函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

1925年2月、北サハリン亜港から脱出したペトロフスキー一家の足跡を追って

2017年3月16日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ 小山内道子構成・翻訳

 サハリン州アレクサンドロフスク・サハリンスキー市の郷土史家・グリゴーリィ・スメカーロフ氏は昨年初夏、2度目の函館訪問を果たし、函館日ロ交流史研究会の皆さまとの交流会を楽しみ、函館の名所・史跡を案内していただくなどたいへんお世話になったと感謝していた。
 また、倉田有佳氏からいただいた新聞記事を示して、私にロシア語への翻訳はお願いできないかとのことだったが、ちょうど忙しい時期だったのと、かなり大きな記事だったため、その時はお断りしてしまった。記事は『北海タイムス』、大正14(1925)年2月23日付の大きな写真入りの記事「悲話 トロイカも懐かし、安住の地を求めて漂白のたびに上ったペトロスキー(ママ)一家」の見出しで、当時の亜港(現アレクサンドロフスク・サハリンスキー)から小樽港に上陸したペトロフスキー一家の写真と亜港の様子を尋ねる家長コンスタンチンへのインタビューという内容になっている。スメカーロフ氏は北サハリン出身の亡命者で、その後も名を成した人たちの軌跡を探索し、記録する仕事を続けているが、これまでに日本との関わりでは函館にも大きな足跡を残したシュヴェツ家の足跡を調べ、既に当研究会の『会報』に寄稿しておられる1。また、柔道家であり、サンボ創始者そして諜報活動家でもあったオシェプコフ氏についても既にまとまった論文を発表している2。そして今スメカーロフ氏が最も情熱を傾けているのは、この新聞記事のペトロフスキー家の足跡をたどることである。昨年秋コンスタンチン・ペトロフスキーの長男ニック(ニコライ)が父祖の地・サハリンを訪れるというスメカーロフ氏からのニュースに接し、私もペトロフスキー家への関心を刺激され、北海道立文書館でこの新聞記事を入手したが、その他の関係資料検索には至らず仕舞いとなった。また、この時のニックのサハリン訪問も諸事情で実現しなかったのである。ところが今年3月、スメカーロフ氏からペトロフスキー家の皆さんが9月に来訪することになったと知らせてきた。今度はかなり確実な情報のようである。そこで、既に発表されていたスメカーロフ氏のペトロフスキー家の物語「母国ロシアへの郷愁」3を全文読ませていただきたいとお願いし、特別に送っていただいた。私は以前にもこの論考の断片を読んだことがあったが、今回はこの長い論考を全文を通して読むことになった。読み進むにつれ、心を打たれ、強く惹き込まれた。ペトロフスキー家が日本軍が5年間占領していた北サハリンの地でも麗しい「純ロシア」式の生活を営んでいたことにも感銘を受けたのである。ここでの詳述は省くが、この「母国ロシアへの郷愁」はニックの父親コンスタンチンが書いた「思い出の手記」であるが、全体としてたいへん資料的価値も高いという確信を深めた。北サハリンは日本軍による日露戦争時の占領とシベリア出兵時の尼港事件後5年に及ぶ「保障占領」など、日本との関わりが大きい。この書によってペトロフスキー家は「保障占領」期の日本軍と密接な利害関係があり、親交があったことも分かった。私はこの論考を翻訳・紹介する価値があると考えた。今回はスメカーロフ氏の諒解を得て「母国ロシアへの郷愁」を最初からページを追ってそのまま翻訳せず、まず新聞記事にある1925年前後を中心に訳出した。
 はじめに、新聞記事で「亜港屈指の資産家」と注目されている「ペトロフスキー家」とは?スメカーロフ氏は以下のように叙述している。
<過去において徒刑囚だったフィリップ・ペトロフスキーはこの町で石炭事業を興し、大規模なレンガ工場を建設した。その工場で生産されたレンガが今日残っているアレクサンドロフスクの一連の建造物や市の大通りにある数件の家々に組み込まれている...また、街にはこの家族を記念してペトロフスキー通りさえあるのだ...>

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小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)

