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母国ロシアへの郷愁(2) 1925年北サハリンから脱出したペトロフスキー家の軌跡――北サハリン・アレクサンドロフスクでの生活――

2019年3月18日 Posted in 会報

                 グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子 構成・翻訳

はじめに

 『会報』No.37においては、1923年からの亜港の状況と1925年2月、日本軍撤退直前北サハリン亜港を脱出したペトロフスキー一家が小樽に到達した時点までを述べた。本稿ではそれ以前に遡ってペトロフスキーのサハリン定住と事業展開、20世紀初頭のコンスタンチン少年が育ったアレクサンドロフスクとペトロフスキー家の環境、また1917年革命の勃発とその後の日本軍の亜港占領後を叙述する。(手記はコンスタンチンが晩年英語で書いたものをスメカーロフ氏が構成・露訳し、G.S.でコメントを付けている。)

コンスタンチン・コンスタノヴィチの誕生

 1913年6月17日午前6時、この手記の著者はこの世に現れた。(アレクサンドロフスクのパクロフスキー教会の洗礼簿によると少年は旧暦で1913年6月5日生まれとなっている―G.S.)。洗礼時の代父は叔父のイワン、代母は祖母のアンナだった。少年の誕生は父母ばかりでなく大勢の親類、祖父母、叔母さんたちが待ち望んでいたことだった。この資産家のペトロフスキー家の跡取りとなるべき男の子だったのだ。しかし、子供は産声さえ上げずに瀕死に近い状態で生まれたという。教会の司祭を呼んで洗礼を授けたときに奇跡が起こった。赤ん坊は蘇生し、何とか成長していく。
 この赤ん坊コンスタンチンの幼年時代を見る前に、裕福なペトロフスキー家を築き上げた祖父フィリップと母方の祖父グリゴーリーたちのサハリン島渡来の事由を紹介する。

 コンスタンチンの祖父たちはヨーロッパ・ロシアから自分の意志でサハリンへ来たのではなかった。フィリップ・エメリアノヴィチ・ペトロフスキー(父方の祖父)はドン川流域の地(資料によると、タンボフ県―G.S.)からサハリンへの徒刑に処せられたのである。母方の祖父のグリゴーリー・コルネェイチ・サペーガはウクライナ(当時はマロ・ロシアと呼ばれていた。―G.S.)の出身だった。サハリンへ送りだされたとき二人の祖父は共に既に家族持ちだった。当時は家族も受刑者について流刑地へ送られる習慣だった。
 家族がサハリンに到着して間もなく、この二人の受刑者は刑期終了前に釈放された。(コンスタンチンはこう書いているが、これは間違いだ。サハリンへの徒刑は家族持ちの流刑者には非常に寛大だったからだ。なぜなら、島の開拓が流刑人集団の基本的な目的だったから、家族での到来は歓迎されたのだ。家を建て、家政を営むことも許されていた。時には少額ながら国庫から補助金をもらうこともあった。―G.S.)ウクライナから来た祖父の事件は当時若者を引き付けていた自由思想との関わりだった。19世紀後半のロシアには多数の政党があった(アナーキスト、あらゆる毛色の自由主義者、ナロードニキその他の人たちの)。ある冬の晩、祖父は村の酒場で仲間の若者たちと集い、人生について議論を交わし、夜半よりかなり前にお開きとなり、皆それぞれ家へ帰った。翌朝祖父は警察官に起こされて、逮捕された。前夜酒場が火事になった放火の嫌疑をかけられたのだ。放火の痕跡が残っているとして長靴を没収された。祖父と共に酒場で飲んでいた仲間も皆逮捕された。こうしてコンスタンチンの祖父は流刑人の島サハリンへ送られたのである。そのとき彼は20歳を少し越えていたが、家庭には既に4人の子どもがいた。彼の妻が幼い子供たちを連れてアレクサンドロフスクへたどり着くまでの間に、4人の子どものうち3人は長途の辛苦に耐えられずに死んでしまったという。
 この祖父はサハリンに着いたとき、飲酒を完全にやめていた(この禍の元となった習慣はあまりにも重大な結果をもたらしたからだ)。ところが、しばらく経ってから、彼のもとに恩赦の知らせが届いた。故郷へ戻ってよいという。しかし、祖父は帰らない決心をした。故郷でもどっちみち流刑上りという烙印がついてまわるからだ。祖父の親族は誰もこの決定を非難するものはいなかった。小ロシア(今のウクライナ)でずっと以前は幅を利かせる領主だったサペーガ家は落ちぶれて貧しい農民となっていたからだ。
 少年の二人目の祖父フィリップ・ペトロフスキーがサハリンへ来たのはまだかなり若い時だった。フィリップは多数の使用人を有する残忍な有力者の地主を殺害した罪で徒刑となっていた。興奮した村の群衆が地主を八つ裂きにしたのである。この群衆の中にペトロフスキーも居たのだ。この犯罪はアレクサンドル2世の治世に起こったが、このころ殺人はサハリン島アレクサンドロフスクの監獄送りとなった。このとき、彼の家族は困難な長途を踏破して、服役中のフィリップのもとへたどり着いたのだった......
 最初のころフィリップの妻は4人の子どもを抱えて非常な苦労を強いられた。家族を養うために彼女はパンを焼き、それを監獄の管理当局に売りさばいた。数年たった頃、フィリップの故郷で地主殺害の真犯人たちが確認された。そこでフィリップは直ちに釈放され、市民権を回復された。このことはヨーロッパ・ロシアの故郷へ戻れる実現可能なチャンスだった。しかし、数年を暮らしてみてペトロフスキーはこの地方の自然の豊かさを見て取り、サハリンでその後も暮らしていく将来性を描くことができた。彼は妻と相談して、この流刑の地に残って生活することを決心したのである。19世紀末のことであった。

