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デンビー(Denbigh)商会と中嶋家

2023年5月 6日 Posted in 会報
中嶋 肇

 最近、日魯(ニチロ)という言葉を聞かない。かつて函館の水産業を独り占めにした大会社だったが、ましてその競争相手であったデンビー(Denbigh)商会の名を知っている人もほとんどいなくなった。いれば90歳以上の人だろう。
 そこでデンビーについて簡単に紹介してみたい。デンビーといえば、二人いるので多少紛らわしい。すなわち父親のジョージ(George)とその息子アルフレッド(Alfred)である。
  
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ジョージ(上)とアルフレッド(右)

 ジョージは1840年、スコットランド生まれのイギリス人であるが、漁業に取り組み、北洋に目をつけて、漁業権を得るためロシアに帰化した。最初、長崎、後函館とだんだん北上してカムチャツカに漁場を開き、鮭、鱒の缶詰工場を建て経営した。
 ジョージは、長崎に本宅を構えたが(1)、函館に移住してして定住、1814年にハワイに移住し、1916年に同地で病没した。
 ジョージの死後は長男(1880年生まれ)のアルフレッドが継ぎ、工場を拡張、電動機械を据え付けるなど、事業を拡大した。デンビー商会は、ウラジオストクのキタイスカヤ通りの一角に本店、漁業経営の本拠地である函館に支店を置いた。
 デンビーは函館では、末広町に事務所(支店)、谷地頭に住居、湯川に別荘を持った。事務所は火事のため2、3か所移転したが、最後は八幡坂の中途にあった。終戦後は引揚者住宅に転用され、のち北海洋裁学院が使用していたが、2011年(平成23)に取り壊された。
 函館の住宅は、市電谷地頭終点よりまっすぐ函館山の方へ進み、坂上がりになったところのすぐ右側にあったのだが、1934年(昭和9)の大火で焼けてしまった。当時、近所の人たちは、浜言葉で訛り、デンベイの坂とかデンベイの屋敷と呼んでいたそうだ。その後、郵便局の官舎があったが、今は個人住宅が建っている。湯川の別荘は、松倉川河畔にあったが、「ホテル御園」と変わり、後に「国の子寮」として使われていたが、これも今は跡形もない。

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旧デンビー商会支店事務所(「漁り工る北洋」より)

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デンビー一家、谷地頭宅の前で
前列右ジョージ・デンビー、その左が森高テシ。後列右端が、アルフレッド・デンビー

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後列中央が中嶋貞次郎 川の別荘か?

 そのデンビーと中嶋家は深い関わりがある。祖父中嶋貞次郎(1877年~1950年)は、奥津軽今別の出身だが、1897年(明治30)頃に来函した。何かの縁で巡り合い、函館でデンビー商会に勤め、北洋に行って鮭、鱒の捕獲に従事して、番頭にのし上がったのだ。
 弁天台場の跡地、小舟町(現在は入舟町)の船入澗のすぐ前に家を建て(当時、小舟町45番地)、隣にデンビーの番屋を並設した(2)。デンビー番屋の建築は、1915年(大正4)頃らしい。北洋へ行く漁夫を、前金を払って集めて、番屋へ泊めて置き、そこから母船へ連れて行った。叔母の話によると、多いときは100人位いたそうだ。
 ジョージは、長崎で森高氏の娘テシ(光ともいう)と結婚、四男一女をもうけた。のちに彼女はアンナ(Anna)と改名した。
 デンビーが去る時に、祖父はいろいろな物をもらったようだ。ダブルベッド、1人用のソファー、等身大鏡付きのドア、表紙がグリーンの厚い地図帳、パーティー用のスープ皿、紅茶セットなどが祖父の家の2階に置いてあった。部屋を開けると正面に、ジョージ・デンビーの髭を生やした厳しい顔の写真が飾ってあり、行くたびに睨まれている気がした。鏡付のドアは、立派な物だったが、日魯の若い社員が集まって酒盛りをした時に、酔った勢いで持ち上げたやつがいて、落として鏡は割れてしまった。惜しいことをした。
 地図帳は畳半畳、厚さ5cmぐらいの大きな本で、私が子供の頃は、その上で昼寝をしたものだ。保管してあった帳簿、ハガキ、手紙類などが柳行李いっぱいに詰まっていたが、私が高校生の時に、切手集めを始めたので、切手をみんな取りまくり、すべて捨ててしまった。
 1954年(昭和29)の台風15号(洞爺丸台風)の時に、家の屋根が飛ばされて部屋中が水浸しになって使いものにならなくなった。デンビー商会に関する資料はほとんど残っておらず、博物館に一族の肖像画などが寄贈された時、関係者が「A・デンビーがなくなった際、遺品などの処理に立ち会ったが、その際日記や写真などは全て焼却した。非常に几帳面な人で綺麗に詳しく書かれていた。」という(参考文献1)。せめて祖父の家にあった資料が残っていれば、デンビー商会のことがもう少しわかったかも知れない。
 このほかに、四角い大きなテーブルが3台、1台は家庭用に使い、後の2台は番屋に置いてあったので、子供の頃卓球台にして遊んだ。
 番屋の奥には煉瓦で作った大きな炉があり、直径1mもある大きな鉄鍋が2つあった。これで食事を用意したのであろう。
 デンビーから譲り受けた品々の多くはすでにないが、洋皿と番屋の看板が残されていたので、博物館に寄贈することにした。

