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小島倉太郎の遺品にみるその足跡 ―クリルアイヌの強制移住と北海道物産共進会―

2015年2月16日 Posted in 会報
大矢京右・遠峯良太

はじめに
 小島倉太郎(1860-1895)は、明治初年の北海道でロシア語通辞として活躍した役人であり、1881(明治14)年に開拓使に奉職してから1895(明治28)年に死去するまで、クレイセロック号捜索*1をはじめ、ロシア語を必要とされる局面において数々の功績を残している。
 本稿では、小島が通訳として立ち会った千島樺太交換条約締結に伴うクリルアイヌ*2のシコタン島への強制移住(1884年)と、その後函館でクリルアイヌと再会する契機となった北海道物産共進会(1886年)について*3、市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』および北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』ならびに北海道大学附属図書館所蔵『北海道庁露語通訳小島倉太郎資料』のほか、当時の函館新聞などの関連文献をとおしてその足跡をたどったものである*4。  なお、本稿掲載のロシア語訳については遠峯が担当し、それ以外の文章および編集については大矢が担当した。
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<小島倉太郎(1884年撮影)(市立函館博物館所蔵)

千島樺太交換条約
 1875(明治8)年、日露間で千島樺太交換条約が締結され、それまでエトロフ島・ウルップ島間に設定されていた日露国境がカムチャツカ半島南端・シュムシュ島間となり、全千島列島が日本領となった。そして元来北部千島に居住していたクリルアイヌには、千島樺太交換条約附録第4条に基づき、1878(明治11)年までに日露いずれかの国籍を選択することが課せられたのである。
 1878(明治11)年8月4日、クリルアイヌに対する物資供与と国籍選択の確認を行うべく、開拓使八等出仕の井深基が汽船玄武丸にて函館から根室を経由してシュムシュ島へ向かった。そして同月12日にシュムシュ島へ到着した井深による意思確認に対し、生まれ育った土地を離れたくなかったクリルアイヌは日本国籍を選択している。
 なお、この巡航では、イギリス人地震学者MILNE,Johnと函館の写真師井田侾吉*5が同行しており、特に井田はクリルアイヌの生活文化やシュムシュ島の風景などを写真に収めている。井田自身、このときは悪天候のためにあまり写真が撮れなかったことを帰函後の函館新聞で述懐しているが、ここで撮影された写真はシコタン島へ強制的に移住させられる前のクリルアイヌの様子を撮したものとして、非常に稀少価値の高いものである。
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井田撮影のクリルアイヌの写真(1878年)(市立函館博物館所蔵)

クリルアイヌのシコタン島強制移住と小島の出向
 井深による国籍選択確認の後、1879(明治12)年と1882(明治15)年にも物資供与のためにシュムシュ島へ開拓使が巡航するが、いずれの場合においても、クリルアイヌに対してエトロフ島かその近傍への移住が打診されるようになる。これについては表向きシュムシュ島への巡航にかかる経費を軽減することや、より温暖な南方へ移住することによって一層手厚い「撫育」を施すことが目的とされているが、実際は緊張の高まりつつあるロシアとの国境地域にロシア文化を受容したクリルアイヌを住まわせておくことへの憂慮が覗われる。これらの申し出に対してクリルアイヌはいずれも固辞しており、業を煮やした政府は強制的な移住へと舵を切るのである。
 1884(明治17)年6月10日、函館県のロシア語通訳小島倉太郎に対して「御用有之根室県出張申付候事」の辞令が下され、同月16日に尾張丸で来函した参事員議員安場保和らとともに、同月22日16時に汽船函館丸で函館を出港した*6。襟裳岬沖を通過した船は25日11時に根室に入港し、本町に止宿した翌日の出港を試みるも、濃霧のために停泊を余儀なくされる。そして湯地定基根室県令も加わった小島一行は、翌27日6時15分に根室を出港した後、エトロフ・クナシリ海峡を通過してさらに北上、30日17時にようやくカムチャツカ半島と目と鼻の先にあるアライド島に到着したのである。
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明治十七年六月十日付函館県辞令(市立函館博物館所蔵)

