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1925年日本軍撤退後サハリンにおける横綱大鵬のウクライナ出身の父親、M.ボリシコ

2023年5月 6日 Posted in 会報
小山内 道子

はじめに
 1990年、アレクサンドロフスク・サハリンスキー出身のニコライ・ヴィシネフスキーの最初の職場はポロナイスク市(旧・敷香)行政府だった。まだ残留日本人や日本語が堪能な朝鮮人が健在だった。彼らとの交流でオタスやボリシコの思い出話などを聞いて樺太時代のサハリンの歴史に興味を募らせ、資料を収集した。最初の成果は概説書『オタス』(1994年)となった。ヴィシネフスキーが次に取り組んだのはサハリンでも既によく知られていた大横綱大鵬の父親・ボリシコの足跡だった。「マルキィアン・ボリシコ」という論文となり、『サハリン州郷土博物館ビュレティン』に掲載されたのは1995年である。この論文は短縮版が小山内の翻訳で『文藝春秋』により「大鵬の父親サハリンに死す」のタイトルで掲載された(2001年5月号)。
 2014年、ポロナイスク市は盛大な開基145年記念祭を行った。これに合わせて大鵬幸喜の生家跡が公園として整備され、大鵬銅像が建立された。ヴィシネフスキーはこれを記念して先の論文に加筆、大鵬の伝記を加えた大著『チェルペーニエ―ボリシコ・納谷ロ日ファミリーの驚くべき物語―』をポロナイスク市の協賛を得て刊行した。≪ТЕРПЕНИЕ≫とはロシア語で「忍耐」の意だが、ポロナイスク市が面しているチェルペーニエ湾を指す。これはオランダの探検家M.H.フリースが1643年7月25日、この湾に差し掛かった時、濃霧と悪天候のため8月5日まで航行できず、ひたすら忍耐して天気の回復を待ったという故事に由来するという(1)。当初は岬をチェルペーニエ岬と呼んだが、次第に湾全体にもこの名がついた。樺太時代はタライカ(多来加)湾と呼ばれた。大鵬が自己の相撲人生の座右の銘として「忍」を掲げていたことにも懸けたタイトルである。
 本稿は私が翻訳を終えている≪ТЕРПЕНИЕ≫を下地とし、私の許にある資料などで構成する。ロシア語文献、1925年の革命委員会の政策に関する資料はヴィシネフスキーが挙げている資料を参考までにそのまま記した(2)。

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ポロナイスク市ボリシコ家跡地の公園に建立された大鵬銅像(小山内撮影)
2014年8月15日除幕式の日に

ボリシコ一家のサハリン移住
 ≪ТЕРПЕНИЕ≫は大鵬のルーツを歴史的に検証するため、国立サハリン州歴史文書館(ГИАСО)の資料を初め、様々な資料を駆使して執筆された。前半は主に大鵬の父親マルキィアン・ボリシコの生涯を中心に書かれている。
 1890年代末、マルキィアンが10歳の頃、ボリシコ家は広い農地を求めてウクライナのハリコフ(ハルキウ)東部のルノフシィーナ村を出て、オデッサ(オデーサ)港から義勇艦隊に乗り、極東のザ・キタイシィナ(中国後方地方)へ集団移住した。移民が到達したウスリー鉄道沿線の中心都市イマン駅北部の開拓地はまともな道路もない未開の原野と森林地帯だったため、故郷に戻る人も多かったという。ボリシコ一家もこの開拓地を離れ、ニコラエフスク・ナ・アムーレ地方を経てサハリンへ渡り、最初はウラジーミロヴォ村、その後クラースヌィ・ヤール村に落ち着いた。19世紀末のウクライナから極東への移民はロシア帝国がアイグン条約、続いて北京条約によってアムール州と沿海州を獲得、ロシア帝国に併合したことにより、人口希薄のこの地方へ移民を奨励し、特典を付与したことによる。そのころウクライナでは農村人口の増加と土地改革による農民の窮乏化のため、多くの農家が政府奨励の移民へ応じたのである。1878年にオデッサ港からサハリンまで航行する義勇艦隊の運行が始まったことにも呼応する。統計によると19世紀末ルノフシーナ村の属するポルタヴァ県から極東へ移住した農家は4万2千所帯に上る(3)。