 アレクサンドロフスクにあるサハリンの行政当局は、ペトロフスキーがサハリンに留まる決定をしたことを知ると、どの土地でも好きな場所を選んで家政を営むようにと勧めてくれた。フィリップが選んだのは行政署のある哨所から北へ約12キロ地点の土地だった。(実際はペトロフスキーの鉱山はもっと近くて、町から6ヴェルスタ=約6.5キロの場所にあった。この場所は今日までサハリンの地図に旧ペトロフスキー鉱山として記されている。―G.S.) フィリップが選んだ場所はうっそうたる森林に覆われているだけではなく、地表から深くない所に最も上質の石炭が埋蔵されていた。ペトロフスキーはこの土地の借用契約の手続きをして、産炭地で採掘を始めた。数年後フィリップはサハリン島で最も富裕な住人の一人になっていた。
 フィリップの体躯はまるで研磨されていないダイヤモンドのようだった。中背で均整の取れた筋肉質の力にあふれた体格だった。フィリップは6フィートもある重量級の男性を軽々と頭上高く持ち上げることができたのだ。フィリップは徒刑につく以前、大陸でしっかりした教育を受けていた。だから、新しいビジネスの細かいニュアンスなどを即座に理解する先見の明があった。祖父は良き家庭人であり、主人だった。彼にとっては家族がいつも第一の場所を占めていた。彼は家族がどんなことでも困らないように彼ができることはすべてやった。サハリンにおいてペトロフスキーは愛国者になり、ロシアの専制君主を熱烈に支持し、アレクサンドロフスク管轄長官に対してもあらゆる支援を行った。フィリップは二人の息子と二人の娘を授かった。この息子の一人がコンスタンチンの父親、コンスタンチン・フィリッポヴィチである。
 話を前述した生まれたばかりの赤ん坊に戻そう。3か月がたったとき、赤ん坊は扁桃腺炎に罹った。病人を診察した軍医は病気の赤ん坊に付添看護婦をつけた。そして軍医自身はあたかも病人のための薬を取りに行くというふうに出て行った。コンスタンチンにとって不幸なことにこの軍医はいろいろな種類のアルコール類の虜になっていたことである。そこで彼が4時間後に病気の赤ん坊のもとへ戻って来た時、軍医にとっては普通の状態である半酔いになっていた。彼が特に赤ん坊のために自ら作ってくれた水薬は効かないばかりか、そうでなくとも痛い喉をやけどさせたのだ。赤ん坊は激しくせき込みながら叫びをあげ、ひきつけを起こした。(ここでコンスタンチンはサハリンの医療のひどさを書いている―G.S.) 結局、自家製のミルクと家庭の愛情がいつものように赤ん坊の命を救ったのである。

