていた。川路(聖謨)が理知的であるとともに勇敢さを感じさせる風貌が好ましかった。」、「川路が巧妙な論法でたびたびロシア側を論ぱくし、知性の高さを示し、尊敬に値する人物であった。」、と称えた。他方で、「奉行の大沢はハンサムだが、ロシア使節への反感を有し、その他の面々は「見たくもないほど」だったと酷評している。尊敬に値する幕府高官を身近に知ると同時に、幕府高官のマイナス面の両面を見たと言えようか。
 長崎以外にも、一行は函館(上陸し、8日間滞在)、下田、戸田(へだ)にも上陸・滞在した。ゴシケーヴィチは、函館領事となる前に、函館に来航していたのだ。その経緯は、以下のとおりである。
 クリミア戦争勃発(1853年10月)の報を聞き、英仏艦隊を避けて、「パルラーダ号」は一旦長崎を退去し、ニコラエフスクで越冬した。日米修好条約が調印されたことを知ったプチャーチンは、翌年春、日本側との交渉を大坂で再開させることを望み、その意向を箱館奉行から幕府に通告してもらうために、当時既に開港が決まっていた函館に向かった。1854年8月30日、函館港に「パルラーダ号」が入港した。
 ところが、箱館奉行から幕府に連絡が届く前に、「ディアナ号」が大阪湾に現れたため、大騒ぎとなった。天皇がいる京都から近い大坂での交渉は、日本側によって拒否され、既に開港されていた下田で交渉が行われることになった。
 この下田での談判中、安政の大地震が発生し、続く大津波により、「ディアナ号」は壊滅的な打撃を受けた。しかも、駿河湾で曳航中、船は沈んでしまった。戸田(へだ)で日露が協力し、新艦「戸田(へだ)号」を建造した。 「ディアナ号」沈没という不幸は、半年以上日本に滞在する機会をゴシケーヴィチたちに与えた。そして戸田では、ゴシケーヴィチと日本を結ぶことになる重要な人物、元掛川藩士の橘耕斎との出会いがあった。橘耕斎は日本語を教えただけでなく、日本に関する書籍や地図を入手したいというゴシケーヴィチの要望をかなえたと考えられている。これは鎖国当時の日本では禁止されていた行為だった。一説によると、これが原因で橘耕斎は追われる身となり、ゴシケーヴィチが日本から傭船「グレタ号」で帰国する際、ゴシケーヴィチの手引きでロシアに密出国した。
 ところが、クリミア戦争中のこと。一行(橘耕斎も含む。約280名)は、オホーツク沖で英国軍艦に捕獲されてしまった。しかし、約9カ月間の捕虜生活をゴシケーヴィチは無為には過ごさなかった。同じく捕虜となった橘耕斎の協力(口頭による説明と解釈)を得て和露辞典の編さんに取り組んだのだ。これは、最初の本格的な和露辞典『和魯通言比考』として、帰国後(1857年)サンクトペテルブルクで刊行され、この功績が高く評価され、ゴシケーヴィチは初代駐日領事に抜擢されたのであった。
 さて、初代駐日ロシア領事となったゴシケーヴィチだが、当時の外交文書からは、毅然とした態度で幕府役人に主張すべきところは断固主張し、意見の食い違いから交渉が決裂することはあっても、粘り強く交渉し続けたことがわかる。
 ゴシケーヴィチは、当時の在函館英米領事にありがちだった、高慢な態度で日本人に無礼を働くといったことはなかった。 こうした違いが生まれたのは、ゴシケーヴィチが長期に亘る中国滞在経験で「東洋」を理解した上で日本という国に接したこと、しかも中国語や日本語の知識を持ち合わせていたからではないだろうか。加えて、日本(長崎と下田)で全権代表のプチャーチン提督とともに幕府の全権代表との会談に臨んだ経験等が、良きにつけ悪しきにつけ日本の役人の対処法や巧みな交渉術を身に付けさせたと考えられる。
 日本滞在中、ゴシケーヴィチはプチャーチンから学ぶことは少なくなかっただろうが、初代駐日領事となってからも、プチャーチンはゴシケーヴィチに自身の経験に基づく対日戦略を書簡で伝えるなど、プチャーチンから影響(指南)を受けていたことがわかる。

■函館の領事たち

 クリミア戦争直後のロシアとイギリスは、東アジア(極東)進出を巡って敵対関係にあった。だが、江戸から遠く離れた函館では、英国領事とロシア領事が連携して函館奉行(地元の役人)に要求を突き付ける、あるいはゴシケーヴィチが仲裁役として頼りにされる場面もあり、必ずしも対立関係にあったわけではなかったようである。
 当時ロシアでは、クリミア戦争の敗戦で自国の後進性を強く認識し、そこから脱するために様々な改革(1861年の農奴解放はその一つ)が試みられていた。クリミア戦争の敗北後、アジアに進出先を方向転換するものの、既に英米から出遅れてしまったロシアは、英米仏に対抗する場を日本(函館)に見出した。船が函館の港に入るとすぐ目に飛び込んでくる高台に他国を威圧するほど立派な領事館を建設し、日本人医師には治療が難しかった梅毒をロシア人医師が治療するなど、函館でロシアの存在感を高め、ロシアの影響力を他の欧米諸国に見せつけようとしたことなどは、その表れと言えよう。

■海軍との因縁

 文民領事のゴシケーヴィチが函館で衝突することが多かった相手は、外国領事ではなく、自国の海軍関係者だった。そもそも海軍との「因縁」は、初代駐日領事を巡る人事に始まっていた。海軍は軍人を日本に送り込みたいと考えていたが、1857年にサンクトペテルブルクで発行された『和魯通言比考』の著者ゴシケーヴィチに白羽の矢が立った。
 領事となった後も、領事団の海軍士官N.ナジーモフと衝突することがたびたびあった。伊藤一哉氏は自著『ロシア人の見た幕末日本』の中で、書記オヴァンデール、ナジーモフ海軍士官アルブレヒト医師の3人は、ゴシケーヴィチから睨まれ帰国させられた被害者と捉えている。
 酒に酔ったロシア人の海軍関係者と日本人との喧嘩は珍しくなかった。そのような場合、ゴシケーヴィチは自国民の言い分だけに耳を傾け、無条件で擁護することはなく、冷静に対処している。これを恥と感じることすらあった。
 そしてゴシケーヴィチが函館での約7年間の在任期間中、日露間の最大の衝突事件とも言えるのが、対馬に居座った「ポサドニック号事件」(1861年3月~9月)である。解決には、イギリスの影響力もあったとされるが、ゴシケーヴィチが函館の役人との間で穏便に事を進め、「ポサドニック号」が占拠していた対馬から退去させる役割を果たしたと、ゴシケーヴィチの外交官としての手腕を評価する見方もある。
 日頃からゴシケーヴィチは海軍関係者の素行不良に不満を募らせていたところに今回の事件が起こった。「力」で訴える海軍の強引なやり方は、学者肌で日本の役人との間で信頼頼関係を構築しつつあったゴシケーヴィチにとっては、とうてい受け入れ難かったことであろう。

3 蝦夷地・函館の特異性

 ゴシケーヴィチ時代の幕末開港期の日本は、攘夷運動が激しく、ロシア人からも犠牲者が出た。ムラヴィヨフが江戸に滞在中の1859年、横浜でモフェット少尉ら海軍士官ら3名が日本人によって殺傷されるという事件である。この時、ゴシケーヴィチ領事は通訳を務めた。
 しかし、ゴルチャコフ外相が、「函館港は、他の日本諸港のヨーロッパ人居留地での生活を特徴づけている恐るべき悪行が一つも起こっていない唯一の港であると指摘すれば十分だろう...函館港以外のすべての港では日本の大勢の警護隊を伴わなくてはヨーロッパ人はほとんど外出できないのに、函館では彼らは市外のかなり遠方にまで安心して旅行できるということも知られている。」、と指摘しているように、蝦夷地函館の事情は、日本の他地域とは異なっていたことがわかる。
 当時の事情とは異なるが、現在の函館も、国家レベルでの交流とも、また他の地方都市とも異なる歴史を歩んできた誇るべき歴史を誇りに思い、日ロ交流、函館とロシアの交流の礎を築いたゴシケーヴィチの生誕200年という記念の年に、これからの日ロ友好交流の発展のために函館がどのような役割を果たせるのか、官民一体となって考えてゆければと思う。

おわりに

 函館でゴシケーヴィチが注目されるのは、実は今回が初めてではない。今から30年ほど前、ゴシケーヴィチの伝記『白ロシアのオデッセイ』の著者ビターリ・グザーノフ氏が来函し(1985年)、その翌年には「ゴシケーヴィチを偲ぶ旅」(団長:高田嘉七氏)が企画され、函館からの参加者を含め、晩年の地であるベラルーシのマリを訪問した。
 初代ロシア領事赴任140年を迎えた1998年には、「初代ロシア領事赴任140周年記念フォーラム 原点から探る日ロ交流」が開催された。パネリストとして当時のアレクサンドル・パノフ大使、外務省の丹波実審議官が出席された。これは橋本・エリツィン会談が静岡県の川奈で行われた年でもあった。
(函館に寄贈されたゴシケーヴィチの胸像については、この後、高田嘉七さんの次女、菜々さんからお話があるだろう。)
 生誕200年を迎えた本年、昨日から記念事業が始まり、「移動展」のオープニングに続き、ベラルーシ国立歴史博物館関係者によるギャラリートークが行われた。これらによって、日本人にとってはまだまだなじみの薄いゴシケーヴィチの生まれ故郷・ベラルーシを理解するきっかけになったはずである。
 また、将来ベラルーシと日本を結ぶ架け橋となることが期待されているベラルーシの大学生6名がこのイベントに併せて来函中である。かつてゴシケーヴィチが、領事となる前にプチャーチンに同行して日本に滞在した体験が、領事となってから様々な場面で力を発揮したように、ベラルーシの大学生にとってこのたびの交流体験は、今後日本の専門家として活躍していく際に役立つことであろう。
 本日の講演が、今再び「ゴシケーヴィチ」を振り返り、日ロ交流の象徴的存在であり、函館とロシアの交流の礎を築いたゴシケーヴィチに思いを馳せるきっかけとなれば幸いである。そして、生誕200年を迎えた本年、「ゴシケーヴィチ」が、日ロ交流の象徴に留まらず、ベラルーシと函館(日本)の友好交流を切り開く新たなキーワードとなっていくことに期待したい。


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移動展オープニングセレモニーとギャラリートーク


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来函したルィシコフ館長ほか、ベラルーシ国立歴史博物館の職員

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号 記念講演会報告要旨

柴田剛中の箱館での交渉

2016年3月 7日 Posted in 会報

塚越俊志

はじめに

 柴田剛中は、ペリー来航前後に幕府の海防の担当者として働き、外国奉行が設立されてから、この部署に配属された。文久元年(1861)の竹内下野守保徳を正使とする使節団に外国奉行組頭として加わり、文久2年12月末に帰国した(1)。この使節団での功績が評価され、文久3年、柴田は外国奉行並に任命された。そして、文久3年、箱館に渡り、ロシア総領事ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich Goskevich)と横浜鎖港に関する交渉を開始することになる。この間の経緯については「談話書」という形で、函館市中央図書館に所蔵されている史料「柴田日向守箱館行御用留(抄)」があるが、ここではゴシケーヴィチとの交渉の様子について、神戸市文書館所蔵の『柴田剛中関係文書』収録の彼の日記「日載」を主に用いて考察することとする。日記という性格から、ここでは、史料解題に近い形で紹介をすることにしたい。

