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初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチゆかりの地ベラルーシを訪問して

2016年3月 7日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 2014年、ゴシケーヴィチ生誕200年を迎えた。ヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチ(ГОШКЕВИЧ Иосиф Антонович)は、1814年3月16日(露暦4日)ロシア帝国ミンスク県レチツァ郡ストレリチェヴォ村(現ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区)で、同村ミハイル教会の司祭だった父アントーニ・イワノヴィチと母グリケリヤ・ヤコヴレヴナの間に生まれた。筆者が暮らす函館との縁では、1858年から1865年までの約7年間函館に滞在した初代駐日ロシア領事である。
 筆者にとって2014年は、生まれ故郷のベラルーシで開催されたゴシケーヴィチ生誕200年記念国際会議への参加に始まり、函館でのシンポジウムに終わるまで、ゴシケーヴィチ一色に染まった。
 筆者のベラルーシ訪問記や初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと函館については、「日露ビジネスジャーナル」(「初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの故郷を訪ねて 前編・後編」(http://www.nrbj.info/)、日ロ交流協会会報『日ロ交流』 2014年5月1日号、『北海道新聞』「いさり火」(2014年9月5日)に寄稿したほか、当研究会等で報告する機会を得た。
 本稿では、ゴシケーヴィチの故郷ベラルーシでの生誕200年記念事業とゆかりの地訪問について紹介したい。

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服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』より

1 ゴシケーヴィチ生誕200年記念事業オープニング

■ゴシケーヴィチ生誕200年記念国際移動展(3月20日)

 ゴシケーヴィチ生誕200年記念事業は、3月20日、ベラルーシ国立歴史博物館における「国際移動展」のオープニングセレモニーで始まった。会場は、ゴシケーヴィチの全生涯を紹介した展示パネル(写真とベラルーシ語・日本語・英語の三か国語の解説)、ゴシケーヴィチ時代の領事執務室の再現、日本の着物や陶器の展示など、たいへん趣向が凝らされていた。
 この移動展は、ベラルーシの後、外交官ゴシケーヴィチが勤務した帝政ロシア時代の首都・サンクトペテルブルグ(於:国立サンクトペテルブルク歴史博物館分館ルミャンツェフ邸)、フランスのパリ(於:ユネスコ本部。生誕200年記念事業は2014年-2015年のユネスコ事業として認定された)へと続き、初代駐日ロシア領事として勤務した函館(於:函館市地域交流まちづくりセンター)で締めくくられた。

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展示会場。三村在ベラルーシ大使

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ゴシケーヴィチ時代の領事執務室を再現(函館市での移動展では会場の関係から展示されず)

■「第3回ゴシケーヴィチ記念国際学術会議」(3月21日)

 ゴシケーヴィチ記念国際学術会議の第1回目は、1995年5月にベラルーシのオストロヴェツで、2回目は2002年10月にミンスクで開催された。第2回会議では、高田屋嘉兵衛の七代目高田嘉七さんが報告し、NHK函館放送局の権平記者(当時)が同行取材した(当会会報第24号参照)(http://hakodate-russia.com/main/letter/24-02.html)。
 このたびの「第3回ゴシケーヴィチ記念国際会議」は、3月21日(金)、ベラルーシ国立大学国際関係学部の516教室で開催された(ベラルーシ国立大学国際関係学部主催、在ベラルーシ日本国大使館後援、スポンサーJTI(日本たばこ産業国際部))。
 ベラルーシ対外友好文化交流協会会長のニーナ・イヴァノヴァが司会を務め、12名が報告した。ゴシケーヴィチ関連のテーマで報告をしたのは、地元ミンスクのリジヤ・クラジェンコ(歴史学準博士)「ベラルーシにおけるゴシケーヴィチ一族」、ナタリヤ・オブホヴァ(ミンスク州教育・教授法センター専門家)「イオシフ・ゴシケーヴィチの運命におけるロシア正教北京伝道団」、ゴシケーヴィチが晩年を過ごしたオストロヴェツ出身で、これまでのゴシケーヴィチ会議の主催者でもあるアダム・マリジス(人文学博士・教授)「ベラルーシ初の外交官ゴシケーヴィチ」、そして現地在住日本人の古澤晃(ベラルーシ国立大学日本語教師)「イオシフ・ゴシケーヴィチの語学研究と現代日本における言語研究」、辰巳雅子(ミンスク市第5番児童図書館日本文化情報センター長)「函館におけるヨシフ・ゴシケーヴィチの活動」である。いずれもベラルーシ語もしくはロシア語で報告したが、ロシア語からベラルーシ語への翻訳は行われなかった(不要だった)。これらの報告は、後日論文集として刊行される予定である。