ボリシコ家ルーツの証明
 ウクライナが日本で有名になったのは1986年のチェルノブイリ原発事故以来であろう。ロシアによるウクライナ戦争が始まってからは、折々「横綱大鵬はウクライナ出身だったそうだ」と話題に上ることがある。これは単なる噂ではない。確実な資料をヴィシネフスキーが発見、≪ТЕРПЕНИЕ≫に原文が掲載されている。
 「私、ボリシコ、マルキィアン・カルポヴィチは1885年1月3日、ポルタヴァ県コンスタンチノグラート地区ルノフシィーナ村で生まれました。出身民族はウクライナ人です。両親は農民でした。サハリンには1894年、移住者としてやって来て、最初はウラジーミロヴォ村に、その後クラースヌィ・ヤール村に住んでいました。サハリンで両親は農業に従事していましたが、私は長年にわたり数々の鉱山調査隊で、労働者、また案内人として働きました。ロスロフツェフ、ポレヴォイ、プシカリョーフ遠征隊で働いたのです...」(4)
 これはマルキィアン・K・ボリシコが最晩年に守衛として勤めていたサハリン州郷土博物館アーカイブの個人ファイルに残されている自筆の履歴書である。因みにボリシコは大変達筆だったといわれるが、この履歴書も美しい筆跡である。
 北サハリンでは日ロ戦争後、石炭・石油埋蔵地探索の鉱山調査隊が多く組織された。ヴィシネフスキーはボリシコが名指した鉱山調査隊の名簿を調べたが、ボリシコの名を確認できなかったという。ボリシコ家についてはアルヒーフに両親、兄弟姉妹の名前、生年月日等が残されており、マルキィアン以外は皆勤勉に農業に従事し、かなり豊かな安定した生活を築いていた。マルキィアンだけは農業を嫌って商売の道に進んだ。行商から始め、様々な活動を経て、州都アレクサンドロフスク(日本呼称・亜港)で有数の商家サゾーノフ家に出入りしてサゾーノフ家のビジネスの一端を担うようになる。1915年、戸主アントン・サゾーノフが結核で死去した後、寡婦のマルガリータと結婚、1919年には長女ニーナを儲けている。1920年、日本軍が北サハリンに軍政を施くと、物資調達や情報提供などで日本軍と関係を深め、このことから社会的に名が知られ、経済的にも大いに潤ったと思われる。しかし、1925年、日ソ基本条約締結により北サハリンの日本軍撤退とソヴェート政権移行が決定すると、日本軍、日本人と何らかの関わりのあった人々は、ソヴェート政権の報復を恐れ、様々な形で国外へ脱出して行った(5)。ヴィシネフスキーは主な人たちの名前を挙げているが、本稿ではボリシコを主に私がかつて翻訳書、論稿などで関わった少数の人たちに限って見ていきたい(6)。

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マルガリータ・サゾーノヴァと娘たち
白い服がニーナ 1925年頃
2001年 筆者がニーナから譲り受けたもの

マルキィアン・ボリシコとニーナ
  北サハリンにソヴェート政権が成立する前の段階でフィリップ・シュヴェツと若い妻ゾーヤ・シュヴェツはハルビン経由で函館へと去って行った(7)。ペトロフスキー一家は日本軍の配慮により、軍の砕氷船で小樽港へ脱出、長崎を経て香港へと渡って行った(8)。
 マルキィアンは、ソ連政権下では非常に多くのものを、いや全てのものを奪われるのではないかと予感し、1925年3月に日本人たちと共に北サハリンを出ていく決心をした。日本軍政部から日本入国の正規のビザを出してもらったマルキィアンは馬車に家財を積んで当時両親が住んでいた内陸部に位置するルイコフスコエ経由で樺太へと出国するのである。
 筆者は2001年、べリャーエフ氏の紹介により、モスクワでマルキィアンとマルガリータ・サゾーノヴァの娘、1919年生まれの大鵬の異母姉・ニーナ・マルキィアーノヴナ・サゾーノヴァに会って話を聞いた。

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ニーナ・マルキィアーノヴナ・サゾ―ノヴァ
(モスクワの自宅で 小山内撮影 2001年)

 1925年、6歳だったニーナはその時のことをよく覚えていた。父親はニーナを馬車に引っ張り上げて、自分のそばに座らせると、すぐに馬車を出発させた。二人を母親マルガリータと5人の娘たちが黙ったまま見送った。と突然、娘たちの一人・リーダが愛馬オルリクに飛び乗り、二人の乗った馬車を追いかけて来た。ニーナにはリーダがずいぶん長いこと、何キロも走ってきたように思えたが、ずっと何度も叫んでいた:「マルキィアン!あそこへ行って、一人でニーナをどうするつもりなの? 私たちはここに一緒にいるべきだわ!」マルキィアンはとうとう耐えられなくなって、馬車を止めた。そして、ニーナをリーダに渡した。父親はそのまま馬車を走らせて去って行った。それが父親とニーナの永久の別れとなった。二人はもはや二度と会うことはなかったのだ。マルキィアンがその後樺太で築いた日本人・納谷キヨとの家庭で生まれた兄弟たちと会うこともなかったのである。ニーナの思い出の中で父はやさしくて、とても背が高い人だった。ニーナは父と話すときはいつも頭を持ち上げて話していた。マルキィアンはニーナを甘やかしていて、出かけると必ず色々なおみやげを買ってきてくれた。ニーナは父と一緒にルイコフスコエのおばあちゃんのところへ行ったことを覚えている。おばあちゃんの焼いてくれたピローグがとても美味しかったことも。
 ボリシコを上敷香まで送ってくれたのは彼の使用人だったパーヴェルとグリゴーリーだった。二人はそこで別れてアレクサンドロフスクへ戻って行った。その後のボリシコの生涯の詳細については割愛する。最初大泊で暮らし、北海道から渡ってきて大泊の洋裁店で働いていた納谷キヨと1927年頃結婚、その後敷香へ移住して大きな屋敷を構え、牧畜業などを経営、成功して「ボリシコさん」として知られていた。横綱大鵬となる幸喜はこの敷香でマルキィアンとキヨの3男として1940年5月に誕生している。1945年8月のソ連軍侵攻後の引揚では、納谷キヨ一家と離れて日本軍諜報部に徴用されていたマルキィアンは、家族と合流することが出来ずに一人ソ連領となったサハリンに残されたのであった。

ソヴェート政権樹立後の北サハリン
 日本軍が北サハリンから撤退した1925年5月14日以前に、サハリン・アレクサンドロフスク市にはR.シシリャンニコフを議長とする革命委員会が創設され、任務遂行に取り掛かっていた。
 最初の課題は、大衆にソヴェート的規律を浸透させるために有能な働き手を有する機関を形成し、全般的に政治的事業を進展させることであった。他に学校教育に関する教員の資質や教科書の問題、住民の医療保障を組織立てる重要な課題があった。
 日本軍撤退の時期に「財産を有する者」が国外へ出ていったことが表面化し、日本軍と共に逃亡した人たちの名簿作成のための特別委員会が設置された。1925年6月5日、サハリン革命委員会の定例会議が開催され、国外へ脱出した人々と彼らの財産没収に関わる問題を審議した。ソ連邦ロシア共和国の法令に基づいて国境外へ脱出した旧亜港市民を50名と確定し、ソ連邦市民としての権利全てを剥奪すること、国外逃亡者の全財産を没収することを決定した(9)。

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サハリン革命委員会のメンバー
前列右端がシシリャンニコフ

