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ガブリール・クラマレンコ:アストラハンからサハリンまで

2013年4月 9日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 先頃、ジョルジュ・クラマレンコ著・松本高太郎翻訳『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』復刻改訂版が出版された(1)。同書は、1917年に首都サンクトペテルブルクで勃発したロシア革命の翌年に当たる1918年の夏、横浜のセント・ジョセフ学院に通っていたジョルジュが、末弟のアーシャと共に父親(ガブリーフ・クラマレンコ)に連れられて向かったカムチャツカでの日々を綴った旅日記である。この復刻改訂版の出版のことは、本号で大西剛氏が詳しく触れている。
 ガブリール・クラマレンコは、19世紀末から20世紀初め、サハリンそしてカムチャツカで活躍した漁業家で、かつては函館の漁業者の間で良く知られた存在だった。
 ところが、クラマレンコ研究が日本ではほとんど行われていないこともあり、今ではその名もすっかり忘れ去られてしまった。筆者自身、サハリンの元流刑囚漁業家ビリチと同時代、しかも同じ地域(サハリン・ウラジオストク・函館・カムチャツカ)を舞台に活動した同業者ということで、以前からクラマレンコに注目していたが、特に調査研究を行ってきたわけではなかった。
 しかし、このたび『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』の復刻改訂版が出版されたことで、筆者のクラマレンコへの関心は一気に高まった。ジャーナリストのドロシェーヴィチ(2)、宣教師ニコライ(3)、動物学者で魚類学者のシュミット博士(4)といった、クラマレンコの同時代人によるクラマレンコに関する記述、あるいはクラマレンコの活動の場であったカムチャツカ(5)やウラジオストク(6)の研究者が近年発表した研究論文等を手に取ってみると、思いのほか情報量は多く、内容的にも非常に興味深いため、是非とも本号で紹介したくなった。
 本稿は、これまで日本で紹介されることのなかった、サハリンで漁業経営者として成功するまでの若き日のクラマレンコに光を当てる。それとあわせて、ロシア革命以降、クラマレンコ一家がたどった過酷な運命についても触れる。
 『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』を補完する情報として読んでいただければと思う。

■生まれ故郷アストラハン
 ガヴリル・アモーソヴィチ・クラマレンコ(Гаврил Амосович Крамаренко)は、1867年3月31日にアストラハンの町人階級の家に生まれた。アストラハン郡の中等専門学校を卒業し、13歳からクズネツォフ兄弟漁業商会の事務所で働くことになった。13歳で少年クラマレンコは両親を亡くし、それ以降、自立の道を切り開かなければならなかったのである。
 クズネツォフ兄弟漁業商会でクラマレンコは、事務所の会計係として働いた。漁業に携わったわけではなかったが、アストラハン県はロシアでも有数の漁獲量を誇る土地である。1週間の鰊が、丸々一年の生活を養ってくれた。そのため鰊到来の時期ともなると、本業はさておき、事務所の全員が漁を行う労働者を監督するため、現場に派遣された。そこが、クラマレンコの学び舎であり、あらゆる知識の源となったのである。
 1892年、クラマレンコは狂犬病に罹った犬に噛まれた。その治療のためモスクワに送られた。同地でたまたま購入した飢餓救済富くじが大当たりし、1,000ルーブルを手にした。これがクラマレンコの人生の大きな転機となる。
 「幼いころから冒険心にあふれる少年だった」、「サハリンやアムール川の魚の豊かさについて新聞で読んだことがあったため、極東に向かう決意をした」、と後年クラマレンコは回想しているが、「クラマレンコは、運試しに極東に向かう決心をした」(シュミット博士)、「進取の気性に富んだ性格でもあり、そろばんを捨て、腋の下にバイオリンを抱え、この時代多くの人々を惹きつけたウスリー地方へと向かった」(ドロシェーヴィチ)という同時代人の指摘からは、若きクラマレンコは、漠然とした夢を抱きつつ、新天地を目指したといった方が正しいであろう。

■極東の「オルフェウス」
 ウスリー地方(現在の沿海地方南部のこと)に到着したクラマレンコについて、ドロシェーヴィチの記述を借りれば、以下のとおりである。
 クラマレンコは「すぐさま成功を手にした」。「ウスリー地方全域が、彼のバイオリンの意のままに行動したとも言える。結婚式、洗礼式、名の日に演奏し、エキゾチックな君主のわけのわからぬメダルで身を着飾り、「アフガン、ブハラ、そしてお人よしのキルギスの君主の宮廷の名手」としてコンサートを行った」。
 クラマレンコのバイオリンを前に人々は狂喜した。故郷を捨て、ロシアやウクライナとは何もかもが異なる極東の地で暮らし始めた人たちに、青年クラマレンコがもたらしたのは、故郷ロシアあるいはウクライナを想起させる文化的な香りであり、余興の少ない未開の地での一瞬の空騒ぎといったところだろうか。
 しかし、「こうした様々な芸術に、彼自身、そしてウスリー地方の人々もすっかり飽きてしまった頃、クラマレンコは「演奏のために」サハリンへと去っていった」。

