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初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館

2016年3月 7日 Posted in 会報
倉田有佳
はじめに

 函館は、「日本で最初のロシア領事館開設の地」、「日本ハリストス正教会発祥の地」である。函館の西部地区には、ハリストス正教会、旧ロシア領事館、ロシア人墓地といったロシアとの長きにわたる交流の歴史を現在に伝える施設・場所が残っている。
 それだけでなく、ロシア交流発祥の地という名誉が現在にしっかりと受け継がれていることは、2000年と2012年にロシア正教会総主教聖下が、ロシア(ウラジオストク)から函館に政府専用機で直接到着したことや、領事館開設150周年を迎えた2008年にロシアのラヴロフ外相が函館を訪問したことからも明らかである。
 「ロシアゆかりの地・函館」とロシアの交流の始まりは、1793年のロシアの最初の遣日使節アダム・ラクスマンの来航に遡ることができる。その後も、ゴロヴニン、プチャーチンと、日露交渉史に名を残す有名なロシア人が函館に来航した。しかし、いずれの場合も、当初から函館に目的があり、函館を目指してやって来たわけではなかった。函館港がロシア極東に地理的に近く、しかも天然の良港に恵まれていたため、ロシアとの接点を生み、結果として交流が生まれたのであった
 こうした偶発的で一度限りの交流(「交流の黎明期」)が「実質的な交流」へと転換する契機となったのが、1858年のロシア領事館開設だった。その初代駐日領事がゴシケーヴィチだった。

1 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの時代(1858年-1865年)

■ロシア領事館、函館に開設

 1855年に日露和親条約が下田(静岡県)で締結され、下田か函館のいずれかに領事館を設置することとなり、函館が選ばれた。函館に開設されたロシア領事館は、明治維新後首都となった東京にロシア公使館が開設(1872年)されるまでの間、日本で唯一のロシアの外交窓口だった。
 この時代、ロシアが「函館」に着目した理由はいくつか考えられる。
 まず、当時のロシアの極東政策として、ニコラエフスクが極東の拠点だった。沿海州から遠くない距離にある不凍港函館は、ロシア艦隊にとってニコライエフスク-ウラジオストク、ポシエト、オリガなどの南部諸港間の海上交通を営むうえで、休養・載炭・食糧調達・越冬に不可欠な寄港地とみなされていた。
 次に、当時、日露間には未解決の問題としてサハリン問題があった。
 さらに、サハリンのドゥーエで産出された石炭の貯蔵倉庫を函館に置き外国に売る、といった経済的な視点からも函館は重視された。
 1858(安政5)年11月5日、軍艦ジキット号でゴシケーヴィチ領事は函館に入港した。この時、函館の役人は、ゴシケーヴィチを「見たことのある人だ」と気付いた。後述のとおり、顔を覚えていてくれていた日本人の役人がいたことは、ゴシケーヴィチにとって幸先の良いスタートだった。