ペトロフスキー家、シュヴェツ家、ボリシコ家の財産没収について
 この時期の革命委員会の決定は、当会会報No.37で紹介した亜港から脱出したペトロフスキー家とシュヴェツ家の財産没収について具体的に明言している。その資料をヴィシネフスキーはサハリン州国立歴史文書館で発掘している。
 「この件とは別個に企業家F.ペトロフスキーの財産(家屋8戸、煉瓦工場、建物と貯蔵石炭を含む炭鉱)とD.シュヴェツの財産(家屋、倉庫の建物と貯蔵商品を含む店舗)の没収に関する指令が出された。革命委員会は、独特な決め方だが、没収した財産の事前差し押さえを行った。すなわち財産を所定の機関に引き渡すまでは現在それらを利用している市民の保有に委ねるという決定を行ったのである。」(10)
 「7月7日のサハリン革命委員会の定例会議において、現在、会社「ミツビシ」の管理下にあるが、国外に逃れたペトロフスキー氏所有の馬を没収することが決議された。」(11)
 サハリン革命委員会の会議でボリシコの名は何度も話題に上ったという。
 1925年5月、サハリン革命委員会はウォッカおよびその他の酒類の登録に関する決定を早々に採択した。ワインおよびウォッカ等酒類の販売者になっている者は、3日以内に全製品の保有量をサハリン労農警察署に登録すべきことが公布され、この決定を遂行しない違反者は密輸業者と見なされるとした。 
 マルキィアン・ボリシコ貯蔵のアルコール製品についての情報は提出された。しかし、これだけですべてが終わったわけではなかった。
 10月16日サハリン革命委員会は、定例の会議で、またそれ以後の会議でも、ダリスピルト管理部長から申請された「市民ボリシコの所有するワイン工場の国営化について」検討した。1923年7月16日付全ロシア国民経済会議の議事録第356号及び1923年9月22日付極東革命委員会の決定に準拠して次の決定がなされた。
 「市民ボリシコ所有の工場はすべての建造物と設備類と共に国有財産であるとみなし、ダリスピルトに引き渡される」(12)
 このワイン工場の国有化の決定に対して誰一人反対する者はなかったが、ただ一人異議申し立てを行ったのはボリシコの妻であり、共同事業者でもあったマルガリータ・サゾーノヴァだった。
 1925年12月11日、サハリン革命委員会の会議において「市民サゾーノヴァ・ボリシコのワイン工場に付属する建造物としてあやまって登録された倉庫の返還を求める請願書」の審議が行われた。物怖じしないマルガリータには明らかに勝算があったようだ。サハリン革命委員会は結論として以下のように倉庫の移動の決定を行ったのである。
 マルガリータ・サゾ―ノヴァの財産について
1 倉庫を国有化する財産の目録から除外する。
2.倉庫の所有者には2週間の期限内に倉庫を所有の敷地内に移動させることを要求する。
3.市民サゾーノヴァ・ボリシコおよびボリシコの所有権を解明するため、この件は検察官にゆだねること(13)。
 ボリシコの件に関する個所はサハリン革命委員会には1925年の最後の日に提起され、以下の決定が採択された。
 「登録され、個人的に保有されているウォッカその他の酒類の廃棄処分について」の以下の決定が採択された。
 「北サハリンにおける国家による酒類専売制の導入と共にアルコール飲料の私人による自由販売は禁じられている。そこで、市民リソフスキー、テレーギナ、ボリシコ、ザツェーピン各氏には、それぞれが保有するウォッカその他の酒類製品を国家酒類集積所("ゴスビンスクラート")へ引き渡すよう要求する。」(14)
 しかし、マルキィアン・ボリシコは既にこの時はるか樺太へと逃れていた。従って事業は他の人たちが引き継いだのだ。そして1926年には1年間の一時休業を経てこのアレクサンドロフスク・ワイン工場は再びフル操業を始めたのである。
 以上日本軍撤退後北サハリンの革命委員会が行った決定と措置に関しては文書が保存されており、国外へ去ったペトロフスキー、シュヴェツ、ボリシコの具体的な事業も明らかになっている。筆者がもう1点注目したのはボリシコが確かにワイン工場を所有していたこと、マルガリータを「ボリシコの妻であり、共同事業者」としていることである。モスクワのニーナ・サゾ―ノヴァの父称がマルキィアーノヴナとなっていることでも、ニーナが大鵬の異母姉であることは確認できる。ただニーナは北サハリンでボリシコの娘であることを秘隠しなければならなかったため、ボリシコの姓は名乗らず、父親の写真もすべて焼却したという。ただニーナは大鵬家にあるボリシコの唯一の写真にとてもよく似ているのである。

