函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』を刊行して

2013年4月10日 Posted in 会報
 大西剛

遠いロシアと近いロシア
 あるとき大学生に、ソ連時代のロシアはアメリカと並ぶ先進国だった、と言うと、エッ、と驚かれた。それが逆に自分にとっては驚きなのだが、今のロシアが往時ほどのプレゼンスをもち得ていないということは私にも十分理解できる。それでも、今も軍事的には大国であろうし、日ロ間には領土問題が横たわっている。正直なところ日本人の間ではネガティブなイメージの方が強いのかもしれない。
 一方で、関西で育った人間としては、軍事や領土問題とはまた違ったロシアの甘い甘い記憶がある。
 かつて大阪にパルナスというロシア菓子の会社があって、高級洋菓子の代名詞だった。誕生日やクリスマスが近づくと、パルナスのケーキが食べられることを心待ちにしていたものだ。パルナスという言葉の響きは、今の高級洋菓子ブランドが束になってもかなわないほど、まぶしさに満ちていた。
 パルナスはピロシキでも知られていた。パルナス以外の「まがい物」のピロシキもあったが、パルナスの本物はゆで玉子の砕いたものが入っていて、それはたいそう美味しかった。当時はまだ玉子は貴重品であり、たまにではあるがパルナスのピロシキ食べるたびに、玉子を惜しげもなく入れるなんて、やはり先進国の食べ物は違う、という思いを強くした。
 マクドナルドの日本第1号店が誕生するのは、大阪千里万博が開かれた翌年の1971年のことだが、この私の記憶はそれ以前に遡る。そんな時代にあって、ピロシキは数少ない異国の香りのする食べ物だった。だからその記憶は強烈で、私自身はハンバーガーには目もくれないが、ピロシキと聞くだけで今もなお食指が動く。
 私が函館市民になる前、まだ旅行者として函館に足を運んでいたころ、港ヶ丘通りや八幡坂を歩くたびに、その甘いロシアを思い出した。そして、函館の人はロシアにどんなイメージを抱いているのだろうかと興味をもった。
 港ヶ丘通りと八幡坂とのT字路は、記念撮影の名所として、シーズン中はひっきりなしに観光客が訪れる。そのすぐ脇に、ロシア極東連邦総合大学函館校がひっそりと佇んでいる。ハレとケとでも言うべきようなその対比。坂を下ったその先に浮かぶ摩周丸をバックに夢中で写真を撮る人々に、意外と足元の景色は目に入らないのかもしれない。私にしても偶然目にしたというだけで、函館に来るまでは日本にロシアの大学の分校があることも知らなかった。だが、ここにそれがあるという風景は、函館市民にとっては、至極当たり前のことのはずだ。その「当たり前にある」という感覚は、いったいどのような感覚なのか。
 関西にいると、普段ロシアを意識することはまずないが、学生時代に根室に初めて行ったときには、北方領土の早期返還を叫ぶ看板の多さに驚いた。一方、同じ北海道でも函館には、ロシアの大学の分校があって、ロシアをルーツとする教会が町のシンボルになっている。幸坂を上って行けば「旧ロシア領事館」というのもある。根室のロシアは、函館のロシアよりも遠い国かもしれないし、関西からよりも、見方によってはむしろ遠い国とも言える。同じ日本国民でも、住んでいる場所によって各国との距離感は違ってくるし、直線距離では測りきれない遠さと近さがあるのだろう。

国際都市函館の始まりはロシア
 ロシア極東連邦総合大学函館校を最初に目にしたのは2008年の秋、私としては4年ぶりに函館を旅したときのことだった。それ以降、私は毎月、函館に来るようになった。当時は京都に住んでいたが、やがて住民票をこちらに移し、2011年秋に「新函館ライブラリ」という出版社をスタートさせた。
 最初はリスクもコストも小さくて済む電子書籍を中心に、と考えていたが、今の日本の出版環境では埒が明かず、2012年3月、初の印刷本として中尾仁彦氏の『箱館はじめて物語』を上梓した。高田屋嘉兵衛以来、海外に開かれた町であった函館の誇る「日本初」「北海道初」を経糸に、函館の歴史をわかりやすく解説した書籍である。
 その編集時のことであるが、本文関係ではあらかたの作業が終わり、表紙のデザインの制作に入った。当初は元町公園下にあるペリーの銅像の写真を使ったレイアウト案を考えていたが、歴史に詳しいある方の「はじめてならアメリカよりもロシアでしょう」という一言を素直に受け止め、ハリストス正教会の聖堂に朝日の射す写真をメインに据えた。
 開港都市函館のはじめてがアメリカというのは、あまりに教科書的に過ぎると言える。確かに条約上の開国は、日米和親条約の締結とそれに伴うペリーの来函ということになるのだろうが、私がこの場で述べるまでもなく、函館とロシアとの関係は、はるか以前に遡る。
 恥ずかしながら私の「歴史認識」はたかがその程度であり、以後もさして進歩はないが、2012年の夏、そんな私のところに、一通のメールが送られてきた。要旨は以下の通りだった。

