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函館ロシア人墓地――墓碑のないロシア人をめぐって

2019年3月18日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館の街の西の端にある「外国人墓地」は、日米和親条約が締結され(1854年)、半年後の開港が決まっていた函館の港を視察に訪れたペリー艦隊の一行の中の水兵2名が死亡し、彼らの埋葬場所として提供したことに端を発する。この一帯が正式に外国人墓地に定められたのは、米、英、デンマーク、ロシア、ポルトガルの在函五カ国領事が開拓長官に外国人墓地の永久保全を求める願書を提出し、それが認められた明治3(1870)年のことだ。
 現在、外国人墓地の土地を所有するのは函館市だが1、「ロシア人墓地」、「ハリストス正教会墓地」、「プロテスタント墓地」、「カトリック教会墓地」はそれぞれが柵で仕切られており、墓地の管理は各教会で行っている。
 墓地は海を眼下に望む高台にあるため、天気の良い日の眺めは実にすばらしい。夏には、タクシーや徒歩でやって来た観光客が、柵の外から墓地を見て回る姿をよく見かける。だが、ここに眠るロシア人やポーランド人2の親族が墓を訪れることはほとんどない。それに代わるかのように、近年は毎年5月になると札幌からロシア総領事館の方々が同胞の眠る墓地にやって来る。ロシア極東大函館校のロシア人教師や日本人教職員が加わり、墓地清掃を行うためだ。今年は5月26日(土)に実施され、清掃後は、函館ハリストス正教会長司祭のニコライ神父による祈祷が行われた。

 函館出身の考古学者馬場脩(1892~1979年)は、『函館外人墓地』(図書裡会、1975年)の中で、ロシア人墓地に現存する43基3の墓碑について写真入りで紹介している。最も多くを占めているのは、ロシア海軍の水兵・士官・乗組員の墓で、1859年から1869年にかけて亡くなった人たちだ。最初の墓が建てられた1年ほど前にロシア領事館が函館に開設されている。領事館が国の予算(海軍もしくは外務省予算)で建てたのだろうか、同じようなサイズのカマボコ型の墓石が、墓地の真ん中の通路を挟み、入口の右手に横二列で整然と並ぶ。人目を引くのは、26歳の若さで亡くなった息子(アンドレイ・ポポフ海軍少尉候補生)の死を悼んだ母親が、息子と同僚の水兵のために巨大な自然石を運んで来て造ったと言われている墓だ4(【写真1右】)。

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写真1

 そして第二のグループは領事館関係者の墓で、入口から向かって左手上方に、横一列に3基並んでいる。函館山側のバス通りに最も近い場所にあるのが領事館付属聖堂の読経者として来函し、その後、開拓使立函館露学校のロシア語教師となったサルトフ5の墓で(【写真2】左)、その下に医師ヴェストリ6の墓(【写真2】中央)、さらにゴシケーヴィチ領事夫人エリザヴェータの墓(【写真2】右)へと続く領事夫人の墓だけが際立って新しいが、それもそのはずで、墓は1993年に建てられたものだ。。

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写真2

 故厨川勇神父の回想によると、1864年に夫人が病死すると、領事館の敷地内(現ハリストス正教会敷地内)に埋葬された。1907年、明治40年の函館大火で正教会の木造の聖堂は全焼してしまう。仮祈祷所はすぐに造られたが、聖堂再建の目途がたつのはロシアの婦人から多額の寄付が届いてからのことで、1914年からようやく焼け跡の整理が始まった。厨川少年は当時小学4年生、10歳になったということで、午前零時から始まる復活祭への参加を初めて許された。まさにその夜、聖堂の焼け跡で少年は白骨を発見したというのである7。
 白骨だけでなく、旧聖堂の焼け跡の右側に当たる場所にレンガ様のもので築いたパン焼きかまどの中からは、婦人の革靴が出てきたため、大騒ぎとなった。聖堂の工事監督に当たっていた河村長補祭は、東京のニコライ堂に打電したが、セルギー府主教からは「丁重に埋葬せよ」との返電があっただけで、何人の白骨であったかは発表されなかった8。
 当時、白骨の主は領事の「令嬢」と考えられた。というのも、明治20-30年頃古い信者の間には、初代領事ゴシケーヴィチが在任中令嬢を失い、その葬儀当日は町内の呉服屋から黒布を買占めて、聖堂の外部をそれで覆い、式後貧者に配布したという伝説めいた話が伝わっていたからだ9。この他、大火で焼失する前の聖堂の右側には、金色の地に黒で描いた主の磔の高さ三メートルにも及ぶ大十字架が置かれてあり、これが令嬢の記念碑だと言われていた。白骨の発見された箇所はこの十字架の直下に当たる10、と馬場脩は断言するが、その一方で、「聖堂の床下に埋葬した」11、とも記している。どちらが正しいのか判断しかねるが、現段階では、旧聖堂の右側、つまり現在の信徒会館の東側12、で発見されたと考えられているようだ。
 さて、ロシア人墓地に改葬するために、白骨と遺品の納棺に立ち会った大工アレキセイ、佐藤正兵衛は、婦人靴が大人物であったと馬場に語っていた13。従来の令嬢説に多大な疑問が投げかけられることになるが、その疑問が解かれるのは半世紀以上も先のことだ。
 1969年5月に市立函館博物館で開催された展示会に来場したバンドウーラ在札幌ソ連総領事に馬場はこの疑問点を質す。すると総領事は一時帰国中に本国ソ連で調査し、ゴシケーヴィチ領事とエリザヴェータ夫人の間には子供がなかったことが明らかにされた14。これを以て、白骨の主は「夫人」のものとされた。
 しかし、ロシア人墓地の改葬場所は相変わらず不明のままだった。厨川神父は、改葬の事情を見ていたのは、当時中学4年生か5年生で、聖堂にしょっちゅうあそびに来ていた馬場脩だった15、と語るが、その馬場ですら、1975年に出版された『函館外人墓地』の中では、移葬に立ち会った人たちは既に物故しており、「その箇所は今日も依然として不明の状態にある」16、と記している。
 領事夫人の改葬場所が特定するのは、1989年のことだ。札幌のロシア人信徒ニコライ・シャルフェフ(1916.10.28~1989.4.13)17が亡くなると、札幌には正教会専用墓地がないため、函館のロシア人墓地に土葬することになり、墓地を二メートル足らず掘ったところ、上手の土の中から白骨が出てきたのである。こうして1993年5月、改葬から80年目にして墓碑聖成式が行われたのだった18【写真3】。

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写真3 在函館ロシア帝国領事ゴシケーヴィチ夫人 エリザヴェータ・ステパノヴナ 1864年9月3日没 享年43

 ロシア人墓地に埋葬されている第三のグループとも言うべきは、20世紀に入り、ロシア革命や国内戦争の混乱の中で日本に避難・亡命し、函館で生涯を終えた人たちだ。1934年から1944年にかけて亡くなった7人の墓は、墓地のほぼ中央部にある。カマボコ型の墓石が多いが、八端十字架の立つ墓もある(註36参照)。
 土葬に最低必要な区割り面積がおよそ「半坪」だったのだろうか、これ以下のものはない。例外的に広い区割りは、毛皮商として成功し、1934年に亡くなったドミートリ・シュウエツの「5坪」で19、ここには個人のレリーフが付いた墓所が建つ(【写真1】左)。
 
 なお、日本人男性と結婚した亡命ロシア人女性は、夫と同じく「ハリストス正教会墓地」に眠っている【写真4】20。

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写真4 山側から見たハリストス正教会墓地

 このほかに、ロシア人墓地に埋葬されたが、墓碑のないロシア人もいる。なぜ墓碑が残っていないのか。一つの可能性は、立てられた木柱が朽ち果てたことだ。馬場脩は、大正4(1915)年10月6日に函館港で死亡(心臓麻痺)した露国義勇艦隊インディギルカ号船長タフイフスキー21の名前を挙げ、墓跡が見つからないのは、木の墓標が朽ち果てたためと推測している22。同じようなことはプロテスタント墓地でもあったようで、北海道新聞函館支社の貝澤記者(当時)は、5-6年前にプロテスタント墓地に埋葬されたインド船のセーラーを葬ったという一番新しい木の墓標はすでに朽ち果てて、文字さえ判読できなかった、と記事に記している23。
 それ以外にも、厨川神父が語るように、当時の子供たちの悪ふざけで木柱が抜かれた可能性も否定できない24。
 ロシア人墓地に埋葬されたものの、墓碑が残っていない人たちに光を当てたのは、当会会員だった故菅原繁昭の論考「失われた墓碑銘―函館のロシア人墓地」(当会会報27号、2004年)だ。参考にしたのは、「連合国人墓地調」25である。そこに列挙されている名前から、現在は墓碑のない12名をピックアップし、氏名、死亡年月日を表にまとめた。このうち4名については、『函館新聞』(以下、『函新』とする)と『函館毎日新聞』(以下、『函毎』とする)に報じられた記事から死因などの周辺状況を補足している。
 
 このたび筆者が函館のロシア人墓地を取り上げるのは、昨年度の当研究会の総会で、「ロシア人墓地」に埋葬されている人たちの氏名や死因、死亡に至った状況などをまとめることを活動の一つとして提案したからある。いずれは当会ホームページ上で情報を発信してゆきたい。というのも、近年のロシアはインターネット環境が整い、多種多様な情報をネットで検索ができるためだ。長年音信不通となっていた学生時代の旧友を検索サイトで探り当て、数十年ぶりに連絡を取り合うようになったとか、何気なく自分の苗字を「検索」してみたら、一族が作成するサイトに行きついた、などという話も耳にする。数世代前の親族が函館で亡くなったらしい、といった程度の曖昧な情報しか持たない人たちに、何らかの情報が届けば幸いである。
 また、諸事情により墓参に来ることができない人たちには、函館の正教会や函館市によって墓地は美しく保たれており、年に1度、札幌のロシア領事館や函館在住ロシア人が墓地清掃を行い、遠い異国の地で亡くなった同胞を偲んでいると伝えたい。
 だが、第二次世界大戦中は、外国人墓地は荒れ放題で、戦争直後は特定宗教禁止などで、函館市も手を入れかねていた。これが1956年以降、ロシア人墓地に近い船見中学校の生徒会が校外活動として毎週当番制で清掃し、特に彼岸(春)とお盆(秋)には、全員で清掃するようになったのである26。
 1959年7月3日、フェドレンコ駐日ソ連大使が船見中学校を訪問し、大使から生徒に感謝の印にソ連の切手アルバムが贈られた。校長室には、大使が色紙にしたためた『飲水思源』が飾られた27。

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写真5(28) 校長室でのフェドレンコ大使(右)

 ところでこの頃の墓地は、花壇の木柵様の囲いしかなく、自由に出入りができた。ロシア人墓地は墓石がベースにちょうどいいとばかりに、そこで野球をする人たちもいた29。現代の感覚では不謹慎な行為だが、何事にも大らかな時代だったと言えよう。
 だが、14学級、全校生徒712人だった船見中学校も30、市の東部や北部に人口が移動し、1977年4月には船見中学校と愛宕中学校が統合し西中学校が開校した31。船見中学校の当時の校長の発案で始まった外国人墓地清掃は、西中学校には引き継がれなかったようである。折しも、函館市による外国人墓地周辺の整備や定期清掃が始まった。各墓地には鉄製の柵がめぐらされ、門扉に施錠されるという現在の姿が出来上がっていく。
 こうしたロシア人墓地と函館の人たちとの関わりも掘り起こし、ロシア人墓地に眠る人たちの情報と併せて発信してゆきたい。ゆくゆくはロシア語に翻訳する必要があろうが、本稿ではその手始めとして、これまであまり注目されてこなかった墓碑のないロシア人について表にまとめた。基本資料は正教会のメトリカの「死亡」欄で、そこには「永寝月日」「埋葬月日」「生前ノ属籍、身分、姓名」「性別」「年齢」「病症」「葬儀執行者ノ姓名」「埋葬地」が記載されている32。西暦換算を間違えたのだろうか、「連合国人墓地調」とメトリカで没年が1年ずれているものがあるが[表No.8、9、11]、本稿ではメトリカに則った。
 地元紙は、『函新』、『函毎』、『函館日日新聞』(以下、『函日』とする)の三紙に当たった。メトリカと地元紙から、12名の他にも墓碑がない埋葬者が少なくとも8名ほどいたことが判明した(表のNo.の前に※印を付けた)。

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 この20名の情報から、当時の函館とロシア(ソ連)の密接な関係が浮かび上がってくる。この時代の函館の街の空気も感じ取れる。
 最も多い死因は病死(13件・65%)だった。肺炎、感冒、結核、胃癌と、感染症で亡くなる人が多かった。市内の病院に入院し、院内で亡くなった人もいた[No.1、8、13、※15、18]。病死者の中には乳幼児もおり[No.※1433、※15、※20]、函館に暮らす亡命者とおぼしきロシア人女性の幼子も含まれている[No.※16]。
 事故死(3件・15%)では、海に転落・溺死、船上での転落死、上陸後の殺傷沙汰と様々だが、アルコール(ウオッカの類)による泥酔が事故の直接の引き金となっていた[No.3、6、12]。
 埋葬された時期が10月中旬以降、11月に多いのは、この時期カムチャツカ方面の漁場からの切り揚げ船が、漁獲物や生産物を函館で陸揚げするためだ。
 当時の様子について、函館出身の亀井勝一郎(1907~1966年)は、次のように回想している。1917年のロシア革命前の函館は、「とくに義勇艦隊と云って、北洋やアメリカ廻りのロシア商船が四五隻も入港することがあったが、その時の街の祭日気分はいまでも忘れることができない。青や黄の煙突を持つ当時の巨船が、港を圧して入港する有様、髭の濃い水夫達や漁夫達(彼らの或るものは妻子をひきつれていた)が直ちにボートをおろして、桟橋に向かって歓呼しながらやってくる情景は、何か恐ろしく然も楽しいものであった」34。
 1913年11月14日付『函新』は、函館税関では、漁期になると数千人のロシア人が往来するため、商船学校嘱託の露語教師浪江良平を講師に招き、税関職員に対して翌年3月までの4か月間、毎日午前11時から1時間、露語講習会を開くことになった、と報じている。
 街で買物をするロシア人が大勢いたため、「函館の商店の看板には日本文字とともに大抵ロシア文字でかかれ、店員は片言まじりにロシア語を話した」35。ロシア人によるロシア語の個人レッスンの広告(『函新』1913.12/12)や、ハリストス正教会でロシア語の夜学を開催することになり、申込者は30名以上に及んだことを伝える記事もあり(『函毎』1916.12/6)、学習層が広範に及んでいたことがよくわかる。
 ところで、ロシア人墓地への埋葬は「土葬」だった。これは、正教会が土葬を基本としているからで、教会の司祭によって葬儀や埋葬が執り行われた。自殺者で、雇用主のリューリ商会に遺体が引渡され火葬36に附された人もいた[No.※7]。正教会では、自殺者は自分の意志で神に背いたと見なし、原則として自殺者のためには奉神礼(祈祷)を行わない37。この他にも自殺者が1名いたが[No.※10]、メトリカに記載がないため、墓地に埋葬されたのかどうかは不明である。
 船内で病死(肺結核)した女性の遺体を船で引取り、塩漬けにしてウラジオストクに赴く予定であったと報じる記事もある[No.4]。メトリカから同人が墓地に埋葬されたことを確認できるが、腐敗処理された遺体が船でロシアに送られるケースもあったのだろうか。
 埋葬されたロシア人の出身地は大いに気になるところだ。オホーツク出身らしき者[No.18]、中国との国境に近い沿海州のイマン(現ダリネレーチェンスク) [No.11] といったロシア極東の出身者もいれば、カスピ海沿岸のアストラハン[No.4]やウラル山脈の西方のヴャトカ(現キーロフ)[No.12]のように、遠方の出身者もいた。朝鮮系ロシア人漁夫もいた[No.2]。
 
 埋葬された人たちの特徴が明らかになったところで、墓碑が残っていない理由を筆者なりに考えてみると、まず、その多くが、カムチャツカの漁場での季節労働を終え、ウラジオストクに戻る途中函館に寄港したロシア人だった。家族を伴ってきた人もいたが、大半は単身での出稼ぎ者だ。葬儀や埋葬は遺族が関わるのではなく、基本的には雇用者(リューリ商会やデンビー商会)が、場合によっては領事館が引き受けたと考えられる。木の十字架は立てられたが、恒久的な墓(墓石)を建てるには時間も費用もかかる。雇用者はそこまでは行わなかったのだろう。
 埋葬時期は、切り揚げ船が函館に入港する晩秋から初秋に多かった。木柱は海からの潮風を受け、冬には雪に埋もれ、10年も経てば朽ち果ててしまった。時には、嵐や強風によってどこかに飛ばされたり、自由に立ち入れた墓地にはいたずら少年が入り、木の十字架を引っこ抜いて行ったかもしれない。いずれにせよ、墓を見守る遺族や近親者が近くにいないため、それに気付く者もなく、やがて人々の記憶から消えていったのではなかろうか。
 彼らの埋葬場所の特定は、領事夫人の埋葬場所を「領事館関係者の墓の近くが選ばれたに違いない」38、と厨川神父が推理したようにはいかないだろうが、いずれ明らかにされるものと期待したい。

 当時の新聞の死亡記事の見出しには、「露助」、「露スキー」、「露人」が見られる。春と秋に大挙して押し寄せるロシア人への受け止め方は、年齢や関わり方によって様々だったことだろう。「一旦酔ってしまうと彼らは何をやるかわからない」、と亀井勝一郎が回想するように、彼らの行動は函館の人々を驚かせ、些細なことから起こる衝突は、頻繁にあったに違いない。だが、「露助」という表現が他の表現に比べ、特段侮蔑的に使われていたとも言い難い。
 「子供ごころにも、ロシア人といふ人種をつぶさに眺め観察する機会に恵まれた」と自負する亀井勝一郎が、「いつも楽しく心に想ひ出す」情景は、革命前に目にした「親しみ深く愛すべきロシア人。凡ゆる間断を破って握手しうるロシア人。野放しで粗暴ではあるが、深い泉からこみあげてくるような笑をもつロシア人」39であったことを最後に触れておく。