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幼年期のコンスタンチン

 この子どもは年齢のせいで世界では何が起こっているかをまったく知らなかった。ロシアは20世紀初頭の激動(1905年の革命)の後、静かになったかに見えた。しかしこれは別のもっと恐ろしい嵐の前の静けさだったのだ。国内では多くの人々が政治体制への不満を口にしていた。国民の多数がユートピアに類する思想に取りつかれていた。物質面では恵まれた家族にさえも迫りくる世界大戦の波は多かれ少なかれ押し寄せつつあった。 
 1913年(ここから筆者は"僕"を名乗る)、僕が生まれた後すぐに僕の父と祖父、ペトロフスキー家の二人はヨーロッパ・ロシアへ旅行して、サハリンでの自家の事業発展のために取引を行った。モスクワから二人はドイツへ行き、そこでペトロフスキー炭鉱の石炭運搬に必要な小規模鉄道の発注契約をドイツの会社と結んだ。その後フィンランドのゲリシングフォルス(現在のヘルシンキ)へ行った。二人はフィンランドはその当時は独立公国としてロシア帝国の構成国になっていたにもかかわらず、ロシアとは違ってフィンランドの土地は清潔で整然としていることに注目し、魅了されている。フィンランドでペトロフスキーは地元の堅実な企業主とサハリンへの設備納入に関する一連の取引契約を結んだ。しかし、ドイツでの注文もフィンランドの設備類も受け取ることはできなかった。その翌年、1914年に世界は第一次大戦に巻き込まれたからである。
 ついでに言うと、僕の父親がドイツに行ったのは初めてではなかったそうだ。1912年結婚式の少し前に、祖父フィリップが僕の父コンスタンチン・フィリッポヴィチを短期間だがドイツに派遣して経済学、事務処理、地質学を学ばせたのである。祖父フィリップはサハリンで石炭だけでなく、将来は油田の掘削や金の採掘を考えていたからだ。(それ以前にコンスタンチン・フィリッポヴィチはトムスク工業大学で3年間学んでいた。彼の大学入学のための推薦状はサハリン州知事が書いたものだった―G.S) 父の話では、ドイツ人はロシア人とは大いに違っていたそうだ。その気性といい、人生観においても......
 僕の祖父はシベリアの不動産にも関心があった。祖父はノヴォ・ニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)に数件家屋を買い足していき、そこに自分の娘たちを住まわせた。当然のことながら祖父は、この大都市でなら娘たちはちゃんとした教育を受けることが出来るばかりでなく、立派な結婚相手に巡り合えると考えたのである。
 祖父の家はアレクサンドロフスク中心部の大通りにあり、数多く部屋のある大きな家屋、厩、中庭があったが、衛生面では非常に原始的な設備しかなかった。当時街には下水道はなかったからだ。水は近くを流れる川から桶で運んできて、住民はそれを買っていた。基本的に街は小さな村のような生活を営んでいたといえる。どの家の主人も家でニワトリ、アヒル、ガチョウ、豚、牛、ヤギなどを飼っていた。
 ペトロフスキー家は種々のビジネスのために多く建物を有し、多数の馬を飼っていた(運搬手段として)。その他に騎馬用の純血種の馬数頭も持っていた。どの屋敷にも多くの娘や女たちがいて、いろいろな仕事をこなしていた。男たちは多くはないが主として馬など動物の世話をした。主人のフィリップは中庭に建てた真正のロシア式サウナを堪能していた。サウナの最上段で温まると外へ飛び出し、冬は雪の上を裸で転げ回り、その後再びサウナに駆け込んだ。

