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戦前の雑誌『月刊ロシヤ』編集長・茂森唯士(1895~1973)

2023年5月 6日 Posted in 会報
長塚 英雄

 戦前のロシア・ソビエト研究をリードした雑誌『月刊ロシヤ』(1935年(昭和10)7月1日創刊)の編集長を務めた茂森唯士は、1895年(明治28)4月2日に父・西村(茂森)與作、母・茂森ウエの二男・茂森唯次として熊本で生まれた。男の子の三人兄弟で学校の成績がよく「茂森三兄弟」として街の評判がよかったという。1913年(大正2)に熊本の五高(第五高等学校)に下級職員として採用され図書館に勤務、1917年(大正6)に種田山頭火と知り合う。茂森はロシア正教会の司祭、高橋長七郎の私塾でロシア語を習っていたが、山頭火はすでに1911年(明治44)、郷土文芸誌にツルゲーネフの「烟」を翻訳発表している。ロシア語の恩師・高橋長七郎のことを後年、次のように回想している。「高橋先生はニコライ正教会の牧師として、日露戦争前から、つい数年前まで約30年間、私の郷里熊本に在住され、日本では比較的信徒の少ない希臘正教の布教に従事していられたが、熊本では、本職の牧師としてよりも、ロシヤ語の先生として、又音楽の先生として却って有名であったやうに思う。(中略)僕が高橋先生に入門したのは、大正5年の頃であった。......当時私はトルストイやドストエフスキーなどのヒューマニズム文学に深く傾倒していたので、ロシヤ文学を根本的にやるには、どうしても露語に據らなければならぬという気持が、かねがね動いていたことを見逃しがたい。その頃、熊本市坪井の見性寺前の広場の一角にあった高橋先生のお宅に一週2回ほど伺って、見慣れない難かしい露語の習得にかかった。八杉教授の「露西亜語楷梯」や、松本苦味の「トルストイ露語読本」などを約2年間に牛の歩みのやうなまどろっこいテンポで、上げたのであった。」。エピソードとして、熊本にいた日露戦争のロシア人捕虜のなかに、「ソヴエ-ト文壇の重鎮として大作『対馬』を始め多くの日露戦争に取材した名著を出しているノヴィコフ・プリボイも交っていた。彼など当時から社会主義者として熊本捕虜仲間の赤化宣伝にあたっていたのである。」と回想のなかに書いている(『月刊ロシヤ』昭和12年2月1日)。
 1919年(大正8)五高教授の佐久間政一の尽力で、文部省へ転任の辞令を受け上京する。夜は、東京外国語学校露語専修科でロシア語を学ぶ。新宿下戸塚に住んでいた茂森のところに突然、熊本にいた山頭火が家族を捨てて上京し、転がり込んできた。山頭火は日露実業新聞に「芭蕉とチェーホフ」という評論を書いている(井上智重著『異風者伝』)。東京外語学校修了後に、茂森は1918年(大正7)に創業していた日本評論社に就職、欧亜・通信・編集各局長を歴任した(『警察官友の会』資料による)。この出版社から茂森は、『ガンディ及びガンディズム』(1922)、『露西亜の見方』(1925)、『日本と蘇聯邦』(1934)などを刊行している。
 1925年(大正14)3月に日露芸術協会が秋田雨雀、井田孝平、米川正夫、茂森唯士、淡谷袈裟二、金田常三郎、高橋晩成、中根弘、昇曙夢、蔵原惟人、澤青馬等が幹事会を構成し設立される。同会は、ロシア革命10周年祭に秋田雨雀、小山内薫、米川正夫三氏がソビエトから招待されて出席、トルストイ百年祭には昇曙夢が出席し、VOKS(ソ連対外文化連絡協会)の友誼団体の一つとして事業をすすめた。茂森も幹事として活動している。日露芸術協会は1926年(大正15)5月1日発行の『日露芸術』でピリニャーク歓迎号を特集し、茂森は「ピリニャーク氏と語る」を執筆、昭和4年4月1日発行の『ソヴェート芸術』創刊号(『日露芸術』改題)で、巻頭の序文「ソヴェート芸術に題す」を書いている。又、『文芸戦線』(文芸戦線社刊)1926年(大正15)5月1日号、6月1号、7月1日号に「トロツキーのプロレタリア芸術講話」を、『戦旗』(戦旗社刊)昭和4年11月号には「ソヴェート文化の発展」を書き、ナウカ社の『社会評論』1936年(昭和11)5月1日号には「日ソ問題を語る」テーマで「日ソ戦ふか?」を論じている。さまざまな雑誌論文にも意欲的に執筆している。
 