大鵬とウクライナ
 2001年2月、ユジノサハリンスク駐在の北海道新聞記者藤盛一朗氏はヴィシネフスキーの論文に刺激され、大鵬の父親マルキィアン・ボリシコの故郷ルノフシィーナ村と地域の中心都市ハリコフを訪問し、ボリシコの生涯を「国越えて」という5回の記事で報告した。ウクライナでは既に大鵬の活躍と相撲は知られて顕彰されていたが、この記事も契機となり、駐日ウクライナ大使の大鵬相撲記念館(弟子屈町川湯温泉)訪問、大使の大鵬との交流なども伝えられた。2011年にはウクライナ大統領は自ら指令を発して大鵬に第3級「功労賞」を授与したのである。授与式は盛大に行われたが、大鵬はプーチン大統領に遠慮してこの件を喧伝しなかったようである(15)。
 現在ロシア・ウクライナ戦争となり、ウクライナでの大鵬顕彰がなお盛んになるかも知れない。しかし、大鵬幸喜の生地が日本領樺太時代の敷香(現ポロナイスク)であることは変わりない歴史的事実である。しかし、130年を経た今、民族と生地の関係は複雑な様相を呈している。

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マルキィアン・ボリシコ
大鵬家に残されている唯一の写真 

註 
(1) Высоков М.С. Голландские моляки у берегов Курильских островов и Сахалина // Западноевропейские мореплаватели у берегов Сахалина и Куриль-ских островов (XVII--XVIII вв.). Южно-Сахалинск, 2010, с.17.
(2) 小山内道子「大鵬幸喜(1940-2013―昭和の大横綱大鵬幸喜の生涯」、『新・日露異色の群像30』所収、生活ジャーナル、2021年、533~550頁。
(3) История Дальнего Востока СССР в эпоху феодализма и капитализма(XVIIв.--февраль 1917г. ) М.1991.с.233,232.
(4)Архив Сахалинского областного краевеческого музея. Личное дело Боришко М.К.
(5) 倉田有佳「日本軍の北樺太占領末期に函館に避難してきたロシア人(1925年4月~5月)」『函館日ロ交流史研究会会報』No.37;同「日本軍の保障占領末期に北樺太から日本へ避難・亡命したロシア人(1924-1925年)」『異郷に生きるVI』成文社、2016年、を参照。
(6) 1926年、北サハリンから日本領敷香に逃れたD.ヴィノクーロフについてはヴィシネフスキー著・拙訳の伝記『トナカイ王』成文社、2006年(同『オタス』北海道大学大学院文学研究科、2005年)がある。
(7) 北サハリン亜港から脱出したペトロフスキー家の足跡については、会報No.37~No.39、で紹介。
(8) シュウエツ家については、清水恵「サハリンから日本への亡命者 ―シュウエツ家を中心に―」『異郷に生きる ―来日ロシア人の足跡』2001年、成文社;小山内道子「大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァそして函館ゆかりのシュヴェツ家について」『函館日ロ交流史研究会会報』No.34;グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子訳「シュヴェツ家との出会い」『函館日ロ交流史研究会会報』No.35、を参照。
(9)(10)(11) ГИАСО. Ф. П-1 Л.34
(12) ГИАСО.Ф.П-1. Оп. 2. Д. 1. Л.107.
(13)(14) ГИАСО.Ф.П-1. Оп. 2.Д. 1. Л.128.
(15) 上記、註2に同じ。ページは特定しない、全般的に参照のこと。
*ГИАСО.の資料はヴィシネフスキーが≪ТЕРПЕНИЕ≫で提示しているものである。詳しいファイルの内容の提供を依頼したが、ロシアのウクライナへの軍事侵攻開始直後の依頼だったためか、返信は得られなかった。それに拠っての詳述は叶わなかった。

「会報」No.43 2022.6.15 会員報告