1、柴田剛中の箱館行前の状況

 文久3年(1863)5月19日、外国奉行村垣淡路守範正の日記によると、「貞太郎、箱館えの御暇拝領物金十枚、時服二羽織於芙蓉間被仰渡候」(2)とあり、外国奉行並柴田剛中の箱館行きがこの段階で決まったことがわかる。この時、交渉すべき最大の案件が「横浜鎖港」問題であり、それを各国公使に伝える必要があった。そこで、箱館に領事館を構えるロシアとの交渉に白羽の矢が当たったのが柴田剛中である。
 11月4日、柴田は外国奉行並から外国奉行に昇格した。同時に「箱館表江被遣候ニ付用意可致處備前守殿被仰渡候段達し来ル」(3)と記している。老中牧野備前守忠恭から箱館行きが命ぜられていることがうかがえる。同29日、柴田は実弟永持亨次郎に函館行きを祝う詩文等を贈られ、柴田も返書を送っている(4)。
 12月5日、柴田は「金港甲州より此度欧行御國書案促し来り分ニ筑豆両州宛告状届く」(5)と記し、神奈川にいる外国奉行首座竹本甲斐守正雅から鎖港交渉のためヨーロッパに向かう外国奉行池田筑後守長發と同河津伊豆守祐邦らから国書案を要求する書状が届いたことが伝えられている。
 12月10日、柴田は「今朝ブレツキマン引合度旨申聞候ニ付、面唔致し酒税減方使筋(ママ)旅費為替手続之談判促し申候」(6)と記している。フランス公使館付書記官ブレッキマン(F.Blekman)と面会している。同18日も柴田はブレッキマンと面会し、減税の談判を行っている(7)。同26日にも減税の対談を行っている(8)。同29日、老中格松前伊豆守崇広とブレッキマンによる減税交渉の書簡が柴田のもとに届いている(9)。
 また、12月中に、「御三名花押」の魯西亜外国事務執政宛書簡が出されている。御三名とは池田使節の正使池田、副使河津、目付河田相模守煕のことであろう。中身は日本からロシアに対して品物を贈りたい旨を伝えるものである(10)。また、将軍家茂の親書には、「恭しく魯西亜帝の許に白す、我國貴國与条約取結し以来両国之交義永久相替被遣る様互に其誓言を遵守いたし度は勿論候得共鎖國之舊習頓に不て再應し難きより此節に至り外國貿易の為メ大に國内民心の不折合を生し、諸外國人に対し往々不都合之挙動ありに至り氣之毒存候、依之外國奉行池田筑後守・河津伊豆守・目付河田相模守に全権を授け特に其國都に是遣し其許面謁之上此方一体之事情委細陳述為及両國之交義永久安全を保ち我國内民心鎮静之為メ神奈川開港場貿易之事をも談判可為致候間被得貴意、我使臣建言之旨信用あらん事を望尤貴國平安の儀是又祈る所なり、不一」(11)とある。まず、池田ら三使を送った理由に「國内民心不折合」であることを掲げ、「我國内民心鎮静之為メ神奈川開港場貿易之事をも談判可為致候間」と神奈川鎖港に関する談判を行うとしている。また、老中連書においてもほぼ同様のことが確認できる(12)。以上のことから、池田使節団はロシアとも交渉する予定が当初はあったことがうかがえる。その一方で、国内でロシアの外交官と交渉したのが外国奉行柴田日向守剛中ということになる。
 文久4年1月1日、将軍上洛にともない柴田は留守を仰せつかった(13)。
 同10日、柴田は「凾館行船として下ケ緒を贈らる」(14)と記しており、守山なる人物から刀等の贈り物があったたことがうかがえる。
 そして、同26日から、箱館に向けて陸路を移動している。当時の幕臣が陸路をどのように通り何日かかるのか、参考のため、以下に掲げる。同日、千住で休み、草加で泊る。同27日、粕壁(春日部)で休み、幸手に泊る。同28日、古河で休み、小山に泊る。同29日、石橋で休み、宇都宮に泊る。ここまでは日光街道を利用し、ここから奥州街道へ向かう。2月1日、喜連川で休み、太田原に泊る。同2日、芦野で休み、白河に泊る。ここから、仙台道を利用し、同3日、矢吹で休み、須賀川に泊る。同4日、郡山で休み、二本松に泊る。同5日、福島で休み、桑折に泊る。同6日、白石で休み、大河原に泊る。同7日、岩沼で休み、国分町(仙台城下)に泊る。ここから、松前道に入り、同8日、吉岡で休み、三本木に泊る。同9日、高清水で休み、金成に泊る。同10日、一ノ関で休み、水澤に泊る。同11日、鬼柳を通過し、黒沢尻で休み、花巻に泊る。同12日、郡山で休み、森岡(盛岡)に泊る。同13日、渋民で休み、沼宮内に泊る。同14日、小繋で休み、一ノ戸に泊る。同15日、金田市で休み、三ノ戸に泊る。同16日、浅水で休み、五ノ戸に泊る。同17日、藤嶋で休み、七ノ戸に泊る。同18日、天椅立(天間館)で休み、野平地(野辺地)に泊る。同19日、小湊で休み、青森に泊る。同23日、船(永宝丸)のチャーターが済み出帆。同24日、箱館に着港している。約1カ月の陸路を経て箱館に至っている。この間、柴田は行く先々で漢詩を記している。また、同25日、柴田は老中から「人足八人人馬八疋従江戸奥州筋箱館迠上下并於彼地御用中幾度可出之候於御用状相回日向守被差遣付て被下の者也」(15)という朱印状をもらった。この朱印状は字が薄く書かれているほか、元治元年(1864)4月14日に老中井上河内守正直に返却した際に黒塗りで文面を消されているため、文字が読みにくくなっているが、解読できた部分を含め復元したものが上記の文言である。要するに柴田は箱館に行く時、箱館から江戸に戻る時、江戸から奥州筋まで人馬の徴収権を得ていることがうかがえる。