 1934年(昭和9)6月25日に日露通信社を吸収する形で日蘇通信社が創立され、茂森は取締役に就任、翌1935年(昭和10)『月刊ロシヤ』が創刊され編集長として活躍する。創刊号はA5版の178ページ、30銭で発行され、巻頭のメイン企画は、「モスクワの今昔を語る」座談会で当時のロシア・ソビエトを知る第一人者7人を揃え、最初と最後に茂森が挨拶している。又、オピニオンリーダーとして、「ソ聯内政の核心」布施勝治(ジャーナリスト)、「ソ聯外交の弱味」稲原勝治(外交評論家)、「日ソ外交とソ聯への希望」大蔵公望(貴族院議員・ソ連研究家)3氏の力作を掲載している。このとき以来、茂森と大蔵公望の関係は緊密化しこの雑誌の常任執筆者となっていくことが注目される。しかし、雑誌創刊の挨拶や序文がなく、「編集後記」には、「わが社創業10周年の今日、日ソ関係は満ソ問題をも完全に内包して画期的に重大化した。(中略)面白く読めてしかも日本人として必要な正しい対ソ知識が掴める!そんな所を本誌はねらっているし、又今日我国に一番欠けているものがそんな雑誌であると確信する。」と基調をのべ、「何しろ手馴れない創刊号のことなので」「ページ割当が充分計画的に出来なかったため、色々欠陥を生じた」と反省の弁をのべている。
 『月刊ロシヤ』における大蔵公望の主な論文は、創刊号「日ソ外交とソ連への希望」、16号「日ソ関係の新起点」、17号「日独協定と世界の新局面(座談会)」、33号「ソ連の国力を何う観るか」、43号「東亜債権の日ソの対立」(巻頭論文)、45号「ソ連を如何に観るべきか」、60号「国防国家としてのソ連」など力作が目立つ。大蔵公望(1882-1968)は、1927年(昭和2)の11月にソ連を訪問し、モスクワに9カ月滞在し、「ソ連の官庁、会社、協会等をしらみ潰しに訪問して」実情を調べ記録した。昼は官庁めぐりを中心に、夜は劇場で芝居やバレエを観て廻った。帰国後、『ソヴィェット連邦の真相』という一千ページの書を出版した。昭和9年、矢次一夫と国策研究会、昭和11年にはソ連研究団体の皐月会を起ち上げ、戦後は天羽英二、黒田乙吉、直井武夫、鍋山貞親、土居晴美らと二水会(毎月第2水曜日にソ連研究会)を主宰した。貴族院男爵議員、南満州鉄道理事、東亜研究所副総裁、拓殖大学専務理事、東亜旅行総裁、日本交通公社会長、日本自転車産業協議会会長などを歴任し、昭和前期における日ソ問題の黒幕的存在で大きな力をもっていた。
 1933年日本国際連盟脱退、1936年日独防共協定、国家総動員法発令、1937年日中戦争、日独伊三国防共協定、1941年(昭和16)真珠湾攻撃、対英米宣戦、太平洋戦争という厳しい情勢の中で、1938年(昭和13)日蘇通信社は陸軍の庇護の下で活動、1939年(昭和14)『月刊ロシヤ』新年号の編集後記では「かかる情勢下に在って、当然反ソ反共の旗印を一段と高く掲げた。本誌編集の基調がここに重ねて強く、鮮明に彩色された。」と書かれており、2月1日号以降『月刊ロシヤ』の表紙トップに、「ソ連究明、反共先鋒」のスローガンを掲げる。ところが、1940年(昭和15)3月1日号からタイトルの上のスローガンは全面削除され、創刊5周年を迎えている。
 