 コンスタンチンの手記を紹介する前に新聞記事の写真説明を読んでみよう。 小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)
<亜港屈指の資産家として又亜港相談会役員の一人として近くは強盗事件*で亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られたコンスタンチン・ペトロスキー(ママ)の一家は我が軍撤兵と共に亜港を引き揚げなければならぬ運命となった。彼が北樺太に抱擁する幾多の富も今となっては全く何等の力を有していないのである。彼は悄然として妻エレナと共に長男コンスタンチン(九才**)長女アナスタシヤ(五才)次男アナトリー(七才)二女エレナ(四才)三女ナタリヤ(二才)等の手を取り新しき生活を営むために暖かい南国を指したのであった。一家が小樽経由長崎へ向かう途中ペトロスキー氏は北海屋ホテルの一室でしめやかな物語を聞かせて呉れたのであった。(m生)>(*強盗事件については後述。**「思い出の記」を書いた父親と同じ名の長男コンスタンチンは実際は1913年生まれの11歳である。)
 記事の本文:「北京交渉が愈々成立したと聞いて今更のように驚いたのは有産階級と日本軍に好意を持っている人達であった。どうしても引揚げなければならぬと覚悟はしているものの資力が充分でない為引き揚げてから何處に居を求めようかという不安を誰しも持っている。何れ五月撤兵の際軍の援助を仰ぎ方針を定める他はあるまいと協議中である。...中略(身の処し方に悩んでいる友人、知人の具体例等実名を挙げて亜港の状況を語っている)...自分等の家屋、土地、牛馬などは殆ど捨値同様の十分の一の価格で売らなければならなかった。吾々の汗と脂も空しく煙となったのである。実に悲惨な話だ。......吾々は委員を組織し南樺太行を懇請したが吾々が南樺太へ行っても農業は出来ず不適当である。日本の地を求めるに就いても北海道は家屋が不完全の為到底冬の寒さに耐えられない。吾々の求める處は南である。長崎辺りは暑さに慣れない我々が果たして耐えられるかどうか判らぬが、先ず落ちついておもむろに将来も考える積りだ」と語った。妻のエレナは「ほんとうに、吾々はロシアの冬を見捨てる事は此上もない惜しいことだ。ロシアのトロイカ(三頭馬車)に乗って走回る事も出来ない。然し安住の地を求める喜びの為には......これも止むを得ない事でしょう」と人形のように美しいナタリアのふさふさした金髪を撫で乍ら涙ぐんでいた。」

