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魯西亜から来た日本人 ―善六と函館

2015年2月16日 Posted in 会報

大島幹雄

ゴロヴニン事件解決200周年と石巻を結ぶもの
 高田屋嘉兵衛が活躍したゴロヴニン事件のかげに、もうひとりの日本人がいたことはあまり知られていない。ロシア側の通訳として交渉の場に立ち会った善六である。今日は函館と私の故郷である石巻を結んだひとりの日本人、「魯西亜から来た日本人」ピョートル・キセリョフこと、日本名善六の話を拙著『魯西亜から来た日本人――善六物語』に沿って話したい。

 いまから220年前、1792年11月に石巻の米沢屋平之丞所有の千石船若宮丸が、米と木材を積んで江戸に向かう途中に嵐にあって漂流、太平洋をおよそ6ヶ月漂流したあと、アリューシャン列島の島に漂着する。このあと漂流民は一年間ナアツカという島ですごしたあと、この島にいたロシア人たちによってオホーツク、そのあとヤクーツク経由でイルクーツクまで連れていかれる。石巻を出たとき乗組員は、16名であったが、イルクーツクまでたどり着くのは14名だった。このなかのひとりが善六で、彼はイルクーツクに着いた直後にロシア人に帰化している。
 この若宮丸漂流民の足跡は、帰国した4人の聞き書き記録『環海異聞』でたどることができる。『環海異聞』は蘭学者大槻玄沢が江戸の仙台藩屋敷で、帰国した漂流民たちから聞いたことをまとめた記録だが、この写本は、このあと全国中に流布していく。なぜかというと、ゴロヴニン事件の原因となったロシア船によるエトロフ・クナシリ襲撃事件のあとで危機感をもった各藩、特に沿岸諸藩が、ロシアについて、またロシア側を怒らせることになった事件の真相を知るために、こぞって『環海異聞』を取り寄せ、写本をつくっていったからだと思われる。

善六の人物像
 善六を見ていくとき、重要なポイントとなるのは、彼がいち早くロシア人に帰化していることと、そしてロシア語がよくできたことだ。このことを踏まえ、亀井高孝は『大黒屋光太夫』のなかで、次のような人物像を描いている。

 「商人らしい小悧巧(りこう)さがあり、船乗りらしい素朴さがかけていたが、異境の周囲に順応する才能があり、ともに語学がすぐれてロシアの役所その他で公私の掛合事や文書の作成などに長じていたので、他の漂流民らが近付いていけなかったからであろう。」

 彼のロシア語だが、帰国するときに乗船したロシア初の世界一周就航船「ナジェージダ」号の中で、この遠征の総責任者ニコライ・レザーノフと一緒に日ロ辞典をつくり、さらには公文書の翻訳をするなど、他の人に比べて抜きんでていたことがわかる。
 私は石巻日日新聞で連載していた小説「我にナジェージダあり」の中で、善六という男のアウトラインを次のように設定した。
 江戸で小間使いのようなことをした経験をもち、石巻にいたところ再び江戸から呼ばれ、江戸に行く途中で遭難した。デラロフという露米会社の支配人に気に入られ、日本とロシアの橋渡しをするように勧められ、帰化を決意した青年で、同年代の太十郎とは親友であった。

レザーノフの辞書と善六
 レザーノフとつくった辞書をよく見ると、善六の通訳としてのセンスの良さを見いだすことができる。
 「彼ら日本人は平民であり、抽象的、概念的、描写的な言葉は、彼らの知識のなかにはなかった」とレザーノフが書いているが、国が違う人間同士で話をするなかで、理解することが難しいこの抽象的な言葉を、単語は知らなくても、自分なりに理解した言葉に置き換えようとしている。
 例えば、次のような言葉を彼はこんな風に訳している。

