函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

函館・日ロ交流フォーラムに参加して

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤朝彦

 原暉之氏は、ウラジオストークと函館との交流の歴史を大きく三つの時代に分けて説明されましたが、それぞれの時代で顕著な役割を果たした人物に視点を置き、非常に分かり易いものでした。第1の時代を1859年ウラジオストーク開基、第2時代は1883年のウラジオストーク新聞と函館新聞との関係、そして、第3の時代を1890年代の東洋学院の創立と函館商業学校とウラジオストーク研修生による相互訪問というものです。
 第1の時代:極東地域探検に向かうムラビヨフ・アムールスキーは艦隊を率いて、食料の買い付けのため函館に寄港しているが、当時、函館に立ち寄った外国船32隻のうち22隻がロシア船であった。しかしながら、以後、長崎へ外国船が向かうようになったという。ちなみに、1860年6月20日がウラジオストークの開基日となった。また、両市の象徴的な関係として、幕末、函館市で生まれた初のロシア人、ニコライ・マトベーエフは詩人としてウラジオストークで活躍した後、日本へ亡命し死亡している。
 第2の時代:ウラジオストークで開催された商品見本市に函館の商人も参加し、幌内炭・ビール・麦を売り込み評判も良かったが、たくさん売れなかったという話が函館新聞に掲載されている。小島倉太郎という樺太生まれで東京外国語学校でロシア語を学んだ青年がウラジオストーク新聞と函館新聞にお互いの記事を翻訳し寄稿している。原暉之氏は、「双方向の国際交流を20代の若さで行っていたことは特筆すべきである。」と言っておられた。
 第3の時代:1899年に31名の新入生を迎えて開校した東洋学院。創設に当たり、ロシア大蔵省が大きく関わっていた。当時、東清鉄道の建設に尽力した大蔵大臣ウィッテは、語学教育の必要性を説き、理論(文法)以上に、外国人講師招聘や学生を積極的に外国留学させるなどの実学を重んじた。留学生たちはどのような生活を送ったのか記録は残っていないが、引率は無し、留学記録をレポートにまとめ、同胞のために役立てたという。一方、函館商業学校生39名がウラジオストークを訪問している。青森・小樽・札幌・ウラジオストーク・敦賀経由で帰国しており、わずか2日間の滞在であったが、ロシアに接することで国際的視野を広めるまたとない機会であり、日露戦争に先立って、重視すべき出来事であるという。以後、東京外国語学校ロシア語生や小樽高商の学生がウラジオストークを訪問している。
 原暉之氏は、最後に、両市の交流は衰退したこともあったが、函館市の今日的役割はまだ終わっていない。忘れられた過去の一部だが、ソビエト崩壊後、ウラジオストーク開放の翌年に歴史を踏まえて函館市とウラジオストークが姉妹都市になったと括りました。
 私は、人と人との交流が、地位、職業や年齢を問わず、国際交流の歴史を形成していき、大きな役割を果たしてきたという事実を再認識することは、これからの交流の在り方や方針を考える上での基本で大事な姿勢であると思います。
 続いてパネルディスカッション「都市における大学の役割」がおこなわれ、まず、中村喜和氏が「函館とウラジオストークの共通点は、新しい土地にある古い街。北海道の古都は函館、ウラジオストークはウクライナ・フィンランド・ポーランド・ドイツ人など多民族が住むロシア全体の縮図」という非常に興味深く当を得た解説をされました。ゾーヤ・モルグン氏は、1860年代からのウラジオストーク定住の日本人の歴史と東洋学院について述べられましたが、その内容は、誌面の関係で今回は割愛させていただきますが、両方の都市が輝いていた頃は、国際化が華やかであった時であったことを強調されていました。これからもそうであろうし、大学も国際化が必要、特に教育面での国際化が大事であると力説されました。
 私が住む青森には、開学7年を迎える青森公立大学があり、今年創立100年のロシア極東工科大学との学生・教員交流が進められており、ウラジオストークからの留学生が経済学を学び、青森の学生は主に極東工科大学でロシア語を習得しております。また、ハバロフスク教育大学との交流も始まりました。10年前までは、近くて遠い国であったロシア極東の都市と、今、函館や青森などの日本の都市は環日本海地域内で再び隣り街の交流の芽を育てようとしています。
 なるほど歴史は繰り返す!

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル