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松前で馬場佐十郎を想う

2015年2月16日 Posted in 会報

河元由美子


 履きなれない長靴でぬかるみに足をとられないように一歩一歩足と踏みしめながら15人の一行が黙々と雨もよいの林道を歩いて行く。函館日ロ交流史協会と石巻若宮丸漂流民の会のメンバー一行は、松前教育委員会の前田氏を先頭に同会学芸員佐藤氏と女性職員がしんがりを務め、前後を守られ、一列縦隊で歩を進めた。行先はゴロヴニン一行が脱走を図り、あえなく発見され連れ戻された後に収監された牢屋跡、人里離れたまことに辺鄙な場所だった。そこへたどり着くにはアップダウンの激しい狭い林道を歩き、小さな流れにかけられた木の橋をわたり、崖をよじ登り、滑らぬように木の枝をつかみ、あるいは手を引っ張られ、サバイバルゲームのような道のりだった。ようやく少し開けた平らな場所に着き、前田氏、佐藤氏のハンドマイクを通した説明に聞き入る。
 道々、この道を馬場佐十郎は通ったのだろうか、と考えていた。『日本幽囚記』を読んで確かめなければならない。両氏の説明により、『日本幽囚記』に記されたゴロヴニンの手記で地形や松前城よりの距離を推し量り、現在バッコ沢といわれるところがその牢屋跡であると確認されたことが分かった。建物を支える礎石から見てあまり広い牢屋とは思えない。そして今、我々はその場所に立っている。
 馬場佐十郎、この若き語学の天才は幕命により松前に収監されているロシア人から直接ロシア語を学ばんと、天文台の足立佐内とともにはるばる江戸から二百数十里の道をやってきた。松前に来る以前、佐十郎は既に大黒屋光太夫よりロシア語の手ほどきを受け、『東北韃靼諸国図誌野作雑記訳説』や『帝爵魯西亜国交易篇』の翻訳書を完成させている。両書はロシアや蝦夷地など北方領域の研究報告書であり、彼のこの地域に関する知識は十分あったと考えられる。しかし彼は直接ロシア人からロシア語を学んだわけではなく、今回の松前出張はまたとない生きたロシア語勉強のチャンスであった。彼の期待はいかばかりか想像に余りある。
 馬場佐十郎、名は貞由、字を職夫、号は穀里、天明7(1787)年3月、長崎の資産家、三栖谷敬平の子として生まれた。兄為八郎はもともと通詞の家柄ではなく、通詞株を買って蘭通詞になり、馬場姓を名乗るようになった。彼は実子がいなかったので、18歳年下の弟佐十郎を養子にした。文化元(1804)年レザノフが日本の漂流民を連れ、交易を求めて長崎に来航し、国書を提出したが、その答礼の蘭文国書を作成したのが馬場為八郎と石橋助左衛門だった。その際、ロシア人接見の場に佐十郎もいたので、この時初めてロシア人を見たことになる。しかし露艦の中にオランダ語を話す者がいたので、用いられたのはオランダ語だった。
 18世紀末から19世紀前半になると日本に来航する異国船が増える。寛政4(1792)年のラクスマンの根室来訪、寛政8(1796)年の英人ブロートンの絵鞆(室蘭)来訪、享和3(1803)年の米船長崎入港など、異国船が頻繁に日本にやってくるようになると、オランダ語だけでは対応できなくなり、幕府は仏、露、英語の学習を蘭通詞たちに命じた。文化4(1807)年2月、オランダ商館長、ヘンドリック・ヅ―フの下に石橋助左衛門、中山作三郎、楢林彦四郎、本木庄九郎、今村金兵衛、馬田源十郎の6人がフランス語学習のために送られた。一方、同年7月、馬場為八郎と名村多吉郎が江戸に召され(佐十郎も同行)、ロシア事情調査を命じられた。翌5年3月には蝦夷地出張を命じられ、松前に到り、露寇事件(フヴォストフらの樺太、エトロフ、利尻襲撃事件)の後始末をした。
 文化5(1808)年3月、佐十郎は22歳の若さでその能力をかわれ、江戸天文台御用に抜擢され、高橋景保を援けて地誌御用を務めるようになった。
 文化6年2月、幕府は本木荘左衛門、馬場為八郎、岩瀬弥四郎、末永甚左衛門、吉雄六次郎、馬場佐十郎に命じて英、露語の兼学を命じた。前年のフェートン号の長崎入港狼藉事件の対応と見られる。蘭語の他に、仏、露、英語の学習が本格的に始まったのである。
 馬場佐十郎に話を戻そう。彼のオランダ語学習は、養父為八郎の指導に始まることは前述のとおりだが、彼には2人の師がいた。一人は商館長ヅ―フで、佐十郎はネ―ティブ・スピーカーよりオランダ語を学んだ。ヅ―フは佐十郎を「すこぶる俊秀な青年」と呼び、頭脳明晰で学究的な佐十郎を愛し、彼にAbrahamというオランダ名を与えた。ヅ―フの日記にも1808年の佐十郎の江戸行き、1810年江戸参府の際、江戸で会ったこと、1813年3月に佐十郎が松前に出張したことが記されている。
