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大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァ そして函館ゆかりのシュヴェツ家について

2013年4月10日 Posted in 会報

小山内道子

元横綱大鵬のお父さん、マルキィアン・ボリシコ
 去る1月19日、元横綱大鵬が亡くなりました。まだ72歳という「若さ」でしたから、残念なことです。もう少し長生き出来て、大鵬の強さの土台となったお父さんの母国ロシア(出身地はウクライナ)との友好のためにも貢献してほしかった、貢献できればよかったと思いましたが、叶わぬ夢となりました。ただ、日本という社会環境では難しかったのかもしれません。いずれにしても、大変な苦境の中から大横綱となり、社会的にも立派な生涯を全うしたことに対して敬意を表し、心からご冥福を祈ります。戦前大鵬一家が住んでいたサハリン州ポロナイスク市(旧敷香)に大鵬の銅像を設立しようというサハリンの人たちの動きがあるそうですが、サハリンとの絆を示す確かな記念となることでしょう。
 大鵬のお父さんについてはロシア人だと一般にも漠然と知られていましたが、正確なことはヴェールに包まれていました。そこで、その出自や戦後の運命について資料に基づき、『オタス』(『トナカイ王』)の著者N.ヴィシネフスキー氏が「マルキィアン・ボリシコ」という論稿を書きました(≪ВЕСНИК Сaхалинского Музея 1≫、1995 所収)。ボリシコというのは大鵬のお父さんの名前ですが、彼は1925年日本軍占領末期の北サハリンから樺太に逃れ、大泊を経て敷香(現ポロナイスク)に住んで日本人女性と結婚し、家庭を持ちました。大鵬も敷香で生まれたのですが、終戦時日本軍の仕事に徴用されていたボリシコは、一緒に北海道に引き揚げることができず、ソ連領となったサハリンに残り、そのまま生き別れとなったのです。『オタス』を翻訳していた私はこの論稿をも翻訳しましたが、その後、この論稿は「大鵬の父親、サハリンに死す――歴史に翻弄された"白系ロシア人"の孤独な生涯――」というタイトルで『文藝春秋』(2002年5月号)に掲載されました。こうして私は大鵬家の問題と関わることになり、弟子屈町川湯温泉在住だった大鵬の実兄を何度か訪ねて樺太時代の生活や引き揚げ時の話などをうかがいました。ただし、それは本稿のテーマではありませんので、先へ進みたいと思います。

大鵬の異母姉ニーナ・サゾーノヴァ
 2001年の秋モスクワに滞在中、晴天の霹靂ともいうべき出来事が起こりました。日本と所縁の深い知人のB氏と電話で話していて、「ちなみに、大鵬のお姉さんがモスクワに居るという噂を聞きましたけど、ほんとうでしょうか?」と尋ねますと「ええ、いますよ。ニーナはよく知ってます。電話番号、教えましょうか?」と、いともあっさりと異母姉ニーナの所在が分かり、電話番号まで教えていただいたのです。有頂天になった私はすぐにニーナに電話して自己紹介し、午後にはキエフ駅近くのアパートを訪ねたのでした。さらに数日後にも伺い、ニーナの誕生から80歳になろうとしていたその夏の事まで話していただきました。また、その後もモスクワへ行くたびに訪ね、物語を補ったのですが、ここでは本稿と関わる部分だけを簡単に紹介したいと思います。
 ニーナ・サゾーノヴァは1919年、北サハリンのアレクサンドロフスク市で生まれました。母親はマルガリータ・サゾーノヴァ、父親はマルキィアン・ボリシコでした。マルガリータは大きな店を構えた裕福な商人アントン・サゾーノフの妻で5人の娘がいましたが、アントンが1915年に結核で亡くなった後、何かと支えてくれていたボリシコと1917、8年頃再婚したのです。ニーナの誕生についてはヴィシネスキー氏の調査でアレクサンドロフスク教会「メトリカ」の記載を確認しています。ボリシコ家はウクライナから移住してきた自由農民でしたが、マルキィアンは農業を嫌い、若いころから鉱山調査隊に参加したり、狩猟や行商に従事し、社交的で商売上ヴィノクーロフとも懇意だったと言われます。1920年、北サハリンが日本軍の占領下におかれて以降は、日本軍の協力者となり、羽振りがよかったのです。しかし、1925年3月、日ソ基本条約締結に基づく日本軍撤退とソ連軍進駐を目前にして、ボリシコは馬車を仕立て、娘ニーナだけを連れて内陸経由で日本領樺太への脱出を目指して出発します。ところが、しばらくして姉のリーダが馬を飛ばして追いかけてきて、ニーナを奪い取り母と姉妹たちの許へ連れ帰ったのです。こうしてニーナは父親と永久に別れてしまいました。
 夫アントンの死後、マルガリータは大きな家の半分を中国人と日本人に貸して暮らしを立てていましたが、ソ連軍進駐と共に立派な家屋は接収され、家内の目ぼしい品物は没収されて、一家は納屋に住むことになりました。その後北サハリンでは「体制の敵摘発」運動が展開され、特に1930年代にはこのキャンペーンはエスカレートして、日本人と少しでも関係のあった人々は逮捕されるようになります。マルガリータはニーナに自分の姓を名乗らせ、家内でもボリシコの名をタブーとし、ボリシコの写真はすべて焼き捨て、日本軍の協力者ボリシコとの関係は消し去られました。しかし、マルガリータやアントンの弟たちは逮捕され、その後行方不明になり、ボリシコの父親カルプ・ボリシコも逮捕されて行方不明になったのです。
 サゾーノフ家の5人の娘たちは1930年代初めまでには皆サハリンを出て就職していました。しかし、母マルガリータはアントン同様結核にかかっていて、1934年には治療のかいなく死去しました。ニーナは母の死でサハリンに1人取り残され、孤児院に入れられました。その時のさびしい思いは今も覚えているのです。法律によって14歳までは生地を離れられませんでしたが、誕生日が来てモスクワの姉の許へ引き取られました。それ以後はモスクワ在住で、その後の人生も波瀾に富んだものでしたが、ここでは割愛します。厳しい社会主義体制下では日本領樺太にいる父ボリシコを捜すことなど不可能でしたし、1960年代半ば、ソ連巡業でモスクワを訪れた大鵬に親方が「きょうだいがいるそうだけど、捜してもらおうか?」と尋ねたそうですが、大鵬は断ったと自叙伝に書いています。

