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函館のロシアホテル

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今回は1860年代初頭から1879年までの約20年にわたって函館に存在した「ロシアホテル」についての報告したい。
 なおこのホテルの名称については、香港のDaily Press社から発行された1870年版の住所氏名録、いわゆる「ディレクトリー」に、「russian hotel」と表示されている。ホテルはもっと前から存在していたが、「ディレクトリー」上ではこの年が初出で、1879年版まで継続して登録されていた。同時代の日本語資料では、今まで見た限りでは商人ピョートルの家とかピョートル屋敷というような表現しかないが、「ディレクトリー」に記載のある「ロシアホテル」としたい。ホテルというと立派なものを想像するが、史料からは食堂兼宿屋ぐらいのものだったと推測される。
 このロシアホテルについては、「函館市史」通説編第2巻(1990年)にも書いたことがある。その時は、断片的な資料しかなく、十分な記述ができなかったが、数年前、ロシアの作家ヴィターリー・グザーノフ氏と左近毅氏が、ホテルの経営者であるピョートル・アレクセーエフについてかなり詳しい経歴を紹介されたので、正直驚いた。お陰でようやくストーリーが見えたというところだ。
 両氏の論考は、グザーノフ氏は『ロシアのサムライ』という本のなかで、「ロシアの仲買い」と題して、1章をさいている。私が読んだのは左近毅氏の翻訳版。また左近氏は『異郷に生きる』の中で「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」と題して、グザーノフ氏の本をさらに肉付けされた形で発表している。
 ただ私にとって残念だったのは、この二つの本には典拠となった資料名が示されてないものがあるため、出典確認が困難な点だ。その意味では、この報告にも課題があるが、ともあれ、本論に入りたい。話は日本の開港当時に遡る。その頃日本に住んでいたロシア人といえば、函館における領事団、すなわち、外務省と海軍省に属する人たち、それに領事館附属教会の修道司祭だったが、このホテル経営者アレクセーエフとその妻及び従業員は、一応は、日本における最初の民間ロシア人であるといえる。一応と断ったのは、その前歴に領事団との関わりがあるからで、まずはグザーノフ・左近両氏の本からアレクセーエフという人物、そして彼が函館にたどりつくまでを紹介したい。
 ピョートル・アレクセーエフは、トゥヴェリ県のイワノフスコエという村で、1832年6月に生まれた。ここは貴族コルニーロフ家の世襲領地で、アレクセーエフの身分は農奴だった。クリミヤ戦争が起きると主人のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・コルニーロフは黒海艦隊所属フリゲート艦の砲兵下士官として出征することになり、アレクセーエフも雑役水夫として同行することになったのだ。彼らはこの戦争で大きな功績をうち立てた。戦後、コルニーロフは海軍中尉となって北ドゥヴィナ川のソロンバラ造船所に派遣され、ここで新造されたクリッパー「ジギット号」に乗り込むことになった。もちろんアレクセーエフも一緒である。
