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悲劇発生の地 イワノフカ村訪問記

2020年9月 7日 Posted in 会報

高野 晃

はじめに

 筆者は、先に2018年7月の本会報(No.38)1にて、シベリアのヴォストチヌィ宇宙ロケット発射場とシベリア出兵、およびシベリア抑留地の記憶について、投稿させて頂いた。その中で、日本軍のシベリア出兵時に、アムール河沿いの、ブラゴベシェンスク近郊の、イワノフカ村で発生した、幼児を含む村民虐殺事件があったことを紹介した。
 著者は、その原稿提出直後の、2018年2月に、ロシア革命100周年シベリア訪問ツアーに参加し、イワノフカ村の慰霊碑と郷土史博物館を訪ねることができたので、本稿はその知見について紹介させて頂く。

出兵地図

 往路は、空路成田空港から、双発プロペラ機でウラジオストク空港に向かい、シベリア鉄道を利用し、ハバロフスク市を経由して、ブラゴベシェンスク市に到着し、そこから目的のイワノフカ村に向かった。ツアー参加者たちは、大学の若手講師や、世界中のマラソン大会で歴戦を繰り返している高齢者を含む、個性豊かなメンバー5名であったが、いずれも日ロ関係の歴史に詳しい、強者たちであった。
 そのシベリア鉄道の、寝台車コンパートメント内の夜間交流会で、筆者が国会図書館で入手し、コピーを用意していた、シベリア出兵時(大正7~8年)の、日本軍の進軍・戦闘地図(第十二師団司令部編纂)2を配布し、参加者各自が持ち合わせた、歴史話に花を咲かせた。図1(18頁)は、そのときの配布資料の部分図である。
 本図には、ロシア革命開始翌年の、大正7年(1918年)4月に、ウラジオストク市に日本陸軍が上陸し、同年8月に対露出兵を宣言してから、ウスリー河沿いに戦闘北上し、ハバロフスク市まで進軍し、9月7日に同市付近で戦闘を開始し、占領した記録が記入されている。日本軍は、そこから進路を西に転じて、アムール河を遡上し、9月19日に、あっという間にブラゴベシェンスク市を占領したことがわかる。ハバロフスク市からブラゴベシェンスク市まで、日本軍が、このように迅速に進軍できた理由は何かといえば、ハバロフスク市に基地があった黒龍艦隊を攻撃して、艦船を鹵獲し、それに乗ってアムール河を遡上できたことが、一因と考えられる。
 なお、シベリア出兵時の、シベリア鉄道沿線の日本軍の進軍経路は、ハバロフスク・ブラゴベシェンスクを経由した北上経路と、北のチタを経由した、南下経路の2経路があり、両軍は、やがてシベリア鉄道に沿って合流することとなった3。


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図1 シベリア出兵進軍地図(原図記入文字不鮮明)
 
イワノフカ村訪問

 ブラゴベシェンスク市は、アムール河に面した都市で、市の南側は、対岸の中国領黒河市と対向している。2月のアムール河は全面凍結状態で、河幅中央位置の氷上には、中国側の警戒監視小屋がいくつも設置されていた。イワノフカ村は、ブラゴベシェンスク市のアムール河に、北から合流するゼーヤ河を渡って、東の方向、自動車で30分ほどの距離にある寒村である。同村では、大正8年(1919年)3月22日に、日本軍が、ロシア革命を支援するパルチザンへの、報復・見せしめのため、400軒以上のロシア人住居を焼き、住民257名を銃殺し、幼児を含む住民36名を納屋に閉じ込め、放火殺戮したことが、各種資料で報じられている。そのことは、筆者の前報でも紹介した1。

イワノフカ村郷土史博物館

 イワノフカ村では、まず村の中心部にある、同博物館を訪ねた。ここには、村の歴史遺産品が展示されており、とりわけシベリア出兵時の日本軍(ロシア側表現では「国際干渉軍」)に抵抗した、パルチザンの戦闘記録の、パネル展示が充実している。館内は、館長の娘さんが、同行したロシア人通訳を介して、案内してくださった。展示室内の一部は、インターネットのホームページ4で公開されているが、貴重な地図パネルの記入文字の判読が困難であったため、著者はぜひ現物を見たいと願っていた。
 図2(19頁)は、日本軍と戦った蜂起軍の進軍図(1919年1~3月)である。図中には、ブラゴベシェンスク市と、その北方の、シベリア鉄道とゼーヤ河が交差する付近のユフタ駅が見てとれる。この付近の森林地帯の中で、田中大隊がパルチザンにより全滅したことを、前報(文献1)で紹介したが、その戦闘場所が×印で記入されている。なお、この地図の表題は、過去にインターネット4で見たときの、「パルチザンの進軍路」から、「蜂起軍の進軍路」と、表現が変更されたことに、帰国後に気がついた。
 また展示室には、パルチザンの司令官であったビェズロトヌィと、ドラガシェフスキィの写真も展示されている。後者は1919年に戦死した。