 ペトロフスキー一家の今後の課題この小樽以後の日本における消息についてスメカーロフ氏の論考は全く触れていない。また、後述のコンスタンチンの手記にも時系列的な記述はない。しかし、一家はどうやら日本に長く留まらずにその後の情勢によってハルビン、上海、香港へと安住の地を求めて移住したようだ。第2次大戦後はいったんドイツへも渡ったようである。そして一家が最終的に永住の地として落ち着いたのは、故郷サハリンのアレクサンドロフスクに自然も気候も土地の歴史さえ似ているオーストラリア・タスマニア島のロンセストン市だった。それは亜港脱出時11歳だったコンスタンチンが優秀な外科医となっていて、1951年市の病院長となって赴任したからである。
 スメカーロフ氏はペトロフスキー通りと言う名を残しているこの一家のことを州や市の文書館の資料、教会のメトリカ(洗礼簿)等で調べ、前述の資産状況、家族構成と出生記録等などを収集した。また、ペトロフスキーの刻印のあるレンガまで見つけたのである。そこで、今度は1925年以降この一家がどうなったのか、その子孫は現在どこかで健在なのかを調べることになった。2004年、スメカーロフ氏は国立サハリン州歴史文書館で資料検索をしていたとき、返信宛名のあるサハリン州政府宛のコンスタンチン・コンスタノヴィチ・ペトロフスキー氏の手紙とそれに対するサハリン州知事が出した以下のような「招待状」ともいうべき返信を発見したのである。
<親愛なるペトロフスキー様、知事として私は貴方をサハリンへ招待いたします。貴方のご都合の良い時にいつでもサハリンを訪問され、貴方のご家族の歴史と深く結び付いている場所をご覧になるため貴方の故郷、アレクサンドロフスク・サハリンスキー市を訪問されることを提案いたします。貴方と貴方のご親族の方々のご多幸を心から祈念いたします。 1992年9月2日 サハリン州知事 V・P・フョードロフ>
 スメカーロフ氏にとってこれは最も望んでいた大発見だった。早速、コンスタンチンの返信用宛名に手紙を出して、ペトロフスキー家との文通が始まった。後に分かったことだが、サハリン州知事からの招待状を同じ1992年9月中には受け取っていたコンスタンチンは、ひどく喜んで、故郷訪問の準備を始めていたが、高齢になっての71年ぶりの故郷訪問への期待は興奮と不安をももたらしたのだろうか、出発を控えた1995年4月、82歳の誕生日のお祝いを前に脳出血により急逝したのだった。
 現在スメカーロフ氏の文通の相手はコンスタンチンの長男、医者で世界的に有名な内分泌学者として活躍するニコライ(ニック)・コンスタチノヴィチ(1959年生)である。ニックは仕事が超多忙にもかかわらず、依然として母国ロシアへの関心を失わず、資料集めを続け、父の残した手記に手を入れ、ペトロフスキー家の歴史を書いていたのだ。そこで二人はお互いに資料を交換し、情報を伝え合った。やがてスメカーロフはぜひニックに会いたいと思い、オーストラリア行きを模索するようになった。しかし、それは簡単にはいかず、延び延びになっていた。ロシア人がオーストラリアを個人的に旅行しようとすると様々な障害があったのである。
 ペトロフスキーに会いたいという彼の願い、それが急転直下実現したのは、思いがけず援助の手を差し伸べてくれた同郷人のおかげだった。すなわち、サハリン州ムガチ村出身者でシドニー在住のエレーナ・ポターシニコヴァ(フェドレンコ)がその人である。そして2013年10月、スメカーロフとニックの素晴らしい邂逅の場所となったのはエレーナの家だった。シドニーにはニックと妻のシャーレン、ニックの妹のリーザが来てくれた。言葉の問題は全くなかった。ただ、話の中で微妙なニュアンスを伝えるときにムガチ出身のエレーナが通訳してくれた。
 そして、この時の対談とニックの父コンスタンチンが残してくれた英語で書かれた「思い出の記」が一家の物語の中心的な資料となった。スメカーロフ氏はこの英語版の手記をロシア語へ翻訳したが、それにはかなりの時間を費やしたという。手記を読了したスメカーロフ氏の感想は、「思い出の記」の著者の見解は相当に主観的なものに思えたという。しかし、サハリンの歴史をこのように主観的に述べた見解は長い間わが国、すなわちソ連時代にもロシア時代になってもなかったのではないかという新鮮さだった。そこでスメカーロフ氏はコンスタンチンの「思い出の記」を土台にして書いた論考に「母国ロシアへの郷愁」というタイトルをつけ、合間にG.S.の表記で注釈とコメントを書き込んだ。その論考から今回は「北海タイムス」の記事との関連で、ペトロフスキー一家が亜港を脱出するまでの2年ほど前から日本軍の砕氷艦で小樽港到着までをコンスタンチンの筆による「思い出の記」から紹介したい。それ以前の一家の歴史等は改めて次号以下に回すことにした。

