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柴田剛中の箱館での交渉

2016年3月 7日 Posted in 会報

塚越俊志

はじめに

 柴田剛中は、ペリー来航前後に幕府の海防の担当者として働き、外国奉行が設立されてから、この部署に配属された。文久元年(1861)の竹内下野守保徳を正使とする使節団に外国奉行組頭として加わり、文久2年12月末に帰国した(1)。この使節団での功績が評価され、文久3年、柴田は外国奉行並に任命された。そして、文久3年、箱館に渡り、ロシア総領事ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich Goskevich)と横浜鎖港に関する交渉を開始することになる。この間の経緯については「談話書」という形で、函館市中央図書館に所蔵されている史料「柴田日向守箱館行御用留(抄)」があるが、ここではゴシケーヴィチとの交渉の様子について、神戸市文書館所蔵の『柴田剛中関係文書』収録の彼の日記「日載」を主に用いて考察することとする。日記という性格から、ここでは、史料解題に近い形で紹介をすることにしたい。

1、柴田剛中の箱館行前の状況

 文久3年(1863)5月19日、外国奉行村垣淡路守範正の日記によると、「貞太郎、箱館えの御暇拝領物金十枚、時服二羽織於芙蓉間被仰渡候」(2)とあり、外国奉行並柴田剛中の箱館行きがこの段階で決まったことがわかる。この時、交渉すべき最大の案件が「横浜鎖港」問題であり、それを各国公使に伝える必要があった。そこで、箱館に領事館を構えるロシアとの交渉に白羽の矢が当たったのが柴田剛中である。
 11月4日、柴田は外国奉行並から外国奉行に昇格した。同時に「箱館表江被遣候ニ付用意可致處備前守殿被仰渡候段達し来ル」(3)と記している。老中牧野備前守忠恭から箱館行きが命ぜられていることがうかがえる。同29日、柴田は実弟永持亨次郎に函館行きを祝う詩文等を贈られ、柴田も返書を送っている(4)。
 12月5日、柴田は「金港甲州より此度欧行御國書案促し来り分ニ筑豆両州宛告状届く」(5)と記し、神奈川にいる外国奉行首座竹本甲斐守正雅から鎖港交渉のためヨーロッパに向かう外国奉行池田筑後守長發と同河津伊豆守祐邦らから国書案を要求する書状が届いたことが伝えられている。
 12月10日、柴田は「今朝ブレツキマン引合度旨申聞候ニ付、面唔致し酒税減方使筋(ママ)旅費為替手続之談判促し申候」(6)と記している。フランス公使館付書記官ブレッキマン(F.Blekman)と面会している。同18日も柴田はブレッキマンと面会し、減税の談判を行っている(7)。同26日にも減税の対談を行っている(8)。同29日、老中格松前伊豆守崇広とブレッキマンによる減税交渉の書簡が柴田のもとに届いている(9)。
 また、12月中に、「御三名花押」の魯西亜外国事務執政宛書簡が出されている。御三名とは池田使節の正使池田、副使河津、目付河田相模守煕のことであろう。中身は日本からロシアに対して品物を贈りたい旨を伝えるものである(10)。また、将軍家茂の親書には、「恭しく魯西亜帝の許に白す、我國貴國与条約取結し以来両国之交義永久相替被遣る様互に其誓言を遵守いたし度は勿論候得共鎖國之舊習頓に不て再應し難きより此節に至り外國貿易の為メ大に國内民心の不折合を生し、諸外國人に対し往々不都合之挙動ありに至り氣之毒存候、依之外國奉行池田筑後守・河津伊豆守・目付河田相模守に全権を授け特に其國都に是遣し其許面謁之上此方一体之事情委細陳述為及両國之交義永久安全を保ち我國内民心鎮静之為メ神奈川開港場貿易之事をも談判可為致候間被得貴意、我使臣建言之旨信用あらん事を望尤貴國平安の儀是又祈る所なり、不一」(11)とある。まず、池田ら三使を送った理由に「國内民心不折合」であることを掲げ、「我國内民心鎮静之為メ神奈川開港場貿易之事をも談判可為致候間」と神奈川鎖港に関する談判を行うとしている。また、老中連書においてもほぼ同様のことが確認できる(12)。以上のことから、池田使節団はロシアとも交渉する予定が当初はあったことがうかがえる。その一方で、国内でロシアの外交官と交渉したのが外国奉行柴田日向守剛中ということになる。
 文久4年1月1日、将軍上洛にともない柴田は留守を仰せつかった(13)。
 同10日、柴田は「凾館行船として下ケ緒を贈らる」(14)と記しており、守山なる人物から刀等の贈り物があったたことがうかがえる。
 そして、同26日から、箱館に向けて陸路を移動している。当時の幕臣が陸路をどのように通り何日かかるのか、参考のため、以下に掲げる。同日、千住で休み、草加で泊る。同27日、粕壁(春日部)で休み、幸手に泊る。同28日、古河で休み、小山に泊る。同29日、石橋で休み、宇都宮に泊る。ここまでは日光街道を利用し、ここから奥州街道へ向かう。2月1日、喜連川で休み、太田原に泊る。同2日、芦野で休み、白河に泊る。ここから、仙台道を利用し、同3日、矢吹で休み、須賀川に泊る。同4日、郡山で休み、二本松に泊る。同5日、福島で休み、桑折に泊る。同6日、白石で休み、大河原に泊る。同7日、岩沼で休み、国分町(仙台城下)に泊る。ここから、松前道に入り、同8日、吉岡で休み、三本木に泊る。同9日、高清水で休み、金成に泊る。同10日、一ノ関で休み、水澤に泊る。同11日、鬼柳を通過し、黒沢尻で休み、花巻に泊る。同12日、郡山で休み、森岡(盛岡)に泊る。同13日、渋民で休み、沼宮内に泊る。同14日、小繋で休み、一ノ戸に泊る。同15日、金田市で休み、三ノ戸に泊る。同16日、浅水で休み、五ノ戸に泊る。同17日、藤嶋で休み、七ノ戸に泊る。同18日、天椅立(天間館)で休み、野平地(野辺地)に泊る。同19日、小湊で休み、青森に泊る。同23日、船(永宝丸)のチャーターが済み出帆。同24日、箱館に着港している。約1カ月の陸路を経て箱館に至っている。この間、柴田は行く先々で漢詩を記している。また、同25日、柴田は老中から「人足八人人馬八疋従江戸奥州筋箱館迠上下并於彼地御用中幾度可出之候於御用状相回日向守被差遣付て被下の者也」(15)という朱印状をもらった。この朱印状は字が薄く書かれているほか、元治元年(1864)4月14日に老中井上河内守正直に返却した際に黒塗りで文面を消されているため、文字が読みにくくなっているが、解読できた部分を含め復元したものが上記の文言である。要するに柴田は箱館に行く時、箱館から江戸に戻る時、江戸から奥州筋まで人馬の徴収権を得ていることがうかがえる。

2、柴田とロシア領事ゴシケーヴィチとの対談

