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津軽海峡を封鎖した異国船

2012年4月22日 Posted in 会報

秋月俊幸

 これは、文化4年(1807)5月に津軽海峡を西から東へ通過した或るアメリカ船の話である。この船は3本マストの1万石積(5、6千石積ともいう)ほどにも見える大船で、海峡の両岸を観察しつつ1週間もかけてゆっくりと航行したという。5月19日に箱館の沖合に接近したときは、帆桁の上に5~6人が登って各自が望遠鏡で町の様子を窺っているのが目撃された。
 そのころ箱館には、前年秋のロシア船のカラフト襲撃や同年春のエトロフ島事件の情報が届いたばかりで町中が大騒ぎになっていたので、この船がロシア船と考えられたのはごく自然なことであった。当時この地には幕府の箱館奉行所がおかれ、南部、津軽両藩の藩兵700人余が駐屯していたが、彼らは奉行羽太正養の命で直ちに陣地の構築にとりかかり、夜中はかがり火を明々と焚いて厳重な警戒態勢がしかれたという。老幼者や婦女子は箱館山の山中に避難させられたが、市中の壮年者たちは防衛に駆り出され、街中が未曽有の緊張に包まれたのである。
 10年前の寛政9年(1797)、ブロートンの指揮するイギリスの探検船が、異国船としては初めて津軽海峡を通過したときにも松前では大騒ぎとなり、ブロートンによれば、松前市中には武装した騎馬武者が走り回り、軍勢が配置されて旗、指物がひるがえり、ものものしい警戒が見られたという。そのとき幕府は津軽藩に箱館の防衛を命じるとともに蝦夷地に大調査隊を派遣し、そのことが結果的には幕府の第1次蝦夷地直轄を招いたのであった。しかしこのたびは、ロシア船の北辺襲撃の情報と時を同じくしていので、騒ぎもいっそう深刻にならざるを得なかったのである。ただこの船はなんら害を与えることなく、まもなく汐首崎から恵山岬の方へ走り去ったことが確認されたが、同じ頃津軽領の権現崎や南部領大間崎沖でも異国船が目撃されたので、なお暫くは津軽海峡の交通が途絶したのであった。
 その後北辺ではロシア船による再度のカラフト漁場の襲撃や、利尻島付近における日本船4隻の拿捕焼却の報が相次いだので、蝦夷地周辺を数十隻のロシア船が包囲したという噂が広まった。その結果噂が噂を呼んで情報の乏しい本土では、松前藩の前藩主道広がロシア側に寝返って蝦夷地がロシア人に占領され、箱館奉行羽太もロシア人の捕虜になったというデマさえ流布したほどであった。このようにしてアメリカ船の津軽海峡への出現は、「文化丁卯の変」として知られるロシア船の日本北辺襲撃事件についての同時代の情報に大きな影響を与えたのである。
 ところで、このアメリカ船はボストンを母港とするエクリプス号という船で、船長のジョゼフ・オケインは以前からアメリカの北西岸のロシア植民地に食料や日用品を供給し、毛皮を入手していた。彼は1806年8月に露米会社の本拠地シトカ島(現在のバラノフ島)を訪れたとき、有名な総支配人バラノフにある提案をしたという。 それは露米会社の毛皮を広東へ運んで中国商品と交易するとともに、彼がハワイで見かけた日本の漂流民を伴って長崎に赴き、ロシアのために日本の開港を交渉するというものであった。それまでの交際でオケインを信用していたバラノフはこれに同意し、多数のらっこ皮、てん皮、ビーバー皮をオケインに依託し、二人の露米会社員を同行させたという。
 このような企ては文化元年に来日したロシア使節レザーノフの目的と類似しており、バラノフは前年視察のために同地を訪れたレザーノフから長崎における不成功を直接に聞いていた筈なのに、同様な計画をアメリカ人に依頼したのは不思議である。それどころかレザーノフはこのシトカ島において日本北辺襲撃のためにアヴォシ号を建造させ、またアメリカ船長ドゥ・ウルフからユノナ号を購入して、前月の7月末にこの2隻を率いて出帆したばかりであった。レザーノフは、自分の日本襲撃の意図をバラノフにも隠していたのであろうか。
 広東におけるオケインの毛皮取引は失敗で、予定の価格の半額にも売れなかったという。彼が長崎に入港したのは文化4年(1807)4月27日のことで、広東でこの船に雇われたイギリス人水夫キャンベルによれば、エクリプス号はロシアの旗を掲げていたが、オランダ商館員の抗議でアメリカ国旗に代えたという。それゆえオケインは長崎奉行所役人の取調べに際してはアメリカ船として申告し、寄港の理由も薪水、食料の不足を口実にし、それらの品を得て5月2日に出帆したのである。彼がハワイから日本漂流民を同行しなかった理由については、彼らがすでに外国船によって中国に運ばれていたことを記した文献を見たように思うが、今回は確認できなかった。
 以上のようにこの船は津軽海峡ではロシア船と考えられていたが、それより前に長崎に立ち寄っていたので、やがてアメリカ船であったことが明らかになり、江戸時代に編纂された『通航一覧』のなかでもその記録は「北亜墨利加部」に入れられている。これに対し天保2年(1831)2月に東蝦夷地ウラヤコタンに到来して松前藩の勤番士たちと鉄砲をもって交戦したタスマニヤのホバートを母港とするイギリス捕鯨船の場合は、『通航一覧続輯』の編者たちの先入見によって、その船を「魯西亜国部」に収める誤りを避けることができなかったのである。

「会報」No.9 1998.8.11