2、柴田とロシア領事ゴシケーヴィチとの対談

 文久4年2月24日、箱館に入った柴田は「着之儀出行御役所江使者を以申遣し、且明より御役所江相調候旨申越す」(16)と記し、箱館奉行所に使者を派遣したことがわかる。奉行所からは酒井右衛門が来て対応した(17)。ここで、遣米使節にも随行した徒目付小永井五八郎が柴田に面会をしている(18)。そして、以下のような取極めがなされた。柴田は「三日之間は御役所御入用ニ相立御用達引受(後略)」(19)と記していることから、3日間は箱館奉行が柴田の入用を賄うことが決まった。更に、柴田は「右衛門また来る魯コンシュル面會日限之義言被申聞ル」(20)と記し、ロシア領事と面会する日程調整を行っている。そして目付江連尭則から手紙が来てロシア領事と面会の段取りが整ったら知らせて来るよう柴田に手紙が送られている(21)。
 柴田とともに派遣された外国奉行のメンバーは、目付江連真三郎(尭則)、外国奉行支配組頭由比太左衛門(峯高)、外国奉行支配調役日比野清作、徒目付佐藤真司、同小永井五八郎であった。また、ここに立ち会った通訳は箱館奉行所付通詞の志賀浦太郎と名村五八郎であることが史料から読み取れる。
 同25日、柴田は「魯國コンシュル通弁官なるもの旅亭江来り面晤之儀申入ニ而家来を以申對候遣何レ是より會晤日限可申入旨申達は無之」(22)と記し、ロシア領事館付通訳官が来て柴田の家来と面会日時の調整を行っている。
 同26日、柴田は「江連江打合支配向召連第一時より魯國コンシュル館江下邊尋問昨来之魯人は畢竟余ガ着賀使としてコンシュルより差越遣し内申聞彼我行違之儀当然たり、且明第一時余と監察着賀としてコンシュル一行尋問之旨申聞ニ付申免シ度對候無行得共何分承允不致監察之方は申對候余之旅亭ニ而参會一同面晤之旨申談じ其通り相決す、帰途右左等向を伴ひ江連江立より明より接待方等之儀相談いたす椅子卓等ハ御役所御備之分借り受ケ役之調理ハ御用達ハ命し候積り太左衛門ハ談す」(23)と記し、上大工町のロシア領事館に向かった後、柴田とゴシケーヴィチとの会談に向けて着実に用意が進んでいることがうかがえる。
 元治元年2月27日、柴田は「魯人一行之役彼是内旋せし」(24)と記し、「第一時魯コンシュル・医師・書記官・伜・通弁官とも五人来ル是より先達而江連並太左衛門・浦太郎来會面晤右一行江酒席を設く全く着賀迠也、第三時ニ引取」(25)としている。ロシア総領事ゴシケーヴィチ、医師(軍医)ザレンスキー(Zerenski)、書記官ツェヴェルコフ(Tsievelkoff)、伜ウラジミール・バフシュテイン(Uradimil Vafsytein)、通訳官ユガノフかニコライか、の5人がやって来ている。日本側は箱館奉行所付ロシア語通訳官志賀浦太郎が加わっている。
 同28日、柴田は「第一次より江連具す支配向とも魯館江談判ニ行く挨拶は初考之上明より可申聞旨ニ而第四時帰館」(26)と記し、柴田がロシア領事館に談判をしに向かったことがうかがえる。また、柴田は「魯岡士遣し品之儀監察ニも存より無之様ニ而文庫一硯ふた二面を太左衛門対話席江持出品相渡す」(27)と記し、ロシア総領事から品物が贈られたことがわかる。この日の対話内容は以下の通りで、重要な部分だけ取上げることとする。
 日本側はこの談判の背景に「鎖国」の国柄だった故、急激に通商条約を締結し、人心の不折合を招いてしまった。そのことが外国事務を取り扱う重臣へ不法の振舞をするに至ってしまったという。
 これに対し、ゴシケーヴィチは「外国事務を取扱候重臣え不法の振舞及候趣、右は如何の御方に候哉」(28)と切り返すと、柴田は井伊掃部頭直弼、安藤対馬守信行らの名前を挙げた。柴田は欧州各国と日本の封建郡県の違いがあって、国制も違うため人心不折合を招くとした。そのため、条約締結以前、すなわち開港以前の姿にまずはさかのぼり、徐々に人心の鎮静を図りたいとした。そして、柴田は「さも無之急遽粗暴に事を謀り候ては、益人心に激し、患害百出士崩瓦解の場合に陥り、不可挽回の勢ひに可至は眼前の義故、無拠三港閉鎖の義各ミニストルえ申入、其の回答の模様に寄候ては此方(に)於て万々都合宜敷人心鎮撫の好手段にも相成候義に付、一時各国へ対候ては条約面を游移致し、信義を失候様の姿に相当り候へ共、其実は却て懇親永続の基を謀候との訳柄を以、即鎖港の義各国ミニストルえ申入候処、一概に外国人を拒絶致候事とのみ存取、戦争と決候外無之抔激烈の返答のみ申出、右様切迫の場合に至候義に候はゞ素より彼是の配慮にも及不申、是迄多少の苦心に徒らに泡沫に属し、内外手を下すべき術計も無之、進退実に谷り候場合に陥り申候。右の如にては各国不残敵と相成、好て外寇を招候処置に相当り候訳にて、以の外の事故、前申入候三港鎖閉の商議をば廃し、去迚其儘差置候ては国内人心鎮圧の方略にも相成不申候ニ付、金川一港のみ鎖閉の義に候はゞ強ち外国人を拒絶致候訳にも無之候間、我国事実不得止の場合をも了察可有之と勘考致、各公使え右廉を以談判に渉候処、最前拒絶と見込候一塊の疑団氷解不致、先入主と相成候事と相見え、右談を承諾致候はゞ果は長崎・函館に及び、終に三港共閉鎖可及とのみ存取り、幾応申入候共何分談筋取合不申、徒に時日を送り候内、右輩不堪遅延粗暴の挙動を為んとの萌し顕然有之、何と歟所置の痕跡相見候様無之候ては難差置依て弥使節の挙に至り、金川閉鎖の義各国都府(に)於て談判及候積治定相成、去冬中使節出帆致候。(中略)扨貴国は旧来の縁故も有之、且隣好も厚く、旁外各国共相違ひ候間、夫是の訳を以前申入候縷々の事情を被察、今般使節差遣金川閉鎖の談は交際上に取り信義不厚様相聞可申哉に候へ共、素々和親永続を望候真心より出候訳に有之候間、右使節の談筋不都合不相成様周旋の力を被尽度候」(29)と話した。柴田は函館、神奈川、長崎の三港を閉鎖する予定だったが、まず神奈川の閉鎖を行い徐々に人心回復につとめ最終的には三港共に閉鎖する予定であると語った。また、日本側としては真心を伝えるため、ヨーロッパに使節を派遣したと説明した。これに対し、ゴシケーヴィチは「右は魯国のみ周旋の義に候哉、外国に迄周旋との事に候哉」(30)とロシアだけにこのことを話したのか、それとも欧米諸国にも話したのかと切り返した。柴田は、これについては話すのが難しいとはぐらかしている。つまり、柴田は横浜鎖港が不可能であると知った上でその影響が日本にとって悪いことを知っていたので、このような回答をせざるをえなかったのだろう。
 ゴシケーヴィチは「魯国義は素より金川へは入津の商舶も無之候に付、鎖閉被成候共格別不都合の義も無之候へ共、各国にて承允不仕候はゞ魯国のみ承允の義は迚も難相成存候。将亦各国人共政府にて全く御拒絶の義と存候赴(ママ)風聞仕候。私(に)於ても金川閉鎖不被成候共、如何様にも外に御鎮圧の御方略有之候哉と存候」(31)と、ロシアはもとより横浜港を使用していないため、影響ないが各国が承引しなければロシアも受け入れるのは難しいとした。続けて、ゴシケーヴィチは「両都両港延期御談判の節各国(に)於て右御談を承允不仕候はゞ、却て今般御談の一助にも可相成候へ共、右を承允の上又々ケ様の御談承允可仕見据は無御座候。一体両都両港延期する御条約面に触候義に候処、深く政府の意を察候より枉て承允致候事に候間、金川閉鎖の後は逐漸長崎・函館え及ぼさるべきとの疑団不解は尤の義に候」(32)と、柴田も加わった竹内使節団による「六カ国覚書」の約束違反に当たることをゴシケーヴィチは指摘し、今後の交渉は難しくなると予想している。
 これに対し、柴田は「一ト通り尤には相聞候得共、金川は外二港とは違ひ江戸近にも有之、右輩注目の地にも有之候間、特に同所のみを閉鎖致度事に候」(33)と横浜は江戸に近いため封鎖する必要があるというのである。
 その後、柴田は物価騰貴の問題を挙げ、鎖港の必要性を説いた。ゴシケーヴィチはこれについては各国公使も承知しているとし、物価騰貴だけでは事情が不十分であるとした。続いて、柴田は外国人殺傷事件について話を切り出し、ゴシケーヴィチは特に「長州一件」はすぐに処理をした方が良いとした。また、薩英戦争の結果を挙げ、「長州一件」も賠償交渉をするのかと尋ねた。柴田は政府の権威が無いように見えるが、幕府は精いっぱいの努力をして対処しようとしていると告げた。
 こうした話から再び鎖港の話に戻り、ゴシケーヴィチは「是非金川のみ閉鎖被成候義は了解難仕、逐漸長崎・函館へ及候義は眼前に御座候」(34)と、横浜港のみの鎖港は受け入れ難く、しばらくして長崎・函館にも及ぶというがそれはもう目前に迫っていると主張した。これに対し、柴田は「金川は江戸近々地にて右輩注目致候場所故、此地々(ママ)閉鎖致度、長崎・函館は隔絶の地故決て左様の義は無之候」(35)と、横浜は江戸に近いこともあり、攘夷派が注目しているところなので、この地を閉鎖するが、長崎や函館は離れているので、鎖港には及ばないだろうとした。
 ゴシケーヴィチは「鎮圧方を先とし閉鎖御談判を後と被成候方可然、鎮圧難被成義に候はゞ鎖相成候共無詮存候」と、鎮圧を先とし、鎖港談判を後とするのはわかるが、そもそも鎮圧がうまくいかなければ鎖港は出来ないのではないかと述べたことから、外国人殺傷事件を止めるのが先で、そうでなければ次の段階の話はできないと考えていることがうかがえる。これに対し、柴田は「閉鎖談判を後にし鎮圧方を先と致候ては、徒らに人心に激候のみにて、却て擾乱を醸の基と可相成候に付、閉鎖談判を先にし漸々鎮圧方に及ぼし候方都合可然存候」(36)と、柴田にとっては横浜鎖港=人心回復であり、横浜鎖港が出来れば、外国人殺傷事件もおさまると考えている。よってこの2人の考えの順序は違うので、話し合いは平行線をたどることになる。
 この後、平行線をたどった話は竹内使節団がロシアに来た時に国境画定のため、ニコラエフスキーに委任の者を派遣する予定になっているが、日本側はいつ派遣するのかという話題になり、柴田は4月頃から9月迄の間であれば渡海は差し支えないとした。
 1回目の談判から横浜鎖港について両国の意見が激しく衝突している。談判の節々を見ると、両国とも鎖港はほぼ不可能であるとわかっていながらも柴田は任務のため尽力しようとしていることがうかがえる。なお、この談判についてはゴシケーヴィチがロシア暦1864年3月31日付でアジア局(局長イグナチェフ)宛に送った書簡が伊藤一哉氏によって一部ではあるが紹介されている(37)。紹介されている文を検討する限り、柴田の談判書と内容は同じであることがうかがえる。