 文久4年2月24日、箱館に入った柴田は「着之儀出行御役所江使者を以申遣し、且明より御役所江相調候旨申越す」(16)と記し、箱館奉行所に使者を派遣したことがわかる。奉行所からは酒井右衛門が来て対応した(17)。ここで、遣米使節にも随行した徒目付小永井五八郎が柴田に面会をしている(18)。そして、以下のような取極めがなされた。柴田は「三日之間は御役所御入用ニ相立御用達引受(後略)」(19)と記していることから、3日間は箱館奉行が柴田の入用を賄うことが決まった。更に、柴田は「右衛門また来る魯コンシュル面會日限之義言被申聞ル」(20)と記し、ロシア領事と面会する日程調整を行っている。そして目付江連尭則から手紙が来てロシア領事と面会の段取りが整ったら知らせて来るよう柴田に手紙が送られている(21)。
 柴田とともに派遣された外国奉行のメンバーは、目付江連真三郎(尭則)、外国奉行支配組頭由比太左衛門(峯高)、外国奉行支配調役日比野清作、徒目付佐藤真司、同小永井五八郎であった。また、ここに立ち会った通訳は箱館奉行所付通詞の志賀浦太郎と名村五八郎であることが史料から読み取れる。
 同25日、柴田は「魯國コンシュル通弁官なるもの旅亭江来り面晤之儀申入ニ而家来を以申對候遣何レ是より會晤日限可申入旨申達は無之」(22)と記し、ロシア領事館付通訳官が来て柴田の家来と面会日時の調整を行っている。
 同26日、柴田は「江連江打合支配向召連第一時より魯國コンシュル館江下邊尋問昨来之魯人は畢竟余ガ着賀使としてコンシュルより差越遣し内申聞彼我行違之儀当然たり、且明第一時余と監察着賀としてコンシュル一行尋問之旨申聞ニ付申免シ度對候無行得共何分承允不致監察之方は申對候余之旅亭ニ而参會一同面晤之旨申談じ其通り相決す、帰途右左等向を伴ひ江連江立より明より接待方等之儀相談いたす椅子卓等ハ御役所御備之分借り受ケ役之調理ハ御用達ハ命し候積り太左衛門ハ談す」(23)と記し、上大工町のロシア領事館に向かった後、柴田とゴシケーヴィチとの会談に向けて着実に用意が進んでいることがうかがえる。
 元治元年2月27日、柴田は「魯人一行之役彼是内旋せし」(24)と記し、「第一時魯コンシュル・医師・書記官・伜・通弁官とも五人来ル是より先達而江連並太左衛門・浦太郎来會面晤右一行江酒席を設く全く着賀迠也、第三時ニ引取」(25)としている。ロシア総領事ゴシケーヴィチ、医師(軍医)ザレンスキー(Zerenski)、書記官ツェヴェルコフ(Tsievelkoff)、伜ウラジミール・バフシュテイン(Uradimil Vafsytein)、通訳官ユガノフかニコライか、の5人がやって来ている。日本側は箱館奉行所付ロシア語通訳官志賀浦太郎が加わっている。
 同28日、柴田は「第一次より江連具す支配向とも魯館江談判ニ行く挨拶は初考之上明より可申聞旨ニ而第四時帰館」(26)と記し、柴田がロシア領事館に談判をしに向かったことがうかがえる。また、柴田は「魯岡士遣し品之儀監察ニも存より無之様ニ而文庫一硯ふた二面を太左衛門対話席江持出品相渡す」(27)と記し、ロシア総領事から品物が贈られたことがわかる。この日の対話内容は以下の通りで、重要な部分だけ取上げることとする。
 日本側はこの談判の背景に「鎖国」の国柄だった故、急激に通商条約を締結し、人心の不折合を招いてしまった。そのことが外国事務を取り扱う重臣へ不法の振舞をするに至ってしまったという。
 これに対し、ゴシケーヴィチは「外国事務を取扱候重臣え不法の振舞及候趣、右は如何の御方に候哉」(28)と切り返すと、柴田は井伊掃部頭直弼、安藤対馬守信行らの名前を挙げた。柴田は欧州各国と日本の封建郡県の違いがあって、国制も違うため人心不折合を招くとした。そのため、条約締結以前、すなわち開港以前の姿にまずはさかのぼり、徐々に人心の鎮静を図りたいとした。そして、柴田は「さも無之急遽粗暴に事を謀り候ては、益人心に激し、患害百出士崩瓦解の場合に陥り、不可挽回の勢ひに可至は眼前の義故、無拠三港閉鎖の義各ミニストルえ申入、其の回答の模様に寄候ては此方(に)於て万々都合宜敷人心鎮撫の好手段にも相成候義に付、一時各国へ対候ては条約面を游移致し、信義を失候様の姿に相当り候へ共、其実は却て懇親永続の基を謀候との訳柄を以、即鎖港の義各国ミニストルえ申入候処、一概に外国人を拒絶致候事とのみ存取、戦争と決候外無之抔激烈の返答のみ申出、右様切迫の場合に至候義に候はゞ素より彼是の配慮にも及不申、是迄多少の苦心に徒らに泡沫に属し、内外手を下すべき術計も無之、進退実に谷り候場合に陥り申候。右の如にては各国不残敵と相成、好て外寇を招候処置に相当り候訳にて、以の外の事故、前申入候三港鎖閉の商議をば廃し、去迚其儘差置候ては国内人心鎮圧の方略にも相成不申候ニ付、金川一港のみ鎖閉の義に候はゞ強ち外国人を拒絶致候訳にも無之候間、我国事実不得止の場合をも了察可有之と勘考致、各公使え右廉を以談判に渉候処、最前拒絶と見込候一塊の疑団氷解不致、先入主と相成候事と相見え、右談を承諾致候はゞ果は長崎・函館に及び、終に三港共閉鎖可及とのみ存取り、幾応申入候共何分談筋取合不申、徒に時日を送り候内、右輩不堪遅延粗暴の挙動を為んとの萌し顕然有之、何と歟所置の痕跡相見候様無之候ては難差置依て弥使節の挙に至り、金川閉鎖の義各国都府(に)於て談判及候積治定相成、去冬中使節出帆致候。(中略)扨貴国は旧来の縁故も有之、且隣好も厚く、旁外各国共相違ひ候間、夫是の訳を以前申入候縷々の事情を被察、今般使節差遣金川閉鎖の談は交際上に取り信義不厚様相聞可申哉に候へ共、素々和親永続を望候真心より出候訳に有之候間、右使節の談筋不都合不相成様周旋の力を被尽度候」(29)と話した。柴田は函館、神奈川、長崎の三港を閉鎖する予定だったが、まず神奈川の閉鎖を行い徐々に人心回復につとめ最終的には三港共に閉鎖する予定であると語った。また、日本側としては真心を伝えるため、ヨーロッパに使節を派遣したと説明した。これに対し、ゴシケーヴィチは「右は魯国のみ周旋の義に候哉、外国に迄周旋との事に候哉」(30)とロシアだけにこのことを話したのか、それとも欧米諸国にも話したのかと切り返した。柴田は、これについては話すのが難しいとはぐらかしている。つまり、柴田は横浜鎖港が不可能であると知った上でその影響が日本にとって悪いことを知っていたので、このような回答をせざるをえなかったのだろう。
 ゴシケーヴィチは「魯国義は素より金川へは入津の商舶も無之候に付、鎖閉被成候共格別不都合の義も無之候へ共、各国にて承允不仕候はゞ魯国のみ承允の義は迚も難相成存候。将亦各国人共政府にて全く御拒絶の義と存候赴(ママ)風聞仕候。私(に)於ても金川閉鎖不被成候共、如何様にも外に御鎮圧の御方略有之候哉と存候」(31)と、ロシアはもとより横浜港を使用していないため、影響ないが各国が承引しなければロシアも受け入れるのは難しいとした。続けて、ゴシケーヴィチは「両都両港延期御談判の節各国(に)於て右御談を承允不仕候はゞ、却て今般御談の一助にも可相成候へ共、右を承允の上又々ケ様の御談承允可仕見据は無御座候。一体両都両港延期する御条約面に触候義に候処、深く政府の意を察候より枉て承允致候事に候間、金川閉鎖の後は逐漸長崎・函館え及ぼさるべきとの疑団不解は尤の義に候」(32)と、柴田も加わった竹内使節団による「六カ国覚書」の約束違反に当たることをゴシケーヴィチは指摘し、今後の交渉は難しくなると予想している。
