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函館の「旧ロシア領事館」案内

2012年7月24日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
  函館市西部の船見町の高台に位置する「旧ロシア領事館」は、函館とロシアの交流の象徴的建物となっている。また、「擬ビザンチン風建築」と言われるこの建物は、函館市の観光名所の一つとなっており、建物内部が閉鎖中であるにも関わらず、幸坂の急な坂を上り、わざわざ見に訪れる観光客も少なくない。建築の専門家からの評価も高く、その文化財的価値については、川嶋龍司著『函館市文化財シリーズ-第3集- はこだての文化財』(函館市文化財保存協会発行、非売品、1971年)、『函館市史 都市・住文化編』(函館市史編さん室編、1995年)などで触れられている。
 現在は「旧ロシア領事館」と呼ばれているこの建物は、1965年から1996年までの約30年間、「函館市立道南青年の家」として活用されていた。そのため、中学・高校時代に青少年宿泊研修活動で宿泊したことがある、という記憶を持つ市民も少なくない。筆者自身は函館出身ではないため、宿泊の経験はないが、1984年に函館を訪れた際に、「道南青年の家」の中に入り歴史展示を見学したことを思い出す。
 「旧ロシア領事館」の歴史は、函館港が露領漁業(のちの北洋漁業)の基地としての地位を確立した20世紀初頭に始まり、函館市の繁栄の源となった北洋漁業と密接に結びついていた。ロシア(ソ連)領事館・領事のことは、『函館市史』(①)でも詳しく取り上げられている。また、在札幌ロシア連邦総領事館経由で入手したロシア外務省史料を翻訳・解説した「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館」(②)は、初めて領事館の設計者がゼールであること、現存する領事館の完成が1908(明治41)年12月であることを確定し、領事館が完成するまでの経緯の詳細を明らかにした。
 筆者自身も、函館生活を重ねるに従い、ロシア(ソ連)領事館研究の重要性を認識するようになり、「函館のソ連領事館と日本人職員」(③)、「函館とロシア(ソ連)領事館-20世紀を中心に-」(④)、「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」(⑤)などでこの問題を取り上げてきた。
 郷土史研究の面からだけでなく、2001年4月から2012年3月まで函館市国際課に勤務していた時には、仕事上、「旧ロシア領事館」を案内・解説する機会が多々あった。
 旧ロシア領事館については、いずれ1冊の本にまとめたいと考えているが、本年4月に異動となり、仕事上「旧ロシア領事館」と関わることがなくなったため、これまで建物を案内する際に口頭で説明してきた事柄を活字にとどめておきたいとの思いからまとめたのが本稿である。「旧ロシア領事館」の概略書兼建物復原の際の簡易手引書にでもなれば幸いである。

