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小島倉太郎の遺品にみるその足跡 -クレイセロック号探索から聖スタニスラフ第3等勲章受勲まで-

2012年7月24日 Posted in 会報

大矢京右

はじめに
 小島倉太郎(1860-1895)は、明治初年の北海道でロシア語通辞として活躍した役人である。小島はその語学力を活かしてクリルアイヌ(1)の強制移住に立ち会うこととなったり、コレラの流行に伴う外国船への立ち入り調査を担当したりするなど、「役人」としての役割を果たすだけに留まらず、震災被災地への寄附行為や博物館への資料寄贈、週刊ウラジオストク新聞への寄稿など、「文化人」「国際人」としての役割をも十分に果たした進取気鋭の「函館人」であった(2)。小島の死後、彼の遺品は遺族によって市立函館博物館をはじめとした北海道内の諸研究機関に寄託・寄贈されたが、これらはいずれも北海道の教育史・行政史・写真史など様々な研究分野においてきわめて貴重な資料群と評価されており、これまでも渡辺1983やザヨンツ2009など重要な論文として結実している。
 本稿は、激動の時代に35年という短いながらも波瀾万丈の人生を生き抜いた小島自身のライフヒストリーの中でもひときわ強く輝きを放つ聖スタニスラフ第3等勲章受勲について、市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』および北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』ならびに当時の函館新聞などの関連文献をとおしてその足跡をたどったものである。

小島倉太郎略歴-クレイセロック号遭難事件前夜-
 小島倉太郎は1860(万延元)年に幕吏の長男として出生し、父の転勤に従って日ロ雑居地であった樺太へ移住、1871(明治4)年にロシア商人に預けられて以降ロシア語を学び、1873(明治6)年から1881(明治14)年までは開拓使仮学校・函館魯学校・東京外国語学校で官費生としてロシア語を修めた。
 卒業後小島は1881(明治4)年3月17日付で開拓使の御用係として辞令を受けると、1884(明治17)年のクリルアイヌ強制移住の立ち会いや1886(明治19)年に国後島近海で難破したアメリカ船員の護送、樺太から北海道へ逃げ出したロシア人囚人の護送など、持ち前の語学力を見込まれて日本中を奔走する。小島のクレイセロック号遭難事件への関わりはまさにこのような仕事の一つであったのだが、その辛苦はそれらのいずれをも遙かに凌駕するものであった。

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小島倉太郎の1881年2月19日付卒業証書(北海道立文書館所蔵)

クレイセロック号遭難事件とロシア人の来函
 1889(明治22)年11月、樺太クリリオン岬から沿海州ウラジオストク港に向かうロシア海軍の帆走船クレイセロック号が宗谷沖で消息を絶ち、乗組員と思わしきロシア人水夫の遺体が宗谷郡抜海村(現在の稚内市抜海村)の海岸(3)で発見された。そしてロシア領事を通じてその事実を把握したロシア東洋艦隊司令長官は、ロシア海軍軍医БУНГЕ,А.А.頭に少尉БУХАРИН,В.Н. および水夫 ОЩЕПКОВ,А.Ф.の調査派遣を決定し、1889(明治22)年12月30日にこの3名が来日したのである。
 БУНГЕ と БУХАРИН は年の改まった1890(明治23)年1月5日に和歌浦丸で来函し、ОЩЕПКОВも横浜から次便で合流、北海道庁は7日付で函館出張所の小島と第二部逓信課の井川義松の調査同行を命じた。

