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国立サハリン州文書館所蔵資料をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

アレクサンドル・コスタノフ

 サハリン州にはアルヒーフ(以下、文書館とする)は18ある。国立の州文書館は1つ。残る17箇所は市立の文書館で、第二次世界大戦後に設立・整備されたもので、市の歴史資料を取り扱っている。州文書館には1860年以降の資料(下田条約以降のロシア軍関係のものなど)が収蔵されているが、資料は150年のサハリンの歴史を映しだしたように複雑な運命を辿って現在に至っている。その過程は4つの時期に区分される。

第1期 19世紀末~20世紀初頭
 サハリン島の運命と同じく、最古のロシア語の公文書は、1855年の日露通好条約が締結された頃、ロシア軍の哨所ができた時期のものである。この時期の文書は分散と散逸を経て、現在その一部は北海道大学附属図書館北方資料室に(「明治初年樺太関係ロシア語文書」等)、残りの大半はロシアの海軍史料館と文書館に保管されている。
 1875年のペテルブルク条約(樺太千島交換条約)で樺太がロシア領となり、流刑地となった。19世紀末から20世紀初頭のサハリンには、多くの文書があった。これは、流刑地には行政府が置かれ、強固な官僚体制下にあったためである。当時は、バイカル湖東のネルチンスクの流刑地と同様、サハリンも「ロシアのオーストラリア」と呼ばれていた。
 日露戦争が起こった最初の頃は、サハリンはまだ平和だった。1905年7月に日本軍がサハリンに上陸し、3ヶ月に亘る戦闘の後、北サハリンの長官リャプノフ中将が降伏した。しかし、サハリンの公文書は被害を余り受けなかった。これは、リャプノフ長官の命令で、日本軍との戦いの前に、北サハリンの安全な場所に疎開させていためである。ただし、長官自身が持参していた文書は日本の手に渡った。
 降伏したリャプノフ中将の罪状は、(1)防衛戦略が下手であったこと、(2)武装したまま降伏したこと、(3)貴重な資料が敵の手に渡ったことであった。(3)は、民間の資料はロシアに返却されたが、軍の地図は返却されなかった。
 島で最も古い資料は南樺太が日本領になってからもコルサコフに保管され続け、この資料は現在州文書館に保管されている。

第2期 ロシア革命・国内戦争の時代
 1917年にサハリン州の州都は、アレクサンドロフスクからニコラエフスクに移されたが、古い資料は、アレクサンドロフスクに残された。
 1918年のシベリア出兵をへて、1920年にニコラエフスク(尼港)事件が起こり、ニコラエフスクはパルチザンにより全焼した。しかし、アレクサンドロフスクに残された公文書は無事だった。
 1920~1925年、日本軍の北樺太占領下では軍政が敷かれたが、この時、サハリンの資料は日本軍の手に渡った(これが2度目)。日本軍は、ロシアの公的機関の活動を中止させ、全ての資料を一箇所に集めた。アレクサンドロフスクの歴史的資料もここに集められた。日本軍の資料の取扱は丁寧で、財産に関する資料などは、ロシア人が請求すれば与えてくれた。
 日本は、北樺太における恒久的利権を主張し、当時日本に亡命中であった帝政ロシア時代のサハリン州知事グレゴーリエフを首班とする「サハリン自治国家」の樹立を試みた。後に日本軍が北サハリンから撤兵し革命軍がやって来ると、グリゴーリエフは中国に亡命した。
 日本の最大の関心は、非鉄金属、石油、金、石炭がどこに埋蔵されているのかを示す鉱山関係の資料だった。この分野は、当時、日本の地質学者が調査に当たっており、事実上重要な資料であった。この資料により、開発前にロシア人の石油利権者が誰であるかということなども明らかになった。
 日本はニコラエフスク事件に関する資料に関心を持っていた。パルチザン部隊の資料など、資料の一部が日本側に渡されたものと想像するが、どこに行ったのかは不明である。
 1925年、日ソ基本条約が締結されると、モスクワからサハリンに役人がやって来た。アレクサンドロフスクで数週間に亘る話し合いが行われ、この年の5月15日には日本軍は北樺太から完全に引揚げた。協定書には、「公文書の引渡しについて」という項目がある。これにより、北樺太の資料は、(1)ロシアから日本軍の手に渡ったものはソ連側に戻され、(2)日本軍の占領下にあった5年間の資料(日本語と露語、量的には余り多くない)は一箇所に集められ、モスクワに送られることになった。
 ちなみに、1920年代後半は、白軍・反共組織の資料も集められた時代だったが、日本の文書は、コルチャーク政権に関するものなど、反革命文書の中に入れられた。こうして他の反革命文書と一緒にモスクワに送られ、党の秘密文書として取り扱われた。
 1920年代後半~1930年代は、ソ連全土に文書館が設立されていった時期であった。しかし、サハリン州は、中央から遠く、専門家も不足していた。特に1930年代は粛清の嵐が吹き荒れた複雑な時代であり、専門家はロシア極東へは行きたがらなかった。そのため、国立サハリン州文書館が設立されたのは1938年末と、遅かった(注:1947年に独立のサハリン州が設置され、ユジノサハリンスクが州都となるに及び、同文書館はアレクサンドロフスクからユジノサハリンスクに移転した/佐藤京子「サハリン州の文書館」『北海道立文書館研究紀要』第18号)。これ以降、本格的なシステマチックな資料整理が始まった。
 1930年代には、白軍関係の反革命資料のみならず、それ以前の資料も中央(モスクワ)に送られることになった。これは、「共産党史」、「ロシア革命運動の歴史」といったテーマが研究されたためで、研究に必要な関連資料全てであった。サハリン同様に、ネルチンスク流刑地の全ての資料もモスクワに送られることになった。ところが、実際はハバロフスクまでしか送られず、第二次世界大戦まではハバロフスクに置かれた。これは、1930年代後半は大粛清の時代で、上層部にとっては、公文書のことは二の次となっていたためと考えられる。

