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長谷川海太郎にまつわる些細なエピソード

2023年5月 6日 Posted in 会報
舟川 はるひ

 ここに紹介するのは、長谷川海太郎(かいたろう)(1900--1935)と私の親族との関わりの些細な記録である。函館日ロ交流史研究会の方々にとっては海太郎よりもその弟達―ロシア文学者である三男、濬や「デルスウ・ウザーラ」を翻訳した作家、長谷川四郎―の方に関心があるに違いない。海太郎は函館とは縁があるが、ロシアと直接縁がある訳ではないので、海太郎の話題は函館日ロ交流史研究会でわざわざお伝えするほどの話ではないと私も考えていた。しかし濬や四郎の兄のエピソードも面白いと倉田有佳さんがおっしゃって下さったので、ご紹介することした次第である。海太郎については、説明の必要もないであろうが、一応略歴をまとめておきたい。
 海太郎は1900(明治33)年、当時『佐渡新聞』のジャーナリストだった長谷川清の長男として新潟県佐渡郡(現:佐渡市)に誕生した。1902(明治35)年に清が『北海新聞』の主筆となったのを機に函館に移住し、同地の小学校、中学校に通った。1920(大正9)年、渡米し現地の大学に入学するが中退。放浪生活を経て4年後に帰国した。
 1925(大正14)年、雑誌『新青年』に日本移民の生態に取材した〈めりけんじゃっぷ〉ものと呼ばれる連作コントを発表し、一躍注目を浴びた。海太郎を引き抜いた『中央公論社』は、彼に欧州旅行の機会を与え、その見聞録を出版する企画を立てた1。
 1928(昭和3)年3月、中央公論社の特派員となった海太郎は妻和子とともに東京を出発、下関→釜山→ハルビン→モスクワ→ロンドン→パリ→ブラッセル→アムステルダム→コペンハーゲン→オスロ→ストックホルムという行程を経て、同年8月ヘルシンキに着いた。ヘルシンキで夫妻を迎えたのが当時フィンランド代理公使として同地に赴任していた私の祖父、郡司智麿とその妻、操だった。以下は、操が後年息子の嫁(私の母)に語った話の又聞きである。
 ストックホルムの公使館から日本の作家夫妻がヘルシンキに向かうと連絡を受けた智麿はヘルシンキの波止場で二人を出迎え、公使館に案内して夕食をご馳走した。海太郎はフィンランドの「田舎」が見たいと言い、智麿に助言を求めたという。操は食後三味線の演奏を披露して喜ばれたそうである2。
 【写真1】は、智麿のゲストブックにあった海太郎の句と夫妻のサインである3。本名ではなく、ペンネームでサインしたのは、この旅行が谷譲次としての仕事であるという意識の反映だろうか。「思ひきやフィンランドの夜に撥の冴え」にある「撥」とは操の三味線のそれであることは間違いない。三味線の演奏に対する礼を述べた句と見てよいだろう。

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【写真1】ゲストブック

 【写真2】は、智麿のアルバムにあったこの日の写真である。椅子に座っているのが操で、右が海太郎、左が妻の和子である。操は初対面の二人に対して、「華やかな雰囲気を纏った背の高い美男と、小柄だがいかにも才気煥発な女性」という印象を持ったそうだが、確かに写真からもそのような雰囲気が漂っている。
 1929(昭和4)年6月、1年3ヶ月に及んだ欧州旅行を終えて帰国した海太郎は、その4ヶ月後、谷譲次名で『踊る地平線』を中央公論社から刊行した。同書には「奥の細道」と題した章があり、ヘルシンキの北東350kmのサイマ湖周辺まで足を伸ばしたことが書かれている。2日の予定を5日に延期しても去るのが名残惜しい気がしたというから、二人はフィンランドの田舎を気に入ったようだ4。

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【写真2】

 ヨーロッパ旅行の前後から海太郎は谷譲次、林不忘、牧逸馬の三つのペンネームを使い分けて旺盛な作家活動を開始した。その超人的な仕事で得た大金で、彼は鎌倉小袋坂に豪邸を建てた。しかし過労が祟ったのか、1935(昭和10)年海太郎は自慢の豪邸で急死する。35歳の若さであった。
 成金趣味と揶揄されたその豪邸は彼の死後まもなく売り出され、ある資産家に買い取られた。私の母は、6年後その豪邸に足を踏み入れている。母は1941年(昭和16)年11月に札幌市立高等女学校(現:札幌市東高等学校)から鎌倉女学校(現:鎌倉女学院)に転校したが、同じクラスに偶然その資産家の娘がいたのである。彼女に誘われて自宅に遊びに行った母は、そのあまりの豪邸ぶりに度肝を抜かれたが、もとの持ち主の名を聞いて納得したという。
 2011(平成23)年の秋、私は函館市文学館を訪れた。文学館で展示されている郡司成忠5のブロンズ像を見るためだったのだが、偶然にもその時文学館で海太郎の企画展が開催されていた。当時の森武館長に、海太郎と親族とのエピソードを語ったところ、興味を示して下さったので、同年12月写真【1】と【2】を同館に寄贈した。今後海太郎の企画展が開催される時には展示して下さるのではと期待している。

1 川崎賢子『彼らの昭和―長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎』白水社、1994年、pp.9-10。
2 操は、三味線の名取りだったので夫の赴任地で度々演奏を披露した。
3 郡司智麿の遺品に、ヘルシンキ駐在中公使館を訪れた人々のサインを集めたゲストブックがある。
4 谷譲次『踊る地平線』岩波文庫、1999年、p.312。
5 明治時代に千島探検を行なった海軍大尉。郡司智麿はその長男、私は曾孫にあたる。

「会報」No.43 2022.6.15 会員報告