函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

過ぎ去りし時代に触れて

2015年2月16日 Posted in 会報

アンドレイ・グラチェンコフ/遠峯良太 訳

 75年も前の書物を手に取るのは、ある意味でイベントのようなものだ。そのような書物との出会いは、すなわち過ぎし年月との巡り合いである。ページをめくっていくと、何とも不思議な、過ぎ去りし時代に触れていくことができる。
 1937年に日本で刊行された「最新露語読本」を読んで、私はこうした過ぎ去りし時代への接触を経験した。
 この本はあまり分厚くはないが、著者のセミョン・ベク=ブラート=スミルニーツキーの肖像で始まっている。
 冒頭の写真には、3つの勲章をつけた黒いフロックコートを纏った、若く逞しい30歳過ぎの男性が写っている。これは1917年の10月革命以前に撮影されたものと思われるが、来日後間もない頃の写真かもしれない。黒い眼に黒髪、黒い髭はこの人物がタタール系の祖先をもつことを物語っているが、そのことを裏付けるのは、彼の長い苗字である。苗字のことは後述することとし、まずは勲章のことについて述べたい。
 写真には、三等聖スタニスラフ勲章、二等聖アンナ勲章、フランスのレジオンドヌール勲章が写っている。これらの勲章は一体何を物語っているのだろうか?

35-07-01.jpg 35-07-02.jpg 35-07-03.jpg
写真左から、二等聖アンナ勲章、三等聖スタニスラフ勲章、レジオンドヌール勲章

 第一次世界大戦中(1914~18年)、著者はドイツ戦線で戦っていたが、このフランスの勲章を受けた場所は、ロシアとフランスのどちらなのであろうか?当時、フランスとロシアは同盟国であった。フランスではロシアの派遣軍がドイツ戦線で戦っており、多くの将兵がフランスの勲章を受章した。スミルニーツキーはフランス語に堪能だったことから、勲章はフランスで受けたのだと推察できる。根拠不十分のため、残念ながら断定することはできないが。
 また、これもあくまで推測であるが、スタニスラフ勲章は軍功により受章したものなので、写真では確認が困難だが、これは剣付スタニスラフ勲章ではないかと思われる。剣付三等聖スタニスラフ勲章が、この若き下級士官に授与されたのではないだろうか。
 そして、最高級のものが二等聖アンナ勲章である。これはスタニスラフ三等勲章よりも上位と見なされている。勲章は首に掛かっているが、これぞかの有名な「頚の上のアンナ」である。チェーホフの作品に親しむ読者ならば、もちろん同名の短編小説を想起するであろう。
 頚の上のアンナ、スタニスラフ、胸にはフランスの勲章。これは典型的な勲章の1セットであり、この若き士官が最低でも中尉、最高で二等大尉の階級に昇進していることを示している。
 次に、彼の苗字について少し触れたい。二重姓であることから、間違いなく貴族のそれである。二重姓は2つの部分、もしくは2つの姓で構成されている。著者の二重姓は父親から受け継いだものだ。なぜならば、二重姓は決して女系で継承されるものではないからである。それから、こうした苗字を持つ者は世襲貴族であった。
 「世襲貴族」とは何か?ロシア帝国の貴族には、世襲貴族と一代貴族が存在した。一代貴族は、自らの出自を誇れるものではなかった。元々は商人や農民、コサックあるいは職人といった人々であり、その称号は、一義的には兵士が主君に忠実に尽くし軍功をあげることにより与えられていた。なお、18世紀になると、貴族の称号とともに、金銭や土地、農奴も与えられるようになっていた。
 一方、世襲貴族は、12~16世紀には既に高い地位を得ていた。著者の祖先はタタールの公、あるいはブラート家の領地の「ベク」(訳者注:封建諸侯・地主・高官の称号)であった。まさに苗字の最初の部分が、そのことを示している。
 16世紀、モスクワ大公国がカザン・ハン国とアストラハン・ハン国を滅ぼした結果、多くのタタール人の名士がロシアのツァーリのもとに仕官し、モスクワ大公国の世襲貴族の一員となった。なお、同様の出来事は18世紀末に、ロシア帝国がクリミア・ハン国を併合した際にも繰り返されたのである。
 しかし、著者の苗字はタタール・ロシア系ではなく、タタール・ポーランド系である可能性もあり、興味深い。そのことが表れているのが、苗字の後半の「スミルニーツキー」という部分である。
 スミルニーツキー姓は、ロシアのスミルノフ姓に相当するポーランド式の苗字であり、「穏やかな」「優しい」という意味の「スミールヌィ」という語を子どもが渾名として用い、そこから派生したものである。スミルニーツキー姓を持つ貴族は多く、彼らの祖先は、当時、大ポーランド・リトアニア王国の一部であったウクライナやリトアニアから移住してきた人々であった。
 さて、二つの姓はいつ、どのような理由で一つに結合したのであろうか。著者の祖先の誰かが、他のベク=ブラート姓の人々と区別するために妻の苗字を繋げたということも考えられる。また、著者の祖先の誰かが、かつてスミルニーツキー家に属していた領地を取得したということも考えられる。新たに領主となった者は、領地とともに新しい姓を持つ権利も得られた。そのようなケースは頻繁ではなかったが実在した。しかし、根拠不十分のため、この謎を完全に解き明かすことは難しい。
 それでは、書物自体について少し述べたい。目次から、この本はロシア語の読本であることが見て取れるが、採用しているテキストが、著者の個性や文学的嗜好、政治的立場を自ずと物語っており、興味深い。一方、このテキストには、日本で日本人にロシア語を教える際に役立つ方法論が見当たらない。
 著者の個性は、間違いなく読本の題材に反映されている。
 彼は君主制主義者であり、このことは、君主制を共和制よりも遥かに高く評価しているテキストから垣間見ることができる。別の観点から述べると、1930年代に日本で君主制を批判することは、亡命者の立場としては不可能であり不適切であったことも忘れてはならない。