 これに対し、柴田は「一ト通り尤には相聞候得共、金川は外二港とは違ひ江戸近にも有之、右輩注目の地にも有之候間、特に同所のみを閉鎖致度事に候」(33)と横浜は江戸に近いため封鎖する必要があるというのである。
 その後、柴田は物価騰貴の問題を挙げ、鎖港の必要性を説いた。ゴシケーヴィチはこれについては各国公使も承知しているとし、物価騰貴だけでは事情が不十分であるとした。続いて、柴田は外国人殺傷事件について話を切り出し、ゴシケーヴィチは特に「長州一件」はすぐに処理をした方が良いとした。また、薩英戦争の結果を挙げ、「長州一件」も賠償交渉をするのかと尋ねた。柴田は政府の権威が無いように見えるが、幕府は精いっぱいの努力をして対処しようとしていると告げた。
 こうした話から再び鎖港の話に戻り、ゴシケーヴィチは「是非金川のみ閉鎖被成候義は了解難仕、逐漸長崎・函館へ及候義は眼前に御座候」(34)と、横浜港のみの鎖港は受け入れ難く、しばらくして長崎・函館にも及ぶというがそれはもう目前に迫っていると主張した。これに対し、柴田は「金川は江戸近々地にて右輩注目致候場所故、此地々(ママ)閉鎖致度、長崎・函館は隔絶の地故決て左様の義は無之候」(35)と、横浜は江戸に近いこともあり、攘夷派が注目しているところなので、この地を閉鎖するが、長崎や函館は離れているので、鎖港には及ばないだろうとした。
 ゴシケーヴィチは「鎮圧方を先とし閉鎖御談判を後と被成候方可然、鎮圧難被成義に候はゞ鎖相成候共無詮存候」と、鎮圧を先とし、鎖港談判を後とするのはわかるが、そもそも鎮圧がうまくいかなければ鎖港は出来ないのではないかと述べたことから、外国人殺傷事件を止めるのが先で、そうでなければ次の段階の話はできないと考えていることがうかがえる。これに対し、柴田は「閉鎖談判を後にし鎮圧方を先と致候ては、徒らに人心に激候のみにて、却て擾乱を醸の基と可相成候に付、閉鎖談判を先にし漸々鎮圧方に及ぼし候方都合可然存候」(36)と、柴田にとっては横浜鎖港=人心回復であり、横浜鎖港が出来れば、外国人殺傷事件もおさまると考えている。よってこの2人の考えの順序は違うので、話し合いは平行線をたどることになる。
 この後、平行線をたどった話は竹内使節団がロシアに来た時に国境画定のため、ニコラエフスキーに委任の者を派遣する予定になっているが、日本側はいつ派遣するのかという話題になり、柴田は4月頃から9月迄の間であれば渡海は差し支えないとした。
 1回目の談判から横浜鎖港について両国の意見が激しく衝突している。談判の節々を見ると、両国とも鎖港はほぼ不可能であるとわかっていながらも柴田は任務のため尽力しようとしていることがうかがえる。なお、この談判についてはゴシケーヴィチがロシア暦1864年3月31日付でアジア局(局長イグナチェフ)宛に送った書簡が伊藤一哉氏によって一部ではあるが紹介されている(37)。紹介されている文を検討する限り、柴田の談判書と内容は同じであることがうかがえる。
 元治元年2月29日、柴田は「第一時頃同様魯館江談判ニ行く此方談じハ一段落済彼より兌換銀増額、海岸地所、借受之儀申出、且明よりは祭日ニ付一杯を勧度趣ニ付、(中略)来會候様申聞る第四時頃寄宿」(38)と記している。この日の談判は横浜鎖港に関する記述は見当たらない。そして、ロシア側は交渉をしたいのかどうか疑わしいような感じを受ける。また、この日、「監察よりも同断並滞留日数等之義ニ付書状差越す」(39)とあり、箱館滞在期間についてうかがいをたてている。この日、2度目の対談が行われた。柴田は、「(前略)長崎表は御国従来通商の地に有之候へば、其土に居住致候者は左迄外国人を嫌忌候様子も無之、其辺を以察候に、全通商の利益を知よりの事に可有之歟、左候へば即今横浜御鎖港被成より、却て他港等御開被成候様の御盛挙も候はゞ、自然外国の事情をも弁知可仕、人心も随て一変可致候得ば、却て人心鎮静方の御方略と相成可申候。(中略)其内政府にて盛に御開港相成候へば、国民通商の利益有を知り、後には貿易の盛に不成を憂るに至可申候。(中略)兎角に通商等御取縮めの義は詰り国の衰微を招き候ものに有之候。左候へば、貿易の利益たる事、上政府は勿論下万民に至り候迄莫大の利益有之義にて、理と勢如此に候へば、鎖港の御談外国々え申遣し御周旋の義は何分難出来義に有之候。(中略)仮令戦争及候共御勝算も可有之、私考候処にては御国より五十倍の強国と被存候。(中略)御承知の義とは存候へ共、魯国義は交易の廃否に付損益は無之候。(中略)私於て鎖港の義御差止申上候は、損益に不抱(拘カ)只々至当の理を以申上候義に有之候。鎖港の義外国々にて承允無之、魯国のみ異存無之段申上候上は、上海に差置候魯国船等も是迄横濱へ来往致通信の事に相用候処、以来右様来往の義難出来候ては甚不都合に有之候(後略)」(40)と説明した。ゆくゆくは交易で盛んになることはわかるが、今のご時勢では鎖港が妥当と判断している。更に、柴田は「(前略)被申聞候通り諸港を開き交易を盛に致候はゞ国々の為にて、鎖港は却て国の不為との段一と通尤には候へ共、此方にて心痛いたし候は、我国内のもの外国の情態を弁知し交易の利益を存候様致候為、即今諸港を盛に開候はゞ、外国の情も不弁交易の利をも不存以前急遽に浪輩の暴発は顕然に有之、(中略)一時横濱鎖し暫く旧制に復し候様の手続を以徐々に鎮静の方略を施し、漸次に開港を目論見候はゞ、内乱外患等の掛(ママ)念も無之、(中略)漸を以開候と急を以て開候との相違有之迄にて候」(41)と述べた。柴田は開港が早いか遅いかの問題で、開くことに変わりはないとした。そして、柴田は「其許被申聞候趣にては横濱鎖港の義、貴国にて異存無之上は、貴国の船舶同所え出入不相成様の義と被存取候へ共、左様には無之、各国にて鎖港談判承允有之惣体商議確定の上ならでは、貴国のみ承知の挨拶有之迚他の国々に不拘貴国の船出入不相成と申訳には無之候」(42)と、各国の船同様ロシアにも同様の処置をするとした。これに対し、ゴシケーヴィチは「(前略)責て魯へのみ周旋有之様被成度趣に候へ共、各国にて承允無之内は魯国のみ承允の義は難出来候。且私職掌(に)於ても各国の議論を差置、魯国のみ横濱鎖港致候様申遣候義は是亦難出来候」(43)と、各国が認めないものはロシアでも受け入れがたいと主張した。
