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色丹島訪問記 ――北方領土問題を考える――

2013年4月10日 Posted in 会報

小川正樹

はじめに
 筆者は2012(平成24)年8月3日から6日まで、社団法人北方領土復帰期成同盟が実施した北方四島交流(教育関係者・青少年訪問)事業に参加し、色丹島を訪問してきた。近年、尖閣諸島や竹島など、領土をめぐる問題が社会の注目を集めている。この中で、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる、いわゆる北方領土の領有問題は第二次世界大戦・太平洋戦争での敗戦から現在に至るまで、60年以上にわたって解決されてこなかった、極めて重大で深刻な問題である。北海道で学ぶ児童・生徒は必ず北方領土問題を学習するが、児童・生徒の意識は世代・地域により差があると言わざるを得ない現状である。
 2012(平成24)年、本校生徒会長戸田幸一郎君から相談を受けたことから、今回の色丹島訪問は始まった。戸田君は前年、「"北方領土を考える"高校生弁論大会」に参加し、領土問題の重大さを認識し、さらなる学習と知識を広げるため、北方四島交流事業への参加を強く希望していた。こうして、筆者の北方世界への関心と戸田君の領土問題に対する情熱が結びついて、今回の色丹島訪問が実現した。

1 北方四島交流事業とは(1)
 1991年4月18日に日本の海部俊樹首相とソ連のゴルバチョフ大統領の名によって日ソ共同声明が発せられた。その第4項目では、歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属について、日ソ双方の立場を考慮しながら領土画定の問題を含む日ソ平和条約の作成と締結に関する諸問題が取り上げられた。ここでソ連側から日本の住民と四島住民との交流拡大、日本の住民の四島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定などが提案された。日本側もこれらの問などを継続的に話し合うことを表明した。同年10月14日付の日ソ両国外相間の往復書簡により、領土問題の解決を含む日ソ間の平和条約が締結されるまで、日ソの相互理解の増進を図り、いずれの一方の法的立場を害するものとならないよう共通の理解をしたうえで、領土問題解決に寄与することを目的に、日本の住民の北方四島への訪問を旅券、査証なしで行なう新しい「北方四島交流事業」の枠組みが作られた。
 1992年から開始された日ロ双方の住民が交流するこの事業は、領土問題解決に向けた好ましい環境の整備を目的とし、北海道においては北方四島交流北海道推進委員会が、全国においては北方領土問題対策協会が主体となって実施している。この事業により四島在住ロシア人住民の意識に変化が表れ、ロシア側では「領土問題は存在しない」立場から「領土問題は存在する」立場へと変わってきた。
 こうしたロシア人島民の意識の変化は、北海道大学スラブ研究センターの岩下裕明教授が2005(平成17)年10月21日から28日まで、択捉島、国後島、色丹島の3島で各島100人ずつ合計300人を対象とした世論調査の結果にも表れている(2)。この調査は北海道新聞社編集局報道本部が主体となり、サハリンの新聞社「自由サハリン」の協力によって実施された。この調査項目の第7番目の「北方領土の日本への返還」に対してロシア人住民の回答は以下のものであった。

 無条件で賛成する  (2.0%)
 条件付きで賛成する  (28.7%)
 反対する  (61.3%)
 わからない  (7.3%)
 無回答  (0.7%)

 ここから9割以上の住民が領土問題に対して賛否の判断をしており、住民の意識の中に領土問題が存在していることが裏付けられる。さらに第11番目の「日本人との共生は可能か」という質問に対してロシア人住民の回答は以下のものであった。

 可能である      (20.3%)
 条件付き可能である  (23.7%)
 不可能である  (38.7%)
 わからない  (15.0%)
 無回答  (2.3%)

 ここから無条件・条件付での可能と判断した住民は44%で、不可能と判断した住民38.7%をわずかに上回っていることがわかる。四島のロシア人住民の中には、北方四島が日本に返還された後、日本人と共生することができると考えている人が半数近くにのぼることが明らかにされ、「北方四島交流事業」によりロシア側に友好的雰囲気が形成されてきていることが裏付けられている。

