函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

F.P.ビリチについて

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチの名前は、漁業家デンビーとの関わりの中で、時には「デンビーの子分」として、良く知られているのではないだろうか。しかし、筆者がビリチに関心を持ち始めたのは、ほんの3ヶ月程前のことで、これは、当研究会の今年2月の研究会報告でも取り上げた、1922年秋にオホーツク・カムチャツカ方面から函館や小樽に寄港した、露国艦船の問題と深く結びついている。事件の詳しい経緯は、会報22号あるいは『異郷に生きる II』を参照されたい。
 筆者は、論稿を仕上げた時、当時のオホーツク・カムチャツカ方面の赤軍と白軍との政治的対立や政治情勢の変化について言及できなかったことを、少なからず恥じていた。しかし、関連資料も調査する時間も限定された中では、事件のあらましだけでも明らかにしておくことを当面の課題とせざるを得なかった。
 脱稿直後、当会会員の清水恵さんから、1923年3月1日付『函館毎日新聞』の記事を見せていただいた。そこには、「前カムチャツカ執政官」ビリチが、著者が論文で取り上げた、あの「トムスク」号でペトロパヴロフスクから避難し、しばらく小樽に滞在した後、上海方面に亡命したが、ウラジオストクの赤軍の手で捕らわれ、投獄された後に市外の刑場で銃殺されたことが報じられていた。
 そのような人物が「トムスク」号に乗っていながら、なぜ記事に取り上げられることがなかったのか、強く疑問に感じながらも、これをきっかけに、これまで筆者にはなじみの薄かったビリチという人物について知りたくなり、新聞等で調べてみた。すると、小説にでもなりそうな波乱万丈の人生を歩んだことが明らかになり、彼を中心軸に置いて、19世紀末から20世紀初頭のロシア極東と函館(日本)の歴史的関係を明らかにしてみたいと考えるようになった。
 本稿は中間報告であり、今後の課題も少なくないが、会報に発表することによって、当会会員はもちろん、漁業と関わってこられた函館在住の方々の知るところとなり、本稿の誤りに対する指摘や、新たな情報の提供が生まれるなど、有益な反響を期待するところである。
 なお、漁業家としてのビリチについては、清水恵著「函館におけるロシア人商会の活動―セミョーノフ商会・デンビー商会の場合―」『地域史研究はこだて』21号、今田正美著『日魯漁業株式会社社史』で言及されているため、本稿でも各所で参考にさせていただいた(前者は、以下では引用を(1)で示す)。
 筆者はビリチの生涯を次の6つに大分してみた。1.サハリン流刑以前(1863年~1883年頃)、2.サハリン時代(1884年~1900年頃)、3.函館を拠点に漁業家としての基盤を築いた時代(1901年頃~1903年頃)、4.日露戦争と弘前での捕虜収容所時代(1904年~1905年)、5.カムチャツカの漁場で活躍した時代(1906年頃~1921年頃)、6.プリアムール政府特別全権~カムチャツカへ派遣~ウラジオストクへ引揚~銃殺(1921年10月~1923年2月)。

1.サハリン流刑以前(1863年~1883年頃)
 フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)は、1863年にロシアで生まれた。かつては将校だったが、1884年に軍規違反の罪で3年間サハリン流刑を宣告された(『宣教師ニコライの日記抄訳』、以下、引用は(2)で示す)。
 『日魯漁業株式会社社史』には、「その兄が医者であったため、これを扶けているうち自然医術を身につけ、薬剤の調合なども心得る器用な、利口な人であったが、その薬剤知識が仇となって劇薬の用法で法に触れる間違いを起こし、サガレン下りとな」ったとある。
 出生地を始め、サハリンに流刑される以前のことをビリチは語りたがらなかったのだろうか、その辺の事情を知る人は少なかったようである。