 柴田は「(前略)各国にて使節鎖港談判に渉り候節、貴国にては我内の情実を熟察有之異存無之承允有し赴を以弁論致し候へば、右談判の都合万々宜敷義に付、夫等の辺を以申入候義に有之、且貴国へも使節順行(ママ)相成候事故折入頼入候事に候」(44)と、使節団が各国で交渉をするので、協力してほしいと述べた。その後、ゴシケーヴィチは使節がいつ、どこの国の船を使って出発したかを問い、柴田は返答した。
 そして、柴田は「何れにも今般談判及び縷々申入候次第、乍手数其許より貴国政府へ曲さに被申通貴国(に)於ては鎖港の義に付、更に異存無之様致度、尤拙者共(に)於ても其許見込と其趣意に相違は無之、只各港開市の義に付急と緩との相違有之のみに候」(45)と述べた。ここでも柴田は開港開市が早いか遅いかの違いだと述べるにとどまっている。これに対し、ゴシケーヴィチはイギリス特命全権公使オールコックとフランス全権公使ロッシュが戦争をする構えがあることを述べ、「左候へば各国政府(に)於て御使節談判には取合不申、御国へ差渡置候者へ委任致置候間、其者へ御談判可有之とのみ可申上候」(46)と、各国政府は使節団との談判には応ぜず、日本にいる公使に委任するだろうと告げた。すなわち、外国へ行ったところで交渉の失敗は目に見えているということである。
 柴田は「素々政府(に)於て一図に鎖港を好候訳には無之、懇親永続を計り候真心より出候義に候間、其辺篤と了察被致、兎に角今般の談は貴国へ被申通度候」(47)と述べた。柴田は鎖港は本意ではないが、懇親永続を願う心からやらざるを得ないとした。これに対しゴシケーヴィチは「横濱開港以来各国(に)於て同所へ建物等も有之候へば、万一鎖港御談承允仕候共、右等の御償金莫太(ママ)の義可申出其節は悉皆政府の御入費と奉存候」(48)と述べた。鎖港をした場合、様々な補償をしなければならず莫大な償金を支払わなければならなくなるだろうと指摘している。
 柴田は止むを得ずこのような話をしたといい、ゴシケーヴィチは鎖港よりも厳しく浪士を取り締まるべきだと主張した。その後、話は平行線をたどり、ゴシケーヴィチは領事館引き換え銀について談判を申し入れた。柴田は各国と照会した上で判断すると告げた。その後、ロシア領事館の移転場所と引き換え銀に関する談判がなされ、この日の談判が終了した。
 3月1日、柴田は「此日魯コンシュルより申出候二件事ニ而濃州より文通せし、出懸ケ御役所江江連俣々立より当儀夫より午下一時此魯館江(中略)濃州一同行く、本日は更ニ談判無之享応(ママ)而巳也、(後略)」(49)と記している。ここで出てきている「濃州」とは箱館奉行小出美濃守秀実のことであり、この日は箱館奉行がロシア領事館を訪れている。柴田らは饗応を受けている。
 同2日、柴田は英・仏・米領事と会談を行った。この時、駐日箱館イギリス領事ヴァイス(J.Howard Vyse、前駐日神奈川イギリス領事)との対談内容がわかっている(50)。最初にヴァイスは英国商人と日本の商人は相対貿易ではないので、これを改善して欲しいと述べた。柴田は、仲買貿易に何の不都合があるのかと切り返した。ヴァイスは店の主人ではなく主人の代わりとなる人物と取り引きするのが不都合だと述べた。柴田は主人と取り引きするのはもっともなことだが、仲買の者と行違いがあった場合の損耗は激しいので何とも言い難いと述べた。ヴァイスはデント商会とその他の日本の商人(福島屋や長崎屋)の主人の調印は難しいということなので仲買の者の調印を貰った事例があると指摘した。柴田はどのような手違いがあったか篤と箱館奉行と談判に及んだ方がよいと主張した。ヴァイスは仲買や番頭は謝礼金として2分5厘ずつ貰っており、ほかの港ではありえないことだと主張した。柴田はこれに対し、箱館奉行と委細談判するよう促すだけだった。ヴァイスはそれが辱めを受けているとし、自国の者は居留地にいるが、兼ねてより望んでいる場所の貸し出しはいつになったら出来るのかと述べ、このままでは埒が明かないとした。柴田はその件は何度も奉行と話し合っていることではないかと述べた。ヴァイスは絵図面で望みの場所を指し示しながら、領事館の地税に兼ねて公使に申し送っているが、何の音沙汰もないと述べた。柴田はニールがオールコックと交代したばかりで、対応に追われているのだろうから、オールコックが戻ってきたら再び談判に及ぶとした。ヴァイスは絹糸の取り引きに付き、プロイセン商人ガルトネル(R.Gærtner)という商人が南部商人と5千ドルの取引をしたことを述べ、甚だ迷惑であるから、箱館奉行所に取締りの強化をして欲しいと要求した。柴田はその事件は配慮しているが、近日の内その消息もわかるであろうと告げた。最後にヴァイスは漂流船が松前に入った時、手厚く扱ってもらったことに対してお礼を述べた。柴田は互いに救助するのは勿論であると述べた。
 この会談からイギリスとは貿易摩擦が起こっていることとガルトネルに手をやいている様子がうかがえる。柴田の回答は苦しいものになっている。
 翌日、柴田は米館に招待されている。この時の対談内容は以下の通りである(51)。駐日箱館アメリカ貿易事務官ライス(E.E.Rice)は、柴田に絹糸の外国人への売込高をしたためたため、取替の証券を指し示したところ、書中には仙台南部そのほか諸侯には直に売買致すという文面で不都合だと思われるが売主の身元を糺してほしいと要求した。また、新規領事館の建設地についても話題を挙げた。柴田は、海岸地所については少々目論見があるとし、早急に返答はできないとした。恐らく海岸線は海防が絡むため、海岸の地所移転は難しいというのだろう。そして柴田は、この新築の入用は領事の方で出すのか、それとも政府の方で出すのか、と尋ねた。ライスはこれに対し、横浜表同様に右入用を差し出しても良いかと尋ねた。柴田は、何れにせよ地所のことは箱館奉行の進退にあることなので、相談をする方が良い、とした上で、不日奉行が各国領事たちと面会し何とか治定しようとしていると告げた。この日の対談は生糸の売主人の身元の問題と新領事館移転問題の2点であった。同4日、柴田は箱館の町の巡見を行った。
 同5日、柴田は「魯岡士対話記二冊を達控之分とも差立候」(52)と記し、この日、ロシア領事と2冊の談判書(2月28日、29日分)を取り交わしたことがわかる。更に、柴田は「今般当地立留魯岡士談判書記写し候分御使江遣し候積り一書を受致し監察江連も同写書差越ニ付、来而太左江測封いたし」(53)と記している。このことから、写しは江連にも廻ったことがうかがえる。