2 2012(平成24)年度第3回北方四島交流訪問事業への参加
 筆者は2012年8月3日から6日まで、「北方四島交流事業」に参加して色丹島を訪問してきた。まず、8月2日に根室市の北海道立北方四島交流センター(愛称ニホロ)で結団式と研修会が実施された。ここで、外務省欧州局ロシア課の岡野正敬課長より北方領土問題についての講義が行なわれた。ここで「日本固有の領土」とは、一度も外国の領土となっていない土地であると説明され、改めて北方四島は近代以降、一度も外国に領有されていなかったことを確認した。国際社会でのルール、日本政府の立場を改めて認識するとともに、一般の日本人は領土問題に対して曖昧な立場であることを強く感じた。さらに、サンフランシスコ平和条約における千島列島の解釈についても説明を聞き、問題の難しさを痛感した。この条約では日本の領土を具体的に決定しているわけではなく、しかもソ連(現ロシア)はこの条約を調印さえしていない。日ソ(日ロ)関係はこの条約では規定されていないのである。外交交渉の難しさを現実の問題として改めて認識することができた。続いて岡野課長は、参加する中学生・高校生に対して今回の訪問の目的を説明した。基本的に相互理解を深めることが目的であって、具体的に何かを交渉することが目的ではないが、ただし、領土問題の重要性を認識して行動することを生徒たちに求めた。領土問題に対して国民の関心が低下すること、領土問題を発信しないことは、ロシアに対するマイナスのメッセージとなる恐れがあるので、領土問題解決のためには国民一人一人が問題の重要性を認識して、返還を粘り強く求めていくことが必要であると強調した。
 これからの訪問事業の中で、実際に中学生・高校生に求められていることは、日本の魅力、社会問題を発信し、北方四島の住民に日本に興味・関心を持ってもらうことであった。北方四島の住民が日本を身近な存在と思うだけで、領土問題の解決にはプラスになり、この訪問事業に参加した一人一人が外交に関わっているという認識のもとで交流に取り組むことが求められた。最後に、岡野課長は厳しい表情でロシア政府の管轄権に服する行為、ロシア政府の許可を必要とする行為は絶対にしないこと、誤解される恐れのある発言は慎むことを全体に注意した。
 続いて、今回の交流事業に参加する教員の意見交換会が開かれた。今回参加するのは、中学校教員7人、高校教員5人の合計12人であり、中学校教員は全員が道東地方に勤務しているが、高校は根室管内2人、石狩管内2人、渡島管内1人で、高校はできる限り全道から参加させようとする意図が見られた。
 意見交換会では四島在住のロシア人教員に北海道の教育現場でおきている問題と同様の問題を抱えているかどうかを質問することで方針がまとまった。この意見交換会では隣人としてのロシア人に興味を持つ点では共通していたが、各自の関心、訪問への期待は多様であった。これ以外に、現在の日本の教育における課題、懸念もいくつか提起された。