1 国有地(未開地)だった外国人墓地の土地が、市に無償で移管(付与)されたのは、昭和10(1935)年のこと(『自昭和10年4月至昭和11年3月 函館市議会議決書(昭和11年度各市予算ハ除ク)』函館市役所、36-37頁)。事前に拓殖省から函館市長に対し、「一応現在の管理者に異存の有無や希望条件等があれば調査するよう」文書が届き、グリーキ チャーチ墓地管理者のハリストス正教会は長司祭白岩徳太郎名で、「これまで通り無償で貸付されるものであると受け止め、移管に異存はない」、と市長に回答している(「外国人墓地処理ニ関スル件」『墓地関係書類』函館正教会、函館市中央図書館蔵)。この『墓地関係書類』には、「市立函館図書館」の便箋に墓地関連の様々な文書を手書きで写したものが収められており、小さく「1986.4 整理」の記載がある。「市立函館図書館」は2005年に「函館市中央図書館」に名称変更。
2 2009年にポーランド大使館員、ポーランド人と日本人の研究者が函館を調査に訪れた。埋葬者の名前からポーランド人か否かを判断し、函館の「ロシア人墓地」にはポーランド人の可能性の高い墓が4基あると結論付けた。ポーランド政府の事業として日本全国で実施された調査の結果は、エヴァ・パワシュ=ルトコフスカヤ(代表)・稲葉千晴編集『日本におけるポーランド人墓碑の探索』(ポーランド文化・民族遺産省文化遺産局、ワルシャワ、2010年)にまとめられた。
3 「43基」の中には、明治8-9年にロシア人墓地に埋葬された日本人信徒8人の墓(うち2基は墓碑が判明できない)を含む(『函館外人墓地』125-128頁)。
4 『函館外人墓地』87頁。
5 1974年9月には、サルトフ死後百年を記念する記憶祭(パニヒーダ)がロシア人墓地で行われた(『北海道新聞』1974年9月9日)。
6 註2の調査結果により、ポーランド人と結論付けられた一人。
7 厨川勇「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」『地域史研究はこだて』20号(1994年)、100-108頁。
8 馬場脩「ガンガン寺」『函館異人談』豆本海峡1、棒二森屋発行、1974年、54頁。
9 「ガンガン寺」55頁。厨川神父も「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」で、同様のエピソードを語っている。
10 同上。
11 馬場脩「函館外人墓地 外人実業家四天王の末路と秘密結社・解剖」『はこだて』(市立函館博物館館長石川政治編)第1巻第2号、1975年、61頁。
12 『函館ハリストス正教会史 亜使徒日本の大主教聖ニコライ渡来150年記念』函館ハリストス正教会、2010年、30頁。
13 「ガンガン寺」56頁。
14 同上、56-57頁。エリザヴェータ夫人はゴシケーヴィチとは再婚で、前夫(陸軍少佐)との間には息子(ウラジーミル)が一人おり、函館に連れて来た。1865年に領事が離任する際、この息子もサンクトペテルブルグに戻った。
15 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」106頁。
16 『函館外人墓地』79頁。
17 現時点で、函館のロシア人墓地で最も新しい埋葬者。同人の墓石には、1919年10月28日に亡くなった妻の母アリアドナ・パヴロワ・シャルフェワの銘もある。横に並ぶ八端十字架の立つ墓には、ニコライの息子と思われるアンドレイ・ニコラエヴィチ・シャルフェフ(1952.3.31~1980.2.6)の名が刻まれている。
18 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」108頁。
19 「連合国人墓地調」『墓地関係書類』所収。函館正教会が、昭和24(1949)年3月28日付で大蔵省管理局長の照会に対して調査・回答したもの。
20 明治3(1870)年にロシア人墓地(グリーキ チャーチ墓地)が墓地として許可され、主として外国人の信徒を埋葬することになり、明治8(1875)年にハリストス正教会墓地が主として邦人信徒(日本人信徒)を埋葬することになった(明治8年9月18日「外国人墓地貸渡証書」『墓地関係書類』所収)。「外国人」の中心はロシア人だが、1861年に埋葬された元捕鯨船水夫でサンドイッチ諸島(現ハワイ諸島)出身のカトリック信徒の墓が1基ある。氏名は不詳(『函館外人墓地』102頁)。
21 ただし当時の新聞記事から、船長の名前は「ポタフィフスキー」、死亡年は大正14年(1925)が正しいと思われる(表のNo.※17参照)。
22 『函館外人墓地』79頁。
23 「百年のふるさと㉕ 函館外人墓地」『北海道新聞』1962年8月15日(夕刊)。
24 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」106頁。
25 『墓地関係書類』所収。
26 元木省吾『函館郷土史話』函館郷土史研究会、1965年、113頁。
27 フェドレンコ大使に続き、1961年9月10日には駐日米国大使ライシャワーも訪れ、船見中学校生徒の墓地清掃に謝意が表された(『船見通信』第19号(1961年12月23日))。筆者はこれらのエピソードを船見中学校の卒業生で、はこだて外国人居留地研究会会長清水憲朔氏の談。
28 函館市立船見中学校生徒会編集委員会編『ふなみ』1960年3月。
29 当研究会世話人で元中学校教諭の中嶋肇氏の談。
30 創立十周年記念函館市立船見中学校『学校要覧 昭和32年10月』。
31 統合された西中学校も少子化により2018年3月に閉校された。
32 メトリカは個人の情報であり、取り扱いには十分な注意が必要で、本稿では、研究目的を越えた使用にならぬよう配慮した。当研究会に対して、戦前のメトリカのコピーを提供してくださった松平神父(故人)には感謝申し上げたい。
33 白軍兵55名とその家族を載せた「シーシャン号」がカムチャツカからウラジオストクに引揚げる途中、露国義勇艦隊「トムスク号」が暴風激浪をついて函館港外に現れたのは1922年11月8日のことで、子供が14人乗船していた。上陸許可がおりず、暖房装置のない不潔な船倉で寝起きしていたため病人が続出した。特に子供たちは防寒寝具の不足から、ほとんどが風邪に侵された。上海に向かう目途が立ち、傭船した「第二錦旗丸」で函館を出航するのは1922年12月13日のこと(倉田有佳「函館における露国艦船 1922年秋」『異郷に生きるII』成文社、2003年、187-199頁)。
34 「白系ロシア人」『亀井勝一郎全集』第13巻(講談社、1971年、27-30頁)所収。初出は1938年11月『月刊ロシア』(同上、555頁)。
35 同上、27頁。
36 他にもロシア人墓地には、商用で向かった先の上海で1939年8月に急死したバトゥーリンのように、同地で火葬された後、函館で埋葬された人もいる(『函館外人墓地』122頁)。バトゥーリンの妻アンナは、アルフレッド・デンビーの妻マリアの妹で、前夫はイワン・デンビー(岡田一彦「描かれたデンビー一族 ―幻の北洋の覇者―」『市立函館博物館紀要』第3号(1993年)、25頁)。
37 日本ハリストス正教会ホームページ[http://www.orthodoxjapan.jp/]
38 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」108頁。
39 「白系ロシア人」27-28頁。 

「会報」No.39 2018.6.30  会員報告

在札幌ロシア連邦総領事館主催の展示会を見学して

2019年3月18日 Posted in 会報

駒井惇助

 平成29年8月、函館市地域交流まちづくりセンターで開催された掲題の展示会を見学した際、展示中の数枚の写真パネルを特別な感じをもって見入りました。その写真は、昭和38年(1963)夏、日ソ間で締結した「貝殻島(かいがらとう)昆布採取協定」の発効を記念して、当時の駐日ソ連大使ヴィノグラードフ氏と大日本水産会会長高碕達之助氏が根室を訪れた時の写真です。

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左:左端が高崎氏、一人置いて写真中央がヴィノグラードフ大使
右:貝殻島で採取した昆布を見分しているところ。写真中央大使の右が高崎氏、一人置いて左側が川端氏

 その写真には、私の旧知である当時の根室市長西村久雄氏(故人)と根室漁業協同組合長川端元治氏(故人)も写っており、とても感慨深い思いで拝見しました。  
  ここで、「貝殻島昆布採取協定」について説明いたします。根室市の最東端にある納沙布(のさっぷ)岬から、わずか3.7㎞のところにある北方領土の貝殻島は、燈台が一つあるだけの小さな無人島ですが、戦前から納沙布岬付近の漁民の重要な昆布漁場になっていたところです。しかし、北方領土の島々が第二次世界大戦終結後、ソ連に占領されてからは、ソ連の監視船にかくれて貝殻島周辺の海に出かけ、昆布を採り、ソ連側に見つかって家族の目の前で拿捕されるという光景が幾度も繰り返されました。
 そこで、このような悲劇を防ぐため、昭和38年(1963)6月、大日本水産会の高碕達之助会長などの努力により、漁民が夢にまでみた昆布漁の安全操業がこの協定でやっと実現したのです。これは、大日本水産会とソ連国民経済会議付属漁業国家委員会との間に結ばれた貝殻島付近のコンブ゙漁の安全操業についての民間協定ですが、この協定に基づき、昭和51年(1976)まで、昆布操業は無事に続けられ地域の漁民の生活上の大きな支えとなっていました。
 ところが、昭和52年(1977)からの協定継続交渉にあたって、ソ連側から領土問題の基本にかかる条件を提示され、交渉は成立しないまま中断されてきました。北海道水産会は、沿岸漁民の生活を守るため協定の再開について努力を続けた結果、ようやく昭和56年(1981)9月、5年ぶりに再開されました。
 このように、北方海域の内、部分的ながら漁業の安全操業の願いは実現していますが、漁民達は、もっと広い海域での安全操業を望んでいます。
 「貝殻島昆布採取協定」は現在、ロシア連邦漁業庁と北海道水産会との間で締結されて、毎年継続して昆布採取操業が行われており、まさに日本漁民のための日ロ友好のあかしと言えます。
 なお、納沙布岬には、協定成立に尽力された高碕達之助氏*の功績を讃える立派な顕彰碑が建立されています。

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*高碕達之助(1885~1964)
 東洋製罐創立者
 満洲重工業開発株式会社初代副総裁(後に総裁)
 岸信介内閣 通産大臣
 昆布採取協定締結時は衆議院議員

 参考までに、2017年の根室沖合・貝殻島区域の昆布漁業の操業条件は、以下のとおりです。
(1)操業隻数:240隻(前年241隻)
(2)操業期間:6月1日~9月30日(前年同様)
(3)採取量:褐藻類3,892トン(前年3,862トン)
(4)採取権料:90,582千円(前年90,268千円)
(5)機材供与:3,500千円(前年同様)

 (択捉島水産会代表管理役) 

「会報」No.39 2018.6.30  特別寄稿

在札幌ロシア連邦総領事館開設50周年記念写真展の函館開催

2019年3月18日 Posted in 会報

倉田有佳

 本号に寄稿いただいた駒井氏から紹介がありましたように、2017年8月1日(火)から8月8日(火)まで、函館市地域交流まちづくりセンター1階で記念写真展が開催されました。これは、2017年が、在札幌ロシア連邦総領事館が開設されて50周年を迎えたことを記念するもので、ロシア連邦外務省提供による貴重な写真や公文書(コピー)によって函館、札幌、小樽の領事館の歴史や現在の交流が紹介されました。
 函館での展示開催には当会も協力し、初代領事ゴシケーヴィチ時代から現在までの函館関係の絵図や図版、説明文を加えたほか、展示作業を函館事務所長のソコロフ領事夫妻と一緒に行いました。
 また、開会日には、ソコロフ領事と当会倉田で、来場者に展示解説を行いました。

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左:展示作業、右:展示解説

「会報」No.39 2018.6.30  活動報告


母国ロシアへの郷愁(3) 1925年北サハリンから脱出したペトロフスキー家の軌跡――少年時代の思い出と第2次世界大戦で日本軍の捕虜になって――

2019年3月18日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子 構成・翻訳

はじめに

 ロシアの「10月革命」後、「シベリア出兵」を続けていた日本軍は、1920年の「尼港事件」後、この事件をめぐるソ連政府への賠償交渉等が妥結する1925年5月まで北サハリンの「保障占領」を行った。日本占領軍と親密な関係を保っていたペトロフスキー家は日本軍の撤退が迫った1925年2月に亜港を脱出した。『会報』No.37では1925年の日本軍砕氷船による脱出そのものと小樽到着時の新聞記事、また脱出にいたる10月革命後の状況と日本軍占領期間中のアレクサンドロフスクとペトロフスキー家をめぐる事件等を紹介した。次の『会報』No.38ではフィリップ・ペトロフスキーの流刑囚上がりという出自と大資産家・事業家として成功したキャリア、本稿の主人公コンスタンチンの誕生とフィリップに溺愛された彼の「幼年時代の思い出」を叙述した。本号では乗馬をこなし、荷車を引く馬を御するようになった少年コンスタンチンが愛おしい故郷の思い出として綴った情景と、北サハリン脱出後約20年を隔てた第2次世界大戦中の日本軍と対峙することになったコンスタンチンの体験を描く。残念ながらコンスタンチン11歳以降の一家のエミグラント生活10年の記録はブランクのままであるが、エピローグはコンスタンチンの長男ニコライ(ニック)とスメカーロフ氏の出会いである。

新しい石炭鉱区と夏の別荘

 1921年、僕が8歳になった時、ペトロフスキー家は新しい石炭鉱区の採炭を始めた。新しい事業はロシアの伝統に従って祈祷とささやかな祝宴を行ってから始められた。家から炭鉱までの舗装していない道路は狭く、いくつも丘を越えて続いていた。この道を荷車を曳いた馬で往復した。この地域にはあちこちに道路があって、いろいろな村へと通じていた。この辺りは一面に草木が密生していた。クマやその他森の動物たちがよく道路を横切って行くのを見ることが出来た。新しい鉱区は数か所あり、丘の傾斜地に露出していた。その傾斜地の間の峡谷に僕たちの夏の別荘があった。この別荘の周りには野イチゴ、キノコ類、野の花々があふれ、小川にはニジマス類がうようよ泳いでいた。僕は夏をこの場所で過ごすのが好きだった。夏の期間2か月は親戚の二人を除いて僕たち家族全員がこの夏の別荘で暮らした。子供たちはこの期間を思い切り楽しんだ。両親には既に5人の子供がいた。それに僕たちは両親の許しを得て自分の友達をここへ招くことが出来た。冬になると、この別荘の生活は全く閉ざされてしまうのだ。しかし、深い雪の中でも炭鉱の作業は続いていた。
 迷子になる恐れがあるばかりでなく、クマに出くわす危険があるから僕たちは一人で森へ行くのは用心して避けていた。幸い夏の間クマは大変穏やかだった。食べ物が十分あったからだ。野には木の実が、川には魚があふれていたのだ。たまたまクマが人間に出くわすことがあっても、クマは人間を襲わずにおとなしく立ち去ったのだ。何の心配もなかったとしても、新しい炭鉱の開所という大事な行事が行われた時は、子供たちは屋内に留めておかれた。
 ある時、僕は丘の上のコケモモの実が熟したのを取りに家を飛び出した。僕はこの野生の木の実が大好きだった。木から直接取って食べると特別美味しかった。お日さまは高く輝いていた。あたりはしんと静まり返って、静寂を破るのは木々のそよぎと小鳥の鳴き声だけだった。僕はコケモモを堪能して顔を上げると、僕の向かい側の灌木の根元にクマが後ろ足で座り込んで僕と同じように木の実をむしゃむしゃ食べているのが見えた。どうしたらいいのだろう? そっと立ち上がって家まで走って帰ろうか? もちろん、僕はクマに殺されたくないと思った。それにクマは血に飢えた残忍な獣ではないと何度も聞いたことがあった。僕は決心して、じっと座ったままクマはこれからどうするのだろうと注意して見ていた。やがてクマは食べるのを止めて、何かぶうぶう唸りながらゆっくりと灌木の裏を流れている小川の方へ歩き出した。灌木があったから僕の場所から川の方は良く見通せた。僕は自分の行動が正しかったことのご褒美として、クマが小川の中ほどにある岩に穏やかに腰かけているというもう一つ珍しい光景を見ることが出来た。そして突然クマはさっと手を伸ばして魚を捕まえ、そのままそれを飲み込んだのである。
(この続きには祖父から聞いた話として、大戦前、ある士官が仲間内の話から自分はクマと1対1で格闘して倒してやると宣言し、シャンパン1ケースを賭けて実際闘って瀕死の重傷を負い、クマは仲間が射殺したという事例が詳しく紹介されているが、割愛した。)
 1921年には僕は既に馬をしっかりあやつることが出来るようになり、馬車に馬を付けて夏だけでなく、冬にも採炭地への小型の馬車輸送を手伝うことが出来るようになっていた。採炭地で鉱夫たちがよく働いていたお陰で僕は冬期にも炭鉱を往き来していた。いつだったか1月末の神現祭期(キリストが洗礼を受け、神の子として現れた記念日)に、ペトロフスキー炭鉱にある森の別荘へお祝いに招く客たちをそり馬車で運ぶ役目を特別に僕にやらせてほしいと祖父に願い出た。祖父は最初ダメだと言ったが、祖父は僕には甘かったので、説得して許可してもらった。祖父はこの役にふさわしい一番従順な馬を選んでくれた。僕が馬丁の役をやることをお客たちに自慢できるし、皆も僕を羨ましがるはずだととても嬉しかった。僕は招いているお客さんたちを指示してそりに座ってもらい、皆をクマの毛皮でくるんだ。そして自分はそりの前に腰かけ(ここが普通御者の座る場所なのだ)、誇らしげに顔を上げて、お客さんたちを乗せてペトロフスキー炭鉱への道を進んで行った。目的地までの行程では何の事故も起こらなかった。馬は落ち着いて歩いてくれた。僕が通るまでに踏み固められた轍に添って馬を御して行ったのだ。神現祭を祝う別荘に到着すると、僕は馬を繋いで、どんな準備が出来ているかを見にお客の皆と台所へ行った。台所は非常に広くて、まず三つのかまどがあり、料理を作るのに使う場所が数か所ついていた。ハム、ガチョウ、カモの肉、ザクースカ(オードブル)用に薄くスライスしたサケの燻製があった。その他にザクースカ料理とメイン料理が数種類用意されていた。魚の煮凝り、温燻製の魚、チョウザメの茹で煮、サケ(赤い)のイクラとキャヴィア(黒いイクラ)の缶詰、このイクラの缶詰は氷が添えてあり、常に冷たく保たれている。いたるところにいろいろなピローグの美味しそうな匂いが漂っていた(ロシア料理には数多くのピローグの種類があるのだ―普通ピローグはイースト入りのパン生地に詰め物を容れてつくる。肉、魚、キャベツの酢漬けとゆで卵などなどである。甘いピローグにはいろいろなベリー類のジャムを容れる。
 このお祝いに招かれたお客には日本人の将校たちもいた。アルコール類の飲み物は彼らには非常に速く効くようだった。日本人たちが僕に一緒に飲もうと強く勧めた。僕はこのチャンスに乗じて、僕が好きなのは甘い飲み物だと言った。すると彼等は僕のためにポートワインを見つけてきた。そこで僕は生まれて初めてアルコール飲料を飲んでみたのだ。すると美味しかった。最初のグラスを空けるとまた注いでもらって、次々に飲んだのだった......
 祝宴は夜遅く終わった。ほとんどのお客さんはかなり酔っていたが、僕の祖父フィリップは酔わなかった。僕は父も足元がふらついているのに気付いた(しかし、僕の記憶では父が酔っていたのはこの時1回だけだった)。お客さんたちは10時ごろ帰っていった。道路の両側には深い雪が積もっていて、ダイヤモンドのようにキラキラ光っていた。空気は澄みわたってキンキンに冷え込んでいた。僕はよく覚えているが、僕達の教会の補祭と並んでそりに乗っての帰り道、僕は突然吐き出した。僕がお腹に詰め込んだものすべてをあっという間に補祭の聖衣に吐いてしまったのだ。僕は恐ろしく気分が悪かった。僕たちがどんな風に家へ帰りついたのか(補祭はどうしたのかもわからない)覚えていないが、ママが玄関の戸を開けたのは覚えている。そしてママが僕にアルコールを好きなだけ飲ませたと言ってパパに食ってかかっていたのも。パパは逆らうことすらせずに黙っていた。ママはそれから僕の周りをせわしなく動き回って世話をした。使用人たちもママに同情していた。しかし、僕には何の効果もなかった。僕はただ平安と安心だけをのぞんだ。騒がしさは耐えられなかった。
 翌日、僕はようやく昼食後に目を覚ました。健康状態はわずかに良くなっていたが、僕はひどく落ち込んでいた。家の中の空気は最低だった。そこで僕はアルコールとワインにはそれがどんなに美味しいものであろうと、僕が18歳になるまでは決して手を付けまいと自分の心に誓ったのであった。
(この後には美しい誇り高く気難しい競走馬に勝手に乗ろうとして、いろいろやってみる。ついには乗りこなせるようになったが、いい気になってどんどんスピードを上げ、ついには落馬した経験を詳述しているが、割愛した。

