ロシア革命後、函館に来たロシア人たち
2012年4月26日 Posted in 大正・昭和期に函館に来たロシア人
清水恵
函館は漁業を通じてロシア極東地域とは密接な関わりがあり、そのルートから、革命後に多くのロシア人たちがやってきた。1925年が、統計の上では最も在留ロシア人が多かった年で、157人となっている。ただし、当時市外であった銭亀沢や湯川にいたロシア人は入っていないし、一時的滞在者を含めると、300人ぐらいになったとも言われている。
亡命後、函館に住み着いたロシア人は漁業関係の仕事に携わっていた人が少なくない。革命前から函館と接点を持っていた人たち、たとえばデンビー商会の人々、ロシアの漁業監督官だったアルハンゲリスキー等がそうである。漁業関係以外では、サハリンの毛皮商シュウエツやカムチャツカから来て貿易商となったクラフツォフ等、極東の出身者が多いようである。またロシア極東地域で仕事をしていた日本人男性と暮らしていて、革命のため、引き揚げて函館に来ることになったロシア人女性たちもいる。
それから、銭亀沢や湯川にはロシア人でも旧教徒と呼ばれる独自の信仰に生きる人たちが住み着いていた。これは函館の大きな特徴である。
一方、1925年の日ソ基本条約締結後は、ソ連の領事館が設置され、国営漁業機関が函館に支店を持ち、白系ではないソ連国籍の人たちの往来も多くなった。スターリンの弾圧が始まる前、函館に亡命した人の中にはソ連国籍を取得した人たちもいた。統計でみると函館においては、1927年から1932年までは白系ロシア人よりもむしろソ連国籍の人のほうが多かったのである。
以上のように、一口に函館に来たロシア人といっても、様々な側面があった。
昭和11年の陸軍大演習のときに昭和天皇を迎える街頭のロシア人