クニノフデゴザリマス   習慣
ハズカシイ   良心
テンカサマノカネ   国庫
ワラシデゴザル   青春
ウズゥウズゥミマシテモ(鬱々みましても)   夢見る
アタマノアブラ   脳味噌
ハナタカクシマシテモ   誇る
セダシマシテモ(精だしましても)   努力する
イヌコチャン   犬の指小形
タビノヒト   異邦人

 最後にあげた異邦人を意味する言葉を「タビノヒト」と訳した善六は、自分の運命をそこにダブらせていたのかもしれない。漂流して、異国にたどり着き、ロシアに帰化しながらも、自分はあくまでも日本人である、旅人のように彷徨うことが、異邦人の宿命なのだという思いがあったのではないだろうか。

その後の漂流民
 漂流民4名が帰国を希望して、ナジェージダ号に乗って、およそ1年かけて世界一周をしながら1803年9月に長崎に着いた。善六は通訳としてこの船に乗り込んでいたが、最後の寄港地となったペテロパブロフスクで、レザーノフより下船を命じられる。ロシア人に帰化した善六の存在が、日本との交渉の時に不利に働くという懸念からだった。善六はこの港でレザーノフたちがもどって来るのを待つことになった。
 漂流民は半ば幽閉状態で、長崎で1年以上過ごすことになる。日本とロシアの交渉も、通商を求めるロシアに対して、日本側の二度と日本に来ないようにという回答はレザーノフにとっては屈辱的なものだった。ナジェージダ号は、長崎来航からおよそ半年後に長崎をあとにする。
 漂流民のひとり太十郎は、自ら喉を突き刺すという事件をおこす。通説では幽閉状態に絶望しての自殺といわれているが、私は「我にナジェージダあり」の中で、沈黙を正当化するため自ら選んだ道という解釈した。
 4人は1805年2月に故郷に帰った。

五郎次と善六
 レザーノフから交渉失敗の話を聞いたあと、イルクーツクに戻り、日本語教師として働く善六が再び表舞台に登場するのは、函館とも縁の深い中川五郎次が関わっている。
 ロシアにだ捕された五郎次は、ヤクーツクにいるとき、善六からの手紙を受け取る。ここには次のようなことが書かれてあった。

 「大明(大名)、おま衛(おまえ)のことをおもへ(思い)ます。日本のくにへおくりとどけたく、またもつて、此の方へまゐり候得ば、日本の人たくさんにござります。いる加うつか(イルクーツク)と申(申す)じやうが(城下)におめにかかりましやう。ぞう(そう)ぞう此方へくるよふに。どんばんなしに(心配しないで)」

 イルクーツクに着いた五郎次は、善六の家で59日間暮らすことになる。
 五郎次の聞き書き『五郎次申上荒増』を読むと、善六の家がアンガラ川の河口近くにあったことや、ほかの若宮丸漂流民についての報告も含まれている。
 その後五郎次は1812年2月リコルドに連れられペトロパブロフスクに向かうが、『五郎次申上荒増』のなかで、リコルドが自分の非協力的な態度をみて「善六を召し連れてこなかったことをいつも後悔していた」と語っている。

海を渡った種痘術
 ロシアから帰国するにあたって五郎次が種痘医学書『オスペンナヤ・クニーガ』を持ち帰っていた。さらに五郎次は、1824年、松前で天然痘が流行したときに、自ら採取した牛痘を接種することに成功。日本で最初に種痘術を紹介した人物となった。
 『五郎次申上荒増』で五郎次は種痘術との出会いについて「道中の途中で商人の家に一晩厄介になったとき、ロシアの本がたくさんあったので、それを見ていたら、そのなかに『ヲスペンネエ・ケニガ』(天然痘の本)と書いた本があった。その商人に頼んでこの本を貰い、ヤクーツクやオホーツクで医者に付いて歩き、種痘法のやりかたを覚えた」と書いている。
 五郎次の話を信じれば、イルクーツクからの帰りに偶然種痘術の本を見つけたことになるが、私は彼が、イルクーツクにいるときにこの本を入手していたのではないかと思っている。そしてそれは善六の家にあったか、もしくは善六から教えられて購入したのではと思っている。