サハリンの夏、ルイコフスコエ村への家族旅行

 サハリンでは夏は素晴らしかった。同時に農繁期だった。重労働の農作業が終わると、若者たちは愉快に過ごしていた。ちょっとした宴会を準備して、踊ったり、歌ったりした。昼間の労働のように精一杯楽しむことに打ち込むのだ。そしてこの楽しい騒ぎはしばしば夜半に干し草の山で終わるのだった。そのことの後には多くの娘たちが妊娠することになった。僕は動物の場合、この行為がどのように行われるかを自然に観察していた。しかし、人類の見本の性生活に関する知識はこの年齢の僕にはまだなかった。どうやら僕にはまだこの時期が来ていないだと思った。実際、僕はいつもこの宴会には喜んで参加していたのだけれど。特に収穫期のこのお祭り騒ぎには街からも近郊の村々からも若者が大勢集まってきていた。この時は僕の大好きな馬の騎乗競争もあった。僕はロシアの民謡や伝統的なダンスを楽しみ、とにかくこの収穫祭のやり方そのものがとても好きだった。

 夏には僕たちの家族はほとんど毎年アレクサンドロフスクの街から40キロの距離にあるルイコフスコエ村の親戚のところへ出掛けた。その村には僕のママ、エレーナ・グリゴーリエヴナの両親サペーガ家の人たちが住んでいた。僕たちの家族全員がサペーガ家の人たち皆に会うのが待ちきれなかった。その当時は舗装していない40キロの道のりはなかなかきついものだった。ルイコフスコエ村へ到達するには馬に乗って1日中かかった。数台の荷車の隊列と共に美しい景色の峠を超えて進んだ。途中で馬車を止めて食事をした。そしてようやく日が暮れる頃、目的地に到着するのだ。
 もちろん、この旅行はぎっしりといろいろな出来事があって語りつくせない感じの充実したものだった。(自然の美しさ、タイガに居る珍しい動物との出会い等々。)僕にとっては時間は瞬く間に過ぎた感じだった。その上、ルイコフスコエでも僕たちをとても待ちあぐねていたのだ。この村では僕たちの訪問は一つの事件だった。村の人たち全員が(親戚の人たちだけでなく)僕たち家族を知っていたから、サペーガの屋敷の中庭に集まっており、そこには既にテーブルに多種多様な料理が用意されていた。飲んで、食べて、乾杯の言葉が述べられ、ダンスが始まり、実際、朝まで続いたのだ。明け方になって大人たちは寝室へと引き上げて行った。僕たち子供は長い旅行の後だったので、新鮮な空気の中でそれまでに既にちゃんと眠っていたのだった。
 村の生活は街の生活とは違っていた。村人たちは街の人間より早く起きて、農作業を終えるのは陽が沈んでからかなり過ぎてからであった。何人かは家畜の世話をしており、その他の人たちは畑で働いていた。僕は祖父と一緒に畑へ行くのが面白かった。僕は家の馬たちのためにエンバクを集めるのを手伝ったりもした。また、牧草刈りの大鎌の使い方を教えてもらうのも楽しかった。村の近くをゆったり流れている大きな川には魚がたくさんいた。夕方か朝早く僕は祖父とよく魚釣りをした。
 村の女の子たちは僕たち街の子に興味を持っていた。それで、僕たちは村の女の子のグループとよく遊んだ。男の子たちは面白くない様子で、僕たち街の子をしょっちゅうからかった。彼らは既にできている自分たち同士の関係に割り込まれたことが面白くなかったのだ。

アレクサンドルフスクの日本軍兵士たち

 日本は(北)サハリンに1個師団全体を駐屯させていた。アレクサンドロフスクには重砲兵隊と空軍が配備されていた。僕は生まれて初めて何台もの自動車と飛行機を見た。日本軍がやって来るまで島には自動車はたった1台だけだった。(シドニーでニックに会った時の話で、たった1台の自動車とはペトロフスキー家所有の「フォード」だったことが分かった。―G.S.)日本軍兵士は子供たちに対して優しかった。彼らは通りで子供たちにキャンデーや甘いお菓子を配ったり、銃剣や装填していないピストルなどで遊ばせてくれた。僕はかなり頻繁に兵舎へ出掛けて行った。いくつかの日本語の単語を覚えて、兵士たちと馴染みになって、遊んでもらった。上級士官たちは客好きの僕たちの大きな家を喜んで度々訪ねてきていた。この頃、街から12ヴェルスタの僕の家の炭鉱(スメカーロフ氏によると、実際は6ヴェルスタ=約6.5キロ)が再開したが、この炭鉱の良質の石炭を日本軍は喜んで買ってくれた。
 コンスタンチンは子供のころサハリンで観察し、親しんだ日本軍兵士たちと、既にその10年後、1930年代の中国で起こっていた彼らによる犯罪で見た日本軍兵士たちとの差異、その変貌ぶりに驚き、自分の子供たちに日本軍兵士たちについて生涯の終わりまでどうしてもうまく説明できなかった。ペトロフスキーは上海で暮らしていた時、同じ日本帝国軍の軍人たちによって行われた地元住民の大量虐殺の目撃者となっていたからだ。このような恐ろしい事件はハルビンでも、南京でも、その他日本軍が攻略したアジアの国々で繰り返されていたのである。
 
20年後、日本軍の捕虜となって

 コンスタンチンが誕生した時の状況そのものが彼の将来の職業を決めてしまった公算が大きい。幼児期からコンスタンチンは医術に興味を持っていた。祖父と父親には隠れて好んで医学の本を眺めたり、日本軍の診療所へ出掛けて行って医療器具を観察したりしていた。......その後何の巡り合わせか、ペトロフスキー一家はエミグラントとなり、一時中国・上海で暮らしていた時、うまくチャンスを見計らって家族に医者になりたいという自分の希望を宣言したのである。その当時アジアで最も権威ある教育機関は、英国領香港にある大学だった。しかし、この大学に入るには完璧に英語をマスターしていなければならなかった。家族はコンスタンチンの希望を承認した。明確な目的意識を持っていることと真剣さにおいて彼は祖父のフィリップに似ていたのだ。家族はただでさえ乏しい収入の中から青年を語学習得のためにイギリスへ留学させる経費を工面した。数か月後彼は香港大学の入学試験に合格できるだけの英語をマスターして帰ってきた。

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1938年に取得したコンスタンチンの医師免状

 1941年6月、ファシスト・ドイツがソヴィエト連邦攻撃を開始した時、コンスタンチンはサムライたち(日本軍人)が攻略した領土で行った暴虐の実例からファシストたちのやり方を知っていた。1938年、医師の資格を取得していたコンスタンチンはソヴィエト軍前線への従軍を志願した。英国連合軍で彼の志願について協議が行われ、基本的な準備が進められている間にも、日本軍の進撃は既に個々人の家の壁際までにじり寄ってきていた。1941年12月、イギリス軍王立軍医団所属のK.K.ペトロフスキー大佐は香港の防衛についていた。〈英国常備軍部隊とカナダ国民義勇軍の激烈な防衛戦の後、12月25日、香港は陥落した。その後続いた混乱の中で「南京強姦」を思い出させるように、勝ち驕った軍人たちを抑えがたい「人殺し」の欲望が捉えたのである。聖ステファン・カレッジ病院になだれ込んだ日本の軍人は、連続的にすべての負傷者を銃剣で切り殺した。止めに入った医師と看護婦にも同じ運命が待っていた。この大虐殺の後、軍人たちはすべての家具を打ち壊して、それを使って火葬用の焚火を起こし、そこへ死人を投げ入れた。恐怖で気が狂ったようになった看護婦たちを一つの部屋へ追いやって、そこに2日間閉じ込め、その間日本の軍人たちは絶え間なく彼女らを強姦したのである。〉(『第2次世界大戦百科事典。東洋における戦争、1941.6.~1942.5.』モスクワ、2007.p.119、スメカーロフ氏はニックが話した父親・コンスタンチンの体験談を聞いたことから本事典の相当する部分を引用している。)
 いつものようにペトロフスキーは運が良かった。彼は外科の手術中だったが、その時、銃声と日本語の罵声に続いて叫び声やうめき声が聞こえてきた。彼はまず頭に浮かんだことをやった。手術台の下に隠れたのだ。日本兵が病院から引き揚げていった後、彼の呼びかけに応答する者は誰も居なかった。周囲にはただ無数の死体だけが残っていた。
 コンスタンチンは香港からシンガポールに転戦した英国軍にいた。
 13万の兵士から成る英国軍は、結局のところ、予期せぬマレー半島北部から侵攻した数の少ない日本軍によって「東洋のジブラルタル」(シンガポールを英国人はそう呼んでいた。―G.S.)で包囲され、司令官パーシバル中将の命令で1942年2月15日、日本陸軍山下中将に無条件降伏し、日本軍の捕虜となった。この捕虜の中にペトロフスキー大佐も入っていた。そして有名な「タイメン鉄道」建設の死の部隊を体験したのである。
 〈日本軍はシャム(現:タイ)からビルマ(現:ミャンマー)への鉄道建設を決定した。征服したばかりの帝国の各地を結ぶためである。これはほとんど遂行不可能な計画だった。なぜなら、鉄道は熱帯雨林や高山、激流する河川を突っ切って建設しなければならないからだった。しかし、強制労働部隊として連合国の戦時捕虜が使われることになったのだ。蔑まれ、半殺しにされながら、飢えた病人状態の捕虜たちは収容所から次の収容所へと建設場所を移動させられながら、囚人的労働を遂行していった。感嘆すべきことだが、捕虜たちは恐ろしい犠牲を払ったが、この鉄道建設を完遂したのである。建設事業の期間中に連合国捕虜16,000名が死亡し、同様にこの建設作業に強制的に動員された沿線の土地から土地で駆り出された住民6万人も犠牲になった。かつての誇り高いシンガポール帝国陸軍の殲滅は、第2次世界大戦の最も嫌悪すべき犯罪のひとつとなったのである。〉(『第2次世界大戦百科事典―東洋における戦争、1941.6.~1942.5.』、モスクワ、2007、pp.121~122、前段同様引用はスメカーロフ氏による。)

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左:1942年2月、日本軍の捕虜になったK.ペトロフスキー大佐
右:日本軍捕虜になったイギリス軍将校たち、1943年のクリスマスと推測される

 父親の捕虜生活を語ったニコライ・ペトロフスキーの話を聞いて私(スメカーロフ氏)が思ったのは、もしコンスタンチン・ペトロフスキーのような自己犠牲的な医師がいなかったならば、連合国戦時捕虜の犠牲者は更に増えたのではないかということだった。
 運命はペトロフスキーに試練を与え続けた。ビルマの囚人的労働が軍医の運命に降りかかった苦難の最後の連鎖ではなかったのだ。イギリス軍がその後ビルマに侵攻したため、日本軍は残りの捕虜をだるま船(幅広の平底の荷船)のロックした船倉に入れて日本へ移送していた。イギリス艦隊は敵船の摘発を行い、手あたり次第撃沈したのである。実に多くの捕虜が船倉に閉じ込められたまま、自国・イギリス海軍の攻撃によって命を落としたのであった。ところが、ペトロフスキーたち捕虜を運んでいた平底船の船長は、人道的な人間であることが分かった。捕虜を詰め込んだ船が海の底へ沈んでいったとき、船長は船倉のふたを開けることを命令し、捕虜たちを外へ出したのである。コンスタンチンはこの日本人船長のことを再々思い出す。そしてどの民族にも立派な人間がいることを皆に説明するのだ。捕虜たちは近づいてきた日本船の甲板に乗り移ることが出来た。そしてペトロフスキー大佐は終戦を広島市郊外の戦時捕虜収容所で迎えたのである。
 1951年、ペトロフスキーの家族は日本、中国、オーストラリアのうち、どの国へ移住するかの選択を迫られていた。コンスタンチンは結局オーストラリア・タスマニア島のクリニック主任になることに同意した。家族皆もこの島が愛する故郷サハリン島にたいへん似ていることから移住を決断したのだった。

エピローグ

 ペトロフスキー一家の長年にわたる諸国放浪の生活は彼らの生活様式にも反映されざるをえなかった。また、近親者のお墓もサハリン、日本、中国からドイツまで世界の各地に散在することになった。しかし、一家の各々が自分たちが経てきた不幸を「それが人生さ」とフランス人が言うように人のせいにすることはなかった。上述のように1951年、コンスタンチン・ペトロフスキーは両親、妹たちと共にオーストラリアのタスマニア島のランセストン市に定住し、市の病院の医師となった。タスマニアの自然、気候、そして歴史もペトロフスキーには彼らの故郷サハリンを思い出させた。この島で家族には新しい世代が誕生する。そして彼らはサハリンを両親の話によってのみ知ることになるのだ。コンスタンチンと彼の妻キャサリンの間には3人の娘と一人の男の子が生まれている。1959年生まれのこの男の子、ニコライ(ニック)・ペトロフスキーはやはり医学の道へ進み、フリンダ―大学教授で内分泌学の専門家となり、免疫不全、糖尿病、内分泌問題の治療ワクチンの開発に成功し、国際的に活躍する専門家となっている。
 そしてスメカーロフ氏の探索によって2013年10月、スメカーロフ氏とニック・ペトロフスキー氏との邂逅が実現したのであった。ペトロフスキー一家がアレクサンドロフスクを脱出してから88年の歳月が経過していたが、それ以前の約30年を含めてペトロフスキー家と北サハリンをめぐる歴史が語られ、記憶されたことは意義深いことである。

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スメカーロフ氏とニコライ(ニック)・ペトロフスキー氏との邂逅、2013年10月、シドニーにて

「会報」No.39 2018.6.30  特別寄稿

シベリアのヴォストチヌイ新宇宙ロケット発射場の運用開始とシベリア出兵、シベリア抑留の記憶

2019年3月18日 Posted in 会報

高野晃

1.はじめに

 ロシアは約20年前に、シベリアのスヴォボドヌイ市の近くに、宇宙ロケットの新発射場建設を発表していたが、計画が遅れ、一時期中断の憂き目にあっていた。その後、プーチン政権下で計画が再始動され、ヴォストチヌイ発射場と名称を改めて、その一期工事が終了した。(図1、2参照)。この発射場からは、昨年2016年4月18日に、ソユーズ2.1a型ロケットによる、3衛星初打ち上げが行われ、正式運用段階に入った。

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図1 ヴォストチヌイ発射場計画全体図、現在は右下の一期工事のみ建設完了(出典:ЦНИМАШ、インターネット公開)

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図2 ソユーズロケット射点設備(2016年4月、出典 Роскосмос)

 筆者は、1975年の日本初の大型ロケットN-1ロケット初打ち上げ以来、H-I、H-IIロケット開発に技術者として参画し、有人、無人宇宙プロジェクトを経験してきた。またスペースデブリと呼ばれる、宇宙のごみ増加防止のための、国際調整の場や、国際機関(ISTC)によるロシア科学者の平和目的研究支援にも参画した。その機会を利用して、ロシアの宇宙関連機関数箇所を訪問し、ロケット、宇宙機の実物を知見する、貴重な体験を得ることができた。筆者はJAXA退職後、ロシアと日本の近代交渉史を含めた、個人研究も行っている。本稿は、ヴォストチヌイ発射場の場所が、日本の教科書で教えられることが少なかった、大正期の日本のシベリア出兵、および昭和期のシベリア抑留ゆかりの地であることを紹介し、今後の両国の相互理解の一助になることを願うものである。

