函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

シンポジウムの開催にあたって

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

函館日ロ交流史研究会 会長 鈴木旭

 函館は、江戸時代末期に日本最初のロシア領事館とロシア正教会が開かれ、北の「文明開化」の窓口となり、明治末期以降は露領漁業の基地として、日ロ間の人的、物流の拠点として発展してきた。現在においても、市内には、在札幌ロシア連邦領事館函館事務所や、ロシア極東国立総合大学函館校が設置され、ユジノサハリンスクとは定期空路で結ばれ、また函館市とウラジヴォストーク市、及びユジノサハリンスク市とは姉妹都市の関係にある等、日ロ交流の重要な要になっている。
 私たちの研究会は1993年3月に発足して満10周年を迎えた。この間、研究会は、ウラジヴォストーク市にあるロシア科学アカデミー極東支部に属する歴史学研究所(略称)との研究交流を中心に、ロシア極東と函館の地域レベルの経済的、文化的、人的交流の歴史を掘り下げ、両国の相互理解を深めることに努めてきた。
 今回は、本会創立10周年を記念して、戦前、函館市で生活し、現在ロシア連邦サンクトペテルブルグに在住するガリーナ・アセーエヴァさんを招待して、ロシア人から見た戦前の函館の印象についてお話ししてもらうことにした。戦前の函館におけるロシア人の生活と一般市民との関係、函館が戦前の日ロ関係の中で果たした歴史的役割等を振り返り、今後の函館とロシアの交流関係の発展に役立てたい。

研究会の10年を顧みて

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

函館日ロ交流史研究会 会長 鈴木旭

 本研究会が誕生したきっかけは、1992年11月、私と長谷部一弘、清水恵の三人が、「函館とロシア極東地方の交流史」という課題で北海道科学研究費の助成を受け、ウラジヴォストーク市のロシア科学アカデミー極東支部、極東諸民族歴史・考古・民族学研究所を訪ねたことである(共同研究者には菅原繁昭も参加)。訪問した研究所ではB.L.ラーリン所長はじめZ.F.モルグン、A.T.マンドリック、B.M.アフォーニン氏等と懇談。そこで研究交流の話がまとまり、その受け皿として研究会をつくることにした。研究交流の目的は、函館とロシア極東地域にかかわる埋もれていた交流の歴史を、市民レベルの問題意識で掘り下げてみようというもので、両地域住民の相互理解と友好関係の発展に役立つと考えたわけである。
 会員は、発足当時から大きな変化がなく、現在52名で半数近くが市内在住者で、道内、関東、関西各地の大学教師、図書館、博物館職員、自治体職員、団体役員、議員、教会司祭など多彩なメンバーが参加している。発足当初の事業は、上記の歴史学研究所と毎年交互にシンポジウムを開催することであり、これに付随して会員中心の研究会を開催し、会報の発行を行ってきた。
 第一回のシンポジウムは、1993年9月、上記研究所職員三氏を函館に招き、翌年の第二回は会員7名がウラジヴォストークに赴き、その後1999年まで連続6回、計8回のシンポジウムを開いてきた。これらのシンポジウムでは、知られていなかった歴史的事実の紹介や新たな研究の視点等が論議され、日ロ関係の歴史について、相当程度の理解を深めることができたように考えられる。

ロシア(ソ連)極東諸港と函館間の海運事情

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

菅原繁昭

 昭和初期の函館には100人を超すロシア人が居留していた。漁業関係者や亡命してきた白系ロシア人の一団が多数を占めたという。その来函ルートは必ずしも明らかではないが、日ロ双方による定期・不定期の船便を利用して来たものと思われる。ここでは、函館とロシア極東の海運が誰によって担われていたのか、その歴史の一端を紹介したいと思う。
 幕末に函館が開港すると、英米露等の外国船舶が入港するが、ロシア船は軍艦が大半を占めた。乗組員の保養や食料などの物資供給の港として利用された。明治20年代後半になると沿海地方への日本人漁業者の渡航が増加したため、日本政府は大阪の大家七平に新潟・函館・ウラジオストク間の航路開設を命じ、これにより両者の結びつきが本格化する。同航路は運航経路が各時期により大きく変わったり、運航母体も明治40年からは大阪商船、さらにロシア革命による休航期をはさみ、大正15年からは川崎汽船と移っていくものの、函館とロシア極東を結ぶ基幹航路として一貫した役割を果たしている。
 また、これら日本の定期便に対抗して、ロシアは自国の汽船会社による定期便を開いたことから、ロシア船の盛んな函館入港が見られるようになる。ロシア東清鉄道汽船部が明治30年代に開いたウラジオストク・函館・カムチャツカ便を嚆矢とするが、これはロシア側からすれば函館が物資の供給港として重要な位置を占めていたからであった。この便は後に東亜汽船会社などに引き継がれ、さらに明治41年からは義勇艦隊汽船会社が継承する。ロシア革命後の大正13年にはソビエト商船隊として改編されるが、この航路は変わらず運航されている。大正期から昭和初期にかけて30~50隻のロシア汽船が入港している。
 このほか、大正期には函館を起点にペトロパブロフスク、アレクサンドロフ、ニコラエフスクとの定期航路も開設され、ロシア極東との間に多くの人と物資を運び続けた。