 茂森は、1940年10月23日建川美次駐露大使の着任に際し、大使秘書として日本を後にする。1966年(昭和41)に当時のモスクワ生活についてこう振り返る。「1940年の秋、わたしはモスクワの日本大使公邸に建川美次大使と二人きりで住んでいた。アルバート広場からクレムリン城の方向に走っているコミンテルン街の左側の、とっつきにあった日本大使公邸は、帝政時代モロゾフと呼ぶ木綿王が、四百万金ルーブルの巨費をかけて、愛妾に造り与えた豪壮華麗な建物で、邸宅と呼ぶよりも、ちょっとした宮殿の観があった。その宮殿に、大使が一階全部、秘書の私が二階ふた部屋使っても、まだ三階まで大小数室の空室があり、一階の奥にはウインター・ガーデンが作られ、南方の植物が繁茂していた。大使とふたりというのは、字義どおりには正確ではない。日本から和食と洋食の料理人のふた組の夫婦者がついてきていて、大使と私の食事をつくってくれていたし、また同じ屋根の下には、ロシヤ人の使用人が十数家族も住んでいた。だが、彼らはほとんど公邸の地階に居住していたし、ひととおり身の上話など聞いてしまえば、もう共通の話題とてなかった。長い秋の夜、飲み相手、話し相手は、相も変わらず大使と秘書の私の二人きりであった。」(『絵で見る幕末日本』(訳者のことば)茂森唯士訳、講談社学術文庫)
 当時の松岡洋右外相は、東郷駐ソ大使に代わって元陸軍中将の建川美次を大使に任命、建川大使はソ連研究家の茂森唯士を大使秘書にし、新たな対ソ外交を展開することになる。着任早々、モロトフ外務人民委員は、11月18日に建川駐ソ大使に、日本が北樺太の利権を解消することを条件に、日ソ中立条約を提案する。しかし、モスクワにおける日ソ交渉はなかなか進展しなかった。日ソ中立条約の調印までの経緯について『日ソ外交関係史 第二巻』(エリ・エヌ・クタコフ著)でソ連側からの視点でみると次のようになる。
 「四月九日と十一日の松岡と外務人民委員(モロトフ)の会談は、双方の立場を調整するにいたらなかった。(中略)松岡はついに折れて、北サハリンの放棄にたいするかれの承諾を日本の政府および世論が容認するよう、最大限の努力をすると約束した。(中略)松岡のモスクワ出発の前日、4月12日になって、双方はようやく協定へこぎつけた。1941年4月13日、日本とソ連のあいだに中立条約が調印された。」そして、両国は条約を次のように位置付けていると分析している。「日本軍統師部は、日ソ中立条約を、政府の戦術的駆引きと見た。関東軍司令官梅津美治郎将軍は、1941年4月末、兵団長秘密会議で、この条約を、「日独伊三国条約を強化するという立場からとられた、まったく外交的な措置」と評価し、「将来この条約から実際的な成果」を得るために、ソ連にたいする「軍事行動準備をけっして少しでも弱めてはならないと訓示した。」と日本側の考えを解読し、一方で「日ソ中立条約は、ソ連にとって、二正面戦争の脅威を少なくした。この条約の締結は、侵略勢力の行動範囲の制限をめざす一連の措置の一環として、ソビエト外交の成功であった。日ソ中立条約はある程度、日本の軍国主義者を抑制する役割を果たしたのである。」とソ連側は意義づけた。
 松岡外相、建川大使らの努力は、1941年5月21日、東京において批准書の交換がおこなわれることによって実り、ソ連政府への約束を果たしたことにもなる。その陰には、茂森らの大使館スタッフの奔走があった。
 任務を終え1941年6月末に帰国した茂森は、独ソ戦開戦直後でもあり、200回以上の講演会に駆り出された。茂森は、建川大使と日ソ中立条約の評価についてこう述べている。「大使は赴任後半年にして一つの重要な歴史的ともいふべき使命を果たされた。昨春の日ソ中立条約の成立がそれである。......建川大使が苦心し努力された基礎工事と御善立てがその前提をなしていることを否定する者は一人もあるまい。」「想へばこの条約の成立に際して、スターリンがモスクワ駅頭に型破りの歓送をもって松岡外相を見送ったのも理由のないことではなかった。」と日ソ中立条約の意義の重大性をスターリンは行動で示したという。(『月刊ロシヤ』昭和17年5月1日号)

 茂森は、日蘇通信社取締役兼主幹、北支軍司令部参謀部嘱託、北方懇話会常任理事としてさまざまな活動に関与し、終戦を迎えることになる。1946年(昭和21)戦後初の衆議院選挙、1947年(昭和22)総選挙に社会党から立候補して落選、1949年(昭和24)に世界動態研究所を主宰、人権擁護調査会常任理事などの活動をすすめ、1955年(昭和30)3月に産経新聞論説委員に就任、実業之日本社から『ソ連の粛清』を出版(1956年9月)、自由と民主主義に対する厳しい論陣を強めていくことになる。
