函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

函館とロシアの交流

2012年4月27日 Posted in 函館とロシアの交流

箱館開港

 ロシアは樺太・千島・蝦夷地に早くから開港を求めていたが、ロシアに先立ちアメリカがペリー提督を日本に遣わし、幕府は1854年(安政元)日米和親条約を結び、箱館・横浜・長崎を開港しアメリカ船に薪炭給水食料の補給を許した。
 1854年(安政元)日露和親条約が締結され、箱館にロシア領事館が置かれることになった。

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開港当時の函館港とロシア領事館(右:拡大図) 市立函館博物館五稜郭分館所蔵

 初代領事ゴシケーヴィチが到着した当時の箱館の風景です。絵図に向かって左、山腹に三色旗が立っている建物がロシア領事館です(拡大図参照)。

 

ラクスマン箱館に来る

 函館とロシアの交流は、1793年、エカテリーナ2世の命を受けたロシアの使節アダム・ラクスマンの箱館入港に遡る。ラクスマンは、前年の1792年、わが国の漂流民光太夫ら3人を連れて根室に来航、同地で越冬した後、箱館に向かった。

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「亜魯斉亜国女王図」とラックスマン 市立函館図書館所蔵

 1782年(天明2)12月船頭の幸太夫ら16人乗組みの神昌丸が駿河沖で暴風にあい北方に漂流し、翌年7月アリューシャン列島アムチトカ島に着いて救助され、のちイルクーツク、ペテルブルグ等で露国の保護を受けました。
 1791年(寛政3)エカテリーナ女帝(2世)に謁見しました。エカテリーナ2世を描いたこの絵は、幸太夫の持ち帰ったものを古川古松軒が模写したものです。

 

函館の各国在外公館

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市立函館博物館提供

 

初代領事ゴシケーヴィチ着任

 1858年(安政5)9月30日、初代領事ゴシケーヴィチは軍艦ジキット号に乗り、家族と書記、海軍士官、医師夫妻、宣教師、そのほか下男下女合せて15人で箱館に着任した。
 実行寺を仮宿舎とし、同行の館員の一部は高龍寺を宿舎とした。

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初代領事ゴシケーヴィチ夫妻の肖像画

 1860年(安政7)用務を終えて江戸から陸路帰還する領事一行は奥州街道を通行し、三戸駅本陣に宿泊しました。スケッチでは、ゴシケーヴィチは当時64歳とありますが、実際は40代半ばでした。(清水恵「<史料紹介>安政七年のロシア領事奥州街道通行に関する三つの史料」『地域史研究はこだて』19号より)

 