 「ジギット」号は太平洋艦隊に配備され、函館のロシア領事館の庸船として、ロシア暦1858年10月24日に、領事一行を乗せて、初めて函館港に姿をみせた。すなわちアレクセーエフも領事団同様、1858年には函館に来ていたことになる。生年からするとこの時は26歳だった。ちなみに当初ジギット号の艦長はカズナコフという人だったが、1860年の時点ではコルニーロフが艦長になっている。
 もう少し2人の本から引用を続けたい。1861年2月にロシアでは領主農民の解放が実施され、コルニーロフ家の農奴アレクセーエフは、函館でその知らせを受けたと書かれている。しかし、グザーノフ氏は年月をはっきりと記していないので、いつのことだったかはわからない。左近氏は1862年初頭のことと書いている。両氏とも太平洋艦隊が函館に集結した時にその知らせが届き、ポポフ海軍少将とゴシケーヴィチ領事が各軍艦を訪れて乗員に祝意を告げたと記述していて、自由の身となったのは、アレクセーエフだけではなく、それぞれの軍艦には同じ境遇の人たちがいたことがわかる。
 その中で多分アレクセーエフだけが国に帰らず、函館に居留することになった。どういう経緯だったのか、ここからは主に日本にある資料に基づき私の考えを述べたい。
 函館居留の理由は二つあって、一つは函館で結婚相手を見つけたこと、もう一つは函館に商売ができる環境や条件があったことだ。
 まず、妻となった女性について言及したい。彼女の名前はソフィヤ・アブラモヴナというが、この名前は横浜外国人墓地にあるピョートル・アレクセーエフの墓に妻として刻まれている(アレクセーエフについて詳しく言及する前にお墓の話というのも恐縮だが、彼は1872年10月に東京で亡くなった。詳しくはあとで触れたい)。
 そのほか、ソフィヤ・アブラーモヴナに言及している人は、ニコライ神父とニコライ・マトヴェーエフがいる。
 ニコライ神父は1882年2月20日の日記に「ソフィヤ・アブラモヴナが1858年から日本にいて、私はまだ若い頃の彼女に会った」と記している(この日記については最後にもう一度ふれるが、非常に貴重な情報が書かれている)。
 1858年といえばニコライ自身はまだ来日おらず、領事一行が来日した年だ。当時の日本を考えると、常識的に言えばソフィヤ自身が単独で来日したとは考えらない。その年に函館に来たのは領事一行と、軍艦だけのはずで、軍艦には乗っていなかっただろうから、領事とともに来日したとしか考えられない。
 ロシア領事が来た時の箱館奉行の記録、「村垣淡路守公務日記」(『大日本古文書』幕末外国関係文書附録之六)の安政5年10月23日の項に、在留ロシア人というメモ書きがあり、そこに「下女2人」という表現がみえる。私は今のところピョートルの結婚相手は、この下女、すなわち領事のメイドだったのではないかと思っている。
 下女に関しての記録はほとんどないが、青森県の三戸町立郷土資料館に珍しい資料「安政七年庚申歳 魯西亜人通行之節諸取扱手續并見聞之書」がある(詳しくは、清水恵「安政七年のロシア領事奥州街道通行に関する三つの史料」『地域史研究 はこだて』第19号を参照)。1860年、領事一家と医師の妻が江戸に行った帰り、奥州街道を通って函館に帰るときに宿泊した三戸本陣の記録だ。この記録の中に一行に随行していたメイドの姿が描かれている。ソフィヤかどうかはわからないが、当時のメイドの様子が伝わってくる貴重なものだ。絵の脇には「年16、7才位」で「丈5尺位」とあるので、身長およそ150センチとかなり小柄な女性のようだ。
 仮に彼女がソフィヤだとしたら、ピョートルとの年齢差は10才ぐらいだったことになる。

