函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ガリーナ・アセーエヴァさんに再会して

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

編集者より
 小山内さんには以前「会報」13号に「故国に帰った白系ロシア人の運命―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―」を書いていただいたが、これはその続報である。ガリーナ(愛称:ガーリャ)さんは、昭和21年頃まで函館に暮らしていた白系ロシア人ズヴェーレフ家の次女である。
 一家の日本での生活やその後ロシアに帰国したことなどは、13号で紹介されている。

「註」登場人物について
*ヴェーラ:ヴェーラ・アファナーシエヴァ、東京に生まれ、1956年ソ連に帰国。晩年のブブノワさんとレニングラードで暮らし、お世話した。
*ブブノワさん:1922年、日本に嫁いでいた妹のヴァイオリニスト小野アンナを訪ねて来日した画家。長年早稲田大学でロシア文学を講じ、1958年帰国した。
*ナターシャ:ナターリア・マクシモヴァ。最晩年のブブノワさんと交流があった。

ロストフ在住の長兄ミハイル(ミ-シャ)
 昨年9月半ば思い立ってモスクワへ出掛けた。ちょうど2年ぶりのモスクワは、予想外に暖かくお天気も良かった。「バービィエ・レータ(秋の小春日和)が今年はずいぶん長く続いているんですよ」と皆嬉しそうに話していた。このお天気のせいか意外なほど市民の表情も明るく、落ちついていた。「アメリカの悲劇」、「カミカゼテロ」は話の前置きとしては話題になっていたが、やはり「遠い国」のことで、深刻さは感じられなかった。ドル安になるのは困ると不安がる友人もいたが、下がったドルはすぐに持ち直した。
 一昨年、ほんとうに思いがけなく出会うことが出来たガーリャさん(以下名前の敬称略す)には会いに行くかどうか迷っていた。というのはお姉さんのターニャが昨年9月急逝してしまったからである。ズヴェーレフ家の長女として日本のことを一番良く覚えており、北海道から来る私にとても会いたがっていたということだったのに。
 ガーリャに電話してみたら留守である。次にかけたガーリャの友人ヴェーラによると、ガーリャはお兄さんのミーシャを訪ねてロストフ・ナ・ドヌーに行っているが、数日後には帰宅するはずとのこと。念のためお兄さんの電話を教えてもらう。
 2、3日経ってロストフに電話すると、ガーリャはその日の早朝の汽車で帰路についた後だった。ペテルブルグまで36時間もかかるそうである。良い機会だと思ってミーシャとおしゃべりした。日本のことはいろいろ覚えているよと、日本語で挨拶の言葉などを使ってみせた。思い出すのは函館の五稜郭、湯の川、カラリョフ家の息子たちと遊んだことなど。ズヴェーレフ夫妻はカラリョフ家の子どもたちの洗礼時に代父母を勤めたほどの親しい間柄だった。
 ミーシャは2年生からは東京のプーシキン学校に行ったが、上野公園、菊人形の展覧会がなつかしいという。その後12歳で大連に行った。今ロストフには昔日本に住んでいた人たちが数人居て、折りにふれて集まっているという。10数分の電話でのおしゃべりだったが、日本とつながる小さな社会がロストフにもあることが分かって、いつの日か訪ねてみたくなった。

ペテルブルグで
 数日経ってガーリャに電話すると、前もって訪ロを知らせずに今頃電話してくることに不満げな様子が伝わってきた。会いに行かないのは「信義にもとる」ような気がして、ともかくその週末ペテルブルグへ出掛けた。ナターシャは新しい仕事で忙しい中ガーリャと連絡を取り合ってホテルに会いにきてくれた。とりあえずカフェで話したが、話題はまず4月に開かれた「日本週間」のことで、日本からコーラスグループが訪れたりしたが、行事のメインとなったのはナターシャの"「日本」百景"展だったのだ。そのカタログをいただいたが、初めてまとまった形でみるナターシャの絵の数々は「最も日本らしい日本」ともいうべき風景や人物像を表現していてとても素晴らしいものだった。
 ナターシャの言うように、ヴェーラを含めた人の輪、日ロの交わりはブブノワさんから枝葉を広げたものなのである。
 ナターシャとは別れて、便利だからとガーリャの案内で亡くなった姉のターニャの家へ行った。今は娘のオーリャの家族が住んでいる。オーリャは仕事に出ていて9歳の息子ダーニャが留守番をしていた。
 今回の訪問で一番感激したことだが、長女のターニャが管理していたという日本時代のアルバムをたくさん見せていただいたことである。今では骨董品としても価値がありそうだが、表紙が日本の名所の蒔絵で飾られたオルゴール付きの立派なアルバムに家族の歴史を刻む写真の数々が収められていた。
 ロシア人が皆で集まった時、夏に川湯に保養に行った時、ターニャが松風幼稚園に通っていた時...、ここに1枚お借りしてきたのは、家族で休日によく遊びに行ったという大沼公園でのスナップ(1938年頃)である。当時のロシア人は条件に恵まれなくとも、努めて生活をエンジョイしていたことが分かる。この次はアルバムに沿って具体的な詳しい話を聞かせてもらえるよう準備して訪問したい。
 午後にはバスを乗り継いで訪ねてきてくれたヴェーラも加わって、4人でガーリャが腕を奮ってくれた昼食を楽しんだ。ヴェーラといえば、去年半世紀ぶりに偶然消息が分かった聖心女学校時代の親友に招かれて初夏3ヵ月もアメリカ周遊の旅をしてきたそうで、いきいきと元気そうだった。そういう幸運とは無縁のガーリャはちょっと気の毒にも思えた。誠意をもって今後も交流を続けていくことが幾分かでもガーリャに喜びをもたらしてくれたらと願いつつ、再会を期して別れた。

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大沼でのズヴェーレフ一家 前列左からガーリャ、ターニャ、アリョーシャ、ミーシャ。後列は父クジィミーン、祖父テレンチイ、ナージャを抱いた母ダーリィア

「会報」No.19 2002.1.22