■漁業家へ転身
 クラマレンコがサハリンに到着するまでの経路について、同時代人のシュミット博士は、「1894年にウラジオストクに到着し、アムール川河口、そしてニコラエフスクに出かけ、サハリンに分け入った、と説明している。
 潤沢だった所持金も、サハリンに到着する頃には見事に消えてなくなっていた。バイオリンだけが残っていた。そのバイオリンで演奏を披露し、バイオリン教室を開き、一時的に凌いだ。
 しかし、それも長くは続かなかったようで、1895年、3年の期限で、サハリン島の監獄の漁労に対する「技術上の監督官」に任命された。「地元の官憲の勧めを受け」たため、とクラマレンコはドロシェーヴィチに説明したようだが、シュミット博士の、「サハリン島東海岸の漁労監督官のポストを得ることに成功し」た、との記述から想像するに、アストラハン時代に漁業者の監督した経験をアピールし、仕事にありついた、というのが真相ではなかろうか。
 いずれにせよ、この職を得たことは、クラマレンコのサハリンでの不安定な生活を安定させただけではなかった。漁業監督官として島の全ての海岸を巡視した経験を通して、クラマレンコは漁業のことを完全に理解した。そしてこの時得た情報は、魚の加工場を発展させる際に大いに役立つことになる。
 1896年には、サハリン島長官から漁場を借り受け、日本人とともにコルサコフに近い「ピェールバヤ・パーチ」(日本名で「一ノ沢」)で漁業を開始した。
 このようにして、アストラハンの事務所の会計係は、極東のバイオリン弾きを経て、漁業家へと転身したのである(7)。

■漁業家への道の模索
 エニセイ県出身のヤコブ・セミョーノフ、あるいはロシアに帰化したスコットランド出身のジョージ・デンビーのように、サハリン島が昆布や魚が豊富だという噂を聞きつけて、はるばるやって来た冒険心にあふれた人たちがいたのも事実だが、当時のサハリン島が流刑地であったことを忘れてはならない。つまり、自由意志でやってくる人はまれだったということである。そのため、クラマレンコがやって来るまでは、大量の鰊が上がればそれを食べることはしたものの、余った魚を塩蔵するという、加工について考える者はいなかった。おかげで、クラマレンコ程度の知識や経験でも、当地では珍重されたというわけである。
 しかし、クラマレンコがすぐに漁業家として成功したわけではない。知識不足からくる失敗があり、そこから学んでいった。一例を挙げると、クラマレンコは、ただ同然の支払いをしただけで、囚人労働で工場、地階、地下室を建てさせた。ところが魚を納める穴倉は魚を腐らせるだけで役に立たず、また魚を塩漬けにするための地下室からは塩水が漏れ出し用を成さなかった。これは何も囚人労働に問題があったからではなく、建造物の建て方を知らないクラマレンコに非があった。
 当初、クラマレンコは、監獄に魚を供給し、その代わりに毎年少額の助成金を得ていた。そして日本人漁業者には批判的で、大挙してサハリンに押し寄せ、鰊のような価値ある魚を、食用とするのではなく、大釜で茹でて肥料としていることに対して、「蛮行だ」、日本の漁業者は「濫獲者」だと声高に叫び、非難した(1896年の「サハリンカレンダー (Сахалинский календарь)」に論文を発表)。
 ところが、日本人と鰊の〆滓を作り、肥料として日本に販売し、日本人に漁場を貸す名義人となることが、助成金を得るよりもはるかに大きな利益をもたらすことを理解するようになると、クラマレンコは、自ら「濫獲者」の道を選んだ。

■独立した事業の拡大へ
 ジャーナリストのドロシェーヴィチは、クラマレンコの事業は、地元の人たちにとって何の役にも立っていないと非難し、資源豊かなサハリンは、ロシアで脱落した人たち、あるいは濫獲者たちの餌食になっていると嘆いた。しかし、当のクラマレンコは、次なる目標を立てていた。事業の拡大には会社を設立しなければならず、それには資金調達が必要だと考えた。
 1897年、東京経由で、オデッサ、ペテルブルグ、そしてアストラハンに向かった。東京駿河台の宣教師ニコライを訪ねたのは、同年10月22日(露暦11月3日)のことである。同日のニコライの日記によると、クラマレンコは、自分の事業計画案がプリアムール総督のドゥホフスコイに積極的に支持されており、公的補助金が支給されるよう奔走することを約束されたこと、総督と二人並んで写真を撮ったほど仲が良いこと、峡谷(8)にクラマレンコの名を冠することを命じたことなど、あれこれと自慢げにニコライに話したようである。
 故郷アストラハンでは、地元の大漁業家の関心を自分の事業に向けることに成功した。その中には、K.P.ヴォロビヨフ、そして保存期間の短い物資の輸送を専門としているN.V.ヴェレシャギンが含まれていた。クラマレンコは、資金調達のみならず、大規模な漁業経営法や長距離輸送のノウハウなど、今後の事業展開に必要な事柄を故郷で貪欲に学んでサハリンに帰って行ったに違いない。
 この時の旅には、もう一つ大きな目的があった。1898年、首都サンクトペテルブルクで、農務省と国有財産省を訪れ、全く新しい方向性で事業を発展させるために、現在日本人が借りているテルぺニア湾(日本名「多来加湾」)の4つの漁区とアニワ湾の8つの漁区を自分に貸与してほしい、と陳情したのである。「全く新しい方向性で」とは、日本人漁業者に握られているサハリン漁業を、ロシア人漁業者の手に移すことを意味していたとも受け取れる。
 サハリン南部に進出する日本人漁業者が年々増加するに従い、ロシア政府は日本人漁業者の進出を抑制し、自国民優遇策を採るようになっていく。決定的だったのが、1899年のアムール川漁業規則である(9)。
 これ以降、日露戦争が勃発するまでの数年間は、クラマレンコ、セミョーノフ、デンビー、さらにはビリチといった、サハリンのロシア人漁業家の黄金時代となる。日露戦争が勃発した年の1904年には、サハリン開拓で貢献したクラマレンコは、世襲名誉市民となった。

■クラマレンコ一家のこと
 以下では、断片的ではあるが、クラマレンコ一家についてまとめてみたい。
 G.A.クラマレンコの妻は、出自はポーランドで、シェホフスカヤの出身だった。二人の間には、長男ガヴリール(呼び名は「ガガ」)、次男ゲオルギー(同左「ジョルジュ」)、三男ニコライ(同左「コカ」)、四男アレクサンドル(同左「アーシャ」)そして長女マリア(同左「マルーサ」)の5人の子供がいた。
 長男・次男・三男の3人は、ツァールスコエ・セローで学んだ後、イギリスで学んだ。
 1910年5月22日、クラマレンコは、もうすぐ11歳になる長男ガガを伴い、カムチャツカを訪れた(10)。
 ところがロシア革命を機に、クラマレンコ一家の生活は一変する。
 1917年のロシア革命の初め(筆者注:2月革命から間もない時期に、の意か?)、クラマレンコは、寄宿制の女学校に通っていた長女のマルーサを呼び戻し、妻、マルーサ、次男、四男を日本に向かわせた。
 日本に着いてからのマルーサは、神経を患うようになり、入院が必要となった。日本でこの手の病を治療することが難しいと判断したクラマレンコは、ペトログラードに向かう精神科医夫妻に娘を託し、連れて行ってもらうことにした。
 一方、日本に残った次男ジョルジュと四男アーシャは、横浜のセント・ジョセフ学院に通い始めた。そして1918年の夏休み、父親、すなわちクラマレンコに連れられ、カムチャツカを訪れた(その時のことは『十五歳の露国少年の書いたカムチャツカ旅行記』参照)。
 1918年の夏の時点で、長男ガガと三男コカはアルハンゲリスクにいた。なぜそのような遠い北辺の地に、両親や他の兄弟と離れていたのか、理由については明らかでない。