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「安政七年庚申歳 魯西亜人通行之節諸取扱手續并見聞之書」(三戸町立民俗資料館)に描かれた「下女」

 次にこの2人がいつ結婚したのかという点を考えてみたい。当然1858年以降ということになるが、文久四元治元子年「異船諸書付」(東京大学史料編纂所蔵)には、「子年二月」(西暦でいえば1864年3月頃)における居留ロシア人調査という報告(「各国外国人居留人数取調書」)があり、新築島住居...(このあと述べるとおり外国人居留地)商人ペヨトル、すなわちアレクセーエフには妻と子どもが1人いると記録されている。子供がいるぐらいだから、1863年にはあるいはもっと以前に、結婚していたのではないかと考えられる。
 話が横道にそれるが、1864年に子どもが1人というのは、よく考えると驚くべきことで、流れからいえば函館で生まれたと考えるのが自然である。そうすると、これまで初めて日本で生まれたといわれていた、ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフはいったいどうなるのか、と頭をよぎる。マトヴェーエフは准医師の息子として1865年に生まれたと宣教師ニコライの日記にあるが、その前の1864年には同じペトローヴィチあるいはペトローヴナの父称を持つ赤ん坊が存在していたわけで、何となくすっきりしない。そしてこの赤ん坊はニコライが洗礼をさずけたと考えるのが自然だ。しかも、ピョートル・アレクセーエフは、先ほど触れたように1872年に亡くなっていて、幼くして父親が死んだという点でもマトヴェーエフの境遇に似ている。
 話を戻そう。同じ居留ロシア人調査によると、ゴシケーヴィチ一家の家族構成は母と倅、他に女1人となっている。妻がいないが、彼女は亡くなったことがわかっているので、この女はメイドをさすと考えられる。前は2人いたのが1人になっている。もちろん1人は帰国したのかも知れないが、アレクセーエフの妻になったとも考えられ、ソフィヤ、メイド説と矛盾がない。
 参考までに、グザーノフ氏はピョートルの妻をニコラエフスクの十等文官で功労貴族ワシーリー・チェルノーフの娘、ソフィヤ・ワシーリエヴナ・チェルノーヴァで、2人は1867年に結婚したとしている。この記述は日本側の資料に基づきこれまで述べてきたこととは整合性がとれない。左近氏もグザーノフ氏と同じ女性を妻としているが、結婚成立に至る経緯はわからないとしている。今のところこの食い違いを説明できないが、そのような説があるとだけ紹介したい。
 ホテル経営者の素性がわかったところで、次にロシアホテルの開業について触れたい。
 位置は現在のJR函館駅から海岸伝いに西側に進んだところで、当時の居留地、現在の住所は大町11番地で相馬倉庫が建っている。もともとは、江戸時代末期に埋め立てられた土地だった。開港場の函館には、各国の領事や商人がやってきたが、函館山のふもとの狭い地域に発達した街だけに、外国人居留地として専用スペースを確保することは不可能だった。
 そこで箱館奉行はとりあえず、海岸を埋め立てて少しばかりの「居留地」を作ることにして、当時の運上所(税関)の隣りに、およそ2000坪の埋立地を作り、10区画に分割して、各国の商人たちに貸し渡すことにした。この居留地は当時、大町築島あるいは大町築出地と呼ばれていた。
 こうして1861年春には埋立が完了し、当初は第6番に、ロシア領事ゴシケーヴィチ名義の土地が確保された。表口12.5メートル、奥行38.7メートル、面積は約480平方メートル(145坪)。決して大きな敷地ではないが、後日ここにロシアホテルが建てられた。
 「地税請取書」(地崎文書、札幌学院大学蔵)という書類によれば、この土地の地税は、1861年4月から半年分を、ゴシケーヴィチが納めているが、それ以降1864年10月まで3年分の地税を、1865年になってピョートルが納めたとある。すなわちこの敷地は1861年10月以降は、名義上、ゴシケーヴィチからピョートルに変更になっていたことになる。この頃にピョートルが農奴の身分から解放されたのかもしれない。
 ホテルの建設・開業年ははっきりしないが、1864年には間違いなくできていたことがわかる。ソフィヤと一緒に暮らすために家を建てたとすると、早ければ1862年、遅くても63年には、出来ていたと思われる。自宅兼ホテルだから、ホテルといっても空き室を提供する程度だったのかも知れない。

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「居留地」分割図(『函館市史』通説編2、文久元年「大町築出地外国人江貸渡規則書」より作成)

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「函館戦争図」、右は部分拡大図に見るロシアホテル(市立函館博物館蔵)