ロシア革命後、函館に来たロシア人たち

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

清水恵

 函館は漁業を通じてロシア極東地域とは密接な関わりがあり、そのルートから、革命後に多くのロシア人たちがやってきた。1925年が、統計の上では最も在留ロシア人が多かった年で、157人となっている。ただし、当時市外であった銭亀沢や湯川にいたロシア人は入っていないし、一時的滞在者を含めると、300人ぐらいになったとも言われている。
 亡命後、函館に住み着いたロシア人は漁業関係の仕事に携わっていた人が少なくない。革命前から函館と接点を持っていた人たち、たとえばデンビー商会の人々、ロシアの漁業監督官だったアルハンゲリスキー等がそうである。漁業関係以外では、サハリンの毛皮商シュウエツやカムチャツカから来て貿易商となったクラフツォフ等、極東の出身者が多いようである。またロシア極東地域で仕事をしていた日本人男性と暮らしていて、革命のため、引き揚げて函館に来ることになったロシア人女性たちもいる。
 それから、銭亀沢や湯川にはロシア人でも旧教徒と呼ばれる独自の信仰に生きる人たちが住み着いていた。これは函館の大きな特徴である。
 一方、1925年の日ソ基本条約締結後は、ソ連の領事館が設置され、国営漁業機関が函館に支店を持ち、白系ではないソ連国籍の人たちの往来も多くなった。スターリンの弾圧が始まる前、函館に亡命した人の中にはソ連国籍を取得した人たちもいた。統計でみると函館においては、1927年から1932年までは白系ロシア人よりもむしろソ連国籍の人のほうが多かったのである。
 以上のように、一口に函館に来たロシア人といっても、様々な側面があった。

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昭和11年の陸軍大演習のときに昭和天皇を迎える街頭のロシア人

函館で暮らした頃の思い出 ─激動の歴史の「証人」・ガリーナ・アセーエヴァさんを迎えて

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

ガリーナ・アセーエヴァ/コーディネーター・通訳 小山内道子

 1999年秋思い立ってペテルブルグを訪れた時に紹介されたのが昔、函館に住んでいたズヴェーレフ家の娘さん、ガリーナさんだった。ほんとうに予期せぬ出合い、「発見」だった。お父さんのズヴェーレフさんは私たち研究仲間では有名な人物で、昭和初期の北海道在住の白系ロシア人のリーダー的存在、1932年頃から「北海道亡命露人協会」会長として活躍し、当時ソ連の極東地方から逃亡・漂着していたロシア人の助命救済活動に奔走したことで新聞にも名前が出てくる。しかし、日本が中国での戦争を拡大し、さらに日米開戦へ突き進むにつれ、白系ロシア人へのスパイ容疑などの弾圧が強まって、各地で逮捕者が出る中、1943年1月に逮捕された。私はガリーナさんを質問攻めにしてお父さんの逮捕、獄中死以後の家族の運命について、長いドラマチックな半世紀余の物語をすっかりたどったのである。歴史が個人の力では抗うことの出来ない激しいうねりを繰り返した時代.....
 今回このガリーナさんを研究会でお招きした。実に60年ぶりの生地への帰郷である。直接ご自身から日本で過ごした頃の思い出を語って頂くことになった。ガリーナさんは1933年函館の生まれ、一家は34年の大火で被災しているが、松風町でパンやケーキも置く日用雑貨店を営み、お父さんは衣類の行商も行っていた。ガリーナさんは大谷幼稚園から後大森小学校に入学し、2年生まで通っている。その後姉と兄たちがいた東京のプーシキン小学校に転校、さらに横浜のセント・モア校に進学した。しかし、外国人学校が閉鎖される情勢となり、1943年中国大連のロシア人学校へ転校する。2年後には日本の敗戦、学校はソ連の管轄下に移り、ここでガリーナさんの人生はスターリン治下のソ連へと移行する。彼女の後半生もたいへん興味深い。時間の許す限り語って頂くことで私たちも過ぎ去った歴史のひだを実感しつつその全体像を新たに認識できるのではなかろうか。そして、ガリーナさんと共に参加者の方々にも「人生の不思議」をも共感して頂きたいと思う。