 元治元年2月29日、柴田は「第一時頃同様魯館江談判ニ行く此方談じハ一段落済彼より兌換銀増額、海岸地所、借受之儀申出、且明よりは祭日ニ付一杯を勧度趣ニ付、(中略)来會候様申聞る第四時頃寄宿」(38)と記している。この日の談判は横浜鎖港に関する記述は見当たらない。そして、ロシア側は交渉をしたいのかどうか疑わしいような感じを受ける。また、この日、「監察よりも同断並滞留日数等之義ニ付書状差越す」(39)とあり、箱館滞在期間についてうかがいをたてている。この日、2度目の対談が行われた。柴田は、「(前略)長崎表は御国従来通商の地に有之候へば、其土に居住致候者は左迄外国人を嫌忌候様子も無之、其辺を以察候に、全通商の利益を知よりの事に可有之歟、左候へば即今横浜御鎖港被成より、却て他港等御開被成候様の御盛挙も候はゞ、自然外国の事情をも弁知可仕、人心も随て一変可致候得ば、却て人心鎮静方の御方略と相成可申候。(中略)其内政府にて盛に御開港相成候へば、国民通商の利益有を知り、後には貿易の盛に不成を憂るに至可申候。(中略)兎角に通商等御取縮めの義は詰り国の衰微を招き候ものに有之候。左候へば、貿易の利益たる事、上政府は勿論下万民に至り候迄莫大の利益有之義にて、理と勢如此に候へば、鎖港の御談外国々え申遣し御周旋の義は何分難出来義に有之候。(中略)仮令戦争及候共御勝算も可有之、私考候処にては御国より五十倍の強国と被存候。(中略)御承知の義とは存候へ共、魯国義は交易の廃否に付損益は無之候。(中略)私於て鎖港の義御差止申上候は、損益に不抱(拘カ)只々至当の理を以申上候義に有之候。鎖港の義外国々にて承允無之、魯国のみ異存無之段申上候上は、上海に差置候魯国船等も是迄横濱へ来往致通信の事に相用候処、以来右様来往の義難出来候ては甚不都合に有之候(後略)」(40)と説明した。ゆくゆくは交易で盛んになることはわかるが、今のご時勢では鎖港が妥当と判断している。更に、柴田は「(前略)被申聞候通り諸港を開き交易を盛に致候はゞ国々の為にて、鎖港は却て国の不為との段一と通尤には候へ共、此方にて心痛いたし候は、我国内のもの外国の情態を弁知し交易の利益を存候様致候為、即今諸港を盛に開候はゞ、外国の情も不弁交易の利をも不存以前急遽に浪輩の暴発は顕然に有之、(中略)一時横濱鎖し暫く旧制に復し候様の手続を以徐々に鎮静の方略を施し、漸次に開港を目論見候はゞ、内乱外患等の掛(ママ)念も無之、(中略)漸を以開候と急を以て開候との相違有之迄にて候」(41)と述べた。柴田は開港が早いか遅いかの問題で、開くことに変わりはないとした。そして、柴田は「其許被申聞候趣にては横濱鎖港の義、貴国にて異存無之上は、貴国の船舶同所え出入不相成様の義と被存取候へ共、左様には無之、各国にて鎖港談判承允有之惣体商議確定の上ならでは、貴国のみ承知の挨拶有之迚他の国々に不拘貴国の船出入不相成と申訳には無之候」(42)と、各国の船同様ロシアにも同様の処置をするとした。これに対し、ゴシケーヴィチは「(前略)責て魯へのみ周旋有之様被成度趣に候へ共、各国にて承允無之内は魯国のみ承允の義は難出来候。且私職掌(に)於ても各国の議論を差置、魯国のみ横濱鎖港致候様申遣候義は是亦難出来候」(43)と、各国が認めないものはロシアでも受け入れがたいと主張した。
 柴田は「(前略)各国にて使節鎖港談判に渉り候節、貴国にては我内の情実を熟察有之異存無之承允有し赴を以弁論致し候へば、右談判の都合万々宜敷義に付、夫等の辺を以申入候義に有之、且貴国へも使節順行(ママ)相成候事故折入頼入候事に候」(44)と、使節団が各国で交渉をするので、協力してほしいと述べた。その後、ゴシケーヴィチは使節がいつ、どこの国の船を使って出発したかを問い、柴田は返答した。
 そして、柴田は「何れにも今般談判及び縷々申入候次第、乍手数其許より貴国政府へ曲さに被申通貴国(に)於ては鎖港の義に付、更に異存無之様致度、尤拙者共(に)於ても其許見込と其趣意に相違は無之、只各港開市の義に付急と緩との相違有之のみに候」(45)と述べた。ここでも柴田は開港開市が早いか遅いかの違いだと述べるにとどまっている。これに対し、ゴシケーヴィチはイギリス特命全権公使オールコックとフランス全権公使ロッシュが戦争をする構えがあることを述べ、「左候へば各国政府(に)於て御使節談判には取合不申、御国へ差渡置候者へ委任致置候間、其者へ御談判可有之とのみ可申上候」(46)と、各国政府は使節団との談判には応ぜず、日本にいる公使に委任するだろうと告げた。すなわち、外国へ行ったところで交渉の失敗は目に見えているということである。
 柴田は「素々政府(に)於て一図に鎖港を好候訳には無之、懇親永続を計り候真心より出候義に候間、其辺篤と了察被致、兎に角今般の談は貴国へ被申通度候」(47)と述べた。柴田は鎖港は本意ではないが、懇親永続を願う心からやらざるを得ないとした。これに対しゴシケーヴィチは「横濱開港以来各国(に)於て同所へ建物等も有之候へば、万一鎖港御談承允仕候共、右等の御償金莫太(ママ)の義可申出其節は悉皆政府の御入費と奉存候」(48)と述べた。鎖港をした場合、様々な補償をしなければならず莫大な償金を支払わなければならなくなるだろうと指摘している。
 柴田は止むを得ずこのような話をしたといい、ゴシケーヴィチは鎖港よりも厳しく浪士を取り締まるべきだと主張した。その後、話は平行線をたどり、ゴシケーヴィチは領事館引き換え銀について談判を申し入れた。柴田は各国と照会した上で判断すると告げた。その後、ロシア領事館の移転場所と引き換え銀に関する談判がなされ、この日の談判が終了した。
 3月1日、柴田は「此日魯コンシュルより申出候二件事ニ而濃州より文通せし、出懸ケ御役所江江連俣々立より当儀夫より午下一時此魯館江(中略)濃州一同行く、本日は更ニ談判無之享応(ママ)而巳也、(後略)」(49)と記している。ここで出てきている「濃州」とは箱館奉行小出美濃守秀実のことであり、この日は箱館奉行がロシア領事館を訪れている。柴田らは饗応を受けている。
 同2日、柴田は英・仏・米領事と会談を行った。この時、駐日箱館イギリス領事ヴァイス(J.Howard Vyse、前駐日神奈川イギリス領事)との対談内容がわかっている(50)。最初にヴァイスは英国商人と日本の商人は相対貿易ではないので、これを改善して欲しいと述べた。柴田は、仲買貿易に何の不都合があるのかと切り返した。ヴァイスは店の主人ではなく主人の代わりとなる人物と取り引きするのが不都合だと述べた。柴田は主人と取り引きするのはもっともなことだが、仲買の者と行違いがあった場合の損耗は激しいので何とも言い難いと述べた。ヴァイスはデント商会とその他の日本の商人(福島屋や長崎屋)の主人の調印は難しいということなので仲買の者の調印を貰った事例があると指摘した。柴田はどのような手違いがあったか篤と箱館奉行と談判に及んだ方がよいと主張した。ヴァイスは仲買や番頭は謝礼金として2分5厘ずつ貰っており、ほかの港ではありえないことだと主張した。柴田はこれに対し、箱館奉行と委細談判するよう促すだけだった。ヴァイスはそれが辱めを受けているとし、自国の者は居留地にいるが、兼ねてより望んでいる場所の貸し出しはいつになったら出来るのかと述べ、このままでは埒が明かないとした。柴田はその件は何度も奉行と話し合っていることではないかと述べた。ヴァイスは絵図面で望みの場所を指し示しながら、領事館の地税に兼ねて公使に申し送っているが、何の音沙汰もないと述べた。柴田はニールがオールコックと交代したばかりで、対応に追われているのだろうから、オールコックが戻ってきたら再び談判に及ぶとした。ヴァイスは絹糸の取り引きに付き、プロイセン商人ガルトネル(R.Gærtner)という商人が南部商人と5千ドルの取引をしたことを述べ、甚だ迷惑であるから、箱館奉行所に取締りの強化をして欲しいと要求した。柴田はその事件は配慮しているが、近日の内その消息もわかるであろうと告げた。最後にヴァイスは漂流船が松前に入った時、手厚く扱ってもらったことに対してお礼を述べた。柴田は互いに救助するのは勿論であると述べた。
 この会談からイギリスとは貿易摩擦が起こっていることとガルトネルに手をやいている様子がうかがえる。柴田の回答は苦しいものになっている。
 翌日、柴田は米館に招待されている。この時の対談内容は以下の通りである(51)。駐日箱館アメリカ貿易事務官ライス(E.E.Rice)は、柴田に絹糸の外国人への売込高をしたためたため、取替の証券を指し示したところ、書中には仙台南部そのほか諸侯には直に売買致すという文面で不都合だと思われるが売主の身元を糺してほしいと要求した。また、新規領事館の建設地についても話題を挙げた。柴田は、海岸地所については少々目論見があるとし、早急に返答はできないとした。恐らく海岸線は海防が絡むため、海岸の地所移転は難しいというのだろう。そして柴田は、この新築の入用は領事の方で出すのか、それとも政府の方で出すのか、と尋ねた。ライスはこれに対し、横浜表同様に右入用を差し出しても良いかと尋ねた。柴田は、何れにせよ地所のことは箱館奉行の進退にあることなので、相談をする方が良い、とした上で、不日奉行が各国領事たちと面会し何とか治定しようとしていると告げた。この日の対談は生糸の売主人の身元の問題と新領事館移転問題の2点であった。同4日、柴田は箱館の町の巡見を行った。
 同5日、柴田は「魯岡士対話記二冊を達控之分とも差立候」(52)と記し、この日、ロシア領事と2冊の談判書(2月28日、29日分)を取り交わしたことがわかる。更に、柴田は「今般当地立留魯岡士談判書記写し候分御使江遣し候積り一書を受致し監察江連も同写書差越ニ付、来而太左江測封いたし」(53)と記している。このことから、写しは江連にも廻ったことがうかがえる。
 同6日、柴田は「過日魯岡士一行江役ケ所割合銀江連より差越ス」(54)と記している。江連はロシア領事に割合銀を持ってきたことがわかる。ゴシケーヴィチは日本側から銀を借りて返さない状況が続いていたため、そこも日本側に指摘されたものと見られる。そして、「第一時より江連共之支配向一同魯館江行キ渠より申立候兌銀増額並居留地所之義返答およひ且欧州御使江之写書一封達方を頼ミ候帰途彼方之病院一見第四時過帰宿」(55)としている。ここで初めて池田使節団に関する記述が日記に登場する。明日、イギリス領事館やフランス領事館、アメリカ領事館に向かうという記述も有、柴田はロシア総領事を中心に現地にいる外国領事たちとも談判を進めようとしていることがうかがえる。この日、ロシアと最後の会談がなされた。柴田は、この辺りでそろそろ暇乞いさせてもらいたいと告げた。これに対し、ゴシケーヴィチは余りに早々すぎるが、「明後日御入来被下候はゞ、写真仕御覧の入度候」(56)と、明後日に来たならば、写真を撮影するとし、実際に写真撮影がなされる。柴田は文久使節団の際に写真撮影をしており、写真にも興味があったものと思われる。柴田は「忝は候得共、拙者共公務相済候上は、早々帰府の上復命致度候間、尚再会の期に譲可申候」(57)と述べたが、後述するように、柴田は写真撮影の後、箱館を離れることとなり、ゴシケーヴィチもその後まもなく箱館を離れ、帰国する。更に柴田は引替銀の件については「当所奉行と相談の上、当分の内定額引替高の上え、壱ヶ月五百弗宛相増候様取計ひ申候」(58)という約束を取り付けた。ロシアが箱館に来てから、引替銀の問題はずっとつきまとっていたようで一応、柴田の提示によって進展したこととなる。ゴシケーヴィチはこれに対し、感謝している。
