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満州国立大学哈爾濱学院史抄 ―哈爾濱学院史(同学院同窓会刊)より―

2012年4月22日 Posted in 会報

佐藤一成

○終焉
 昭和20年(1945)8月16日、敗戦の翌日校旗焼却式が南寮でおこなわれた。大正9年(1920)日露協会学校設立に当たり、時の日露協会名誉総裁閑院宮殿下から奉戴した校旗に渋谷三郎院長が点火、『桜と桂の紋章』はめらめらと燃えて灰となった。前日来、学生の多くは馬家溝(マジャコウ)十字街の政府代用官舎などの警備についていたので、立ち会った学生は、わずか5、6人という淋しさであった。敗戦そして廃校。悲しくもつらい風景であった。満州国立大学吟爾濱学院はこの日、8月16日をもって日露協会学校創立来25年の幕を閉じた。8月21日、渋谷院長夫妻と次男自決。追って学監白井長助夫妻と家族6人が自決された。拳銃による自決であった。
 そして多くの学院生(軍人・軍属・学生[在校生238名]等)がシベリアに送られた。彼等は学院で学んだロシア語をもって、多くの抑留された軍人他日本人を救うことになった。

○創設
 日露協会学校―哈爾濱学院―満州国立大学哈爾濱学院、この3つの校名は1つの学校の名称である。何故このような3つの名称を持ったのであろうか。それは背景に流れる歴史の変化にあった。
 今簡単にこの歴史の流れを見よう。日露戦争後、日本はロシアとの協商関係樹立を考え、そのため日露両国間に働く人材を必要としていた。そのような情勢の中に明治35年(1902)7月日露協会が成立した。会頭に榎本武揚、寺内正毅など輝かしい名士を据えた。同会の目的は『日露両国民の意志を疎通し、其他通商貿易の発達を計る目的を以って発企され...以下略』とある(東京経済雑誌、第1142号、明治35年7月26日)。
 そして元満鉄総裁後藤新平が第3代会頭になった時、東京外語卒の井田孝平が後藤の率いる日露協会の支持を得て開校にこぎつけた。場所は現在の中華人民共和国黒龍江省哈爾濱市であった。学校名は、『日露協会学校』といい、ロシア語では、ИНСТИТУТ ЯПОНО-РУССКОГО ОБШЕСТВА(インスチトウート イポーナ ルースカボ アブシェーストヴァ)であった。経営は外務省管下の法人『日露協会』で、学制は日本文部省令で、高等商業学校の性格を持っていた。創設の経費は日本政府が25万円、満鉄が5万円を出している。校舎用地は東支鉄道より4,000坪の分譲を受け、建築は建坪7,000坪の第一期工事が開始された。
 創設から13年間が、『日露協会学校』、昭和7年(1932)4月より15年3月まで8年間が『哈爾濱学院』爾後廃校まで『満州国立哈爾濱学院』であった。
 学制は前述の通り昭和15年まで日本の学制による専門学校。その後満州国教育令(文教部)による4年制国立大学となり、満州国所管となった。

○内容
 教科内容は、時勢の変転により、多少の変化はあったが、ロシア語が基軸で、これに露、ソ、満、蒙の文化・経済関係の諸学が按配加味された。初・中期の学科は倫理、露語、国漢文、経済、財政、法律、商業、商品、貿易、簿記、実習、地歴、体技、軍事教練。第二外国語に英、仏、中、蒙が選択された。露語は最重点科目で、露文和訳、和文露訳、文法、会話などであった。他にロシア文化・経済の語学科は露語により教習され、1週10時間から15時間がこれに当てられた。実習とは満蒙中、或は極東ソ連領への研究旅行で、夏季一斉に各地に調査、実践の旅行を実施した。
 校齢25年。卒業生1412名。1年平均約60名弱の卒業生であった。20年の廃校時は在校生総数285名。末期は異常に急激な膨張をとげていた。
 学校は官費であった。学生の大部分は都道府県派遣の公費生で、その他満鉄等から準公費生で、若干の私費生が居た。例えば昭和2年の在学生を見ると公費生97名、準公費生13名、私費生7名であった。学生の大部分は中等学校におけるトップクラスであった。尚、満州国立大学になってからと思うが、満蒙系の学生も若干入学した、何れも優秀であったという。又、後期にあっては簿記等の商業科目の代わりに国家論、大東亜経済論等が講ぜられるようになった。後期は私費生が増加した。

○補記 極東大学と......
 大正9年(1920)臨時極東政府がウラジオストクに樹立され、東洋学院は極東大学となった。最近判明したところによると、同11年に極東でソヴィエト政権が樹立された時、極東大学の教授・学生等多くが中国へ亡命、パトスターヴィン学長もその中にいた。昭和5年よりその学長令嬢のパトスターヴィナは哈爾濱学院講師となり廃校まで講義をする。戦後は日本に来て、上智大学の講師としてロシア語を教えた。筆者も会話の授業を受けたが、恩師であり、懐かしさが残る。
 今函館にロシア極東国立総合大学函館校が創設されている。ご縁があって私は函館校の創設に関わった。もし平和な時代が続いていたら、哈爾濱学院と極東大学の関係が色々な形であったのではないかと深い感慨を持って見ている。
 私(23期)が在学していた時の院長で廃校の時に自決された渋谷三郎先生[二・二六事件当時麻布第三連隊長]、院長を追うように自決された学監白井長助先生など、私達最期の学院生に大きな影響を与えた先生方についても、何時か機を得て記したいと思っている。

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「会報」No.4 1997.7.10