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サハリン島の漁業をめぐるロシア政府(プリアムール総督府)の対応

2012年4月24日 Posted in 会報

神長英輔

1.報告の目的と方法
 私は目下、「北洋漁業」の起源を解明する作業をすすめている。今回の報告は「露領漁業」の初期、19世紀末から20世紀初頭を対象としている。この報告は、この時期におこったさまざまな変化のうち、プリアムール総督府による一連の規制策の動向を日本からの出漁規模の拡大という事態と関連づけて理解する試みである。
 具体的な論点は二つある。まず、ひとつめは政策担当者が状況の急激な変化にどう対応したか、という点、もうひとつは政策の地域差である。ここではこれらの点を中心に総督府の漁業規制の論理を読み解く。

2.1880年代後半から1890年代前半までの漁業政策
2.1.1890年前後までの振興策
 この時期の政策担当者はプリアムール総督府管内の漁業を発展途上と見なしていた。具体的には、まず、良質で安価の塩の供給が重要とされた。また、新しい漁場の開拓を促すため、徴税は漁獲物の量を基準に賦課する方法がよいとされた。基本的にはロシア人漁業者を優先する方針が明らかにされたが、その方針は外国人を排除することを意図したものではなかった。

2.2.1890年代前半の振興策
 1890年代前半、事情はやや変化する。この時期、ニコラエフスクを中心地とするアムール川下流域には日本人の漁業者が現れて、操業や買漁などをおこなうようになった。また、軍務知事の正式な許可のもとで沿海州の各地で日本人の漁業が始まったのもこの時期とみられる。
 こうした現状をふまえ、起業したてのロシア人漁業者たちは日本人との競合を意識した主張を展開するようになった。税制面での優遇や、雇用義務や買い上げ義務の廃止がその例である。
 一方で総督府は管内の漁業の総合的な発展を指向していた。総督府は塩の供給の円滑化、漁業移民の誘致、専門家の招請といった政策に加え、外国人(日本人)の誘致による新規漁場の開発の試みなどを政策の柱に据えた。
 また、サハリン島においては、こうした漁業による地域の開発を囚人の民生向上策と絡めて実施しようとした。
 この時期、総督府の政策に外国人、特に日本人漁業者の活動を警戒している様子はあまりなかった。

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サハリン島の日本人漁業者と在コルサコフ領事一家
(樺太定置漁業水産組合編『樺太と漁業』より)

3.1890年代後半から日露戦争直前までの漁業政策
3.1.1890年代後半
 1890年代後半、ロシア極東各地の沿岸をめざす日本人漁業者の数はさらに増えた。1890年頃には日本人漁業者がほとんどいなかったニコラエフスク周辺も、1898年頃の夏季には1000から2000人の漁業者が訪れるようになっていた。
 この時期、総督は各地でロシア人漁業者の起業が相次ぎ、遠隔地への輸出も構想されている現状をふまえ、管内の漁業の将来については楽観的な見方を示した。一方で日本人を中心とする外国人が各地で操業している実態も把握しており、漁区の長期貸与には消極的な姿勢をとった。
 ここには、原則としてロシア人漁業者を優先する、という方向性がすでにみえつつある。その一方で、この時期の総督府の政策には強制的な外国人排除の姿勢がうかがえないし、ロシア人を一律に優遇することにも二の足を踏んでいた様子がある。総督府の態度は、名義貸しを防ぐためにも漁業の発展のためにも、ある程度の競争に耐えうるロシア人漁業者の出現を期待する、というものだった。一方、新規の漁場を開発するために外国人の力を借りるという政策はすでに撤回されていた。総督府の漁業規制策は転機を迎えつつあった。

3.2.政策転換
 1899年からの数年で総督府の漁業政策は大きく転換する。
 日露戦争直前の1903年に刊行されたプリアムール国有財産局の報告書は、管内の漁業振興の基本方針は「国民化」にあるとした。これは、外国人に代えてロシア人漁業者による漁業の発展をめざす政策である。この報告書は、すでにある程度の漁業の発展が達成された以上、外国人漁業者の役割は終わったとも述べた。
 同年に開かれた第四回目の代表者会議の報告書でも当面の漁業政策の課題は「国民化」にあるとされた。日露戦争直前、「国民化」は管内の漁業振興において揺るぎない最優先の課題とされていた。
 1880年代から「国民化」は管内の漁業振興における主要な目的のひとつだった。しかし、1890年代末までは、それが総合的な開発や国庫収入の増大といった目的よりも優先される課題ではなかった。そうした意味では1890年代末に大きな転換があったといえる。
 ただ、この時点で早くも管内一律の「国民化」政策は挫折していた。サハリン島においては日本政府の反発に妥協して、規制策の施行が延期されていたし、監視が行き届かないカムチャッカ半島では密漁が相次いでいた。「国民化」政策は限られた条件の中でしか成立しなかった。各地方においてはそれが自覚されつつあったが、それが具体的な政策に反映されないまま、ロシア極東は日露戦争を迎えることになった。

4.結論
 この時期、一連の規制策によって活動が規制されたにも関わらず、日本からの出漁の規模は拡大を続け、輸入量も増大した。これは一見して逆説的である。
 しかし、以上の内容をふまえれば、この「逆説」は初めから矛盾した論理にみえる。そもそも、日本人漁業者に対する規制策の多くは日本市場への依存度が高い地域で施行が延期されたため、ロシアによる規制が一概に強化されていったとはいえない。また、規制の効果も地域によっては限定的であり、名義借りや密漁が相次いだことはむしろ真の効果だった。実際、アムール川下流での禁漁の後にカムチャッカでの密漁が激増したという。さらに「国民化」を最優先する選択は最初から決まっていたわけではない。上述の通り、日本人漁業者を誘致する試みもあった。
 したがって、ロシア側が一貫して日本人漁業者の排除をめざしてきた、という見解は誤っている。
 これは対立が存在しなかった、ということではない。各地で日本人とロシア人の漁業者の対立は相次いでいたのは事実である。ここで主張したいのは、そうした個別的な事例の積み重ねがそのまま単純に政策に反映されたわけではない、ということである。

「会報」No.24 2003.10.1 2003年度第2回研究会報告要旨(その1)