 柴田は「縷々謝詞の趣了悉致候。外国々にては迚も周旋難出来義に候得共、過日も申入候通、魯国義は格別の国柄にて、以後情款懇切の義相望候間、右等の廉を以取斗候義に付、此上共我政府の為尚懇親尽力の義預所に候」(59)と、ロシアは格別の国柄であり、今後の懇親も期待できるので取計らってほしいと告げた。ゴシケーヴィチはまずイギリス領事は政府を欺いており、オランダ領事とポルトガル領事を兼任していると指摘し、信用が置けないと柴田らに語った。箱館にオランダ領事の資格を持ったものは確認できておらず、ポルトガル領事はデント商会の商人ハウエル(Alfred Howell)が勤めており、名誉領事であるとともに、イギリス系商社であるため、イギリスの影響を受けているのは当然といえよう。柴田はこれに対し、「只今英国岡士ワイスの義に付云々被申聞候へ共、右は横濱表在留の岡士等にも他国の岡士兼任致候もの儘有之候」(60)とし、一体この事例は公使から任命されているのか、それとも本国政府から任命されているのかと尋ねた。幕府も新政府もこの後、商人が領事になることについて、好ましくないと考えるようになっており、柴田はこうした問題に一早く情報を得ていたことがうかがえ、実際に外交交渉の場で尋ねていることがうかがえる。これに対し、ゴシケーヴィチは「其国在留のミニストル有之候へばミニストル選任致し、ミニストル無之候へば政府より選定致候義にて、夫も両国同意に無之候ては難出来既に魯国(に)於て支那香港の岡士相定候処、英国(に)於て不承知に付引替候例も有之、初て其国へ岡士差渡候節には、本国政府より岡士に選任致し差渡候趣書簡を以申入候義に有之候」(61)と領事任命システムについて、柴田にレクチャーしている様子がうかがえる。柴田はこれに対し、「左候得ば、英国岡士にて葡蘭岡(ママ)任致候は各其政府より任候義にて、若岡士不束に候はゞミニストルに掛合、ミニストル無之候はゞ本国政府え掛合可申遣候哉」(62)とゴシケーヴィチに確認している。ゴシケーヴィチはその通りだと返答している。柴田は更に質問を続け、「右掛合の節には岡士不束の廉々一々可申遣候義に候哉」(63)と確認をしている。ゴシケーヴィチは「廉々一々被申遣候迄には及不申、只今右様の岡士差渡置候ては両国の為不宜候間引替可申旨を以掛合候義に有之候」(64)と返答している。柴田は本国政府からの委任状を見せてもらっても問題ないかと問い合わせると、ゴシケーヴィチは問題のないことだが、最初に委任状を指し示すはずだと述べた。柴田は、改めてイギリス領事の兼任のことについて横浜のイギリス公使が承知しているのか、と尋ねた。ゴシケーヴィチは承知しているが、ロシアでは「尤魯国(に)於ては他国岡士兼任の義は不相成規則に有之候」(65)とロシアでは他国領事を兼任することは規則上認められていないと返答した。その理由は複数兼任すると、売り上げのことなど、どの国にくみするのかわからず曖昧になる可能性があるためだとした。即ち、ロシアは自国の利益を優先するため、他国の領事を兼務し、自国の利益に直接つながらない可能性のあるものについては認められないというのである。そこで、ゴシケーヴィチは柴田に領事委任状を指し示した。その後、柴田は今後ポルトガル領事にイギリスの商人が兼務する可能性があることを示すと、ゴシケーヴィチは本国から申し遣わされていれば問題はないと答えた。柴田は、商人の中にはけしからぬ行為をする者もおり、信用が置けないと主張した。ゴシケーヴィチはそういう者は何れ取締られるため問題はないとした。
 柴田は慶応元年に横浜製鉄所労働者雇用と機械購入のため、フランスを訪問した際に、日本領事としてフランス商人エラール(Paul Flury Hérard)をフランス駐日名誉領事に任命し、幕府にも許可をとるといった経緯がある(66)。この時のゴシケーヴィチとの対談が少なからず生きたということだろう。
 話は変わり、次に問題となったのは領事館移転問題である。移転場所の絵図面を柴田は借り受け、確認したが密貿易を防ぐのが難しいため、早急な返答は難しいと告げた。
 そして、朱書で「此以下進達ニ不及候事」(67)とした談判書が残されている。ここではまずゴシケーヴィチが息子ウラジミールに日本語の師範を付けてほしいと過去に村垣淡路守範正に述べた経緯を説明した。ゴシケーヴィチは日本を離れるが、息子を日本語勉強のため、日本に置いておけば、日本の情報が入手しやすくそういう狙いもあるのだろう。この点は、シーボルト(Philipp Franz von Siebold)が息子のアレクサンダー(Alexander Georg Gustav von Siebold)を日本に置いて行ったことに通じるところがあるのだろう。ゴシケーヴィチは更に「本国政府より日本語習業の為め四人の者さし越置候。御国政府よりも魯語習業のもの本国政府に御遣被成候はゞ、語学のみならず其政態迄をも御分り可相成されば多少の御都合にも相成可然御義と存候」(68)と交換留学生を持ちかけている。柴田はこれに対し、「拙者共(に)於ても可然と存候間、往々は魯語習業のもの差遣度候」(69)と返答し、柴田も非常にこの計画には前向きである。
 これは後に箱館奉行所付ロシア語通詞志賀浦太郎からも幕府に上申書が出されており、最終的には小出大和守秀実を正使とする樺太国境問題交渉をする使節団に留学生を連れてロシアを訪れることとなる。
 この日の会談はこれで終わり、ゴシケーヴィチの案内で病院を見て退席した。
 同7日、柴田は江連と幕府への報告の打ち合わせを行った。その後、イギリス領事館に向かっている。しかし、対話の内容を見ると対話をしているのは由比と小人目付で、柴田と江連はこの会談には立会って居ないようである。恐らく、柴田は会談をする予定だったが、急きょ予定を切り替えたものと見られる。ここで、イギリス領事ヴァイスと会談を行った。その内容は次の通り。
 由比が今日は「貿易上の事に付」(70)談判をしたいと申し出た。柴田は貿易が「直様長崎え差贈り候趣、就ては長崎の義は遥々の路程にも候間、当地え差越候様仕度、当地へ差越候と長崎へ差贈候とは、道路の遠近多少の相違にも有之、旁双方都合宜敷義と存候間、御帰府の上は政府へも御建言被下、左様相成候様仕度候」(71)と述べた。柴田は長崎の貿易を推進しているが、これは横浜鎖港をしても長崎は開いているから大丈夫であろうという考えもあったに違いない。更に、由比は「今日は兼て約束の事故、日向守義も是非面会可及処、江戸表より品々御用向申越、帰府も殊の外相急ぎ、就ては多少の調物等も有之に付、面会相兼、同人(に)於ても甚遺憾に存候へ共、無拠今日面会の義相断候処、被申立候義も有之に付、拙者にても面会致度旨被申聞候間、即罷越候義に付、尚被申聞度件々有之候はゞ可承候」(72)と述べた。柴田が面会の場に現れなかったことに対して釈明を行っていることがわかる。これに対して、ヴァイスは「日向守様へ御面会不仕候は遺憾存候得共不得已義に候。左候へば御用向御申越と申は何事に候哉、諸藩へ関係の義に候哉」(73)と、柴田に面会が出来ないことは遺憾に思うが、何の用事で来たのかと由比に問い合わせている。
 由比は「左様の義には無之候へ共、急ぎの御用向品々出来候に付、無拠同人面会相成兼候事に候」(74)と述べた。再び柴田が面会できない旨を述べたようである。これに対し、ヴァイスは「前申上候義は書面にも認置候間、篤と御建言被下度候」(75)と、前の会談の内容は書面にとってあるので、篤と話し合いましょうと述べた。そして書面を差し出して、ヴァイスは続けて「右書面はミニストルえも差贈候間、御持参の上宜敷相願候」(76)と、書面は公使(代理公使ニール)にも差し送っているので、御持参のをしていただきたいと申し出ている。由比はこれに対し、「当港の義は当所奉行え相談可及、尚其上の処は日向守帰府の上にも建言致可申と存候」(77)と、回答をはぐらかしている様子が見受けられる。これに対し、ヴァイスは「金川表(に)於ては商人取引の節前金不相渡候との事に治定相成居候義は御承知に候哉」(78)と、神奈川において商人取り引きの際、前金を渡していないという取極めは承知しているとした。由比はこれに対し、「右は承及候義も有之候へ共、同表は主役に無之候間、と相心得不申候」(79)と回答した。ヴァイスは柴田がすでに理解していることで、前金を渡して様々な問題となるので、神奈川同様の振り合いで箱館でもやってほしいと告げた。由比はもともと商売は相対で、政府や役人が携わるものではないとした上で、政府でも検討すると告げた。ヴァイスは「アールコツク佛国公使共相談の上、執政方へ申上の上、右様取極相成候間、同様相願度候。右は一八六一年十月十二日取極候事に候」(80)と述べた。このことは、オールコックとフランス公使ベルクールと相談の上、老中へ申し上げ、取極めてもらうようお願いする。そして、1861年の取極めは現段階で確認ができない。由比はこの件については、篤と柴田と話し合うように促した。ヴァイスは「前金不相渡約定相成候共、約定通り不参候ては矢張双方の手数に付左様無之仕度候」(81)と、前金を渡さないと云う約束も守られていないのでは意味がないとしている。由比は「既に南部商人生糸の義に付差縺れ等も有之由故、左様相成候はゞ右等の差縺れは有之間敷、都合可然と存候」(82)と、南部商人の件について、都合然るべきと存じ候とだけ答えている。この時、通弁名村五八郎が書面を見て、大意を述べた。名村は「前金不相渡義は、岡士館觸書にて則日本商人より金子不請取内品物相渡候共、品物不請取内金子相渡候得共、左様の事にて差縺れ候義有之節は訴出候共、岡士(に)於ては不取上候事」(83)と、日本商人から金子を受け取らず品物を渡し、品物を受け取らず金子を渡したら訴え出て、領事館では取上げないようにという考えを述べた。名村の一文は朱書きであり、名村個人の見解が入っていると見られる。ヴァイスは「何れともアールコツクより岡士え達しにて夫より商人相触候義に御座候」(84)と、オールコックから領事へ達してそれから商人に触れを出すとした。由比は「右は政府より日本商人え触置候よりも、外国商人方にて前金不相渡品物取引相成兼候自国商人と約定不致候はゞ差支無之事と存候」(85)と、政府から日本商人へ触れるよりも外国商人の方で気をつけて商売をすれば問題ないとした。ヴァイスは箱館でも長崎屋・山田屋は豪商であり、「何れも前金無之ては取引不仕候故、既に昨年中山田屋壽兵衛と取引の義に付差縺れ出来候義も御座候」(86)と述べた。日本商人とのいざこざが相ついでいる様子を伝えている。由比は詳しくは柴田へ申し出るよう述べた。また、由比は2、3日前オールコックが神奈川へ到着したが、噂に成っている事件はないのかと尋ねると、ヴァイスは貸渡地の件については早速話し合いが持たれるだろうと述べた。この地所については、由比は柴田から箱館奉行と会談を行ったと返答し、ヴァイスは箱館が江戸から見ると、隔絶の地なので早々に検討して欲しいと述べた。由比は承知したと告げた。
 今回の話し合いはガルトネル事件が大きく関係しており、日本の貿易のあり方の見直しがなされている。
 更に、箱館奉行小出に招かれて柴田と江連は宴会に招かれている。この日、ゴシケーヴィチから柴田らに贈品が届けられている(87)。
 同8日、柴田は「江連より文書を以時魯より此方同品贈り越候申来ル同しく受納之積り返書を遣す」(88)と記している。前日のゴシケーヴィチからの贈品に対して、受納したことを伝える返書を送っている。更に、「本日魯館尋問可致左も無之候へハ今ハ閑段無拠之積り申遣ス」(89)と記している。ロシアとの対談がなければ、意味がないと感じている。また、柴田は「本日魯館尋問之ため同岡士より浦太郎を以聞合ニさし越ス前書之趣を以程能申入願様談じ遣ス」(90)と記している。ゴシケーヴィチは通詞の志賀浦太郎を遣わして前書の通り談判するとしている。その後、フランス領事がやってきて名刺を提出したようである。更に、柴田は「魯並英岡士太左衛門談話記貮冊詰甚相来(後略)」(91)と記し、談話書が2冊送られてきたことがうかがえる。そして、「陣右衛門来リ魯館之行止を願聞合遣す」(92)と記している。陣右衛門なる人物からロシア領事館に行かないよう告げられたことがうかがえる。
 同9日、柴田は名村五八郎、平山謙二郎や小出秀実ら箱館奉行衆に別れを告げている。また、由比に船の調達を命じている。そして、柴田は「魯館江告別ニ行く。写真具を設ケ直一郎之写真を乞ふ。第二時此より五時頃迄談話夫より又々江連同行鎮臺江告別ニ行く」(93)と記している。この日、柴田はゴシケーヴィチに別れを告げ、箱館奉行をつとめた竹内下野守保徳と共に箱館に渡って以来、箱館に住んだ勘定奉行普請方庵原菡齋長男庵原直一郎時敬と思われる人物に写真を撮影してもらったようである。また、柴田のもとに志賀浦太郎が来てサンクトペテルブルグに留学生を派遣する計画を打ち明けている(94)。ただし、この写真は現在どうなっているのかわからない。
 同10日、柴田は「魯館兌銀増額之義箱館方江直之義聢与申談」(95)とし、ロシア領事の求める兌換銀に関しては箱館奉行に任せることにしたことがうかがえる。そして、この日、柴田らが乗船する船が決まり、亀田丸で帰ることとなった。亀田丸は文久元年に武田斐三郎を中心として箱館奉行所が単独でアムール地域を調査した船である。
 以上のことから、柴田の交渉は次の時代を見据えたものとなっていることがうかがえる。それは、ロシアとの交渉の中から、樺太国境画定交渉や留学生派遣などの政策が実現するところにあるといえよう。