 1923年、サハリン島は実際のところ大変平穏無事と言える状態だった。住民は豊かな暮らしを営んでいた。誰も政治について話すものは居なかった。島に駐屯している日本軍は住民に対して友好的だった。日本軍は地元の行政府に干渉することもなかった。住民の多くがこの状態はしばらく続くものと思っていた。しかし、実際はそうではなかったのだ。運命はサハリンの住民にいつものように生活の転換点となる大きな事件を準備していたのであった。
 1924年になると、町では日本はソ連邦へのサハリン北部の返還についてソビエト政府と交渉しているという噂が広がった。もちろん我々には交渉の詳細は分からなかったが、交渉が行われていること自体を島の住民は信じていたのである。9月になって日本駐屯軍最高司令官の高須将軍がわが家を訪れた。秘密の話し合いの中で高須将軍は北サハリンは間もなくロシアに返還されることになっていると父に断言したのである。このような大転換の知らせは僕の両親を当惑させた。僕たちはボリシェヴィキに我々が捕まった場合どうなるかということを既に予測できたからだ。僕たちの家族はもう何年にもわたって新政権のブラックリストに載っていたからである。
 故郷アレクサンドロフスクを引き払うことを決めることは大変困難だった。特に祖父のフィリップには辛い試練だった。祖父はここサハリンの地で家族の安寧のために忍耐強く、過酷な労働をあれだけ長い年月続けなければならなかったのだ。彼がもし「徒刑囚」のように労働しなかったならば、決してこの類まれな財産を築くことはできなかっただろう。一家の事業を築き、安定させて、運命のいたずらを逃れることが出来たのだが、そのことに何か悪いことがあったのだろうか?そうだ、祖父は帝政が崩壊した後、かなりの資金を白衛軍の運動に送っていたのは確かである。なぜなら、祖父は現在の体制はロシアにとって敵であると確信していたからだ。僕たちの家は依然として黒い宝石と言われる石炭を所有していた。僕は祖父がボリシェヴィキと戦っているシベリア政権に約50万ルーブルを金貨で送ったと聞いたことがある。紙幣はロシア領内では流通しなくなっているとのことで、ペトロフスキー家はツァーリの肖像入りの金貨で全額を集めたのだという。
 日本軍がアレクサンドロフスクに上陸したとき、祖父はまだ石炭の採掘事業を続けていた。1924年にペトロフスキー家は高品質のサハリン炭を日本に売るようになったが、この取引は好成績を上げていた。この炭鉱を持ち出すことはもちろんできないが、この島に留まることも危険だ。この問題について父と高須将軍の間で話し合いが行われていた。二人はペトロフスキー家の将来についてどうすべきかを決めていたのである。大いに尊敬されている日本人が父に助言したのはこうであった。日本における最大財閥の一つ・合資会社<ミツビシ>がペトロフスキー炭鉱の獲得に関心をもっている。この炭鉱の高品質の石炭(無煙炭)は日本では大変大きな需要があるので、この会社がこの石炭の採掘を引き受けたいという。「ミツビシ・コーポレーション」は現在炭鉱で働いている人達を雇用する用意がある。そして、この炭鉱で1924年末から1925年年初にかけての石炭採掘をする代償として会社はペトロフスキー一家を必要になったら直ちにサハリンから脱出する機会を提供するというのであった。この提案は、祖父フィリップが新体制の犠牲にならないためにできるだけ早く島を出るという考えと合致した。そこで、祖父はこの協定に同意し、サインしたのだった。

 スメカーロフ氏はサハリン州国家歴史文書館で全露中央執行委員会全権委員会の文書にペトロフスキー一家の財産が以下のように記載されているのを見つけ出した:
 亜港市中心街大通りに8戸の家屋、2万個製造能力の煉瓦工場、アレクサンドロフスカヤ通りの広大な宅地、残高9195ルーブル6,50カペイカのペトロフスキー炭鉱4
 スメカーロフ氏は「思い出の記」を残したコンスタンチンの長男ニコライとの談話から分かったこととして、ペトロフスキー家が一番望んでいたのは、彼らの資産に対してボリシェヴィキ側に補償してもらうことだったという。協定書によると、ソ連邦が日本から炭鉱を引き継ぐとき「ミツビシ」に対し炭鉱の額面価格を支払うなら、日本の会社「ミツビシ」はそのお金をペトロフスキーに支払うことになっていた。しかし、知られているように、全露中央執行委員会全権委員会は北サハリン受領の際、炭鉱に対しては1カペイカも支払わずに国家の必要のために国有化してしまったのだ。ペトロフスキー家は自分たちの期待を裏切られてしまったということになる。日本にいる間にも一家は何らの補償金も受け取っていない。そこで、日本側とペトロフスキー家の間にはその関係に初めての亀裂が生じたのであった。(この部分はスメカーロフ氏のコメントである。)
 今や日本側は様々な口実の下にペトロフスキー家と合意調印した取引協定の遂行を引き延ばしていた。そして、この協定問題で交渉が続いているとき、更に一つ実に驚くべき事件が起こったのである。(これは前述の新聞記事の写真説明の枕詞にあった「強盗事件」のことで、「亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られた」という事件で、コンスタンチンの「思い出の記」では非常に詳細に事件の顛末が述べられている。しかし、ここではコンスタンチンの記述を使い、そのダイジェストによって事件の概要だけを紹介したい。)
 
