函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ロシア国立極東歴史文書館と国立沿海地方文書館をウラジオストク市に訪ねて

2015年2月16日 Posted in 会報

倉田有佳

 今年の8月、ウラジオストクを訪問し、ロシア極東国立歴史文書館(「RGIA DV」。ロシア語表記では「РГИА ДВ」)と国立沿海地方文書館で史料調査を行った。前回調査に訪れたのは2010年3月のことで、この時のことは、会報33号で報告している。
 前回同様、「RGIA DV」から徒歩数分の場所にあるホテル「プリモーリエ」に予約しようとしたが、夏の繁忙期とあって既に満室だった。そのため、ウラジオストク日本センター職員のオーリャに助けを借り、ウラジオストクホテルの分館に当たるホテル「エクアートル」を確保した。
 ここのホテルは、8階と9階がリニューアルを済ませており、値段は他の階に比べて高い。私は海側ではない、安い方の部屋を予約したが、8階の客に対するフロントの女性たちの対応は親切だった。
 宿泊客の大半は、国境近くの中国東北地方からチャーターバスに乗って大挙して観光に訪れる中国人団体旅行客だ。夜はホテルの入口付近で涼むためにたむろしている中国人の数があまりに多く、函館西部地区に静かに暮らす日常とはかけ離れた光景に圧倒された。ウラジオストク・ビエンナーレが始まると、それに参加する日本人の若者の姿も見かけるようになった。
 8月半ばのウラジオストクは、函館とは比べ物にならぬくらいの猛暑だった。ホテルの部屋には扇風機しか備わっていないため、夜は寝苦しく、寝付かれない日々が続いた。お湯・水の出も悪く、モスクワでの寮生活の苦労が思い出された。
 さて、ホテルから「RGIA DV」のあるウラジオストク駅手前までの道は、往路は長い下り坂だ。そのため、毎朝8時45分にホテルを出れば、9時過ぎには到着した。閲覧室は冷房が寒いくらい効いていたため、首にストールを巻き、膝には大判のハンカチをかけるほどだった。


35-08-01.jpg
ロシア極東国立歴史文書館の入口

 夏休み中ということもあってか、閲覧室には、ノボシビルスク、ハバロフスクなどから調査出張にやってきたロシア人研究者がいた。自分の家族に関する史料の閲覧を申し出る若者も1週間で3人ほどやって来ていた。
 史料をカメラで写すには、1枚810ルーブル(2,700円程度)必要だった。ロシア人は、自分のパソコンに打ち込んでいた。かつてのように、ひたすら書き写すという姿はあまり見かけなかった。
 前回来た時には、同じ建物に国立沿海地方文書館(「GAPK」、ロシア語表記では「ГАПК」http://www.arhiv-pk.ru/)が入っていたが、今回聞いてみると、「サハリン通り」という、ずいぶん遠くに移転したことがわかった。しかし、ヒサムディーノフの著書(Амир Хисамутдинов. Русские в Хакодате и на Хоккайдо, или заметки на полях. Владивосток, 2008,С.326.)によれば、レベデフの証明写真があるはずだった。だめもとで電話したところ、同日の昼過ぎに来るようにと言われた。
 駅から出ている31番のバスに乗り、「陶器工場(Фарфоровый завод)」で下車し、陶器工場に向かう長い長い階段を下りていった。下りきったところにホテル「白鳥(Белый лебедь)」が現れ、「GAPK 工場沿いに380メートル先」と書かれた表示が出ていた。老朽化した巨大な横長の工場の中からは、労働者たちの不審者を見すえるような視線が飛んできた。ソ連時代に逆行した気分がした。しかも歩いているのは、異臭漂うどろんこ道だ。

35-08-02.jpg
沿海地方国立歴史文書館が入居する陶器工場の建物。上にある赤い看板が目印。この入口の扉から階段を上がっていくと閲覧室に出る

 やっとのことで「GAPK」の赤い看板が右手に見えてきた。入口の扉は開いており、ここから階段を上っていくと、その先は、外観からは想像できないくらい清潔で快適な空間があった。しかも閲覧室の女性は、約束通りレベデフのフォンド(簿冊)を用意しておいてくれた。その中には、トボリスクの中等神学校を終えたばかりの21歳のレベデフのポートレートが収まっていた。田舎臭い青年で、函館領事時代のプライドが高く、傲慢なレベデフとは別人のようだった。

35-08-03.jpg
東洋学院入学時21歳のレベデフ

 帰りは下り坂を選び、停留所「サハリンスカヤ(Сахалинская)」に向かった。巨大な熱併給発電所の工場群を右手に見ながら、1キロほど歩き、行きと同様、31番のバスに乗った。行きは道路が渋滞していたため、1時間余りを要したが、帰りは30分程度で市の中心部に到着した。

35-08-04.jpg
煙突が立ち並ぶ熱併給発電所

 今回の調査の成果は、論文「東洋大学卒 在函館領事E.レベデフ」(『ドラマチックロシア in Japan III』)に発表する予定である。
 最後に、今回閲覧した主な史料は以下のとおりである。

<RGIA DV>
○東洋学院時代のレベデフ関係
ф.226.оп.1.д.22.56Л. Списки студентов институтов за 1899-1914.
ф.226.оп.1.д.28.15Л. Журнал выходящих и исходящих бумаг за 1899-1912гг.
ф.226.оп.1.д.35.292Л. Экзаменационные ведомости и списки студентов и слушатели института. 21 апреля 1900- дек.1905г.
ф.226.оп.1.д.37. 58Л. Сведения о студентов (кондитные листы). Списки студентов и слушателей института 5 сентября 1900 - 22 ноября 1900.
ф.226.оп.1.д.46.137Л. Переписка со студентами о предоставлении им летных льготных командировок и получении на командировочных пособый. 20 марта 1900г.- 25 ноября 1904г.
ф.226.оп.1.д.56.176Л. Учебные программы предметов Восточного Института ноября 1901-1902.
ф.226.оп.1.д.117.48Л. Список лиц, окончивших института 1903-1913.
ф.226.оп.1.д.119.72Л. Список лиц, окончивших института 1903-1909гг.
ф.226.оп.1.д.129. 38Л. Отчеты директора Восточного Института о деятельности института за 1904г. и финансовый отчет Восточного Института за 1905г.
ф.226.оп.1.д.145. Переписки с Примаурским генерал-губернатором об окончании заняти по слуаю возникновения войны с Японией. 30 января 1904 - 27 февраля.
ф.226.оп.1.д.150.100Л. Переписка с министерством народного просвещении о выдаче аттестатов студентов и слушателями института 09 октября  - 15 ноября 1905.
○クラマレンコ、ビリチ関連
ф.1193 оп.1. д.22/д.466
ф.p-2228 оп.1. д.7/д.13/д.23
ф.p-4410 оп.1. д.23
ф.p-4414 оп.1. д.3/д.61

<GAPK>
ф.115 оп.1. д.592.54Л.

「会報」No.35 2013.12.7