■「北の地の文明開化」に寄与したロシア領事館員たち

 領事一行は、領事家族、書記官、医師夫妻、海軍士官、司祭、下男4人、下女2人の計15名で構成されていた。これらの領事館の団員は、各自がそれぞれ日本(函館)での任務を帯びてやって来た。
 海軍士官は、ゴシケーヴィチ領事のもとで領事館を設計し、気象観測を始めた。医師は、ロシア病院でロシア人のみならず日本人の患者も無料で治療した。日本人の医師では治療が難しく、ロシア人医師が得意としたのは、梅毒治療だった。また、領事館の館員から、写真術、西洋医学、造船技術など日本人が欲する西洋の先進的な技術が日本人に伝授された。この時期のロシア領事館は、「北の地の文明開化」の推進に寄与する存在でもあったのである。
 領事館付きの教会関係者は、キリスト教解禁前のこの時代、ロシア語の普及に努めた。読経者のイワン・マホフは、子供向けのロシア語教本『ろしやのいろは』(函館市指定文化財)を完成させ、文久元年の正月(1861年)、将軍献上用、箱館奉行用、そして函館、江戸、京都、長崎の子供たち用として各100部ずつ箱館奉行に贈呈した。この頃には、領事館構内の小家屋の半分をロシア語学校に充て、箱館奉行所の役人の子弟にロシア語を教授したという記録がある。しかし、ロシア人による本格的なロシア語教育は、司祭ニコライの函館着任後(1861年)に始まった。
 ゴシケーヴィチは、着任して最初に迎えたクリスマス(1859年初め)に箱館奉行所の役人とその子供たちを招待し、ロシアの文化を紹介しながら地元の役人と親しくなるよう努めた。
 これらはいずれも本省からの訓令に従ったものであり、ゴシケーヴィチ個人の功績とは言えないかもしれない。とは言え、できる限り訓令に忠実に、そして早急に訓令を実現するためにゴシケーヴィチが惜しまぬ努力を尽くした結果であり、領事館員と衝突しながらも実現させたトップとしての力量であり、さらには、地元の日本人の役人との交渉力の高さと粘り強さに裏打ちされるものであったことを忘れてはならないだろう。
 このことは、帰国後、ゴルチャコフ外相が、「箱館にロシア領事館が開設されてから今日までの8年間(正しくは7年間だが)、領事館と日本政府、現地住民との関係は最も満足すべき状況にあった。領事館、現地当局と中央政府との間で、再三行われた交渉では、双方は常に満足した...」と、ゴシケーヴィチの日本滞在中の活動を高く評価していることからも明らかである。

2 初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチ再考

 初代駐日領事ゴシケーヴィチを理解する上で、来函以前のゴシケーヴィチの経歴は重要な鍵となっている。そこで、以下では、領事となるまでの経歴を振り返りながら、函館でのゴシケーヴィチ領事の言動と照らし合わせてみたい。

■ベラルーシ人の司祭の息子(1814年-1851年)

 ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチは、1814年3月16日、ロシア帝国ミンスク県レチツァ郡ストレリチェヴォ村(現ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区)で、同村ミハイル教会の司祭だった父アントーニ・イワノヴィチと母グリケリヤ・ヤコヴレヴナの間に生まれた。生誕地は、現在のウクライナのキエフに近い、ベラルーシ共和国の南東に位置している。
 ミハイル教会付属の学校で初等教育を終えた後、ミンスク神学校で学び、1835年に「優等」で卒業した。成績優秀のため特待生としてサンクトペテルブルクの神学アカデミー(大学相当)に進み、卒業後は1839年から約10年間、ロシア正教の第12次北京宣教団の一員として中国に滞在した。北京滞在中、ゴシケーヴィチは、墨や化粧(紅)の製造方法、養蚕業、そろばん(数の数え方)について中国語文献を基に論文をまとめ、『在北京ロシア正教団論集』に発表した。これらの功績は高く評価され、「聖スタニスラフ勲章」を受章した。
 領事になってからのゴシケーヴィチの次のような言動は、司祭の家に生まれ、ペテルブルクの神学大学を終えたことと深く関係しているものと考えられる。
 まず、ゴシケーヴィチは、ロシア領事館付属聖堂だった函館正教会の「復活聖堂」の命名者だった。
 次に、1861年に2代目の函館のロシア領事館司祭として着任したニコライのような志高い人物を日本に呼び寄せるきっかけをつくったのは、実はゴシケーヴィチの熱い思いにあった。
   さらに、ゴシケーヴィチは帰国後、ロシアから函館の教会にイコン(ロシア正教の聖像)を送っている。
 このように、ゴシケーヴィチは、初期の日本のハリストス正教会の発展を側面から支えた人物でもあった。

■遣日使節団全権代表プチャーチンの中国語通訳(1852年-1857年)