函館交渉
 日本側にだ捕されていたゴロヴニン解放のための最終交渉となる、リコルドにとっては3回目の日本遠征に善六は通訳として参加した。日本とロシアの橋渡しをするという彼の夢の第一歩である。
 この交渉のために善六がした最初の仕事は、入港したときにリコルドが書いた手紙を訳すことだった。善六が訳した公式文書の写しは『飄々謾集』に収められている。

 「此度この所ニ来り候ところ、其方より船さしむけ、ありがたきしあわせニ存じ奉り候。又以て、くいもの、ま水等くださる様にきかせられ候へども、くい物たださへたくさんにあり、ただま水なきゆへ、どうぞま水ヲ被下度くねがいあげ申し候。其方のおん役人様。(中略)箱館までのみちさき、どうぞ高田屋嘉兵衛を此所によぶよふを。嘉兵衛ヲミチさきに致したく。どうぞ高田屋嘉兵衛を願い上し。

いくさ船大将軍 ぺうとろリコルド

文化十年九月廿二日 つうしにんきせれふ」


 さらに善六は3カ月ぶりに再会したリコルドと嘉兵衛の通訳をしている。

 「艦の必要な仕事をすますと、我われは大喜びで、堰を切ったようにわが善良な高田屋嘉兵衛と話しを始めた。今度は通訳キセリョーフの助けがあるので、以前よりははるかに都合よく、何事でも話し合えた」(徳力真太郎訳『ゴロウニン 続・日本俘虜実記』より「海軍少佐リコルドの手記」)

 オホーツク長官ミニャツキイの謝罪文も善六が訳しているのだが、この書簡の末尾には、こんな言葉が書いてあった。

 「此書物、尾宝津賀(オホーツク)の湊場所ノ大役人のおろしやんノことば、日本の字ニて書、通事ヲいたし二十一年、おろしやんニて役をつとめ、私日本の人の子供なり
通事の役人 きせろふ書」

 「私日本の人の子供なり」とは、通訳している自分は日本人なのですという、日本に向けての善六からのメッセージといえるのではないか。リコルドが、第1回目の交渉のときに松前藩高官に渡したイルクーツク県知事トレスキンの公式書簡にも、同じ但し書きがついている。
 いよいよ明日正式な日露会談に臨むという前夜、リコルドは善六を部屋に呼んでいる。幕府の役人たちが、善六が日本人であることを知った場合、善六に危険がおよぶことを心配したリコルドは、このことを善六に確かめる。

 「私はキセリョーフを自室に呼び寄せて言った。『君は自分の国の法律のことは私よりよく知っているから、私といっしょに上陸しても危険がないかどうかよく考えて欲しい』
 キセリョーフは答えた。
『私が何を恐れるというのですか。あなたを捕らえるなら、そのときは全員を捕虜にするのではないでしょうか。私一人を捕えることはあり得ないでしょう。私は日本人ではありません。通訳としての職務が果たせるようにどうか私を連れて上陸して下さい。陸上での両長官との交渉こそ、今度の事件で最も重要です。本艦上での高田屋嘉兵衛との話では、私はあまり役に立たないのです。もし艦長が私を陸上に伴って行かないのなら、私は何のためにこの長い航海の苦労に耐えてきたのか分からなくなります」(徳力真太郎訳『ゴロウニン 続・日本俘虜実記』)

 ロシアの公文書に「私日本の人の子供なり」と書いた善六が、ここで「私は日本人ではありません」と答えた奥底にあるものは何だったのだろう。ひとつは、彼が交渉の場に立ちたいという強い希望のあらわれであろう。そしてもうひとつは、「日本の人の子供」であっても、ロシアに帰化したいまはロシア人でしかないという自分の選んだ道への自負であったと思う。
 ロシアに帰化した「日本の人の子供」である自分こそが、日露に橋を架けることができるのだという、善六の自信でもあったはずだ。
 これを聞いたリコルドは、続けてこう書いている。