第3期 第二次世界大戦時代
 1941年、ソ連は独ソ戦で人的・物的のみならず、資料や公文書のかなりの量を失うことになった。この経験から、ロシア極東は、日本軍からの攻撃を受ける可能性が高い危険な地域と認識され、歴史関係や秘密資料は国境付近のハバロフスクから安全なシベリアに移されることになった。
 そして、1943年、トムスクにソ連極東中央文書館が設立された。トムスクに疎開したおかげで資料は失われずにすんだというプラス面があった一方、極東の研究者にとって、長年使いにくい状況に資料が置かれるというマイナス面もあった。
 1992年、ウラジオストクに資料が戻され、ロシア国立極東歴史文書館と名を改めた。ウラジオストクは、トムスクと異なり、保管場所はあるものの、まだ資料目録が完成していない(現在準備中)。ここにサハリン関係の資料も入っている。現在の館長は意欲的な人なので、近い将来使いやすくなると期待している。

第4期 第二次世界大戦終了直後
 1945年8月、対日戦争が始まり、8月11日、北緯50度線を越えてソ連軍は南樺太へ進入した。独ソ戦で受けた大破壊に比べると、こちらは二週間と短期間の戦いだった。難民は出たものの、日本の樺太庁公文書は被害を受けなくても良いはずだった。
 ところが、1945年末、豊原に内務省所管の公文書部が作られ、ロシア人アルヒビスト(文書整理者)は、資料の所在調査を進めたところ、樺太庁時代の公文書がないことに気がついた。理由は、日本国内と同様、南樺太ではソ連占領の直前に、かなりの量の公文書が国家機関によって焼却されたためであった。樺太庁長官の口頭での命令により焼却されたのであったが、警察関係の資料のみならず、民間会社の資料も焼却されてしまった。そのため、道路、鉄道、炭鉱、製紙会社といった、経済活動にとって重要な資料が失われた。行政機関では全ての資料を焼却してしまったため、戦後になって、水道修理をする際なども、図面すら残っておらず苦労した。なぜこのような措置がとられたのか、我々には理解し難い。しかも、ソ連側の北サハリン行政府の公文書についても、なぜか焼却措置が取られた。
 大津敏男樺太庁長官は逮捕され、シベリアに送られた。取調べでは、公文書は炭鉱かどこかに隠しているのではないかと疑われたが、どこにも隠していないことが判明した。1947年、ソヴィエト政権は、残った公文書(トン単位、袋・車両単位で計測)を一箇所に集める作業を行った。しかし、残ったものの中に歴史的資料は少なく、反古紙同然で、価値のないものばかりであった。
 当時、サハリン州には通訳官が不足していたため、ハバロフスクにこれらの資料は送られた。そこで重要書類と非重要書類に分けられ、15年間をかけて公文書の目録作りなど、資料整理が行われた。
 これらの資料は「戦利文書」として、サハリンに戻された(注:1963年に非公開文書として国立サハリン州文書館に受け入れられた/前掲佐藤京子論文)。1980年代末までは、研究者はアクセスできなかった。私は1987年から文書館で働いているが、自らも戦利品があることは公表しなかった。
 1991年に初めて日本の研究者がやって来た。この時初めて資料室へ案内した。日本人は皆驚いた。この後、ジャーナリストも大勢やってきた。最近では普通に取り扱っており、自由に閲覧できる。
 1995年、日本の資料全てを新目録に入れた(「樺太コレクション」)。日本人の協力で、分類名を日本語で作成した。この目録は堀知事宛に寄贈され、北海道立文書館に保管されている。3年前には、堀知事が公文書部を視察に来た。
 1997年には、資料集『南樺太におけるソ連の軍政時代(1945~1947年)』を出版した。現在は、1890年にチェーホフがサハリンを訪れ、人口調査を行った際の資料の整理が進行中である。
 なお、現在サハリン州には資料・文書などを扱う類似機関は100箇所ある。

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国立サハリン州文書館資料案内
(A.Iコスタノフ氏は監修者の1人、ユジノサハリンスク、1995年)

(報告者:サハリン州行政府文書館部部長、報告会通訳:A.トリョフスビャツキイ)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度報告会