函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

函館に縁の深いズヴェーレフ家の人たち ―キューバからオリガさんを迎えるに当たって―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

■ズヴェーレフさんとは
 昭和18(1943)年、「レリメツシュ商会」関係外諜容疑事件が摘発されて、小樽、釧路 函館の白系ロシア人7名が逮捕された。そのうちの一人が函館の洋服商クジィマー・ズヴェーレフさんで、札幌刑務所に収監されたが、1年後に獄中で死亡した悲劇の人物である。また、ズヴェーレフさんは1929年から「北海道亡命露国人協会」会長として、北海道の白系ロシア人を束ねる活動していたことでも有名だった。対米戦争が苦境に陥っていた当時、貿易や行商で樺太、千島を含め全国を動き回る白系ロシア人へのスパイ容疑事件が度々起こり、様々な悲劇をもたらした。現在私達は内務省警保局の残した『外事警察概況』や『外事月報』により事実を知ることができるが、「ズヴェーレフさんの獄死」という事件も一つの「歴史上の事実」という感覚になっていた。つまり、函館に残された家族はその後どうされたのかなど、生身の人間と歴史の接点は見えないまま霞んでしまい、現実感は失われていた。

■次女ガリーナさんとの出会い
 1999年秋サンクト・ペテルブルグで友人のナターリアさんに東京生まれのヴェーラさん宅に案内していただいた。ヴェーラさんは1956年ソ連に帰国した元白系ロシア人で、戦前から戦後1958年まで東京に滞在して大学でのロシア語教育に貢献した画家ブブノワさんの晩年のお世話をした方である。東京の白系ロシア人のお話を伺うつもりだった。ところが、ここで「こちらはガリーナ・アセ-エヴァさん、函館にいたズヴェーレフさんの娘さん。北海道の方だというので、お呼びしたのよ」とガリーナさんを紹介されたのである。「ああ、あのズヴェーレフさんの......」とすぐに「獄中で亡くなった」ズヴェーレフさんを思い出した。「ガリーナさんですか?ペテルブルグに住んでおられたのですね!」ほんとうに驚いたが、こうして「歴史上の」人物を「発見した」のである。私は夢中でガリーナさんの両親のこと、また、何よりも日本からペテルブルグに至るまでのカリーナさん自身の人生の物語を根掘り葉掘り尋ね、メモしていた。最初に両親の歩みを紹介しよう。

■ロシア革命・内戦・日本への亡命
 1917年のロシア革命とその後の内戦により多くのロシア人が国外へ亡命した。ソビエト政権を受けいれず祖国を脱出、あるいはソビエト政権打倒のため戦う白衛軍に加担したが敗退して亡命した軍人や家族など、1917年-1921年に約250万の人々が亡命したといわれる。亡命先は独仏などヨーロッパ諸国が一番多かったが、シベリア、極東地方から中国の国境地帯、東清鉄道沿いにハルビンを目指す場合も多かった。これらの亡命者は革命派の人々がソ連軍即ち赤軍から赤系と言われるのと対比して白系ロシア人と呼ばれる。
 ガリーナさんの父クジィマー・ロジオーノヴィチ・ズヴェーレフさんは1887年ウラル地方ペルミ県クングール市(当時)で生まれた。第1次世界大戦に徴兵されてドイツ戦線で戦い、負傷して捕虜になったが、その後釈放されてゲオルギー十字勲章を授与され、2等大尉に昇進して兵役免除となった。しかし、革命が起こり、さらに内戦に突入、1918年ウラル地方ではコルチャーク将軍率いる白衛軍が優勢となり、ズヴェーレフさんも今度は白衛軍に徴兵された。負傷した脚が悪いため経理部主計として働く。しかし、コルチャーク政権崩壊後は、逃れてセミョーノフ軍に加わるが、彼の軍隊もシベリアより敗退しため、ズヴェーレフさんらは逃走、1922、3年頃ハルビンに到達したのである。このように元白衛軍の兵士とその家族など様々な避難民がハルビンに流入したため、革命前9万人だった人口がその頃35万人に膨れ上がり、生活は日増しに困難になっていた。他国への移住を望んでも、祖国を棄てた無国籍者ではビザ取得は不可能だった。この状況は世界的な問題となったため、国際連盟で論議され、ナンセン博士の提案によりロシア難民に「身分証明書」(以後「ナンセン・パス」と呼ばれる)を発給する決定がなされた。これによりビザを取得して他国へ移住することが可能になった。日本政府は従来難民の入国を厳しく制限していたが、1925年から「入国提示金制度」を適用することになった。日本での生活資金として一人1500円を提示すれば入国を認めるのである。これは大金だったため、資金のない人たちはグループを組んで2、3家族ずつが一定の期間をおいて提示金を貸し回ししながら移住するという方法を考案したという。
 この「ナンセン・パス」と提示金制度を利用して1925年ハルビンから北海道旭川に移住したのが、後の日本初の300勝投手ヴィクトル・スタルヒンの一家である。娘ナターシャ・スタルヒンの書いたスタルヒンの伝記『白球に栄光と夢をのせて』を読むと、避難民となった白系ロシア人の苦難の逃避行が生き生きとした具体像として迫ってくる。           
 さて、ズヴェーレフさんはハルビンで生活の資を得るためあらゆる仕事をしたが、その過程で同郷ペルミ出身の親しい仲間が出来た。そして、人口急増で展望の持てないハルビンから、当時着物から洋服への転換が急激に進んでいた日本へ移住し、洋服の行商をすることになった。