3 色丹島へ
 2012年8月3日の朝、第3回北方四島交流訪問団の出発式が根室港で行なわれた。今回の訪問には、元色丹島島民で現在は千島歯舞諸島居住者連盟の小泉敏夫理事長と高橋はるみ北海道知事も同行した。名簿で氏名・出欠を確認しながら、今年5月から供用された新船舶「えとぴりか号」に乗船した。当日は天候もよく、波も穏やかで、順調な航海であった。途中、船内では小泉敏夫氏による講演が行なわれた。この間に船はロシアが実効支配している海域に入った。
 出港から約4時間後に国後島の古釜布沖に到着した。湾内にはロシア船のほか、中国のコンテナ船が停泊していた。船上から見た古釜布の街並はまさにロシアの街並で、低層の建築がロシア独特の色彩でペイントされていた。ここでロシア国境警備隊の係官が乗船し、入域手続を行ない、ここからいよいよ色丹島に向けて出航した。古釜布から約3時間で色丹島穴澗沖に到着した。この日は湾入口に投錨し停泊した。海霧による視界不良のため、色丹島の様子はまだわからなかった。船内は日本時間のままであったが、現地時間に合わせるため、色丹島滞在中は全ての行動を2時間早く行なうことになった。
 8月4日は朝5時30分に起床し、朝食の後、いよいよ穴澗湾に進んだ。湾内には廃船がそのまま放置され、なかには戦車も放置されていた。7時過ぎに穴澗湾の桟橋に接岸した。この桟橋はコンクリート製で、湾内にある水産加工会社ギドロストロイが建設したもので、非常に立派であった。船員の説明によると、以前は木の桟橋を使用し非常に危険であったが、最近新しく建設されたとのことであった。ここでロシア風の歓迎セレモニーを受けた。民族衣装を着たロシア人学生がパンと塩を持って出迎えてくれた。この後、穴澗(アナマ)の市街地へ車で移動し、穴澗文化会館で歓迎セレモニーを受けた。
 島内を走る自家用車はほとんどが日本製の中古車であり、RV車が中心であった。島内には舗装道路が1か所もなく、悪路が続くため、日本製のRV車は大変役に立っていた。バスは、左側通行のため日本製は不向きであり、ロシア製か韓国製が使用されていた。これはサハリンやウラジオストクと全く同じであった。今回、筆者が乗車したのはトヨタのプラドで、2010(平成22)年まで名古屋方面で使用されていたものであった。車内の車検証のシールが平成22年となっていた。
 歓迎会には穴澗(ロシア名クラボザボツコエ)の村長のほか、サハリン州政府の幹部も出席した。ここでサハリン州政府が製作した日ロ交流のビデオが上映されたが、そこには領土問題の説明はなく、これまで20年の北方四島交流事業の経緯と実績が紹介されていた。領土問題、主権の問題を棚上げしながら、簡素化された手続きでのロシア入域と墓参、交流事業の様子が映像で流されるのを目の当たりにして、日本とロシアの認識の差を痛感した。ロシア政府としては、領土問題は存在せず、ロシア側の行為によりこの交流が実現している、という印象を与えようとしていると思わざるを得なかった。
 穴澗の市街地には数軒のスーパーと1軒のレストラン「インペリアル」があり、ここでお土産を購入することになった。今回の訪問では3,000円を換金し、1,050ルーブルを手にした。1ルーブルは約3円の交換レートであった。スーパーにはロシア製品と並んで、日本の商品、韓国の商品が売られていた。食料品では日本製品よりも韓国製品の方が多いことは、これまたサハリンやウラジオストクと同じであった。スーパーで使用しているエアコンもLG製品であり、北方四島が韓国商品の市場に組み込まれていることを実感した。
 午前中、穴澗の学校を訪問した。ここは1994(平成6)年の北海道東方沖地震により建物が倒壊し、日本からの人道支援でプレハブの校舎が建てられ、学校を再開することができた。最近、新しい校舎が完成し、日本の建てたプレハブ校舎は、現在、芸術(音楽)学校として使用され、放課後には子供たちがここで音楽を楽しんでいる。新しい校舎を案内され、各教室の様子を視察した。ロシア語、数学、理科、社会のほか、技術室や日本語学習の教室もあった。体育館はバスケットボール1面ほどの広さで、少し手狭な感は否めなかった。このほか、校舎内の空きスペースを利用して卓球台が設置され、生徒が卓球を楽しんでいる様子も見られた。午前中はここで日本人の生徒とロシア人の生徒のレクリエーションが実施された。
 「インペリアル」での昼食を済ませた後、学校に戻って意見交換会を開いた。テーマは「教育の現状と課題」で、日本とロシアの双方から説明、質問が行なわれた。まず、ロシアの教育システムについて、簡潔な説明が行なわれた。ロシアでは7才から17才までの11年間、一貫して1つの学校で学ぶ。1~4年の初等科には現在37人が在籍し、5~9年の中等科には現在52人が在籍し、10~11年の高等科には現在13人が在籍し、生徒数は合計で102人である。この後は、高等教育機関として大学に進学することになるが、北方四島に大学はなく、近くてもサハリン島、多くは極東本土やモスクワなどの大学に進学しているようである。ロシアの学校は1年を4つの学期に区分している。9月1日から11月4日までが1期、11月11日から12月31日までが2期、1月11日から3月31日までが3期、4月1日から5月31日までが4期で、6月1日から8月31日までの3ヶ月間が夏休みである。進級試験は9年生と10年生の間と11年生の終わりに実施される。9年生の終わりに進学するか終了するかを選択するが、ほとんどの生徒は11年間の学習を選択し、終了して就職する生徒はほとんどいない。授業数は初等科が1日に45分授業を4コマであり、中等科になると1日に5~6コマ、高等科になると1日に7コマとなる。休み時間は10分で、昼休みは20分で、ここで昼食もすませる。放課後は体育館やプレハブ校舎で過ごし、6~7時頃に帰宅する。初等科は週5日制だが、中等科以上になると週6日制となる。

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中央左の男性が小泉理事長、右の女性が高橋知事
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穴澗湾の景色
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穴澗村の市街地
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高校生の報告の様子