 翌7月1日4時40分にアライド島を抜錨した後、同日8時40分にシュムシュ島チボイネ港に投錨した小島一行の元へ、クリルアイヌの首長アレキサンドルが函館丸の元へ舟で訪ねて来、歓迎の意思を表した。そして一行は13時30分にシュムシュ島に上陸し、小島は同行した赤壁次郎、吉田政明とともに戸口調査を行うとともに、人員調査を行っている。こうして具体的な話の無いまま一行は21時には帰船し、初日を終えている。
 翌2日、クリルアイヌに対する給与品が揚陸され、日がな一日給与品の配布が行われる。その合間には、小島を通訳としてアレキサンドルに対する聞き取り調査が実施され、クリルアイヌの生活の様相やシュムシュ島の風土などが記録されている。この日の作業は21時には完了するが、クリルアイヌに対しては翌3日に一同集合するよう指示が与えられた。
 1884(明治17)7月3日、この日がクリルアイヌの運命の日となる。給与品の礼に訪れたアレキサンドルに対して、湯地県令は「我国ノ内地ヲ一覧」するよう誘いかけた。家族を残してはいけない旨返答するアレキサンドルに対して、湯地県令は更に「家族又ハ其他共挙テ内地ニ行ク」ことはどうかとたたみかけ、答えに窮したアレキサンドルが「一同へ協議セサレハ御答申兼候、然シ私ニ於テハ家族ト共ニ行ク事ナレハ差支無之候」としたのに乗じて、クリルアイヌ全員のシコタン島への移住へと論点をすり替えていったのである。事実上この日のみでクリルアイヌのシコタン島移住が決定し、小島と吉田らは集落で家財道具の量を点検。最後まで頑強に移住反対であった副首長ヤコフ=ストロゾフは和人の幕営に連れて行かれて「説諭」され、午後には移住の準備に取りかかることとなった。既にシュムシュ島へは帰れぬことを悟ったのか、クリルアイヌは連れて行くことのできない犬たちをことごとく撲殺している。当時のクリルアイヌの様子については、その場に立ち会った政府側の人間である安場保和も「縣令懇諭の誠切なるに感ずる所」あるとしながら「老人は稍愁眉の態ある」【安場保1884(1931):49】とし、娘婿の安場末喜も「今回ノ移住ハ土人ニ取リテハ非常ナル事件ニテ容易ナルコトニアラズ。然レドモ果断ノ気象ト日本人ヲ信ズル処ヨリ、遂ニ意ヲ決シ、為事非常ナル英断ヲ為セリ。然レドモ流石ニ故郷ノ事ナレバ老人女子ノ如キハ流涕スルモノアリ」【安場末1884(1931):59】と述懐している。
 函館丸への家財道具積み込みが全て完了したのは、7月5日の16時である*7。同日17時30分には天幕の片付けも終わって全員が乗船し、翌6日15時にシュムシュ島チボイネ港を出港するという、まさに駆け足の撤収作業であった。同月9日にエトロフ島の紗那港と振別港に寄港した後、同月11日の7時20分にシコタン島に到着したのであるが、すでにこの時、後の民族の運命を暗示するかのように、複数のクリルアイヌが体調の不良を訴えていた。
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同行した根室県医員矢野大四郎(市立函館博物館所蔵)

シコタン島での生活と根室での別れ
 シコタン島に到着した一行は、取り急ぎ天幕を張って病人と子供を収容し、家財道具と給与品の揚陸作業に取り掛かった。作業は順調に進捗し、正午には作業が完了。酒宴が開かれた後、18時45分には通訳の小島、根室県医員矢野大四郎、根室県勧業課吏員赤壁次郎以外の役人全員が函館丸で帰根した。7月12日から14日までの3日間については確かな記録がないが、7月15日から19日までの間、小島と赤壁は集落建設地を決めるべく、クリルアイヌを引き連れてシコタン島内の巡検を行うとともに、漁業を試行している。その上でシコタン島北東部に位置する斜古丹湾岸が居住地として最適と判断され、同地の測量と道路工事が開始された*8。そして8月16日には根室県勧業課出張所が開設されるとともに根室県から大工1名と人夫6人が派遣され、集落の建設は急ピッチで進んでいったのである。おそらく移住したばかりの日本語の不自由なクリルアイヌにとって、ロシア語の堪能な小島の存在は欠かすことのできないものであったことは想像に難くない。なお、小島在島中の8月6日には、クリルアイヌの児童8名が根室の花咲学校に入学している*9。
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小島・矢野と根室花咲学校入学のクリルアイヌ子弟(1884年8月24日撮影)