 同6日、柴田は「過日魯岡士一行江役ケ所割合銀江連より差越ス」(54)と記している。江連はロシア領事に割合銀を持ってきたことがわかる。ゴシケーヴィチは日本側から銀を借りて返さない状況が続いていたため、そこも日本側に指摘されたものと見られる。そして、「第一時より江連共之支配向一同魯館江行キ渠より申立候兌銀増額並居留地所之義返答およひ且欧州御使江之写書一封達方を頼ミ候帰途彼方之病院一見第四時過帰宿」(55)としている。ここで初めて池田使節団に関する記述が日記に登場する。明日、イギリス領事館やフランス領事館、アメリカ領事館に向かうという記述も有、柴田はロシア総領事を中心に現地にいる外国領事たちとも談判を進めようとしていることがうかがえる。この日、ロシアと最後の会談がなされた。柴田は、この辺りでそろそろ暇乞いさせてもらいたいと告げた。これに対し、ゴシケーヴィチは余りに早々すぎるが、「明後日御入来被下候はゞ、写真仕御覧の入度候」(56)と、明後日に来たならば、写真を撮影するとし、実際に写真撮影がなされる。柴田は文久使節団の際に写真撮影をしており、写真にも興味があったものと思われる。柴田は「忝は候得共、拙者共公務相済候上は、早々帰府の上復命致度候間、尚再会の期に譲可申候」(57)と述べたが、後述するように、柴田は写真撮影の後、箱館を離れることとなり、ゴシケーヴィチもその後まもなく箱館を離れ、帰国する。更に柴田は引替銀の件については「当所奉行と相談の上、当分の内定額引替高の上え、壱ヶ月五百弗宛相増候様取計ひ申候」(58)という約束を取り付けた。ロシアが箱館に来てから、引替銀の問題はずっとつきまとっていたようで一応、柴田の提示によって進展したこととなる。ゴシケーヴィチはこれに対し、感謝している。
 柴田は「縷々謝詞の趣了悉致候。外国々にては迚も周旋難出来義に候得共、過日も申入候通、魯国義は格別の国柄にて、以後情款懇切の義相望候間、右等の廉を以取斗候義に付、此上共我政府の為尚懇親尽力の義預所に候」(59)と、ロシアは格別の国柄であり、今後の懇親も期待できるので取計らってほしいと告げた。ゴシケーヴィチはまずイギリス領事は政府を欺いており、オランダ領事とポルトガル領事を兼任していると指摘し、信用が置けないと柴田らに語った。箱館にオランダ領事の資格を持ったものは確認できておらず、ポルトガル領事はデント商会の商人ハウエル(Alfred Howell)が勤めており、名誉領事であるとともに、イギリス系商社であるため、イギリスの影響を受けているのは当然といえよう。柴田はこれに対し、「只今英国岡士ワイスの義に付云々被申聞候へ共、右は横濱表在留の岡士等にも他国の岡士兼任致候もの儘有之候」(60)とし、一体この事例は公使から任命されているのか、それとも本国政府から任命されているのかと尋ねた。幕府も新政府もこの後、商人が領事になることについて、好ましくないと考えるようになっており、柴田はこうした問題に一早く情報を得ていたことがうかがえ、実際に外交交渉の場で尋ねていることがうかがえる。これに対し、ゴシケーヴィチは「其国在留のミニストル有之候へばミニストル選任致し、ミニストル無之候へば政府より選定致候義にて、夫も両国同意に無之候ては難出来既に魯国(に)於て支那香港の岡士相定候処、英国(に)於て不承知に付引替候例も有之、初て其国へ岡士差渡候節には、本国政府より岡士に選任致し差渡候趣書簡を以申入候義に有之候」(61)と領事任命システムについて、柴田にレクチャーしている様子がうかがえる。柴田はこれに対し、「左候得ば、英国岡士にて葡蘭岡(ママ)任致候は各其政府より任候義にて、若岡士不束に候はゞミニストルに掛合、ミニストル無之候はゞ本国政府え掛合可申遣候哉」(62)とゴシケーヴィチに確認している。ゴシケーヴィチはその通りだと返答している。柴田は更に質問を続け、「右掛合の節には岡士不束の廉々一々可申遣候義に候哉」(63)と確認をしている。ゴシケーヴィチは「廉々一々被申遣候迄には及不申、只今右様の岡士差渡置候ては両国の為不宜候間引替可申旨を以掛合候義に有之候」(64)と返答している。柴田は本国政府からの委任状を見せてもらっても問題ないかと問い合わせると、ゴシケーヴィチは問題のないことだが、最初に委任状を指し示すはずだと述べた。柴田は、改めてイギリス領事の兼任のことについて横浜のイギリス公使が承知しているのか、と尋ねた。ゴシケーヴィチは承知しているが、ロシアでは「尤魯国(に)於ては他国岡士兼任の義は不相成規則に有之候」(65)とロシアでは他国領事を兼任することは規則上認められていないと返答した。その理由は複数兼任すると、売り上げのことなど、どの国にくみするのかわからず曖昧になる可能性があるためだとした。即ち、ロシアは自国の利益を優先するため、他国の領事を兼務し、自国の利益に直接つながらない可能性のあるものについては認められないというのである。そこで、ゴシケーヴィチは柴田に領事委任状を指し示した。その後、柴田は今後ポルトガル領事にイギリスの商人が兼務する可能性があることを示すと、ゴシケーヴィチは本国から申し遣わされていれば問題はないと答えた。柴田は、商人の中にはけしからぬ行為をする者もおり、信用が置けないと主張した。ゴシケーヴィチはそういう者は何れ取締られるため問題はないとした。
 柴田は慶応元年に横浜製鉄所労働者雇用と機械購入のため、フランスを訪問した際に、日本領事としてフランス商人エラール(Paul Flury Hérard)をフランス駐日名誉領事に任命し、幕府にも許可をとるといった経緯がある(66)。この時のゴシケーヴィチとの対談が少なからず生きたということだろう。
 話は変わり、次に問題となったのは領事館移転問題である。移転場所の絵図面を柴田は借り受け、確認したが密貿易を防ぐのが難しいため、早急な返答は難しいと告げた。
 そして、朱書で「此以下進達ニ不及候事」(67)とした談判書が残されている。ここではまずゴシケーヴィチが息子ウラジミールに日本語の師範を付けてほしいと過去に村垣淡路守範正に述べた経緯を説明した。ゴシケーヴィチは日本を離れるが、息子を日本語勉強のため、日本に置いておけば、日本の情報が入手しやすくそういう狙いもあるのだろう。この点は、シーボルト(Philipp Franz von Siebold)が息子のアレクサンダー(Alexander Georg Gustav von Siebold)を日本に置いて行ったことに通じるところがあるのだろう。ゴシケーヴィチは更に「本国政府より日本語習業の為め四人の者さし越置候。御国政府よりも魯語習業のもの本国政府に御遣被成候はゞ、語学のみならず其政態迄をも御分り可相成されば多少の御都合にも相成可然御義と存候」(68)と交換留学生を持ちかけている。柴田はこれに対し、「拙者共(に)於ても可然と存候間、往々は魯語習業のもの差遣度候」(69)と返答し、柴田も非常にこの計画には前向きである。
 これは後に箱館奉行所付ロシア語通詞志賀浦太郎からも幕府に上申書が出されており、最終的には小出大和守秀実を正使とする樺太国境問題交渉をする使節団に留学生を連れてロシアを訪れることとなる。
 この日の会談はこれで終わり、ゴシケーヴィチの案内で病院を見て退席した。