クレイセロック号の探索
 来函時、クレイセロック号遭難からすでに1ヶ月以上が経過しており、ロシア側としてはできうる限り早めに進行したかったのであろうか、3名のロシア人と2名の日本人の一行は早くも翌8日正午12時の函館発小樽行き高砂丸に乗り込んだ。そして小樽到着後は休む間もなく10日発の貫効丸で増毛へ出発する予定であったが、折り悪く暴風雨が彼らの行く手を阻んだ。一行は足止めを余儀なくされたが、いつまでも手をこまねいていることはできないので、海路をあきらめて陸路で札幌を経由して増毛をめざすことを決断した。札幌までどのようにして向かったかに関する記録はないが、調査行の目的とメンバーのステイタスから見ても、おそらく当時開通して間もない幌内鉄道を利用したであろう。それならばいかに冬場の北海道とはいえ、安全かつ迅速に札幌まで到着したことと考えられる。しかしこの調査行で最も困難な道のりはここから始まるのである。
 一行は1月18日に札幌を出発し、急峻な冬の増毛山道を通って稚内をめざしたのであるが、まさに筆舌に尽くしがたい困難が彼らを待ち受けていた。この様子を小島は「仝峻路ハ北海道中ノ大難所ニシテ夏時スラ通過シ得易スカラズ 當時積雪丈餘結氷シ恰モ銀板ヲ鋪クニ異ラズ其道ノ何レニ在ルヲ知ラス 加之烈風飛雪来襲シ滑路一歩ヲ誤チナバ千仞ノ雪蹊ニ陥ル可シ 或ハ躓キ或ハ倒シ辛フシテ生命ヲ保チ増毛港ニ出ツルヲ得」(4)と自らの旅行畧記に記している。

クレイセロック号の発見と生還
 増毛山道を何とか越えた一行は海岸沿いに北上し、ロシア人水夫の遺体が見つかった抜海村よりわずかに南方の手塩国ワッカサクナイ(現在の豊富町稚咲内)の海岸にて、全壊したクレイセロック号の残骸を目の当たりにした。厳しい寒さの中完全防備した一行は、クレイセロック号の全体像および破壊された内部の写真を撮影した上でさらに北上、抜海村の海岸に仮埋葬されたロシア人水夫の死体を検視した上で、ようやく北海道最北の地である稚内に到着することができた。しかしこれで調査が終了したわけではない。「遭難ノ模様及船体並乗組員行衛等巨細探知之為」「北海道西北海岸並ニ諸島ヘ」(5)派遣された3名のロシア人と小島たち一行は、休む間もなく宗谷岬最北端に位置する宗谷岬灯台附近も仔細に調査し、稚内発小樽行きの紀ノ川丸船上から礼文・利尻・焼尻・天売の各島も巡視した上で、2月23日に小樽に到着した。小樽では少し心の余裕もできたのか、同地で撮影されたБУНГЕのポートレートが小島のもとに残されている(6)。

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クレイセロック号の残骸と小島一行(北海道立文書館所蔵)

帰函と別れ
 一行は札幌の北海道庁で顛末を報告した後、小樽発函館行きの高砂丸に乗船、ようやく函館の地を踏むことができた。時はすでに2月28日で、1月8日に函館を出発してから実に50日ほどが過ぎていたことになる。帰還した当日に小島は函館田本写真館でポートレートを撮影しているが、その痩けた頬がいかに過酷な旅であったかを物語っているようである。また、函館市中央図書館が所蔵する古写真の中には、生死を共にした3人のロシア人と小島が一緒に写っている写真があり、撮影日や撮影場所などは明かではないが、小島の風貌や服装がポートレートと共通していることや、机の構造や床面の柄が他の田本写真館撮影のものと酷似していることから、おそらく同じ時に撮影されたものであろうと考えられる。
 翌3月1日に北海道庁函館出張所で二木理事官に調査の顛末を報告したのち、3人のロシア人は3日午後2時発横浜神戸行きの和歌浦丸で帰京することとなり、小島にも随行のために2日付で「出京ヲ命ス」辞令が下された。船出の際には二木理事官と函館ハリストス正教会のセルギイ神父が見送りに来ていたというから、3人のロシア人は出発前日(日曜日)に教会を訪れていたのかもしれない。横浜に到着したロシア人と小島がいつどのように別れを惜しんだのかは定かではないが、3月10日に横浜の鈴木写真館で撮影された ОЩЕПКОВのポートレートが小島のもとに残されており、おそらくその直後に3人のロシア人は船上の人となったのではないだろうか。
 なおこの在京時、小島は9日に東京で外国語学校時代の学友である戸澤鼎から写真を贈られたり、13日に東京丸木写真館にて同じく戸澤鼎や鈴木於菟平らとともに記念写真を撮影したりするなど、かつての学友たちと友人と旧交を温めている。
 また、小島がいつ函館に戻ったかについても具体的な記録はないが、3月25日に函館田本写真館で撮影された写真が残されていることから、少なくとも13日から25日の間には戻っていたものと考えられる。