 1924年12月1日、その日は僕の祖父フィリップの「名の日のお祝い」(自分の洗礼名があやかった聖人の祭日に当たる日)で、従来は大勢の親戚知人を招いて盛大に行っていたが、その年は時節柄簡素に祝うことになった。そのうえ大変な雪嵐で遠くの親戚は出席不可となっていたが、早めに到着した近い親戚や隣人何人かが集まっていて、その中には我が家と親しい日本駐屯軍副指令官高須将軍も来ていた。祖父と高須将軍は向かい合って座り、長男の僕も加わることが許されて、テーブルを囲んでいた。やがて宴会が始まって料理とお酒で賑やかな談笑となったが、それもさらに強まった風雪が窓をたたく音で時々かき消された。その時、突然台所へのドアがばたんと開き、拳銃を手にマスクをした男が二人入って来て、テーブルについている人達に無言で乱射し始めたのである。僕はテーブルの下に伏せて弾を受けなかったが、高須将軍は胸と顔に弾を受け血だらけになって床に倒れていた。男はさらに将軍の頭を撃って、出口へ飛び出して行った。その前に僕も頭を拳銃で殴られ、額に弾を受けて倒れたが、さらに僕を狙った拳銃を妹が男にしがみついて撃たせまいとしていた。その後祖父が別の男と絡み合いながら奥の部屋から出てきて格闘していたので、僕も男に飛びかかり、男のマスクをはぎ取って顔を爪で引っかきまくった。男は僕を引き離し、祖父から逃れて出口へと逃げ去った。そこへ父が日本軍の兵士を伴って到着し、一件落着した。表に逃れていた母も額に傷を受けていた。
 その後警察の捜索により、犯人たち5人が捕まり、尋問によって真相が明らかになったが、彼らはつい最近ペトロフスキー一家を無き者にする目的で大陸から渡って来ていたのだ。この計画が成功した場合、彼等への報酬は我が家から略奪した宝石類などすべてを与えるというものだった。この極悪人たちを日本側は処刑せず、ボリシェヴィキ到来時の報復を恐れて、刑務所で監禁を続けたのである。
 高須将軍は半死の状態で血の海の中に横たわっていたが、日露の医師が駆けつけ、何とか生命はとりとめることが分かった。然し、将軍を動かすことは出来ないので、将軍はその後ずっとわが家の一室で数週間も治療を続け、武器を持ったパトロール兵がわが家と表通りに常駐していた。わが家では僕を含めて全員が連発拳銃を携帯するようになった。結局、高須将軍が全治するまでにその後6か月もかかったのである。
 僕は頭を犯人の拳銃で殴打されたため、算数が出来なくなり、他の科目でも以前は覚えていたことが分からなくなった。両親は心配してサハリンを去るまで全教科の家庭教師をつけたが、はかばかしい成果は上がらなかった。
 われわれペトロフスキー家は全速力でサハリン脱出の準備を始めていた。それは1925年の冬だった。タタール海峡は氷に閉ざされていた。日本の島・北海道(そこが僕たちの目的地だった)へ到達するには二つの道があった。島の南部へそり道を荷馬車で行くか、砕氷船で氷を割りながら海峡を通って行くかである。アレクサンドロフスクへ接岸する砕氷船は日本の軍艦の構成艦とされていた。また、日本帝国軍艦の伝統として艦上に女、子供を乗せて航行できないという規則があった。驚いたことに、日本側は僕たち一家を輸送するために一時的に軍艦というステータスを変更したのである。それはペトロフスキー一家を最も安全な方法で日本へ送り届けるためであった。
 祖父のフィリップは不動産の始末をしたり、友人たちに家財や家畜類等を分与するためにアレクサンドロフスクになおしばらく残っていた。祖父はその次の便で到着して、日本で僕たちと合流した。先に書いたように祖父は「ミツビシ・コーポレーション」と炭鉱に関する協定書に調印してきたのである。もちろん、取引の総額は僕には分からなかった。契約書は調印されたが、会社の役員たちはお金を払うことを引き延ばしていた。僕たちが日本に到着したら全額を受け取ると定められていたのである。コーポレーションは同様の条件で僕たちの馬全頭と厩も買い取っていた。僕たちの純血種の競走馬と美しいその母馬も日本人の手に渡ったのである。こうしてある冬の日に僕たち一家は日本へと出航する砕氷艦に乗り込んだのであった。