 1960年8月6日~9月6日にモスクワ日本産業見本市視察経済使節団に、産経新聞論説委員として参加、建川大使に同行して以来、20年ぶりのロシア渡航である。この使節団は、モスクワにおいて、外務省・通商産業省指導、ジェトロ実施になる「モスクワ日本産業見本市」が開催されるのを機会に、日ソ協会(石橋湛山会長)、日本国際貿易促進協会(山本熊一会長)、日本国際貿易促進地方議員連盟(大久保重直会長)の三団体が共同で編成したもの。日ソ協会90名、国貿促63名、国際貿促議連113名、事務局20名の総勢286名で32日間にわたり、シベリアを経由し、ナホトカ・イルクーツク・モスクワ・レニングラード・キエフ・ハリコフ・ポルタワ・ソチ・スフミ・ハバロフスク等10都市を訪問した。この使節団の成功は、日露人事交流・ツーリズム・経済交流において画期的意義をもつものであった。20年間のソ連の変化について茂森は次のように語る。
 「一つは、マルクス・レーニン主義の活発な議論が国民大衆から影を潜めてきたことだ。この前のときはよくソ連人からイデオロギーの問題で議論を吹きかけられた。こんどはたくさんの会談の中に、一回もそうした経験はなかった。......各都市を共通しての目立った変化は、各消費物資の店が増えたことである。国営百貨店もいたるところに増えている。......被服、食料、家具類などの量だけでなく、質と価格においても西欧諸国への遅れをとり戻そうと躍起である。」と印象をのべ、「両陣営が現在のような経済の生長の伸びをつづけてゆくかぎり、いつかは国際資本主義が国際共産主義にうちまかされる時期がくる」と結論づけたことは、ロシア革命後の困難と戦争時代の困難から大きく変化発展したソ連に強烈な感動をおぼえたからであろう。しかし、それは又、その後のソ連経済の停滞、自由と民主主義の問題から新たな視点が必要となる時期が将来する。

 産経新聞論説委員の1950年代、60年代における茂森唯士のソ連研究は活発なものであった。とくに、彼の人生において大きな節目となった著作は、1956年の『ソ連の粛清―修正されたその歴史と全貌』(実業之日本社刊)である。本書を書くにあたっては、「ソ連の粛清の歴史は、とりもなおさずソヴェト革命と建国の裏面史でもある。それには露文、英文、邦文など広汎な資料の中から、歴史的事実を捉えることが何よりも必要であり、共産主義の赤いメガネや、反共の黒いメガネをすてて、素通しの肉眼で客観的に真相をつかむ態度が要求される。」と執筆する上での歴史観を明確にしている。
 スターリンの個人独裁と集団テロは、彼の個人的資質にだけその原因を帰せるべきではなく、それを作り出したのは「七年にわたる戦争(第一次大戦)革命、内乱によって破壊と飢餓に追い込まれ、ついで大急ぎで強制的な工業化と農業集団化を強行し、破滅的な戦争(第二次大戦)と軍備競争に引きずりこまれたソヴェト国家の社会的緊張であった。しかもこれらすべては大きな犠牲と、厳格な規律と、大規模な弾圧を要求し、スターリンに独裁権力濫用の理由と口実を与えた」と断定した。さらに問題の重要な核心として次の点を強調する。「ソ連の社会主義建設は、人類史上にもめずらしい急速のテンポで成功したが、その建設の蔭には数千万の強制労働者の血と涙と汗の結晶が滲んでいる事実も見逃すわけにはいかない。この強制労働にたいして西欧側から反ソ宣伝の材料とされ、人道主義の名において、あらゆる機会に抗議が放たれた。ソ連国内においても,全国民の怨嗟のマトであった。」この著書において、茂森はソ連を厳しい目で見つめ直すようになった。