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図2 シベリア出兵時に、日本軍に抗したパルチザンの戦略地図(ブラゴベシェンスク、アムール河沿岸地域)

哀悼の碑(懺悔の碑)

 イワノフカ村で、日本軍による、幼児を含む住民虐殺があったことは前記のとおりで、村中には、ロシア人が建てた慰霊碑が立っている。ただし、碑文には、ロシア語で「ここで、日本人干渉軍が、イワノフカ村の住民257名を銃殺した」と刻まれているだけで、特に子供たちの記述はない。ロシアのインターネット情報5によれば、日本軍は平和な36名の村民を納屋に閉じ込め、藁を積み、石油をかけて焼殺した。その場所に、木製標識が建てられ、1957年に、コンクリート製のオベリスクに再建されたと記述されている。その36名の慰霊碑はこれと別にあり、今回の訪問時に、訪問するのを失念した。死亡した幼児の実数については不明である。
 イワノフカ村で、子供たちを含む、非戦闘員たちの虐殺があったことを初めて知った、シベリア抑留経験者の、故斎藤六郎氏(全国抑留者補償協議会会長)が、その事実を知らなかったことの懺悔の意を込めて、資金を募り、1995年にイワノフカ村に、日ロ共同の慰霊碑を建立したことを、前報で紹介した。
 この慰霊碑は、しばしば「哀悼の碑」、または「懺悔の碑」として記述されており、いずれが正確なのか疑問になっていた。このため、ロシア語でどのように標記されているかを、現地で確認したいというのが、今回の旅の目的のひとつであった。
 現在、Google Earthで、イワノフカ村の地図、衛星画像を見ることができる。同村の画像の中で、雑木林の公園の中に、数本の細道が、放射状に集合する広場があるのを探すことができる。その広場の中心に、慰霊碑が立っている(図3、図4)。斎藤六郎氏の誠意を深く理解した村の方々が、趣旨に賛同し、公園の一番大切な場所を提供されたことが考えられる。
 この慰霊碑は、頂部にロシア正教の十字架を冠し、正面に慈母観音を描いた円形レリーフを配し、さらにその下に四角形の碑文を配してある。碑文にはロシア語で、「イワノフカ村の住民の方々へ 衷心なる懺悔と深き哀悼を捧げます 日本人斎藤六郎と有志一同より 1995年」と記入されていること(図5)、さらに日本語プレートに、「哀悼の碑、日本抑留者協会会長 斎藤六郎」の記載があることが確認された。このことから、この慰霊碑を、「哀悼の碑(別名懺悔の碑)」と表記するのが妥当だという結論を得た。
 この慰霊碑には、岐阜県のお寺の僧侶(横山修道氏)が毎年訪れて、慰霊法要を営んでいる。筆者は、ロシア正教の伝統に準じて慰霊の意を表したいとの思いから、持参したロシア語聖書の一節のコピーを、ロシア人通訳に渡し、慰霊碑の前で朗読してもらい、祈りのひと時を持った。
 これで、ツアーの所期目標が全て果たされ、満足したと同時に、慰霊碑の一部が劣化しているのを見出し、今後この碑をどのように維持し、慰霊の場として営むのか、気がかりを覚えた次第である。

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図3 イワノフカ村の日ロ共同慰霊碑に向かう公園内道路

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図4 日ロ共同慰霊碑(哀悼の碑、懺悔の碑)

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図5 日ロ共同慰霊碑のロシア語銘版

おわりに

 今回の旅行は、2月の極寒期にシベリアを訪問するという、冒険に近い側面もあったが、おかげで、極寒の中を行軍したシベリア出兵時の日本軍兵士たちや、寒さの中で倒れていったシベリア抑留者たちの無念さを、感ずることができた。筆者は、帰国前日の、ブラゴベシェンスクのホテル周りを、マイナス30度の気温の中、マスクをかけて早朝散歩した中で、10分ほどの間に、露出した耳が凍傷になり、帰国後、回復に1週間かかる土産をもらってしまった。一方で、寒気の中、マスクもかけず、白い息を吐きながら、元気に登校する、ロシア人小学生たちの姿を見て、冬を味方にできるロシア人の強さを、改めて感じることができた。

参照文献

1. 高野晃、シベリアのヴォストチイ宇宙ロケット発射場の運用開始とシベリア出兵、シベリア抑留の記憶、函館日ロ交流史研究会会報、第38号、2018年7月
2. 大正七八年浦塩派遣軍第十二師団忠勇美譚、第十二師団司令部編纂、東京川流堂、大正9年、1920
3. 西伯利出兵史 大正七及至十年、参謀本部、復刻叢書、1959
4. http://www.museum.ru/M925
5. http://www.amur.info/news/2012/08/27/6052

「会報」No.41 2020.3.3 会員報告