■20世紀の函館のロシア領事館の位置づけ
  函館のロシア領事館の歴史をひも解くと、設立の経緯や目的、さらには業務内容まで、全く異なる領事館(あるいは副領事館)が現在までに3つ存在した。
 最初の領事館は、幕末開港期の1858年に開設された。初代領事はゴシケーヴィチである。これは、日本で最初に開設されたロシア領事館であり、かつ日本で唯一のロシアとの外交窓口という位置付けであった。
 ゴシケーヴィチ領事以降は、ビュツオフ、タラヘンテベルグ領事代理、オラロフスキーへと続くが、明治維新を経て、1872年に首都東京に公使館が開設されると、函館の領事館は夏だけ開庁する、横浜の領事館の管轄下に入る、長崎の領事と兼務するなどと、領事が函館に常駐することがなくなり、1870年代半ば以降は、事実上閉鎖状態に置かれた。
 再びロシアから函館港が注目され、恒常的に領事が置かれるようになるのは、20世紀初頭のことである。大きな転換点は、ロシア政府が自国の漁業者を優遇し、外国人、つまり日本人漁業者に対する規制を強化することになるアムール川下流域を対象とする漁業仮規則が公布された1899年であった(⑤)。出漁関連の各種事務を執るために、露領漁業の基地となっていた函館が領事館の設置場所に選ばれた。これが2番目のロシア領事館である。この時、西洋建築の独立した領事館が建設されるが、これが現存する「旧ロシア領事館」へと引き継がれていく。
 その後、ロシア本国では、ロシア革命(1917年)、国内戦争の時代を迎えるが、函館では帝政ロシア時代の領事が残った。1925年1月、日本はソヴィエト政権を正式に承認し、同年5月25日、函館にソ連領事館が開館した(⑤)。
 函館のソ連領事館では、これまでと同様、露領方面に出漁する船に対する査証(ビザ)を発給した。また、ウラジオストク、ハバロフスク、ペトロパブロフスク方面へのビザの発給権は与えられたが、これらの場所以外のビザは、東京の大使館で取り扱った(⑤)。
 ソ連領事館が閉鎖されたのは、1944年10月1日のことである。北樺太石油と石炭の利権がソ連へ委譲され、北サハリンのオハとアレクサンドロフスクの2カ所の日本領事館が閉鎖されることに伴い、ソ連側も敦賀と函館の2カ所のソ連領事館を1944年6月をもって閉鎖したいと通告してきた。敦賀は6月中に閉鎖となったが、函館では、閉鎖の期限を9月末まで延長し、漁期中、館員を残留させることでソ連側の合意を得た。閉鎖直前の9月29日には、日魯漁業(株)が湯の川若松館で送別晩餐会を開き、ザヴェーリエフ領事夫妻と通訳のアレクセーエフが出席した。日本側からは、日魯の首脳部のほか登坂函館市長も出席し、盛大な酒宴が張られたという(①)。
 3番目の領事館は、2003年9月19日に開設された在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所(元町14-1)で、現役の領事館事務所である。北海道・青森県・岩手県を管轄区域とし、商用・観光・留学を目的にロシアに渡航する日本人へのビザの発給や、サハリン石油開発プロジェクトが盛んな時期は、同プロジェクトに従事する外国人労働者のロシア滞在ビザの延長を行ってきた。初代所長はウソフ副領事(2003年9月-2008年8月)、二代目所長はブロワレツ領事(2008年8月-2012年7月)、そして8月には三代目所長が着任する予定となっている。

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左:元キング邸1(『函館』函館市役所発行、1926年)。右:現在。東坂を登り切った右手にあった(倉田撮影)

■船見町にロシア領事館が建設されるまで
 ゴシケーヴィチ領事着任から約2年間は、実行寺に領事館と居宅を置いていたが、1860年、現在のハリストス正教会敷地内に領事館が完成した。その場所は、現在司祭館が建つ辺りである。木造2階建ての白い瀟洒な建物は、港に入る船が最初に見る光景となっていた。ところが1865年1月、西隣に位置する英国領事館(現在遺愛幼稚園が建つ場所)からの出火で全焼した。1861年に函館のロシア領事館付属司祭として着任したニコライは、ニコラエフスクで毎土曜日に発行されていた週刊新聞「ヴォストーチノエ・プリモーリエ」(1865年6月11日付)に、「木造の日本式住宅の消火は困難を極め、2階建ての領事館・書記官の平屋・領事館付海軍士官の平屋は全焼、ゴシケーヴィチ領事が日本滞在中に蒐集した膨大な数の動植物・鉱物コレクションもすべて焼失し、日本人が特に消火に力を入れた通訳の家・司祭の家・病院・教会が類焼を免れた」と、被災状況を伝えている ( Гузанов В. Иеромонах. Документальное повествование. Жизнь и подвиги Святителя Николая Японского. М., 2002г. С.100-101.タチアナ・サプリナ氏提供資料)(⑤)。
 大火後は、被災を免れた建物を領事館に転用していたようだが、その建物も1870年ともなると、地震と暴風雨で完全に崩壊しつつあり、修理なしには住むことができない状態になっていた(⑥150-151頁)。しかし、ウラジオストクに新たな海軍基地を開いたロシアにとって、1870年代以降の函館港は、ロシア海軍の寄港地としての役割を終えていた2。また先述のとおり、東京に公使館が開設されたことで函館のロシア領事館は事実上閉鎖状態にあり、本国ロシアから修繕費が送金されてくる見通しもなかった。1877年に瀬棚沖で起こったロシア軍艦「アレウト号」遭難事件のような海難事故が北海道・樺太沖で発生した場合には、臨時に領事が函館に派遣され、臨時の事務所が置かれるにすぎなかった(⑦)。

