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ニコライが来日の時に便乗した軍艦の名前は?

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 写真史研究家である桑嶋洋一会員の調査にかける熱意はたいへんなものである。いつも「これはどうしてなの、あれはおかしいね」と難題を持ち込まれるが、まともに答えられたためしがない。
 「領事館付司祭ニコライが函館に来るとき、アムール号に乗ってきたというけど本当なの。この船が函館に入った記録はないんだよね」というのもその一つである。
 そもそもアムール号乗船の根拠は明治44年7月6日付け「函館日日新聞」の記事によるものと思われる。記者がニコライ本人の話を掲載したというから信憑性は高い。ただし、記者の聞き違いや、およそ50年前のことを語るニコライの勘違いということだって、ないとは言えない。まず新聞を読んでみる。
 1861年4月にロシアの軍艦アムール号がニコラエフスクに回航してきたので、領事館付司祭名義の自分は直ちにこれに便乗したと確かに書いてある。
 だが、そのまま読んでいくとおもしろいことが書いてある。ニコラエフスクから黒竜江の出口に向かって航行し河口部に至ると、狭い海峡の向こうに、サハリン島のデカストリというところがあるが、この付近で一隻の日本船が座礁していたという。それでニコライの乗船するアムール号はこの船を救助したというのである。
 ニコライがいうには、この船の船長は通訳として函館のロシア領事が派遣してくれた「露国少年」を連れてお礼に来たが、それが初めて見る日本人だったという。また船は函館から貿易に来たもので、船に乗っていた医者とはその後函館でも親しく交際したとも語っている。
 まさに天の助け。これは箱館奉行が計画した「黒竜江出貿易」のことを指していることは間違いない。この「黒竜江出貿易」とは、箱館奉行配下の諸術調所教授武田斐三郎(五稜郭の設計者)を船長にして、貿易のためにニコラエフスクに船を出したという出来事である。船は函館で造られた西洋型船「亀田丸」で、函館港を出発したのは文久元年(1861)4月28日のことであった。この時の日本側資料を見れば、座礁した「亀田丸」を助けてくれたロシア船のことが出てくるに違いない。
 この件に関する主な資料としては、「黒竜江誌」(幕府への報告書)と「黒竜江記事」(武田氏蔵書)があるが、『武田斐三郎伝』の著者白山友正氏によれば、どちらも武田の筆になるものと推測されている。白山氏は両資料を用いてこの出貿易についてもふれているが、それによれば船長武田のほかに総指揮の箱館奉行支配調役水野正太夫を始め数人の役人が乗っていた。またそこには医師として深瀬洋春の名前があった。彼は御雇医師でロシア領事館付きの医師アルブレヒトから西洋医学を学んでいた人である。ニコライとはロシア語で挨拶ぐらいはしたのかも知れない。領事がよこしたという通訳は露人一名とあるだけで、残念ながら氏名は不詳である。
 さて肝心の救助船である。これは直接「黒竜江記事」を引用しよう。この海域は暗礁が多くあちこちで各国の船が座礁したらしいが、武田はロシア軍艦の船長にもらった1857年版の海図によって航海していたという。ところが「...又膠□ノ害ヲ蒙ル実ニ五月六日午後三時ナリ此時潮渇ス算計スルニ子後二時四十五分ノ満潮ヲ得ヘシ...(略)...港長速ニ来テ留泊諸船ヲ指揮シテ斡旋ス夜半後四時船浮フ乃チ火船「アメリカ」号ノ導ク所ト為テ港ニ入ル」。
 救助してくれた船の名前は「アムール号」ではなくて「アメリカ号」だったのである。軍艦「アメリカ号」が函館港に入港したのは、文久元年6月7日と記録がある(文久元酉年七月ヨリ十二月マテ「応接書上留」市立函館図書館蔵)。これは西暦にすると1861年7月14日、露暦にすると1861年7月2日となる。ニコライの到着日7月2日には確証がある。桑嶋氏がモスクワの外交史料館からその証拠を入手されている(『地域史研究はこだて』18号の同氏の論考を参照されたい)。
 以上から、ニコライが函館に着いたのはロシア軍艦「アメリカ号」に便乗してのことだったとしたいが、いかがであろうか。

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亀田丸と同型の「箱館丸」の図

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ロシア軍艦「アメリカ号」(原暉之『ウラジオストク物語』より)

「会報」No.16 2001.1.20