 しかし、その4年後、モスクワ見本市経済使節団に加わり訪ソすると『"ハラショウ"の旅―ソ連見たまま』(1960年)に軟化した論文を執筆する。「もともとロシヤ人の国民性は、トルストイやチェーホフなどの小説を読んでもわかる通り、「お客好き」で善良素朴な愛すべき性格のもち主である。」とし、「ソ連は世界の共産化を戦争や革命の輸出、内乱によってではなく、平和共存の名による共産体制と資本主義体制の平和競争、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ等後進国の獲得をふくむ経済と生産力の競争、宇宙開発の優先競争などによって最後の勝敗を決しようと変わってきている。」という見方を披露している。
 茂森は、1968年(昭和43)、『国民と警察』紙に、「共産世界の動向と日本」と題して次のようにのべた。ソ連の指導力の弱体化、共産主義運動の分極化、各国の自主独立、分極化、多元化、ソ連のインド、日本への接近政策などを指摘し、「米ソ、米中、中ソという大きな三大国の複雑きわまる関係のその接点に立っているのが日本です。......日本はどこにも敵をつくってはいけない。八方美人になれというのではありません。毅然としてやることはやりながら共存関係をつくっていく。ソ連との関係も要求するところは要求して、だんだん好転させていかなければならない。日米安保体制をひとつのバックボーンとして、周囲の国々と平和共存体制を深めて行く方向こそ、日本外交の進んで行くべき方向である」と主張した。
 1969年(昭和44)、「新局面に立つ日ソ外交」と題して、外交評論家(このときすでにサンケイ新聞客員論説委員)茂森唯士として小冊子を出している。日ソの関係は、鳩山一郎の第二次復交から12年が経過したが、「その変化の底流を正しくみきわめてかかることが必要」と指摘し、次のように述べている。
 「1960年の初め頃、彼(フェドレンコ駐日大使)は日ソ協会の第3回総会に出席して、その席上で演説して「日本は永世中立を守るべきだ。日米安保条約の如きはソ連や中共に対する侵略的な条約である。アジアの緊張を高めるだけだから、こういうものは廃棄すべきだ」と高飛車な意見をぶったのであります。当時は初代会長の鳩山前首相が死んで、副会長の北村徳太郎氏が会長代理をつとめていましたが、さすがにおとなしい北村さんもだまりかねて、そのあと立ち上がり「われわれは日ソ親善友好を目的にしてここに結集している団体だ。この席上で政治的なイデオロギーばりの演説をすることは甚だ場違いで迷惑だ」と反駁したことを記憶しております。」とのべ、ソ連の対日政策のカナメは「日本とアメリカの関係を離間して、中立へ、そしてソ連側に引き寄せたい」ところにあると分析している。当面の日本のとるべき方針として、「もちろん今日の日本は、好んで対ソ緊張を増大させるような政策をとるべきではありません。しかし、対立的、反日的要因については、あくまで日本の正しい立場と主張をつらぬくため、場合によってはソ連に対抗して常々の理論と政策を展開すべきです。但し日ソ貿易の拡大、技術交換、シベリア開発、安全操業其の他日ソの協力を促進する分野では、進んでソ連と手を握り、相互の利益を開発するにやぶさかであってはなりません。」と結論づけていることが印象的だ。
 1970年(昭和45)、茂森は「ソ連の政治硬直と経済停滞」と題して、『国民サロン』誌2月号に次のように述べた。
 「共産主義はソ連や中国のようなかつての歴史的・経済的に遅れた大国が、農業基盤の経済を工業国家に転換する過程においては、積極的な役割を果たした。また軍事大国化するうえでもプラスは大きかった。そのかわりそれは数百万の国民に流血の犠牲を強い、数億の国民に涙と汗のおびただしい犠牲を払わせ、その血と汗のうえに築き上げられるものであった。」という歴史的な総括にたった上で、ソ連共産党に次のような提言をした。
 「第24四回共産党大会と、第9次5か年計画に進むソ連の指導者に臨みたいことは、共産主義体制は自由資本主義に歴史的に絶対優先しているという、前世紀的な神話からこの際解放されてほしいことである。そして日本を含む自由主義先進国が、どうして経済の発展テンポではるかにソ連を追い抜き、国民生活の水準がソ連よりも遥かに高く、また科学技術の分野で優位に立っているか、そのよってきたる体制講造上の原因を卒直に見直してほしいことである。」