 8月18日、根室県勧業課吏員の鈴木七郎が出張所に赴任してきたことにより、長かった小島の根室県出張が終わりを迎える。翌19日に矯龍丸で根室に戻った小島に対して、その功績大なるを認めた根室県は、22日に文書「御用義有之候条礼服着用即刻出頭可有之候也 十七年八月廿二日 根室県庁 小島倉太郎殿」で小島の登庁を促し、同日「千島巡航中格別勉励ニ付」「慰労金弐拾五円」を下付している。小島は24日に根室を離れるが、この際には根室県医員矢野大四郎と花咲学校に通うクリルアイヌの子弟らと記念撮影し、矢野からはポートレートをもらい受けている。
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明治十七年八月二十二日付根室県文書
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明治十七年八月二十二日付根室県辞令(いずれも市立函館博物館所蔵)

帰函と投稿・資料寄贈  8月26日に函館に戻った小島は、千島行の顛末についてかねてより記事投稿の約束を交わしていたロシアの隔週刊紙『Владивостокъ』へ9月10日に投稿した。この記事は10月14日発行の同紙1884年42号の5面から6面にかけて掲載され、クリルアイヌの(強制)移住について広く国内外に知らしめるものとなった。ちなみに、小島自身は12月1日に同紙を入手している*10。
 また小島は、クリルアイヌから入手した彼らの鎌と雪眼鏡を9月30日に函館県博物場(現在の市立函館博物館の前身)へ寄贈しており、それらの実物資料が現在も市立函館博物館に収蔵されているのはもちろんのこと、寄贈に伴う受領証も平成21年に小島の遺族から同館へ寄贈された『小島倉太郎関連資料』の中に含まれている。なお函館県は、1881(明治14)年に閉館した開拓使東京仮博物場の資料*11を受け入れるために、1884(明治17)年8月11日に函館県第二博物場を開館しており、おそらく小島の寄贈したクリルアイヌの民族資料も、開場間もない当該博物場において展示されたであろう。
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小島が函館県博物館に寄贈した雪眼鏡
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明治十七年九月三十日付受領証(いずれも市立函館博物館所蔵)

後日談 ――北海道物産共進会での再会――
 一方、シコタン島での生活をスタートさせたクリルアイヌは、1884(明治17)年8月10日付の根室県勧業課の指針に従い、「開墾種芸其他殖産上一切ノ事」や「養牛ノ監護及繁殖」などを奨励され、同時に「国語ヲ習ハシムル事」や「猟虎膃肭臍及黒狐等ノ銃猟ヲ禁止」されるなど、着々と同化政策が推し進められた。そしてこれら「殖産」活動の成果の一環として、移住翌年の1885(明治18)年11月1日から15日まで根室で開催された北海道物産共進会には、自分たちで生産した馬鈴薯や木工芸品などを出品し、褒賞を得たとの記録もある。
 クリルアイヌの移住から2年が経過した1886(明治19)年、10月15日から26日までの12日間にわたり、函館区海岸町*12において北海道物産共進会が開かれ、クリルアイヌも再び農作物と木工芸品を出品することとなった。根室からの出品物は20日には函館に到着して陳列されるが、根室の勧業課吏員鈴木七郎に引率された首長ヤコフ=ストロゾフと副首長ケプリアン=ストロゾフの二人は自ら出品物を携え、根室発函館行の陸奥丸で22日に函館に到着したのである。
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1887年当時ノ共進会場(函館市街全図より)(函館市中央図書館所蔵)

 来て早々24日には10時から褒賞の授与式が執り行われ、1~3等の者に北海道庁理事官時任為基から褒賞が授与されているが、このときにクリルアイヌの出品物が褒賞を授与したか否かについては記録がない。また、同日田本写真館で撮影された記念写真には、2人のクリルアイヌと鈴木七郎とともに、小島も一緒に写っている。強制移住直後のシコタン島で1ヶ月以上にわたって生活を共にし、はるばる函館までやってきた3人に対して、旧知の仲である小島が同行したであろう。北海道物産共進会は10,000人余りの来場者を記録して10月26日に幕を閉じるが、クリルアイヌが持参した楽器や杓子などの木工芸品の一部は、当時の函館博物場に寄贈されている。
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1886年10月24日田本写真館撮影写真(左からケプリアン・小島・ヤコフ・鈴木)(市立函館博物館所蔵)