 戦争が始まったとき、1914年の出来事を理解するには僕はまだまったく幼かった。幼年時代の僕の最初の思い出は1916年の出来事だ。僕は3歳だったが、その時父方の祖母が亡くなった。(フィリップの妻アンナはパクロフスキー教会のメトリカの記録によると、1917年10月13日、66歳で亡くなっており、アレクサンドロフスクの教会墓地に埋葬されている。―G.S.) 年取った女性のしわの寄った厳かな顔をぼんやりと思い出す。家でお客さんをもてなしたり、舞踏会を開いたりするものすごく大きな広間(中略)の真ん中に、火をつけたろうそくを周りに並べたテーブルの上におばあさんのお棺が置かれていた。お棺の傍で一人の修道女が祈りを唱えていた。後で聞いたのだが、僕は埋葬式には連れていかれなかったという。伝統にしたがって、埋葬式までの3日間お棺は家に置かれていた。この3日間に人々が訪れて、故人への追悼と告別を行うのである。また、この間地元の司祭が訪れて数回勤行を行う。おばあさんが埋葬された後、人々は再びわが家へ来て、お酒を飲み、食事をして、故人をしのぶ。僕はこのような儀式のすべてを覚えてはいない。
 もう一つ僕が覚えている騒ぎがあった。それは僕の母がおばあさんの持ち物を人々に分け与えていた時のことだ。僕はどうしてか皆に分配するのがいやだった。しかし、母は僕が頭を床にぶつけて泣きわめいても気に留めてくれなかった。母は「また、新しいものを、もっと良いものを買いましょう」と言うだけだった。おばあさんは何がいけないのか、何のためにおばあさんの持ち物を分け与えてしまうのか、僕にはどうしても分からなかったのだ。