4 色丹島内の視察
 8月5日はあいにくの雨であった。島内には舗装道路がないため、雨天時は相当の悪路になる。この日は穴澗から斜古丹(ロシア名マロクリリスコエ)へ向かった。島内の悪路では日本製中古車が大活躍していた。1時間半ほどで斜古丹に着いた。まず、丘の上にある日本人墓地に向かう。墓地は柵で囲われていて、ロシア側により草刈りがなされていた。ロシア側の好意を感じた。日本人墓地として区画されている中には何基かの墓があったが、基礎の部分しかないものが多く、家名を刻んだ上の部分が失われているものが多かった。旧ソ連時代に、日本統治時代の痕跡を消し去るために撤去され、それ以来墓石は行方不明のままである。1998(平成10)年の墓参の時に、日本人墓地の標柱が建てられた。このほかに、クリル人(アイヌ)の標柱も同じ敷地内に建てられていた。今回同行した小泉敏夫氏の墓が墓地の中に残っていた。基礎の部分は当時のままの場所にあるそうで、墓石の上の部分は失われてしまったが、墓そのものは日本統治時代と変わらない場所にそのまま残されていた。墓参という、当たり前と思っていた行為が、ここでは本当に幸運なことであることを痛感するとともに、国家の対立に翻弄される民衆の悲しみと苦しみを感じた瞬間であった。
 墓参の後、ギリシア正教の教会を訪問した。丸太小屋風の教会で、外から鐘を鳴らすようロープが張られていた。訪問団が帰る時に、教会にいたロシア人が楽しそうに鐘を鳴らしていた。音楽を重視するのはニコライの日記にも見えるとおりであるが、ここでもそれを実感することができた。
 この後、斜古丹の文化センターに集合し、ホームビジットの班分けを行なった。ここからはバスに乗り、丘の中腹にある集合住宅に向かった。筆者のグループはアレクサンドルさんの自宅を訪問した。家の中には妻のゲオルギエブナさん、息子のキリルさんと孫が出迎えてくれた。ロシア人の一般家庭(集合住宅)では玄関のドアの前で靴を脱ぎ、靴はそのままドアの外に置くことになっている。家の中には靴は持ち込まない。集合住宅の外観は相当傷んでいるようであったが、室内は相当手入れがなされていて、壁紙や床、家具などはきれいに手入れされていた。外観からはわからなかったが、室内は非常に快適な空間であった。
 居間ではすでに食事の準備がなされていた。アレクサンドルさんは、娘の病気治療のため、一度北海道を訪問した経験があり、その時に日本語を勉強したそうで、わずかではあるが会話を成立させることができた。通訳は全グループに同行したわけではなかったので、通訳が巡回してくるまで会話集などを活用して交流することになっていた。筆者のグループには退出する時になってやっと通訳が巡回してきた。そのため、2時間近いホームビジットの時間、意見交換したり、確認したりすることはほとんどできなかった。息子のキリルさんは若干英語を話すことができたが、意見交換までには及ばず、片言のロシア語と身振り手振りで何とか会話しようと試みたが、最後はアレクサンドルさんの日本語が頼みであった。アレクサンドルさんは日本への渡航経験や訪問団受け入れなど、日ロ交流にはとても積極的であった。アレクサンドルさん夫婦は、斜古丹から穴澗まで同行し、出航する「えとぴりか号」を埠頭で最後まで見送ってくれた。こうしたロシア人との個人的交流は、日ロ交流の裾野を広げるものであり、これこそが北方四島交流事業の目指すものであり、こうした交流を積み重ねることが、わずかではあっても確実に領土問題の解決に向かっていくと感じた。
 息子のキリルさんは、島内の学校を卒業した後、シベリア地方の大学で教員になるために勉強し、体育の教員をしばらくした後に色丹島に戻ってきた。島では警察官となり、アレクサンドルさんの住宅近くで家族3人暮らしている。島内出身者の進路の1つの事例であろう。他の同級生の就職先や居住している場所などを質問したかったが、今回の訪問では確認することができなかった。
 アレクサンドルさんは室内を案内してくれた。集合住宅は2LDKでバスとトイレが別々であった。応接室にあったパソコンはサムソン製であったが、プリンターはエプソン製とキャノン製の2つを所有していた。テレビは、居間にパナソニック製のものが、同じくパナソニック製のDVDと一緒にあり、寝室にはLG製のテレビがあった。室内の家電製品は日本製と韓国製が半々であり、色丹島にも韓国の家電製品が確実に広まってきている。領土問題だけではなく、経済問題についても今後は真剣に検討していかなければならないことを痛感した。アレクサンドルさんの食卓にも韓国製のジュースが並び、一般家庭やスーパーでは韓国製の食料品が普通となっており、これはサハリンやウラジオストクのスーパーと同じ状況であった。これから先、韓国製品の影響力はさらに大きくなっていくものと思われた。
 ホームビジットの後、色丹島の景勝地であった稲茂尻(イネモシリ)の海岸を視察した。稲茂尻にも日本人の墓地があったが、車中では眠ってしまい、確認することができなかった。稲茂尻の海岸につき、景色を眺めた。実に美しい湾であり、砂浜が続いていた。浜辺には多くの昆布が打ち上げられており、海の中でも多くの昆布が手付かずであった。ロシア人は昆布を資源・商品として認識していないため、昆布を採取している様子はない。昆布を商品化・商業利用する技術や発想がないためであろう。これはサハリンと同様であった。この付近に日本の寺院があったそうだが、ここにかつて日本人が生活していた形跡は全く見られない。
 稲茂尻から移動し、マタコタンという入り江を視察した。日本統治時代には日本人の家が数軒あったらしく、小泉敏夫氏はここの漁師は豊かであったと説明していた。現在はロシア人漁師が網の手入れにこの入り江を利用しているのみである。そのほか、島内のロシア人もこの入り江に遊びに来ているようであり、付近にごみが散乱していた。
 この日の夕食会が色丹島訪問の最後の行事であった。日本人とロシア人の生徒がゲームをしたり、踊ったりして楽しい時間を過ごした。夕食会の後、埠頭まで歩いて移動した。今回交流した生徒、家族、関係者が埠頭まで見送りに来てくれた。色丹島のロシア人住民と交流し、個人としては相互信頼関係を構築することは可能であると思えたが、領土問題の解決を考えると、とても複雑な気持ちになる。色丹島の住民にとっては、日本とロシアが戦争した不幸な歴史よりも、ソ連の崩壊や北方四島交流事業、人道支援の歴史の方がはるかに身近であり、直接的な問題である。日本人はどうしても領土問題から離れることができない。終戦は8月14日か9月2日かという解釈の問題とともに、日本人とロシア人の意識のズレを大いに感じた。