 中国から帰国後、1855年の日露和親条約交渉のロシア側全権代表プチャーチンの中国語通訳兼秘書として遣日使節に同行した。ちなみにゴシケーヴィチは、13カ国語もの言語を話せたと言われるほど語学に堪能だったが、幕末開港期の日本(長崎)での交渉で必須とされたオランダ語は解さなかったようである。
 さて、この日本への使節団の中で、文民はゴシケーヴィチと『オブローモフ』の著者として有名な文筆家ゴンチャロフの2名だけだった。1852年にクロンシュタット港を「パルラーダ号」は出航し、アフリカ南端、東南アジア経由で長崎に到着した。この間の様子をゴンチャロフは『日本渡航記』に詳しく記している。
 その『日本渡航記』の中で、ゴンチャロフは、長崎での第1回目の会談後の日本側全権代表の印象を次のように記している。「筒井(政憲)が聡明さと善良さを兼ね備え抜群の魅力を放っていた。川路(聖謨)が理知的であるとともに勇敢さを感じさせる風貌が好ましかった。」、「川路が巧妙な論法でたびたびロシア側を論ぱくし、知性の高さを示し、尊敬に値する人物であった。」、と称えた。他方で、「奉行の大沢はハンサムだが、ロシア使節への反感を有し、その他の面々は「見たくもないほど」だったと酷評している。尊敬に値する幕府高官を身近に知ると同時に、幕府高官のマイナス面の両面を見たと言えようか。
 長崎以外にも、一行は函館(上陸し、8日間滞在)、下田、戸田(へだ)にも上陸・滞在した。ゴシケーヴィチは、函館領事となる前に、函館に来航していたのだ。その経緯は、以下のとおりである。
 クリミア戦争勃発(1853年10月)の報を聞き、英仏艦隊を避けて、「パルラーダ号」は一旦長崎を退去し、ニコラエフスクで越冬した。日米修好条約が調印されたことを知ったプチャーチンは、翌年春、日本側との交渉を大坂で再開させることを望み、その意向を箱館奉行から幕府に通告してもらうために、当時既に開港が決まっていた函館に向かった。1854年8月30日、函館港に「パルラーダ号」が入港した。
 ところが、箱館奉行から幕府に連絡が届く前に、「ディアナ号」が大阪湾に現れたため、大騒ぎとなった。天皇がいる京都から近い大坂での交渉は、日本側によって拒否され、既に開港されていた下田で交渉が行われることになった。
 この下田での談判中、安政の大地震が発生し、続く大津波により、「ディアナ号」は壊滅的な打撃を受けた。しかも、駿河湾で曳航中、船は沈んでしまった。戸田(へだ)で日露が協力し、新艦「戸田(へだ)号」を建造した。 「ディアナ号」沈没という不幸は、半年以上日本に滞在する機会をゴシケーヴィチたちに与えた。そして戸田では、ゴシケーヴィチと日本を結ぶことになる重要な人物、元掛川藩士の橘耕斎との出会いがあった。橘耕斎は日本語を教えただけでなく、日本に関する書籍や地図を入手したいというゴシケーヴィチの要望をかなえたと考えられている。これは鎖国当時の日本では禁止されていた行為だった。一説によると、これが原因で橘耕斎は追われる身となり、ゴシケーヴィチが日本から傭船「グレタ号」で帰国する際、ゴシケーヴィチの手引きでロシアに密出国した。
 ところが、クリミア戦争中のこと。一行(橘耕斎も含む。約280名)は、オホーツク沖で英国軍艦に捕獲されてしまった。しかし、約9カ月間の捕虜生活をゴシケーヴィチは無為には過ごさなかった。同じく捕虜となった橘耕斎の協力(口頭による説明と解釈)を得て和露辞典の編さんに取り組んだのだ。これは、最初の本格的な和露辞典『和魯通言比考』として、帰国後(1857年)サンクトペテルブルクで刊行され、この功績が高く評価され、ゴシケーヴィチは初代駐日領事に抜擢されたのであった。
 さて、初代駐日ロシア領事となったゴシケーヴィチだが、当時の外交文書からは、毅然とした態度で幕府役人に主張すべきところは断固主張し、意見の食い違いから交渉が決裂することはあっても、粘り強く交渉し続けたことがわかる。
 ゴシケーヴィチは、当時の在函館英米領事にありがちだった、高慢な態度で日本人に無礼を働くといったことはなかった。 こうした違いが生まれたのは、ゴシケーヴィチが長期に亘る中国滞在経験で「東洋」を理解した上で日本という国に接したこと、しかも中国語や日本語の知識を持ち合わせていたからではないだろうか。加えて、日本(長崎と下田)で全権代表のプチャーチン提督とともに幕府の全権代表との会談に臨んだ経験等が、良きにつけ悪しきにつけ日本の役人の対処法や巧みな交渉術を身に付けさせたと考えられる。
 日本滞在中、ゴシケーヴィチはプチャーチンから学ぶことは少なくなかっただろうが、初代駐日領事となってからも、プチャーチンはゴシケーヴィチに自身の経験に基づく対日戦略を書簡で伝えるなど、プチャーチンから影響(指南)を受けていたことがわかる。