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アレクサンドロフスクのパクロフスカヤ教会

 最初の革命は1917年2月に起こり、第二の革命は同年10月に起こった(ペトロフスキーは、当時の大多数の人たち同様1905年の出来事を革命とはみなしていなかった―G.S.)。僕は最初の革命がどんな風に起こったのか、第二の革命との間に何があったかも正確には知らない。ただ、僕はある朝のことをよく覚えている。ある時窓から外を見た時、通りにはもう雪が積もっていた。僕は軍の兵舎の上に見慣れた三色旗(白・青・赤の)の代わりに赤旗がはためいているのに気が付いた。おそらくそれはボリシェヴィキ第二革命の後だったのだろう。街は雪に覆われていた。旗の赤と雪の白の対比は大変ドラマチックだった。広大なシベリアを手中にするための戦いがまだ行われていて、サハリンは隔絶された状態にあった。革命は翌年の早春にようやくこの島に到達したのだ。僕は、制帽にロシア帝国陸軍の徽章を付けた制帽を被り、左の胸に赤いリボンを付けた兵士たちが、後で知ったが、「マルセイエーズ」を歌いながら街の大通りを行進して行ったのを覚えている。その中に将校はいなかった。赤旗を持って襟の折り返しに赤いリボンを付けた街の住民が大勢兵士たちの後にぞろぞろついて歩いていた。僕は家の門の前に立っていてデモ隊がちょうど並んだ時、急いで隊列に入った。一人のおじさんがぼくに赤旗をくれた。そして胸に赤いリボンをピンでとめてくれた。こうして僕が革命集団の行列に入って誇らしげに歩いたのは、ぼくがようやく5歳になった時だった。
 僕が家へ帰った時、両親と祖父はびっくりした顔で見つめた。僕は質問に答えて、「見てよ、ぼくは赤旗を持っているのだよ」と宣言した。祖父は咎めるようにぼくを見て言った。
 「お前はまだ小さいからわからないのだよ」。
 その後僕が少年になってから、皇帝が退位したことを知った。地元の教会の扉の張り紙で皇帝退位の指令を読んだ時、祖父の眼には涙があふれた。祖父は「皇帝がいなけりゃロシアも滅びるだろう」とつぶやいた。
 多くの富裕な市民や地元の役人たちは君主制が崩壊したことを知って一面では喜んでいるように見えた。さらにその後、前述のデモ行進の少し前に何人かのボリシェヴィキの活動家がタタール海峡(間宮海峡)の氷上を犬ぞりでサハリンへ到達していたことを知った。彼らは革命委員会を創設し、前述のデモンストレーションを組織したのだ。ボリシェヴィキはアレクサンドロフスクの全軍・全行政の権力を掌握したのである。さらに彼らはこの町のブルジョアジーと君主主義者を裁くために軍事法廷を設立した。
 デモ行進から数日後わが家の玄関の扉をたたくものすごい音と怒鳴り声と共に一団の革命軍兵士たちが入って来た。その中の年かさの一人が、家宅捜査、非合法物件の没収およびぼくの父、祖父、同居している叔父の逮捕令状を持ってきたと宣言した。兵士たちは各部屋に入り込み、高価なクジャク羽毛のクッション、毛布、布団類を次々に銃剣で刺していった。彼らはわが家の物すべてを上から下まで引っ掻き回した。兵士たちは欲しいものすべてを、宝石類その他を持ち去った。彼らはわが家の使用人たちまで連れ去ったのだ。ママは涙にくれた。でも、どうすることが出来ただろう。ママの必死の頼みに対して兵士の誰一人答えるものは居なかった。年かさの者は一つだけ譲歩して、牢獄にいる逮捕された家人に食べ物を差し入れる事だけには同意した。
 2、3週間後、革命委からの恐ろしいニュースがわれわれ家族を震え上がらせた。牢獄にいる者たちが新政権命令により銃殺されることになったというのである。処刑は翌朝ということに決められた。家の者は全員ショックを受け、女たちは泣き声を上げ、女中は途方に暮れて歩き回っていた。革命委では使用人に対して主人が反逆者として処刑される家に留まっていてはいけないと警告していた。以前はきつい仕事をしたことのない家の女人たちは今では自分で洗濯をし、家の床を洗い、牛の乳を搾り、家畜を小屋に入れなければならなかった。......戸外は春間近だった。
 海の氷はようやく融け始めていた。その夜家では誰も眠らなかった。翌朝の明け方窓を開けると亜港の投錨地がよく見えた。街の向かい側に数隻の船舶が停泊していた。昨夜はまだ居なかったものだ。住民は大騒ぎになった。救われたと神に感謝する人々がいた。先だって赤旗をかざしてデモ行進をしていた人々は意気消沈して、敵から逃れるべく準備を始めるのだった。
 日本軍が北サハリンを占領するために到着したことを理解した。一晩中軍艦からの上陸作戦が行われていた。軍隊が革命委の建物を包囲し、逮捕されていた人たち全員を解放した。わが家は喜びに充たされ、再び人で溢れかえった。父も祖父も叔父も僕たちのところへ戻って来たのだ。以前通りの仕事に戻ることを希望して使用人たちも戻ってきた。それまで彼らはペトロフスキー家との接触を禁止され、ボリシェヴィキから隠れていたのである。
 朝になって撲は人生で初めて日本の軍人を見た。銃に剣を付け、隊をなして昨日まで赤軍に占領されていた兵舎へと行進して行った。後になって、ぼくは日本軍がニコラエフスクにも上陸し、シベリア東部を占領したこと、アメリカ軍も同じ目的でウラジオストクへ上陸したことを知った。(このあたりの記述には時間的な齟齬がある。1918年冬、家人が逮捕され、その2、3週間後処刑当日に日本軍が亜港に上陸して助かったことになっている。日本軍の亜港占領は1920年だから、記憶違いだと思われる。また、アメリカ軍のウラジオストク出兵も。―M.O.)
 アレクサンドロフスクへ日本軍が出現したことによってわが家の生活は平常の暮らしに戻った。侵攻者・日本軍は凶暴ではなかった。彼らは革命委員たちを最初の船で大陸へ送り返しさえしたのだ。

