函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

山口茂一『日本詩歌の支配的傾向としての印象主義』の成立刊行に力を尽くした人々 ―― (1) ニコライ・ペトローヴィチ・エフスチフェーエフ

2020年9月 7日 Posted in 会報

 桧山 真一

「著者から」

 『日本詩歌の支配的傾向としての印象主義』(1913年、サンクト・ペテルブルグ)巻頭の「著者から」で、山口茂一(1882-1920)は本書の成りたちと性格、対象となる読者層を述べ、執筆と刊行にあたり彼を物心両面で支援した5人の人物の名を挙げている。「著者から」の全訳は次の通り。

 本書は専門家を対象とするのではなく、私が検討した日本文学のひとつの分野と結びついた特別な史学および文献学上の問題よりも総じて作品の詩的表現形式に関する美学上の問題におそらくより関心があるはずの多少とも広範な大衆を対象としている。それで、1911年11月のサンクト・ペテルブルグでの露日協会第一回総会において聞いてくださった[私の]報告にもとづく本研究論文を出版するにあたり、誤解を避けるため、本書が学術論文ではないことをあらかじめ読者に知らせておくことは適切であろうと思う。
 ロシアではまだ数少ない日本学に関する文献への私のこのささやかな寄与を準備するに際し、あれこれの援助を与えてくださったすべての方々にこの機会に深い謝意を表する。不断の、数多くの教示と援助のゆえ、それにもまして示された精神的支援のゆえ、ここにまず第一にニコライ・ペトローヴィチ・エフスチフェーエフの名を、本書出版の金銭的援助をしてくれたマルガリータ・ミハイロヴナ・ヤンコフスカヤ(旧姓シェヴェリョーワ)の名を、日本語原書からの[和歌、俳句等の]選択にあたり世話になったゆえ、オオイ氏の名を、またおなじくサンクト・ペテルブルグ大学専任講師アレクセイ・イワーノヴィチ・イワノフの名を、そして若干の有益な教示のゆえ、サンクト・ペテルブルグ大学専任日本語講師ヨシブミ・クロノ氏の名を挙げなければならない。ここにこれらすべての方々に心より感謝申し上げる。

  1912年12月8日
   サンクト・ペテルブルグ

41-1-1.jpg

『日本詩歌の支配的傾向としての印象主義』の中表紙

41-1-2.jpg

山口茂一

 名前を挙げられた5人のうち私たちにもっともよく知られているのは黒野義文(?-1918)であり、彼の小伝は複数存在する。マルガリータ・ヤンコフスカヤ(1884-1936)とアレクセイ・イワノフ(1877-1937)についてはわが国でも多少知られている。まったく未知の人物はニコライ・エフスチフェーエフとオオイのふたりである。

ニコライ・エフスチフェーエフ

 「不断の、数多くの教示と援助ゆえ、それにもまして示された精神的支援ゆえ」、山口茂一により5人のなかで最初に名を挙げられたのがニコライ・ペトローヴィチ・エフスチフェーエフ(1866-1936以降)である。『ロシアにおける革命運動活動家』伝記書誌辞典、第3巻、[18]80年代、第3分冊(1934年、サンクト・ペテルブルグ)の1300-1303頁に、エフスチフェーエフについての詳しい記事がある。エフスチフェーエフは、貴族で6等文官の近衛槍騎兵連隊獣医の家庭にワルシャワで誕生。ノブゴロドで中学6年生のころ、社会学の本を読むのを止めそれを学校に預けよという学校当局の意に従うのを拒否し退学する。ペテルブルグへ出て家庭教師をし、1880年代半ばのペテルブルグの学生運動と密接な関係をもち、ノヴゴロド同郷人会の活動に積極的に加わっていた。以後、エフスチフェーエフは革命家の道を歩み、その活動のゆえ1888年に東シベリアへ流刑にされてもいる。1895年に罪を許されてから山口茂一と出会うまでの10数年間、エフスチフェーエフはシベリア、東欧で様々な仕事に就いたり学生になったりしている。伝記書誌辞典の山口茂一と関係のある個所を訳出すると、「1909年の夏の終わり、[ブルガリアのソフィアから]ペテルブルグに着き、10月15日、ペテルブルグ大学東洋語学部(中国-蒙古-満州科)の聴講生となる。1910年6月23日、ペテルブルグ学務区審査委員会での中等普通教育終了証試験に合格し、1910年9月25日、ペテルブルグ大学の編入生となる」。このころ山口茂一は同大学東洋語学部中国-日本科の最終学年に在籍していた。彼の卒業年月は1912年5月(京都大学文学部所蔵「山口茂一の履歴書」)。はじめ山口は中国-蒙古-満州科の学生であったが、後に中国-日本科に転科する。1919年、彼は前者の科の教授アンドレイ・ドミートリエヴィチ・ルードネフ(1878-1958)の『蒙古文典』を神戸で翻訳刊行している。エフスチフェーエフと山口を引き合わせたのはルードネフ教授であったのかも知れない。エフスチフェーエフと山口は16も歳のひらきがあるが、「著者から」の後者の前者にたいする感謝の言葉から、ふたりの好学の士の厚い友情を覚える。

41-1-3.jpg

エフスチフェーエフ

「会報」No.41 2020.3.3 会員報告