 なおグザーノフ氏によれば、コルニーロフ艦長は、1863年末にバルチック艦隊への転属となり、函館を去るにあたって、函館に残りたいというアレクセーエフの身元保証のために領事ともども尽力したそうだ。結局函館領事館付きの人間ということで海外長期滞在証なるものを発行してもらったという。またゴシケーヴィチとニコライ神父が彼の庇護者であったとも書いている。
 この頃の様子を示す日本側の史料として、前出の文久四元治元子年「異船諸書付」に「日本人正助差出候別紙書付ニ偽り記し有之候ニ付差出候別紙相添御届申上候書付」という史料があるので、紹介しておきたい。
 内容はアレクセーエフが自分の家兼ホテルで使っていた日本人召使正助の賃金に関わるトラブルを領事に訴えた文書で、もとはロシア語の史料だ。志賀浦太郎が日本語に訳したものが残っているが、アレクセーエフの肩書きが「お台場にまかりありそうろう コルニロフ君江附属人」となっている。私が知る限り、コルニーロフとピョートルの関係を示す唯一の日本側文書だ。また文書の末尾に、アレクセーエフは読み書きができないので、エゴル・イワノフが聞き書きした旨の注意書きがあるのも、非常に興味深い。
 次にアレクセーエフの仕事についてだが、ホテル業に加えてグザーノフ氏や左近氏が「仲買人」と書いているように、「ロシア海軍御用達商人」という側面があったようだ。石炭や食糧品の買い付けに始まり、その他公然とあるいは内密で様々な用事を引き受けていたのでは、と推測される。
 実際、当時このような人が必要とされており、函館で商売人として残る環境や条件があったというのはまさにこの点だ。
 様々な用事の一端を示す一つの書簡が残されているので紹介したい。1865年の「英国官吏来翰録」(北海道立文書館蔵)という簿冊に収録された文書だ。同じ大町居留地に住む欧米人が連名で、イギリス領事宛に「ロシアホテル」の不都合を訴えている文書で、それによると、まず大町居留地規則ではここにホテルや食堂、娯楽施設などを建ててはいけないことになっているのに、それに違反していること、さらにロシア軍艦が入港するとこのホテルはpublic resortとなり、街の遊女が大勢やってきて大変な醜態をさらすので居留地の住人は困惑させられると訴えている。
 それから、1885年にドイツで出版された雑誌"Allgemeine Konservative Monatsschrift fur das christliche Deutschland,1885.5"に、1866年11月に来日して1871年まで滞在していたドイツ人R.ゲルトナーという人の日記(翻訳の概要がA.H.バウマン「R.ゲルトナーの日記」『地域史研究 はこだて』第25号に紹介されている)が掲載されている。彼は函館に滞在し、アレクセーエフと妻のことをこう記している。
 「函館のホテルの主人はアレクセフ・ピンターといて、まさにロシア人そのもので静かで働き者の妻がいる。主人は客と同じくらい大酒を飲んだが、働き者の妻がきちんと家計を切り回していたので、経営はうまくいっていた。ピンターの妻は牛を数頭飼っていて、新鮮な牛乳を1リットルあたり1.5マルクで居留外国人に売っていたし、養豚も行い豚肉を売っていい商売になっていた。」
 わずか数行の文章だが、酒飲みの亭主とよく働く寡黙な妻のイメージが伝わってくる。ソフィヤが牛や豚を飼っていたのは、狭い居留地ではなく別に土地を借りていたことがわかっている。1867年から、現在の海岸町付近に民間同士の契約で土地約3500坪を借りていることから、ここがその牧場だったと思わる(国文学研究資料館史料館蔵「明治7年函館港外国人エ地所相対貸渡書類」)。ちなみに当時このあたりは亀田と呼ばれる地域で、函館ではなかった。この牧場で飼育している家畜以外にも、周辺の日本人から牛などを購入していたこともわかっている。ホテルのレストランや居留外国人に供するほか、多くは軍艦に積み込んだものと思われる。
