函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ウラジヴォストークの印象

2012年4月22日 Posted in 会報

保田孝一

 8月30日から8日間、鈴木旭会長のお供をしてウラジヴォストークへ行って来た。わが日ロ交流史研究会とウラジヴォストークの科学アカデミーや極東総合大学の日本研究者と第6回シンポジウムに参加するためであったが、シンポジウムは30日と31日で終わり、あとは市内観光とウラジヴォストークから200キロ余り離れているナホトカなどを見学させてもらった。
 シンポジウムにおいては、最初に鈴木会長が「1920年代のロシア極東漁業と函館の関係」、ついで長谷川健二さんが「1920、30年代の日ソ漁業関係―ソビエト側を中心として」、私が「ロシア革命前の日露関係」を報告し、その後で一問一答があった。
 鈴木会長も長谷川さんも、函館と極東ロシアを結ぶ漁業協力は、1920年代のネップ政策の下で発展したが、30年代に社会主義的5ヵ年計画の進行と共に縮小して行ったプロセスを論じたものである。ロシア側でこれに関係する報告をしたのはマンドリクさんとガリャモヴァさんで、マンドリクさんは学位論文の一部でもある「極東ロシアの漁業史の外国での研究」、ガリャモヴァさんは「漁撈の分野での日露関係史の史料としてのアムール州の国有財産局の報告」を報告した。これについては会長が言及される予定である。
 小生にとってとりわけ興味があったのは、モルグン女史とブラヤ女史の報告「沿海州地方の領域における日本人捕虜滞在の問題によせて」とセルゲエフさんの報告「ロシアの極東と北海道の開発の比較(軍事的植民の視点)」である。
 モルグンとブラヤ報告は、沿海州における日本人捕虜の墓地調査のためのフィールド・ワークと公文書の調査についての国際平和基金のウラジヴォストークの支部の活動報告でもあった。ヨーロッパ・ロシアでは平和基金が、ロシアで死んだドイツ軍人の墓を調査し、管理していることは知っていたが、沿海州では捕虜収容所の通訳だったポリカロフという人が、1996年に「鎮魂譜、沿海州(極東ロシア)の大地に眠る日本人戦没者の霊々」という本を編集し、数部出版され、戦後、沿海州の領域で死亡し、埋葬された日本人捕虜の名簿が発表されていることを初めて知った。この研究の結果、ここに眠る旧日本軍人の個々人の墓のかなりの部分を特定できるようになり、墓参している遺族もいると聞いた。
 セルゲエフさんの報告は、明治時代に北海道にあった屯田兵制がロシアのコザック軍団制の影響を受けて組織されたという話だ。この説はわが国でも専門家の間で常識になっている。我々が驚いたのは現在、コザック軍団がロシアを防衛する軍団として復活しており、すでに法律で保護され、従来の国境警備隊にかわる場合も起こりうるという話だ。まさか北方領土にコザック軍団を配置することはないであろう。この時私はふと、今年5月末サンクト・ペテルブルグのロシア国立史料館の近くで、祭日のために特設され繁盛していたステパン・ラージンというビールの安売り屋台店を思い出した。ここではステパン・ラージンはロシアの農民運動の指導者というイメージはなくなっていた。
 私は報告した。明治時代には皇室外交が活発で、日ロ両国の王・皇族が相互に訪問し合っていた。最初にロシアを訪問したのは有栖川宮熾仁親王で、その時ペテルブルグ大学に有栖川文庫を贈呈された。これは現在でも大切に保存されている。これを知った三笠宮崇仁殿下は1997年9月ペテルブルグの科学アカデミー図書館に三笠宮文庫を贈った。そして今年9月、ウラジヴォストークの極東総合大学に、もう一つの三笠宮文庫1300冊を贈る(9月14日に贈呈された)。
 実は21年前にペテルブルグに三笠宮文庫を贈った時、私は根回しをして手伝った。今回も根回しのためにウラジヴォストークのシンポジウムに参加し、同席していたモルグン女史とアフォーニンさんにの三笠宮文庫1300冊のリストを渡し、文庫を日ロ両国を結ぶ文化の橋にしてほしいと熱っぽく語りかけた。この時ロシアの一学者は、日本にとって北海道はロシアのシベリアで、北方領土はロシアにとっての極東にあたる。早く問題を解決して日本と平和条約を結びたいといった。
 今回のウラジヴォストーク訪問で私が最も望んだのは、極東ロシア国立史料館(РГИАДВ)と沿海州国立文書館(ГАПК)がどの程度開放されているかを調査することであった。9月4日マンドリクさんの案内で前者を訪問し、最後のロシア皇帝ニコライが明治24年日本で大津事件を体験した後にウラジヴォストークに上陸し、シベリア鉄道の起工式に参加して、その後陸路サンクト・ペテルブルグへ向かったことに関係する史料を請求したところ、2000ページを越える3冊の綴じ込みが出て来た。戦時中トムスクに疎開され、最近ウラジヴォストークに戻って来たものだそうだ。実に保存がよい。読者に対するサービスもペテルブルグのロシア国立史料館(РГИА)と同じく良かった。コピー・サービスもあった。そしてすでに数人の日本人が訪れたという。私も元気でいるうちに、再びここを訪れ、どんな興味ある資料があるか確かめたいと考えている。

「会報」No.10 1998.12.8