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日露戦争前後のウラジオストク ――〈ドム・スミス〉のエレノアが見た人と風景

2020年9月 7日 Posted in 会報

乳井 洋一

はじめに

 ウラジオストクは1861年、海軍の哨所の設置に始まるが、哨所の司令官は欧米からやってきた野心的な若者たちに土地私有許可という名目で、見晴らしのよい坂の土地を切り売りしていた。1860年代に米国から来て銃器商〈ドム・スミス〉を構えたチャールズ・スミスもそうした草分けの一人だった。彼の妻サラ(旧姓プレイ)の弟テッドとエレノアの新婚夫婦が1894年にニューイングランドからやってきてそのまま店を手伝い始めた。エレノア・プレイ(1868~1954)はテッドの死後、さらに革命後も1930年まで住み続けた。
 中央郵便局の背後という市内に目配りできる絶好の場所から、エレノアはほとんど毎日のように故郷の身内、友人に見聞きした市内の様子を書き送っており、彼女の孫のパトリシア・シルバーが1万6千頁におよぶ手紙と古写真を受け継いでいた。これらを研究している米国ワシントン州立大のビルギッタ・インゲマンソン教授は、手紙を抜粋、編集したLetters from Vladivostok 1894-1930、 さらにエレノアとその周辺の人物を描く The Sunny Neighborhood-A Vladivostok Tale の2冊を出版している。
 それらのうち日露戦争前後、邦人引き揚げで日本ではあまり知られていない市内の様子、エレノアと接触のあった有名人たちについて紹介してみたい。