 1868年4月8日、外国人居留地のデュースの家から火が出て、居留地はほぼ焼けてしまう。ロシアホテルも被害を免れなかったようで、この年の秋にアレクセーエフの家と蔵と厩の建設を巡って日本人と裁判沙汰になっている書類が残されている。また火事のあと、6番に加えて隣接した8番の地所も新たに賃借したことが土地契約関係の書類からわかっている(この契約書原本は、未見だが、北海道大学の北方資料室にあるようだ。[編注―北海道大学図書館北方資料データベースによると「魯西亜商人アレクシスへ地所所持の証書](和文原本・露文原本)(開拓使外国人関係書簡目録)、もしくは「魯西亜商人アレクセイ地所保有証書(仮題)(日本北辺関係旧記目録)カ])。
 火事の後、日本は江戸から明治へと体制が大きく変化し、明治2年函館は、戊辰戦争の最後の戦闘の地となるが、その箱館戦争を描いた絵図の中にロシアホテルらしき建物も描かれているので、紹介したい(下図参照)。ロシアの旗がたっているのでホテルとわかる。さらに山側にもロシアの旗が見える建物があり、正教会の建物も見え、教会の屋根はタマネギ型のクーポルがはっきりと描かれている。
 さて、箱館戦争も終わって暫くした頃、いよいよニコライ神父が東京での宣教活動のため、上京することになるが、アレクセーエフも同行したことが、グザーノフ氏によって明らかにされた。私はこれに関する資料を全く持っていないので、グザーノフ氏から引用した。アレクセーエフは1871年中に函館を離れたと書いている。ニコライ自身が東京に着いたのは、翌年の3月11日なので、先遣隊として早く出ていたものと思われる。
 ニコライは色々な雑事をアレクセーエフに手伝ってもらったと書いているが、駿河台に土地を購入する際にもアレクセーエフが資金的協力をしたようにほのめかしている。函館時代からニコライとアレクセーエフの間には、親しい関係があったようだが、ニコライの生まれたベリョーザ村とアレクセーエフの故郷トゥヴェリは、ロシアの地図でみると、近いところにあり、異国でお互いに親近感のようなものを感じていたのでは、と想像させられる。
 しかしこの年の10月26日に風邪がもとでアレクセーエフは亡くなってしまう。享年40歳。遺体はニコライにより横浜の外国人墓地に埋葬されたという(アレクセーエフの墓碑銘は今ではかなり読みにくくなっている)。
 さて、函館には子供をかかえて突然未亡人になったソフィヤがいた。さすがに働きものだけあって、その後も立派にホテルを切り盛りした様子がうかがえる。居留地も牧場も夫名義の土地証書をソフィヤ名義にし、開拓使宛のアメリカ産の牛を輸入したいと書いた書類も残されている。夫が亡くなったあとも意欲満々といったかんがある。
 ここで従業員についてもふれたい。前掲の「ディレクトリー」にはアシスタントとしてパラウチンという名前が見える。ロシア人と思われるが、どういう人かは不明である。「ディレクトリー」では、1879年版までその名前があり、ピョートル亡き後もずっと働いていたことがわかっている。もしかするとアレクセーエフ同様もと農奴で自由になった軍艦乗員だったのかも知れないし、領事館の下男として働いていた人かも知れない。
 日本人従業員については、下表をみると、コックや牛飼い、馬てい、下男など数名いたことがわかる。マキシモヴィチの植物採集で助手をつとめた須川長之助や、日本人初の正教受洗者の一人川股驚礼の妻の名前もみえる。ホテルの食堂ではロシア料理かどうかわからないが、とにかく洋食が供されたことと思うが、従業員リストからわかるように少なくとも1868年以降日本人コックが3人採用されていた。彼らはそういった料理のレシピを修得しただろうし、ここでパンも焼いてたのでその技術も身につけたものと思われる。函館におけるロシア料理の元祖は、このロシアホテルといってもよいだろう。