 その後2人のクリルアイヌは「滞在中閑暇に任せ函館各学校及び博物場町会所七重農業場大野の水田其の他重立たる場所建物等」を見学して廻っている。クリルアイヌ関連資料が収蔵・展示されていたであろう函館博物場を見学したのはさもありなんといったところであるが、クリルアイヌに対しては1885(明治18)年4月2日付で「七重農工事務所」のサウスダウン種綿羊が貸与されており、桔梗村にあった七重勧業試験場所管の牧羊場にもおそらく足を運んだであろう。また「大野の水田」も見学していることは興味深い事実である。
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開場間もない頃の函館公園内の函館博物場
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七重勧業試験場桔梗牧羊場のサウスダウン綿羊(いずれも函館市中央図書館所蔵)

 10月31日、6時発の厚岸根室行陸奥丸にてクリルアイヌは函館を離れ、シコタン島へ戻っていく。シコタン島へ戻ったケプリアンはわずか2年後の1888(明治12)年12月16日に52才でこの世を去り、ヤコフも1903(明治36)年7月28日に66才で死去した*13。クリルアイヌに施された殖産事業も1894(明治27)年の洪水で大打撃を受け、結局その後は沿岸地域での細々としたフノリ採集が中心的になっていった。急激な生活環境の変化や慣れない生業への転換、和人との混血が進んでいく中でクリルアイヌ固有の文化は次第に姿を消してゆき、現在彼等の伝統的な文化を継承している方は確認されていない。

おわりに
 以上、クリルアイヌのシコタン島強制移住から北海道物産共進会函館開催までを、主に北海道大学附属図書館所蔵『千島巡航日記』および市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』中「明治初年の写真アルバム」を中心に、強制移住に立ち会った者の手記や当時の函館新聞の記事きなどで情報を補完しながらできるだけ詳細にその足跡をたどってみた。小島は本稿で触れたもの以外にも、『千島巡航日記』に合冊された「占守島」という標題の覚書や、北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』中の「Путешествие на Курильские острова」という手書きの文書を残しており、これらは強制移住前のクリルアイヌの生活文化を知る上で貴重な一次資料となっている。
 現在独自の文化を継承する方が確認されていないクリルアイヌの民族文化を研究するに当たっては、小島が残した文書資料ならびに小島にゆかりのあるクリルアイヌ関連民具資料を総合的に研究することは極めて重要になるであろう。
 なお本稿は、公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の平成25年度研究助成採択事業「道南のアイヌ文化に関する総合的研究」の成果の一部を利用したものである。


■ 註
*1 前稿「小島倉太郎の遺品にみるその足跡――クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで――」を参照。
*2 千島列島北部に居住していたアイヌの一分派で、千島樺太交換条約(1875年)に伴い1884(明治17)年に南千島シコタン島へ強制的に移住させられた。地理的・政治的にロシアの影響を強く受けていたため、言語や宗教などの生活文化はロシア化されていた。
*3 クリルアイヌ強制移住の顛末については、公的な復命書である『千島巡航日記』の他、『Владивостокъ』1884年42号に掲載された小島の投稿記事(以下「ウラジオストク掲載記事」とする)や同行した参事院議員安場保和とその娘婿末喜の私的な日記などがあり、それぞれの内容に細かな相違点がある。本稿においては時系列表現に最も妥当性のある『千島巡航日記』の内容に基本的に準拠して記述する。
*4 小島倉太郎の遺品は北海道立図書館にも寄贈されているが(主に書籍類)、小島の令孫である小島一夫氏が寄贈したとされる50点の資料のうち、小島倉太郎が旧蔵していたことが現在明確に確認される資料は、「小島」印(北大所蔵資料に押印されたものと同一)を押印された『蝦和英三対辞書』1点しかない。
*5 幕末~明治初期に活躍した函館の写真師、田本研造の弟子である。
*6 安場末喜日記では、天候不順のために23日に出航したとある。
*7 ウラジオストク掲載記事では7月2日14時となっている。
*8 ウラジオストク掲載記事では、クリルアイヌはシコタン島到着の翌日からすぐ斜古丹湾岸に住居を建て始め、その後周囲を巡検した上で事後承諾のような形で斜古丹湾岸を集落に決定した旨の記述がある。この記述に従えば、7月12日から14日までの空白期間と15日から19日までの巡検期間、それ以降の本格的な集落建設への着手という一連の流れには妥当性がある。
*9 ウラジオストク掲載記事では、8月4日に少年5人と少女1人の6人が連れて行かれたとしているが、8月24日に撮影された写真には少年6人と少女2人が写っている。
*10 ウラジオストク編集部から小島に送られた1884年4月2日付の書簡は、長崎・神戸・横浜を経由して、千島出発直前の5月12日に小島の元に届いている。同書簡とウラジオストク掲載記事については、本稿末に全訳を掲載する。
*11 1875(明治8)年の千島樺太交換条約締結に伴う千島巡検の際に開拓使によって収集された、クリルアイヌ、イテリメン、アリュートなどの民族資料である。
*12 現在の函館市立北星小学校近辺一帯に共進会場と競馬場があった。
*13 2012(平成24)年8月現在、シコタン島の「クリル人墓地」には現在も「神僕ストロソフイヤコフ酋長墓」と刻まれた墓標が存在している旨確認されている(函館ラ・サール高等学校教諭小川正樹氏によるご教示)。