・ハリストス正教会の司祭であった自分の祖父が翻訳し、1923年(大正12)に富山県の高岡新報に連載した『十五歳の露國少年の書いた勘察加旅行記』を復活させたい
・これは1918年にロシア人親子3人がカムチャッカを旅行したときの日記であり、経由地函館の町の様子やカムチャッカでのデンビー商会、『デルス・ウザーラ』の著者であるアルセーニエフとの出会いなどが書かれている。
・私家版として出版し、国立国会図書館等へ献本することで後世に残すことがいちばんの目的である。原稿のPDFファイルを添付したので、負担が少ない方法や率直な意見をお示しいただきたい

 駆け出しの出版社にとっては、こうして声をかけていただけるだけでありがたかった。だが、印刷・製本、編集費まで含めて、まともに計算するとかなりの金額になる。見積を出して驚かれはしまいか。
 売れそうな本ならば、費用は全部こちら持ち、あるいは編集費だけでも無料にして、販売利益を編集費に充てるという方法もあるが、それにしてもテーマがあまりに地味過ぎはしまいか。駆け出しの出版社であるがゆえ、あまり売れそうにない本を出すような余裕はない。
 そんなことを思う反面、函館に関係する本なら、書店売りをする本として、きちんとしたかたちで出してみたいという気持ちもあった。
 しかし函館はあくまでも経由地に過ぎない。翻訳者がハリストス正教会の司祭をしていた、とあるが、その経歴をよく読むと、残念ながら函館ではなく本州のハリストス正教会の司祭だった。また、その時点での私は、デンビー商会についてすらも、戦前の函館で手広く商売をしていた、という程度の知識しかなかった。