■ロシア領事館の設計者たち
 ロシア領事館の設計者は、ドイツ人リヒャルト・ゼール3であるが(②)、実はその前に2つの案が廃案となっていた。最初の案の設計者は、数多くの東京の建築設計を手掛けたお雇い外国人建築家として有名なジョサイア・コンドルで、関東大震災で焼失した初代ニコライ堂の設計者でもあった。コンドル案は、ロシア産木材を使った、ロシア式の堅牢な木造建築を建てることが望ましいと判断され、1902年中に却下された(②)。
 次に設計を依頼されたのは、ハバロフスクのヤジコフ陸軍大佐だった4。こちらはロシア様式で設計されていたものの、やはり難点があり、函館で実現するのは難しいことが判明した(②)。どのような「難点」があったのかは不明だが、その後石造りでの建設が決定されたため、サハリン島から建設地(函館)に届けられていた木材は不要となり、その運搬・後片づけのために88円50銭を要したことが明らかにされている(②)。
 こうした折り、ゼールに新たに設計が発注され、1903年7月に石造りのすばらしい設計図が提出され、承認に至った(②)。ゼールは1903年11月4日、帰国の途に就き(⑩)、その後を継いだのは、同年5月に来日し、ゼールの事務所に入ったドイツ人デ・ラランデだった(②)。

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コンドル案(⑧) 下:上のコンドルの設計図の右端にあるサインを拡大したもの。「April 1902」と記載されているため、設計図が1902年4月には完成していたことがわかる。

■建物から見た旧ロシア領事館

1906年12月 領事館完成(船見町125-4、現在の船見町17-4。住居表示上は船見町17-3)。
1907年 8月 大火で焼失
1908年12月 同じ場所に完成(再建・現存)
1944年10月1日 領事館閉鎖
1952年    外務省の所管となる
1964年    函館市が外務省から建物を購入
1965年 4月 「函館市立道南青年の家」を開設
1972年 1月 宿泊研修棟部分を増改築
1996年 7月 「函館市立道南青年の家」を廃止

 「旧ロシア領事館」は、本館と附属建物から成っている。本館は、レンガ造り2階建(内部主軸部は全部木造)。屋根木造瓦ぶき、内壁および天井漆喰塗、一部紙張り。床木造板張り、リノリウム敷建具木製。附属建物の方は、レンガ造り、平屋建て、屋根木造亜鉛メッキ鉄板ぶき、内壁漆喰塗、天井竿縁、居室床木造、物置床コンクリート叩き、建具木製となっている。敷地面積は、3,732.23平米。本館の延床面積は、1階が428.12平米(附属建物の面積を含まず)、2階が253.90平米である(⑩)。
 領事館の外観は、用途の変更に伴い、変化してきた。主だった点をまとめると、表1のとおりである。

 表1 在函館ロシア(ソ連)領事館の外観の変遷
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ロシア領事館 左:大正初期のロシア領事館。右:1964年6月(函館市中央図書館蔵)。

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「旧ロシア領事館」外観 左:「函館市立道南青年の家」時代(1968年頃)。右:現在(倉田撮影)。

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本館建物は、1989年3月1日、函館市の景観形成指定建築物に指定された(倉田撮影)。

■函館大火前と大火後(現存)
 1903年に着手された領事館の工事は、1904年5月にすべてが完了する予定であったが、1904年2月に日露戦争が勃発すると同時に、工事は中断された。工事が再開されるのは戦後のことで、1906年12月、ようやく完成に至った。ところが翌年の明治40年の大火で領事館一帯は焼失した(②)。レンガ造とは言え、木骨であったため、一部土台を除き、全焼だった。
 ロシア政府にとってロシア領事館建設が急務であった証拠に、1908年4月には再建に関する契約書が函館の大工との間で結ばれ、1カ月以内に工事を開始することが約束された(②)。
 1908年12月、約8カ月で完成した領事館は、大火前と同じ場所に、ゼールの設計図とほぼ同じ形で再建された。ただし、若干、大火前と後(現存する「旧ロシア領事館」)とでは異なる点がある。その最大の相違点は、表階段の設置位置と形状である。ゼールの設計図にある表階段は、やはりゼールが設計し、1893年に竣工した同志社大学神学館(現クラーク記念館)の階段に酷似している。同志社大学クラーク記念館の階段の方が、見た目に美しく、いかにも手の込んだものであることが素人目にも明らかである。大火直後の再建ということで、経費と時間を節約するために変更されたのだろうか。
 それ以外にも、大火後は玄関入口にスロープや外階段の手すりがないこと、裏階段の位置、ビザや出漁関係の証明書を発給するための事務所の専用出入り口の位置5が異なっていたことなどが見てとれる。

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大火で被災したロシア領事館(⑧)

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左:ゼールの設計図より1階部分(②、⑧)。右:ゼールの設計図の右端に書かれたサイン(⑧)

