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シュヴェツ家との出会い

2015年2月16日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子 訳


はじめに
 『会報』№34掲載の拙稿「大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァ、そして函館ゆかりのシュヴェツ家について」にサハリン州アレクサンドロフスク市在住のG.スメカーロフ氏に当市に現存するシュヴェツ家のかつての家屋の写真を提供していただきました。そこで、スメカーロフ氏にシュヴェツ家について何か寄稿していただけないか打診しましたら、快諾を得て写真と共に以下のような文章を寄稿してくださいました。氏は何と函館を訪れたことさえあったのです。

(小山内 道子)

* * *

 私はサハリン州の最も古い中心地アレクサンドロフスク・サハリンスキー市にあるM・S・ミツーリ記念中央図書館の郷土誌研究部門主任として10年以上働いています。そして、私たちの町で心ならずも忘れられてきた出来事や人物に関する情報を少しずつ集めてきました。すなわち、これらの人々は100年前ここに「サハリンの巴里」と言われたサハリン州の最初の首都をつくり上げたわけですが、ソ連時代には亡命者、「人民の敵」となった人物が多かったのです。この「人民の敵・ブラックリスト」にはかつてアレクサンドロフスクの住人で、女流詩人アンナ・アフマートヴァの実弟ヴィクトル・ゴレンコ(コルチャークのシベリア艦隊の海軍士官)、伝説の力士・大鵬の父親マルキィアン・ボリシコ、さらにロシアの格闘技サンボの創始者ヴァシーリィ・オシェプコフ、また、将来「オスカー」の受賞者となるユル・ブリンナーの家族、その他多くの人々の名前が載っていたのです。

 このリストに載っている他の名前のなかで、ルーツは徒刑囚ですが生粋のアレクサンドロフスク住人のシュヴェツ家のことを私はよく知っています。ロシアで社会が二つに分裂してしまった革命期の内戦時代までに、シュヴェツ家の当主ニコライは資産家になっていました。彼の二男のドミートリィはアレクサンドロフスクで数軒の家作、倉庫、大小の商店を持っていました。毛皮類と酒類の販売を手掛けていたのです。その頃、サハリンの市民社会は、かなり進歩的な考えが支配的になっていたと私は思います。町では市議会が機能していましたし、村々にはゼムストヴォ(村会、郡会)がありました。そしてこれらの政治制度は十分民主的で、大陸本土での政治勢力の交代に左右されませんでした。新聞が発行されており、劇場も映画館も開いていました......このサハリン行政の中心地は国際的でもありました。ウクライナ人、ベロルシア人、タタール人、ポーランド人その他の後裔と並んで、大勢の日本人、中国人、朝鮮人のディアスポラが住んでいました。おそらくこのためにサハリンにおける内戦は、極東ロシアの他の中心地のように(ウラジオストク、ニコラエフスク、インペラートルスキイ湾)悲劇的、血なまぐさいものにならなかったのではないでしょうか。

 その時代の資料に当たると、一度ならずドミートリィ・シュヴェツの名まえに出会います。例えば、1917年3月6日付「アレクサンドロフスク社会安全委員会公報」第2号には、D・N・シュヴェツが総会の提案により、この組織の執行委員会の決定を得て委員会のメンバーになったことが出ています(ロシア国立歴史文書館、極東関係、РГИА ДВ ф,1416,оп.2,дю2,л5)。これはドミートリィ・シュヴェツの市民生活と人生に対する積極的な姿勢を証明するものですが、その時彼はわずか32歳だったのです。

 ロシア帝国の中では最後とはいえ、北サハリンの領域にもソヴェートの旗が掲げられることは予知されていました。アレクサンドロフスクの住民は間近に迫っている運命を既に理解していたのです。ソ連の極東で起こっていた「階級闘争」の事例によって、経営者たちはサハリンの状況に幻想を抱くことは出来ませんでした。その後サハリンに残った親族たちの悲劇が示したように、「亡命する」という選択が多くの人たちにとって唯一の正しい決定だったのです。こうしてアレクサンドロフスクを出ていった人たちの中にドミートリィ・シュヴェツ一家もいたのです。彼らは不動産はもちろん、その他の財産の一部もそのまま当地に残して出て行ったのでした。外国での苦難の数年を経て、ドミートリィは家族と共に日本の町、ハコダテに落ち着きました。

 ハコダテはロシア人の心にとっていつも真に愛すべき町です。ここにはロシア最初の領事館が置かれましたし、使徒に準ぜられるニコライ・ヤポンスキーはこの町でその前代未聞ともいうべき宣教師としての活動を始めたのです。ここでは、多くの建物がロシア式建築として建てられ、ロシア人の学校その他が機能していたのでした。