『カムチャツカ旅行記』の刊行
 ともあれ原稿を読んでみなければ何とも言えない。旧かな遣いで書かれたその原稿は決して読みやすいものではなかったが、期待半ばで読み進めていくうち、好材料がポツリポツリと見つかってきた。
 往路、函館ではデンビー商会の支配人の自宅を宿に1週間滞在している。その間、市電に乗ってオペラ鑑賞に出かけたり、大沼へ1泊の魚釣り旅行に出かけたりするが、一般の歴史書ではそんな場面は記載されるはずもない。そういった旅行記ならではの記述から、当時の函館の町の様子が垣間見られた。
 2カ月半に及ぶカムチャツカ滞在の宿舎となったのは、函館と縁の深いデンビー氏の別邸だった。別邸の近くにあったデンビー商会の鮭缶詰工場にも足を運び、その高度に自動化されたラインについて克明に描写していた。函館からやってきた船大工が、ロシアとは違う方法で船を修理している様子についても興味深げに綴られていた。
 この旅行記が商品として成り立つものかどうかは相変わらず未知数だったが、原稿に一通り目を通したときには、これを出版しようという気持ちが強くなっていた。依頼者との条件面での折り合いもつき、早速、編集に取りかかった。
 まずは、旧かな遣いのまま編集を行い、約1カ月後の8月初旬に、電子書籍として無料公開を開始した。これは、早くかたちになったものを見たい、という依頼者の要望を請けてのことである。
 その後、印刷書籍として有料販売するべく、読みやすい現代かな遣いに焼き直すとともに、当時の函館やカムチャツカ、あるいはデンビー商会に関する説明資料を付け足すことにした。
 その過程で、元函館市中央図書館館長の長谷部一弘氏から、市立函館博物館に旧日魯漁業株式会社が寄贈した写真帳があるはずであり、当時のカムチャツカの様子を知る上で参考になるだろうとのアドバイスをいただいた。
 このときすでに季節は冬になっていた。現代かなに置き換えるのは予想以上に手間のかかる作業だった。これは後で知ったことだが、厳寒の博物館収蔵庫から資料を取り出し閲覧するというのは容易ではない。たとえば冷たいままの写真帳は、めくるだけで写真が割れる。かといって急に温かい部屋に運ぶと写真の表面に結露が生じる。
 そういう中で閲覧を願い出た私に対し、市立函館博物館では、まず資料を前もって収蔵庫から暖房の入っていない部屋へと移して、穏やかに「冷蔵状態」を解き、閲覧当日は朝から暖房を入れ徐々に常温に戻していく、という手間な作業をしてくださった。労をお取りいただいた同館学芸員保科智治氏にはこの場を借りてお礼を述べたい。
 膨大な収蔵点数を誇る市立函館博物館では、各資料・史料の詳細や寄贈あるいは製作された背景を特定することも慎重を要する作業となるが、以前に博物館で「街と歩んだ北洋漁業~ニチロ創業100年」という企画展が催された際の担当者で、旧日魯漁業関係の資料に詳しい佐藤智雄氏(現在は函館市教育委員会文化財課学芸員主任)が、師走のお忙しい中、そのときの記憶をたぐり寄せながら、親身にご対応してくださった。
 また、デンビー商会や当時のカムチャツカに関する資料はないものだろうかと函館市中央図書館に相談したところ、同館主任主事の奥野進氏が函館・八幡坂にあったデンビー商会の写真をお出しくださるとともに、『函館・ロシア その交流の軌跡』(清水恵著・函館日ロ交流史研究会刊)という書籍をご紹介くださり、追加資料の作成に大いに役立つこととなった。
 各位のご指導、ご協力のおかげで、旧かな版の編集段階では気が付かなかったことがわかってきた。本誌の読者には当たり前のことかもしれないが、当時のカムチャツカはサケ、マスの宝庫として日ロ両国から熱い注目を浴びた有望の地であり、函館を拠点にいちはやく事業を展開したデンビー商会と、まだ黎明期であった日本の北洋漁業の推進者として頭角を現した旧日魯漁業株式会社がしのぎを削り、その製品である鮭缶詰のヨーロッパ輸出は巨万の富を生み出そうとしていた。そしてデンビー商会や日魯漁業が現地ににおける事業の中心地と定めたのが、まさに少年の旅したウスチ・カムチャツクであった。なお、「鮭缶を売って軍艦を買った」と言われるほどに、函館を拠点に展開された北洋漁業は、当時の日本において貴重な外貨獲得源の1つであったという。
 さらに興味深いのが、少年の旅した1918(大正7)年は、ロシア革命の翌年であるということだった。要するにデンビー氏のようなブルジョワジーは、未曾有の窮地に追い込まれようとしていた。事実、同年5月に、デンビー商会は三菱合資会社主導で設立された北洋漁業株式会社に買収されるという形をとり、デンビー氏は名目上、漁場経営の表舞台から退く。それにも関わらず、その翌月である6月から9月にかけて、ウスチ・カムチャツクで少年たちを迎え入れ、ともに狩猟三昧の日々を送るのだ。
 その心中、いかばかりだったろうか。ただ、発動機船で遠路熊猟に向かいながらも、デンビー氏一人が野営地に留まり猟に出ないといった場面があるなど、そういった背景を意識して読めば興味をそそる描写も散見される。
 また、その4年後の1922年には北洋漁業と旧日魯漁業が合併、デンビー氏はウスチ・カムチャツクでの事業から完全に手を引かざるを得なくなり、少年が足を運んだデンビー商会の工場は、旧日魯漁業の工場となった。ちなみに本書には、市立函館博物館が所蔵する旧日魯漁業製作の写真帳『東カムサッカ漁工場他事業風景』から、その外観や缶詰生産ラインの写真を、少年が旅した風景を想像するための参考資料として転載させていただいている。
 なおこの旅行記は、少年の父親がロシアでの出版を考えたが、革命の影響で出版活動が停止されたためそれがかなわず、結局ベルリンで出版されることとなるが、それがこの1922年のことだった。そしてその翌年、依頼者のメールにもある通り、日本語に翻訳されて高岡新報に掲載された。本書の巻頭には、高岡新報の掲載予告広告の文面も収録しているが、十五歳の少年の旅行記が新聞に載ったという事実は、この時代、カムチャツカにいかに高い関心が寄せられていたかということを物語っている。
 『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』〈復刻改訂版〉は年末ぎりぎりに編集が完了。印刷・製本を経て2013年1月23日に、まずは函館市内で先行販売を開始した。それからまだ日も浅いが、予想していたよりも興味を感じてくださる方が多く、「ロシア語の原書を知っていて、日本語版があれば読みたいと思っていた」という方がいらっしゃるという話を人づてに聞くなど、改めて函館とロシアの近さを実感することとなった。私自身もこの本の編集を経て、ロシアという国を少しは近くに感じるようになったのかもしれないし、北洋漁業については、「あの時代の函館はよかった」という語り草のレベルを超え、日本という国全体に果たしたその役割の大きさは、いつまでも語り伝えるべきだと思えてならない。
 本書はあくまでも十五歳の少年の手によるものではあるが、その観察眼はなかなか鋭い。どこかでお手にとっていただければ幸いである。

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刊行された『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』〈復刻改訂版〉
(新函館ライブラリ代表)

「会報」No.34 2013.3.31 特別寄稿