■函館の領事たち

 クリミア戦争直後のロシアとイギリスは、東アジア(極東)進出を巡って敵対関係にあった。だが、江戸から遠く離れた函館では、英国領事とロシア領事が連携して函館奉行(地元の役人)に要求を突き付ける、あるいはゴシケーヴィチが仲裁役として頼りにされる場面もあり、必ずしも対立関係にあったわけではなかったようである。
 当時ロシアでは、クリミア戦争の敗戦で自国の後進性を強く認識し、そこから脱するために様々な改革(1861年の農奴解放はその一つ)が試みられていた。クリミア戦争の敗北後、アジアに進出先を方向転換するものの、既に英米から出遅れてしまったロシアは、英米仏に対抗する場を日本(函館)に見出した。船が函館の港に入るとすぐ目に飛び込んでくる高台に他国を威圧するほど立派な領事館を建設し、日本人医師には治療が難しかった梅毒をロシア人医師が治療するなど、函館でロシアの存在感を高め、ロシアの影響力を他の欧米諸国に見せつけようとしたことなどは、その表れと言えよう。

■海軍との因縁

 文民領事のゴシケーヴィチが函館で衝突することが多かった相手は、外国領事ではなく、自国の海軍関係者だった。そもそも海軍との「因縁」は、初代駐日領事を巡る人事に始まっていた。海軍は軍人を日本に送り込みたいと考えていたが、1857年にサンクトペテルブルクで発行された『和魯通言比考』の著者ゴシケーヴィチに白羽の矢が立った。
 領事となった後も、領事団の海軍士官N.ナジーモフと衝突することがたびたびあった。伊藤一哉氏は自著『ロシア人の見た幕末日本』の中で、書記オヴァンデール、ナジーモフ海軍士官アルブレヒト医師の3人は、ゴシケーヴィチから睨まれ帰国させられた被害者と捉えている。
 酒に酔ったロシア人の海軍関係者と日本人との喧嘩は珍しくなかった。そのような場合、ゴシケーヴィチは自国民の言い分だけに耳を傾け、無条件で擁護することはなく、冷静に対処している。これを恥と感じることすらあった。
 そしてゴシケーヴィチが函館での約7年間の在任期間中、日露間の最大の衝突事件とも言えるのが、対馬に居座った「ポサドニック号事件」(1861年3月~9月)である。解決には、イギリスの影響力もあったとされるが、ゴシケーヴィチが函館の役人との間で穏便に事を進め、「ポサドニック号」が占拠していた対馬から退去させる役割を果たしたと、ゴシケーヴィチの外交官としての手腕を評価する見方もある。
 日頃からゴシケーヴィチは海軍関係者の素行不良に不満を募らせていたところに今回の事件が起こった。「力」で訴える海軍の強引なやり方は、学者肌で日本の役人との間で信頼頼関係を構築しつつあったゴシケーヴィチにとっては、とうてい受け入れ難かったことであろう。