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同志社大学「クラーク記念館」の階段(『同志社大学クラーク記念館』同志社大学キリスト教文化センター発行、2010)

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現在の「旧ロシア領事館」表階段(倉田撮影)

■「ソ連領事館」から「函館市立道南青年の家」に用途変更
 ソ連時時代の間取りは、表2のとおりである(ロシア外務省史料館所蔵、在札幌ロシア連邦総領事館提供資料)。本館1階部分は、正面玄関向かって右手に領事の執務室、函館市の政財界の代表を招いて設宴を行った食堂、食後にダンスや音楽を楽しんだ客間などがあった。正面左手の出入り口から入ると、査証や出漁関係の書類の受付、事務室、そして翻訳室へと続いた。1階の風呂と寝室は、おそらく来客用のものであろう。2階は、領事の家族が暮らす居住空間で、家庭教師用の部屋もあった。平屋の附属建物は、使用人のために作られたものであった。
 さて、1944年10月1日に閉鎖され、領事館員が引揚げた後は、日本人の管理人(小田切由太郎)が管理に当たり、函館西警察署が側面的に協力することになった。連合軍占領下にあった1947年、大蔵省管轄となり、1951年のサンフランシスコ講和条約締結(ただし、ソ連は同条約に調印せず)の翌1952年以降は外務省の所管となった。同年8月、道庁から渡島支庁に管理を委嘱され、渡島支庁が直接管理の責任に当たった(⑩)。
 1962年7月末、日本外務省はソ連側に対し、在ソヴィエト連邦日本国外交領事財産が返還されることを条件として、在本邦ソヴィエト連邦領事財産をソヴィエト連邦政府に返還することを口上書でもって提案した6。これに対するソ連政府の回答は、日本政府が支出した費用を支払わない代わりに、ソヴィエト連邦領事財産、つまり、函館の領事館の権利を放棄するというものであった7。
 1964年、函館市は領事館の建物を外務省から購入し、翌1965年から1996年までの30年余りにわたり、青少年宿泊研修施設「函館市立道南青年の家」として活用された8。また、敷地は日魯漁業(株)からの借地だったが、1981年に函館市は同社から市有地(弥生町)との等価交換で取得し、現在は市有地となっている9。
 ソ連領事館閉鎖直後の平面図は図1のとおりであるが、宿泊研修施設に用途を変更した後のものが図2である。さらに図3は、開館当初の定員は50名だったが、利用者の増大から、約2倍に相当する120人を収容する施設とするため、附属建物を一部壊し、2階建てブロック造の宿泊研修棟を増築し、本館の部屋の大半を畳部屋に替えるなど、大規模な増改築工事が行われた後のものである(「旧ロシア領事館」の現状も図3と同じ)。

表2 ソ連領事館時代の間取り(⑧)
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左:図1 ソ連領事館閉鎖直後の平面図(⑩)
中央:図2 道南青年の家開設当初の平面図(⑩)
右:図3 増改築後(現況)の平面図(⑩)

■旧ロシア領事館復原に向けて
 領事館の建設当初の外観は、函館みやげ用に作成された絵葉書等から知ることができるが、内部について知る史料はほとんど残されていない。
 以下は、1968年に撮影された写真と現在の姿を比較したものである。筆者は、建築に関して全くの素人であるため、専門家の視点からの再考が必要だが、筆者が知る範囲内のことを紹介しておく。

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1階の照明器具 現在(倉田撮影)

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2階の照明器具(1968年頃)

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シャンデリア 左:1968年頃。右:現在(倉田撮影)。 領事館時代には、「客間」にあったシャンデリアが、増改築時に港側の部屋に移設された。この時に電球の上下逆に取り付けられた。

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暖房器具(倉田撮影) 道南青年の家時代に使われていた石油ストーブと煙突。ソ連領事館時代は、向かって左手の部屋に作りつけのペチカ(燃料は石炭)が用いられた。

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食堂 左:領事の歓送迎パーティー風景(『函館日日新聞』1932年11月26日より)。右:現在(倉田撮影)

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食堂の小窓 左:道南青年の家時代(1968年頃)。右:台所側から写した現在の小窓(倉田撮影)。ソ連領事館時代には、現在よりも左手にあった小窓。当時の利用方法は定かでないが、道南青年の家時代には、台所側から食事の差出口として利用されていた。

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食堂の天井(倉田撮影)

