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A.T.マンドリク著「ロシア極東の漁業史1927年-1940年」の要約の試み(続)

2012年4月24日 Posted in 会報

A.トリョフスビャツキ

 ソ連国内で新経済政策(ネップ)が実施されていた1920年代には、日本人漁業者は北洋漁業の独占的立場を持ち、露領漁業も続けられていた。増えつつある日本の影響に対応するため、ソ連側は共に利用する漁場から日本人漁業者を排除できないならば、せめて彼らの活動に対する統制を強めるために、利権という方法を選んだ。
 利権方式を取り入れた極東漁業の移行計画は1927年から実施された。その時ロシア連邦人民委員会議はダリソヴナルホーズ(極東国民経済会議)宛の3月23日付けの手紙で、日本企業が新しいソ日漁業条約案に応じて特別の利権条約を締結しなければならないことが義務付けられると知らせた。ロシア連邦農業人民委員部の1927年11月29日付けの「ダリルイバ」宛の手紙では、漁業に関する外国人租借者との交渉は特別の許可がなければ行わないこと、日本人租借者との親密な付き合いを避けて十分注意することなどが指摘された。
 1928年1月23日にソ日漁業条約が調印された。新条約において、ソ連側は、日本人漁業者に河川及び入り江を除くソ連極東水域(日本海、オホーツク海、ベーリング海沿岸)で水産動植物(オットセイ、ラッコを除く)を捕獲、採取して、加工する権利を与えた(第一条)。毎年2月にウラジオストクで漁区の取得のための競売が行われることになった。
 様々な税や漁区の租借料として日本人租借者は相当の金額を支払った。例えば、1929年に日本人租借者によって支払われた金額は、ソ連極東の国民経済への産業投資総額を14.28%に増加させた。その後ソ連水域から日本人租借者の排除とともにその金額も次第に減少した。
 1928年にソ連政府は極東地域に残っていた個人漁業者に対しダリバンク(極東銀行)に800万ルーブルのクレジットの借り入れを命じた。日本側のかなりの支援を受けていた大物の個人漁業家M.M.リューリやA.G.ルビンステインですらその借り入れ、すなわち国家への依存を強いられた。政府の狙いは個人漁業者を支援するよりは、彼らの活動を国家のコントロール下において、一歩一歩漁業から排除することであった。しかし、政治的な理由でそのことはカムフラージュされ、利権漁区への個人企業の急激な進出のように見せ掛けられた。
 ソ連極東漁業の自国化が進められる中で、以上に述べたように、ソ連側の漁区で働いた日本人漁業者や労働者の人数は1930年にピークの38,559人に達し、1931年に20,163人、1932年に20,447人、1933年に17,896人まで減少して、その後中止された。日本の利権企業に関しても、ソ日漁業条約の有効期間が切れた1936年以降、次第にソ連側の圧迫を受けながら最終的に1944年末にソ連水域から引き上げた。
 当時の両国漁業交流から明らかなのは、双方は漁業分野において競争相手であり、自国の外交やマスコミを総動員しながら最大利益を得ようとした。日本との協力に関しては、ソ連政府の立場は二重性を持っていた。一方ではソ連極東漁業を増強するために、日本の漁業技術や漁業労働力が一時的便法であったが、他方では自給が可能になったらソ連水域から日本の漁業者を排除しようとした。全体としてみれば、当時ソ日関係におけるこのような問題を解決するのは殆ど不可能だった。

「会報」No.18 2001.10.24