 同7日、柴田は江連と幕府への報告の打ち合わせを行った。その後、イギリス領事館に向かっている。しかし、対話の内容を見ると対話をしているのは由比と小人目付で、柴田と江連はこの会談には立会って居ないようである。恐らく、柴田は会談をする予定だったが、急きょ予定を切り替えたものと見られる。ここで、イギリス領事ヴァイスと会談を行った。その内容は次の通り。
 由比が今日は「貿易上の事に付」(70)談判をしたいと申し出た。柴田は貿易が「直様長崎え差贈り候趣、就ては長崎の義は遥々の路程にも候間、当地え差越候様仕度、当地へ差越候と長崎へ差贈候とは、道路の遠近多少の相違にも有之、旁双方都合宜敷義と存候間、御帰府の上は政府へも御建言被下、左様相成候様仕度候」(71)と述べた。柴田は長崎の貿易を推進しているが、これは横浜鎖港をしても長崎は開いているから大丈夫であろうという考えもあったに違いない。更に、由比は「今日は兼て約束の事故、日向守義も是非面会可及処、江戸表より品々御用向申越、帰府も殊の外相急ぎ、就ては多少の調物等も有之に付、面会相兼、同人(に)於ても甚遺憾に存候へ共、無拠今日面会の義相断候処、被申立候義も有之に付、拙者にても面会致度旨被申聞候間、即罷越候義に付、尚被申聞度件々有之候はゞ可承候」(72)と述べた。柴田が面会の場に現れなかったことに対して釈明を行っていることがわかる。これに対して、ヴァイスは「日向守様へ御面会不仕候は遺憾存候得共不得已義に候。左候へば御用向御申越と申は何事に候哉、諸藩へ関係の義に候哉」(73)と、柴田に面会が出来ないことは遺憾に思うが、何の用事で来たのかと由比に問い合わせている。
 由比は「左様の義には無之候へ共、急ぎの御用向品々出来候に付、無拠同人面会相成兼候事に候」(74)と述べた。再び柴田が面会できない旨を述べたようである。これに対し、ヴァイスは「前申上候義は書面にも認置候間、篤と御建言被下度候」(75)と、前の会談の内容は書面にとってあるので、篤と話し合いましょうと述べた。そして書面を差し出して、ヴァイスは続けて「右書面はミニストルえも差贈候間、御持参の上宜敷相願候」(76)と、書面は公使(代理公使ニール)にも差し送っているので、御持参のをしていただきたいと申し出ている。由比はこれに対し、「当港の義は当所奉行え相談可及、尚其上の処は日向守帰府の上にも建言致可申と存候」(77)と、回答をはぐらかしている様子が見受けられる。これに対し、ヴァイスは「金川表(に)於ては商人取引の節前金不相渡候との事に治定相成居候義は御承知に候哉」(78)と、神奈川において商人取り引きの際、前金を渡していないという取極めは承知しているとした。由比はこれに対し、「右は承及候義も有之候へ共、同表は主役に無之候間、と相心得不申候」(79)と回答した。ヴァイスは柴田がすでに理解していることで、前金を渡して様々な問題となるので、神奈川同様の振り合いで箱館でもやってほしいと告げた。由比はもともと商売は相対で、政府や役人が携わるものではないとした上で、政府でも検討すると告げた。ヴァイスは「アールコツク佛国公使共相談の上、執政方へ申上の上、右様取極相成候間、同様相願度候。右は一八六一年十月十二日取極候事に候」(80)と述べた。このことは、オールコックとフランス公使ベルクールと相談の上、老中へ申し上げ、取極めてもらうようお願いする。そして、1861年の取極めは現段階で確認ができない。由比はこの件については、篤と柴田と話し合うように促した。ヴァイスは「前金不相渡約定相成候共、約定通り不参候ては矢張双方の手数に付左様無之仕度候」(81)と、前金を渡さないと云う約束も守られていないのでは意味がないとしている。由比は「既に南部商人生糸の義に付差縺れ等も有之由故、左様相成候はゞ右等の差縺れは有之間敷、都合可然と存候」(82)と、南部商人の件について、都合然るべきと存じ候とだけ答えている。この時、通弁名村五八郎が書面を見て、大意を述べた。名村は「前金不相渡義は、岡士館觸書にて則日本商人より金子不請取内品物相渡候共、品物不請取内金子相渡候得共、左様の事にて差縺れ候義有之節は訴出候共、岡士(に)於ては不取上候事」(83)と、日本商人から金子を受け取らず品物を渡し、品物を受け取らず金子を渡したら訴え出て、領事館では取上げないようにという考えを述べた。名村の一文は朱書きであり、名村個人の見解が入っていると見られる。ヴァイスは「何れともアールコツクより岡士え達しにて夫より商人相触候義に御座候」(84)と、オールコックから領事へ達してそれから商人に触れを出すとした。由比は「右は政府より日本商人え触置候よりも、外国商人方にて前金不相渡品物取引相成兼候自国商人と約定不致候はゞ差支無之事と存候」(85)と、政府から日本商人へ触れるよりも外国商人の方で気をつけて商売をすれば問題ないとした。ヴァイスは箱館でも長崎屋・山田屋は豪商であり、「何れも前金無之ては取引不仕候故、既に昨年中山田屋壽兵衛と取引の義に付差縺れ出来候義も御座候」(86)と述べた。日本商人とのいざこざが相ついでいる様子を伝えている。由比は詳しくは柴田へ申し出るよう述べた。また、由比は2、3日前オールコックが神奈川へ到着したが、噂に成っている事件はないのかと尋ねると、ヴァイスは貸渡地の件については早速話し合いが持たれるだろうと述べた。この地所については、由比は柴田から箱館奉行と会談を行ったと返答し、ヴァイスは箱館が江戸から見ると、隔絶の地なので早々に検討して欲しいと述べた。由比は承知したと告げた。
 今回の話し合いはガルトネル事件が大きく関係しており、日本の貿易のあり方の見直しがなされている。
 更に、箱館奉行小出に招かれて柴田と江連は宴会に招かれている。この日、ゴシケーヴィチから柴田らに贈品が届けられている(87)。
 同8日、柴田は「江連より文書を以時魯より此方同品贈り越候申来ル同しく受納之積り返書を遣す」(88)と記している。前日のゴシケーヴィチからの贈品に対して、受納したことを伝える返書を送っている。更に、「本日魯館尋問可致左も無之候へハ今ハ閑段無拠之積り申遣ス」(89)と記している。ロシアとの対談がなければ、意味がないと感じている。また、柴田は「本日魯館尋問之ため同岡士より浦太郎を以聞合ニさし越ス前書之趣を以程能申入願様談じ遣ス」(90)と記している。ゴシケーヴィチは通詞の志賀浦太郎を遣わして前書の通り談判するとしている。その後、フランス領事がやってきて名刺を提出したようである。更に、柴田は「魯並英岡士太左衛門談話記貮冊詰甚相来(後略)」(91)と記し、談話書が2冊送られてきたことがうかがえる。そして、「陣右衛門来リ魯館之行止を願聞合遣す」(92)と記している。陣右衛門なる人物からロシア領事館に行かないよう告げられたことがうかがえる。
