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リュシコフ大将亡命事件

2012年4月22日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキ

 第二次世界大戦直前、ソ連と日本の間に起こった多数の出来事の中で、満州国経由で日本に亡命したリュシコフ大将の事件(1938年)は特別な地位を占めると言えるであろう。ソ連内務人民委員部G.P.U.極東長官であったリュシコフ大将が日本に保護を要請したことや、リュシコフが語ったソ連国内の状況について、日本のマスコミは大々的に伝えていたが、ソ連国内ではこの事件について最近まで一切知らされていなかった。
 スターリンが1930年代に引き起こしたテロルは、ソビエト・エリートの代表者が西側に逃亡したり、出張中帰国せずに西側に残ってしまった主な原因である。「リュシコフ事件」もこのコンテキストの中で見直すべきものだと思う。一連の逃亡事件の中で、逃亡先を日本に選んだのは、この事件だけである。
 リュシコフの証言や手記によると、逃亡先は地理的条件から選ばれたのであった。彼はソ連国内の事情や赤軍幹部、政治的指導部、一般市民を犠牲にする粛正について、貴重な証言をした。越境逃亡の動機について、彼は第一に、粛正の波から自分の身を守りたいこと、第二に、ソビエトやほかの人民を犠牲にしたスターリンの独裁と戦うためであるとした。
 ここで指摘しなければならないのは、リュシコフはソ連の弾圧機関(内務人民委員部G.P.U.)において重要な地位(極東地域では最高責任者)を占め、1937年の後半から1938年の前半の極東地域での大量テロルの責任者の一人であったことである。そしてこの男の手に、ソ連極東政策のすべての鍵が握られていた。リュシコフの手記や証言は1938年8月号の「外事月報」に載っているが、これが一部か、全部かははっきり分からない。
 しかし、これだけでも、リュシコフが、ソ連情報機関の日本や周辺諸国における活動の原則、やり方について詳しく語ったことが明らかになった(具体的な名前などについて触れてはいなかったが)。
 興味深いことに、リュシコフは極東地域におけるソ連指導部の軍備についてを証言している。ソ連と国境を接する満州国での関東軍の軍備について、ソ連(ロシア)のマスコミや著作物によって、多くが語られてきた。最近までソ連は日本の侵略に対し、適当な措置を取ろうとしている被害者として描かれていた(ハサン湖、ノモンハン事件)のも現実である。
 おもしろい逆説だが今、ロシアのマスコミ関係者、学界の一部もスターリンのソ連は1930年代に隣国(フィンランド、バルト三国、ポーランド、ルーマニア)に対して侵略者であったと認めているが、極東においてはスターリンの外交は正しかった(北方領土を含めて)と強調している。
 リュシコフが手記で指摘したように、スターリンの冒険的な政策は、ソ日関係に直接的な影響を与えて、最終的な目標として、当時日本の侵略の対象となった弱体化しつつある中国を自分の影響下に置くことにあった。公開裁判でしきりにドイツのファシズムや日本の帝国主義にふれたのは、自己の戦争準備や、ドイツのファシズムや日本の帝国主義のスパイとされた元の同僚たちに対しての弾圧を正当化する目的であった。リュシコフはこのような裁判はスターリンによってでっちあげられた、と世界にアピールした。
 1938年以降のリュシコフの運命は、今のところわかっていない。沿海地方の地域学者Ⅴ.K.ドンスコイが指摘したように(『ロシアと太平洋地域』、1996、1号)、1945年8月に日本軍司令部の命令に従って暗殺されたのかもしれない。リュシコフはソ連から逃亡したのではなく、特別の任務をもって派遣されたという意見もあるという。日本の指導部はリュシコフの証言をどのように受け止めたのか、それは対ソ連政策にどのような影響を与えたのか、という問題もこれから詳しく検討する必要がある。
 いずれにしろ、リュシコフの日本滞在関係資料の探究が必要である。ノモンハン事件や第二次世界大戦直前のソ日関係の中でまだ不明な部分が明らかになるかも知れない。

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「会報」No.3 1997.5.6