3、柴田らの帰府

 柴田らは元治元年3月10日、亀田丸で箱館を出港した。翌日には、青森に到着している。
 同12日、由比太左衛門がロシア領事館の兌銀増額案に関する書類を届け(96)、翌日、柴田のもとに届けられた。同14日から同21日まで青森に滞在した。同21日朝、青森を出発し、小湊を経て野辺地まで陸路を使用している。同22日、天椅館(天間館)を経て、七戸へ至る。同23日、藤島を経て五ノ戸(五戸)へ至る。同24日、浅水を経て三ノ戸(三戸)に到着。同25日、金田市を経て一ノ戸(一戸)へ至る。同26日、小繋を経て沼宮内へ至る。同27日、渋民から森岡(盛岡)へ至る。同28日、郡山から花巻へ到着、同29日、黒澤尻から水澤を通過。同30日、一ノ関(一関)から金成に至る。
 4月1日、高清水から三本木を経る。同2日、吉岡へ至る。同3日、塩竃(塩釜)から國部町へ出ている。同4日、岩沼から大河原へ至る。同5日、白石から桑折へ到着。同6日、福島から二本松に至る。同7日、郡山から須賀川に到着。同8日、矢吹から白坂へ至る。同9日、鍋掛から太田原に到着。同10日、氏家から雀宮に至る。同11日、小山から栗橋を通過した。同12日、粕壁(春日部)を経て草加に至る。同13日、江戸に到着。行きと同じ道を通りながら宿場は一部変更されている。往復の限りを見ると、柴田は外交官として箱館に向かったので、船の利用を認めてもよいはずだが、実際にはそうはなっていない。この段階では、将軍上洛等に伴い、大坂へ向かう船は出ていたものの北へ向かう船の整備はなされていない。このことから幕府海軍の輸送船等の航路は初期の段階では極めて限定的にしか機能しなかったことがうかがえる。
 同14日、柴田は江戸城に登城し、老中板倉周防守勝静に面会し、報告を行っている(97)。この時、柴田は板倉へ「私儀箱館表より帰府仕候ニ付、御序の段御目見仕度、此段奉願候、以上」(98)と申し出ている。恐らく、この前後だと思われるが、柴田と目付江連は江戸城白書院縁頬替席で老中井上河内守正直らが列座して、「箱館表御用仕廻罷帰候」という理由で謁見し、更に外国奉行支配組頭由比が芙蓉間替席で老中井上と若年寄が列座して右同様の理由で謁見を行なっている(99)。
 同16日、柴田は箱館イギリス領事から江戸の総領事宛の品物を届けた(100)。
 同22日、柴田は「箱館御用ニ而受取候御朱印長持御用成物長持二棹本日御細工所江返納」(101)と記し、箱館に持って行った長持を返却している。恐らく、作事奉行に元箱館奉行で外国奉行もつとめた村垣淡路守範正がいたことから彼の忠告等も柴田にはあったのではないかと推測される。
 同26日、柴田は「箱館江召連し中小性着用品一式何レも受領せし度段」(102)と記し、この日、箱館に連れて行った小姓たちの着用品が返って来ていない状況がわかる。
 5月7日、柴田は「大和守殿東下貿易品定限之御談判せしよりて風評傳聞出り」(103)と記している。政事総裁職松平大和守直克が京都より戻って来て貿易品を定限する談判があったという噂が出たことをつかんでいる。
 同12日、柴田は「出殿大和守殿金川鎖港御用守立御取扱並生糸・繰残油輸出禁止談判筋評議等之儀三七衛門一同江御談せし」(104)と記している。松平直克は横浜鎖港に関して、前日の貿易統制の話をしたことがうかがえる。よって柴田のつかんだ情報は正確であった。同13日、柴田は「出殿時御談之儀同役評議之趣御直ニ申止る」(105)と記している。続いて、同役(外国奉行)で評議はすぐにとめられた。同15日、柴田は横浜に出張するに当たり、竹本隼人正雅に随従するよう老中板倉周防守から達せられた(106)。同16日、柴田は「第十一時過金港着程なく隼人正着合宿也」(107)と記しており、横浜に到着したことがわかる。それから、まず運上所に向かい英仏と長州について話し合いを行ったほか、アメリカ仮公使館(善福寺)焼失に付、談判を行っている(108)。
 同17日、柴田は運上所でフランス新公使ロッシュ(Léon Roches)と話し合ったほか、イギリス公使やプロイセン公使ブラント(Max von Brandt)とも会っている。
 11月26日、外国奉行竹本淡路守正雅・同菊池伊予守隆吉・同田村肥後守直廉・同柴田日向守・同星野備中守千之・同江連加賀守堯則・同井上信濃守清直は箱館在中ロシア総領事ゴシケーヴィチに対して、「(前略)當春柴田日向守并江連真三郎事加賀守、目付勤役の節其地え被差遣、其許え面晤の砌貴國其外國々え使節差遣候ニ付、周旋方等の儀頼入御引會の次第も有之候處縷々懇談の様も有之、然る処其後我國の景況一変し、右使節は被差上候事ニ相成我事務執政より其許え書翰差遣候、右は兼て懇談の趣も有之候間、拙者方よりも前文の様申入候(後略)」(109)と、ロシアに使節を派遣することを中止する旨を伝える書簡を送った。使節が実際に派遣されるのは慶応2年(1866)のことである。

むすびに

 柴田剛中は文久使節団に参加し、その功績も認められ、箱館に派遣された。ロシアは箱館に拠点を置く唯一の国だった。柴田はロシア総領事ゴシケーヴィチとの会談を経て、横浜鎖港を促したほか、ガルトネル事件等についても談判を行った。
 ロシアとの会談で重要な点はすでにこの段階で留学生派遣の件が話されていたことである。これは後の小出使節団、及び留学生派遣につながることであり、柴田との談判が幕府政治に着実に結びついた点である。
 また、この時、柴田は写真を撮影したが、この写真は現在行方がわかっておらず、この写真が今後どのような形で見つかるのか、注目される。
 柴田が外国奉行となって行った初の外交交渉は、日本の方針を説明しながら、ロシアの要求も容れるというようにバランス感覚に優れていたことがうかがえる。また、柴田個人はロシアとの強い結びつきを持つ出来事になったといえよう。それは柴田が横須賀製鉄所の機械購入に当たり、ロシア製の器械を導入すべきであると主張したこと(110)からも明らかといえよう。
 以上のことを踏まえると、柴田はどちらかというと、「親露派」の幕臣であったといえよう。また、柴田がロシア総領事にも横浜鎖港の件について理解を求めに行ったことは少なくとも徳川幕府が条約締結国に対して、協調外交を行おうとするものであり、横浜鎖港そのものは政策としては失策といえるが、協調外交を行おうとした姿勢は評価できよう。


(1) 文久使節団については、拙稿、「文久竹内使節団の人選過程について」(『東海史学』第43号 2009年)、同「文久二年の竹内使節団によるフランス訪問の意義について」(『開国史研究』第10号 2010年)、同「竹内使節団のプロイセン訪問の意義について」(『湘南史学』第20号 2011年)、同「文久二年の竹内使節団のオランダ訪問の意義」(『湘南史学』第21号 2012年)、同「文久竹内使節団のイギリス訪問の意義」(『湘南史学』第22号 2013年)を参照していただきたい。
(2) 『続通信全覧』類輯之部三四、770頁
(3) 柴田剛中『日載』五(『柴田剛中文書』九三 神戸市文書館所蔵)
(4)(5)(6)(7)(8)(9) 前掲、『日載』五
(10) 「魯西亜外国事務執政宛幕閣連名書簡写」(『柴田剛中文書』一四八 神戸市文書館所蔵)
(11)(12) 前掲、「魯西亜外国事務執政宛幕閣連名書簡写」
(13)(14) 前掲、『日載』五
(15) 「柴田日向守為御用従江戸奥州筋箱館迠人馬可出旨宿次証文」(『江戸城多門櫓文書』多041676 国立公文書館所蔵)
(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27) 前掲、『日載』五
(28) 「柴田日向守箱館行御用留(抄)」(『函館市史』史料編第一巻 1974年)、828頁
(29) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、829-830頁
(30)(31)(32) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、830頁
(33) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、830-831頁
(34)(35)(36) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、832頁
(37) 伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』 吉川弘文館 2009年 243-246頁
(38)(39) 前掲、『日載』五
(40) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、834-836頁
(41)(42)(43)(44) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、836頁
(45)(46)(47) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、837頁
(48) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、837-838頁
(49) 前掲、『日載』五
(50) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、840-842頁
(51) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、842-843頁
(52)(53)(54)(55) 前掲、『日載』五。
(56)(57)(58) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、843頁
(59)(60)(61)(62) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、844頁
(63) 前掲「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、844-845頁
(64)(65) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、845頁
(66) 柴田のフランス派遣のいきさつとフリューリ・エラール任命の件については、拙稿「柴田使節団の派遣と任務、及び帰国後の動向について」(『開国史研究』第12号、2012年)を参照。
(67) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、847頁
(68)(69) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、848頁
(70)(71)(72)(73)(74) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、849頁
(75)(76)(77)(78)(79)(80)(81)(82)(83)(84) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、850頁
(85)(86) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、851頁
(87)(88)(89)(90)(91)(92)(93)(94)(95)(96)(97) 前掲、『日載』五
(98) 「箱館表ヨリ帰府仕候ニ付御目見奉願候書付」(『江戸城多門櫓文書』多015702 国立公文書館所蔵)。
(99) 「箱館表御用仕廻罷帰候外国奉行柴田日向守・御目付江連真三郎於芙蓉間謁候儀ほか書付」(『江戸城多門櫓文書』多702372 国立公文書館所蔵)。
(100)(101)(102)(103)(104)(105)(106)(107)(108) 前掲、『日載』五。
(109) 「横浜鎖港一件」『続通信全覧』類輯之部一七 貿易門 140頁。
(110) 前掲、「柴田使節団の派遣と任務、及び帰国後の動向について」で筆者は柴田がロシア製の器械を横須賀製鉄所に入れることを提議していることを明らかにした。

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号 史料紹介

魯西亜から来た日本人 ―善六と函館

2015年2月16日 Posted in 会報

大島幹雄

ゴロヴニン事件解決200周年と石巻を結ぶもの
 高田屋嘉兵衛が活躍したゴロヴニン事件のかげに、もうひとりの日本人がいたことはあまり知られていない。ロシア側の通訳として交渉の場に立ち会った善六である。今日は函館と私の故郷である石巻を結んだひとりの日本人、「魯西亜から来た日本人」ピョートル・キセリョフこと、日本名善六の話を拙著『魯西亜から来た日本人――善六物語』に沿って話したい。

 いまから220年前、1792年11月に石巻の米沢屋平之丞所有の千石船若宮丸が、米と木材を積んで江戸に向かう途中に嵐にあって漂流、太平洋をおよそ6ヶ月漂流したあと、アリューシャン列島の島に漂着する。このあと漂流民は一年間ナアツカという島ですごしたあと、この島にいたロシア人たちによってオホーツク、そのあとヤクーツク経由でイルクーツクまで連れていかれる。石巻を出たとき乗組員は、16名であったが、イルクーツクまでたどり着くのは14名だった。このなかのひとりが善六で、彼はイルクーツクに着いた直後にロシア人に帰化している。
 この若宮丸漂流民の足跡は、帰国した4人の聞き書き記録『環海異聞』でたどることができる。『環海異聞』は蘭学者大槻玄沢が江戸の仙台藩屋敷で、帰国した漂流民たちから聞いたことをまとめた記録だが、この写本は、このあと全国中に流布していく。なぜかというと、ゴロヴニン事件の原因となったロシア船によるエトロフ・クナシリ襲撃事件のあとで危機感をもった各藩、特に沿岸諸藩が、ロシアについて、またロシア側を怒らせることになった事件の真相を知るために、こぞって『環海異聞』を取り寄せ、写本をつくっていったからだと思われる。

善六の人物像
 善六を見ていくとき、重要なポイントとなるのは、彼がいち早くロシア人に帰化していることと、そしてロシア語がよくできたことだ。このことを踏まえ、亀井高孝は『大黒屋光太夫』のなかで、次のような人物像を描いている。

 「商人らしい小悧巧(りこう)さがあり、船乗りらしい素朴さがかけていたが、異境の周囲に順応する才能があり、ともに語学がすぐれてロシアの役所その他で公私の掛合事や文書の作成などに長じていたので、他の漂流民らが近付いていけなかったからであろう。」