■札幌、室蘭を経て函館へ
 1926年頃日本に渡ったズヴェーレフさんのグループにアンドレイ・ヴォルコフ、その妻ダーリアと1歳の娘ヴェーラがいたことは確かである。その他に旭川に行ったコレジャトコフ氏と青森に住んだ旧教徒のベーリコフ家も一緒だったと思われる。が、確証はない。昨年札幌ハリストス正教会に信徒の戸籍簿とも言うべき「メトリカ」が残されていることが報道され、拝見する機会に恵まれた。ヴェーラとアンドレイは日本移住後間もなく病気で亡くなったと聞いていたが、「メトリカ」には確かに1926年、1927年の永眠と記載されていた。この時同時に「札幌里塚霊園」にロシア人の墓碑が残されていることが分かり、訪ねてみた。この霊園は札幌薄野に隣接し古くからあった「豊平墓地」が全面移転されたもので、一角に「ハリストス墓域」があり、そこに1924年から1941年に亡くなったロシア人の墓碑8基が残されていたのである。「函館外人墓地」は有名だが、札幌にもロシア人墓地があることが分かった。そして、ここにヴォルコフさん父娘の墓碑もあった。ガリーナさんにも確かめたが、このグループは当時は札幌に住んでいたことが分かった。
 実はズヴェーレフさんの妻ダーリアは亡くなったヴォルコフさんの未亡人である。ダーリアもペルミ出身で、革命後既にハルビンに逃れていた父親を頼って筆舌に尽くしがたい艱難の末1922年頃ハルビンに到達した。1924年頃ヴォルコフと結婚、翌年にはヴェーラが生まれ、一家は1926年頃ズヴェーレフと共に北海道へ移住した。札幌に落ち着いた後、相次いで娘と夫を亡くし一人残されたダーリアは、その後ズヴェーレフたちと室蘭に移り、二人はやがて結婚する。1929年と推定される。子どもには次々に恵まれ、1930年から1933年まで毎年誕生している。長女タチアーナ、長男ミハイル、次男アレクセイ、次女ガリーナの4人である。1932年末か33年には函館に移住しているので、ガリーナは函館生まれである。その頃父親は「北海道亡命露国人協会」の会長として活躍していたが、生業の洋服の行商は続けていた。母親は「ボルガ」という喫茶店を開き、パンやケーキ類も売っていた。しかし、1934年の「函館大火」により店は焼失、大きな痛手を蒙ったが、何とか立ち直って、松風町に店も再建した。

■ズヴェーレフ家の子供達と教育
 4人の子供たちは4歳または3歳から第二大谷幼稚園に通い、6歳になると皆大森小学校に入学した。また、毎日店の前の歩道で近所の子供達と遊んでいたから、日本語には不自由しなかった。しかし、両親は子供達にロシア人としての教育を受けさせたいと考えて、小学校2年の1学期終了後長女から順番に東京にある寄宿制のプーシキン名称ロシア初等国民学校に入学させた。次女のガリーナが入学したのは1940年9月である。ガリーナはここで、しっかりロシア語の教育を受けたので後々まで役立ったという。この学校は当時4年制だったため、タチアーナとミハイルが卒業して横浜のミッションスクールに編入した1942年9月、下の二人も一緒に転校した。横浜に家を借り、函館から母親が4歳のナージャと3歳のオ-リャ(オリガ)を連れて出てきて、子供達の面倒を見た。しかし、太平洋戦争に突入し、戦況が悪化の一途を辿っていた情勢の中で、1943年1月ズヴェーレフ氏がスパイ容疑で逮捕された。母親はこの知らせを子供達には「パパが入院した」とだけ告げて帰函した。夏になっても父親は釈放されず、状況は改善の兆しさえ見えない。ミッションスクール閉鎖も伝えられたため、両親は上の子4人を当時日本の植民地だった大連のロシア人中学校(ギムナジア)へ転校させることに決定し、1943年12月に出発させた。そして、これがその後14年にわたる家族との別れとなった。その約1月後に父親は獄中で亡くなっている。家族が再会出来たのは、1957年ソ連のロストフ市においてであった。

