函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

庁立函館商業学校最後のロシア語教師  ─成田ナヂェージダさん

2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人

佐藤一成

 成田ナヂェージダさんは、本名をナヂェージダ・ドミトリェブナ・サンブルスカヤ(日本名ケイ子)といい、1903年(明治36)9月17日、ロシア帝国沿海州ニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムーレ)に生れる。
 同地の女学校を卒業の後、当地在の日本人医師経営の小野寺病院に見習い看護婦として勤める。やがて、革命軍の近接を察知してか、間もなく小野寺病院は北サハリン(樺太)のアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ看護婦を連れて移転する。ナジェージダさんも単身それに従った。やがて尼港事件が起き、日本の軍艦に助けられ、真岡(現ホルムスク)に避難。そこで働くも、望郷の念止み難く、帰国に必要なヴィザ取得の為東京へ。東京でヴィザ取得が長引いていた時、関東大震災1923年(大正12)9月1日に遭い、函館に避難。
 函館に来たのは、ロシア人が多く、又ロシア語通訳が沢山居ると聞いていたからという。函館で縁あって成田実氏と結婚。成田氏は小さな漁業会社に勤めていて、北洋漁業に従事していたが、会社が日魯漁業に吸収されたので、日魯の外事係として働く。ロシア語は若い頃、漁場でロシア人と接するうちに覚えたのであろう。42歳の時漁場で倒れ、帰函。結核で10年間柏野に在った函館療養所で療養するも他界。この間日魯は良く面倒を見てくれたという。後にナヂェージダさんも日魯で働いたとのこと。子どもは男3人、女2人に恵まれたが、「合いの子」とよくいわれ悲しい想いがしたという。
 太平洋戦争の始った頃[1941年(昭和16)12月8日対米・英等の連合軍と戦争に突入]、ナヂェージダさんは、庁立函館商業学校のロシア語講師となり、戦後、市立函館図書館第1分館で、ロシア語の市民講座を担当、長いこと続け、優秀な人材を育成。又1969年から北大水産学部ロシア語非常勤講師を7年間続けられた。1984年(昭和59)4月21日他界。