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食堂と客間の間の扉と装飾された取つて(倉田撮影)扉は横開き。

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2階の部屋(中庭に面する側の部屋) 左:壁が取り除かれ、二段ベッドが設置された(1968年頃)。右:ベッドが撤去され畳敷きになった(倉田撮影)。

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門柱と門扉 左:道南青年の家時代の門柱と門扉(1968年頃)。右:現在の門柱と門扉 中央左側の門柱は、2005年夏、坂下にある墓地にお盆の墓参りに来た市民が自動車の操作ミスにより倒壊。古い時代のレンガの雰囲気を持たせて再建された(倉田撮影)。

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ソ連時代の国章と標章 左:ソ連領事館時代に設置されていたソ連の国章(函館市蔵)。右:正面扉上に鎌と槌の標章。

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附属建物入口 左:1968年頃。右:現在(倉田撮影)。屋根付きの小さな出入口が増築されたことがわかる。

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附属建物(南東方向から)(倉田撮影)

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附属建物(北東方向から) 左:1968年頃。まだ附属建物が完全に残っていた。右:増築された宿泊棟との継ぎ目部分(倉田撮影)

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左:増築された宿泊棟(北東方向から。夏)(倉田撮影)。庭の樹木は、戦時中、日本軍により植木も伐採し、終戦の燃料難から盗伐などにあったといわれている(⑩)。
右:増築された宿泊棟(ブロック造2階建)(倉田撮影)

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外階段
左:ゼールの設計図には階段に装飾的な手すりがある。
中央:道南青年の家時代は、扉の開閉可。外への出入り自由。手すりはない(1968年頃)。現在ははめごろしになっており、出入り不可。
右:階段部分は集合写真の撮影に良い場所だった(『函館毎日新聞』1932年11月8日)。

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1967年4月財団法人相馬報恩会から寄贈された国旗掲揚台(⑪ 倉田撮影)

旧ロシア領事館ゆかりの品々(市立函館博物館蔵)

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おわりに
 「旧ロシア領事館」は、築100年以上が経過した。閉鎖されて既に15年余が経ち、老朽化も進んでいる。しかし、函館とロシアの交流を現在に伝える貴重な建物であり、かつ、専門家からも文化的価値の高い建築物と評価されていることから、復原・活用されることを期待したい。
 閉鎖中の「旧ロシア領事館」を外側から見ていると、建物にばかり目がいきがちだが、「旧ロシア領事館」が、露領漁業の勃興によって始まり、函館の街の繁栄を支えた北洋漁業と共に歩み、日魯漁業(株)と共栄共存してきた歴史を忘れてはならない。