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ズヴェーレフ一家、店の前で

■ガリーナさんを招いた10周年研究会
 2003年12月、函館日ロ交流史研究会は創立10周年記念シンポジウムの特別ゲストとしてペテルブルグからガリーナ・ズヴェーレヴァ(現在の姓はアセーエヴァ)さんを招待した。この席でガリーナさんは小学校2年まで過ごした函館の思い出を幼稚園・大雨・大火・アイヌの人達・行幸・祝祭日などの項目で詳しく話され、また当時の自分たちの暮らしやお付き合いのあったロシア人のこと、大森小学校の思い出、さらに函館を出て東京と横浜で通った学校と暮らしについても語られた。後半は日本を出てから大連での終戦、ソ連の市民となりウラジオストック、サハリンを経てペテルブルグの姉弟の許へ合流するまでの長い道程についても。この時私達は歴史が個人の人生に刻み込んだ軌跡をたどることができ、歴史を直接的に実感できたのである。
 60年ぶりに故郷函館を訪れたガリーナさんは奇跡のような体験だったと語った。様々な人達との出会い、教会で見せていただいた「メトリカ」、60年を経て初めての父のお墓参り、懐かしい場所の数々、そして父の「事件」の記録文書、これらすべてがガリーナさんにとってもやはり歴史と自分の人生との接点を実感させ、深い満足感を与えたのである。

■キューバから迎えるオリガさん
 ガリーナさんの末の妹オリガ(キューバではスペイン語風にオルガ)さんは1940(昭和15)年函館で生まれた。戦後になっていたがやはり大森小学校に通った。そして、姉たちと同じように3年生の頃横浜のセント・モア女学院へ転校した。しかし、英語で行われる授業についていけないこと、ロシア人であるなどでいじめられ、また東京から通っていたため病気になって函館に帰り、1年ほど休学した。4年から卒業までは大森小で学び、卒業後は遺愛女学校に入った。しかし、1953年夏、一家は東京に移住する。そこで9月からは恵泉女学院に通学した。1957年、ソ連政府の勧めにより、また、何より1943年に別れた兄弟姉妹に合流するためにソ連へ帰国する。14年ぶりに長兄の家でようやく父をのぞく家族全員が再会を果たしたのである。オリガは2年通ってソ連の10年制学校(当時)を卒業、1959年秋レニングラード大学(当時)東洋学部日本史学科に進学した。17年間馴染んだ日本語が専門の勉強に多いに役立った。大学時代に革命の国キューバの留学生イダルベルトと知り合い、彼の社会主義にかける理想と情熱に惹かれて結婚した。1965年に大学を卒業、2年働いて1967年にはキューバへ渡った。今年でキューバでの生活も40年になる。今では歴としたキューバ人というべきだろう。キューバではロシア語の教師をしていたが、ソ連崩壊後は日本語の教師に転向した。
 1994年国立国会図書館に勤めていた高木浩子さんはキューバに出張したが、その時の日本語通訳がオリガさんだった。1ヶ月の滞在で二人は大変親しくなる。当然、オリガさんの数奇な人生の物語についても詳しく聞き、高木さんは大いに感銘を受けた。翌年オリガさんは国際交流基金の日本語教師研修で東京に来た。その時高木さんと以前からオリガさんと親交のあった慶応大学のキューバ研究者工藤多香子さんがオリガさんを函館や恵泉女学院などゆかりの場所に案内した。お二人はますますオリガさんの物語に関心を寄せ、今年11月私費でオリガさんを東京へ招待することに決めた。函館の研究会もこの好機にオリガさんを函館に招くべく計画を進めている。13歳まで函館で暮らしたオリガさんは、函館で一番長く生活した白系ロシア人として1953年頃までの思い出を、ロシア人社会のことを含めて語って下さるだろう。

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1970年前後のズヴェーレフきょうだい 前列右からアレクセイ、タチアナ、イワン(ガリーナの息子)、オリガ
後列右からガリーナ、一人おいてミハイル、ナジェージダ

「会報」No.30 2007.10.1