 同9日、柴田は名村五八郎、平山謙二郎や小出秀実ら箱館奉行衆に別れを告げている。また、由比に船の調達を命じている。そして、柴田は「魯館江告別ニ行く。写真具を設ケ直一郎之写真を乞ふ。第二時此より五時頃迄談話夫より又々江連同行鎮臺江告別ニ行く」(93)と記している。この日、柴田はゴシケーヴィチに別れを告げ、箱館奉行をつとめた竹内下野守保徳と共に箱館に渡って以来、箱館に住んだ勘定奉行普請方庵原菡齋長男庵原直一郎時敬と思われる人物に写真を撮影してもらったようである。また、柴田のもとに志賀浦太郎が来てサンクトペテルブルグに留学生を派遣する計画を打ち明けている(94)。ただし、この写真は現在どうなっているのかわからない。
 同10日、柴田は「魯館兌銀増額之義箱館方江直之義聢与申談」(95)とし、ロシア領事の求める兌換銀に関しては箱館奉行に任せることにしたことがうかがえる。そして、この日、柴田らが乗船する船が決まり、亀田丸で帰ることとなった。亀田丸は文久元年に武田斐三郎を中心として箱館奉行所が単独でアムール地域を調査した船である。
 以上のことから、柴田の交渉は次の時代を見据えたものとなっていることがうかがえる。それは、ロシアとの交渉の中から、樺太国境画定交渉や留学生派遣などの政策が実現するところにあるといえよう。

3、柴田らの帰府

 柴田らは元治元年3月10日、亀田丸で箱館を出港した。翌日には、青森に到着している。
 同12日、由比太左衛門がロシア領事館の兌銀増額案に関する書類を届け(96)、翌日、柴田のもとに届けられた。同14日から同21日まで青森に滞在した。同21日朝、青森を出発し、小湊を経て野辺地まで陸路を使用している。同22日、天椅館(天間館)を経て、七戸へ至る。同23日、藤島を経て五ノ戸(五戸)へ至る。同24日、浅水を経て三ノ戸(三戸)に到着。同25日、金田市を経て一ノ戸(一戸)へ至る。同26日、小繋を経て沼宮内へ至る。同27日、渋民から森岡(盛岡)へ至る。同28日、郡山から花巻へ到着、同29日、黒澤尻から水澤を通過。同30日、一ノ関(一関)から金成に至る。
 4月1日、高清水から三本木を経る。同2日、吉岡へ至る。同3日、塩竃(塩釜)から國部町へ出ている。同4日、岩沼から大河原へ至る。同5日、白石から桑折へ到着。同6日、福島から二本松に至る。同7日、郡山から須賀川に到着。同8日、矢吹から白坂へ至る。同9日、鍋掛から太田原に到着。同10日、氏家から雀宮に至る。同11日、小山から栗橋を通過した。同12日、粕壁(春日部)を経て草加に至る。同13日、江戸に到着。行きと同じ道を通りながら宿場は一部変更されている。往復の限りを見ると、柴田は外交官として箱館に向かったので、船の利用を認めてもよいはずだが、実際にはそうはなっていない。この段階では、将軍上洛等に伴い、大坂へ向かう船は出ていたものの北へ向かう船の整備はなされていない。このことから幕府海軍の輸送船等の航路は初期の段階では極めて限定的にしか機能しなかったことがうかがえる。
 同14日、柴田は江戸城に登城し、老中板倉周防守勝静に面会し、報告を行っている(97)。この時、柴田は板倉へ「私儀箱館表より帰府仕候ニ付、御序の段御目見仕度、此段奉願候、以上」(98)と申し出ている。恐らく、この前後だと思われるが、柴田と目付江連は江戸城白書院縁頬替席で老中井上河内守正直らが列座して、「箱館表御用仕廻罷帰候」という理由で謁見し、更に外国奉行支配組頭由比が芙蓉間替席で老中井上と若年寄が列座して右同様の理由で謁見を行なっている(99)。
 同16日、柴田は箱館イギリス領事から江戸の総領事宛の品物を届けた(100)。
 同22日、柴田は「箱館御用ニ而受取候御朱印長持御用成物長持二棹本日御細工所江返納」(101)と記し、箱館に持って行った長持を返却している。恐らく、作事奉行に元箱館奉行で外国奉行もつとめた村垣淡路守範正がいたことから彼の忠告等も柴田にはあったのではないかと推測される。
 同26日、柴田は「箱館江召連し中小性着用品一式何レも受領せし度段」(102)と記し、この日、箱館に連れて行った小姓たちの着用品が返って来ていない状況がわかる。
 5月7日、柴田は「大和守殿東下貿易品定限之御談判せしよりて風評傳聞出り」(103)と記している。政事総裁職松平大和守直克が京都より戻って来て貿易品を定限する談判があったという噂が出たことをつかんでいる。
 同12日、柴田は「出殿大和守殿金川鎖港御用守立御取扱並生糸・繰残油輸出禁止談判筋評議等之儀三七衛門一同江御談せし」(104)と記している。松平直克は横浜鎖港に関して、前日の貿易統制の話をしたことがうかがえる。よって柴田のつかんだ情報は正確であった。同13日、柴田は「出殿時御談之儀同役評議之趣御直ニ申止る」(105)と記している。続いて、同役(外国奉行)で評議はすぐにとめられた。同15日、柴田は横浜に出張するに当たり、竹本隼人正雅に随従するよう老中板倉周防守から達せられた(106)。同16日、柴田は「第十一時過金港着程なく隼人正着合宿也」(107)と記しており、横浜に到着したことがわかる。それから、まず運上所に向かい英仏と長州について話し合いを行ったほか、アメリカ仮公使館(善福寺)焼失に付、談判を行っている(108)。
 同17日、柴田は運上所でフランス新公使ロッシュ(Léon Roches)と話し合ったほか、イギリス公使やプロイセン公使ブラント(Max von Brandt)とも会っている。
 11月26日、外国奉行竹本淡路守正雅・同菊池伊予守隆吉・同田村肥後守直廉・同柴田日向守・同星野備中守千之・同江連加賀守堯則・同井上信濃守清直は箱館在中ロシア総領事ゴシケーヴィチに対して、「(前略)當春柴田日向守并江連真三郎事加賀守、目付勤役の節其地え被差遣、其許え面晤の砌貴國其外國々え使節差遣候ニ付、周旋方等の儀頼入御引會の次第も有之候處縷々懇談の様も有之、然る処其後我國の景況一変し、右使節は被差上候事ニ相成我事務執政より其許え書翰差遣候、右は兼て懇談の趣も有之候間、拙者方よりも前文の様申入候(後略)」(109)と、ロシアに使節を派遣することを中止する旨を伝える書簡を送った。使節が実際に派遣されるのは慶応2年(1866)のことである。

むすびに

 柴田剛中は文久使節団に参加し、その功績も認められ、箱館に派遣された。ロシアは箱館に拠点を置く唯一の国だった。柴田はロシア総領事ゴシケーヴィチとの会談を経て、横浜鎖港を促したほか、ガルトネル事件等についても談判を行った。
 ロシアとの会談で重要な点はすでにこの段階で留学生派遣の件が話されていたことである。これは後の小出使節団、及び留学生派遣につながることであり、柴田との談判が幕府政治に着実に結びついた点である。
 また、この時、柴田は写真を撮影したが、この写真は現在行方がわかっておらず、この写真が今後どのような形で見つかるのか、注目される。