2.ヴォストチヌイ発射場の場所

 ヴォストチヌイ発射場は、シベリアの北緯51度53分、東経128度20分の位置にある。場所は、図3に示すとおり、アムール州のシベリア鉄道のウグレゴルスク駅と、スヴォボドヌイ(旧アレクセーエフスク)駅の中間の東側に位置する、広大な地域にある。最寄りの鉄道駅は、ロシアのロケット科学者の祖とされる偉人の名前を冠して、ツィオルコフスキー駅と改称された。この土地は、シベリア抑留を経験した旧日本軍兵士の記憶に残る、アムール河を隔てて、中国の黒河市と対する、ヴラゴウェシチェンスク市の上流で、ゼーヤ河が合流する地域で、ゼーヤ河の西に囲まれた一帯に当るといえば、容易に想像できるかもしれない。
 ロシアは、旧ソ連時代から、モスクワ市、サマラ市の、ロケット、宇宙機製造工場から、カザフスタンのバイコヌール発射場や、アルハンゲリスク近くの、プレセツク発射場などの、各地の発射場に、鉄道網を利用してロケット輸送することを基本としてきたので、このヴォストチヌイ発射場も、シベリア鉄道から分岐する専用鉄道を用いて、ロケットが搬入され方式を踏襲している。この場所は、当初スヴォボドヌイ発射場として、新宇宙基地建設が計画されたが、財政難により、2007年に計画が中止されていたところを、プーチン政権により、新基地建設が再開された。
 新発射場建設の理由は、ロシアから独立した、カザフスタン共和国のバイコヌール発射場のために、毎年1億ドルを超える借料を払い、また制約を余儀なくされている状況からの脱却と、シベリアの経済開発のテコ入れが目的とされる。将来的には、新発射場内には、滑走路を含む施設が建設される計画で、施設配置は、バイコヌール発射場と酷似している。
 ロケット打上げ計画は、2025年までの予定表が公開されていて、2018年からは英国の衛星打ち上げビジネスも予定され、将来の有人ロケット打ち上げも、この発射場が中心になる予定である。
 なお、一般の日本人にはあまり知られていないことであるが、バイコヌール発射場と基本設計が同一の、ソユーズロケット発射設備が、赤道直下のフランス領ギアナの、欧州宇宙機関(ESA)の、コーロー発射場内にも設置されている。この発射設備には、ロシア国内から、ソユーズロケット機体が船で輸送されている。これは従来公開されなかった、ロシアの発射場施設と運用技術を習得したいという、フランスを初めとする、欧州側の意向と、打上ビジネスを拡大したいというロシア側の思惑が噛み合って成立したといえる。このとき導入された射点設備の近代化が、極寒のシベリアの新発射場建設にも反映されている。
 なお、新発射場からのロケット打ち上げ方向は、東向き(一般周回軌道)、または北向き(極軌道)に設定しており、東向き打上ではサハリン上空を通過し、その他軌道ではロシア国内に切り離した1段目が落下するが、日本上空を通過する心配はない。

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図3 ヴォストチヌィ発射場と、シベリア出兵、シベリア抑留関連地域図

3.シベリア出兵の悲劇の地

 今年は1917年(大正6年)に、レーニン指導のロシア革命が勃発してから、100周年にあたる。革命翌年1918年に開始された日本のシベリア出兵について、本稿で記述するのは、時期的に意義深いと考える。図3の中には、①から④までの番号を付した地点を示してあるが、これらの場所は、シベリア出兵(ロシア社会では、「極東国際干渉」とよばれている)の激戦地および、悲劇が発生した場所である。
 筆者が特に指摘したいのは、シベリア鉄道を挟んで、ヴォストチヌイ発射場の反対側の山中(ユフタ戦跡①)である。ここでは、極寒の1919年2月25日に、シベリア出兵で派遣された、田中大隊(大分、小倉の部隊)が、ユフタ駅近くの山中で野営中に、パルチザンの攻撃を受け、約200名が全滅した大事件が起こった因縁の地であるということである。
 この事件は、翌1920年(大正9年)に、ニコラエフスク・ナ・アムーレで発生した、日本の石田領事家族他、日本人735名以上の、パルチザンによる虐殺事件(尼港事件)と並び、シベリア出兵時の最大悲劇として報じられた。今後、ヴォストチヌイ発射場を、日本の報道関係者が訪問する機会もあろうと思うので、その節は、ぜひこの戦跡の地を思い起こしてほしいと願うものである。
 多くの日本人たちが忘れかけている、シベリア出兵とは何であったのか。それは、第一次世界大戦中の、1917年に発生したロシア革命で、圧迫された(反革命)ロシア人を支援するという名目「救露討独」と、ロシアが国内革命事情から、ウクライナの国土を割譲してまで、ドイツと単独和平協定を結び、連合国から抜けた理由から発生したつぎの事情による。
 先に同盟国からロシアに投降し、祖国再建のために、宿敵ドイツと闘っていた、チェコ人軍団の存在意味がなくなり、この軍団をシベリア鉄道経由でウラジオストクに送り、船で欧州に送りこみ、宿敵ドイツとの西部戦線に投入しようという、連合国の思惑から発した、国際干渉であった。
 日本は、米国からの誘いを受けて、チェコ軍団救援という人道主義を表向きの大義として、初めて共同出兵(多国籍軍)に参加したものであった。チェコ軍団が早々に欧州に戻った後、アメリカ、フランスなどの派遣軍は、速やかに自国に戻った。しかし、ひとり日本軍だけが、バイカル湖近くのイルクーツクまで進軍し、ザバイカル地域に、緩衝国家を作るという、秘めた思惑のために、合計5年間(1918年~1922年)単独出兵を続けた。
 これにより、シベリアの住民を蹂躙すると共に、自らも多大の死者を出して、最終的に1922年に無益のままに大陸から撤兵したものであった。
 当時の日本には、大正デモクラシーが生きていて、新聞は、無益の出兵を断行した政府と軍閥に対する、痛烈な批判を展開した。このことは、日中戦争、太平洋戦争を、先頭に立って鼓舞したジャーナリズムが、敗戦後に、戦争主導者の政府、軍閥、財閥どころか、自らを批判する姿勢がなかった状況と大いに異なる。
 このシベリア鉄道ユフタ駅に近い山中で、極寒期に部隊を展開したこと自体が無謀で、寒さに強いパルチザンによって全滅され、野砲2門も奪われた軍の失策は、重大事件として報道された。昨年、麻田雅文著の「シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争」が、中公新書として刊行され、これらの事実を、読みやすく記述していることを歓迎したい。なお、当該書は北樺太の支配を含めた合計7年間を扱っている。
 さらに、ロシア人の恨みを招いた、つぎの悲劇も忘れてはならない事件である。図3の中の②は、イワノフカ村(シベリア出兵当時の名称)で、ここでは、1919年(大正8年)3月22日に、400軒以上の住居を焼き討ちし、住民257名を銃殺した他、幼児を含む住民36名を納屋に閉じ込め、放火して惨殺した残虐行為が行われた。
 筆者はこの事件は、ユフタでの日本軍全滅への仕返し掃討と推定していたが、麻田氏の著書は、そのことを明確に裏付けている。すなわち、パルチザンのゲリラ作戦を受け、疑心暗鬼になった日本軍が、見せしめとして村を完全掃討し、他の村も同じ目にあうぞと、恐怖心を与えることが目的であったと記述している。
 子供まで殺す残虐行為は、日中戦争でも繰り返されたようであるが、正常な心理を失う戦争の中では、自らの命を守るための、当然の行為だと、簡単に正当化するわけにはゆかないであろう。
 この事件は、日本国内では、一部研究者が記述しているだけで、教科書で教えられることはなかった。どこの国でも、自国軍が加害者として犯した、人道的犯罪の目撃談を語ることを禁止するのが常であるが、被害を受けたロシア側の国民は忘れることなく、慰霊碑を建立し、追悼式を守り、子供たちに日本軍の蛮行を語り伝えてきた。シベリア出兵時に蛮行を働いた日本軍への怨嗟が語られてきたことは、シベリア抑留体験者たちが、現地ロシア人たちからも聞いている。
 なお、日本人の慰霊行為として、シベリア抑留体験者で、個人の立場から、抑留者の戦後補償を求めて活動し、ロシア公文書館で、抑留関連文書の発掘を行うなど、生涯を捧げた、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長の、故斎藤六郎氏が、この悲劇を知り、資金を集めて、1995年に、イワノフ村に「日ロ共同追悼碑」(懺悔の碑)を建立して慰霊したことも、紹介させていただく。また同事件90周年にあたる2009年に、僧侶を含む日本人団体が現地を訪ね、犠牲者の慰霊法要を行ったことが、地元紙で報道された。
 このことは、シベリア抑留慰霊碑の多くが、まず民間人により建立され、数年経過してから、体面を気にする政治家や官僚が動いて、国費で慰霊碑が建てられるパターンと共通するものである。
 シベリア出兵の末期には、何のためにシベリアに長期滞在しているのかの意味がわからなくなり、厭戦感が拡大する中で、大都市ヴラゴウェシチェンスクの歓楽街に出入りし、梅毒罹患した日本兵たちを大量に出した、苦い思い出も報告されている。

4.シベリア抑留の地

 筆者は、シベリア抑留を経験された方々の体験談を聞く機会を、多年にわたり得てきた。また国会図書館などに所蔵されている、700冊を超えるシベリア抑留関係書籍、論文の中から、1,000名以上の体験談に目を通してきた。シベリア抑留体験者の中には、筆者が函館中部高校で、物理を教えていただいた、担任教師の富田迪夫先生(94歳)が含まれる。
 富田先生は、中部高校前身の函館中学校の卒業生で、米沢工業専門学校(山形大学工学部前身)を卒業して召集され、満州の牡丹江近くで従軍された。先生は8月9日真夜中に開始されたソ連軍の満州侵攻に対して、ソ連戦車への自爆攻撃を命令されたが、直前の大雨で中止となり、運よく一命を取り留めて武装解除され、ソ連国内に移送された。先生はシベリア鉄道のタイセット駅から、バイカルアムール鉄道(BAM)の、ブラーツクまでの工事区間建設のため、ラーゲリ生活と、強制労働の辛酸をなめられた。その後シベリア鉄道経由で、帰国の港ナホトカへ移送される途中で、半年ほどライチハ(現ライチヒンスク)の収容所で、炭鉱労働をさせられた。このライチハが図3中に記入してある。ここの収容所は1万人規模の大収容所群の総称で、その中には、ザヴィタヤ(現ザヴィチンスク)の2017病院が含まれる。この土地で収容所生活をされた、山中冬児氏は、この土地を「残悲多野」と表記し、絵本を出版されている。この場所も図3に記している。
 なお、富田先生は、現在札幌在住で、94歳のご高齢ながら、シベリア抑留体験を語る会の証言講演や、高齢者講座指導などでご活躍中である。筆者は昨年、函館中部高校卒業以来53年ぶりに、先生と再会し、親交を復活させて頂いている。
 シベリア鉄道で、ソ連奥地に送られた抑留者たちは、天皇の命令により、自主的に戦闘停止したと理解し、戦争捕虜、俘虜と呼ばれることを嫌ったが、ソ連、ロシアの書物では、「日本人戦争捕虜」という用語以外の表現はない。
 ロシア奥地に、ハバロフスクを経由して、シベリア鉄道の貨車に詰め込まれて、輸送される日本兵たちが、子供たちから罵倒され、貨車に投石を受けて、義憤を覚えたことが、いくつかの抑留体験記に残っている。自分たちは、ソ連に侵攻したわけではなく、日ソ中立条約を一方的に破って、日本軍に攻撃したソ連が悪いと教えられていたので、義憤を覚えたわけである。しかし数年にわたり、抑留地の強制労働生活をする中で、ロシア人住民との交流も増え、シベリア出兵時に、日本兵がアムール州の一般住民を虐殺し、物品略奪したことを、住民から初めて教えられ、ロシア人が日本兵を恨む理由が、納得できたという証言が、いくつかある。

5.日ソ中立条約違反の相互主張

 筆者が2013年にハバロフスクを訪問したとき、あいにく極東ロシア軍歴史博物館が休館日で、入館できなかったが、代りに係員から入手できたロシア語冊子では、日ソ中立条約に違反したのは、そもそも日本だという記述があるのを、帰国後に発見して、大へん衝撃を受けた。
 原文を訳すと、「1941年のCCCPとの日ソ中立条約に違反して、日本軍部は、極東における我が方の船舶活動をさまざまに妨害した。中立海域において、ソ連船舶を妨害し、臨検を行い、ソ連船18隻が沈められた」。
 このように筆者は、日ソ中立条約に先に違反したのは、日本であるという教育が、ロシア国内で教えられていること、他方でロシアが日ソ中立条約を破って、満州に侵攻したという記述はないことを知り、歴史教育は、相互の主張を公平に見なければ、片手落ちの主張となると、改めて認識した次第である。なぜならば、第二次大戦末期に、日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連が満州、千島列島に攻撃を開始し、その結果シベリア抑留の悲劇が生じたと、日本人は親たちから教育されてきたからである。筆者は、当該ロシア語冊子の記述は、旧ソ連時代から続く、プロパガンダ的記述で、船舶数も誇張があるのではないかと疑っていた。
 しかし、その後、東京の国会図書館で、関連資料による裏付け調査を行い、日本軍により攻撃を受けたソ連の船舶名と、発生場所を知ることができた。それにより、非難されるべき違反事項は、日ソ双方にあったと理解を改めた。
 日本軍の裏面史を国民に伏して、中立条約を破ったソ連が一方的に悪く、ロシア人は信用できないという固定的観念を、日本の為政者たちは国民に植えつけてきた。これでは、公平な視点から日ロ交流史を見ることはできない。またプーチン大統領が、2016年に表明したように、ロシア人が、第二次世界大戦に戦勝した結果、当然の権利として、千島列島、北方領土を保有したという、ロシア側の主張を改めさせ、領土「返上」をお願いすることは、望み薄であるという印象がある。多分ロシア人の多くは、北方領土支配は、シベリア出兵以来、ロシア領土を侵害し、最後に敗れた戦争への当然の代償と考えているのであろう。
 残念ながら、クリミア侵攻でも典型的に示されたように、ロシア人(政治家)とはこういうものであると語り伝えて、付き合わざるを得ないと思うが、そのように考えられることは、ロシア人にとっても不幸なことであろう。
 さて、日本が攻撃したソ連船舶とは何であったのか。1946年の、ソ連邦軍令部長報告の記述の他、最近のロシア人学者たちの著作から、判明していることはつぎのとおりである。
 旧ソ連の報告によれば、1941年の8月から終戦まで、日本は同盟国のドイツを支援する意図から、合計178隻のソ連船舶を妨害し、宗谷海峡を通過した数隻は樺太の大泊港に連行された。そのうち、明確に3隻に武力攻撃があった。
 真珠湾攻撃直後の、1941年12月14日には、香港で修理中のクレチェット、スヴィリストロイ、セルゲイ・ラゾが、陸上の日本軍から砲撃を受け、結果的に前2隻が沈没した。同じく同月17日に、木材運搬船ペレスコーブがボルネオ海で撃沈され、また同月24日から26日に、ミンダナオ沖で油槽船マイコープが日本軍から空爆を受けて沈没した。ペレスコーブについては、副船長ブターリンが、極東裁判で証言している。当然ながら、ソ連政府は日本に抗議文書を手渡したが、日本政府は言い逃れをして、謝罪することはなかった。これらの裏面史については、さらに、日本軍の行動記録などを調べて、裏付けを強化したいと考えている。

6.おわりに

 以上、釈迦に説法とは自覚しながら、専門学者でない、市井の一研究者なりに、日ロ関係の裏面史を紹介させて頂いた。シベリア抑留については、ウラジオストク、ナホトカ、ハバロフスクを旅行した際に、日露戦争以降の、両国間の戦争記憶が残る地を訪問し、またシベリア抑留者の墓参体験も踏まえて、本稿を記述した。内容の乏しさを自覚し、読者諸兄のご批判を乞うものである。本稿が日ロ交流史の背景と知識を深めることの一助となり、意見交換の契機となれば幸いです。

参考文献

1.Ж.Б.Бежко,В.В.Карпов, Музей Истории Войск КДВО(極東軍管区赤旗軍歴史博物館)、1990、ハバロフスク。
2.西伯利出兵史:大正七年乃至十一年、参謀本部編、新時代社、1972。
3.松尾勝造、高橋治解説、シベリ出征日記、風媒社、1978。
4.西伯利出兵史要:菅原佐賀衛、信山出版、複刻叢書、1989。
5.原暉之、シベリア出兵―革命と干渉 1917-1922、筑摩書房、1989。 
6.土井全二郎、西伯利亜出兵物語、潮書房光人社、2014。
7.麻田雅文、シベリア出兵―近代日本の忘れられた七年戦争―、中公新書、2016。
8.富田武、シベリア抑留、スターリン独裁下、「収容所群島」の実像、中公新書、2016。
9.山中冬児、残悲多野:絵で見るシベリア抑留始末記、東京リブリオ出版、1997。
10.家永三郎、日ソ中立条約を日本は誠実に守ったか、中谷宇吉郎氏の批判に応える、歴地理教育、3(1)、1956年4月、歴史教育協議会、pp.4~8。
11.アナトリー・コシキン、熟柿戦略の破綻、日ソ中立条約を破ったのは誰か、人間社、1985。
12.ボリス・スラベンスキー、考証日ソ中立条約、公開されたロシア外務省機密文書、(訳)高橋実/江沢和弘、岩波書店、1996。
13.日本の対ソ陰謀―三十年の白い夢―、真相編集局編、人民社版、1948。
14.津田道夫、戦争責任と「北方領土」、現代の眼、現代評論社、18(8)、1997年、pp.82~89。
15.久保英雄、ロシア語最終講義、北方領土と日ソ中立条約、人文論集、No.59-2、静岡大学文学部、2008、pp.1~18。
16.高野晃、シベリア抑留者の足跡をたどる、2016年7月30、シベリア抑留体験を語り継ぐ会札幌、講演会パワーポイント資料。
17.ヴォストチヌイ発射場参考図  (http://www.voctokdrom.ru

(元JAXA参事、日本航空宇宙学会永年会員)

「会報」No.38 2017.3.31 会員報告

母国ロシアへの郷愁(2) 1925年北サハリンから脱出したペトロフスキー家の軌跡――北サハリン・アレクサンドロフスクでの生活――

2019年3月18日 Posted in 会報

                 グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子 構成・翻訳

はじめに

 『会報』No.37においては、1923年からの亜港の状況と1925年2月、日本軍撤退直前北サハリン亜港を脱出したペトロフスキー一家が小樽に到達した時点までを述べた。本稿ではそれ以前に遡ってペトロフスキーのサハリン定住と事業展開、20世紀初頭のコンスタンチン少年が育ったアレクサンドロフスクとペトロフスキー家の環境、また1917年革命の勃発とその後の日本軍の亜港占領後を叙述する。(手記はコンスタンチンが晩年英語で書いたものをスメカーロフ氏が構成・露訳し、G.S.でコメントを付けている。)