■一家のそれぞれの運命
 革命後、5人の子供たちの運命は様々だった。まず長男ガガについては、英国のカレッジで小型漁業船の技術免許を取得した後、第4ペトログラード商業学校を即席コースで終了した。1920年代末には、ウラジオストクに暮らし、ここで専門学校を特別に終了し、「ダリゴスリィブトラスト」で主任技師として働き、いわし漁のための引網船を造った。
 1927年以降カムチャツカの漁業会社(ACO)に所属し、新規の漁区の開拓や魚の缶詰工場建設など漁業の方面で、あるいは農業や林業経営でも力を発揮した。その後、カムチャツカのカラマツで漁獲用の小型の船を造ることを発案したことから、クリュチ市の木材加工コンビナートで働くことになり、そこで造船所建設の陣頭指揮に当たった。
 これらのことから、ソヴィエト政権初期の頃は、カムチャツカで活躍していたことがわかるが、1938年2月18日、内務人民委員部によって逮捕された。1940年10月26日には、8年間の自由剥奪を言い渡された。1946年8月13日に自由を回復した後、1981年までトボリスクの船舶工場で働いた。1991年1月20日死亡。
 最近までウスチ・カムチャツカ地区クリュチ市ベレゴヴァ通りには、ガガ一家が暮らしていた家が残っていた。
 次男ジョルジュと四男アーシャは、共にロシアから亡命。長男ガガ(ガヴリール)の息子ゲオルギー・ガヴリロヴィチによれば、二人はモロッコに暮らし、映画スタジオで働いていた。
 三男コカは、パリでタクシー運転手をしていたという説もあれば、白軍のデニーキン軍の戦線で戦死したとの説もある。
 マリア・ガヴリロヴナは、レニングラードに暮らしていた。
 クラマレンコ夫妻は、革命後亡命し、1928年に二人は死亡し、二人はドイツのベルリンに眠る。別の資料(ヒサムトディーノフ論文)によると、夫妻は亡命後、イギリス、フランスで暮らした。1928年10月10日、クラマレンコはパリで死亡した。

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長男ガガ(ガヴリール・ガヴリーロヴィチ・クラマレンコ)http://www.npacific.ru/np/library/publikacii/questhist/istor-25.htmより


(1) 原文は、Крамаренко Жорж. Камчатка Моё путешествие и моя охота на медведей и горных баранов в 1918г. Дневник 15 летнего школьника. Изд.Ольга Дьякова и Ко., Берлин.
(2) Дорошевич В.М. Сахалин (Каторга). М., 1903. ロシア人ジャーナリストのドロシェーヴィチは、作家アントン・チェーホフのサハリン来島から6年後の1897年に流刑地サハリン島の社会調査のため訪れた。首都に戻ってから、著書『サハリン(徒刑地)』を発刊する。同書の中で、サハリン来島以前、サハリンで漁業家として歩み始めた若き日のクラマレンコについて、「サハリンのオルフェウス」と題した一小節の中で触れている。
(3) 中村健之介訳・解説・註解『宣教師ニコライの全日記』第5巻、教文館、2007年。
(4) Шмид П.Ю. Морские промыслы острова Сахалина. Рыбные промыслы Дальнего Востока III. Спб., 1905.
(5) Борисов В.И. Семья Крамаренко на Камчатке // Вопросы и истории рыбной промышленности Камчатки. Сборник трудов. Вып.10(2). Петропавловск-Камчатский, Изд-во КГТУ, 2000. С.77‐89.
(6) Хисамутдинов А.A. Русские в Хакодате и на Хоккайдо или заметки на полях. Изд. ДВГУ, Владивосток, 2008.С.275.
(7) クラマレンコが直接漁業に携わるようになった時期や場所については、カムチャツカの研究者ボリソフ論文には、「1893年、プリアムール地方に到着し、そこで漁獲方法や販売市場に関する知識を得た。1894年、F.F.ブッセ移民局長の勧めを受け、アムール川で漁業を始めた。」、とあり、サハリン来島以前から漁業に関与していたことを示す資料もある。なお、フョードル・F.ブッセは、1882年から1892年までの10年間、南ウスリースク移民局長を務めたが、1884年ウラジオストクにアムール地方研究協会の起ち上げに尽力し、同協会の初代執行委員長を5年間務めるなど、学者としての評価も高い(Приморский край. Краткий энциклопедический справочник. Владивосток, 1997.С.58-59.)。ニコライ・ブッセは従兄。
(8) ロシア語で"падь"(Дневники святого Николая Японского. Под ред. К. Накамура. СПб., 2004.Т.3.С.616.)。1896年にクラマレンコが借り受けたピェールバヤ・パーチ」(日本名で「一ノ沢」)のことを指しているのかどうかは不明。
(9) この頃の状況について、『函館市史』(通説編第2巻第4編1147頁)には、明治31(1898)年は、新規則が調査中とのことで、旧規則が1か年適用されるが、6月には営業税率の改定を布告し、この実施をみた明治32年には樺太島の最良漁場であったアニワ湾内5か所とホロナイ川口海浜漁場をロシア人クラマレンコに許可した、と書かれている。
(10) この時、長男ガガも紀行文を残し、1910年にサンクト・ぺテルブルクで『ペテルブルクからカムチャツカまで、そして日本へ』として出版された(Крамаренко Г. В Камчатку: От Петербурга до Камчатки и в Японию. Путешествие школьника, опсанное им сами. СПб., 1910.)。参考までに、カムチャツカでクラマレンコ親子は、「古くからの知人ビリチ」のところに宿泊した。

「会報」No.34 2013.3.31 研究ノート