 彼のロシア語だが、帰国するときに乗船したロシア初の世界一周就航船「ナジェージダ」号の中で、この遠征の総責任者ニコライ・レザーノフと一緒に日ロ辞典をつくり、さらには公文書の翻訳をするなど、他の人に比べて抜きんでていたことがわかる。
 私は石巻日日新聞で連載していた小説「我にナジェージダあり」の中で、善六という男のアウトラインを次のように設定した。
 江戸で小間使いのようなことをした経験をもち、石巻にいたところ再び江戸から呼ばれ、江戸に行く途中で遭難した。デラロフという露米会社の支配人に気に入られ、日本とロシアの橋渡しをするように勧められ、帰化を決意した青年で、同年代の太十郎とは親友であった。

レザーノフの辞書と善六
 レザーノフとつくった辞書をよく見ると、善六の通訳としてのセンスの良さを見いだすことができる。
 「彼ら日本人は平民であり、抽象的、概念的、描写的な言葉は、彼らの知識のなかにはなかった」とレザーノフが書いているが、国が違う人間同士で話をするなかで、理解することが難しいこの抽象的な言葉を、単語は知らなくても、自分なりに理解した言葉に置き換えようとしている。
 例えば、次のような言葉を彼はこんな風に訳している。

クニノフデゴザリマス   習慣
ハズカシイ   良心
テンカサマノカネ   国庫
ワラシデゴザル   青春
ウズゥウズゥミマシテモ(鬱々みましても)   夢見る
アタマノアブラ   脳味噌
ハナタカクシマシテモ   誇る
セダシマシテモ(精だしましても)   努力する
イヌコチャン   犬の指小形
タビノヒト   異邦人

 最後にあげた異邦人を意味する言葉を「タビノヒト」と訳した善六は、自分の運命をそこにダブらせていたのかもしれない。漂流して、異国にたどり着き、ロシアに帰化しながらも、自分はあくまでも日本人である、旅人のように彷徨うことが、異邦人の宿命なのだという思いがあったのではないだろうか。

その後の漂流民
 漂流民4名が帰国を希望して、ナジェージダ号に乗って、およそ1年かけて世界一周をしながら1803年9月に長崎に着いた。善六は通訳としてこの船に乗り込んでいたが、最後の寄港地となったペテロパブロフスクで、レザーノフより下船を命じられる。ロシア人に帰化した善六の存在が、日本との交渉の時に不利に働くという懸念からだった。善六はこの港でレザーノフたちがもどって来るのを待つことになった。
 漂流民は半ば幽閉状態で、長崎で1年以上過ごすことになる。日本とロシアの交渉も、通商を求めるロシアに対して、日本側の二度と日本に来ないようにという回答はレザーノフにとっては屈辱的なものだった。ナジェージダ号は、長崎来航からおよそ半年後に長崎をあとにする。
 漂流民のひとり太十郎は、自ら喉を突き刺すという事件をおこす。通説では幽閉状態に絶望しての自殺といわれているが、私は「我にナジェージダあり」の中で、沈黙を正当化するため自ら選んだ道という解釈した。
 4人は1805年2月に故郷に帰った。

五郎次と善六
 レザーノフから交渉失敗の話を聞いたあと、イルクーツクに戻り、日本語教師として働く善六が再び表舞台に登場するのは、函館とも縁の深い中川五郎次が関わっている。
 ロシアにだ捕された五郎次は、ヤクーツクにいるとき、善六からの手紙を受け取る。ここには次のようなことが書かれてあった。

 「大明(大名)、おま衛(おまえ)のことをおもへ(思い)ます。日本のくにへおくりとどけたく、またもつて、此の方へまゐり候得ば、日本の人たくさんにござります。いる加うつか(イルクーツク)と申(申す)じやうが(城下)におめにかかりましやう。ぞう(そう)ぞう此方へくるよふに。どんばんなしに(心配しないで)」

 イルクーツクに着いた五郎次は、善六の家で59日間暮らすことになる。
 五郎次の聞き書き『五郎次申上荒増』を読むと、善六の家がアンガラ川の河口近くにあったことや、ほかの若宮丸漂流民についての報告も含まれている。
 その後五郎次は1812年2月リコルドに連れられペトロパブロフスクに向かうが、『五郎次申上荒増』のなかで、リコルドが自分の非協力的な態度をみて「善六を召し連れてこなかったことをいつも後悔していた」と語っている。

海を渡った種痘術
 ロシアから帰国するにあたって五郎次が種痘医学書『オスペンナヤ・クニーガ』を持ち帰っていた。さらに五郎次は、1824年、松前で天然痘が流行したときに、自ら採取した牛痘を接種することに成功。日本で最初に種痘術を紹介した人物となった。
 『五郎次申上荒増』で五郎次は種痘術との出会いについて「道中の途中で商人の家に一晩厄介になったとき、ロシアの本がたくさんあったので、それを見ていたら、そのなかに『ヲスペンネエ・ケニガ』(天然痘の本)と書いた本があった。その商人に頼んでこの本を貰い、ヤクーツクやオホーツクで医者に付いて歩き、種痘法のやりかたを覚えた」と書いている。
 五郎次の話を信じれば、イルクーツクからの帰りに偶然種痘術の本を見つけたことになるが、私は彼が、イルクーツクにいるときにこの本を入手していたのではないかと思っている。そしてそれは善六の家にあったか、もしくは善六から教えられて購入したのではと思っている。

函館交渉
 日本側にだ捕されていたゴロヴニン解放のための最終交渉となる、リコルドにとっては3回目の日本遠征に善六は通訳として参加した。日本とロシアの橋渡しをするという彼の夢の第一歩である。
 この交渉のために善六がした最初の仕事は、入港したときにリコルドが書いた手紙を訳すことだった。善六が訳した公式文書の写しは『飄々謾集』に収められている。

 「此度この所ニ来り候ところ、其方より船さしむけ、ありがたきしあわせニ存じ奉り候。又以て、くいもの、ま水等くださる様にきかせられ候へども、くい物たださへたくさんにあり、ただま水なきゆへ、どうぞま水ヲ被下度くねがいあげ申し候。其方のおん役人様。(中略)箱館までのみちさき、どうぞ高田屋嘉兵衛を此所によぶよふを。嘉兵衛ヲミチさきに致したく。どうぞ高田屋嘉兵衛を願い上し。

いくさ船大将軍 ぺうとろリコルド

文化十年九月廿二日 つうしにんきせれふ」


 さらに善六は3カ月ぶりに再会したリコルドと嘉兵衛の通訳をしている。

 「艦の必要な仕事をすますと、我われは大喜びで、堰を切ったようにわが善良な高田屋嘉兵衛と話しを始めた。今度は通訳キセリョーフの助けがあるので、以前よりははるかに都合よく、何事でも話し合えた」(徳力真太郎訳『ゴロウニン 続・日本俘虜実記』より「海軍少佐リコルドの手記」)

 オホーツク長官ミニャツキイの謝罪文も善六が訳しているのだが、この書簡の末尾には、こんな言葉が書いてあった。

 「此書物、尾宝津賀(オホーツク)の湊場所ノ大役人のおろしやんノことば、日本の字ニて書、通事ヲいたし二十一年、おろしやんニて役をつとめ、私日本の人の子供なり
通事の役人 きせろふ書」

 「私日本の人の子供なり」とは、通訳している自分は日本人なのですという、日本に向けての善六からのメッセージといえるのではないか。リコルドが、第1回目の交渉のときに松前藩高官に渡したイルクーツク県知事トレスキンの公式書簡にも、同じ但し書きがついている。
 いよいよ明日正式な日露会談に臨むという前夜、リコルドは善六を部屋に呼んでいる。幕府の役人たちが、善六が日本人であることを知った場合、善六に危険がおよぶことを心配したリコルドは、このことを善六に確かめる。

 「私はキセリョーフを自室に呼び寄せて言った。『君は自分の国の法律のことは私よりよく知っているから、私といっしょに上陸しても危険がないかどうかよく考えて欲しい』
 キセリョーフは答えた。
『私が何を恐れるというのですか。あなたを捕らえるなら、そのときは全員を捕虜にするのではないでしょうか。私一人を捕えることはあり得ないでしょう。私は日本人ではありません。通訳としての職務が果たせるようにどうか私を連れて上陸して下さい。陸上での両長官との交渉こそ、今度の事件で最も重要です。本艦上での高田屋嘉兵衛との話では、私はあまり役に立たないのです。もし艦長が私を陸上に伴って行かないのなら、私は何のためにこの長い航海の苦労に耐えてきたのか分からなくなります」(徳力真太郎訳『ゴロウニン 続・日本俘虜実記』)

 ロシアの公文書に「私日本の人の子供なり」と書いた善六が、ここで「私は日本人ではありません」と答えた奥底にあるものは何だったのだろう。ひとつは、彼が交渉の場に立ちたいという強い希望のあらわれであろう。そしてもうひとつは、「日本の人の子供」であっても、ロシアに帰化したいまはロシア人でしかないという自分の選んだ道への自負であったと思う。
 ロシアに帰化した「日本の人の子供」である自分こそが、日露に橋を架けることができるのだという、善六の自信でもあったはずだ。
 これを聞いたリコルドは、続けてこう書いている。

 「キセリョーフがこの事件で役に立ちたいと望んでいるのをみて私は言った。
『君のような忠実な通訳が傍に居ることは大変重要なことだ。ただ私としては、君に危険の恐れがある場合なので、君の希望に反した行動をしたくなかっただけなのだ』」

善六の絵姿
 10月1日高田屋嘉兵衛が、奉行の儀礼船に乗ってディアナ号にやってきた。陸上からの合図を待って、リコルドは善六と2人の士官、さらに10名の水兵を従えて、この船に乗り込んだ。
 このときに箱館に上陸したロシア代表団一行の中に善六がいたことを東北大学教授で、私ども石巻若宮丸漂流民の会の副会長でもある平川新氏が発見している。平川教授は、松前から箱館までゴロヴニンを移送した松田伝十郎が書いた『北夷伝』の中に残された絵の中に、善六を発見した。この『北夷伝』は、ここ函館市中央図書館にある。
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『北夷談』に描かれた善六(右端)(函館市中央図書館所蔵)

 このあと日本とロシアの交渉の席で、善六は通訳として存分に力を発揮したかというと、実はそうでもなかった。自分だけが日本語とロシア語ができるかと思っていたが、日本側の通訳となった村上貞助はロシア語もかなりできる男だったのだ。この交渉が終わり、ゴロヴニンたちは長い幽閉生活から解放され、ロシアに帰国し、善六もここで日本と永遠の別れを告げることになる。

函館領事キセリョーフ
 函館と善六の縁はこれで終わらなかった。
 昭和3年ディミトリイ・キセリョーフが、ロシア領事として赴任するため函館に向かった。キセリョーフは函館へ向かう前、東京日日新聞社の記者のインタビューに答えて、自分の先祖が百年あまり前にロシアに渡った日本人であったという、興味深い事実を明らかにしている。これは東京日日新聞に、「百余年ぶりに奇しき帰郷――文化年間にロシアへ定住した邦人の曾孫が領事で来朝」と大きく報道された。
 キセリョーフ領事自身のコメントも載せられている。

 「私の先祖が函館の人であるということは、小さい時から聞かされ、お伽の国日本に行って、函館を訪れたいものと始終思っていました。(中略)曾祖父の日本名がなんといったか私たちは全く知りませんが函館の生まれであることだけはわかっています。血統は争えないもので医者をしている私の従兄と従妹二人は日本人ソックリの顔です。幸い私は函館へ行ったら当時の歴史を調べて是非自分の先祖のことやまた今残っている親戚の人々も探し出し会って見たいと思っています」

