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「ロシアで実際に仕事ができる」と田中は最初の利権企業を設立した

2012年4月22日 Posted in 会報

ユーリ・オシポフ(ウラジオストク)

 有名なロシアの旅行家、歴史家、人類学者、愛書家、大いなる通人でウスリー地方の研究家ミハイル・イワノヴィチ・ヴェニューコフは多くの旅をした。1868年には世界一周航海をし、1869~1871年には日本と中国にいた。
 その仕事で最も重要なものは、当時の日本の詳細な歴史「日本概説」[Ocherki Yaponii](1868年)と「日本列島概要」[Obozrenie yaponskogo arkhipelaga]二巻(1871年)である。
 「日本列島概要」という重要作品のユニークな点はヴェニューコフがロシアの歴史家として初めて、16~19世紀に出版されたこの問題に関する内外文献をまとめて分析した点、日本の地理について記述した点、最も重要な都市、産業構成、農業について叙述した点、国家組織と国家管理を研究した点にある。
 特に読者にとって興味深いのは、「日本人の家庭と社会」という章にある、日本の通史と豊富な付録である。
 この出版物の緒言で、ヴェニューコフは次のように語った。「何世紀も霧の帳で覆われていた東アジア地方の上を朝やけが登っていった。幾多の優秀な種族が、これまで国の事情や諸規律によって、長く残りの世界から隔離されていたが、先行者の厳かな行進に加わった。新しい強壮な力と、赤々と燃える若い情熱をもって、彼らは前にいた者に追いつこうと志した。......何世紀にもわたる停滞から外圧によって目覚めさせられた社会的意識は、歴史的進歩の動因である。」
 ヴェニューコフが日本の諸都市を訪れていた時、彼は函館で食堂を経営していた某アレクセーエフと知り合った。1869年から1870年の日本で唯一のロシア人商人だった。日本は実際、ロシア人を知らなかった。
 しかし1871年1月1日に江戸と横浜に総領事をもってロシア代表部を設置した。
 それ以降のロ日関係をみると、20世紀初頭には二つの戦争―日露戦争と国内戦争の難事を越えていった。軍事的軋轢、利害の対立、社会機構の相違にも係わらず、善隣関係、経済協力志向が勝った。国内戦争終結後ほどなく、1925年1月20日に北京で日ソ両国間の外交関係樹立についての条約が締結された。経済分野における本条約の重要点は、日本の利権企業への極東地方の石油、石炭、金の採掘が許与されたことである。
 この関係で興味深い資料があるのだが、我々がハバロフスク地方国立史料館で見付けたもので、その核心は次のようなものである。1925年2月25日に、極東利権委員会に田中与太郎という日本人が願書をもってきた。それには「私はロシアに20年間住み、ロシア人をよく理解し、ソ連の現状も知っており、思い切ってここにきたのは、オホーツク・カムチャツカ地方の金の調査と採掘について交渉し協定を結ぶためである。私にはほぼ20万ルーブルの資本があり、これを用いるつもりだが、今年の6月から仕事に着手し、9月には日本に行き、日本の人々にソ連で実際に仕事ができることを伝えて説得し、彼らも引き入れてより堅実な株式会社を設立するためである」と書いてあった。
 田中与太郎は、彼のいうところによれば「相互の平安と繁栄」に基づき、もっぱら二つの民族を親密にするという目的によって動いていた。そのため彼は日本の農家から少しずつの負担金を出してもらい、組合を作ることにして、さらにロシア人を仲間に入れて大きな資本を創り出すことを決めた。
 極東に試験的に会社を設立してみようと、田中与太郎は、30万ルーブルを供出した。リヂンスキー鉱山はそれほど豊かではないが、賃貸条件や税金条件、それに利権業務における外国労働者の利用は50%(最初の二年)、以降、利権の有効期限まで25%という条件について協定を締結した。
 1929年10月1日現在、極東地方で活動している10件の日本の利権企業のうち、創立者の名前にちなむ「田中与太郎」金採掘にかかる利権は第一号となり、1925年9月25日にオホーツク・カムチャツカ地区に作られた。そのあとにサハリンの石油と石炭開発に関する二つの日本の利権企業「北樺太石油(株)」と「坂井組合」が続き、四番目は1928年に設立されたカムチャツカ方面での漁獲に関するものであった。
 このように、田中与太郎は日本の企業家のなかで、ロシア極更に利権企業を組織した最初の人であった。

「会報」No.5 1997.10.6 From Russia