 もう一人の師は、ケンペルの『日本誌』の翻訳で知られる「鎖国論」を書いた旧蘭通詞、志筑忠雄(中野柳圃)である。志筑は病身を理由に通詞役を退き、蘭語文法を本格的に研究し、『蘭語九品集』を著わした。のち、佐十郎が『訂正蘭語九品集』を著わしており、彼こそ師のオランダ語の造詣の深さを立派に継承したと言えるだろう。志筑は天文暦学などにも精通しており、星雲説を説いた。さらに彼はロシアにも関心があり、ロシアと清国の国境問題にかかわる「ネルチンスク条約」(1689年)をめぐるロシア使節の記録を「二国会盟余録」として文化3(1806)年に翻訳している。佐十郎はこのころからロシアに興味を持ったのかもしれない。
 では、佐十郎とロシア語との接点はどこにあるか。レザノフの長崎来航時が初めてであったろう。文化6年に露、英語学習を命じられた時の学習方法はさだかでないが、最もロシア語に近づいたのはゴロヴニンの書翰の翻訳を命じられた時である。即ち、文化8年5月にゴロヴニン一行がクナシリで捕縛された際、副館長リコルドが樽に入れて海に流したゴロヴニン宛ての手紙である。日本人は誰一人この書が読めず、ゴロヴニン自身に渡し、松前奉行同心になっていたアイヌ人の上原熊次郎が和訳したものだった。幕府はその正否を佐十郎に問うたが、佐十郎のロシア語はまだ不十分だったので、彼は大黒屋光太夫から習った数少ない単語をロシア文に当てはめ、大変な苦労の末、なんとか文意を判読した。内容は「今は帰帆するが、来年皇帝の許可を得て救出に来る」というもので、それは参考に送られてきた熊次郎の和訳がほぼ正確であったことを示している。その手紙はゴロヴニンに戻され、不明な個所を彼に質したが、その筆跡があまりにも書きなれた美しい文字だったので、ゴロヴニンはてっきりオランダ人が書いたものと判断し、オランダに対する不信感から返事を曖昧にした。
 この時以来、佐十郎は真剣にロシア語文法の研究と正確なロシア語辞書の作成を進言した。彼は2年ほど光太夫に師事しロシア語を学んだが、それは正規の学問ではなく、いわば聞き覚えのロシア語だったので、その程度では文書が読めず、書くにも限界があると感じていたのだ。佐十郎の学究意欲はロシア語文法書の作成へと高められていった。だから松前出張は彼にとってまさに好機到来であったはずだ。既に松前のゴロヴニンには村上貞助がロシア語を学んでいたが、貞助、熊次郎、佐十郎が如何に熱心にロシア語を学んだかは『日本幽囚記』にゴロヴニン自身が書いているので詳述しない。ゴロヴニンは特に佐十郎の真摯な学習態度に好感を抱き、彼の為に文法書を作ってやろうと決めた。ゴロヴニンは資料となる書物を持っていなかったので、自分の記憶から出来るだけ実用的な文例を考え出し、佐十郎に与えた。佐十郎はそれを翻訳して『魯語文法規範』を作成する。その外に彼の著書として、約1200語の日露対訳語彙集『魯語』がある。佐十郎はこのほか、ペテルブルグ版の「牛痘接種について」というロシア語の小冊子を訳しており、『遁花秘訣』として完成させたのは文政20(1820)年だった。
 松前のゴロヴニン幽囚跡地への道で考えたこと、この道を馬場佐十郎は通ったのだろうか、という疑問は筆者の思い違いで、佐十郎がゴロヴニンに会ったのは、この牢屋から前収容された松前藩士の屋敷だったことが『日本幽囚記』でわかった。
 つけたしになるが佐十郎は英語にも実力を発揮した。文政元(1818)年、浦賀に通商を求めて入港した英船、ブラザース号の対応には、江戸より馬場佐十郎、足立佐内が駆け付け、文政5(1822)年、再び浦賀に英船サラセン号入港の際も上の2人が出向、文政7(1825)年、常陸大津浜に英船が現れた時は、足立佐内と岩瀬弥四郎が出張している。英語での対応に大きく貢献したのは彼の作成した「訳詞必要・諳厄利亜語集成」と「諳厄利亜語・忽児朗土誤集成」という通詞必携書である。異国船対応の際、通詞が必要とする最小限の文例を載せた英蘭会話に日本語を付した書で、その後極めて利用度が高かった。前者は日本学士院に、後者(写本)は京都大学附属図書館に所蔵されている。
 フランス語にも長けていた佐十郎はその知識をゴロヴニンにロシア語を習ったときに媒体語としている。蘭、仏、露、英語を使いこなした佐十郎は通詞として学者として翻訳者として終始多忙を極めた。そのせいか、36歳の若さで病没してしまう。今風に言えばまさに「過労死」ではないだろうか。「穀里馬場生(馬場佐十郎)之墓」は東京都杉並区の宗延寺にある。

主な参考文献
片桐一男「幕末における異国船応接と阿蘭陀通詞馬場佐十郎」『海事史研究』10号 日本海事史学会、1968
平野満「馬場佐十郎のロシア語書翰和解――ゴロヴニンへ就学以前――」『駿台史学』89号 駿台史学会、1993
杉本つとむ「馬場佐十郎――天才的ポリグロット」『ドラマチック・ロシア・イン・ジャパン』Ⅱ 生活ジャーナル、2012

「会報」No.35 2013.12.7 松前研修会報告