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亜港投錨地の日本の砕氷艦、このタイプの砕氷船で一家は亜港を離れた。

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一家が後にした1925年冬の亜港の街並み

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1920年代の亜港の市街(日本の絵葉書より)、この通りにペトロフスキーの屋敷があった。

外国船舶の船上生活は大変快適なものだった。乗組員はそれぞれ自分の任務を遂行し、僕たちには西洋料理の食事を提供してくれた。水夫たちは僕たち子供に対してとても親切だった。僕たちと遊んでくれて、悲しい考えから気をそらせてくれた。1日目の航行では砕氷艦は海峡の氷を砕いて進んだ。僕たち家族は船酔いしてしまったママ以外は誰も不快な気分にならなかった。2日目になって砕氷艦が氷の傍をかすめて荒々しい外洋へ出ると、船酔いは父を含めて全員に広がった。僕はポートワインを飲んで大々的に吐いた時のような気分だった。わが家の人間は誰一人食べ物を見向きもしなくなった。砕氷艦の乗組員は僕たちのことを心配してどうしたら船酔いに打ち勝てるか助言してくれた。この間砕氷艦は安定性を欠き、それに加えて嵐のために全くガタガタになっていた。船は波を受けて右へ傾き、次の波で左へ傾くという風に何度も8の字にのたうった。しかし、砕氷艦は何とか北海道の小樽港にたどり着いた。船が港の水域に入ると、海は穏やかになった。その時僕は不意に僕がまだ火器・連発拳銃を胸ポケットに入れていることを思い出した。サハリンを出る時、父から日本に持ち込み禁止になっているものを持って船に乗るのは危険だと注意されたことも思い出した。どうしたら良いのだろう?そのまま置いて行くか、甲板から投げ捨てるべきか?長いこと考えあぐねた後、僕は苦渋の決断をして「わが友」と別れることにした。僕はそっと甲板に行き、誰も見ていないことを確かめて連発拳銃を水の中に投げ捨てた。
 僕たちは助かったのだ、僕たちはみな一緒にいる、一家の問題はみな後ろに捨て去ってきたのだという漠然とした安心感が、故郷に別れを告げたという悲しみをしばらくのあいだ忘れさせてくれた...


1 「シュヴェツ家との出会い」、『会報』第35号(2015年2月16日)
2 *Без Грифа ≪СЕКРЕТНО≫ Страницы истории органов безопасности на Сахалине Курильских островах // Н.В.Вишневский,Г.Н.Смекалов, "Секретные миссии в Ако", стр.17 -38, Южно-Сахалинск, 2012
 *Г. Смекалов. Основатель самбо, выпускник Токийской духовной семинарии, спортсмен и разветчик Василий Ощепков в журнале ≪Духовно-нравственное ВОСПИТАНИЕ ≫, 1-2015 
3  Блог Григория Смекалова. Сны о России ( из жизни сахалинского эмигранта), 著者の解説を得て ≪Сны о России≫ を「母国ロシアへの郷愁」と意訳した。(サハリン・エミグラントの人生から) АСТВ.РУ БЛОГИ вход регистрация
4  ГИАСО, (国立サハリン州歴史文書館) ф.23

「会報」No.37 2016.7.31  特別寄稿