2.サハリン時代(1884年~1900年頃)
 流刑囚時代のビリチについては、樺太の一漁夫の投稿による新聞記事に詳しい(『東奥日報』明治38年8月23日および25日)。これは、同時代人が語る資料として貴重であるが、反面、当人は、ビリチ、デンビーは、「種々奸計を廻らし地方官吏に利を喰はして、己に許可になった漁場を威嚇的に横領した」他、ビリチは「君主然としてその漁場に居る漁夫の如きに対して公然殺生与奪の件を振ふて居た」として、ビリチに敵意むき出しにするなど、情報の客観性が問われるところである。
 ともあれ、「樺太の一漁夫」の話をまとめると、ビリチは殺人罪で流刑された囚人で、デンビーが「マウカに越年して辛く漁場を営んで」いた時に、ビリチは「徒刑囚として他の囚人と同じく灰色粗製の囚人衣や臭き羊毛の羊皮衣を身に纏ひ、満州人夫と共にデンビーの漁場で雇われ昆布採集を」行っていた。「デンビーは越年中、退屈の余り」ビリチを「露語の教師として露語を研究した」。それが元で、だんだんデンビーとの縁故ができ、引き立てられるようになった。その後、デンビーが病気に罹ると、コルサコフの病院に入院中、「元看護夫揚り」であるビリチは薬に関する知識を生かし、一生懸命看病に当たった。幸いデンビーは全快し元気になったため、それ以降は一層ビリチを「寵愛」した。
 前掲『日魯漁業株式会社社史』にも、「流刑地のサハリンで医者まがいのことをやっていた」こと、デンビーに医療面で施した恩がデンビーの共同事業者としての関係の基礎を造ることになったことが言及されている。
 時にジョージ・フィリプス・デンビーは40代半ば(1840年生)、ロシア国籍を取り(1894年頃)、漁場経営を有利に進める前のことであった。

3.函館を拠点に漁業家としての基盤を築いた時代(1901年頃~1903年頃)
 前掲「函館におけるロシア人商会の活動」によると、1900年初めには、セミョーノフ商会の資金で漁場経営をしていたロシア人が何人かおり、彼らの素性はビリチ同様、もと流刑囚農民が多かったようである。中でもビリチは、セミョーノフ商会経営及び同商会の融資漁場の3分の1近くを所有し、金持ちの漁業家として地位を築いていった。
 1903年9月7日、当時東京を拠点に宣教活動を行っていたニコライの下を訪れている。ニコライに渡されたビリチの名刺には、住所は「サハリン島、ウッスロ」となっていた。ニコライは、「ビリチは金持ちの漁業家である。彼の会社では、日本人向けに肥やしとなる鰊粕を作るために700人以上の日本人と100人以上のロシア人が雇われて働いている」と日記に記している((2)。
 前掲の「樺太の一漁民」は、この頃のビリチについて、「漁が当たりまして、開戦前迄には十二箇所の漁場を得て営業して居りました。段々金も自由も使い、追々頭を擡げると云ふ工合で、函館辺へ参りましても紳士風を吹かせて居りました」と語っている。
 経済的な豊かさを基盤に、紳士然とした立ち居振る舞いで、時のロシア領事の信頼を得るようになっていたのだろうか、ロシア領事館用の土地が必要となった時、ビリチがロシア政府の内命を受けて土地を物色し、代表して契約者となっている。
 これは1901年(明治34)のことで、当時船見町一帯に通称「西出山」と呼ばれたほどの広大な地所を所有していた西出孫左衛門が、五反五畝八分の畑地(1657坪)を9948円60銭で(9947円60銭とも)中瀬捨太郎宛に売り渡した。ここは、旧ロシア領事館が現在建っている場所と同じ船見町125番地の3で、当時の政府は、外国人名義で不動産登記を行うことを禁止していたため、中瀬がその信託的名義人となり、ビリチが地上権を999年にわたり賃貸借するという形が取られた(清水恵、A.トリョフスビャツキ著「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア帝国領事館」『地域史研究はこだて』25号および『北海道新聞』昭和31年12月3日)。また、売渡証書によると、このうち、領事分が1129坪で、ビリチ分が539坪と、ビリチは全体の3分の1強を所有することになった。
 この時代のビリチの生活は、順風満帆のように見えるが、わが子の教育には頭を痛めていたようである。先述の1903年9月7日に書かれたニコライの日記によると、当時ビリチには、長女エミリア12歳、長男セルゲイ9歳、次男パーヴェル8歳の3人の子供がいた。長女は、前年の同時期(1902年9月頃の意)、ビリチの妻が、カトリック系のフランス人学校に入れるために東京に連れて来た。そして、今回はビリチが3人の子供を連れて上京したが、これは、長女エミリア同様、下の2人の子供たちも同じ学校に入れるためであった。
 子供たちをロシアの学校に入れない理由についてビリチは、「残酷な寄宿舎学校の生徒が、息子たちを流刑囚の子供と言っていじめるのではないか、そのため息子たちがつらい思いをするのではないか、と恐れている」ことをニコライに話している。その一方で、「子どもたちにフランス語を身につけたいのだが、こんな年齢ではもう無理だということもよく承知している」とも述べており、その複雑な心境が伺える((2)。
 この時、ビリチが宣教団に100円献金したいと遠慮がちに申し出たこと、また、ビリチの妻もその前年、50円献金したことについても、ニコライは日記に記している。