庁立函館商業学校最後のロシア語教師  ─成田ナヂェージダさん

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

佐藤一成

 成田ナヂェージダさんは、本名をナヂェージダ・ドミトリェブナ・サンブルスカヤ(日本名ケイ子)といい、1903年(明治36)9月17日、ロシア帝国沿海州ニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムーレ)に生れる。
 同地の女学校を卒業の後、当地在の日本人医師経営の小野寺病院に見習い看護婦として勤める。やがて、革命軍の近接を察知してか、間もなく小野寺病院は北サハリン(樺太)のアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ看護婦を連れて移転する。ナジェージダさんも単身それに従った。やがて尼港事件が起き、日本の軍艦に助けられ、真岡(現ホルムスク)に避難。そこで働くも、望郷の念止み難く、帰国に必要なヴィザ取得の為東京へ。東京でヴィザ取得が長引いていた時、関東大震災1923年(大正12)9月1日に遭い、函館に避難。
 函館に来たのは、ロシア人が多く、又ロシア語通訳が沢山居ると聞いていたからという。函館で縁あって成田実氏と結婚。成田氏は小さな漁業会社に勤めていて、北洋漁業に従事していたが、会社が日魯漁業に吸収されたので、日魯の外事係として働く。ロシア語は若い頃、漁場でロシア人と接するうちに覚えたのであろう。42歳の時漁場で倒れ、帰函。結核で10年間柏野に在った函館療養所で療養するも他界。この間日魯は良く面倒を見てくれたという。後にナヂェージダさんも日魯で働いたとのこと。子どもは男3人、女2人に恵まれたが、「合いの子」とよくいわれ悲しい想いがしたという。
 太平洋戦争の始った頃[1941年(昭和16)12月8日対米・英等の連合軍と戦争に突入]、ナヂェージダさんは、庁立函館商業学校のロシア語講師となり、戦後、市立函館図書館第1分館で、ロシア語の市民講座を担当、長いこと続け、優秀な人材を育成。又1969年から北大水産学部ロシア語非常勤講師を7年間続けられた。1984年(昭和59)4月21日他界。

ロシア極東から函館に避難したロシア人 ─1922年秋─

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

倉田有佳

 1917年のロシアでの革命、それに続く国内戦争の混乱は、数多くの避難民・亡命者を生み出し、大量の避難民が陸続きの国々へと流出したが、避難民や亡命者は海を越えて日本にも流入してきた。その結果、第一次大戦前の日本在住露国籍者数は100人から150人であったが、1919年には1000人を突破した。
 1922年10月25日、シベリア出兵した日本軍が完全に撤兵し、替わってウラジオストクに赤軍が入市すると、シベリア艦隊司令官長スタルク提督率いる船団で海軍軍人や沿海州で赤軍との戦闘で破れた陸軍軍人が、当時日本の統治下に置かれていた朝鮮の元山港(現在の朝鮮民主主義人民共和国)へ避難した。その数は9000人以上と考えられているが、これほど大量のロシア人が日本(内地・外地)に避難したのは初めてのことであった。
 函館の街では、この頃にはロシア極東から避難してきた亡命ロシア人の姿を頻繁に見かけるようになっていたが、1922年秋、カムチャツカのペトロパブロフスクにおける赤軍勢力の増大と現地の食糧事情の悪化から、ウラジオストク政府によってカムチャツカ方面の防衛のために派遣されていた白軍とその家族らが、白軍砲艦「マグニット」号と同僚艦で、露国義勇艦隊所属の「シーシャン」号に乗り、ウラジオストクに引揚げる途中、暴風激浪に遭い、函館港に寄港するという事件が起こった。
 2隻の艦船には当時ペトロパブロフスクにいた白軍およびその家族全員が乗船し、その数は総勢で200名以上に及んだ。彼らは赤軍のウラジオストク入市について函館で知ったため、白軍将卒は赤軍の支配下に置かれたウラジオストクに帰ることを断固拒否し、一方船長ら乗組員は家族の待つウラジオストクへの帰還を強く主張した。
 報告では、ウラジオストクに戻ることを主張した船長と避難地を他に求めた白軍将卒の軋轢、また、期待するような支援をなかなか得られず不安定な立場に置かれ続けた白軍将卒の状況、函館在住日本人及びロシア人の当該事件との関わりに注目したい。