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現存する旧デンビー番屋(左) とその内部

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デンビー商会番屋看板(左)と函館市末広町八番地デンー商会」の文字入り封筒

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中嶋家が所蔵していたデンビーからもらった洋皿のセット。番屋看板と洋皿は、令和2年に筆者が市立函館物館に寄贈した。

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デンビー家愛用の紅茶セット(市立函館博物館蔵)

 私は1932年(昭和7)生まれなので、ジョージ・デンビーには会ったことがなく、白い髭を見ると、むしろサファイロフさんを思い出す。湯川から手製のジャムを持って売りに来ていた。何回か会ったが、優しい感じの人であった。(参考文献2)
 アルフレッドも、多分うちへ来ていたと思うが、小さかったので会った記憶は全然ない。

当時はうちへ来る外国人を見ると、みなデンビーさんだと思っていた。
 私の記憶になるが、3、4歳の頃、湯川にあったデンビーの別荘に行ったことがある。門を入ると芝生の庭があった。犬小屋の檻の前で写した写真がある。確かシェパードが2匹いたはずだ。玄関は真っ白なドアで、入るとすぐ右手にショーウインドーがあって、鮭、鱒の見本が大きな標本瓶に入っていた。その上に愛用の空気銃が飾ってあった。その銃は函館狩猟会の某氏が拝借していまだ帰らずとなっている。
 中へ入ると大広間、ダンスパーティーをするため、リノリウムが敷いてあった。グランドピアノが置いてあった。叔母の話によると、私がその上にあがり、お漏らしをしたそうだ。ピアノはどうなったろう。帰りにイースターに使ったカラーの卵をもらってきた覚えがある。

 函館で大きな影響力を持ったデンビー商会だったが、1917年(大正6)年に起きたロシア革命によって、財産を没収され、再起を図るが果たせず、凋落を余儀なくされた。
 アルフレッドは、1935年(昭和10)に、函館駐在英国名誉総領事を務めるなどしたが、1942年(昭和17)頃には、上海へ亡命している。
 戦後、日本に戻ったがかつての栄光はなく、1953年(昭和28)鎌倉で没し、横浜外国人墓地に葬られている。

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ウラジオストクの旧デンビー商会社屋(2018年9月倉田撮影)

(1) 現在、長崎の住宅は、愛知県犬山市の博物館明治村に移築されている。
(2) 番屋の建物は、後に平石造船所となったが、同造船所も廃業した。その隣が母屋であったが、1954年の洞爺丸台風で屋根を吹き飛ばされ、結局取り壊した。現在は金木水産(珍味加工場)となっている。写真は、2020年8月に奥野撮影。

参考文献
1 岡田一彦「資料受入調査余滴 描かれたデンビー一族―幻の北洋の覇者―」(『市立函館博物館研究紀要』第3号 市立函館博物館 1993年)
2 清水恵「函館におけるロシア人商会の活動―セミョーノフ商会・デンビー商会の場合(『地域史研究はこだて』第21号 函館市史編さん室 1995年)
3 『函館市史』通説編第3巻 函館市 1997年
 ※ 2、3については清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』(函館日ロ交流史研究会 2005年)に収録。
4 『はこだて史譚―會田金吾論集郷土史―』函館の歴史的風土を守る会 1994年

「会報」No.42 2021.8.1 会員報告