4.露戦争と弘前での捕虜収容所時代(1904年~1905年)
 日露戦争中、ビリチは義勇兵隊長として参戦した。当時の新聞には、「義勇兵(囚徒)」とあるように(『東奥日報』明治38年7月25日)、ビリチはサハリンの囚人を統率して戦ったものと考えられる。前掲の「樺太の一漁民」は、「公権剥奪されたる免囚が、戦争の賜物で一躍大尉に任ぜられ、厳しく官服を纏ひ元の仲間たる免囚義勇兵を指揮すると云う境遇に上ったのは、本人も定めし満足のことであろう」と、皮肉たっぷりに書いている。
 ビリチ自身の言によると、戦争中は、コルサコフとアレクサンドロフスクの中間におり、その連絡をとる要務にあたっていた。しかし、弘前出身の向井連隊に捕らえられ、1905年8月12日に青森に到着、他の将校等と共に弘前の収容所に送られた(『東奥日報』明治38年8月12日)。
 当時、将校は土手町の天理教教会に、従卒は民家に収容され、その数は大佐を含む将校が15人、従卒は10人に上った(『弘前市史』)。ビリチは将校扱いであったため、天理教教会に収容されたに違いない。
 弘前の人たちは、ロシア人捕虜が、家族や従者を連れてきたことにたいそう驚いたようだが、ビリチの場合も妻を連れ立ってきた。その妻について、前掲の「樺太の一漁民」は、ビリチの妻は、「放火犯で同島へ流刑に処された女の娘」であったこと、弘前時代の話として、ブランデー5瓶を傾け、「酒狂の余り同伴の下女を殴打し警察に厄介になった」ことを伝えている。
 ビリチは、1905年11月30日にもニコライの下を訪れており、ニコライは日記に、「弘前より、捕虜のフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ来訪」と記している。この時ビリチは、戦場における日本人の残虐行為についてニコライに詳しく語っている((2))。なぜニコライにそのような話をし始めたのか、なぜニコライに会いに行ったのかといった疑問が湧くが、残念ながらニコライの日記には記されていない。もしかしたら、フランス人学校に通う子供たちの様子を伺うために上京したのかもしれない。
 弘前のロシア人捕虜収容所は、1905年7月26日に設置され、12月16日に閉鎖された(『弘前市史』)。

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弘前のロシア人捕虜(『青森県史』資料編 近現代2より)