コンスタンチン・コンスタノヴィチの誕生

 1913年6月17日午前6時、この手記の著者はこの世に現れた。(アレクサンドロフスクのパクロフスキー教会の洗礼簿によると少年は旧暦で1913年6月5日生まれとなっている―G.S.)。洗礼時の代父は叔父のイワン、代母は祖母のアンナだった。少年の誕生は父母ばかりでなく大勢の親類、祖父母、叔母さんたちが待ち望んでいたことだった。この資産家のペトロフスキー家の跡取りとなるべき男の子だったのだ。しかし、子供は産声さえ上げずに瀕死に近い状態で生まれたという。教会の司祭を呼んで洗礼を授けたときに奇跡が起こった。赤ん坊は蘇生し、何とか成長していく。
 この赤ん坊コンスタンチンの幼年時代を見る前に、裕福なペトロフスキー家を築き上げた祖父フィリップと母方の祖父グリゴーリーたちのサハリン島渡来の事由を紹介する。

 コンスタンチンの祖父たちはヨーロッパ・ロシアから自分の意志でサハリンへ来たのではなかった。フィリップ・エメリアノヴィチ・ペトロフスキー(父方の祖父)はドン川流域の地(資料によると、タンボフ県―G.S.)からサハリンへの徒刑に処せられたのである。母方の祖父のグリゴーリー・コルネェイチ・サペーガはウクライナ(当時はマロ・ロシアと呼ばれていた。―G.S.)の出身だった。サハリンへ送りだされたとき二人の祖父は共に既に家族持ちだった。当時は家族も受刑者について流刑地へ送られる習慣だった。
 家族がサハリンに到着して間もなく、この二人の受刑者は刑期終了前に釈放された。(コンスタンチンはこう書いているが、これは間違いだ。サハリンへの徒刑は家族持ちの流刑者には非常に寛大だったからだ。なぜなら、島の開拓が流刑人集団の基本的な目的だったから、家族での到来は歓迎されたのだ。家を建て、家政を営むことも許されていた。時には少額ながら国庫から補助金をもらうこともあった。―G.S.)ウクライナから来た祖父の事件は当時若者を引き付けていた自由思想との関わりだった。19世紀後半のロシアには多数の政党があった(アナーキスト、あらゆる毛色の自由主義者、ナロードニキその他の人たちの)。ある冬の晩、祖父は村の酒場で仲間の若者たちと集い、人生について議論を交わし、夜半よりかなり前にお開きとなり、皆それぞれ家へ帰った。翌朝祖父は警察官に起こされて、逮捕された。前夜酒場が火事になった放火の嫌疑をかけられたのだ。放火の痕跡が残っているとして長靴を没収された。祖父と共に酒場で飲んでいた仲間も皆逮捕された。こうしてコンスタンチンの祖父は流刑人の島サハリンへ送られたのである。そのとき彼は20歳を少し越えていたが、家庭には既に4人の子どもがいた。彼の妻が幼い子供たちを連れてアレクサンドロフスクへたどり着くまでの間に、4人の子どものうち3人は長途の辛苦に耐えられずに死んでしまったという。
 この祖父はサハリンに着いたとき、飲酒を完全にやめていた(この禍の元となった習慣はあまりにも重大な結果をもたらしたからだ)。ところが、しばらく経ってから、彼のもとに恩赦の知らせが届いた。故郷へ戻ってよいという。しかし、祖父は帰らない決心をした。故郷でもどっちみち流刑上りという烙印がついてまわるからだ。祖父の親族は誰もこの決定を非難するものはいなかった。小ロシア(今のウクライナ)でずっと以前は幅を利かせる領主だったサペーガ家は落ちぶれて貧しい農民となっていたからだ。
 少年の二人目の祖父フィリップ・ペトロフスキーがサハリンへ来たのはまだかなり若い時だった。フィリップは多数の使用人を有する残忍な有力者の地主を殺害した罪で徒刑となっていた。興奮した村の群衆が地主を八つ裂きにしたのである。この群衆の中にペトロフスキーも居たのだ。この犯罪はアレクサンドル2世の治世に起こったが、このころ殺人はサハリン島アレクサンドロフスクの監獄送りとなった。このとき、彼の家族は困難な長途を踏破して、服役中のフィリップのもとへたどり着いたのだった......
 最初のころフィリップの妻は4人の子どもを抱えて非常な苦労を強いられた。家族を養うために彼女はパンを焼き、それを監獄の管理当局に売りさばいた。数年たった頃、フィリップの故郷で地主殺害の真犯人たちが確認された。そこでフィリップは直ちに釈放され、市民権を回復された。このことはヨーロッパ・ロシアの故郷へ戻れる実現可能なチャンスだった。しかし、数年を暮らしてみてペトロフスキーはこの地方の自然の豊かさを見て取り、サハリンでその後も暮らしていく将来性を描くことができた。彼は妻と相談して、この流刑の地に残って生活することを決心したのである。19世紀末のことであった。

 アレクサンドロフスクにあるサハリンの行政当局は、ペトロフスキーがサハリンに留まる決定をしたことを知ると、どの土地でも好きな場所を選んで家政を営むようにと勧めてくれた。フィリップが選んだのは行政署のある哨所から北へ約12キロ地点の土地だった。(実際はペトロフスキーの鉱山はもっと近くて、町から6ヴェルスタ=約6.5キロの場所にあった。この場所は今日までサハリンの地図に旧ペトロフスキー鉱山として記されている。―G.S.) フィリップが選んだ場所はうっそうたる森林に覆われているだけではなく、地表から深くない所に最も上質の石炭が埋蔵されていた。ペトロフスキーはこの土地の借用契約の手続きをして、産炭地で採掘を始めた。数年後フィリップはサハリン島で最も富裕な住人の一人になっていた。
 フィリップの体躯はまるで研磨されていないダイヤモンドのようだった。中背で均整の取れた筋肉質の力にあふれた体格だった。フィリップは6フィートもある重量級の男性を軽々と頭上高く持ち上げることができたのだ。フィリップは徒刑につく以前、大陸でしっかりした教育を受けていた。だから、新しいビジネスの細かいニュアンスなどを即座に理解する先見の明があった。祖父は良き家庭人であり、主人だった。彼にとっては家族がいつも第一の場所を占めていた。彼は家族がどんなことでも困らないように彼ができることはすべてやった。サハリンにおいてペトロフスキーは愛国者になり、ロシアの専制君主を熱烈に支持し、アレクサンドロフスク管轄長官に対してもあらゆる支援を行った。フィリップは二人の息子と二人の娘を授かった。この息子の一人がコンスタンチンの父親、コンスタンチン・フィリッポヴィチである。
 話を前述した生まれたばかりの赤ん坊に戻そう。3か月がたったとき、赤ん坊は扁桃腺炎に罹った。病人を診察した軍医は病気の赤ん坊に付添看護婦をつけた。そして軍医自身はあたかも病人のための薬を取りに行くというふうに出て行った。コンスタンチンにとって不幸なことにこの軍医はいろいろな種類のアルコール類の虜になっていたことである。そこで彼が4時間後に病気の赤ん坊のもとへ戻って来た時、軍医にとっては普通の状態である半酔いになっていた。彼が特に赤ん坊のために自ら作ってくれた水薬は効かないばかりか、そうでなくとも痛い喉をやけどさせたのだ。赤ん坊は激しくせき込みながら叫びをあげ、ひきつけを起こした。(ここでコンスタンチンはサハリンの医療のひどさを書いている―G.S.) 結局、自家製のミルクと家庭の愛情がいつものように赤ん坊の命を救ったのである。

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幼年期のコンスタンチン

 この子どもは年齢のせいで世界では何が起こっているかをまったく知らなかった。ロシアは20世紀初頭の激動(1905年の革命)の後、静かになったかに見えた。しかしこれは別のもっと恐ろしい嵐の前の静けさだったのだ。国内では多くの人々が政治体制への不満を口にしていた。国民の多数がユートピアに類する思想に取りつかれていた。物質面では恵まれた家族にさえも迫りくる世界大戦の波は多かれ少なかれ押し寄せつつあった。 
 1913年(ここから筆者は"僕"を名乗る)、僕が生まれた後すぐに僕の父と祖父、ペトロフスキー家の二人はヨーロッパ・ロシアへ旅行して、サハリンでの自家の事業発展のために取引を行った。モスクワから二人はドイツへ行き、そこでペトロフスキー炭鉱の石炭運搬に必要な小規模鉄道の発注契約をドイツの会社と結んだ。その後フィンランドのゲリシングフォルス(現在のヘルシンキ)へ行った。二人はフィンランドはその当時は独立公国としてロシア帝国の構成国になっていたにもかかわらず、ロシアとは違ってフィンランドの土地は清潔で整然としていることに注目し、魅了されている。フィンランドでペトロフスキーは地元の堅実な企業主とサハリンへの設備納入に関する一連の取引契約を結んだ。しかし、ドイツでの注文もフィンランドの設備類も受け取ることはできなかった。その翌年、1914年に世界は第一次大戦に巻き込まれたからである。
 ついでに言うと、僕の父親がドイツに行ったのは初めてではなかったそうだ。1912年結婚式の少し前に、祖父フィリップが僕の父コンスタンチン・フィリッポヴィチを短期間だがドイツに派遣して経済学、事務処理、地質学を学ばせたのである。祖父フィリップはサハリンで石炭だけでなく、将来は油田の掘削や金の採掘を考えていたからだ。(それ以前にコンスタンチン・フィリッポヴィチはトムスク工業大学で3年間学んでいた。彼の大学入学のための推薦状はサハリン州知事が書いたものだった―G.S) 父の話では、ドイツ人はロシア人とは大いに違っていたそうだ。その気性といい、人生観においても......
 僕の祖父はシベリアの不動産にも関心があった。祖父はノヴォ・ニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)に数件家屋を買い足していき、そこに自分の娘たちを住まわせた。当然のことながら祖父は、この大都市でなら娘たちはちゃんとした教育を受けることが出来るばかりでなく、立派な結婚相手に巡り合えると考えたのである。
 祖父の家はアレクサンドロフスク中心部の大通りにあり、数多く部屋のある大きな家屋、厩、中庭があったが、衛生面では非常に原始的な設備しかなかった。当時街には下水道はなかったからだ。水は近くを流れる川から桶で運んできて、住民はそれを買っていた。基本的に街は小さな村のような生活を営んでいたといえる。どの家の主人も家でニワトリ、アヒル、ガチョウ、豚、牛、ヤギなどを飼っていた。
 ペトロフスキー家は種々のビジネスのために多く建物を有し、多数の馬を飼っていた(運搬手段として)。その他に騎馬用の純血種の馬数頭も持っていた。どの屋敷にも多くの娘や女たちがいて、いろいろな仕事をこなしていた。男たちは多くはないが主として馬など動物の世話をした。主人のフィリップは中庭に建てた真正のロシア式サウナを堪能していた。サウナの最上段で温まると外へ飛び出し、冬は雪の上を裸で転げ回り、その後再びサウナに駆け込んだ。

 戦争が始まったとき、1914年の出来事を理解するには僕はまだまったく幼かった。幼年時代の僕の最初の思い出は1916年の出来事だ。僕は3歳だったが、その時父方の祖母が亡くなった。(フィリップの妻アンナはパクロフスキー教会のメトリカの記録によると、1917年10月13日、66歳で亡くなっており、アレクサンドロフスクの教会墓地に埋葬されている。―G.S.) 年取った女性のしわの寄った厳かな顔をぼんやりと思い出す。家でお客さんをもてなしたり、舞踏会を開いたりするものすごく大きな広間(中略)の真ん中に、火をつけたろうそくを周りに並べたテーブルの上におばあさんのお棺が置かれていた。お棺の傍で一人の修道女が祈りを唱えていた。後で聞いたのだが、僕は埋葬式には連れていかれなかったという。伝統にしたがって、埋葬式までの3日間お棺は家に置かれていた。この3日間に人々が訪れて、故人への追悼と告別を行うのである。また、この間地元の司祭が訪れて数回勤行を行う。おばあさんが埋葬された後、人々は再びわが家へ来て、お酒を飲み、食事をして、故人をしのぶ。僕はこのような儀式のすべてを覚えてはいない。
 もう一つ僕が覚えている騒ぎがあった。それは僕の母がおばあさんの持ち物を人々に分け与えていた時のことだ。僕はどうしてか皆に分配するのがいやだった。しかし、母は僕が頭を床にぶつけて泣きわめいても気に留めてくれなかった。母は「また、新しいものを、もっと良いものを買いましょう」と言うだけだった。おばあさんは何がいけないのか、何のためにおばあさんの持ち物を分け与えてしまうのか、僕にはどうしても分からなかったのだ。

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アレクサンドロフスクのパクロフスカヤ教会

 最初の革命は1917年2月に起こり、第二の革命は同年10月に起こった(ペトロフスキーは、当時の大多数の人たち同様1905年の出来事を革命とはみなしていなかった―G.S.)。僕は最初の革命がどんな風に起こったのか、第二の革命との間に何があったかも正確には知らない。ただ、僕はある朝のことをよく覚えている。ある時窓から外を見た時、通りにはもう雪が積もっていた。僕は軍の兵舎の上に見慣れた三色旗(白・青・赤の)の代わりに赤旗がはためいているのに気が付いた。おそらくそれはボリシェヴィキ第二革命の後だったのだろう。街は雪に覆われていた。旗の赤と雪の白の対比は大変ドラマチックだった。広大なシベリアを手中にするための戦いがまだ行われていて、サハリンは隔絶された状態にあった。革命は翌年の早春にようやくこの島に到達したのだ。僕は、制帽にロシア帝国陸軍の徽章を付けた制帽を被り、左の胸に赤いリボンを付けた兵士たちが、後で知ったが、「マルセイエーズ」を歌いながら街の大通りを行進して行ったのを覚えている。その中に将校はいなかった。赤旗を持って襟の折り返しに赤いリボンを付けた街の住民が大勢兵士たちの後にぞろぞろついて歩いていた。僕は家の門の前に立っていてデモ隊がちょうど並んだ時、急いで隊列に入った。一人のおじさんがぼくに赤旗をくれた。そして胸に赤いリボンをピンでとめてくれた。こうして僕が革命集団の行列に入って誇らしげに歩いたのは、ぼくがようやく5歳になった時だった。
 僕が家へ帰った時、両親と祖父はびっくりした顔で見つめた。僕は質問に答えて、「見てよ、ぼくは赤旗を持っているのだよ」と宣言した。祖父は咎めるようにぼくを見て言った。
 「お前はまだ小さいからわからないのだよ」。
 その後僕が少年になってから、皇帝が退位したことを知った。地元の教会の扉の張り紙で皇帝退位の指令を読んだ時、祖父の眼には涙があふれた。祖父は「皇帝がいなけりゃロシアも滅びるだろう」とつぶやいた。
 多くの富裕な市民や地元の役人たちは君主制が崩壊したことを知って一面では喜んでいるように見えた。さらにその後、前述のデモ行進の少し前に何人かのボリシェヴィキの活動家がタタール海峡(間宮海峡)の氷上を犬ぞりでサハリンへ到達していたことを知った。彼らは革命委員会を創設し、前述のデモンストレーションを組織したのだ。ボリシェヴィキはアレクサンドロフスクの全軍・全行政の権力を掌握したのである。さらに彼らはこの町のブルジョアジーと君主主義者を裁くために軍事法廷を設立した。
 デモ行進から数日後わが家の玄関の扉をたたくものすごい音と怒鳴り声と共に一団の革命軍兵士たちが入って来た。その中の年かさの一人が、家宅捜査、非合法物件の没収およびぼくの父、祖父、同居している叔父の逮捕令状を持ってきたと宣言した。兵士たちは各部屋に入り込み、高価なクジャク羽毛のクッション、毛布、布団類を次々に銃剣で刺していった。彼らはわが家の物すべてを上から下まで引っ掻き回した。兵士たちは欲しいものすべてを、宝石類その他を持ち去った。彼らはわが家の使用人たちまで連れ去ったのだ。ママは涙にくれた。でも、どうすることが出来ただろう。ママの必死の頼みに対して兵士の誰一人答えるものは居なかった。年かさの者は一つだけ譲歩して、牢獄にいる逮捕された家人に食べ物を差し入れる事だけには同意した。
 2、3週間後、革命委からの恐ろしいニュースがわれわれ家族を震え上がらせた。牢獄にいる者たちが新政権命令により銃殺されることになったというのである。処刑は翌朝ということに決められた。家の者は全員ショックを受け、女たちは泣き声を上げ、女中は途方に暮れて歩き回っていた。革命委では使用人に対して主人が反逆者として処刑される家に留まっていてはいけないと警告していた。以前はきつい仕事をしたことのない家の女人たちは今では自分で洗濯をし、家の床を洗い、牛の乳を搾り、家畜を小屋に入れなければならなかった。......戸外は春間近だった。
 海の氷はようやく融け始めていた。その夜家では誰も眠らなかった。翌朝の明け方窓を開けると亜港の投錨地がよく見えた。街の向かい側に数隻の船舶が停泊していた。昨夜はまだ居なかったものだ。住民は大騒ぎになった。救われたと神に感謝する人々がいた。先だって赤旗をかざしてデモ行進をしていた人々は意気消沈して、敵から逃れるべく準備を始めるのだった。
 日本軍が北サハリンを占領するために到着したことを理解した。一晩中軍艦からの上陸作戦が行われていた。軍隊が革命委の建物を包囲し、逮捕されていた人たち全員を解放した。わが家は喜びに充たされ、再び人で溢れかえった。父も祖父も叔父も僕たちのところへ戻って来たのだ。以前通りの仕事に戻ることを希望して使用人たちも戻ってきた。それまで彼らはペトロフスキー家との接触を禁止され、ボリシェヴィキから隠れていたのである。
 朝になって撲は人生で初めて日本の軍人を見た。銃に剣を付け、隊をなして昨日まで赤軍に占領されていた兵舎へと行進して行った。後になって、ぼくは日本軍がニコラエフスクにも上陸し、シベリア東部を占領したこと、アメリカ軍も同じ目的でウラジオストクへ上陸したことを知った。(このあたりの記述には時間的な齟齬がある。1918年冬、家人が逮捕され、その2、3週間後処刑当日に日本軍が亜港に上陸して助かったことになっている。日本軍の亜港占領は1920年だから、記憶違いだと思われる。また、アメリカ軍のウラジオストク出兵も。―M.O.)
 アレクサンドロフスクへ日本軍が出現したことによってわが家の生活は平常の暮らしに戻った。侵攻者・日本軍は凶暴ではなかった。彼らは革命委員たちを最初の船で大陸へ送り返しさえしたのだ。

 フィリップは自分の最初の孫を存分に甘やかし、できる限り高価なおもちゃを買い与えた。ドイツに行ったときはコンスタンチンにリモコンで操作できる機械仕掛けの実物大の犬を買ってきた。この犬は動くことも吠えることもできた。ペトロフスキーの家には他にもいろいろなおもちゃがあった。例えば機械仕掛けのラクダ、競走用二輪馬車、その他たくさんのもおもちゃはみな祖父がプレゼントしたものだった。その当時、ドイツは多様な第一級の機械仕掛けのおもちゃで名を成していた。撲の好奇心はこれらのおもちゃで遊んでいる過程で満足感を得た。これは何でできているのだろう? どんなふうに作られているのだろう? ある日撲は鋭いナイフを持ってきて、この機械仕掛けの犬の内部をこじ開けた。もちろん、僕は自分のやったことを黙っていた。僕は自分の犬の「手術」の後、きれいに「縫合」をはたしたのだ。(これが未来の著名な外科医K.K.ペトロフスキーの最初の成功裡に終わった「手術」だったのだ―G.S.)