 私は郷土史家として日本への旅行を始めたのですが、もちろん、そこで同胞に出会える可能性があると考えていました。しかし、日本の土地で最初に出会うロシア人がリュボーフィ・セミョーノヴナ・シュヴェツになろうとは夢想だにしませんでした。

 2004年、私はフリゲート艦「パラーダ号」で長崎港に着きました。その時、出迎えの人たちのなかに帝政時代の金貨チェルボネツを繋いだネックレスを付けた美しい年配の婦人がいるのに気づきました。夫人はロシア正教会のニコライ神父と並んで立っていましたので私の視線を惹いたのです。私がアレクサンドロフスクから来たと言うと、夫人の目が輝きました。そして、リュボーフィ・セミョーノヴナは商人ドミートリィ・シュヴェツの嫁で、彼の息子ヴァレーリィの妻だと名乗ったのです。それから、サハリンの様子や昔のシュヴェツ家の家は残っているかどうかを訊ねました。彼女は日本でのシュヴェツ家のこれまでの歴史を話してくれましたが、私たちのおしゃべりは、その後は東京でも続きました。それは私が2010年にシュヴェツ家が住んでいる東京を訪問したからです。
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2004年、長崎ロシア人墓地でL.シュヴェツさんと

 ドミートリィ・シュヴェツはハコダテでも毛皮のビジネスを続けていました。1934年、いつものようにビジネスで出かけた帰途の列車で強盗に遭い、殺されたのです(遺体は鉄道線路の上で発見されました)。現在ハコダテのロシア人墓地ではこの町のために多くを為したドミートリィ・シュヴェツ(日本でもこの我々の同郷人は市民としての積極的な姿勢を捨てませんでした)のお墓の上に大きなスクレープ(柩安置所)を見ることが出来ます。この悲劇の後、家族は東京へ移りましたが、それはシュヴェツ家にも戦争が刻一刻と迫っていた時期でした。ちなみに、そのころ東京の中心地に2階建ての家を今の時代ではおかしいような安い値段で買い足したそうです。ドミートリィが貯めたお金で暮らせたのは最初のうちだけでした。しかし、家族のなかに労働を嫌う者はいませんでした。リュボーフィ・セミョーノヴナ自身は調理師の職業を習得しました。日本の首都でピロシキを出す軽食堂チェーンを始めたのは彼女でした。リュボーフィさんは第2次世界大戦時の少女時代、一家は長崎に住んでいました(ここに彼女の父親は埋葬されています)。リュボーフィさんは原子爆弾投下にどんなに苦しめられたか、また原爆の結果を逃れて山へ疎開したこと、いかに奇跡的に家族全員が生き延びたかについても物語ってくれました。

 神は、リュボーフィ・シュヴェツの勇気と忍耐に対して素晴らしい二人の娘を与えて報いたと言えるでしょう。二人は見事にロシア語を話し、ロシア文学、ロシアの文化に通じており、東京のアレクサンドル・ネフスキーロシア正教会の良き信徒になっています。
 ソ連崩壊後最初のロシア正教総主教アレクシイ2世が日本を訪問した際、シュヴェツ家がアレクシイ2世を自宅に招待したという事実は、この家族の日本のロシア正教会における役割をよく示していると思います。また、娘のエカテリーナはモスクワの救世主キリスト教会の聖水式に招かれたということです。

 私は国民の草の根外交は大きな力を持っていると思います。私たちロシア国民の代表といえるシュヴェツ家が善意の使者であるならば、そのことによって隣り合う両国民は共に良き評価を得るのです。清水恵の著書『函館・ロシア その交流の軌跡』がまさにこのシュヴェツ家に数十ページを捧げているのも故なきことではないでしょう。

 私が2010年に函館を訪問した時、当時の函館市国際交流課主査の倉田有佳さん、函館市中央図書館長長谷部一弘さん、その他大勢の郷土誌研究家、歴史家、司書、神父の方々との素晴らしい交流ありましたが、それはサハリンのディアスポラであるシュヴェツ家の市の発展への貢献があったからこそであり、また、日ロ文化への相互浸透に対する関心が高かったからこそ可能だったのだということが十分わかりました。
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2010年、函館市中央図書館を訪問して、倉田、長谷部さんと

 私たちは皆さまがアレクサンドロフスク・サハリンスキー地区とそこに住む人々に対して関心を持っていただくことを歓迎していますし、相互の交流をさらに深めたいと思っています。既にかなり以前からチェーホフ研究家の中本信行教授、旭川の詩人・小熊秀雄研究グループ、稚内の音楽家との実り多い協力関係を築き、相互訪問を行っています。

「会報」No.35 2013.12.7 特別寄稿