5.ムチャツカの漁場で活躍した時代(1906年頃~1921年頃)
 日露戦争の結果として、サハリン南部は日本領となり、デンビーはサハリンの漁場を失った。しかし、その代償として多額の賠償金を得、それを元手に、カムチャツカに進出し始めた。一方、ビリチも日本政府に補償を求めたが、ロシア政府との契約自体が正式なものではないとして却下された((1))。
 さて、1907年、ロシア政府が自国民の漁業誘導を目的に、ロシア人だけに沿海州沿岸河川内に長期漁業の許可を与えると、ビリチは、カムチャツカ東海岸のストルボーワイ川とネルピーチ湖を落札した。そして、デンビーと資本を同一にし、パートナーとなった((1)。
 この時代の漁業家としての活躍ぶりは、前掲「函館におけるロシア人商会の活動」および『日魯漁業株式会社社史』に詳しいが、筆者が特に注目したのは、後者の、「1914年(大正3)頃のデンビー商会は、ウスカム河川漁区3、海面漁区5を基に、缶詰工場2、冷蔵庫、孵化場を経営し、デンビーとビリチの住宅をはじめ、北欧人幹部職員の住宅、事務所、労務者のアパートなど、防寒住宅が軒を並らべ、病院も病室や医療設備を整えたので、カムチャツカ随一のものとなり、部内の傷病者診療手当てはもとより、遠い奥地から現地人が、夏は舟で冬は犬橇りで診療を乞いに」来たという指摘である。
 おそらくビリチは、カムチャツカの地理や現地事情に詳しく、かつ、現地の少数民族の間でも広く知られる人物であったに違いない。

6.リアムール政府特別全権~カムチャツカへ派遣~ウラジオストクへ引揚~銃殺(1921年10月~1923年2月)
 さて、1921年5月、ウラジオストクでは、資本家のメルクーロフを首班とする白衛派政権が樹立された。そして同年10月末、メルクーロフ政府の命を受けたビリチは、オホーツク・カムチャツカ地方のプリアムール政府特別全権として、200名のコサック兵を率いて、艦船「キシニョフ」号でウラジオストクからカムチャツカに向かった。
 真偽のほどは定かでないが、大正12年3月1日付『北海タイムス』は、ビリチがカムチャツカに向かったのは、艶麗で虚栄心が高い妻が、一生の願いとして女王になりたいという「御伽噺にあり相な希望」を言い出したためだと報じている。さらに同記事には、ちょうどその頃は、「ロシア各地に於ける赤白の闘争激しく、ビリチにして見れば、自分が王となり、美しい妻を女王となすべき絶好の機会に思われた」ため、妻から託された5万円で「ボロ軍艦2隻」を購入し、「白軍兵の野心家」達を乗り込ませ、自分は「総司令官」としてカムチャツカの首都ペトロパヴロフスクに向かったと伝えている。
 時に、ビリチ58歳であった。同記事によれば、ビリチの妻は「農夫の娘とか漁夫の娘とか噂されていた」ということだが、筆者には、これが長年連れ添った妻と同一人物とはどうも思われない。
 いずれにせよ、カムチャツカ制覇の野望やデンビーと共に開拓したカムチャツカの漁場を赤軍の手に渡すことはあってはならないという思いから、地の利があるカムチャツカに乗り込んだのではないかと筆者は考える。
 先の『北海タイムス』の記事は、ビリチの最後について、「トムスク」号でペトロパヴロフスクを逃れ、ウラジオストクへ赴いたが、時既に遅く、身の置き処がないビリチは、暫しウラジオストクに潜伏していた。しかし、赤軍の手に発見され、2月8日に銃殺されたと報じている。さらに、2月8日にビリチがウラジオストクで銃殺されたことは、カムチャツカの漁場経営を専門的に行っていた函館の大北漁業に入電があったこと、彼の妻のその後については判明していないことにも触れている。
 このように、ビリチの最後については釈然としない部分もあるが、いずれにせよ、この当時のウラジオストク、そしてオホーツク・カムチャツカ方面の政治情勢を明らかにすることが先決であろう。

終わりに
 ビリチの数奇な運命の糸を手繰っていく作業は、大変魅力的であるが、ビリチ自身はなんとも人間的魅力に乏しい。しかし、筆者がこれほど強い関心を抱いた来日ロシア人はこれまでにいなかった。
 最後にお願いとして、ビリチについては、その顔すら明らかでないため、資料・情報等お持ちの方はご教示いただきたい。

「会報」No.23 2003.7.1 研究ノート