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筆者は「函館とロシアの220年の交流史から見たゴシケーヴィチ領事時代」をテーマに報告

2 ゴシケーヴィチ晩年の地を訪問

 会議の翌日、在ベラルーシ日本国大使館のご案内により、晩年の地・グロドノ州オストロヴェツ地区に向かった。首都ミンスクから北西方向に車で約2時間、リトアニアの首都ビリニュスまで50キロという国境近くの長閑な農村地帯である。
 現地でオストロヴェツ地区中央図書館に勤めるナターリヤ・オチェレトヴァさんと合流し、オストロヴェツ市にあるゴシケーヴィチ胸像、図書館、ゴシケーヴィチが埋葬されている聖コジマ・ダミアンカトリック教会、そして晩年を過ごした屋敷のあったオストロヴェツ地区マリ村などを案内していただいた。

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オストロヴェツ市にあるゴシケーヴィチ胸像(1994年ヤヌシケーヴィチ作)

■オストロヴェツ地区中央図書館

 ナターリヤさんの職場であるオストロヴェツ地区中央図書館の展示棚には、ミンスク出身のグリンツェーヴィチV.P.(1933-2013)がベラルーシ出身者の偉業について言及した"От Немана к берегам Тихого океaна(ニョーマン川から太平洋岸へ)"(1986年、ミンスク)が展示されていた。全303ページのうち、ゴシケーヴィチを取り上げた章(「白髪領事」)は12ページだ。
 著者のグリンツェーヴィチ氏の名前は、会議前日に訪れたベラルーシ国立文書館のアーキヴィストから、ゴシケーヴィチ研究者として真っ先に挙げられた。第2回ゴシケーヴィチ国際会議の報告者でもある。
 いわばゴシケーヴィチ研究の先駆者と言える氏だが、自著の中(註書き)で、ゴシケーヴィチの墓の所在地はビリニュスの「聖エフロシニア正教会」、没年は1872年、という説を採っている。筆者が腑に落ちないのは、その根拠だ。ゴシケーヴィチが晩年完成させ、息子のヨシフが父親の死後の1899年にビリニュスで刊行した『日本語の語源』(『日本語の語根』などと和訳されることもある。)の序文で、父は1875年に亡くなった、と記しているが、ビリニュスの聖エフロシニア正教会の墓碑には1872年と記されているため、自分(グリンツェーヴィチ)はゴシケーヴィチの没年は1872年だと考える、と説明しているのだ。
 もっとも、ゴシケーヴィチの没年月日、埋葬場所については諸説存在していたようで、今回ベラルーシ国立歴史博物館が作成した移動展用の解説パネルには、ゴシケーヴィチの死亡月日が「10月5日」と書かれていた。
 実はこの類の情報は、メトリカ(正教徒の出生・洗礼日・婚姻日・没年月日などを記した信徒記録簿)を見ればわかるものだ。筆者はベラルーシ国立文書館でゴシケーヴィチの生年月日や洗礼日が記載されたメトリカ(オリジナル)のページを閲覧させていただいた。ただし、文書館のアーキヴィストによると、研究者が最初にゴシケーヴィチの生年を記した簿冊を閲覧したのは2007年と、比較的最近のことだ。ソ連時代にメトリカの閲覧が禁じられていたわけではなかったのだが、ソ連時代にロシア帝国時代の外交官ゴシケーヴィチが研究対象となることはなかった、ということらしい。
 だが、先頃アダム・マリジス教授がリトアニア国立文書館に照会した結果が届き、ゴシケーヴィチは、1875年5月15日(露暦3日)にマリ村で没し、オストロヴェツ市の「聖コジマ・ダミアン教会」に埋葬されたことが証明された。

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「白髪領事」の章

■聖コジマ・ダミアンカトリック教会

 聖コジマ・ダミアンカトリック教会(写真)は、1918年以降、ロシア正教会からカトリック教会になった教会で、ゴシケーヴィチが亡くなった時はロシア正教会だった。教会内部は、イエスとマリア像(カトリック)とイコン(正教会)が共存している。こうした教会がベラルーシには少なくないが、このことを理解するにはベラルーシの歴史を知る必要があろう。