3 蝦夷地・函館の特異性

 ゴシケーヴィチ時代の幕末開港期の日本は、攘夷運動が激しく、ロシア人からも犠牲者が出た。ムラヴィヨフが江戸に滞在中の1859年、横浜でモフェット少尉ら海軍士官ら3名が日本人によって殺傷されるという事件である。この時、ゴシケーヴィチ領事は通訳を務めた。
 しかし、ゴルチャコフ外相が、「函館港は、他の日本諸港のヨーロッパ人居留地での生活を特徴づけている恐るべき悪行が一つも起こっていない唯一の港であると指摘すれば十分だろう...函館港以外のすべての港では日本の大勢の警護隊を伴わなくてはヨーロッパ人はほとんど外出できないのに、函館では彼らは市外のかなり遠方にまで安心して旅行できるということも知られている。」、と指摘しているように、蝦夷地函館の事情は、日本の他地域とは異なっていたことがわかる。
 当時の事情とは異なるが、現在の函館も、国家レベルでの交流とも、また他の地方都市とも異なる歴史を歩んできた誇るべき歴史を誇りに思い、日ロ交流、函館とロシアの交流の礎を築いたゴシケーヴィチの生誕200年という記念の年に、これからの日ロ友好交流の発展のために函館がどのような役割を果たせるのか、官民一体となって考えてゆければと思う。

おわりに

 函館でゴシケーヴィチが注目されるのは、実は今回が初めてではない。今から30年ほど前、ゴシケーヴィチの伝記『白ロシアのオデッセイ』の著者ビターリ・グザーノフ氏が来函し(1985年)、その翌年には「ゴシケーヴィチを偲ぶ旅」(団長:高田嘉七氏)が企画され、函館からの参加者を含め、晩年の地であるベラルーシのマリを訪問した。
 初代ロシア領事赴任140年を迎えた1998年には、「初代ロシア領事赴任140周年記念フォーラム 原点から探る日ロ交流」が開催された。パネリストとして当時のアレクサンドル・パノフ大使、外務省の丹波実審議官が出席された。これは橋本・エリツィン会談が静岡県の川奈で行われた年でもあった。
(函館に寄贈されたゴシケーヴィチの胸像については、この後、高田嘉七さんの次女、菜々さんからお話があるだろう。)
 生誕200年を迎えた本年、昨日から記念事業が始まり、「移動展」のオープニングに続き、ベラルーシ国立歴史博物館関係者によるギャラリートークが行われた。これらによって、日本人にとってはまだまだなじみの薄いゴシケーヴィチの生まれ故郷・ベラルーシを理解するきっかけになったはずである。
 また、将来ベラルーシと日本を結ぶ架け橋となることが期待されているベラルーシの大学生6名がこのイベントに併せて来函中である。かつてゴシケーヴィチが、領事となる前にプチャーチンに同行して日本に滞在した体験が、領事となってから様々な場面で力を発揮したように、ベラルーシの大学生にとってこのたびの交流体験は、今後日本の専門家として活躍していく際に役立つことであろう。
 本日の講演が、今再び「ゴシケーヴィチ」を振り返り、日ロ交流の象徴的存在であり、函館とロシアの交流の礎を築いたゴシケーヴィチに思いを馳せるきっかけとなれば幸いである。そして、生誕200年を迎えた本年、「ゴシケーヴィチ」が、日ロ交流の象徴に留まらず、ベラルーシと函館(日本)の友好交流を切り開く新たなキーワードとなっていくことに期待したい。


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移動展オープニングセレモニーとギャラリートーク


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来函したルィシコフ館長ほか、ベラルーシ国立歴史博物館の職員

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号 記念講演会報告要旨