エレノアの見た風景

 1894年6月、この町に来たエレノアはすぐ巡洋艦の舞踏会に呼ばれて社交界デビューするが、彼女は海軍の軍服に象徴されるこの町の華やかな風景に魅了される。フランスの軍艦が入港すると21発、15発の礼砲が響き、甲板に整列した水兵が両国の国歌「ボージェ・ツァーリャ・フラニ」「ラ・マルセイエーズ」の演奏を応酬し、見守る市民たちを浮き立つような気分にさせる。そして、その後は上陸した水兵たちの馬車が行き交い、街は活気づくのだった。
 岸壁にいちばん近い目抜き通りのスヴェトランスカヤ通には、入港する船からは城のように見える煉瓦造り3階建てが並ぶ。それはこの町の成功者たちの私邸を兼ねた社屋や百貨店、劇場を備えたホテルなどだ。
 軍都だが民間人のトップはドイツ、スイス、北欧系が多かった。金鉱開発から沿海州各地の製粉所などに事業を拡げたスウェーデン系のリンドルムは乾ドックを建設、海軍病院全棟を建て直すなどの貢献で、軍港区域に特権的に邸宅と自家用桟橋を構えていた。ドイツ系は機械、資材輸入から百貨店経営に乗り出すクンスト、アリベルス、ランゲリーチェ、スイス系のブリネルは山林開発から港湾の仕事を握っていた。こうした成功者の夫人たちが集まるお茶会の会員にエレノアも加わった。カフェークラッチとドイツ語で呼んだこのサークルでは、会員宅でロシア語、ドイツ語、時には英語、フランス語でおしゃべりを楽しみ、傷病兵へ送る衣料の縫製など慈善事業にも励んでいた。家族ぐるみで四季折々、ゴルフ、テニス、ハイキング、スケートに出かけるが、遊びだけでなくジョン・ラスキンの芸術論への賛否を話題にするような雰囲気もあったようだ。
 沿海州統計局の人口調査では1901年、ロシア人15,974、欧米人474、清国人11,637、 朝鮮人1,518、邦人1,244で、日本貿易事務所調べの邦人2,875とは食い違いがある。が、ほぼこんな人口比率で多民族が、ある程度住む街区も違えてお互いに干渉し合わずに暮らしていた。エレノアもアジア人との交渉は雇っているマンザと俗称された清国人の苦力、日本人の常時数人いたコックと阿媽だけだった。阿媽は〝サン〟付けで呼ばれ、親しい欧米人にも敬意と親愛の印として〝サン〟をつけていた。士族の娘のおヒロさんは、後にエレノアの友人の米国人実業家と結婚している。
 私はインゲマンソン教授に、これら欧米人と邦人の成功者との交流がなかったか手紙を調べてもらったが皆無で、両者が接近したのは革命時、日本軍の派兵のころに〝反革命〟で手を結んだ時期だけだったと思われる。むしろ写真師、時計商、洋服仕立て、靴職人といった手先の仕事の邦人がロシア人たちを客にしてつながりが深かったのである。
 このころまで邦人人口は娼妓の存在のせいで女性の方が多かった。ロシア内務省は1903年に娼妓取締規則を厳しく改正したが、妓楼の監督にあたる警察医務会の実務を今まで通り外勤巡査に委任したので、その後も業者の賄賂攻勢で妓楼は内地の廓同様の経営形態が続いた。私は古文書館で警察による妓楼の取締記録を出してもらったが、放置していた酒瓶が規則違反の客用ではないか、と疑われ摘発されたといった程度。検挙されるのは清国人の手先ぐらいで、邦人業者の検挙例はほとんどなかったようだ。夜間の外出は西欧人8時、アジア人9時までと決められ、それ以後に外出する場合は巡査の強盗行為を覚悟せねばならなかった。巡査たちが給料だけでは生活できないせいだといわれ、年末には彼らがクリスマスを人並みに過ごせるよう、商店にはランクに応じて寄付が割り当てられていた。
 1904年、日露開戦による邦人総引き揚げで日本商店の多い通りはがら空きとなるが、スヴェトランスカヤ通など中心部も火の消えたようだった。旅順への攻撃を知って、家族をハバロフスクや中央ロシアに避難させる人たちが続出したためで、日本軍に砲撃され一人の身重の女性が犠牲になった後は、駅に避難を求める千人単位の市民が殺到し子供が圧死する事故まで起こしていた。
 町全体が日本海軍の襲来に神経質になっていた。沖合に水雷艇が現れたという情報で、要塞司令官が駅に列車を待機させ、子供たちを奧地に送る準備をしたが、浮氷に乗ったアザラシの群れを見誤っただけのことだった。日本軍が上陸して市内に行進してきた、というデマが流れ大騒ぎになったこともあった。
 ウラジオ巡洋艦隊の重要な任務は通商破壊で、日本海に出撃しては日本商船を沈めていたが、優勢な日本海軍に捕まれば勝ち目はない。出港する度に市民たちは無事な帰還を祈っていたが、士官たちに英語を個人教授して親しい関係にあるエレノアには特に切実だった。艦隊が無事帰港すると市民たちは埠頭に出迎え、明かりをつけて停泊しているのを見て安眠するのだった。
 4月、艦隊は陸軍輸送船金州丸を沈め、士官を含む200人の捕虜は奥地に送還されるため大通りを駅まで行進させられて行った。そしてついに8月、艦隊は朝鮮の蔚山沖の海戦で3隻の巡洋艦のうちリューリクを失い、ロシーヤ、グラマボイが傷だらけで帰還したが、資材と人手が足りず終戦まで修理が間に合わなかった。ウラジオストクには日本海海戦で敗れたバルチック艦隊のわずかな生き残り、巡洋艦、駆逐艦合わせて3隻が逃げ込んだ。
 こうして、戦争は旅順、奉天の会戦の帰趨にかけられたが、電信事情で正確な情報が伝わらず、市民は新聞に転載される東京発の伏せ字だらけの外電にあれこれ憶測するだけだった。奉天に近い遼陽の激戦では、クロパトキン司令官のロシア軍が黒木為楨第一軍司令官の日本軍を壊滅させたと誤って伝えられ、街を祝賀のイルミネーションで飾って軍民ともに祝杯に酔いしれたこともあった。
 戦争が終わると、膨大な量のシャンペン、ブランデーが輸入されたが、仲仕、苦力の手が足りなくて倉庫に運ぶなどの処理ができず、岸壁に積み上げたまま。そばには見張り番を命ぜられた兵隊が酔いつぶれていた。生鮮食料の市場を支配している中国人の大半が山東省の芝罘に引き揚げたため、市内は食糧不足に陥り、各家のコックたちは岸壁に積まれた貨物の中から食品の缶詰を探して持ち帰り、しのいでいた。
 戦争では無傷だったこの町も、1905年11月、戦争が終わっても帰郷できそうもないことに怒った予備役召集の兵士・水兵や日本領になった南サハリンからの元流刑囚などによる暴徒によって、中心部1マイル四方が灰塵と帰した。漆喰で飾った壮麗な3階建ての街並みも、クンスト&アリベルス百貨店は略奪され、劇場を備えたゾロトイローグ・ホテルは燃え落ちた。エレノアやドイツ系の住人たちは港の汽船に避難して真っ赤に燃える市街を眺めていた。この町いちばんの資産家、リンドルム邸は侵入してきた水兵に銀器、美術品など金目の物をすべて略奪され、損害は50万ルーブルといわれた。
 無政府状態は翌年1月まで続き、カザークが鎮圧に導入された。セリヴァノフ要塞司令官はもし水兵や兵士が暴れたら、壊した窓ガラス1枚に付きその場にいた兵隊5人を殺すよう命じた。エレノアは、カザークが街頭で水兵7人をベルドゥイシ(半月槍)を振るってミンチ状態に切り刻む光景を伝えている。
 この町の治安の悪さは大正期も同様だった。無抵抗の日本人商店を狙ってしばしば白昼、泥棒が車を乗り付けて大量の商品を倉庫から持ち去り、邦字紙「浦潮日報」は〝吾人は枕を高くしてねむる能わざるか〟と報じている。

