函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ロシア(ソ連)極東諸港と函館間の海運事情

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

菅原繁昭

 昭和初期の函館には100人を超すロシア人が居留していた。漁業関係者や亡命してきた白系ロシア人の一団が多数を占めたという。その来函ルートは必ずしも明らかではないが、日ロ双方による定期・不定期の船便を利用して来たものと思われる。ここでは、函館とロシア極東の海運が誰によって担われていたのか、その歴史の一端を紹介したいと思う。
 幕末に函館が開港すると、英米露等の外国船舶が入港するが、ロシア船は軍艦が大半を占めた。乗組員の保養や食料などの物資供給の港として利用された。明治20年代後半になると沿海地方への日本人漁業者の渡航が増加したため、日本政府は大阪の大家七平に新潟・函館・ウラジオストク間の航路開設を命じ、これにより両者の結びつきが本格化する。同航路は運航経路が各時期により大きく変わったり、運航母体も明治40年からは大阪商船、さらにロシア革命による休航期をはさみ、大正15年からは川崎汽船と移っていくものの、函館とロシア極東を結ぶ基幹航路として一貫した役割を果たしている。
 また、これら日本の定期便に対抗して、ロシアは自国の汽船会社による定期便を開いたことから、ロシア船の盛んな函館入港が見られるようになる。ロシア東清鉄道汽船部が明治30年代に開いたウラジオストク・函館・カムチャツカ便を嚆矢とするが、これはロシア側からすれば函館が物資の供給港として重要な位置を占めていたからであった。この便は後に東亜汽船会社などに引き継がれ、さらに明治41年からは義勇艦隊汽船会社が継承する。ロシア革命後の大正13年にはソビエト商船隊として改編されるが、この航路は変わらず運航されている。大正期から昭和初期にかけて30~50隻のロシア汽船が入港している。
 このほか、大正期には函館を起点にペトロパブロフスク、アレクサンドロフ、ニコラエフスクとの定期航路も開設され、ロシア極東との間に多くの人と物資を運び続けた。