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祖父フィリップとコンスタンチン(10歳位)

 夏になると僕は父とタタール海峡(間宮海峡)で海水浴をし、泳ぐのが嬉しかった。街の人たちはシベリアなら水浴しても良いだろうが、こんなところで泳ぐなど考えられなかったようだ。実際は、夏には海水は暖かかったし、海岸の砂浜も素晴らしく、水泳は安全で心地良いものだった。
 時々父とは狩りにも行った。カモやいろいろな水上の野鳥を撃った。父は一度も白鳥を撃ったことはなかった。父が話してくれたことによると、父の友人があるとき白鳥を撃ち落としたことがあったが、この白鳥のつがいのもう1羽の白鳥が空高く飛んで行き、その高みから撃たれた白鳥のそばの地面に自分の身体を叩きつけて死んだという。パートナーなしで生きることを望まなかったのだ。このエピソードは父にひじょうに強い感銘を与えた。そこで父はこの美しい、誇り高い鳥を撃つことはしなかったのだ。

 ボリシェヴィキは軍隊を結集して革命干渉軍(イギリス、フランス、アメリカの)を国外に駆逐したが、日本軍は依然として我が国の北部サハリンを領有していた。日本軍もシベリアからは撤退せざるを得なかったが、1922年の時点で、ソビエト・ロシアは、私の知るところでは、サハリンを占領している日本と完全に話を付けるだけの十分な軍事力も国内の安定性もなかったからである。しばらくの間二国間の関係は現状維持のままになっていたのである。
 最初のころソビエト政権は大陸では深刻な内部問題をかかえていた。地方の地元権力に関わる問題、匪賊や白衛軍との戦いを抱えていた(特にシベリアでは)。1920年、シベリアでは赤軍と戦っている軍団はかなりの数に上っていた。そしてこれらの軍団の間に共同作戦はなく、それぞれが自己の利害で戦っていた。このことが日本のサハリン領有を可能にしていたのだ。

あとがき

 コンスタンチン・ペトロフスキーの手記には、1918年冬「10月ロシア革命」が亜港に波及して一時期政権を掌握した革命政権による富裕層の危機、次いで革命政権を制圧した日本軍上陸の状況などが生き生きと語られている。当時の亜港の最富裕層の一人は19世紀末徒刑囚から身を起こし、石炭採掘事業を成功させて大富豪になったペトロフスキー家だった。コンスタンチンの祖父フィリップ親子は、20世紀初頭極東のサハリン島からヨーロッパ・ロシアとドイツ、フィンランド等に出張して鉱山機器購入、施設建設の契約を締結するなど本格的な事業展開を行い、さらにノボシビルスクでも不動産業へ乗り出すなど、そのビジネス才覚と経済力には驚かされる。一家のこのような事業成功の基盤は、祖父フィリップ自身が流刑前に一定の教育を受けていたことと、息子をトムスク大学で学ばせ、ドイツ留学までさせるなど教育の重要性を認識していた先見の明にあったと思われる。コンスタンチンが祖父から送られた高価なドイツ製のおもちゃや祖母の死の際の慣習をめぐるエピソードなどはロシアの新興ブルジョアジーの生活を具体的に伝える興味深い貴重な記録となっている。

「会報」No.37 2016.7.31 特別寄稿

函館とニコラエフスク――文久元年「亀田丸」の出貿易から見えてくること

2019年3月18日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 幕末開港期の函館(当時は「箱館」と表記)は、アムール川下流域に位置するニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムーレ)と浅からぬ縁があった。ニコラエフスクはロシア極東の主要港で、ここからロシアの軍艦が函館に頻繁に寄港した。現在、函館のロシア人墓地には43基の墓碑が残っているが、半数以上は、幕末開港期にロシア極東から函館に寄港したシベリア小艦隊などに所属していた軍艦の乗組員や海軍士官のものである。
 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチ(1858年来函)、そして領事館付属司祭ニコライ(1861年来函)が函館に向かう際のロシアの出立港もニコラエフスクだった。
 本稿で取り上げる「亀田丸」の出貿易は、貿易開港から3年目を迎えた文久元年4月(西暦1861年6月)、箱館奉行がニコラエフスクに仕向けたもので、「是ヲ以テ本道ニ於ケル海外直輸出ノ創始トス」と、北海道で初めて、仲買人を介さずに行われた貿易と位置付けられた(『函館税関沿革史』横浜税関編・発行、1904年)。 
 官船「亀田丸」(46トン)は、日本人の手により函館で建造された西洋型帆船である。かの「戸田(へだ)号」の流れを汲む「君沢型」よりも構造かつ性能がはるかに優れているとされる「箱館丸」に倣ったため、「箱館型」と呼ばれた。
 「亀田丸」の出貿易ことは、支配役水野正太夫が箱館奉行に提出した復命書『黒龍江誌』や「亀田丸」の船長で最高責任者だった武田斐三郎が書いた「黒龍江記事」(『武田氏蔵書』1896年9月)という貴重な記録資料がある。また先行研究としては、白山友正「箱館奉行の黒龍江出貿易事情とその社会経済史的意義」(『社会経済史学』第8巻第12号(1939年)、85-96頁)、本庄栄治郎編「箱館亀田丸魯領アンムル河へ発航一件」(『幕末貿易史料』1970年)、川合彦充「【資料紹介】亀田丸航海記」(『海事史研究』日本海事史学会発行、第16号(1971年)、154-169頁)、飯田嘉郎「亀田丸の箱館・尼哥拉斯間の航海」(『海事史研究』日本海事史学会発行、37号(1981年)、1-21頁)、本田敏雄「亀田丸の航海実習-ロシア領ニコライエフスク見聞記」(『八戸工業高等専門学校紀要』第24号(1989年)、77-86頁)などがある。
 日本側史料の検討だけでは不明だった点も、ロシアの雑誌・新聞あるいは関係者の日記などから、興味深い事実が明らかになってきた。「近い隣人と知り合いになる」上では成果があったと言うべきだろうが、「出貿易」はさしたる成果を挙げることはなかった、とロシア側に酷評されたことなどは、その代表例である(原暉之解説・訳「ロシアの新聞雑誌記事にみる洋式船亀田丸の事績(1861年)」『函館とロシアの交流函館日ロ交流史研究会創立10周年記念』2003年、60頁)。
 さらに近年では、東京大学史料編纂所がロシア国立歴史文書館やロシア国立海軍文書館所蔵史料を次々と紹介している。こうした中で、筆者が特に注目するのは、函館に赴任して3年目を迎えていた初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの「亀田丸」の出貿易への関与である。また、ニコラエフスクにおける米国の影響力や函館に寄港した米国商船とニコラエフスクの関係にも関心が及んでいる。
 本稿は、「はこだて外国人居留地研究会」定例報告会(2017年1月21日)での発表を基に、報告後、同会の副会長で当会世話人の岸甫一氏や北海道大学スラブ研究センター兎内勇津流氏からご教示を受けた点を含め、再構成したものである。

初の「出貿易」

 出貿易は、箱館奉行による「亀田丸」のニコラエフスク行と「健順丸」の上海行、そして長崎奉行による「千歳丸」の上海行と、計3回行われた。
 1858年の通商条約締結により、函館には外国商人がやって来るようになっていた。「居貿易」でよかったはずだが、箱館奉行は、「ただ居ながらにしての貿易に甘んずることがなく、進んで海外に赴き、物産を販売し、その利益を船舶の維持費に当て、加えて外国の事情を得るとともに支配向きの者の航海訓練をも行わせようと計画した」。安政6(1859)年2月に案を議定し、同年6月、時の奉行、堀江利煕、村垣範正、竹内保徳、津田正路が連署して幕府に申請した。この時点では、行先は上海、香港を優先しており、その次にニコラエフスクを挙げていた。「アンムル河」の辺りにはロシア人が多く移住し、「ニコライスキ」は交易所になっているというので、ロシアとの国境問題も心配であり「陽に交易を名と致し」、「陰ニ彼が動静等探偵」するために「御預船又は外国船」を派遣したい。彼地は本国からはなれ「諸品不弁」の地なので、交易をすすめれば「存外御利益」もあると思われる、と考えたのである。
 しかし、幕府の開国政策が尊王攘夷派の活動などで動揺させられる状況にあり、交易本位で海外調査を行う計画では、すぐには採用され難いところがあった。 
 改めて提起したのは、文久元年1月のことで、交易を重視する面を弱めた。「探索」本位のかたちで、条約関係にない中国(清国)ではなく、ロシアの「アンムル河」方面への派遣が決まり、文久元年3月28日(1861年5月7日)、箱館奉行から諸術調所教授武田斐三郎がアムール行「亀田丸」の最高責任者として派遣される旨の辞令が出された(『函館市史』より)。

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ゴシケーヴィチの不安

 この1カ月ほど前、江戸に上がっていたゴシケーヴィチは、箱館奉行村垣と会見し、そこで得た情報を基に、以下のような書簡を外務省アジア局長宛てに送った。「私は彼らにこの計画を完全に放棄させることを欲しました。しかし辺境沿海州の状態は、昨年ここを旅した士官から聞いてよく知られていることを思い出し、この地方で売れる品物の目録と道案内のための士官一人を世話することに同意しました。しかし私は彼らに冗談半分に言いました。もし彼らが、アムール河沿いの堡塁を観察するという目的を持っているなら、彼らは我々の軍艦1隻を使ってそこに行く機会を見出し得る、しかしニコラエフスクの堡塁はまだまだ未完成であるから、後になってクロンシュタット要塞に注意を向けることを勧めたい。現在、彼らは日本の多くの地点に堡塁をつくるよう努力しており、アームストロング砲について、それを取得する方法などについて執拗に質問しています。」(文久元年2月17日/露暦1861年3月15日「箱館在勤露国領事ゴスケヴィッチ書簡(訳文)日本情勢の件」『大日本古文書幕末外国関係文書之五十』75-76頁)。
 ゴシケーヴィチ領事は、一行のニコラエフスク行に自分は一旦は強く反対したが、既に函館の日本人はロシア人を通してニコラエフスク周辺の事情について聞き知っているため、強硬に反対することはやめ、箱館奉行に便宜を図ることにしたと表明している。
 また、江戸にて英国公使オールコックにも、自分の不安を伝えている。日本の目的は、「ロシア人がそこにどのような居留地と防禦施設をもっているのか確かめることだ。」と語り、日本側に対しては、「まだ貿易するような住人はおらず、わずかな未完の砲台があるだけだと話し」たこと、そして、日本の関心事はニコラエフスク要塞の視察にある、と公使に話したのである。これらのことは、江戸の英国公使館から同国外務省に伝えられた(文久元年2月24日(1861年4月3日付の江戸の英国公使館から外務大臣に宛てた書簡の訳文『大日本古文書幕末外国関係文書之五十』2005年、274頁)。
 これはゴシケーヴィチ領事が本心で日本側の動きを危惧していたのか、それとも何か問題が起きた時、海軍省から非難を受けないために本省に伝え、予防線を張っておいたのだろうか。他国の外交官に自分の心配を伝えるのも、意図的だったのか。あるいは、「ポサドニック号」が対馬を占領した際、日本人にうっかり対馬のことを話し、箱館奉行には対馬の地図まで見せるなどの「軽率さと口の軽さ」を東洋艦隊司令官リハチョフが「非常に心配」したように(シュマギン・ビクター「「リハチョフ航海日誌」から読み解く対馬事件」『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号(2015年)45頁)、ゴシケーヴィチの外交官らしからぬ軽率さに拠るものなのか。
 いずれにせよ、箱館奉行から受けた依頼以外にも、ゴシケーヴィチは、「露国少年通訳」を「亀田丸」一行に同行させ、出発前日には、沿海州軍務知事カザケーヴィチに一行の出発を書面で通知するなどの便宜を図った(露暦1861年5月24日発書簡)。

露国少年通訳

 函館から通訳として「亀田丸」に乗船したロシア人がいたことは日本側資料からもわかっていた。また、座礁した「亀田丸」を救助したお礼にと、「亀田丸」船長が「露国少年通訳」と一緒にロシア船にやって来たことは、同船で函館に向う途次にあった司祭ニコライも覚えていた(『大主教ニコライ師説教演説集 全』1911年7月)。ただし、ニコライは演説の中で「アムール号」、と取り違えて発言し、それが『函館日日新聞』(1911年7月6日)に転載されたため、混乱を招いた。正しくは「アメリカ号」である(清水恵「ニコライが来日の時に便乗した軍艦の名前は?」『函館日ロ交流史研究会会報』NO.16)。
 では、「露国少年」とはいったい誰のことなのか。氏名が特定できたのは、ゴシケーヴィチ領事が「亀田丸」の出航直前にカザケーヴィチ知事に宛てた二通の公文書からである。そこには、「領事館付属のカントニスト кантонист」の一人を船に送り込んだこと(露暦1861年5月12日付書簡)、そして通訳は、会話能力に長けている「フョードル・カルリオン Федoр Карлион」であることが書かれている(露暦1861年5月24日付書簡)。
 ゴシケーヴィチの誤認とは考え難いが、通訳の正しい氏名は、「フョードル・ヤコヴレヴィチ・カルリオーニン Федoр Яковлевич Карлионин」だった。露暦1875年8月20日に30歳で亡くなり、長崎の墓地に埋葬された時の肩書きは「陸軍准尉 海軍省の日本語通訳」だった(在日ロシア大使館ホームページより)。つまり、「亀田丸」でニコラエフスクに派遣された時の年齢は、15-16歳、まさしく「少年」だった。
 ところで函館の領事館には、カルリオーニンの他にも海軍省から函館の領事館通訳として派遣されてきた少年(カントニスト)、アレクサンドル・ユガノフがいた。カントニストとは、19世紀前半のロシアで、誕生と同時に兵籍に編入された兵士の子のことである。彼らは、『和魯通言比考』(ゴシケーヴィチが駐日領事に任命される前、橘耕斎の協力を得て完成させた和露辞典)を首都サンクトペテルブルクで印刷する際に、リトグラフを作成する際の写字生として使うつもりでプチャーチン提督の斡旋で海軍省から派遣されてきた見習い水兵だった。日本語文法の初歩を教え込まれた彼らに対して、さらに言葉を磨くには実践が必要ということから、露暦1857年7月、「アスコリド号」でペテルブルクを発った(伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』2004年、191-193頁)。
 では、ニコラエフスクでのカルリオーニンの通訳についての評価だが、公官吏との会話では難儀するも、民間人との意思疎通にはさほど問題にはならなかったようである(雑誌『アムール』70号(露暦1861年9月5日)より/原61頁)。

現地案内人「フォン・クフ」

 ゴシケーヴィチ領事が箱館奉行の依頼を受け、事前に手配しておいた現地案内人フォン・クフは、シベリア艦隊および東太平洋港湾司令部の通訳だった。「日本海軍軍人との意思疎通に当たって大いに助力した」(トロイツカヤН. A.(訳:有泉和子)「ロシア極東アルヒーフ文書に見られる日本および日本人」『スラブ・ユーラシア学の構築 研究報告集』2006年17号、14頁)。武田斐三郎が現地で得た情報であろう、「ホンクーホ」は、ペテルブルク(「比得堡」)出身で、「英仏諸国語」ができた、と『黒龍江記事』に記している。
 およそ1カ月半に及ぶニコラエフスク滞在中、一行は、学校、教会、病院、海軍局、測量局、図書館、砲台、造船所・機械工場などの施設を見学し、沿海州軍務知事代理のP.A.ペトロフスキーが主催する歓迎会に招待された(カザケーヴィチ軍務知事はロシア政府代表として清国との外交交渉のため北京に出張中で、露暦8月8日に帰着した)。

貿易の敗因――当時のニコラエフスク事情

 一行は、ロシア側から歓迎され、厚遇されたが、肝心の「貿易」では、先述のとおり、さしたる成果は挙げられなかった。函館の商人2人が同行し、持参した商品は、「絹製品、絹糸、漆製品、銅製の花瓶、室内装飾用の画像、木製品、陶製の花瓶や茶器など、絵筆で描かれた絵画や鳥の羽根で作られた絵画、子供の人形、刀剣類、スエードのように鞣された皮革、茶、砂糖、蝋燭、澱粉や乾燥馬鈴薯や昆布など日本人の食材のサンプル、鉛や硫黄のサンプルなど」だった(『アムール』70号より/原2003:60頁)。
 こうした日本の品々はロシア側から、「極めて粗末な絹布」、「ごみだらけの粉砂糖、きわめて劣悪な茶、品質の悪い砂糖菓子」、「使用に適しない蝋燭」、「醜悪な絵画」と酷評され、「これらのすべてに高い値がつけられているが、アメリカ人を経由するなら同じ物がもっと豊富な品目の中から、もっと安く手に入る」。「こまごまとした商売であり、お金を使うのも気が引け、買うのもいまいましいといった手の小間物が扱われている。」、とまで言われてしまった。そして、「当地で地位の低い者や移住者たちが求めているのは安いウオッカであり、誰しもが欲しがるのはパン、肉、油、砂糖、そのほかに何につけ食べられるものである。それ以外のものは、仮に予想以上の品であっても、必需品の支出からみると二の次なのである」(『海事論集』1861年11月号より/原62-63頁)、と現地ニーズに合っていなかったことがわかる。
 当時のニコラエフスクは、人家は1,000ほど、人口は4,000人で、うち4分の1が将卒で、残りは水夫奴隷及びわずかの満人が暮らしていた(『黒龍江記事』)。ここでの「奴隷」とは「囚人」(流刑囚)のことであろう。1859年夏には、町の下方にある砦を大きくするために1,000人ほどの囚人が到着していた(1859年8月3日付のS.C.デイモン牧師宛ての手紙より/西村恵『〈資料紹介〉H・A・ティレイ著『JAPAN, THE AMOOR, AND THE PACIFIC』(抄) V・D・コリンズ著『INTERSTING LETTER FROM JAPAN』『地域史研究はこだて』第4号、77頁)。必要とされたのは、日本の「粗悪な贅沢品」ではなく、食料だったのである。
 艦隊の基地として兵站能力の問題が深刻だったことは、「亀田丸」一行がニコラエフスクを発って5日目にニコラエフスクで東洋艦隊司令官リハチョフが書いた日記によく表われている(露暦1861年8月14日付)。「悲惨な湿っぽい夏のせいで新鮮な食糧の不足が起こった。家畜の餌不足で家畜を多数始末するしかない(中略)。とても来春までは持たないし野菜の熟成が遅いため、夏には塩漬けの物や魚しかない」(シュマギン46-47頁)。