 フィリップは自分の最初の孫を存分に甘やかし、できる限り高価なおもちゃを買い与えた。ドイツに行ったときはコンスタンチンにリモコンで操作できる機械仕掛けの実物大の犬を買ってきた。この犬は動くことも吠えることもできた。ペトロフスキーの家には他にもいろいろなおもちゃがあった。例えば機械仕掛けのラクダ、競走用二輪馬車、その他たくさんのもおもちゃはみな祖父がプレゼントしたものだった。その当時、ドイツは多様な第一級の機械仕掛けのおもちゃで名を成していた。撲の好奇心はこれらのおもちゃで遊んでいる過程で満足感を得た。これは何でできているのだろう? どんなふうに作られているのだろう? ある日撲は鋭いナイフを持ってきて、この機械仕掛けの犬の内部をこじ開けた。もちろん、僕は自分のやったことを黙っていた。僕は自分の犬の「手術」の後、きれいに「縫合」をはたしたのだ。(これが未来の著名な外科医K.K.ペトロフスキーの最初の成功裡に終わった「手術」だったのだ―G.S.)

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祖父フィリップとコンスタンチン(10歳位)

 夏になると僕は父とタタール海峡(間宮海峡)で海水浴をし、泳ぐのが嬉しかった。街の人たちはシベリアなら水浴しても良いだろうが、こんなところで泳ぐなど考えられなかったようだ。実際は、夏には海水は暖かかったし、海岸の砂浜も素晴らしく、水泳は安全で心地良いものだった。
 時々父とは狩りにも行った。カモやいろいろな水上の野鳥を撃った。父は一度も白鳥を撃ったことはなかった。父が話してくれたことによると、父の友人があるとき白鳥を撃ち落としたことがあったが、この白鳥のつがいのもう1羽の白鳥が空高く飛んで行き、その高みから撃たれた白鳥のそばの地面に自分の身体を叩きつけて死んだという。パートナーなしで生きることを望まなかったのだ。このエピソードは父にひじょうに強い感銘を与えた。そこで父はこの美しい、誇り高い鳥を撃つことはしなかったのだ。

 ボリシェヴィキは軍隊を結集して革命干渉軍(イギリス、フランス、アメリカの)を国外に駆逐したが、日本軍は依然として我が国の北部サハリンを領有していた。日本軍もシベリアからは撤退せざるを得なかったが、1922年の時点で、ソビエト・ロシアは、私の知るところでは、サハリンを占領している日本と完全に話を付けるだけの十分な軍事力も国内の安定性もなかったからである。しばらくの間二国間の関係は現状維持のままになっていたのである。
 最初のころソビエト政権は大陸では深刻な内部問題をかかえていた。地方の地元権力に関わる問題、匪賊や白衛軍との戦いを抱えていた(特にシベリアでは)。1920年、シベリアでは赤軍と戦っている軍団はかなりの数に上っていた。そしてこれらの軍団の間に共同作戦はなく、それぞれが自己の利害で戦っていた。このことが日本のサハリン領有を可能にしていたのだ。

あとがき

 コンスタンチン・ペトロフスキーの手記には、1918年冬「10月ロシア革命」が亜港に波及して一時期政権を掌握した革命政権による富裕層の危機、次いで革命政権を制圧した日本軍上陸の状況などが生き生きと語られている。当時の亜港の最富裕層の一人は19世紀末徒刑囚から身を起こし、石炭採掘事業を成功させて大富豪になったペトロフスキー家だった。コンスタンチンの祖父フィリップ親子は、20世紀初頭極東のサハリン島からヨーロッパ・ロシアとドイツ、フィンランド等に出張して鉱山機器購入、施設建設の契約を締結するなど本格的な事業展開を行い、さらにノボシビルスクでも不動産業へ乗り出すなど、そのビジネス才覚と経済力には驚かされる。一家のこのような事業成功の基盤は、祖父フィリップ自身が流刑前に一定の教育を受けていたことと、息子をトムスク大学で学ばせ、ドイツ留学までさせるなど教育の重要性を認識していた先見の明にあったと思われる。コンスタンチンが祖父から送られた高価なドイツ製のおもちゃや祖母の死の際の慣習をめぐるエピソードなどはロシアの新興ブルジョアジーの生活を具体的に伝える興味深い貴重な記録となっている。

「会報」No.37 2016.7.31 特別寄稿