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「聖コジマ・ダミアンカトリック教会」外観。
教会左手奥には聖職者たちの墓碑がいくつもある。だがこの中からゴシケーヴィチの墓碑は見つかっていない。埋葬場所の特定は今後の課題である。

■マリ村図書館のゴシケーヴィチコーナー

 さて、日本から本国に戻ったゴシケーヴィチはロシア外務省に戻り、ペテルブルクで官吏として数年を送るが、1867年には引退した。その後はオストロヴェツ地区マリ村で晩年を過ごし、61歳の生涯を閉じた。
 晩年の地とあって、マリ村の図書館には、常設のゴシケーヴィチコーナーが設けられている。今からおよそ30年前の1986年、「ゴシケヴィッチを偲ぶ旅」(団長:高田嘉七氏)に参加者した方々が提供したのであろう、壁には「函館市立道南青年の家」(現「旧ロシア領事館」)、ロシア人墓地の写真などがきれいに展示されていた。筆者もせっかくなので、自分で撮影した函館のロシア人墓地内のゴシケーヴィチ夫人・エリザヴェータの墓の写真をデータで寄贈し、新たに展示に加えてもらうことにした(1864年に病死したエリザヴェータ夫人は、領事館の敷地内に埋葬された。この土地はハリストス正教会に引き継がれ、1907年の函館大火で初代のハリストス正教会は焼失。焼け跡で見つかった夫人の遺骨と遺品はロシア人墓地に移葬された。長年その場所は不明だったが、1998年に厨川神父が特定し、翌年、同神父によって墓が建てられた。つまり、30年前にはエリザヴェータ夫人の墓はなかった)。

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マリ村図書館の向かいにあるゴシケーヴィチ記念碑

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図書館のゴシケーヴィチコーナー(上)とそこに展示されているゴシケーヴィチとエカテリーナ夫人の写真(左)

■ゴシケーヴィチの屋敷へと続いていた並木道

 マリ村の図書館員によると、ポーランドとの国境に近いこの村の住民は、1941年6月22日、飛行機が上空を飛んで行き、遠目に火の手が上がるのが見えて初めて戦争が始まったことを知った。幸い村はドイツ軍の戦車が通過していくだけで、焼き払われるなどの被害はなかったそうだ。
 それではゴシケーヴィチ関係の品が残っているのかと思いきや、ゆかりの品はないとの返事だった。息子のヨシフがビリニュスに引っ越した際に持って行ったのだろうか。
 唯一、当時の面影を今に残すものは、ゴシケーヴィチの屋敷へと続いていた並木道だ(写真)。再婚したエカテリーナ夫人との間にもうけた息子ヨシフ(ゴシケーヴィチの血を分けた唯一の息子)に囲まれながら、『日本語の語源』を完成させるなど、この地で心静かな余生を送ったことだろう。

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おわりに

 このたびベラルーシから始まった記念移動展、そして国際会議の意義だが、これまであいまいにされてきたベラルーシ時代のゴシケーヴィチに関する正確な情報がベラルーシの研究者の手によって発信され、ベラルーシ時代のゴシケーヴィチの姿が浮き彫りにされたことにより、ゴシケーヴィチをベラルーシ人として捉える(あるいは意識する)きっかけを作ったことではないだろうか。
 筆者自身、今回の展示でゴシケーヴィチの両親の名前を初めて知り、国際会議では地元研究者から、「ゴシケーヴィチの母親は若くして亡くなったため、函館に着任した際に伴ってきたのは「母」ではなく「姑」(妻エリザヴェータの母)だろう」、というご教示をいただき、晩年を送ったベラルーシを訪ねたことで人間としてのゴシケーヴィチについて考えてみたくなった。それまでゴシケーヴィチのことをベラルーシ人として捉える視点を持ち合わせていなかったが、ゴシケーヴィチを捉え直してみた試みが、2014年9月に函館で開催された記念フォーラムでの筆者の報告である(次頁のとおり)。
 最後に、今回ベラルーシ訪問の機会をいただいたこと、そして現地でお世話になった方々には、この場を借りて改めて感謝申し上げたい。

「会報」No.36 2015.3.21 ゴシケーヴィチ生誕200年記念特集号