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函館を訪れたウラジオストクの東洋学院生

2012年4月22日 Posted in 会報

原暉之

 ロシア極東国立総合大学は来年(1999年)、創立100年を迎える。総合大学に成長する前の前身校、東洋学院が要港ウラジオストクの地に誕生したのは1899年のことである。以来1世紀のあいだ、ロシア極東随一の高等教育機関は苦難と栄光の歴史を刻んできた。
 以下で述べようとするのは、草創期の東洋学院の一側面である。その第一期生が研修のため函館を訪問した経緯を少しだけ掘り下げてみたい。
 近隣アジアの外国語、外国事情に通じた専門家の養成を目的に掲げ、ロシア政府大蔵省の主導下に設立された東洋学院は、実学の重視をモットーとした。19世紀の末、中東鉄道(シベリア鉄道が中国東北を横断する短絡線)の敷設構想を推進していた大蔵省にとって、外国語を実地に使いこなせる人材の育成は緊急の課題だったのである。学生に外国研修を課したのも建学の精神を反映していた。
 東洋学院は4年制で、学生・聴講生は2年次への進学時に4つのコース((1)中国語・日本語、(2)中国語・朝鮮語、(3)中国語・モンゴル語、(4)中国語・満州語)のどれかに振り分けられた。中国語は全学の教育に特別の位置を占め、全学年・全コースに共通する必修科目であった。これに加えて、コース別に2学年から日本語や朝鮮語などの専攻外国語が必修となる。
 東洋学院の開校式は新入生31人を迎えて1899年10月21日に挙行された。日本語の授業がはじまるのは彼ら第一期生が2年次に進級した1900~1901学年度からである.日本語の担当は、ペテルブルク大学東洋学部で研鑽を積んだエヴゲニー・スパリヴィン教授と彼が日本留学中にスカウトした前田清次講師の二人であった。一般に東洋学院の語学教育は教授の担当する理論編と外国人講師による実用編からなり、例えば中国語・日本語コースにおける日本語の時間数(理論編プラス実用編)は週当たり2年生で6プラス4時間、3年生で3プラス3時間、4年生で4プラス4時間が課せられた。かなりインテンシブな内容といえよう。
 当初31人をかぞえた第一期生のうち、2年次に進級できたのは全体で18人、うち中国語・日本語コースは6人であった。2年次からの日本語授業がハードだったためか、3年次への進級時にはこのコースで3人が落第した。パーヴェル・ヴァスケヴィチとアレクセイ・コベリョフは無事に1900~1901学年度の単位を修得して3年次に進級したうちの二人である(他の一人は聴講生)。
 1901~1902学年度の成績は1902年5月1日の教授会で判定された。同日の教授会記録によれば、6科目合計30点満点で、21点のヴァスケヴィチは合格、18点のコベリョフは不合格と判定された。進級できなければ落第である。ただしこの場合、不合格者については夏期休暇中に予定される外国研修で好成績を挙げた場合に限って留年できるよう当局に申請する、との留保がつけられた。
 1902年といえば、日本の逓信省が大阪の海運業者、大家七平に命じて交通丸、凱旋丸という2隻の汽船を日本海の甲乙2航路に就航させたことによって日露間の海運アクセスが格段に改善された年であった。ヴァスケヴィチは交通丸で敦賀に渡り、新潟まで足をのばした。コベリョフの派遣先は函館であった。
 帰国後、コベリョフは2本の報告書を提出し、留年を確保した。一方、ヴァスケヴィチはその報告書が優れているとして金メダルを授与されている。
 1903年5月にはヴァスケヴィチを含む第一期生9人の卒業が認定された。1年遅れたコベリョフは本来なら1904年5月に卒業できるはずだったが、日露戦争が勃発したため、卒業は延期となった。開戦と同時に東洋学院は卒業生だけでなく、在校生も高学年生から順次、満州の戦場に教え子を送り出したのである。彼らが担った役割は軍事通訳であり、ヴァスケヴィチもコベリョフも例外ではない。
 その後、卒業試験未実施のまま従軍中の4年生について、同年10月20日の教授会は「みなし」の相対評価で成績をつけ、その上申をうけた国民教育省は翌1905年4月2日づけで彼らの卒業を認定した。コベリョフは「及第」、のちにペテルブルク大学東洋学部で日本語を講ずることになる第2期生ゲンナジー・ドーリャは「優秀」の成績であった。このときの記録から、コベリョフがハリコフ神学校の出身者だったことが知られる。
 コベリョフの卒業後の軌跡は不明である。残されている関係資料は、東洋学院の紀要に掲載された2本の報告書だけである。
 まず「1899年の北海道」は『北海道庁第14回拓殖年報』1901年版を翻訳したもので、コベリョフは序文において、「M・M・ゲデンシュトローム在函館副領事の好意により」同書を入手し、「翻訳にあたっては在函館副領事館付き通訳の笠原氏が多大なる協力を払ってくれた」と謝辞を述べている。
 いまひとつの「函館市および1901年の同市における商工業活動の概要」と題する報告書は8章からなり、函館市の沿革、市と周辺部の現況、人口、工業、漁業、物価、通商、対露貿易を手際よくまとめている。
 東洋学院生の分厚い報告書の行間からうかがえるのは、隣国を真摯に理解しようとする学生たちの熱い眼差しである。日露戦争後には、たとえば函館商業学校にみられるように、日本の学校も日本海の対岸を目的地にして修学流行などを組織するようになる。隣国に対する興味津々の眼差しは彼らにも共通していた。
 ただ東洋学院の場合、研修に出る学生は教師に引率されず、団体を組まず、単身の旅行を経験するなかで、教室で習得した外国語に磨きをかけ、外国の暮らしを肌で知り、情報を詳しく記録して同国人のために役立てた点が際だっていた。
 東洋学院は発足の直後から激動のなかにあった。日露戦争の過程でザバイカル州ヴェルフネウジンスク(現ウランウデ)への疎開を余儀なくされた東洋学院は、第一次ロシア革命のさなか、教授会と学生自治会の対立から、一時すべての教育活動を停止する事態に陥った。
 1920年に東洋学院は極東国立総合大学に改組されるが、大学への改組はソビエト政府によって実施されたのではない(沿海州にソビエト政府の威令が及ぶようになるのは1922年11月からである)。このことは不吉な前兆を刻印づけるものであった。スターリンの「大テロル」が頂点に達した1937年には、極東大学の東洋学関係者が一斉に逮捕され、日ソ関係が極度に悪化した1939年には、大学そのものが閉鎖された(ソ連共産党の対日政策責任者として知られたイワン・コワレンコは、閉校される直前の卒業生である)。十数年の中断をはさんで、極東大学が再興されるのは1956年、日ソ共同宣言が調印される年のことである。
 こうしてみると、極東大学100年の歩みは、悲劇の連続でもあった20世紀ロシア史を映し出し、激動を繰り返した日露関係史を映し出してもいる。
 いずれにせよ、この世紀の初頭に東洋学院生の一人が研修旅行で訪れた函館は、現在ウラジオストクと姉妹提携を結んでおり、しかも極東大学が海外に置いているただ一つの分校の所在地でもある。過去だけでなく現在においても類まれな絆によって対岸の港町と結びついている函館市とその市民にとって、極東大学創立100周年の節目は、おそらく意義深い年となるだろう。

「会報」No.10 1998.12.8