ロシアホテル関係日本人スタッフ

1876年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
コック ヒキヤ チュウスケ
41
辰年[1868]11.24 秋田県湊新城町、農民 親分、カワサキチョオジロオ
牛飼い コメヤ ソオキチ
46
丑年[1877]9.15 秋田県船越村、農民 親分、トリガタ キジベイ
馬丁 ミカミ トラキチ
30
戌年[1874]10.16 青森県紙漉村、農民 サイド シンペイ
下男 藤田幸八
18
戌[1874]7.27 函館地蔵町15番地、農民
コック助手 須川長之助
36
明治9年[1876]4.20 岩手県郡山下松本村、農民 親分、クドオ ゲンザイ、恵比須町
1878年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
下男 イガラシ トオゾウ
45
明治5年9月 函館開拓使平民 親分、ナシ
門番 イシダ ニスケ
54
明治5年9月 函館開拓使平民 親分、ナシ
コック オノ タイチ
41
明治4年12月 函館開拓使平民 親分、ナシ
ボーイ クラオカ ウマノスケ
46
明治4年12月 函館開拓使平民 親分、ナシ
洗濯婦 川股篤礼の妻
34
明治11年6月 陸前国水沢県金成村商人 函館平民、沢辺琢磨
1879年か
氏名
年齢
雇用年月日 本籍地・身分 請負人氏名
コック トガシ ヨオスケ
48
明治5年3月 山形県酒田下新町、平民
馬丁 ヨネヤ ソオキチ
49
明治3年3月 秋田県男鹿船越村、平民 函館平民、ムラタ コオキチ
下男 藤田 幸八
21
明治8年6月 函館、開拓使平民 ナシ

「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文85通」より翻訳(函館市中央図書館所蔵)

 ホテル経営以外の記録としては、ソフィヤはアナトーリイ司祭が管理する宣教団の女学校で教えていたいうことが1878年のニコライの報告書にある。この学校では一般科目のほか裁縫や編み物が教えられていたというので、その先生だったのかもしれない。 
 また1874年に函館のロシア語学校の教師サルトフが亡くなった時に、彼女が解剖同意書にサインをしたり、遺品の整理をしたことなどが記録されている。
 その後ホテルは1879年夏に廃業となったようで、明治12(1879)年8月22日の「函館新聞」の広告によれば家具の競売が8月25日におこなわれている。廃業の理由はロシア海軍の基地がニコラエフスクからウラジオストクに移って、函館に軍艦が入らなくなったからだ、と書いているものがある。また函館で成功した東洋堂というパン屋は、外国軍艦への仕込みも一手に引き受けるようになり、ロシア人のパンを駆逐したと言っている。
 1880年にはロシアホテルの土地は函館在留のポーターというイギリス人に正式に譲渡されており、土地契約書からもロシアホテルの文字は消えた。
 なお、明治15(1882)年7月29日の「函館新聞」には、藤田幸八という元従業員が、ホテル廃業から数年後にビリヤード場を開いた広告がある。彼は主がいなくなったホテル内で少しの間パン屋を開いたこともあったが、その後別の場所にパン屋を開き、さらに明治15年にこの広告どおり玉突き、すなわちビリヤード場を営業している。同日の新聞本文に「玉撞き開業」と題して事情を述べた記事があるので、要約すると、「玉突きは以前にピョートルが営業していたことがあったが、その後、しばらく函館にはなかった。ある人がその頃の器械一式を購入してしまい込んでいたが、今度それを柴田幸八に貸し出すことになった。それは彼が玉突きをよく心得ていて洋語(英語なのかロシア語なのか)もできるからだ」というものだ。 
 ほかの従業員も何らかのかたちで、ホテルで身につけた技術や知識を活かした人がいるのではないかと思われるが、今のところ不詳である。
 一方ソフィヤはどうしたのかといえば、前に紹介したニコライの日記に彼女のことが出ている。当会会員の倉田さんに翻訳をしてもらったところ、彼女は東京の公使館にいたらしく、スツルーヴェ公使が1881年にアメリカに転勤となった時に彼女も子守として一緒に日本を去ることになり、ニコライに別れのあいさつに来たことが記され、ニコライが彼女が若かりし頃に会って、白髪となった彼女と別れるという言葉が記されていた。
 気になるのはソフィヤとピョートルの間に生まれた子どもだが、そのことに言及している資料は未見で、ソフィヤと一緒にいたのかどうか消息は不明である。
 話の締めくくりにまた、マトヴェーエフが出てくるのも因縁深いが、彼は1910年にウラジオストクで発行された「極東の星」という雑誌に「日本におけるロシア人召使」という文章を書いている。これは檜山真一氏が見付けられた資料で『地域史研究はこだて』第18号に翻訳が掲載されている。
 マトヴェーエフはソフィアの写真まで手に入れているが、この文章を読み直してみると、彼は何を伝えたくてこのような文章を書いたのかと、改めて感じる。このことについてはまた別な機会に譲るとして、今回はこれで報告を終わりたい。