ロシア(ソ連)領事・領事館の主な変遷

  • 1858.9(安政5) 日本で最初のロシア領事ゴシケーヴィチが着任し、実行寺を仮領事館とした。境内にロシア正教の礼拝堂も建てられた。同行の館員の一部は高龍寺を宿舎とした。
  • 1859(安政6) 現ハリストス正教会付近の2000坪を領事館用地として借用、領事館建設に着工。
  • 1860(万延元) 春、領事館竣工、領事が移転。
  • 1864(文久3) ゴシケーヴィチ領事の夫人、エリザヴェータ死亡。
  • 1865(元治2) 領事館が火事で焼失。
  • 1865.9(慶応元) ビュッオフE.K.(領事)
  • 1869(明治2) タラヘンテベルグ(領事代理)
  • 1870.3(明治3) オラロフスキーA.E.(領事)
  • 1872(明治5) 東京に公使館が置かれる。
  • 1873(明治6) オラロフスキー領事は横浜に赴任。以降、函館の領事館はしばらく領事不在、横浜の管轄下に置かれる。
  • 1877(明治10) エリニツキーG.(臨時副領事)。瀬棚で起こったアレウト号事件の事務的処理に当たるため、翌年春まで臨時領事として滞在。
  • 1879(明治12) 領事館事務所(大工町民家)が大火で焼失。時に閉鎖もあったが、市内の民家を借りて執務。
  • 1881.5(明治14) バロン・シリベンバック(副領事)。一時的に来函。
  • 1887.4(明治20) ド・ウォラン(副領事)。6月トムソン邸に着任するが、籍は函館に置いたまま、帰省中の長崎駐在領事の代理に赴き、明治25年まで函館不在が続いた。
  • 1893.2(明治26) ウスチーノフM.(副領事)。夏期に開館し、冬期間は東京の公使館へ引き揚げた。不在中は書記官の笠原与七郎に事務を託す。
  • 1900(明治33) ゲデンシュトロム(副領事)。露領漁業の勃興に伴い函館港の重要性が増し、本格的な領事館の必要性が認識され、臨時的に事務所を開設していた領事館も、本格的な施設を建築する運びとなった。
  • 1902(明治35) 西出氏所有地船見町125番地(「旧ロシア領事館」所在地)を領事館用地として買い上げる(当時、外国人名義で所有できなかったため、999年の長期貸与という形式で、便宜上日本人 名義で契約。これが原因で後年敷地に関して裁判沙汰になった。)。
  • 1903.7(明治36) 領事館の建設が着工される。
  • 1904~1905(明治37~38) 日露戦争中領事引揚げ 日露戦争の勃発で工事は一時中断。
  • 1906.5(明治39) トラウトショリド(副領事)。領事館再開(領事館が完成するまでの間、船見町108番地で業務をおこなった)。領事館の工事も再開。12月竣工。
  • 1907(明治40) 函館大火で被災し、わずか8ヶ月にして領事館は焼失。即座に、再建が開始。
  • 1908.12(明治41) 領事館完成(現「旧ロシア領事館」)。
  • 1912(大正元) レベデフ(副領事・後に領事)   
  • 1917~1924(大正6~10) ロシア革命が勃発するが、実態は東京のロシア大使の命で、依然ロシア帝国の国旗を掲げて執務。
  • 1925(大正14) 日ソ基本条約が結ばれ、両国の国交が回復。ソ連函館領事館となる。 ロギノフ(領事) 当初は査証委員長の名目で着任、その後、東京のソ連大使館の開庁に伴い、5月25日から正式に領事業務が開始された。領事館建物は補修を要したため、元キング邸(「堤倶楽部」と称された)で開館。
  • 1927(昭和2) 領事館の修理完了、移転。
  • 1928.7(昭和3) キセリョフD.D.(領事)
  • 1930.4(昭和5) チホノフG.D.(領事)  
  • 1932.11(昭和7) アイゼンスタート(事務代理)。12月、カラシI.(領事)  
  • 1936.4(昭和11) イートキンA.G.(領事)  
  • 1937.12.23(昭和12) 領事館の敷地問題で一時閉鎖。領事、本国へ引揚げ。
  • 1938.4(昭和13) パウリチェフG.I.(副領事)  
  • 1939(昭和14) 領事館用地をめぐり日本軍部による工作があり、結局、日魯漁業(株)が土地を買い上げてロシア領事館に貸与する。
  • 1940.4(昭和15) ザヴェーリエフA.I.(領事)  
  • 1944.10.1(昭和19) 領事館閉鎖
  • 1952(昭和27) 外務省の所管となる。同年8月19日、道庁から渡島支庁に管理を委嘱。
  • 1964.6(昭和39) 領事館建物を外務省から函館市が購入。
  • 1965(昭和40) 一部増改築し「函館市立道南青年の家」として使用。
  • 1981.6(昭和56) 函館市は「道南青年の家用地」(旧領事館用地)を日魯漁業(株)から取得(市有地と交換)。
  • 1996(平成8) 「函館市立道南青年の家」廃止。
  • 1997(平成9) 日ロ政府間で口上書により在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所開設について正式に合意。
  • 2001(平成13) 在札幌ロシア連邦総領事館の領事管轄区域が、青森県・岩手県までエリアを拡大。
  • 2002(平成14) ロシア連邦政府により函館事務所開設が決定。
  • 2003(平成15) 在札幌ロシア連邦総領事館サプリン総領事が函館市長宛て文書を持参、函館市に対して、 事務所開設に向け実務的問題に対する協力依頼があった。 6月、函館市国際交流プラザの一画を事務所として函館市が賃貸することとし、改修工事を行う。 9月、ウソフA.G.(副領事) 9月19日に事務所開設オープニングセレモニーを行う。同日、ウソフ副領事が所長に就任。井上市長が査証(ビザ)申請第一号となる。

『函館市史』など、市史編さん室作成資料を基に作成。

 