 「キセリョーフがこの事件で役に立ちたいと望んでいるのをみて私は言った。
『君のような忠実な通訳が傍に居ることは大変重要なことだ。ただ私としては、君に危険の恐れがある場合なので、君の希望に反した行動をしたくなかっただけなのだ』」

善六の絵姿
 10月1日高田屋嘉兵衛が、奉行の儀礼船に乗ってディアナ号にやってきた。陸上からの合図を待って、リコルドは善六と2人の士官、さらに10名の水兵を従えて、この船に乗り込んだ。
 このときに箱館に上陸したロシア代表団一行の中に善六がいたことを東北大学教授で、私ども石巻若宮丸漂流民の会の副会長でもある平川新氏が発見している。平川教授は、松前から箱館までゴロヴニンを移送した松田伝十郎が書いた『北夷伝』の中に残された絵の中に、善六を発見した。この『北夷伝』は、ここ函館市中央図書館にある。
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『北夷談』に描かれた善六(右端)(函館市中央図書館所蔵)

 このあと日本とロシアの交渉の席で、善六は通訳として存分に力を発揮したかというと、実はそうでもなかった。自分だけが日本語とロシア語ができるかと思っていたが、日本側の通訳となった村上貞助はロシア語もかなりできる男だったのだ。この交渉が終わり、ゴロヴニンたちは長い幽閉生活から解放され、ロシアに帰国し、善六もここで日本と永遠の別れを告げることになる。

函館領事キセリョーフ
 函館と善六の縁はこれで終わらなかった。
 昭和3年ディミトリイ・キセリョーフが、ロシア領事として赴任するため函館に向かった。キセリョーフは函館へ向かう前、東京日日新聞社の記者のインタビューに答えて、自分の先祖が百年あまり前にロシアに渡った日本人であったという、興味深い事実を明らかにしている。これは東京日日新聞に、「百余年ぶりに奇しき帰郷――文化年間にロシアへ定住した邦人の曾孫が領事で来朝」と大きく報道された。
 キセリョーフ領事自身のコメントも載せられている。

 「私の先祖が函館の人であるということは、小さい時から聞かされ、お伽の国日本に行って、函館を訪れたいものと始終思っていました。(中略)曾祖父の日本名がなんといったか私たちは全く知りませんが函館の生まれであることだけはわかっています。血統は争えないもので医者をしている私の従兄と従妹二人は日本人ソックリの顔です。幸い私は函館へ行ったら当時の歴史を調べて是非自分の先祖のことやまた今残っている親戚の人々も探し出し会って見たいと思っています」

 私はてっきり同じキセリョーフなので、これだけはっきりと日本人が先祖だと言っていたので、キセリョーフ領事こそキセリョーフ善六の子孫だと思っていた。
 実際に拙著『魯西亜から来た日本人』の最後はこのように結んでいる。

 「通訳として、二十一年ぶりに故国の土を踏んだ函館。ここでロシアに帰化した日本人、善六は、ロシアと日本の間に橋を架けるという夢を実現することができた。さまざまな思いが交錯するこの街での思い出が、子供に孫に、そして曾孫のディミトリイ・キセリョーフにまで伝えられていった。そして百年以上の月日の流れのなかで、キセリョーフ善六の故郷がいつしか函館として語り伝えられるようになってしまったのだろう。」

 しかしその後の調査でキセリョーフ領事と善六はどうやら関係がないということが明らかになった。
 これは善六の絵姿を発見した平川先生と同じ東北大学の東アジア研究センターの寺川恭輔教授が、キセリョーフ領事が暮らしていたノボシビルスクまで行って、彼の孫たちと会い、さらにはキセリョーフ文書を調査するなかで明らかになった(「日本人漂流民の子孫と名乗るソ連外交官キセリョフ」『[窓](126),(2003)』)。

「会報」No.35 2013.12.7 講演会報告要旨