函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

函館で暮らした頃の思い出 ─激動の歴史の「証人」・ガリーナ・アセーエヴァさんを迎えて

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

ガリーナ・アセーエヴァ/コーディネーター・通訳 小山内道子

 1999年秋思い立ってペテルブルグを訪れた時に紹介されたのが昔、函館に住んでいたズヴェーレフ家の娘さん、ガリーナさんだった。ほんとうに予期せぬ出合い、「発見」だった。お父さんのズヴェーレフさんは私たち研究仲間では有名な人物で、昭和初期の北海道在住の白系ロシア人のリーダー的存在、1932年頃から「北海道亡命露人協会」会長として活躍し、当時ソ連の極東地方から逃亡・漂着していたロシア人の助命救済活動に奔走したことで新聞にも名前が出てくる。しかし、日本が中国での戦争を拡大し、さらに日米開戦へ突き進むにつれ、白系ロシア人へのスパイ容疑などの弾圧が強まって、各地で逮捕者が出る中、1943年1月に逮捕された。私はガリーナさんを質問攻めにしてお父さんの逮捕、獄中死以後の家族の運命について、長いドラマチックな半世紀余の物語をすっかりたどったのである。歴史が個人の力では抗うことの出来ない激しいうねりを繰り返した時代.....
 今回このガリーナさんを研究会でお招きした。実に60年ぶりの生地への帰郷である。直接ご自身から日本で過ごした頃の思い出を語って頂くことになった。ガリーナさんは1933年函館の生まれ、一家は34年の大火で被災しているが、松風町でパンやケーキも置く日用雑貨店を営み、お父さんは衣類の行商も行っていた。ガリーナさんは大谷幼稚園から後大森小学校に入学し、2年生まで通っている。その後姉と兄たちがいた東京のプーシキン小学校に転校、さらに横浜のセント・モア校に進学した。しかし、外国人学校が閉鎖される情勢となり、1943年中国大連のロシア人学校へ転校する。2年後には日本の敗戦、学校はソ連の管轄下に移り、ここでガリーナさんの人生はスターリン治下のソ連へと移行する。彼女の後半生もたいへん興味深い。時間の許す限り語って頂くことで私たちも過ぎ去った歴史のひだを実感しつつその全体像を新たに認識できるのではなかろうか。そして、ガリーナさんと共に参加者の方々にも「人生の不思議」をも共感して頂きたいと思う。