ニコラエフスク実見がもたらしたもの

 露暦1861年9月12日、一行の函館帰着から11日目のことだが、函館で書かれたリハチョフの日記には、「我々にとって良くない印象を持って来航した。日本人は、その地域の貧窮の様子を軽蔑している(後略)」と記されている(シュマギン47頁)。これに関連し、シュマギンは同論文にて、ロシア海軍の艦隊だけでは政治力を示すことにはならず、対馬作戦に対してロシアの思惑通り日本を同意させる手段とはならなかった、と「亀田丸」が函館を発つ約二カ月前に始まった「ポサドニック号」による対馬占領事件にもマイナスの影響を及ぼしたという興味深い見解を示している。
 確かに函館でのロシアは、港から見ると、さながら城のようだったとも言われるほど立派な領事館を建て、領事館員は写真術、西洋医学な西欧の先進技術を日本人に伝授するなど、「北の地の文明開化」の推進に寄与した。「亀田丸」には、ゴシケーヴィチ領事が寄贈した晴雨計(海洋気圧計)が備え付けられていた。それが、ニコラエフスク実見により、ロシアの弱点が露呈されたのである。日本側にとっても、ロシアにとっても、何とも皮肉な結果に終わってしまった。

ニコラエフスクでのアメリカの優位性

 「亀田丸」一行がニコラエフスクで実感したのは、アメリカの圧倒的存在感だった。視察先の造船工場にある機械はアメリカ製で、アメリカ人の技術者の姿を見た。武田斐三郎は、アメリカの技術、資材を大量の資金をもって導入している点を重視した。
 ただし、その実態たるや、ニコラエフスクに配備されていたアメリカからの輸入機械は、機械工場で修理する道具は十分あったが、その道具を動かす機械で使えるのは三分の一から七分の一しかなかった。「スチームハンマーがあるが、一切動かない。ダヴィドフがアメリカから輸送した機械鋸機があるが、まだ組み立てていない状態にあった(中略)」(露暦1861年8月14日付ニコラエフスクからのリハチョフの日記より/シュマギン46頁)。ロシア人はアメリカの機械を使いこなせていなかったのである。
 当時のロシアの造船技術が未熟であったことは、「アメリカ号」(1856年建造)、「マンジュール号」(1858年建造)、「ヤポーネツ号」(1858年建造)と、アメリカで購入された艦船(蒸気船)があいついでロシアの艦隊に配備されたことからも明らかである。これらの新造船は輸送船によって、ボストンとニューヨークからアムール河口に向けて運ばれた(原暉之『ウラジオストク物語』1998年、74頁)。

アメリカ製品がニコラエフスク市場を席巻

 ニコラエスクでは機械や技術力のみならず、食料品や日用品もアメリカに依存していた。「亀田丸」一行は、往路で米国商船が座礁している姿を見、帰路では米国商船が官用物資の余地に商品を積んでいたことに気付いていた(『黒龍江記事』)。
 ニコラエフスクが「ニコラエフスク哨所」と呼ばれるようになってわずか1年後の1857年には、「アムール河畔のアメリカ合衆国通商支配人」としてカルフォルニア出身の米人ペリー・コリンズがニコラエフスクに着任していた。同年、ニコラエフスクに滞在中だったニコライ・ナジーモフ海軍中将は、「いまや、必要なものはすべてザバイカル州とアメリカから十分に手ごろな価格で調達されている」、と海軍省に報告している。アメリカからの輸入品は、紙製品、羊毛および絹製品、既製服、長靴、肌着、銅および鉄製品、食器、高級ガラス器、家具、香辛料、砂糖、糖蜜、葡萄酒、果物の缶詰、葉巻(『海事論集』1857年11号より/原1998:76頁)と実に多岐にわたっていた。
 ただし、米国人商人などによって大量に持ち込まれた蒸留酒(ウオッカに相当)のように、住民に有害と判断される交易品には、当局が規制を加えることもあったことは、1859年にニコラエフスクを訪れた米国人牧師のV.D.コリンズが同僚の牧師に宛てた手紙から伺われる。「平時の人口は3,000人ほどで、上流階級を除けば囚人の軍人の町だ。7人の外国商人がおり、主にアメリカ人だが、貿易の方は政府により、年々制限されてきているが、商人自身も無理をし過ぎた。ニコラエフスクの外国人の交易で最も収益があるものは蒸留酒だったが、ある法律によって商売が成り立たなくなった」(西村77-78頁)。
 もっとも、このウオッカ販売禁止政策も、1861年には全て廃案となり、町には何十店ものウオッカを売る屋台ができてしまい、販売禁止政策は無駄に終わってしまった(ニコラエフスクで書かれた露暦1861年8月14日付リハチョフの日記より/シュマギン47頁)。
 ニコラエフスクにおける米国の優位性については、在函館英国領事ホジソンも認めるところだった。1861年に書かれた領事の日記には、「小さなスクーナー船は四、五十日でサンフランシスコから同港(ニコラエフスクのこと:倉田)にやって来ることができるし、アメリカの雑貨を非常に割のより率で売りさばき、また消費者側、この場合はロシア政府に少なからぬ利益をもたらす」、と書かれている。官用物資も米国商人が調達していたことがわかる(『ホジソン長崎函館在記』1984年、310頁)。
 アメリカ西海岸からニコラエフスクまでが、帆船でおよそ1カ月半ということだが、「亀田丸」とて、往路で1カ月以上、帰路で14日を要した。往路にこれほどの時間を要したのは、難所と言われたデカストリ付近での「亀田丸」座礁、そしてデカストリで曳航船「ストレローク号」が到着するまで18日間も待たされたことによる。

函館在住ロシア人仲買人

 函館で1863年末に「ホテル ニコラエフスク」を開業したピョートル・アレクセーエフのように、日本産品をロシアの沿海州の諸港で売りさばき富を築いたロシア人の仲買人もいた(澤田和彦『日露交流都市物語』2014年、66頁)。アレクセーエフは、函館では塩が極めて安価であることに目を付け、「日本丸(ヤポーネツ号:倉田)」でニコラエフスクに向けて塩2千プード(1プードは約16キロ:倉田)を運んだり、1861年秋には「アメリカ号」にえんどう豆200プード、米500プードを積込み、自ら乗り込んでポシエット湾、オリガ湾、ニコラエフスクに向かった(グザーノフ・ヴィターリ―、左近毅訳「ロシアの仲買い」『ロシアのサムライ』2001年、132-133頁)。
 ここでの「塩」は、肉や野菜の塩蔵用だったのではないかと考える。と言うのも、日本人漁業者が沿海州に出漁し、鹹魚(魚の塩蔵)の製造・日本への輸出を行うようになるのは明治期以降のことだからである。

函館寄港の米国商船はニコラエフスクの帰路立ち寄った?

 幕末開港期の函館に寄港した米国船と言えば捕鯨船で、ライス米国貿易事務官の仕事も捕鯨船がらみのものだった。だが表2のとおり、商船もそれに劣らず、年間10隻前後は寄港していた。

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 在函館ロシア領事館の海軍士官P.ナジーモフ大尉は、1860年9月と10月に函館に入港した船について本国に宛てた報告書の中で、サンフランシスコ発、函館寄港のアメリカ船によってニコラエフスクには「あらゆるものが運ばれている」のに、帰りの船はバラストを積むのみで、同地からは「何も輸出されていない」(『海事論集』1861年2号より/原1998:76頁)、と指摘している。
 表3のナジーモフ大尉の報告から、ニコラエフスクからバラスだけを乗せ、特に荷はないまま函館に寄港し、「リンゼー商会」の荷を積み込んで上海に向うルートが確立していたことがわかる。また、表3のピッツの報告書からは、ニコラエフスクやアムールからの船の搬入荷と搬出荷がまったく同じ内容、つまり函館で荷を降ろさずに次の港へと向かった船もあったことがわかる。

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むすびにかえて

 幕末開港期の函館に入港した米国商船が、どこの港から来て、どこへ向かったのか。どのような荷が運ばれたのか、などといったことには、これまでほとんど関心が向けられてこなかった。だが、開国時の日本への米国の遣使は、「日本自体との通商が目的だったのではなく、中国貿易とのルートとしてアメリカの西海岸と上海を結ぶ太平洋横断航路を開くため、途中で飲料水や食糧だけでなく、石炭も供給可能な港を開くのが直接の目的であった」(三谷博「記念講演 19世紀のグローバル化と日本の開国」『開港・開市とフランス 報告書』2017年、11 頁)のであれば、蒸気船による太平洋横断航路が確立する前、アメリカ西海岸からニコラエフスクやオホーツク方面に向かった米国商船(帆船)が、空荷で函館に寄港し、函館から商品を積んで上海に運ぶというルートをある程度確立していたという事実はたいへん興味深い。
 1860年代前半、無政府主義者バクーニンのように、流刑地シベリアを脱したロシアの革命家が、函館経由で米国に渡ることができたことなども、米国商船によるニコラエフスク~函館~アメリカ西海岸ルートがあってのことであろう。
 幕末開港期の函館とニコラエフスクの関係は、露米会社やクリミア戦争にまで遡り、また日露関係だけではなく、北太平洋地域全体から眺めなければ見えてこない。
 本稿で言及できなかったことは多々あるが、さらなる研究・調査の上、稿を改めて報告したい。

「会報」No.38 2017.3.31 研究ノート

【史料紹介】前号の補足

2019年3月17日 Posted in 会報

倉田有佳

 前号(No37)にて、札幌総領事から寄贈されたロシア領事館の写真のうち、【写真2】が、「ソ連領事館時代」に撮影された写真の可能性が高い、と報告しました。ところが、先日ファブリーチニコフ総領事から、この写真が明治40年の大火以前の写真であることを教えていただきました。
 1907年末に完成したロシア領事館の写真は非常に珍しく、領事館内部の写真に至っては、これまで見たことがありませんでした。それというのも、この領事館は、完成から1年も経たないうちに大火で焼失したためです。
 そして、帝政ロシア時代の領事館の調度品については、帝政時代の最後の領事となったレベデフが、1925年2月に一家と共に亡命者の身となって日本を去る前に競売にかけられ、ソ連領事館には引き継がれませんでした。その様子について地元紙は、一家は函館を去るにあたり、領事館にあった家財道具(ドイツ製のピアノ、ロシア製のレコード、タイプライター、絨毯類、肘掛け椅子、額縁、リガ製の大型菓子皿などの食器類)は、一切まとめて2千円で売却することになり、希望者が連日領事館へ押しかけたと伝えています(『函館日日新聞』1925年1月28日、『函館新聞』1925年2月9日)。
 このたびの写真は、当研究会にとってのみならず、今後、函館市で「旧ロシア領事館」の復元・活用を考えることになれば、その際の史料としても役立つに違いありません。
 追加情報を含め、ファブリーチニコフ総領事には、改めて感謝したいと思います。

※現存する「旧ロシア領事館」は、焼失した同じ場所(幸坂を登り切ったところ)に1908年末に完成。

「会報」No.38 2017.3.31 第37号補足


1925年2月、北サハリン亜港から脱出したペトロフスキー一家の足跡を追って

2017年3月16日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ 小山内道子構成・翻訳

 サハリン州アレクサンドロフスク・サハリンスキー市の郷土史家・グリゴーリィ・スメカーロフ氏は昨年初夏、2度目の函館訪問を果たし、函館日ロ交流史研究会の皆さまとの交流会を楽しみ、函館の名所・史跡を案内していただくなどたいへんお世話になったと感謝していた。
 また、倉田有佳氏からいただいた新聞記事を示して、私にロシア語への翻訳はお願いできないかとのことだったが、ちょうど忙しい時期だったのと、かなり大きな記事だったため、その時はお断りしてしまった。記事は『北海タイムス』、大正14(1925)年2月23日付の大きな写真入りの記事「悲話 トロイカも懐かし、安住の地を求めて漂白のたびに上ったペトロスキー(ママ)一家」の見出しで、当時の亜港(現アレクサンドロフスク・サハリンスキー)から小樽港に上陸したペトロフスキー一家の写真と亜港の様子を尋ねる家長コンスタンチンへのインタビューという内容になっている。スメカーロフ氏は北サハリン出身の亡命者で、その後も名を成した人たちの軌跡を探索し、記録する仕事を続けているが、これまでに日本との関わりでは函館にも大きな足跡を残したシュヴェツ家の足跡を調べ、既に当研究会の『会報』に寄稿しておられる1。また、柔道家であり、サンボ創始者そして諜報活動家でもあったオシェプコフ氏についても既にまとまった論文を発表している2。そして今スメカーロフ氏が最も情熱を傾けているのは、この新聞記事のペトロフスキー家の足跡をたどることである。昨年秋コンスタンチン・ペトロフスキーの長男ニック(ニコライ)が父祖の地・サハリンを訪れるというスメカーロフ氏からのニュースに接し、私もペトロフスキー家への関心を刺激され、北海道立文書館でこの新聞記事を入手したが、その他の関係資料検索には至らず仕舞いとなった。また、この時のニックのサハリン訪問も諸事情で実現しなかったのである。ところが今年3月、スメカーロフ氏からペトロフスキー家の皆さんが9月に来訪することになったと知らせてきた。今度はかなり確実な情報のようである。そこで、既に発表されていたスメカーロフ氏のペトロフスキー家の物語「母国ロシアへの郷愁」3を全文読ませていただきたいとお願いし、特別に送っていただいた。私は以前にもこの論考の断片を読んだことがあったが、今回はこの長い論考を全文を通して読むことになった。読み進むにつれ、心を打たれ、強く惹き込まれた。ペトロフスキー家が日本軍が5年間占領していた北サハリンの地でも麗しい「純ロシア」式の生活を営んでいたことにも感銘を受けたのである。ここでの詳述は省くが、この「母国ロシアへの郷愁」はニックの父親コンスタンチンが書いた「思い出の手記」であるが、全体としてたいへん資料的価値も高いという確信を深めた。北サハリンは日本軍による日露戦争時の占領とシベリア出兵時の尼港事件後5年に及ぶ「保障占領」など、日本との関わりが大きい。この書によってペトロフスキー家は「保障占領」期の日本軍と密接な利害関係があり、親交があったことも分かった。私はこの論考を翻訳・紹介する価値があると考えた。今回はスメカーロフ氏の諒解を得て「母国ロシアへの郷愁」を最初からページを追ってそのまま翻訳せず、まず新聞記事にある1925年前後を中心に訳出した。
 はじめに、新聞記事で「亜港屈指の資産家」と注目されている「ペトロフスキー家」とは?スメカーロフ氏は以下のように叙述している。
<過去において徒刑囚だったフィリップ・ペトロフスキーはこの町で石炭事業を興し、大規模なレンガ工場を建設した。その工場で生産されたレンガが今日残っているアレクサンドロフスクの一連の建造物や市の大通りにある数件の家々に組み込まれている...また、街にはこの家族を記念してペトロフスキー通りさえあるのだ...>

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小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)

 コンスタンチンの手記を紹介する前に新聞記事の写真説明を読んでみよう。 小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)
<亜港屈指の資産家として又亜港相談会役員の一人として近くは強盗事件*で亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られたコンスタンチン・ペトロスキー(ママ)の一家は我が軍撤兵と共に亜港を引き揚げなければならぬ運命となった。彼が北樺太に抱擁する幾多の富も今となっては全く何等の力を有していないのである。彼は悄然として妻エレナと共に長男コンスタンチン(九才**)長女アナスタシヤ(五才)次男アナトリー(七才)二女エレナ(四才)三女ナタリヤ(二才)等の手を取り新しき生活を営むために暖かい南国を指したのであった。一家が小樽経由長崎へ向かう途中ペトロスキー氏は北海屋ホテルの一室でしめやかな物語を聞かせて呉れたのであった。(m生)>(*強盗事件については後述。**「思い出の記」を書いた父親と同じ名の長男コンスタンチンは実際は1913年生まれの11歳である。)
 記事の本文:「北京交渉が愈々成立したと聞いて今更のように驚いたのは有産階級と日本軍に好意を持っている人達であった。どうしても引揚げなければならぬと覚悟はしているものの資力が充分でない為引き揚げてから何處に居を求めようかという不安を誰しも持っている。何れ五月撤兵の際軍の援助を仰ぎ方針を定める他はあるまいと協議中である。...中略(身の処し方に悩んでいる友人、知人の具体例等実名を挙げて亜港の状況を語っている)...自分等の家屋、土地、牛馬などは殆ど捨値同様の十分の一の価格で売らなければならなかった。吾々の汗と脂も空しく煙となったのである。実に悲惨な話だ。......吾々は委員を組織し南樺太行を懇請したが吾々が南樺太へ行っても農業は出来ず不適当である。日本の地を求めるに就いても北海道は家屋が不完全の為到底冬の寒さに耐えられない。吾々の求める處は南である。長崎辺りは暑さに慣れない我々が果たして耐えられるかどうか判らぬが、先ず落ちついておもむろに将来も考える積りだ」と語った。妻のエレナは「ほんとうに、吾々はロシアの冬を見捨てる事は此上もない惜しいことだ。ロシアのトロイカ(三頭馬車)に乗って走回る事も出来ない。然し安住の地を求める喜びの為には......これも止むを得ない事でしょう」と人形のように美しいナタリアのふさふさした金髪を撫で乍ら涙ぐんでいた。」