■ 参考文献
阿部正己編「色丹島旧土人沿革」(河野本道選1984『アイヌ史資料集(第二期)』5 北海道出版企画センター;札幌市収録)
大矢京右2010「小島倉太郎関連資料」『市立函館博物館研究紀要』20 pp.51-56 市立函館博物館;函館市
大矢京右2012「小島倉太郎の遺品にみるその足跡――クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで――」『函館日ロ交流史研究会会報』33 pp.2-6 函館日ロ交流史研究会;函館市
小島一夫1994『小島倉太郎を偲んで』私刊;札幌市
小島一夫1998『けんかたばみ回想記』私刊;札幌市
ザヨンツ, マウゴジャータ2009『千島アイヌの軌跡』 草風館;浦安市
根室・千島歴史人名事典編集委員会編2002『根室・千島歴史人名事典』根室・千島歴史人名事典刊行会;根室市
安場末喜1884「日記」(清野謙次1931『明治初年北海紀聞』所収)
安場保和1884「北海道巡回日記」(清野謙次1931『明治初年北海紀聞』所収)
『小島倉太郎関連資料』市立函館博物館所蔵
『小島倉太郎文書』北海道立文書館所蔵
『千島巡航日記』北海道大学附属図書館所蔵
『田本アルバム』函館市中央図書館所蔵
『元開拓使七重勧業試験場写真』函館市中央図書館所蔵
『函館市街全図』函館市中央図書館所蔵
1884年6月11日付『函館新聞』1051号1面「御用出張」函館市中央図書館所蔵
1884年8月28日付『函館新聞』1090号1面「帰函」函館市中央図書館所蔵
1884年10月14日付『Владивостокъ』42号5面-6面「Заграничныи Известiя」 北海道大学附属図書館所蔵
1886年10月23日付『函館新聞』1668号2面「千島旧土人」函館市中央図書館所蔵
1886年10月28日付『函館新聞』1672号2面「色丹島旧土人」函館市中央図書館所蔵
1886年10月29日付『函館新聞』1673号3面「正誤」函館市中央図書館所蔵
1886年11月20日付『函館新聞』1691号1面「根室色丹島詳報」函館市中央図書館所蔵
1886年11月21日付『函館新聞』1692号2面「根室色丹島詳報」函館市中央図書館所蔵

■ 訳文:書簡(北海道立文書館所蔵)
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『Владивостокъ』編集デスクから小島への書簡(1884年4月2日付)(北海道立文書館所蔵)

週刊「ウラジオストク」新聞デスク
1884年3月2日
ウラジオストク市
(沿海州)
拝啓
 貴殿のご提案を喜んでお受けします。また、新聞からの抜粋と、日本の社会的・政治的現実のすべての特筆すべき現象に関するご自身の個人的メモをお送りくださるようお願いします。  新聞は同封したとおりです。

敬具
デスク N.■■■(苗字判読不能)

■ 訳文:ウラジオストク掲載記事(北海道大学付属図書館所蔵)
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『Владивостокъ』1884年42号(小島による書き込みが確認される)(北海道大学附属図書館所蔵)