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2月28日撮影小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)

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小島一行の記念写真(函館市中央図書館所蔵)

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1889年田本写真館撮影写真(市立函館博物館所蔵)

聖スタニスラフ第3等勲章の受勲
 小島の生命を懸けた協力に対して、ロシア皇帝アレキサンドルⅢ世は1890年6月29日付で小島への聖スタニスラフ第3等勲章の授与をロシア勲章局に対して勅命を下し、これに伴ってロシア勲章局長から小島に対して1890年7月16日付で第3133号勲記が交付された。しかし郵送の手違いなどもあって、実際に小島のもとに勲章が届き、併せて日本政府から「大日本帝国外国勲章佩用免許証」が交付されたのは1894(明治27)年9月3日のことであり、アレキサンドルⅢ世による勲章授与の勅命が下ってから既に4年以上の歳月が過ぎ去っていた。ただ一つの救いは、翌1895(明治28)年7月22日に急逝する小島の生前において、この吉報が届けられたことであろう。
 なお、これら勲記および佩用免許証などは現在北海道立文書館が所蔵しているが、聖スタニスラフ第3等勲章本体の所在については不明である。

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小島と東京外国語学校学友(東京丸木写真館 3月13日撮影)(市立函館博物館所蔵)

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3月25日撮影 小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)

おわりに
 以上、小島倉太郎のクレイセロック号調査行から聖スタニスラフ第3等勲章受勲までを、主に北海道立文書館所蔵『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号探索関係アルバム」および市立函館博物館所蔵『小島倉太郎関連資料』中「明治初年の写真アルバム」を中心に、当時の函館新聞の記事や写真資料の裏書きなどで情報を補完しながらできるだけ詳細にその足跡をたどってみた。そして改めて小島の果たした功績と国際貢献を認識するとともに、その卓越した能力とバイタリティに今更ながら驚かされるばかりである。
 小島の生涯は短いながらも明治初年の函館がおかれた国際的な状況等を如実に表出しており、当時の社会状況等をあぶり出すための一試論として、今後も小島の生涯における象徴的な場面を切り抜く作業を進めたい。


(1)千島列島北部に居住していたアイヌの一分派で、千島樺太交換条約(1875年)に伴い1884(明治17)年に南千島シコタン島へ強制的に移住させられた。地理的・政治的にロシアの影響を強く受けていたため、言語や宗教などの生活文化はロシア化されていた。
(2)小島の経歴などに関しては、小島1994などに詳しい。
(3)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」には「オネトマリ」と表記されているが、「オネトマナイ(利尻島対岸)」の誤りか。
(4)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」より
(5)『小島倉太郎文書』中「クレイセロック号捜索関係アルバム 旅行畧記」より
(6)БУНГЕのポートレートは鶏卵紙に現像され、上野彦馬の台紙に貼られている。手書きで「отару」(オタル)と書き込まれており、小樽で撮影したものをБУНГЕがウラジオストクの上野の写真館で複製して小島に送付した可能性がある。

参考文献
大矢京右 2010 「小島倉太郎関連資料」『市立函館博物館研究紀要』20 pp.51-56 市立函館博物館;函館市
小島一夫 1994 『小島倉太郎を偲んで』私刊;札幌市
小島一夫 1998 『けんかたばみ回想記』私刊;札幌市
ザヨンツ,マウゴジャータ 2009 『千島アイヌの軌跡』 草風館;浦安市
渡辺雅司 1983 「東京外国語学校魯語科とナロードニキ精神-小島倉太郎の講義録をもとに-」『ロシヤ語ロシヤ文学研究』15 pp.1-14 日本ロシア文学会;京田辺市
『小島倉太郎関連資料』市立函館博物館所蔵
『小島倉太郎文書』北海道立文書館所蔵
1890年1月7日付『函館新聞』2629号2面
1890年1月8日付『函館新聞』2630号3面
1890年1月12日付『函館新聞』2634号2面
1890年1月19日付『函館新聞』2640号2面
1890年2月25日付『函館新聞』2669号2面
1890年3月1日付『函館新聞』2673号2面
1890年3月2日付『函館新聞』2674号2面
1890年3月3日付『函館新聞』2675号2面

「会報」No.33 2012.7.20