開港初期の箱館

 当時箱館には、ロシアのほかにも、アメリカ、イギリス、フランスからも領事が着任しており、また各国の商人も在留していたため、箱館はまさに国際都市であった。

~ロシア人の目から見た開港初期の箱館~
 ロシア領事館付となったナジモフ海軍大尉やアルブレヒト海軍医師は、箱館港の特徴、施設、気候、箱館の行政、町並み、風俗・習慣などをサンクト・ペテルブルグで出版されていた雑誌「海軍集録」に送った。
 アルブレヒトは、医師の目から、1年のうち4カ月間は泥んこの海となりヨーロッパの編上靴では歩行不可能となる街路、あらゆる汚物が投げ込まれたどぶから上がる悪臭、「この町が伝染病の災難から免れているのは、無数のからす(日本の唯一の医療警察)と空気のよどみを吹き飛ばす絶え間のない風のおかげである」などと指摘しているが、彼らが本国に送った情報は、今日、開港当初の箱館の状況を知る上で興味深い。(秋月俊幸「<研究ノート>ロシア人の見た開港初期の函館」『地域史研究はこだて』3号より)

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外国人が見た開港当時の箱館 市立函館図書館所蔵

 9月28日から30日にかけて行われた祭りの様子です。フランスの雑誌『イリュストラツィオン』1857年6月20日号に掲載された1855年9月30日付の箱館からの通信です。
(『イリュストラツィオン』日本関係記事集第1巻より)

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フランスの施療院 実行寺
傷病兵の手当ては、実行寺がその施設にあてられました。『イリュストラツィオン』紙では、称名寺と書かれています。

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箱館の内澗通り

 

最初の領事館の竣工、焼失

1861年(万延元)上汐見町(元町ハリストス正教会付近)の2000坪を領事館用地として借用、翌年春に竣工し、領事が移転したが、1865年(慶応元)、隣接のイギリス領事館から出火、ロシア領事館もほぼ全焼した。

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港内より函館山を望む-にハリストス正教会の葱坊主が見えます。その下はカトリック教会です。

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ゴシケーヴィチ時代のロシア領事館周辺

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ロシア病院

 文久元年正月、上大工町(現元町)の利さ領事館の東側にロシア病院が竣工しました。
谷澤尚一「幕末・箱館ロシア病院に関する史料」 『地域史研究はこだて』2号より

~北の地の「文明開化」の推進役~

 ゴシケーヴィチ一行には、ロシア領事館付の海軍医師アルブレヒトが同行していた。1863年(文久3)夏、領事館に隣接した土地1200坪にロシア病院が完成した。ロシア病院では、ロシア人ばかりでなく函館市民に対しても無料で治療に当たったほか、日本の医師たちも西洋医学を習っていた。西洋医学に触発され、日本医師による病院が設立されることになり、これが市立函館病院の創設につながった。
また、ゴシケーヴィチ領事は写真機を持ってきていたが、田本研造が技術を習得し、写真を撮るようになったのが函館の職業写真師の始まりであるなど、ロシア領事館は、北の地の「文明開化」の推進役ともなった。(『函館市史』より)

 

領事館の再建

 しばらくは、領事館は再建されず、市中に間借りをしていたが、露領漁業の勃興により、函館における領事館の必要性が認識され、1903年(明治36)にゼール氏の設計で領事館の建設が船見町(現「旧ロシア領事館」所在地)で着工された。
 途中、日露戦争により工事が中断、1906年12月(明治39)に竣工した。

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コンドル氏の設計の幻の領事館 在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所提供資料

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ロシア領事館の設計が決まるまで

 1902年夏、副領事代理のゲデンシュトロムは、東京の建築家コンドル氏に領事館建設の設計図作成を依頼します。しかし、建設はロシア産木材を使用したロシア様式の堅牢な木造建築を建てることが望ましいと考え、委員会によって却下されました。
そこで、ハバロフスクの軍事建築家ヤジコフ陸軍大佐に新しい設計が注文されます。これはロシア様式で設計されましたが、難点があり、函館で実現するのは難しいことが判明し、結局、日本の最高建築家で、横浜にいたゼール氏に発注、1903年7月石造建設のすばらしい設計が提出されました。(清水恵、A.トリョフスビャツキ「<史料紹介>日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館」『地域史研究はこだて』25号より)

 

領事館再び焼失、再建へ

 1907年、明治40年の大火で類焼。即座に再建工事が始まり、1908年(明治41)に完成した(現存する「旧ロシア領事館」)。

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焼失したロシア領事館 在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所提供資料

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再建後のロシア領事館(現存)