 茂森は、死去する半年前の1972年(昭和47)8月、清話会で講演し、その内容は機関誌『先見経済』に「日ソ・日中間題を解明する」と題して掲載されている。ここでは、日ソ平和条約・領土問題」と日ソ共同石油開発をテーマとして論じている。
 「あくまで、北方四島を同時返還せよということで突っぱねるか、それともまず歯舞、色丹を段階的に返還させながら、残りの国後、択捉は継続審議にするという弾力的な政策をとるか。これは非常に大きな選択である。もし、四島同時でなければ平和条約を結ばないということになると、半永久的に平和条約は結べないことになるし、同時に国後、択捉だけでなく歯舞、色丹も返ってこなくなる危険性が濃厚である。というのは、ソ連という国は戦争でとった領土を平和的に返すことなどありえないという考え方を強くもっているからである。」日本政府(安倍内閣)の方針を半世紀前の1972年段階で茂森は主張していたことになる。又、「日本にとってはどうしても資源を多元化しておく必要が生じており、これが政治の一つの目標になってきている。ことに、中近東から輸入できなくなった場合においては、わずか二~四日でソ連の石油が入ってくるというのは大きな支えである。そういう意味でも、日本のように資源の乏しい国には、貿易上、経済上の要求からこの日ソ共同開発という問題が出てきているわけである。」と日ソ経済交流の意義を説いている。領土問題と石油ガス問題における茂森の先見性は言うまでもない。
 
 このように、茂森唯士の論説を見ていくと、一般に、「左翼→転向→右翼反共ジャーナリスト」というレッテルがみられるが、それは不正確である。彼の論調には常にロシア・ソビエトを見守り続ける愛情が感じられるとともに、ソ連批判も右翼イデオロギー的というよりは極めて常識感覚からの批判である。今日でいえば、ソ連共産党が崩壊したわけであるので、ソ連共産党の大国主義、ソ連社会主義の硬直した官僚主義と誤った政策に対する辛辣な彼の批判は正解であったと云わなければいけない。
 1966年(昭和41)、建川大使秘書として滞ソ中にモスクワの古本屋で発掘した『幕末日本異邦人の絵と記録に見る』(エメエ・アンベール著、茂森唯士訳)を東都書房から出版、のちに2004年講談社学術文庫から再出版されている。
 晩年は、ソ連研究家として、本の出版や翻訳、論文の執筆、講演などをおこない、1973年(昭和48)2月5日、78歳で死去した。

〈参考文献〉
『月刊ロシヤ』日蘇通信社(昭和10年7月1日号~19年12月1日号)
井上智生『異風者伝:近代熊本の人物群像』熊本日日新聞社、2012年
エメエ・アンベール(茂森唯士訳)『絵で見る幕末日本』講談社、2004年
大蔵公望『大蔵公望之一生』大蔵公望先生喜寿祝賀委員会、1959年
尾瀬敬止『日露文化叢談』大阪屋号書店、1941年
木下信三『山頭火伝』古川書房、1983年
茂森和子・政『夢ありき。:脳性小児マヒの息子あっての人生ドラマ』SMI、2006年
茂森唯士『新局面に立つ日ソ外交』1969年
茂森唯士『先見経済』1387号(1972年8月)清話会
茂森唯士『ソ連の粛清』実業之日本社、1956年
茂森唯士「ソ連の政治硬直と経済停滞」『国民サロン』2月号(1970年)、国際政治経済文化研究会
『回想・日ソ親善のあゆみ』「回想・日ソ親善のあゆみ」編纂委員会編、日ソ協会、1974年
『国民と警察』昭和43年4月号(1968年)警察官友の会編
『社会評論』昭和21年5月号(1946年)、ナウカ社
『ソヴェート芸術 創刊号』日露芸術協会、1929年
『ソ連視察報告書(1960)』モスクワ日本産業見本市視察経済使節団実行委員会、1961年
『日露芸術』4・5月号、日露芸術協会、1926年
『"ハラショウ"の旅―ソ連みたまま―』日本国際貿易促進協会、1960年
『文芸戦線』第三巻第五号、文芸戦線社、1926年
『文芸戦線』第三巻第七号、文芸戦線社、1926年

「会報」No.42 2021.8.1 会員報告