 また、この読本にざっと目を通しただけでも、ソビエト・ロシアの実情に言及したテキストが存在しないことがわかる。
 1917年のボリシェビキ革命から1937年まですでに20年、1924年の日ソ国交正常化から12年が経過していたのであるが、ソ連の新聞や雑誌、ソ連の作家による作品のテキスト(唯一の例外はあり)がこの読本には一つも収録されていない。なんと残念なことであろう!
 社会や日常生活における習慣が大きく変化したことにより、1920~30年代のロシア語には何百、あるいは何千もの新語が登場したのであった。しかし、1919年にロシアから亡命してきた著者は、こうした変化について知る由もなく、何よりも経験不足であったため、それらを過小評価していたのである。その結果、彼はロシア語の発音の変化を軽視することになり、基本的には、20世紀初頭のロシア語学習におけるアクセントがそのままになっている。
 テキストは教訓に富んだロシアの童話から採用されている。その主人公はペットや獣である。20世紀初頭にも、21世紀初頭にも子供たちに読まれてきたお話であり、私自身も子供時代に読んだし、自分の子供たちにも読み聞かせたものである。古き良き時代のロシア語ではあるが、馴染みのない農民の語彙も見られる。それらは童話の中に残っているだけで、日常会話としては完全に忘れられたものである。
 ロシアの農民の常識が反映された諺も多く、中には今でも使われているものもある。
 詩も多く、詳しくは、それはクルィロフの寓話である。この作家は今ではほとんど忘れられているが、40~50年代に広く出版され、学校でも教材として使われたものだった。
 童話が教材の大部分を占めるため、19~20世紀のロシアの古典文学作品は完全に欠落している。読本にはゴーゴリ、プーシキン、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフの作品の、ただの一節も入っていない。その理由は、ロシア語能力がそれほど高くない生徒向けの読本という位置づけにしたためかもしれない。あるいは詩の読解には高い語学力と詩文学の深い知識が必要だからかもしれない。一体、この読本はどのような人に向けに書かれたものだったのであろうか?
 また、著者がフランス語から翻訳したテキストがあることから、著者が生徒に自身のフランス語の知識を披露したかったように思われる。
 「運命」(No.103)という新しいソビエト文学の短編小説が収録されている。テキストは難しく、祖国戦争の時代にウクライナで起こった出来事について書かれたものである。過酷な時代の詳細な描写が豊富で、ウクライナ語の語彙も多い。
 ここで疑問がわく。もし読本のテキストが初級レベル向けであったとしたら、ロシア語能力の高い生徒とは読破できたのであろうか。このテキストは詳しい解説を必要とするはずであるが、それが読本中に存在しないのである。
 読本中には解説はついていない。基本的な慣用句の解説さえもない。こうした慣用句を学ぶことをこそ、いかなる読本も意図しているのにも関わらず、である。
 いや、著者の作品にあまり厳しい態度をとるのはよそう。21世紀の詩文学の立場から見て、過去50年で外国語教育法においてどのような変化が起こったかを忘れてはならない。ベク=ブラート=スミルニーツキーの教本は、彼の時代においては有益な書物であったのである。
 そして最後に、本書が出版されたのは1937年であるが、この時代について触れないわけにいかない。この年はソ連で大規模テロルの発生がピークに達し、その後下火にはなったが、スターリンの死去まで続いた。彼はこのことを知っていたのか、大変興味深い。もちろん、スミルニーツキーは、30年代のソ連で何が起こったのかは知っていたけれども、弾圧があったにも関わらず、君主制主義者のスミルニーツキーは、自身の息子のソ連国籍取得をソ連政府に申請しているのである。なぜだろうか?まず考えられるのは、多くのロシア人の亡命者たちと同様、スミルニーツキーもスターリンの独裁にナポレオン・ボナパルトの体制との共通点を見出していたのであろう。ナポレオンは最初の執政となった後、大フランス革命に反旗を翻すテロルの時代を経てフランス皇帝になったのである。
 ソビエト・ロシアでは、ボリシェビキ革命の指導者や祖国戦争の将軍であったユダヤ人とロシア人、ウクライナ人とポーランド人、リトアニア人とラトビア人、グルジア人とアルメニア人などが根絶やしになってしまった。つまり、スターリンがナポレオンのように大ロシアの皇帝になる段階になったということである。スターリンはロシアの皇帝になるのは間に合わなかったが、なりたいとは思っていた。しかし、彼が握った権力は、世界のどの君主も持ったことがないものであった。
 著者は、結局ロシアにおける君主制復活を待ちきれずに、第二次世界大戦後に日本で亡くなった。彼の生前、日本において生活のすべてが大きく変わり、ソ連が世界の大国の一つになった。日ソ関係の新しい時代が始まったのであるが、こうした変化を反映させた新しい読本を著すことはできなかった。

 これはオフレコであるが、最後に著者の伯爵の称号と苗字に関して不可解な点があることを指摘しておきたい。
 ロシア帝国の伯爵のリストには、1916~17年には著者の苗字はない。
 スミルニーツキー家には伯爵はいない。タタール人の称号のリストにも著者の苗字はない。ロシア帝国の貴族の主要な姓のリストにも著者の苗字はない。そして、貴族の主要な二重姓のリストにも著者の苗字はないのである。

「会報」No.35 2013.12.7 「会報」33号報告翻訳