ロシアホテル小史

年次
出来事
1858 安政5 ロシア領事一行が来函する(下女が2人同行)(『大日本古文書』幕末外国関係文書 付録之六)
ロシア海軍のジギット号が領事館の用船として来函(ヴィターリー・グザーノフ著・左近毅訳『ロシアのサムライ』 2001年、左近毅「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」『異郷に生きる』成文社 2001年 63-75頁)
(コルニーロフとその農奴だった水夫のピョートル・アレクセーエフ乗船)
1861 文久元 この年2月、ロシアで農奴解放(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
1862 文久2 (アレクセーエフ、自由の身となり、退役する)
1863 文久3 この年末、コルニーロフ艦長は太平洋艦隊勤務から、バルチック艦隊勤務となる(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
アレクセーエフは函館に残り、大町居留地でロシアホテル経営及び仲買人となる(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
この頃にソフィア・アブラーモヴナと結婚する(領事館付きの下女か)
1864 元治元 アレクセーエフ夫妻に子供が生まれている(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
1865 慶応元 居留地の外国人から苦情あり(北海道立文書館所蔵「箱館奉行所文書」、「開拓使公文録」各種)
「ロシアホテルに遊女たちがきて、ロシア士官たちと大騒ぎ」
1867 慶応3 アレクセーエフ、海岸町に3450坪の土地を借用する(国文学研究資料館史料館「明治7年函館港外国人エ地所相対貸渡書類」)
牛を飼い市内の外国人に牛乳を宅配、豚も飼って豚肉販売(「ゲルトナーの日記」(Allgemeine Konservative Monatsschrift fur das christliche Deutschland))
1868 明治元 居留地デュースの家から出火、居留地はほとんど類焼(『杉浦梅潭日記』)
居留地のアレクセーエフ邸宅建設で、日本人大工とトラブル(地崎文書「明治二年検印録」)
1872 明治5 アレクセーエフ、ニコライ司祭の東京進出に同行する(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
約8か月後、アレクセーエフ、東京で没する(お墓は横浜外人墓地)(前掲『ロシアのサムライ』、前掲「存在の証明―ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの場合―」)
夫の没後も妻ソフィアが日本人スタッフを雇いホテル経営を続ける(函館市中央図書館所蔵「露西亜人より開拓使及県令に宛てた手紙の原文八五通」)
1874 明治7 ソフィア、ホテル経営のかたわら正教女学校で教える(中村健之介『明治の日本ハリストス正教会』)
函館ロシア語学校の教師サルトフ死去につき、ソフィア、遺品の引き取りをするなど後始末(函館市中央図書館所蔵「御雇魯学校教師サルトフ変死一件書類」)
1879 明治12 ホテルを廃業し、家具が競売になる(明治12年8月22日「函館新聞」)
ソフィアは横浜の公使館へ(公使ストルーヴェの子守か)(中村健之介ほか編『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学出版会 2000年)
1881 明治14 ストルーヴェの転勤にともない、ソフィアも日本を去る(アメリカへ)(前掲『宣教師ニコライの日記抄』)
?
ソフィア、ロシアのどこかの養老院で亡くなる(檜山真一「日本におけるロシア人召使』『地域史研究はこだて』18)

*この報告は、故清水恵さんが2003年6月に第42回来日ロシア人研究会で報告されたもので、当日の配付資料をもとに、奥野が出典など一部補記しました。

「会報」No.28 2006.5.1