 柴田が外国奉行となって行った初の外交交渉は、日本の方針を説明しながら、ロシアの要求も容れるというようにバランス感覚に優れていたことがうかがえる。また、柴田個人はロシアとの強い結びつきを持つ出来事になったといえよう。それは柴田が横須賀製鉄所の機械購入に当たり、ロシア製の器械を導入すべきであると主張したこと(110)からも明らかといえよう。
 以上のことを踏まえると、柴田はどちらかというと、「親露派」の幕臣であったといえよう。また、柴田がロシア総領事にも横浜鎖港の件について理解を求めに行ったことは少なくとも徳川幕府が条約締結国に対して、協調外交を行おうとするものであり、横浜鎖港そのものは政策としては失策といえるが、協調外交を行おうとした姿勢は評価できよう。


(1) 文久使節団については、拙稿、「文久竹内使節団の人選過程について」(『東海史学』第43号 2009年)、同「文久二年の竹内使節団によるフランス訪問の意義について」(『開国史研究』第10号 2010年)、同「竹内使節団のプロイセン訪問の意義について」(『湘南史学』第20号 2011年)、同「文久二年の竹内使節団のオランダ訪問の意義」(『湘南史学』第21号 2012年)、同「文久竹内使節団のイギリス訪問の意義」(『湘南史学』第22号 2013年)を参照していただきたい。
(2) 『続通信全覧』類輯之部三四、770頁
(3) 柴田剛中『日載』五(『柴田剛中文書』九三 神戸市文書館所蔵)
(4)(5)(6)(7)(8)(9) 前掲、『日載』五
(10) 「魯西亜外国事務執政宛幕閣連名書簡写」(『柴田剛中文書』一四八 神戸市文書館所蔵)
(11)(12) 前掲、「魯西亜外国事務執政宛幕閣連名書簡写」
(13)(14) 前掲、『日載』五
(15) 「柴田日向守為御用従江戸奥州筋箱館迠人馬可出旨宿次証文」(『江戸城多門櫓文書』多041676 国立公文書館所蔵)
(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27) 前掲、『日載』五
(28) 「柴田日向守箱館行御用留(抄)」(『函館市史』史料編第一巻 1974年)、828頁
(29) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、829-830頁
(30)(31)(32) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、830頁
(33) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、830-831頁
(34)(35)(36) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、832頁
(37) 伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』 吉川弘文館 2009年 243-246頁
(38)(39) 前掲、『日載』五
(40) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、834-836頁
(41)(42)(43)(44) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、836頁
(45)(46)(47) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、837頁
(48) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、837-838頁
(49) 前掲、『日載』五
(50) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、840-842頁
(51) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、842-843頁
(52)(53)(54)(55) 前掲、『日載』五。
(56)(57)(58) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、843頁
(59)(60)(61)(62) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、844頁
(63) 前掲「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、844-845頁
(64)(65) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、845頁
(66) 柴田のフランス派遣のいきさつとフリューリ・エラール任命の件については、拙稿「柴田使節団の派遣と任務、及び帰国後の動向について」(『開国史研究』第12号、2012年)を参照。
(67) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、847頁
(68)(69) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、848頁
(70)(71)(72)(73)(74) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、849頁
(75)(76)(77)(78)(79)(80)(81)(82)(83)(84) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、850頁
(85)(86) 前掲、「柴田日向守箱館行御用留(抄)」、851頁
(87)(88)(89)(90)(91)(92)(93)(94)(95)(96)(97) 前掲、『日載』五
(98) 「箱館表ヨリ帰府仕候ニ付御目見奉願候書付」(『江戸城多門櫓文書』多015702 国立公文書館所蔵)。
(99) 「箱館表御用仕廻罷帰候外国奉行柴田日向守・御目付江連真三郎於芙蓉間謁候儀ほか書付」(『江戸城多門櫓文書』多702372 国立公文書館所蔵)。
(100)(101)(102)(103)(104)(105)(106)(107)(108) 前掲、『日載』五。
(109) 「横浜鎖港一件」『続通信全覧』類輯之部一七 貿易門 140頁。
(110) 前掲、「柴田使節団の派遣と任務、及び帰国後の動向について」で筆者は柴田がロシア製の器械を横須賀製鉄所に入れることを提議していることを明らかにした。

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号 史料紹介