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斜古丹村の日本人墓地の様子
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色丹島略図(独立行政法人北方領土問題対策協会ホームページより)
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アレクサンドルさんと記念写真(中央の男性がアレクサンドルさん)
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稲茂尻海岸の景色
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マタコタンの景色

おわりに
 今回、色丹島を訪問するまでは、北方領土問題は単なる知識であり、地図や資料集で確認する作業でしかなかった。実際に北方四島を訪問すると、そこには現実の問題が横たわっている。ロシアの国境警備隊による入域・出域の手続き、ルーブルへの換金、ロシアの街並、その中に日本人の墓地もあり、日本の人道支援で建設されたプレハブ校舎や発電所もある。北方四島には現在のロシアと現在の日本、そして過去の日本が同居している。今回の訪問で北方領土問題を知識としてではなく、体全体で、実体験として感じる、考えることができた。
 領土問題は政府レベルで解決すべき問題である。我々にできることは、その基礎固めとなる住民交流であり、友好・交流の積み重ねと隣人としての相互信頼関係の構築である。この交流が領土問題解決にどれくらいの影響を与えているのかはわからないが、日ロ双方の相互理解、相互信頼関係構築には多くの影響を与えている。ロシアは遠くて恐ろしい国家ではもはやなく、近くて、信頼できる国家に近づいている。
 領土問題解決のために我々ができることは限られている。しかし、今の我々ができることを、どれくらい真剣に継続していけるか、我々の意識と行動がまさに今、問われている。


(1)  『北方四島交流の手引』(独立行政法人 北方領土問題対策協会)。
(2)  岩下裕明+北海道新聞情報研究所「「北方領土問題」に関するアンケート・世論調査」(21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集15号『日ロ関係の新しいアプローチを求めて』北海道大学スラブ研究センター、2006年)1~64頁。

(函館ラ・サール高等学校教諭)

「会報」No.34 2013.3.31 研究会報告