サゾーノフ家とシュヴェツ家
 故清水恵さんは函館ゆかりのシュヴェツ家について、現在東京在住のシュヴェ家の方々に取材し、多くの資料に当たるなどして、シュヴェツ家について多くの論稿を残しています。それらはみな著書『函館・ロシア その交流の軌跡』に収められています。
 去る1月下旬、私は「サハリン・樺太史研究会」で「北サハリンにおける生活イメージを求めて――大鵬の異母姉ニーナ・サゾーノヴァの人生に見る歴史の軌跡」の報告をしました。その準備過程で、北サハリンのアレクサンドロフスクにおいて二大資産家の豪商と言われたサゾーノフ家とシュヴェツ家についても調べました。その際気になっていたのは、清水さんが「サハリンから日本への亡命者――シュウエツ家を中心に」の中で、1925年の日本軍の北サハリンからの撤退時のシュヴェツ家について、次のように書いている一節です。
 「......一家は革命をきらって、アレクサンドロフスクから、日本が支配する「樺太」に亡命した。それは一九二〇年代の前半のことだと思われる。豊原(現ユジノサハリンスク)に建てた家は現在でも残っているといわれているが、筆者はまだ確認していない。家業は毛皮商で、経済的には恵まれていたようである。ドミートリイとともに息子のフィリープも一五歳の時から商売をしていたという。
 フィリープは豊原でゾーヤ・アントーノブナ・サゾーノワと結婚した。彼女の実家も樺太にあり、シュウエツ家[ママ]よりさらに裕福だったという。それからゾーヤの出産のために、一家はハルビンへ移住し、......」(前掲著書、p.274)
 ところが、私がニーナ・サゾーノヴァから聞いたのは以下のようである。
 ニーナがまだ5歳の1924年、ニーナの2番目の姉ゾーヤが隣家でやはり大きな店を構えていた裕福なシュヴェツ家の幼馴染の長男フィリープと結婚した。若い2人の結婚式は、ニーナもおぼろげに覚えているが、それは華やかで盛大なもので、あとあとまでの語り種となったという。ですから、ゾーヤたちの結婚は実家のあるアレクサンドロフスクで行われ、豊原ではなかったのです。
 シュヴェツ家については、興味深い資料も見つけました。外務省記録『外国人ノ動静関係雑纂 府県報告 露国人の部』の大正11年(1922年)5月10日の報告、「露国商人来往に関する件」に「北樺太亜港寿町 雑貨商ドミトリ・シウヱツと同イワン・シウヱツがやはり雑貨商、材木商、農業の3人と共に横浜から大阪に来て総額2万円の雑貨、洋酒、綿布、羅紗服地等を購入した」と大阪府知事等に宛てた報告が残っています。亜港というのはアレクサンドルフスクの日本での呼び名で、1922年の日本軍占領時代には北サハリンと本州との往来による商品の仕入れが行われていたことが分かる資料です。それにドミトリはフィリープの父親でイワンはドミトリの弟です。
 また、「シュヴェツ家が豊原に建てた家が現存する」ということの真偽を確かめたくて、ユジノサハリンスク在住のヴィシネフスキー氏に調査を依頼しましたが、シュヴェツ家の家は存在しないとの回答でした。代りに大発見があったのです。氏の友人グリゴーリー・スメカロフ氏がシュヴェツ家の研究をしていて、氏が在住するアレクサンドロフスク市にシュヴェツ家の家屋が現存するとして、その写真をヴィシネフスキー氏経由で送ってくださったのです。拡大すると本当に大きくて頑丈そうな立派な家屋であることが分かり、建築年は不明ですが、歴史の重みが感じられる感動的な資料と言えるでしょう。
 スメカロフ氏にはサゾーノフ家に関しても、1907年の「埠頭荷揚げ許可通行証」のコピーを送ってくださったので、当時の商取引の実情が現実味を帯びてきました。今後スメカロフ氏のさらなる研究を通して、新しい事実を含め体系的に北サハリンの商取引などがサゾーノフ、シュヴェツ両家に即して明らかになることを期待したいと思います。

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Дом Швец アレクサンドロフスクにあるシュヴェツ家の家屋 D.スメカロフ氏撮影

「会報」No.34 2013.3.31