1 日本人を嫌っていたレベデフ領事が、建物の中に日本人を入れることを嫌い、13年の任期中、一度も改修を行わなかったため、すぐに使える状態にはなく、船見町の通称「堤倶楽部」(元キング邸・元米国領事館 当時の船見町60番地。咬菜園跡の隣接地)にソ連領事館の仮事務所が開館された。元の領事館の改修工事は1927年7月から始まり、9月末に工事は終了、現在地に移転した(④)。
2 函館に代わってロシア海軍の冬期保養基地となったのが長崎。しかし、1898年にロシアが遼東半島を獲得し、大連・旅順の租借権を得ると、長崎もその役割を終えた。
3 1888年10月、エンデ&ベックマン建築事務所の全権代表として来日し、司法省と東京裁判所の工事に従事。明治政府との雇用契約は1893年3月31日で終わるが、1894-95年まで明治学院大学に「建築顧問教師」として雇用され、1897年に横浜山手で設計事務所を開設した(⑨)。函館のロシア領事館の設計図を依頼された当時は、横浜の設計事務所で活躍していた。
4 ハバロフスクのヤズィコフ(Языков)工兵大佐には3人の娘(長女マリア20歳、次女ヴェーラ19歳と三女)がおり、築地のカトリック学校で学んでいた。1901年5月、3人の娘はハバロフスクへの帰途に就くため横浜港から神戸に向かう汽船に乗った。ところが、船内で長女が失踪したため、妹たちは神戸で下船し、東京のニコライのもとに駆け込んだ。当時のロシア正教とカトリックの対立関係も相まって、露仏の両公使館を巻き込む大事件となった。カトリックに改宗した長女は、カトリック修道女の手引きで、カナダ行きの船に乗せられたことが明らかになるが、その後の長女の行方は不明(1901年5月4日、5月6日のニコライの日記より。中村健之介訳・解説・註解『宣教師ニコライの全日記』第7巻、教文館、2007年)。
5 現在の建物には、領事館正面玄関と同じ向き(東側)に事務所の出入口が作られているが、ゼールの設計図では、南側(附属建物のある側)になっている。
6 この口上書には、1956年の日ソ共同宣言で、日ソ両国政府が戦争の結果として生じたすべての請求権を相互に破棄することが規定されたが、外交領事財産(=函館の領事館)については所有権の放棄を定めたものではないこと、日ソ両国間に外交関係が回復して既に5年以上が経過する中、ソ連大使館も日本国内で正常な活動を行っているため、今後も日本政府が引き続きソヴィエト連邦領事財産を管理する理由は乏しいこと、そして、函館のソ連領事館の土地・建物を良好な状況のもとに管理するために日本外務省が支出した総計641万7,077円(1954年4月の暴風雨による災害や1961年5月の台風4号の被害による修理費を指す)の弁済をソ連側に求めることなどが盛り込まれていた。そして、1963年3月31日までに日本政府の提案に応じない場合は、日本政府が管理しているソヴィエト連邦領事財産を全て競売に付し、その売得金のみを日本政府が保管することが提案された(⑩)
7 長崎ロシア領事館では、土地を巡って裁判にまで発展した(堀合辰夫「帝政ロシア 長崎領事館-敷地についての法的側面」『ドラマチック・ロシアin Japan II』、生活ジャーナル、2012年、333-347頁)。
8 青少年宿泊研修施設の設置場所として、湯川町1丁目35番3号の市有地(606.08坪)が候補地として内定していたが、1964年5月に外務省からソ連領事館の建物の購入が認められると、函館市は6月29日、1,558,388円で購入し、同建物に開設することを決めた(⑪)。
9 ロシア領事館が建設された当時、日本は外国人の土地所有を禁じていたため、日本人が領事館に永代借地していた。ところが、ノモンハン事件(日ソ両軍の満蒙国境紛争)が起こった年(1939年)夏、高台に位置するソ連領事館から船の出入りはもちろん、船渠(どつく)に時々入る海軍の駆逐艦等が見えることを面白く思わない軍部が、ソ連領事館の追い出しにかかった。具体的には、領事館の坂下に位置する境内から高い塀のようなものを建てて、「皇威宣揚」という1字何メートル四方もある大きな文字を書いたものを建て、領事館の正門は板塀でふさぐなど、様々な嫌がらせを行った。対するソ連領事館は、この事件が発生した時期は、ちょうどカムチャツカの送込時期にあり、日魯漁業(株)の船が沢山揃って函館の港に入港し、領事館からの査証(ビザ)を求めているところであったことを逆手にとり、査証拒否という反撃に出た。これに驚いたのが日魯の平塚社長で、1日出港が遅れると巨額のチャーター料の損害が出るということで、土地の所有者を探し出し、日魯が土地を買うことにし、以来土地は日魯が無条件無期限でソ連領事館に貸与することになった。(常野知一郎「外国領事館にはられた立退命令書」(『道南の歴史 私の終戦史』道南の歴史研究協議会編・発行、1982年、32-35頁)。ちなみに領事館の土地の登記簿類は、昭和9年(1934年)の函館大火で法務局が被災し、焼失していた。

出典
①函館市史 通説編』第3巻、函館市史編さん室編、函館市発行、1997年。
②清水恵・A.トリョフスビャツキ「〈史料紹介〉日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館」『地域史研究はこだて』第25号、1997年、65-87頁。
③倉田有佳「函館のソ連領事館と日本人職員」『函館日ロ交流史研究会会報』No.30(2007年10月)11-15頁。
④倉田有佳「函館とロシア(ソ連)領事館-20世紀を中心に-」『はこだて外国人居留地研究会会報』No.3、15-21頁。
⑤倉田有佳「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁。
⑥伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009年。
⑦清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』函館日ロ交流史研究会編・発行、2005年。
⑧在札幌ロシア連邦総領事館提供資料(ロシア外務省史料(АВПРИ)。史料提供時に、函館日ロ交流史研究会で使用する件については、領事の事前了承済み)。
⑨「リヒャルト・ゼールの経歴ならびに建築作品について -R.ゼール研究 その1」、「同左その2」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)』2002年8月。347-350頁。
⑩函館市所蔵資料。
⑪『函館市立道南青年の家20周年記念誌』1986年。

「会報」No.33 2012.7.20