 ペトロフスキー一家の今後の課題この小樽以後の日本における消息についてスメカーロフ氏の論考は全く触れていない。また、後述のコンスタンチンの手記にも時系列的な記述はない。しかし、一家はどうやら日本に長く留まらずにその後の情勢によってハルビン、上海、香港へと安住の地を求めて移住したようだ。第2次大戦後はいったんドイツへも渡ったようである。そして一家が最終的に永住の地として落ち着いたのは、故郷サハリンのアレクサンドロフスクに自然も気候も土地の歴史さえ似ているオーストラリア・タスマニア島のロンセストン市だった。それは亜港脱出時11歳だったコンスタンチンが優秀な外科医となっていて、1951年市の病院長となって赴任したからである。
 スメカーロフ氏はペトロフスキー通りと言う名を残しているこの一家のことを州や市の文書館の資料、教会のメトリカ(洗礼簿)等で調べ、前述の資産状況、家族構成と出生記録等などを収集した。また、ペトロフスキーの刻印のあるレンガまで見つけたのである。そこで、今度は1925年以降この一家がどうなったのか、その子孫は現在どこかで健在なのかを調べることになった。2004年、スメカーロフ氏は国立サハリン州歴史文書館で資料検索をしていたとき、返信宛名のあるサハリン州政府宛のコンスタンチン・コンスタノヴィチ・ペトロフスキー氏の手紙とそれに対するサハリン州知事が出した以下のような「招待状」ともいうべき返信を発見したのである。
<親愛なるペトロフスキー様、知事として私は貴方をサハリンへ招待いたします。貴方のご都合の良い時にいつでもサハリンを訪問され、貴方のご家族の歴史と深く結び付いている場所をご覧になるため貴方の故郷、アレクサンドロフスク・サハリンスキー市を訪問されることを提案いたします。貴方と貴方のご親族の方々のご多幸を心から祈念いたします。 1992年9月2日 サハリン州知事 V・P・フョードロフ>
 スメカーロフ氏にとってこれは最も望んでいた大発見だった。早速、コンスタンチンの返信用宛名に手紙を出して、ペトロフスキー家との文通が始まった。後に分かったことだが、サハリン州知事からの招待状を同じ1992年9月中には受け取っていたコンスタンチンは、ひどく喜んで、故郷訪問の準備を始めていたが、高齢になっての71年ぶりの故郷訪問への期待は興奮と不安をももたらしたのだろうか、出発を控えた1995年4月、82歳の誕生日のお祝いを前に脳出血により急逝したのだった。
 現在スメカーロフ氏の文通の相手はコンスタンチンの長男、医者で世界的に有名な内分泌学者として活躍するニコライ(ニック)・コンスタチノヴィチ(1959年生)である。ニックは仕事が超多忙にもかかわらず、依然として母国ロシアへの関心を失わず、資料集めを続け、父の残した手記に手を入れ、ペトロフスキー家の歴史を書いていたのだ。そこで二人はお互いに資料を交換し、情報を伝え合った。やがてスメカーロフはぜひニックに会いたいと思い、オーストラリア行きを模索するようになった。しかし、それは簡単にはいかず、延び延びになっていた。ロシア人がオーストラリアを個人的に旅行しようとすると様々な障害があったのである。
 ペトロフスキーに会いたいという彼の願い、それが急転直下実現したのは、思いがけず援助の手を差し伸べてくれた同郷人のおかげだった。すなわち、サハリン州ムガチ村出身者でシドニー在住のエレーナ・ポターシニコヴァ(フェドレンコ)がその人である。そして2013年10月、スメカーロフとニックの素晴らしい邂逅の場所となったのはエレーナの家だった。シドニーにはニックと妻のシャーレン、ニックの妹のリーザが来てくれた。言葉の問題は全くなかった。ただ、話の中で微妙なニュアンスを伝えるときにムガチ出身のエレーナが通訳してくれた。
 そして、この時の対談とニックの父コンスタンチンが残してくれた英語で書かれた「思い出の記」が一家の物語の中心的な資料となった。スメカーロフ氏はこの英語版の手記をロシア語へ翻訳したが、それにはかなりの時間を費やしたという。手記を読了したスメカーロフ氏の感想は、「思い出の記」の著者の見解は相当に主観的なものに思えたという。しかし、サハリンの歴史をこのように主観的に述べた見解は長い間わが国、すなわちソ連時代にもロシア時代になってもなかったのではないかという新鮮さだった。そこでスメカーロフ氏はコンスタンチンの「思い出の記」を土台にして書いた論考に「母国ロシアへの郷愁」というタイトルをつけ、合間にG.S.の表記で注釈とコメントを書き込んだ。その論考から今回は「北海タイムス」の記事との関連で、ペトロフスキー一家が亜港を脱出するまでの2年ほど前から日本軍の砕氷艦で小樽港到着までをコンスタンチンの筆による「思い出の記」から紹介したい。それ以前の一家の歴史等は改めて次号以下に回すことにした。

 1923年、サハリン島は実際のところ大変平穏無事と言える状態だった。住民は豊かな暮らしを営んでいた。誰も政治について話すものは居なかった。島に駐屯している日本軍は住民に対して友好的だった。日本軍は地元の行政府に干渉することもなかった。住民の多くがこの状態はしばらく続くものと思っていた。しかし、実際はそうではなかったのだ。運命はサハリンの住民にいつものように生活の転換点となる大きな事件を準備していたのであった。
 1924年になると、町では日本はソ連邦へのサハリン北部の返還についてソビエト政府と交渉しているという噂が広がった。もちろん我々には交渉の詳細は分からなかったが、交渉が行われていること自体を島の住民は信じていたのである。9月になって日本駐屯軍最高司令官の高須将軍がわが家を訪れた。秘密の話し合いの中で高須将軍は北サハリンは間もなくロシアに返還されることになっていると父に断言したのである。このような大転換の知らせは僕の両親を当惑させた。僕たちはボリシェヴィキに我々が捕まった場合どうなるかということを既に予測できたからだ。僕たちの家族はもう何年にもわたって新政権のブラックリストに載っていたからである。
 故郷アレクサンドロフスクを引き払うことを決めることは大変困難だった。特に祖父のフィリップには辛い試練だった。祖父はここサハリンの地で家族の安寧のために忍耐強く、過酷な労働をあれだけ長い年月続けなければならなかったのだ。彼がもし「徒刑囚」のように労働しなかったならば、決してこの類まれな財産を築くことはできなかっただろう。一家の事業を築き、安定させて、運命のいたずらを逃れることが出来たのだが、そのことに何か悪いことがあったのだろうか?そうだ、祖父は帝政が崩壊した後、かなりの資金を白衛軍の運動に送っていたのは確かである。なぜなら、祖父は現在の体制はロシアにとって敵であると確信していたからだ。僕たちの家は依然として黒い宝石と言われる石炭を所有していた。僕は祖父がボリシェヴィキと戦っているシベリア政権に約50万ルーブルを金貨で送ったと聞いたことがある。紙幣はロシア領内では流通しなくなっているとのことで、ペトロフスキー家はツァーリの肖像入りの金貨で全額を集めたのだという。
 日本軍がアレクサンドロフスクに上陸したとき、祖父はまだ石炭の採掘事業を続けていた。1924年にペトロフスキー家は高品質のサハリン炭を日本に売るようになったが、この取引は好成績を上げていた。この炭鉱を持ち出すことはもちろんできないが、この島に留まることも危険だ。この問題について父と高須将軍の間で話し合いが行われていた。二人はペトロフスキー家の将来についてどうすべきかを決めていたのである。大いに尊敬されている日本人が父に助言したのはこうであった。日本における最大財閥の一つ・合資会社<ミツビシ>がペトロフスキー炭鉱の獲得に関心をもっている。この炭鉱の高品質の石炭(無煙炭)は日本では大変大きな需要があるので、この会社がこの石炭の採掘を引き受けたいという。「ミツビシ・コーポレーション」は現在炭鉱で働いている人達を雇用する用意がある。そして、この炭鉱で1924年末から1925年年初にかけての石炭採掘をする代償として会社はペトロフスキー一家を必要になったら直ちにサハリンから脱出する機会を提供するというのであった。この提案は、祖父フィリップが新体制の犠牲にならないためにできるだけ早く島を出るという考えと合致した。そこで、祖父はこの協定に同意し、サインしたのだった。

 スメカーロフ氏はサハリン州国家歴史文書館で全露中央執行委員会全権委員会の文書にペトロフスキー一家の財産が以下のように記載されているのを見つけ出した:
 亜港市中心街大通りに8戸の家屋、2万個製造能力の煉瓦工場、アレクサンドロフスカヤ通りの広大な宅地、残高9195ルーブル6,50カペイカのペトロフスキー炭鉱4
 スメカーロフ氏は「思い出の記」を残したコンスタンチンの長男ニコライとの談話から分かったこととして、ペトロフスキー家が一番望んでいたのは、彼らの資産に対してボリシェヴィキ側に補償してもらうことだったという。協定書によると、ソ連邦が日本から炭鉱を引き継ぐとき「ミツビシ」に対し炭鉱の額面価格を支払うなら、日本の会社「ミツビシ」はそのお金をペトロフスキーに支払うことになっていた。しかし、知られているように、全露中央執行委員会全権委員会は北サハリン受領の際、炭鉱に対しては1カペイカも支払わずに国家の必要のために国有化してしまったのだ。ペトロフスキー家は自分たちの期待を裏切られてしまったということになる。日本にいる間にも一家は何らの補償金も受け取っていない。そこで、日本側とペトロフスキー家の間にはその関係に初めての亀裂が生じたのであった。(この部分はスメカーロフ氏のコメントである。)
 今や日本側は様々な口実の下にペトロフスキー家と合意調印した取引協定の遂行を引き延ばしていた。そして、この協定問題で交渉が続いているとき、更に一つ実に驚くべき事件が起こったのである。(これは前述の新聞記事の写真説明の枕詞にあった「強盗事件」のことで、「亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られた」という事件で、コンスタンチンの「思い出の記」では非常に詳細に事件の顛末が述べられている。しかし、ここではコンスタンチンの記述を使い、そのダイジェストによって事件の概要だけを紹介したい。)
 
 1924年12月1日、その日は僕の祖父フィリップの「名の日のお祝い」(自分の洗礼名があやかった聖人の祭日に当たる日)で、従来は大勢の親戚知人を招いて盛大に行っていたが、その年は時節柄簡素に祝うことになった。そのうえ大変な雪嵐で遠くの親戚は出席不可となっていたが、早めに到着した近い親戚や隣人何人かが集まっていて、その中には我が家と親しい日本駐屯軍副指令官高須将軍も来ていた。祖父と高須将軍は向かい合って座り、長男の僕も加わることが許されて、テーブルを囲んでいた。やがて宴会が始まって料理とお酒で賑やかな談笑となったが、それもさらに強まった風雪が窓をたたく音で時々かき消された。その時、突然台所へのドアがばたんと開き、拳銃を手にマスクをした男が二人入って来て、テーブルについている人達に無言で乱射し始めたのである。僕はテーブルの下に伏せて弾を受けなかったが、高須将軍は胸と顔に弾を受け血だらけになって床に倒れていた。男はさらに将軍の頭を撃って、出口へ飛び出して行った。その前に僕も頭を拳銃で殴られ、額に弾を受けて倒れたが、さらに僕を狙った拳銃を妹が男にしがみついて撃たせまいとしていた。その後祖父が別の男と絡み合いながら奥の部屋から出てきて格闘していたので、僕も男に飛びかかり、男のマスクをはぎ取って顔を爪で引っかきまくった。男は僕を引き離し、祖父から逃れて出口へと逃げ去った。そこへ父が日本軍の兵士を伴って到着し、一件落着した。表に逃れていた母も額に傷を受けていた。
 その後警察の捜索により、犯人たち5人が捕まり、尋問によって真相が明らかになったが、彼らはつい最近ペトロフスキー一家を無き者にする目的で大陸から渡って来ていたのだ。この計画が成功した場合、彼等への報酬は我が家から略奪した宝石類などすべてを与えるというものだった。この極悪人たちを日本側は処刑せず、ボリシェヴィキ到来時の報復を恐れて、刑務所で監禁を続けたのである。
 高須将軍は半死の状態で血の海の中に横たわっていたが、日露の医師が駆けつけ、何とか生命はとりとめることが分かった。然し、将軍を動かすことは出来ないので、将軍はその後ずっとわが家の一室で数週間も治療を続け、武器を持ったパトロール兵がわが家と表通りに常駐していた。わが家では僕を含めて全員が連発拳銃を携帯するようになった。結局、高須将軍が全治するまでにその後6か月もかかったのである。
 僕は頭を犯人の拳銃で殴打されたため、算数が出来なくなり、他の科目でも以前は覚えていたことが分からなくなった。両親は心配してサハリンを去るまで全教科の家庭教師をつけたが、はかばかしい成果は上がらなかった。
 われわれペトロフスキー家は全速力でサハリン脱出の準備を始めていた。それは1925年の冬だった。タタール海峡は氷に閉ざされていた。日本の島・北海道(そこが僕たちの目的地だった)へ到達するには二つの道があった。島の南部へそり道を荷馬車で行くか、砕氷船で氷を割りながら海峡を通って行くかである。アレクサンドロフスクへ接岸する砕氷船は日本の軍艦の構成艦とされていた。また、日本帝国軍艦の伝統として艦上に女、子供を乗せて航行できないという規則があった。驚いたことに、日本側は僕たち一家を輸送するために一時的に軍艦というステータスを変更したのである。それはペトロフスキー一家を最も安全な方法で日本へ送り届けるためであった。
 祖父のフィリップは不動産の始末をしたり、友人たちに家財や家畜類等を分与するためにアレクサンドロフスクになおしばらく残っていた。祖父はその次の便で到着して、日本で僕たちと合流した。先に書いたように祖父は「ミツビシ・コーポレーション」と炭鉱に関する協定書に調印してきたのである。もちろん、取引の総額は僕には分からなかった。契約書は調印されたが、会社の役員たちはお金を払うことを引き延ばしていた。僕たちが日本に到着したら全額を受け取ると定められていたのである。コーポレーションは同様の条件で僕たちの馬全頭と厩も買い取っていた。僕たちの純血種の競走馬と美しいその母馬も日本人の手に渡ったのである。こうしてある冬の日に僕たち一家は日本へと出航する砕氷艦に乗り込んだのであった。

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亜港投錨地の日本の砕氷艦、このタイプの砕氷船で一家は亜港を離れた。

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一家が後にした1925年冬の亜港の街並み

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1920年代の亜港の市街(日本の絵葉書より)、この通りにペトロフスキーの屋敷があった。

外国船舶の船上生活は大変快適なものだった。乗組員はそれぞれ自分の任務を遂行し、僕たちには西洋料理の食事を提供してくれた。水夫たちは僕たち子供に対してとても親切だった。僕たちと遊んでくれて、悲しい考えから気をそらせてくれた。1日目の航行では砕氷艦は海峡の氷を砕いて進んだ。僕たち家族は船酔いしてしまったママ以外は誰も不快な気分にならなかった。2日目になって砕氷艦が氷の傍をかすめて荒々しい外洋へ出ると、船酔いは父を含めて全員に広がった。僕はポートワインを飲んで大々的に吐いた時のような気分だった。わが家の人間は誰一人食べ物を見向きもしなくなった。砕氷艦の乗組員は僕たちのことを心配してどうしたら船酔いに打ち勝てるか助言してくれた。この間砕氷艦は安定性を欠き、それに加えて嵐のために全くガタガタになっていた。船は波を受けて右へ傾き、次の波で左へ傾くという風に何度も8の字にのたうった。しかし、砕氷艦は何とか北海道の小樽港にたどり着いた。船が港の水域に入ると、海は穏やかになった。その時僕は不意に僕がまだ火器・連発拳銃を胸ポケットに入れていることを思い出した。サハリンを出る時、父から日本に持ち込み禁止になっているものを持って船に乗るのは危険だと注意されたことも思い出した。どうしたら良いのだろう?そのまま置いて行くか、甲板から投げ捨てるべきか?長いこと考えあぐねた後、僕は苦渋の決断をして「わが友」と別れることにした。僕はそっと甲板に行き、誰も見ていないことを確かめて連発拳銃を水の中に投げ捨てた。
 僕たちは助かったのだ、僕たちはみな一緒にいる、一家の問題はみな後ろに捨て去ってきたのだという漠然とした安心感が、故郷に別れを告げたという悲しみをしばらくのあいだ忘れさせてくれた...


1 「シュヴェツ家との出会い」、『会報』第35号(2015年2月16日)
2 *Без Грифа ≪СЕКРЕТНО≫ Страницы истории органов безопасности на Сахалине Курильских островах // Н.В.Вишневский,Г.Н.Смекалов, "Секретные миссии в Ако", стр.17 -38, Южно-Сахалинск, 2012
 *Г. Смекалов. Основатель самбо, выпускник Токийской духовной семинарии, спортсмен и разветчик Василий Ощепков в журнале ≪Духовно-нравственное ВОСПИТАНИЕ ≫, 1-2015 
3  Блог Григория Смекалова. Сны о России ( из жизни сахалинского эмигранта), 著者の解説を得て ≪Сны о России≫ を「母国ロシアへの郷愁」と意訳した。(サハリン・エミグラントの人生から) АСТВ.РУ БЛОГИ вход регистрация
4  ГИАСО, (国立サハリン州歴史文書館) ф.23

「会報」No.37 2016.7.31  特別寄稿

「樺太の旅」記録フィルム紹介

2017年3月16日 Posted in 会報

 奥野進

 市立函館博物館が所蔵する16ミリフィルムのなかに「樺太の旅」記録フィルム(500815)という資料があります。このたび記録映画保存センターの協力によりDVD化することができました。
 「市立函館博物館蔵品目録3 歴史・民俗資料編」の説明書きには、小島清吉、昭和9年7月26日~8月1日の記載があります。
 小島清吉は、1928年(昭和3)の時点で函館商工会議所議員であり(「函館市史」通説編第3巻)、1939年(昭和14)には帝国製菓株式会社取締役を務めていました(「昭和14年版 函館要人録」函館日日新聞社)。1934年(昭和9)の函館といえば、3月21日に「函館大火」に見舞われたばかりであり、大火からわずか4か月しか経っていない中での、樺太訪問の目的も気になるところです。
 5分40秒ほど映像ですが、小樽?-稚内-大泊に至る船旅や市街地の様子、オタスの風景、列車での移動の様子等が映っていました。

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大泊港駅への到着

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オタスでの先住民の生活

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鉄道駅の物売り

 博物館所定の資料利用手続きで、閲覧等の利用が可能ですので、興味のある方は市立函館博物館までご相談ください。

(市立函館博物館勤務)

「会報」No.37 2016.7.31  史料紹介