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(上)初の舞踏会で盛装したエレノア 1894年

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下)〈ドム・スミス〉の全景 1894年

エレノアの関わった有名人たち

 イザベラ・バード・ビショップ夫人は1894年秋から12月まで〈ドム・スミス〉に滞在しており、エレノアはこの英国の旅行家に心酔していた。が、ビショップの紀行はいずれも労作だが、首を傾げる箇所が少なくない。彼女の Korea and Her Neighbours (朝鮮紀行)にウラジオストク到着の模様が描かれている。
 汽船から薄汚い朝鮮人(Korean)の若者にサンパンをたらい回しにされてやっと着いた岸壁では、群がった朝鮮人がお互いにパンチを交わし合いながらビショップの荷物を奪い合い、朝鮮語で耳元に怒鳴りながら数人ずつがビショップを向うの幾台かの辻馬車のどれかにそれぞれ連れ込もうとする。そうした朝鮮人が周りに何百人も群がって、彼らはもっと騒がしく攻撃的だ。
 やっと巡査の助けで乗り込んだロシア人の辻馬車はホテルの名前が英語、仏語で通じず、いかがわしい飲み屋に連れていかれた。そこへ先ほどの朝鮮人たちが駆け付け、彼らを従えて次の居酒屋へ。こうしてやっと騒がしい彼らのエスコート付きで目指すホテルに着いたという。
 しかし、彼女が相手にしているのはすべて中国人で、朝鮮人ではなかったはずだ。長い間、市内の両者の居住人口は10対1と中国人が圧倒的で、前述のように1901年は11,637人対1,518人である。ビショップは同書で1897年、朝鮮人3,000人、中国人2,000人というほとんど架空の人口数をあげている。岸壁の数百人はどの旅行者も必ず記述する悪名高いマンザたちである。わずかな朝鮮人はその周りにいて、背負子を肩に1カペイカぐらいで手荷物を運ぼうとしているだけだ。両民族は髪型、服装を見るだけで日本人なら簡単に見分けられるのに、ビショップの間違いがなぜなのか不思議でならない。
 エレノアによると、ビショップは旅先から取材したメモ類を自宅に手紙で送っておき、それをもとに執筆するのだという。しかし、豊富な数字のデータも出典がほとんど明示されていないので、資料としては安心して使えないと思う。
 英国人のセシル・メアーズは1905年2月、〈ドム・スミス〉を訪問、会戦直前の奉天の様子を伝えてくれた。アフリカ、インド、満洲、カムチャツカと各地を放浪したこの冒険家にエレノアも興味を示していた。その後メアーズは友人と行ったチベットで友人を殺されて逃げ帰り、1910年の南極点を目指すロバート・スコットの第二次探検隊に参加するが、途中で隊を離れ全滅から命拾いした。この幸運な男はその後、空軍創設の助言者という肩書で日本にも滞在している。
 1906年1月、要塞司令部前で市民のデモ隊が機関銃の犠牲になり、1年と1日前に首都で皇宮へ請願にきた市民たちが軍隊に撃たれた〈血の日曜日〉の再現と言われた。デモの先頭で死んだ女性革命家リュドミラと、その夫で人民派の医師会長アレクサンドルのヴォルケンシチェイン夫婦をエレノアは尊敬しているが、リュドミラの経歴についてはまた聞きの知識だった。和田春樹著「ニコライ・ラッセル――国境を越えるナロードニキ」には詳しく紹介されているが、アルセーニエフ博物館の資料やインゲマンソン教授の教示によると二人ともなぜか経歴の同じ期間が間違っているのであった。
 外交官の川上俊彦は1890、1900、1906年と間をおいて3度貿易事務館に勤務、2度目の年に旧会津藩士の娘、常盤と結婚した。エレノアは最後の年の数か月、この夫婦と付き合いがあっただけだった。それだけなのに1907年に哈爾浜総領事に赴任した俊彦のもとに8月、東京から合流する途中の常盤が〈ドム・スミス〉に立ち寄って、エレノアに絹の生地などの土産を贈った。その厚意にエレノアは感激して領事館にお礼に駆け付けている、前年の12月、市内ただ一人のハイ・カ―ストの日本女性だと注目されていた常盤と、エレノアは再建なった歌劇場の桟敷蓆でチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」を観劇したが、観衆は歌劇そっちのけで常盤ばかりを注目していたという。

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晩年のエレノア 1933年
 
 私は〈高城高〉の筆名でこの時期のウラジオストクを描いた歴史小説「〈ミリオンカ〉の女――うらじおすとく花暦」「仕切られた女――ウラジオストク花暦」の2冊を2018年3月、2020年2月に相次いで道内から上梓している。エレノアの手紙は、間違いを修正しながら貴重な資料として利用させてもらったのである。

「会報」No.41 2020.3.3 会員報告