 私はてっきり同じキセリョーフなので、これだけはっきりと日本人が先祖だと言っていたので、キセリョーフ領事こそキセリョーフ善六の子孫だと思っていた。
 実際に拙著『魯西亜から来た日本人』の最後はこのように結んでいる。

 「通訳として、二十一年ぶりに故国の土を踏んだ函館。ここでロシアに帰化した日本人、善六は、ロシアと日本の間に橋を架けるという夢を実現することができた。さまざまな思いが交錯するこの街での思い出が、子供に孫に、そして曾孫のディミトリイ・キセリョーフにまで伝えられていった。そして百年以上の月日の流れのなかで、キセリョーフ善六の故郷がいつしか函館として語り伝えられるようになってしまったのだろう。」

 しかしその後の調査でキセリョーフ領事と善六はどうやら関係がないということが明らかになった。
 これは善六の絵姿を発見した平川先生と同じ東北大学の東アジア研究センターの寺川恭輔教授が、キセリョーフ領事が暮らしていたノボシビルスクまで行って、彼の孫たちと会い、さらにはキセリョーフ文書を調査するなかで明らかになった(「日本人漂流民の子孫と名乗るソ連外交官キセリョフ」『[窓](126),(2003)』)。

「会報」No.35 2013.12.7 講演会報告要旨

函館・松前ツアー体験記

2015年2月16日 Posted in 会報

稲垣滋子

 8月29日(木)から3日間、函館と松前に行ってきました。「ゴロヴニン事件解決200年記念 函館ツアー」という、「函館日ロ交流史研究会」と「石巻若宮丸漂流民の会」の共同事業です。
 日程は、1日目が函館市内観光、2日目が松前のゴロヴニン幽囚の地見学、3日目が函館市中央図書館での資料閲覧と大島幹雄事務局長の講演という盛り沢山な内容でした。
 「函館日ロ交流史研究会」側の参加者は、長谷部一弘会長をはじめ7名、「石巻若宮丸漂流民の会」側は、木村成忠会長(仙台)、大島幹雄事務局長(横浜)、会員の佐藤三寿夫さん(横浜)、河元由美子さん(東京)と稲垣(東京)の5名でした。
 この若宮丸組5人は、ついたり離れたり、すべての時間を一緒に動いたわけではないのですが、重要な場では必ず行動を共にしました。

ロシア関係ポイント見学
 初日の函館観光は、倉田有佳さんの案内に私一人が参加という贅沢な時間となりました。
 8月29日(木)の午後、極東連邦大学函館校に、准教授の倉田さんを訪ねました。倉田さんは日ロ関係の専門の研究・教育と同時に、「函館日ロ交流史研究会」の会員として日露関係や函館のロシア関係の施設について取材・広報活動をしています。そして「石巻若宮丸漂流民の会」の会員でもあります。
 函館校の広いラウンジは、ロシア語で書かれた本ばかり、ロシア語の掲示ばかりです。履修科目を見ると、ロシア語はもちろん、通訳・翻訳、ロシア史、ロシア民族学、ロシア地理、ロシア国家政治体制、ロシア経済、日ロ関係史等多彩です。ネイティヴスピーカーによる授業が特色だそうです。本校から来る学生への日本語教育もあります。
 倉田さんが案内してくださったのは、船見町の函館の町が最初に開けた地域、幸坂を上って行ったところにある旧ロシア領事館、少しだけ離れたところにあるロシア人墓地でした。
 旧ロシア領事館は、壁の剥落があるため門から中へは入れません。倉田さんはご自身が建物内部まで取材・執筆した記事(『函館日ロ交流史研究会会報』33号)を示しながら説明してくださいました。最初のロシア領事館は実行寺の中にあり、当時の実行寺は現在の弥生小学校の場所にあったそうです。
 ロシア人墓地は、倉田さんが門の鍵を借りておいてくださったので、草地に点在する約50基のお墓を間近に見ることができました。墓石はかまぼこ型の石を縦に寝かせたような形で、墓碑銘、氏名、死去の年月日、年齢が刻まれています。半数以上はロシアの軍艦の乗組員だそうです。そのほか初代ロシア領事ゴシケーヴィチ夫人のお墓、幕末から明治初年に亡くなった人たちのお墓、1917年のロシア革命後に来函した人たちのお墓、日本人正教徒8人のお墓など、往時を偲びながらの見学でした。

松前の史跡散策
 8月30日(金)は、雨模様の一日でした。大島・佐藤・河元・稲垣の若宮丸組は特急白鳥とバスを乗り継いで松前入りしました。午前中は坂道を上ったり下りたりしながら、松前城の天守閣、松前家墓所、松前藩屋敷を見て歩きました。藩屋敷では、さまざまな建物を見たほか、アイヌの衣装や道具類を見学しました。
 散策中に、「五郎次のお墓はこの奥40メートルのところにあります。」という立札を見ました。中川五郎次は文化年間にロシアから種痘の書物を持ち帰った人物です。私たちは傾斜地に作られた墓地に入り、一つ一つの墓石を確かめて歩いてもわからず、佐藤さんが通りがかりの男性に呼びかけ、その方も探してくださったのですが、結局探し出すことはできませんでした。藩屋敷でボランティアをしている男性に尋ねたところ、本当にここが五郎次の墓地かどうかはっきりしないので、あまり熱心に宣伝していないのです、というお答えでした。
 午前中の見学を終わったところで、「石巻若宮丸漂流民の会」会長の木村成忠さんと合流して昼食を取りました。木村さんは、今朝は函館湾のクルーズに参加して、今作っている若宮丸漂流民の辿った足跡を記録したDVDの、仕上げの撮影を試みたそうです。しかし雨で、良い写真が撮れたかどうか心配だと言っていました。

長靴の隊列 ―松前のゴロウニン幽囚の地へ
 午後はいよいよ、今回のツアーの主目的である、ゴロヴニン幽囚の地見学です。目的地は、城から少し離れた山中のバッコ沢という沢を溯ったところで、ゴロヴニンたちが脱走して再び捕えられた後に収容された牢屋の跡地です。
 松前町郷土資料館前で、函館組の皆さんと、松前町教育委員会の前田氏、佐藤氏、それに町の女性職員の方たちと顔合わせをし、挨拶を交わしました。
 全員が資料館に備え付けてあった長靴を借りて履き替えました。総勢30人ほどです。いよいよ山道にかかるところで、隊長さん(前田氏)が、「一列になってください。この順番はいつも守ってください」と命令しました。長靴もこの命令も、何と大げさな、と思ったのですが、沢に足を踏み入れてみてすぐにその意味がわかりました。沢沿いの泥んこ道に、膝まである長靴もたちまち汚れてしまいました。急な斜面の上り下りや、沢に下る板切れの上を歩くとき、流れの中の飛び石を伝うときなどは、現地の方々に手を取ってもらいました。めいめいが勝手に動いたら、ほとんど前に進めなかったと思います。
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バッコ沢の入口で記念撮影

 20分ほど上って、ようやくゴロヴニンたちが幽閉された建物があった小さな平地に着きました。ここは松前の方たちが下草刈りをしておいてくださったそうです。片側は山崩れのあともある崖、片側は沢で、樹木に覆われた薄暗い場所です。建物はすでになく、礎石が一つ残っています。この礎石も、平成22年に教育委員会の調査で確認されたものだそうです。続いて、もう一段上の小さな平地に移動しました。ここにも幽閉されていた建物があったということです。少し奥には火薬庫もあったそうです。
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ゴロヴニン幽閉の地で説明を受ける参加者

 ゴロヴニンたちが脱走したという山の方を見上げてみましたが、道もないところへどうして踏み出したのか、想像できませんでした。
 見学を終えた後、郷土資料館に戻り、出土品や資料館所蔵の品々を見ました。食器などの発掘された品は、ゴロヴニンの時代よりも新しいということです。
 強烈な印象を胸に、車で帰る函館組の方たちと一旦別れ、私たち若宮丸組はバス、特急白鳥と乗り継いで、函館駅に戻りました。乗り換えた木古内駅には、北海道新幹線開通予告の看板が立っていました。
 そして夜。両方の組がまた集合し、市内の「魚一心」という店で懇親会となりました。「函館日ロ交流史研究会」の方たちの活躍は目覚ましく、それぞれの方のお話をうかがうにつれ、新しい視野が開けていくように感じました。美味しいお料理とお酒と交歓とで、楽しいひとときでした。若宮丸組はご招待いただいたことになり、恐縮しつつも感謝しています。

函館市中央図書館の貴重書閲覧
 8月31日(土)は、一日中雨でした。朝9時半の開館を待って、佐藤さん、河元さん、私の3人は、函館市中央図書館に入館し、奥野進さんに会いました。別室の閲覧室には、あらかじめ奥野さんを通じて閲覧予約をしてあった5種類の写本類が用意されていました。文化元年(1804)のレザノフ来航に関する書など若宮丸関係の資料や、イワン・マホフが文久元年(1861)に作った日本で最初のロシア語入門書『ろしやのいろは』など、貴重資料を見ることができました。ただ時間が短かったのが残念です。
 『市立函館図書館蔵 郷土資料分類目録』を見ると、ロシア関係の資料だけでも何年かかっても見切れないほどあります。今回は短時間しかいられませんでしたが、これから何度も通いたいと思っています。

講演会
 午後2時から、函館市中央図書館のホールで、今回のツアーの最後を飾る講演会がありました。講演者は大島幹雄事務局長、題目は「魯西亜から来た日本人――善六物語」です。副題には「ディアナ号艦長ゴロヴニン、幽囚の軌跡」とあります。
 司会者は倉田有佳さん。この講演会に集まったのは71人だそうです。倉田さんによると、この数字は、テーマや当日のお天気を考えるとかなり多いということです。
 講演は、氏が以前書かれた『魯西亜から来た日本人――善六物語』をベースに、ゴロヴニン解放の交渉に立ち会った、石巻若宮丸漂流民善六の足跡を追ったものでした。それとなく会場の皆さんの反応を眺めてみると、漂流から帰還までの若宮丸乗組員の物語によって、自らも実体験しているような感覚を持ったらしいこと、善六という突出した人物の働きには驚嘆している様子が伝わってきました。
 興味深かったのは、講演とその後の質問との対比です。講演はロマンに満ちた世界を描き出したのに対して、質問は外交上の問題点を指摘するものがあったりしました。これらが総体として相補って、若宮丸漂流民、レザノフ、ゴロヴニン、江戸幕府などがつながりを持って描かれたように思います。

 かくして、得難い3日間の体験を終え、雨足の強くなった函館から帰途につきました。
 私はこのツアーの前に、『ゴロヴニン幽囚記』(岩波文庫)を読んでみました。その上で現地を踏んだことで、一層感慨が深くなったように思います。そして、今回いただいてきた諸資料、『はこだて外国人居留地 ロシア編』、極東連邦大学函館校の案内、新聞記事、ゴロヴニン関係の年表、そのほか論文コピーなどを眺めていると、改めて中身の濃い数日を過ごしてきたのだと実感します。
 このツアーの企画を立て、実行してくださった方々、私たち若宮丸組を暖かく迎えていろいろな資料とお話を提供してくださった「函館日ロ交流史研究会」の方々、松前町の皆様に感謝申し上げます。

「会報」No.35 2013.12.7 松前研修会報告