海外の情報
函館(「ウラジオストク」通信員) 9月10日
 長い間沈黙していたのは、不在にしていたためであった。
 私は依頼を受けて根室、さらにそこからクリル諸島へ行っていたのである。日ロ間で樺太千島交換が成立してからというもの、わが国の政府は毎年根室から島々に、住民のための食料品や生活必需品を載せた船を送りこんでいるという事実がある。今年も例年のとおり船が派遣された。根室からは函館丸という汽船をチャーターし、食糧や品物のほかに、東京の中央政府によって根室から派遣された湯地縣令が乗船していた。
 6月30日、私たちはアライド島に、続いて7月1日にシュムシュ島に錨を下した。汽笛でクリル諸島の住民に到着を知らせると、30分後には村落から2艘の船が出てきた。そのうち1艘には首長アレクサンドルが乗っており、縣令らが順調に到着したことを歓迎し、島が平穏無事であることを知らせてきた。私たちは、上陸すると山側の彼らの村落へ向かった。集められた身分証明書を見て、この田舎の村落では、昨年において60人の人口増加があったことが判明した。彼らがどこから来たのか尋ねたところ、シュムシュ島とラショア島であり、仲間に面会するために来たとの答えが返ってきた。縣令は、全住民にたばこやワイン、パンなどの贈り物を配付するよう命じた。私たちは、近くに人の住む島はないかどうか知りたかったが、すべてのクリル諸島の人間はこのシュムシュ島にいるとのことであった。そこで縣令は、シュムシュ島が根室からあまりにも遠いため、必要な援助や保護を行うことが困難であるとし、彼らにもっと近い島へ移住してはどうかと提案した。住民はほぼ全員、縣令の提案に賛同し、家財道具を村落から汽船の停泊する海岸まで運んできた。翌日、クリル諸島の住民たちも船上の人となり、7月2日午後2時に、私たちは島を後にしたのである。
 縣令の指令により、全島民が根室から33里離れたシコタン島に渡った。7月9日にエトロフ島に立ち寄り、私たちが連れてきた人々がアイヌ語の方言を話すかどうか尋ねた(当地にはアイヌ民族が住んでいる)が、クリル諸島の人々の言語はアイヌ語との一致点が多く、互いの話を理解するのは容易であるとのことであった。クリル諸島民でアイヌ民族は1種族ではないのかと尋ねると、「それはわからないが、私たちはアリュート人でなく、カムチャダール人でなく、クリル人でもないからアイヌであると言い伝えられている」とのことであった。このことは、他の質問に対する答えにより裏付けられた。
 翌日、エトロフ島を後にし、私たちはシコタン島に向かった。7月11日の朝、ちょうど斜古丹湾の一つに入ったが、そこは船を停泊させるのに最適な場所であった。ここでテントが2つ壊れたため、クリル人たちを移動させ、私と農業技術者、医師も残った。翌日、それぞれの家族はめいめい自分の家を建て始めた。辺りを見て、クリル人たちにどこに移住したいかと尋ねたが、それに対しては次のような答えが返ってきた。この島は、申し分のない湾が豊富にある。なぜならば、魚やワモンアザラシ、オットセイなどを必要としているためであり、それらが最も多い場所を望むとのことであった。斜古丹湾の付近はワモンアザラシのほかにトドも生息しており、ましてこの湾にはカラフトマスなどのたくさんの種類の魚が数多く生息する川が流れ込んでいるため、私たちはここにクリル人たちを移動させることにした。
 この問題が解決すると、クリル人たちは急いで仕事に取り掛った。山で木を伐り移住地まで運んできて、家や家具を作っていった。板、釘、縄、大工道具などは根室から運ばれた。野菜栽培や畜産について、彼らのために教えられることはすべて教えられた。野菜栽培においては農業技師が、海の漁業における引網の改良においては漁師が雇われ、指導にあたった。
 クリル諸島民の人数はわずか97人で、うち45人が男性、52人が女性であったが、労働可能な人員は男性30人、女性25人であった。8月4日、矯龍丸という汽船で役人が数人根室から到着し、村落を検視し、クリル人の少年5人と少女1人を、教育を授けるためということで連れて帰って行った。8月18日、私たちは新たに任命された職員と交代することとなり、私は根室に戻って8月26日に函館に到着した。

K.K-a(小島倉太郎)

「会報」No.35 2013.12.7