函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ロシア極東から函館に避難したロシア人 ─1922年秋─

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

倉田有佳

 1917年のロシアでの革命、それに続く国内戦争の混乱は、数多くの避難民・亡命者を生み出し、大量の避難民が陸続きの国々へと流出したが、避難民や亡命者は海を越えて日本にも流入してきた。その結果、第一次大戦前の日本在住露国籍者数は100人から150人であったが、1919年には1000人を突破した。
 1922年10月25日、シベリア出兵した日本軍が完全に撤兵し、替わってウラジオストクに赤軍が入市すると、シベリア艦隊司令官長スタルク提督率いる船団で海軍軍人や沿海州で赤軍との戦闘で破れた陸軍軍人が、当時日本の統治下に置かれていた朝鮮の元山港(現在の朝鮮民主主義人民共和国)へ避難した。その数は9000人以上と考えられているが、これほど大量のロシア人が日本(内地・外地)に避難したのは初めてのことであった。
 函館の街では、この頃にはロシア極東から避難してきた亡命ロシア人の姿を頻繁に見かけるようになっていたが、1922年秋、カムチャツカのペトロパブロフスクにおける赤軍勢力の増大と現地の食糧事情の悪化から、ウラジオストク政府によってカムチャツカ方面の防衛のために派遣されていた白軍とその家族らが、白軍砲艦「マグニット」号と同僚艦で、露国義勇艦隊所属の「シーシャン」号に乗り、ウラジオストクに引揚げる途中、暴風激浪に遭い、函館港に寄港するという事件が起こった。
 2隻の艦船には当時ペトロパブロフスクにいた白軍およびその家族全員が乗船し、その数は総勢で200名以上に及んだ。彼らは赤軍のウラジオストク入市について函館で知ったため、白軍将卒は赤軍の支配下に置かれたウラジオストクに帰ることを断固拒否し、一方船長ら乗組員は家族の待つウラジオストクへの帰還を強く主張した。
 報告では、ウラジオストクに戻ることを主張した船長と避難地を他に求めた白軍将卒の軋轢、また、期待するような支援をなかなか得られず不安定な立場に置かれ続けた白軍将卒の状況、函館在住日本人及びロシア人の当該事件との関わりに注目したい。